トレーナーになれない新人トレーナー 作:おぶなむ
与えられた一室で、新人トレーナーの男が何やら資料をめくっている。
未だにペアの決まらない彼ではあったが、放っておくと碌でもない勧誘の挙句に、チームのチの字も結成できない。そう見なされたが故に、彼は暫定的にチーム用の部屋を与えられた。
要は、
「体の良い座敷牢じゃねえか」
ということになる。
チーム用の部屋を与えられる、ということはチームを預かることと同義であり――そのチームが実在するかどうかはともかく――そのトレーナーにはいくつかの義務が生じる。
いつでも連絡の取れる体制を作る、というのがその一つだ。
連絡の取れる体制とは、すなわちチーム部屋に詰めるか、あるいはチーム用に貸与される専用端末を持ち歩くこと。
ところで、彼には後者の専用端末は貸与されていない。
「やれやれ……」
そんなわけで、彼はもっぱらこの部屋でトレセン学園の生徒の資料を眺めるしかできていない。
無論、それらはいわゆるフリーの生徒で、潜在的には彼のペアとなりうる相手だ。
といって、彼が希望する相手がそれを承諾するわけではなく、相手探しは未だに学園側の専権事項となってはいるのだが。
「……いいよなぁ、桐生院さんは」
ペラペラと資料を眺めながら、男はボソリとつぶやく。
同期であるところの新人トレーナー、桐生院葵。
彼女のペアはハッピーミーク。『彼の知る名馬の中にはいない』ウマ娘だが、才能は決して見劣りしない。
噂のURAファイナルとやらでセンターを狙うことも、決して不可能ではないだろう。
それが、彼にはひどく羨ましかった。
何の因果かこの世界に転生し、その上でトレーナーを志したのは単なる気まぐれではない。
彼は競馬が好きだった。
数多の名馬たちの走りに魅了され、それを育て、あるいはレースで共に走った人々に尊敬の念を抱いていた。
だから、自分もそうなりたかったのだ。
ウマ娘の能力を見抜ける、そんな能力が備わっていたのも追い風に思えた。
まだ見ぬ名馬を自分が見出し、二人三脚でスターダムへと。
例えば、テイエムオペラオー。幼少時は評価されず、ただ一人オーナーのみが「光り輝いて見えた」というこの馬のように、埋もれた才能を自分が輝かせるのだ――そんな、稚気じみた夢。
そして、ウマ娘の世界は黄金世代を迎える。
彼のトレーナー就任に前後して、
皇帝シンボリルドルフを筆頭に、タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン……。
ましてや、世代を超えてマルゼンスキーやスペシャルウィーク等々、更に下ってキタサンブラックの名前まで確認できた時は、何の冗談かとめまいを覚えたほどだ。
極めつけは、彼女らの能力。
名馬は、最初から名馬であったのか?
もちろん、そういう馬もいた。
だが、彼は名馬という存在の影に、調教師や騎手、そして生産者の努力と誇りを感じずにはいられなかった。
故に、それらをひとまとめに「ウマ娘」として完結している――彼にはそう見えてしまう――彼女らを、なかなか認めることができなかった。
頭ではわかっている。
名馬の名を持つ彼女らが、この世界でどれだけの研鑽を積み、苦悩し、その果てに結果を残しているのか。
要は、鶏と卵の議論だ。
その名を持つが故に能力を得たのか、能力を持つが故にその名を得たのか。
それを確かめる術はなく、だからこそ彼は、その名を持つ彼女たちに近づきたくはなかった。
彼女らを育てたのは、かつての調教師や騎手、そして生産者であって、自分ではない。
その意識が『名馬』たる彼女たちへ近づくのを忌避させている。
取り留めのない思考に耽っていた彼の思考を、ノックの音が遮った。
「……はい、どうぞ」
声をかけると、扉が開いた。
特徴的なツインテールの髪型に、意志の強そうな瞳。
彼女には見覚えがあった。資料の中でも、まだフリーとなっていた彼女の名は、
「ダイワスカーレットです。あの、タキオンさんから紹介されて……」
「アグネスタキオンが?」
脳裏に怪しげな微笑を浮かべる栗毛のウマ娘が浮かぶ。
彼の知る世界では、ダイワスカーレットの父に当たるウマ。
