トレーナーになれない新人トレーナー 作:おぶなむ
夏のメイクデビューが始まった。
この時期に勝ち上がるのは、前評判通りのウマ娘であることがほとんどだ。
その評判が盤石であるところの一人、ハッピーミークのレースもまた、その例に漏れないもので、見事に一着。
デビューライブのセンターで歌う彼女に、桐生院葵が泣きながらサイリウムを振っていたのは中々パワーのある場面だったろう。
だが、それ以上に新人トレーナーの印象に残ったのは、レース場を包むあの雰囲気だった。
チリチリと焼きつくようであり、胸の奥がくすぐったくなるようでもあり、思わず手を握りしめてしまうような――お互いの誇りを賭けた、戦いの舞台を包む空気。
「……初めて競馬場に行ったのは、有馬記念だっけな」
木々が枯れ、風に冷たさが交じる季節にあってなお、あの場に立つ一流馬たちからは汗が蒸気となって漂っていた。
それを見守る大観衆のざわめきが、ゲートが開く瞬間だけ消え去ったかと錯覚し――歓声が爆発する。そこから3分にも満たない時間で、声はすっかり枯れてしまっていた。
その思い出は懐かしくもあったが、今の彼には、同時に恥ずかしくもあった。
それが原風景であったにも関わらず、随分と長い間、彼は
あるいは、もう少し早く足を運んでいれば、ゴールドシップの手を煩わせる必要もなかったのかもしれない。
さておき、だ。
「良いタイミングで初心に戻れたってことで、まぁ、いいか」
夏のメイクデビューが始まり、刺激を受けるのはトレーナーだけではない。
まだデビューを考えていなかったウマ娘たちも、実際に仲間たちが走り、輝く様子を見れば、自然と心に火がつくものだ。
新人トレーナーの元にも、久々にペア候補者との面談が舞い込んでいた。
桐生院さんには、後で何か礼をしよう。そんなことを考えながら、彼は面談用の部屋へと向かった。
「ラスト!」
「――っ!」
新人トレーナーの合図に、ウマ娘が歯を食いしばってスパートをかけた。
踏み込んだ脚が大地を蹴り、その体をグンと加速させていく。
……34、35、36。
手元のラップタイマーが刻む数字を横目に、彼はウマ娘のフォームを見つめる。
「はァッ……! ど、トレ……どうだった……?」
「お疲れ。ほれ、まずは水分補給だ。……タイムは39.6。今の時期なら、いい出来だ」
「ホント! ぃよしっ!」
目の前でコロコロと喜ぶ彼女は、ツールジボワール。
健康的に日焼けした肌に、焦げ茶の髪をピッグテールに結んだ快活なウマ娘だ。
軽やかなステップとは裏腹に、その踏み込みは強く、他のウマ娘なら失速しかねない坂でも楽々と駆け上がっていく。
その原動力となるのが、強靭な腰と、それを支える背中から下半身にかけての筋肉。
流石にゴールドシップほどのものではないにせよ、こと坂道に限れば互角以上、トップスピードに至る切れ味に関しては間違いなく上……というのが彼の見立てだ。
「目標は38秒台だが、この分なら年内デビューは十分間に合うだろう。仕上がり次第じゃ、秋だな」
「かーっ! 遂に私の時代が来ちゃうかー!」
「同期にタキオンがいるけどな」
「……ま、負けないし?」
「その意気だ」
アグネスタキオンの速さ自体は、既に周知のものとなっている。
まぁ、模擬レースに出ては勝ち、を繰り返しているし、明らかに余裕を持ったままともあれば当然ではあるが。
それを知っていて、虚勢だろうと『負けない』と言えるなら、まだチャンスは残っているだろう。
「よし、クールダウンが終わったら屋内でウェイトを10セットだ。で、柔軟やって、今日は上がりだな」
「はいはーい」
耳をぴょこぴょことさせながらコースに戻っていくツールジボワール。
彼がその姿を見送りながら、今後のローテーションを脳内で仮組みしているところへ、背後から誰かが声をかけた。
「ツールジボワールさん、順調そうですね」
「っと、桐生院さん。ハッピーミーク、今日は上がりか?」
「ええ。最近は暑いので、今日は軽い調整だけなんです」
気温はウマ娘にとっても重要なファクターだ。
夏になると途端に成績が悪くなる、という事態は珍しくないし、逆に暑い時期ほど好成績で、寒くなるとめっきり走らなくなる、ということもある。
その意味で言えば、ツールジボワールは暑さを問題としていないようだったが、あるいはハッピーミークは少し苦手にしているのかもしれない。
「すると、次は札幌かな」
「それも考えていますね。いっそ秋までトレーニング、でも良いかもしれないですが」
「微妙なところだな。レース経験を積ませるのは、確かにメリットでもあるし……」
ローテーションの管理は、基本的にはトレーナーの仕事だ。
ウマ娘の希望を勘案しつつ、どのレースに出せば最もパフォーマンスを発揮できるのかを考える。
距離、出走メンバー、果てはレース場とウマ娘の相性まで考え始めると、これが中々難しい。
「個人的には、札幌2歳Sはアリだと思う。重賞というのもそうだが、この時期に1800の距離を経験できるのは大きい。ま、参考にな」
「ありがとうございます」
男の助言に葵が笑顔を浮かべたところで、クールダウンを終えたツールジボワールがゴール板の辺りで声を上げた。
「トレーナー、終わったよ!」
「わかった、今行く! じゃ、俺はこの辺で」
「ええ。お互い頑張りましょう」
むん、とポーズを取ってみせる彼女に手を振り、男は担当ウマ娘の元へと近づいていく。
走り込みの後ということもあり、若干の疲労はあるようだったが、その瞳はキラキラと輝いていた。
勝ち負け以前に、走ることが――レースの大舞台で、ライバルたちと力を尽くすことが楽しみで仕方ないのだと言わんばかりだ。
「トゥインクルシリーズ、か」
「何か言った?」
「いや……頑張ろうな、ツール」
「もっちろん!」
ようやく、彼はトレーナーになりつつあった。
URAファイナルズ決勝で見た目が好みでした。
多分次が最後の話です。