「……分かっているんです。それでも、わたしは、兄弟仲が良いことを望みます」
かつて盗み聞いた
鳴り響く鐘の音、高らかな賛美歌、静かな祈り。
それらが満ちた空間。
これまで「そういうもの」は普段の暮らしとは無縁だったから、とても緊張したけれど。
でも、他人の体温を感じたのはいつぶりだろう。確かな安心感がそこにあった。
非日常への不安と、確かな安心がまぜこぜになって、涙が出た。
「さぁおいで、ここに来たからにはもう家族だ」
それも、血の繋がらない相手に優しくされたのは、初めてだ。
あの屋敷から追い出され、少しして、母が死んでから。
本当にひとりぼっちで、寂しくて。
行き場を失い、絶望していた時に包み込んでくれたのはこの優しい声。
差し伸べられた、しわだらけのあたたかな手。
私は救われたのだ。
正妻との間に息子を得た実の父に捨てられ、絶望して衰弱死した母を失い、私にはもう何も残っていなかった。
父は自分の後継ぎとして「正しい妻」から生まれた
最初から私を必要としていた人間は誰ひとり存在せず、ひとりぼっちになった私に使用人を介して告げられたのは「マイエラ修道院にいけ」というものだった。
ひどく邪魔くさそうに言われた。
そこならば役に立たない子どもでも引き取ってもらえると。
働き手として幼すぎる私は、ただ存在するだけで、他人の視界に入るだけで、邪魔だったのだ。
そうだ、生きる道だけは示された。
絶望を胸に魔物に見つからないように怯えながら進み、なんとかたどり着いたマイエラ修道院。
私はそこで、オディロ院長に引き取られ、無償の愛を知ったのだ。
あの場所では誰にも必要とされなかった私でも、ここでは受け入れられたのだ。
私も存在していいと。
ただ生きていても良いのだと。
慈善家として広く知られ、行き場のない子どもを引き取って育てるオディロ院長は誰にも必要とされなかった私にも、それはそれは優しかった。
幼く、労働力にならない……修道士見習いとして日々ただ金を食うだけの存在だった私を受け入れてくださった。
大きくなれば、名誉ある聖堂騎士にだってなれるかもしれないと仰った。
私に居場所をくださったのだ。
そうして与えられた修道院での生活は慎ましかったが、母と過ごしていた頃の灰色の生活とは全く違っていた。
真っ当なひとりの人間として扱われ、平等に愛され、飢えることなく、戯れに虐げられることもなく、私は幸せを知った。
すべての人間は、等しく神の子なのである。
悔い改めることの出来る、神のしもべなのだと教わった。
平等なのだから、幸せに過ごしても良いのだと。
そんなマイエラ修道院には、私のほかにも行き場がなく修道院に入れられた子どもたちがいた。
めいめい修道士や神父、聖堂騎士を目指す彼ら……その中でも私より五つ年上なのだと得意げに胸を張っていた少年こそ、後年の私が弟の次に疎ましい存在となる……「兄」だった。
もちろん、血の繋がっていない「兄」は単に私より五つ年上で、私より先に修道士見習いから騎士見習いになっていたから「兄」なのであった。
自分と同じ緑の瞳。
「同じ色」というだけで親近感を抱かせ、「同じ色」の目を持つ母や父を思い出させた。
出会ったころは聖書の紙のように真っ白だった髪は、しばらくすると真っ黒の髪がぽつぽつと生えてきて、次第に黒髪が生えそろい、「兄」は私とお揃いになった色彩を喜んだ。
覚えている。
白い髪の、異質で陰気な少年が私と初めて会った日のことを。
「オディロ院長、その子が新しい子ですか? その子は……じゃあ弟だ! わたしにも弟ができたんだ! ようこそマイエラ修道院へ! 良ければ『兄』と呼んでほしい!」
「兄」の、私に初めて会い、あの弾けるような明るい笑顔を覚えている。
忘れるものか。
今もなにひとつ、変わりはしないのだから。
腹違いの兄弟の、複雑な事情を理解しようともしない無邪気さが心底疎ましかった。
私の名前を知って、どこかできっと私のかつての境遇も知っただろうに、「兄」は何も変わりはせず、ただ無邪気に年上ぶって私を可愛がろうとする、鈍感な人間だった。
そうだとも、彼にとって「弟」というのは等しく存在するものであり、個人なんて見ようとしない、博愛をうそぶくだけの偽善者だった。
そうだとも、彼は私を裏切ったに等しいのだ。
あるいは私が、彼を裏切ったのに等しいのだ。
「弟には優しくしなきゃね!」
「分からないことがあったらぼくに! ちがった! わたしに! 聞くんだよ!」
「ルチェは真面目だ! とてもえらい! 偉いので抱っこしてあげよう! え、いらない?」
よくずっと年上の修道士に兄さんはたしなめられていた。
確かにここは静かに神に祈りを捧げる場所なのに兄さんの声は明るく騒がしく、やや場違いなほど良く響いたのだから。
兄さんは毎度反省したが、またすぐに忘れて騒がしくなる。
そんないつもの流れは決して嫌いじゃなかった。
兄さんは聖堂騎士見習いとして日々忙しそうにしていたけれど、暇を見つけては構ってくる人間だった。
修道院とはいえ領内だったから、マイエラ領主の……跡継ぎとして産ませた妾の子として名前が知られていた僕に、みんながみんなここまで無邪気に接してくる人間ばかりじゃなかったし、まだまだ「家族」として迎え入れるにはなじんでいなかった僕にとってはありがたい存在でもあった。
