『王』は『覇王』に届きうるか   作:からんBit

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疑心暗鬼の闇の中で

通い慣れた階段。通い慣れた廊下。通い慣れたトレーナー室。

そこに至るまでの道のりがなぜか今日は一段と重い。

 

菊花賞を走り切った時とは比べるべくもないが、あの時に自分を奮い立たせてくれた気持ちの強さがなぜか今はまるで頼りにならなくなっていた。

 

「なによ……何をやっているのよ私は……」

 

トレーナー室の扉を前にして既に1分以上は時間が経過していた。

 

休暇明けの今日。

練習再開は明日からであり、今日は今後についてミーティングを行う予定であった。

 

だが、今の頭の中はそんな先のことまで考えられる状態ではなかった。

実家から帰ってきてからずっと、セイウンスカイの言葉が耳の奥でずっと繰り返されていた。

 

彼女は『いやいや、ただの私の憶測ですから。そんな、真剣に考えることないよですよ~』と少し顔を強張らせつつ言っていた。普段から柔らかな微笑をポーカーフェイスにしているスカイからすれば十分に真面目な顔であった。

 

当然、そんなものは単なる与太話であると切り捨てるのは簡単であった。

 

だが、それでも心に忍び込んだ冷たい痛みは消しようがなかった。

 

 

『四谷トレーナーから専属契約を切られる』

 

 

その可能性は心に太い釘を撃ち込まれたかのような衝撃だったのだ。

 

 

「何も心配することはないわ……トレーナーは私が引退するまで頑張るって言ってくれたのよ……だから、そんなこと……」

 

だが、当然それは明確な契約があったわけではない。

天皇賞(秋)を終え、2人でレース場に出かけて、なんとなしに交わした口約束に過ぎない。

 

とはいえ、3年も一緒に苦楽を共にしてきたのだ。

あの言葉が単なる軽口ではないことはわかりきっている。

 

「もうっ、なんでこんなヤキモキしなきゃいけないのよ」

 

学生鞄の中にはトレーナーとの専属契約を更新するための書類を一式準備してきた。

既に自分の欄の記入は終えており、あとはトレーナーの分を書けばいいだけだ。

 

「期限まではまだ1ヶ月あるけど何事も余裕をもってこその一流。だから、これは別に他意は何もないわ」

 

つまらない心のわだかまりをさっさと捨てて、次のレースに向けて準備を開始しよう。

 

常に前を向いてこその一流なのだ。

 

私はドアを4回ノックして返事も待たずに扉を開けた。

 

「トレーナー!今帰ったわ!」

 

トレーナー用の個室。準備室程度の広さの部屋にトレーナー用のデスクと資料用の棚。少し古ぼけたソファーが片隅に居座り、部屋の真ん中にはミーティング用のテーブルとホワイトボードが並べられている。

 

いつもと変わらないトレーナー室。

 

そこの主はノートパソコンの向こう側からいつもと変わらない少し緩んだ顔をあげた。

短く刈り上げた髪と優男風の顔つきでいかにも流されやすそうな雰囲気のくせに、やけに行動力が高くて、頑固で意地っ張りで、腹の奥底には太い芯を隠している私のトレーナー。

 

彼は「おっ」と声をあげて、背もたれに体重を預けた。

 

「お帰りキング。実家はどうだった?」

「ええ、なかなかに有意義だったわ。でも、ここまで長い休暇だと身体が鈍りそうね」

「むしろ、今までが気張り過ぎだったんだから、それぐらいでちょうどいいんだ。実際、ここ数回のレースでは足の筋肉が少し強張ってた。走ることから離れて筋肉に溜まった乳酸を抜いておかないとそのうち無理が出る。復帰後もしばらくは筋肉の柔軟をメインにやっていこう」

「あら?それで、次のレースには間に合うの?」

「もちろん間に合わせる。とはいえ、次のレースもまだ決まってないしな……キングは何か希望はあるか?」

「いえ、まだ、“次”は決まってないわ。というよりも先に今年の大目標についての検討をしましょう」

「そうか……うーん……そうだな、大目標か……」

 

少し鼻の頭を触りながらパソコンへと向き直る四谷トレーナー。

私は彼の視線が逸れたことを確認して、胸の内から大きく息を吐きだした。

 

いつも通りに会話ができている。

大丈夫だ。何も変わらない。

今までも、これからも。

 

それに『今年の大目標』の話題を自然と切り出せた。

これで間違いない。彼は今年も私と一緒に走ってくれるのだ。

 

当たり前だ。

 

あの日。3年前のあの日に、一緒に“一流”を背負う覚悟を見せてくれたこのトレーナーがそう易々とその手を切るはずはない。

 

私は震える手を抑えながら、鞄の口を開き、中の書類を手に取った。

 

「それでトレーナー、今年の目標を決める前にやらなきゃいけないことがあるでしょ?」

「え?やること?」

「そうよ、契約更新よ。忘れてたとは言わせないわよ」

 

