・ある老婆の懺悔、愛された子たちへ
幼いククールがマイエラ修道院に来る直前の話
・願いは叶えられた
小さい頃のプリーモ
・兄弟賛歌のその後で
本編後の兄弟たち
<ある老婆の懺悔、愛された子たちへ>
広い屋敷の中は不気味な程に静かだった。
かつては沢山の使用人がいた屋敷の中は見る影もなく荒れ果て、多くの部屋は開かないようにかたく鍵をかけられていた。
屋敷の中で唯一掃除の行き届いた部屋の中、そこには小さな少年と痩せこけた老婆がいた。
彼らだけがこの屋敷の……いや、付近一帯の唯一の生き残りだった。
その部屋は冬でもないのに暖炉の火は煌々と燃え盛り、そこに掛けられたやかんや鍋からはもうもうと蒸気が吹き出し続けている。
まるで、乾燥と寒さを好む恐ろしい病を無理に追い出すように。
先のない老婆の願いは神に聞き届けられていたのか、少年に明るい表情はなかったが健康そうだった。
それだけが唯一の救いだった。
「お坊ちゃま、わたくしの言ったものは纏めてくださいましたか」
「うん。……ばあや、怖い顔してる」
返事を聞くやいなや、唯一安全だとしていた部屋から少年を連れ出した老婆は歩きながら話を続けた。
明かりもなく荒れ果てた廊下は暗く陰気で気味が悪く、怯えた少年は怯えて手を繋ぎたがったが老婆は頑として引き受けなかった。
「あぁ……失礼いたしました。
それでは、その荷物を持ってすぐにこの家を出るのです。振り返らずにずっと川沿いを進み、マイエラ修道院へお行きなさい。ばあやと礼拝に行ったことがあるから建物はわかるでしょう?
あそこにはオディロという慈善家がいますから、両親が病気で死んでしまったといえば置いてくださいます。お坊ちゃま、修道院に入ったら奥の部屋に入りなさい。白いお髭の長いおじいさんを探すのですよ」
「じゃあばあやはどうするの」
「ばあやは……もうお給料が出なくなったので別の仕事を探しますから。あそこは旅の者以外の女人はいないのですよ。優しいお坊ちゃま、心配しないこと。ばあやのご飯は美味しいでしょう? すぐに次の雇い主は見つかりますから」
「……うん、知ってる。きっと引っ張りだこだよ」
「ええ。さぁ、振り返らずにお行きなさい。夜になれば魔物が出てきて、頭から食べられてしまいますよ」
「ばあや、でも、」
「さぁ、早く! 早く行くんです!」
「ばあや、さよなら」
「早くお行きなさい、ククールお坊ちゃま。
どうか、どうかあなたのゆく道にどうか光がありますように」
最後には語気を荒げて小さな少年を屋敷から追い出した老婆は少年の姿が遠ざかって見えなくなると大きくため息をついた。
「お坊ちゃまに伝染っていなければ、あとは」
きっと大丈夫。
何の罪もないあの子だけはきっと助かる。
あんなに元気そうだったもの。
食欲もあったし、きっと熱もない。
足取りも言葉もしっかりしていた。
それに私のことまで心配できるお優しいお坊ちゃまなら、大丈夫。
彼女は自分の胸の中で言い聞かせた。
まるで呪われたように流行病によってあっという間に人々が死に絶えたこの家で、愛憎渦巻くこの家の中で、一番幼いククールは何も知らない。
父であるあの領主の不誠実さも、捨てられていった母親たちの嘆きも、ただ生まれてきただけのあの子には本当は関係のないこと。
だから、きっと助かるはず。
「ばあや」と呼ばれた彼女は長い間、この領主の家に仕えてきた。
ギャンブルと女好きのろくでなしの領主が女性を引っ替えとっかえした挙句、全て違う女性に産ませた三人の子どもが次々に不幸になる様を全て見てきた。
次期当主として可愛がっていた正妻の息子さえ、立派な大人になる姿を拝まないまま死んでいったのは、きっと愛人の息子たちを手酷く捨ててきたバチが当たったのだろう。
誰がどう見てもそれは天罰だろう。
領主はそれはそれは苦しみ抜いて死んだ。
流行病に犯された挙句現実と夢の違いすら分からなくなり、高熱に喘ぎ、何もかも訳が分からなくなってからも苦しみだけは少しも減ったようではなく。
薬はまるで効かず、そのくせ隣に伏せった妻が先に衰弱死したことだけは分かったのか絶叫し、古くからの使用人たちも流行病にバタバタと倒れていき、すぐに動かなくなって、使われなくなった部屋に骸は放置されたまま。