彼もまた、修道院に身を寄せた子どもだった。
親に捨てられたのか、あるいは死別した過去を持つ子どもだったのだろうに、暗い過去をまったく感じさせることのない、底抜けに明るい人物だった。
注意されてもすぐに忘れて騒がしくなる人間ではあったけれど、見事に聖書を暗唱して見せたり、高らかに賛美歌を歌ったりする姿は将来を切望された「聖堂騎士見習い」なのだと思わせる一面もあり、尊敬できる面もあった。
それに、間違いなく、愛に飢えていたから。
ささくれた心に……優しい院長と明るい兄さん。
二人の無償の愛は染み入った。
彼らは領主の血を引いているからという打算ではなく、心底ただ「マルチェロ」という少年であるからして僕のことを見てくれた。
「ルチェも聖堂騎士になるのかなあ? ルチェが大きくなって、選べるようになるころにはぼく、立派な騎士になっていたらいいな! そしたら色々お兄ちゃんとして教えてあげられる! そうなったらいい」
「兄さんはとても一生懸命だからその通りになると思うよ」
「本当に? 頑張らなきゃなあ!」
頭を撫でてくれる手は優しかった。
五つ年上だとかなり体格差があったから、剣だことペンだこのできたかたい掌が脇からひょいと抱えあげ、軽々とくるくる回してくるのを受け入れざるを得ない。
いくら年下でも、本当に小さな子ども扱いされているみたいで人に見られるのは恥ずかしかった。
でも、内心ではそのような扱いすべて、本物の兄のようで優越感にも浸れた。
兄さんに「弟」はこれまでいなかったようで、だから彼の「弟」は僕だけだった。
「兄」と呼べる人物は他にもいたが、兄さんは独り占めしたがったから、ほかの「兄弟」と違って僕が区別のために名前をつけずに兄と呼ぶのはひとりだけだった。
彼はまた、文武問わずのひたむきな努力でオディロ院長や周囲の信頼を勝ち得ていたのも優越感のひとつだった。
自分を可愛がってくれる兄さんの能力の証明のようだったから。
そんな彼に将来を期待されるのは心地よかった。
そうだ、期待されていた。
そして想われていた。
その身に流れる血ではなく、ただのマルチェロとして。
ひたむきな努力の末、将来を期待される兄さんを見ているのは嬉しかった。
そうして自分にかけられた期待を僕にもしてくれるのが、本物の「兄弟」のようでくすぐったかった。
彼の「弟」は僕だけで、僕が心底から「兄」と呼べるのも彼だけだった。
次第に過去のことは、穏やかに薄らいでいった。
衰弱して死んでいった母のことを忘れたわけではなかったし、父やククールへの憎しみがなくなったわけでもなかったが、以前のように身を焦がすような強い感情ではなくなっていた。
母が生きていて、父が僕のことを今も息子と呼んでいたら……兄は僕の兄ではなかった。
もう、単純にどちらかを選べるものじゃなかった。
あの家に戻る代わりに兄を兄と呼べない方が良いのかと言われたら、それは違うと答えるだろう。
「兄さん、兄さんは僕も兄さんのような立派な兄になれると思う?」
「なれるとも! わたしはそこまで立派な兄ではないけれどもね、ルチェはとびきり飲み込みが良いし、素直で、とってもかわいい。だからいつか弟ができたらわたしよりもずっとずっと兄として、弟になにくれとしてやるだろうさ。ねぇルチェは弟が欲しいの?」
「う……うーん、それは、どうだろう。マイエラ修道院はいいところだけど、弟ができたら、弟は元いたところに帰りたいって思うかもしれないから、分からないや」
「……そうだね。そうかも。ルチェはここに来て笑ってくれたけど弟がそうなるとは限らないものね。全部天にまします我らの父が偉大なる考えをもってお決めになること。わたしたち人間が考えたって分からないことなのさ。
ただ! ルチェは僕の弟だ! これはもう我らの父がもうお決めになったことなんだから、これからも変わることはない! 胸を張って言えることさ!」
真面目な顔を引っ込めて、兄は朗らかに笑った。
「兄さんは僕の兄さん……」
「そうとも。この先何があろうとも、そうだろう?」
そうだ。
たとえ何があろうとも、この先兄と別れる日があったとしても、それでも兄が兄であることには変わりない。
示してくれたその考えはひとりぼっちの孤独を知っていた僕にとってとても耳ざわりのいい、優しい理論だった。神の御名に護られた素晴らしい考えだった。
「そうだね、兄さん」
僕は、感極まって、兄に抱き着いた。
子どもっぽいこの行動はかなり勢いよかったが、五つも年上だと身長も体重もとても敵わなくて、少しもよろめくことなく兄は僕をしっかりと受け止めてくれた。
穏やかだった。
幸せだった。
何も疑うことなく。
どうして疑えただろうか、だってその頃の僕は、裏切りを一度しか知らなかった。
裏切りなんて滅多にないことだと思っていたし、特定の人間以外は優しくて、信用していいのだと思っていた。
自分を疎む人間なんてごく一部で、不要に考えて排除してくる人間なんて「父親」以外に存在しているとは思わず。
愚かな幼き日の私。
何も知らない、無知ゆえに。
全知全能でない限り、人間という存在は、いくつになろうと無知で愚かなことには変わりない。