そうだ、何も恐れることなどない。

こんなものは単なる事務作業だ。

 

さっさと片付けてしまおう。

 

 

だが……

 

 

 

「ああ……そうだったな……契約……なぁ……」

 

 

 

ピタリと私の手が止まった。

 

「な、なに?その煮え切らない返事は?」

「あ……うん……その……」

 

トレーナーはバツが悪そうな顔をして、目を背けた。

 

「……契約更新の期限はまだ1ヶ月先だろ?」

「ええ、でも、“一流”たるもの時間を余裕をもって……」

「……わかってる……わかってるんだが……」

 

私は手汗が滲んだ手を鞄の中の書類から放し、腰に当てた。

 

「なによ?言いたいことがあるならハッキリいいなさいよ!」

「……その……」

 

そして、四谷トレーナーはガタリと椅子から立ち上がり、机に両手を付けて深々と頭を下げた。

 

「すまない!契約更新は少し待って欲しい!」

 

背筋に冷たい汗が流れ落ちた。全身の毛が逆立ったような気がした。

だが、それとは対照的に耳と尻尾にはまるで力が入らなくなる。

 

「………え?……なによそれ?……どういう意味?」

「悪いキング。まだ自分の中でも答えが出てなくて、その上手く説明できる気がしないんだ。だから、あと4日、あと4日待ってくれ。そこで必ず結論を出す」

「4日?」

 

やけに中途半端な期限だ。その時間に一体何の意味があるのか。

だが、今の私にはそんなことまで頭が回る余裕はまるでなかった。

私は彼が頭を下げている間に手近な椅子に腰かける。

 

足が震えていた。全身から力が抜け落ちそうだった。

喉が異様な程に乾いて、脱水症状でも起こしたかのように唾の一滴も沸いてこなかった。

 

私は自分の声が震えてないことを何度も確かめ、いつものように気丈な態度を取り繕った。

 

「まぁ、いいわ。あなたが待って欲しいっていうのなら待つわ」

「キング!ありがとう!」

「た・だ・し!」

 

私は少し前かがみになりながら、右手の人差し指をトレーナーに突き付ける。

 

「あなたが自分で4日と期限を付けたのだから、その言葉には責任は持ちなさい。4日後に結論が出てなかったら承知しないわよ」

「ああ、もちろんわかってるとも」

「それならいいわ。それなら、大目標の設定はあなたの『結論』とやらが出てから決めましょう。それで、目標が定まってない状態の私はどんなトレーニングが最適なのかしら?この私を待たせるんだからそれぐらいのメニューの用意はあるんでしょうね?」

「もちろんだとも。去年までのデータの集積は終えている。今の君になら1週間分だろうと、1か月分だろうと、最高の練習メニューを組める」

 

穏やかに会話をしながらも、私の左腕は必至に自分の二の腕を握りしめていた。

痛みという刺激がないと、自分を保ってられなかった。

 

なんで?なんで、今すぐ契約を更新してくれないの?待つ必要なんてないじゃない。4日って何よ?何を迷っているのか教えてよ?契約を終わらせるつもりはないのよね?それだけでも言ってくれていいじゃない。データの集積を終えてるって?私の休暇の間にそんなことしてたの?つまり、そのデータを渡せば他のトレーナーでも問題なくメニューが組めるってことじゃないの?

 

頭の中はぐちゃぐちゃで、心の中はそれ以上に荒れ狂っていた。

 

それでも、毅然な態度を崩さなかったのは、今まで積み上げてきた“一流”であろうとしてきた不屈の精神力があったからこそだった。

 

だが、それも本当にギリギリの状態だった。

 

今にも崩れ落ち、感情のままに行動しそうになる。

 

涙を流して弱音を吐いてしまいたい。

胸の内をぶちまけ、トレーナーに当たり散らしてやりたい。

 

そんな自分をなんとか押さえつけ、私はトレーナーと一見和やかに今後の大まかな予定を立てていったのだった。

 

「……とまぁ、こんな感じでどうだろうか?」

「いいわ、それで行きましょう。あら?まだ、40分ぐらい練習場が仕えるわ。だったら、軽く流すぐらいはできるわね。行くわよトレーナー!」

「ははは、やっぱりそう言うと思ってたよ、キング。“一流”は1日の最後まで努力する……だもんな」

「おーっほっほっほっほ!わかってるじゃない、トレーナー!それじゃあ、先に行ってるわね!」

 

そして、私は勢いよく立ち上がり、振り返ることもせずにトレーナー室を飛び出した。

 

1分1秒を無駄にせずにトレーニングに充てる。

 

そんな建前を頭の中から繰り返し、ただ、あの場から逃げ出したかった事実から目を背けようとする。

 

「……っ……っ……っ」

 

私はこぼれそうになる嗚咽を必死にこらえ、ただただ、走ることだけで頭を満たそうとしていた。

 

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