――――彼女は、その名前に反して、雨に濡れた姿が美しい少女だった。
気分屋、自由人。
風に吹かれる雲のように掴みどころが存在せず、一定のカタチを維持しない。彼女を評する者はそう言う。
確かに彼女、セイウンスカイという少女は”自由”という言葉が似合うかのような雰囲気を放っている。
青空のように晴れやかに、木陰の下に吹く風のように涼やかな、そんな清廉としたもの。
だが、彼女のトレーナーである男は知っている。
いや、トレーナーだけがその彼女を見たことがあるのだ。
『私ね、誰かを追いかけるのって嫌いなんだ』
彼女と出会い、トレーナー契約を結んだその日に行った育成方針を決める話し合い。
何よりも先んじて彼女が突き付けてきた言葉。
『だからね、トレーナーさ―――ちゃんと追いかけて来てね?』
そう告げる、期待することを諦めたような彼女の澱んだ瞳。
彼女との始まりの日。様々な意味を込めた、その懇願を。
◆
《セイウンスカイが先頭だ!逃げた逃げた逃げた!!リードは4バ身から5バ身!》
《外を通ってようやくスペシャル!スペシャルウィークが上がってきた!しかしセイウンスカイの逃げきり!!!》
《逃げ切った逃げ切った!!セイウンスカイ!!》
《まさに今日の京都レース場の上空と同じ!青空!セイウンスカイ、レコード―――!!!》
「ねぇー、何回も見直してつまんなくないの?なんかダメなとこあったのかなぁー…」
そんな、疑問の声が下から上がったのは、すでに5回目となる菊花賞のレース映像の再生が終わった時だった。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。
通称【トレセン学園】に所属する各トレーナー与えられた厩舎(部室)に置かれた3人掛けのソファーに深く座り、テレビに映るレースを眺め、時には一時停止をしてメモを取るトレーナーバッチを身に着けた男。
その男の腿に後頭部を預けながら小さく欠伸を噛み殺し、ソファーの2/3以上をその小柄な体で占領するウマ娘の少女。
少女―――セイウンスカイとそのトレーナーは昨日行われた菊花賞の討論会と称して顔を揃えていた。
もっとも、セイウンスカイにとって菊花賞3000mを大逃げし、”世界新記録”を打ち立てたという走りに何をダメ出しすればいいのか分からない、というのが正直な感想であった。
それ故か、2回目の映像再生が終わる頃には熟れたようにその体をトレーナーに預けていた。
「ん、あぁ……スカイの走りに文句のつけようは無いよ。なんたって世界のレコードホルダー様だからな」
ふにゃり、と彼女のウマ耳が横に垂れていた。この力の抜け方は不安を感じた時のものと同じだった。
メモを取ることを止めた右手がセイウンスカイの頭を優しく撫でる。
少しだけ固く伏せられていた瞼に柔らかさが宿り、彼女のウマ耳はピクピクと小さく震えていた。
「ただ、次は有マだ……今回の菊花賞に参加したウマ娘も幾人か出てくるだろうし、何より高等部の娘らも来る……厳しい戦いは避けられないだろうな」
有マ記念、暮れの中山レース場で行われる一大イベント。
ファン投票によって選出されたウマ娘たちが華やかなG1衣装に身を包み、18人立で走るレースにおけるファン感謝祭だ。
その性質上、レースを引退していなければどんなメンツでも顔を揃える可能性があるということもあり、大波乱もあり得る
皐月賞、菊花賞を制したセイウンスカイの人気は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、また長距離区分である有マでも菊花賞の如き逃げを見たいとファンたちは思うのは想像するに容易い。
そんな有マの現状の有力候補一覧を見る。
キングヘイロー、グラスワンダー、スペシャルウィークら同級生。そして高等部所属のキンイロリョテイ、マチカネフクキタル、サイレンススズカ、メジロドーベル、エアグルーヴ。
この中から別のレースを選択し、有マを回避する面々も存在するだろうがそれでも頭の痛くなるメンツだ、なんて思いつつ資料を捲る。
「だいじょぉぶだよぉ……」
眠たげに、セイウンスカイが呟く。
「だって、トレーナーの愛バの私だから…きっと……」