「……トレーナーさんなら、私の悩みを解決できる、と」
「判断に困る振りだな……。まぁ、話を聞くぐらいなら」
ここで断らなかったのは、目の前の少女の表情が気になったからだ。
名前アリのウマには近づきたくないとはいえ、この顔を前に追い返せるほど彼は冷血になりきれない。
苦いものを飲み込みつつ、男はとりあえずとお茶を用意する。
湯気を立てていた飲み物がすっかり冷える頃、ダイワスカーレットは話し始めた。
「桜花賞の後に、ダービーを目指すって……どう思いますか?」
「牝馬三冠……じゃねえ、ティアラ路線の途中にダービーを挟むって? ああ、ウオッカか」
「知ってるんですか?」
「……まぁな」
ダイワスカーレットはやや前のめりになる。
「あいつ、ここに来たことが?」
「ないない。小耳に挟んだだけだ。で、あー、ダービーを目指すのをどう思うかって?」
男は強引に話題を戻すと、少しだけ首をひねる。
「過去に例が無いわけじゃない。能力が伴えば、好きにすればいいんじゃないか。陣営の決定次第だろう」
「陣営? で、でも……」
「ダービーは、一種のお祭りだ。ウマとして生を受けた以上、憧れる権利は牡馬だろうが牝馬だろうがある。現に、ダービーの出走条件に性別はない。オークスは牝馬限定だけどな」
「はぁ……?」
性別? というスカーレットの訝しげな声を無視して、男は背もたれに体を預けた。
「で、ダービーに出たいのか?」
「……アタシは……」
「聞き方を変えるか。路線としての三冠制覇を成し遂げたいのか? それとも、他に目標があるのか?」
「……アタシは、一番になるんです」
うつむいたまま、それだけを答える彼女に、男は小さく首を振る。
この辺りは、まさにヒトだ。
夢があり、それに向かって努力もしている。
一方で、その努力が報われる保証など誰もしてくれないし、向かう方向が本当に正しいかも実はあやふやで……。
あるいは、これは競走馬を育てる人々が感じていたものなのかもしれない。
本当に活躍できるのか、活躍させてやれるのか。
その逡巡と決断、栄光と挫折の繰り返しの中で、どれだけの『名馬たり得た馬』が後悔と失意の中ターフを去っていったのか。
名馬の名を持つウマ娘が、そうした人々をもひとまとめにした存在であるならば、彼女らはその想いまで背負っているのだろうか?
たった一人で?
(そのためのトレーナー……か)
当たり前のような結論に行き着き、男は苦笑した。
だからといって、『名馬』たる彼女の支えになろう、とは思わなかったが。
その辺り、男は妙に頑固だ。
「一番になるっても、色々ある。無敗の三冠、あの皇帝の後継者になるとか、伝説のレコードを更新するとか。ああ、最高の舞台でライバルに勝つ、なんてのもいいかもな」
「……」
「どの選択肢を取ると、お前が
「っ、そんなの、簡単に分かれば苦労しないわよ!」
バン、と机を叩いてスカーレットは立ち上がった。
カップの中身が零れ、まだ新しい机の表面に若干のシミを残そうとし始める。
こいつこれが本性か、と、零れた茶がもったいねえな、という二つの感想を男は浮かべる。
「だから、それを探すパートナーが……トレーナーが必要なんだろ?」
「……アンタがそのトレーナーだって言うわけ?」
「バカ言え。俺はお前らなんざゴメンだよ」
「はぁ? アタシの何が不満なのよ!」
「不満が無いのが不満なのさ。ダイワスカーレット、お前は松田先生かアンカツを探すんだな」
バカにされた、と思ったのだろう。
彼女は、口元を悔しげに引き結んだまま、しばらく男をにらみつける。
一方のトレーナーは、やれやれと冷めきったお茶をすすった。
「俺から言えるのは、風邪に気をつけろってくらいだ。それさえなければ、牝馬……ティアラ三冠の器だよ」
「……バカにして! 時間の無駄だったわ!」
音を立てて、という形容がまさに当てはまるような怒りっぷりで、ダイワスカーレットが去っていく。
風と共に去りぬだな、と大して上手くもないジョークをつぶやくと、男は気怠げに零れた茶を拭き取った。
2008年の有馬記念。ダイワスカーレットの集大成だと思います。
つよい(小波)。