「スカイ……そうだな。走る前から負けることを考えるバカは居ない、か」
「やーい、ばーかばーか……スゥー…」
眠りに入るセイウンスカイの頭をもう一撫で。
思えば2年と半年前、彼女と出会い二人三脚でこれまでやってきた。そんな彼女がこうしてジュニアクラスで2冠を取る活躍をしてくれたのだ。
これを愛バと言わず、誰を愛バと言うのだろうか。
そもそも、トレーナーとして初めて個人で担当したウマ娘としては最上とも言える結果だ。
だからこそ、なのだろう。
「お前は、俺が学園長からチームの新設を任されたって聞いたらどんな反応をするのやら―――」
「なにそれ」
鋭く、しかし震えた声だった。
トレーナーがその”聞き覚えある声色”に視線を即座に向ければ、眠りについていたように見えていたセイウンスカイと目が合う。
その双眸は普段の眠たげな目線からは想像出来ないほど見開かれ、彼女のウマ耳は裏返らんばかりに後ろを向いている。
そう、失念していた。普段は誰にも見せない彼女のもう一側面。
この娘は、実はかなり―――気性に難があるのだということを。
◆
少女、セイウンスカイは生まれを不幸と思ったことは無い。何故かと言えば、諦めてから楽になったからだ。
小さい時、それこそまだセイウンスカイという個が確立していない時、父親という存在が消えた。
セイウンスカイが覚えている父親は、おぼろげな輪郭と、頭を撫でる大きな手だけだった。
なぜ消えたのかは分からない。日々の暮らしは酷く危うげだったらしいが、父親が消えてから借金取りが家に来た覚えは無いし、母も体を壊すような働き方はしていなかった。
真実は分からない。母も語ろうとしない。
ただ、当時のセイウンスカイにとって父親が存在しないということは普通のことだった。
……だからだろうか。その”普通”は大多数の子供にとって普通じゃないということは、いじめの標的にされてようやく思い知ったのだ。
【葦毛のウマ娘は走らない】
当時、世間一般で言われていた言葉だ。
セイウンスカイがまだ小学校低学年であった頃にも、その言葉は少年少女の間で常識として備わっていた。
そして、その言葉を裏付けるように当時のセイウンスカイは足が遅かった……というよりも体のバランスが悪く、足が前に出ないから加速が下手というのが事実だ。
だから、50m走という短かすぎる距離での体育の授業は、クラスでも足の速い人の子に負けてしまうという事態に陥ってしまった。これが100mなら、途中で加速が間に合うセイウンスカイの勝ちは揺るがなかっただろう。
もし、セイウンスカイの脚質がステイヤー(中長距離)でなくスプリンター(短距離)であれば、初速の差がある分、体のバランスが悪くとも負ける要素は無い。
だが、彼女は負けてしまった。ただの人間に。
学校にウマ娘は少ないが故に人間と一緒のクラスで学ぶ環境で、葦毛であるという産まれ、父親の不在。
そして、ヒトにウマ娘の本分である走りで負けたこの瞬間、このクラスでセイウンスカイは”弱者”となったのだ。
―――子供は残酷だ。無邪気という言葉で片づけてしまえないほどに。
たった1度の、許されない敗北がセイウンスカイにとっての更なる不幸だった。
『ウマ娘の恰好した女』 『そんなに足遅いから父親に捨てられた』
面白がるようにセイウンスカイを囲み、心無い言葉を浴びせる少年少女たち。
それから走り逃げ出せば、また面白がって追いかけまわされる日々。
極め付けは、隠れるように逃げ込んだ掃除用具入れを倒され、出れなくなったところを掃除用具の箒やモップで殴られ続ける。
悲鳴を上げれば笑い声が響き、また用具入れを殴る音が中に響く。
間違いなく、セイウンスカイが閉所(それも扉の付いた)を嫌い、棒を嫌う原因だろうその地獄は、ある時唐突に終わった。セイウンスカイの限度を超えたことによる、負傷者の発生。
ウマ娘という存在の怒りを買うことの恐ろしさを、少年少女たちがトラウマとして植え付けられる事態に至ったことで。
以来、彼女は一人を好むようになっていった。
【流れる雲のように】
彼女がこの言葉を用いるようになるまでの数年間、彼女の心は暗雲に包まれていた。
愛だよ。