少数の無事な者はあっという間に逃げ出して死者の世話をする者もなく。
これはかつてマイエラ修道院を襲ったという流行病ときっと同じなのだ。
あの時も病気が蔓延った建物ごと捨てて病人を隔離することでしか収束することはなかった。
徳の高い当時の院長が決断し、病に犯された身体に鞭打って自ら修道院への入口を聖魔法で封印したという言い伝えが残されている。
領主はかつて整っていた人相すら変わり、迫り来る死への恐怖か、肉体を蝕む苦しみへの絶望か、すすり泣きと絶叫を繰り返すようになっても領主は死ななかった。
いや、死ねなかった。
それは全てを見てきたばあやが簡単には死なぬように最低限の世話をしたからであったし、そもそも恵まれた体格の持ち主であり人よりも体力があったことも災いしていた。
逃げ出さなかったばあやは、いつしか自分も流行病になっていることを知っていた。
その覚悟はあったのだし、彼女にとってこの状況は絶好の復讐の機会でもあった。
そして、領主は長い間苦しんで、苦しんで、苦しんで。
ひとりぼっちで、腐っていく妻の死体の目の前で。
いっそのこと殺してくれと泣き喚き、許してくれと女の幻に乞い、幻聴の中恐怖を訴え、見る影もなく痩せ細り胸を掻き毟って死んだのだ。
何度も血を吐き、最後には謝罪の言葉以外を忘れたようだった。
きっと、屋敷を追い出されて悲しみ苦しんだだろう子どもたち。
父親の末路がこれくらいのもので許してくれるだろうかと老婆は口惜しかったが、死んでしまったものは仕方ない。
ばあやは、特段特別な血筋の人間ではない。
もちろん地獄に突き落とされた領主一家の血縁者ではない。
しかし、かわいらしく自分を慕ってくれた三人の子どもたちが次々と捨てられていく様子を何も出来ずに見送っていた。
屋敷でばあやは目を閉じた。
気が済んだらやるべきことをなさなければならなかった。
病は既に彼女の肺を犯し、先程のククールとの会話は気力全てを振り絞ったものだった。
……最初の子はプリーモと名付けられた。
父親がろくに考えもせず名付けられたとばあやは知っている。
最初から領主は遊びのつもりだったが、あの母親は成り上がるために本気だった。
そして、その関係性は子どもが生まれても変わらなかった。
母親は商売女あがりの下品な女で、プリーモのことをろくに世話することも可愛がることもなかったが息子はいい子だった。
容姿は父親によく似ていたが、中身は素直で、寂しがり屋で、ばあやによく懐いた。
己の名前の理由を聞いて「いちばん? ってことは、ぼくに弟か妹ができるってことかな? 嬉しいな!」と無邪気に笑った顔を覚えていた。
「二番目」の女ができた時、母親共々屋敷を追い出されたプリーモが、縋るように伸ばしてきた手をとることは出来なかった。
あの母親はプリーモをすぐにどこかにやってから、屋敷に来ては金の無心をしていたが、そのうち見かけなくなった。
同時期、港の方で女の死体があがったという事実はプリーモにいつか再会する日があっても伝えられないことだった。
プリーモの生死は定かではないが、ばあやはきっと優しい人か、マイエラ修道院に拾われたと信じている。
次の子はマルチェロと名付けられた。
プリーモにとって念願の弟になるはずだった、しかし母親違いの二番目の子。
領主の好みなのか母親の容姿はあの商売女によく似ていた。
そのせいかマルチェロはプリーモとよく似た子供だった。
二番目の母親は商売女ではなく、領主の愛人だった。
恋人と言い替えても良かったが、出身が平民の女で正妻にはなれなかった。
ばあやは罪悪感から小さなマルチェロによく尽くした。
素直な子どもはやはりよく懐いた。
自分の後ろをついて回り、母親が大好きないい子だった。
その頃、領主は正妻との間になかなか子どもに恵まれずマルチェロを次期領主にすべくようやく子どもを可愛がる姿勢を見せた。
そうして育つうち、マルチェロもプリーモと同じように兄弟を欲しがった。
それがどういう意味なのかを知らず、無邪気に。
三番目の哀れな子どもはククールと名付けられた。
領主念願の、正妻の子である。
正妻によく似た銀髪を持つ、美しい子どもだった。
そして、その瞬間マルチェロとその母親は用無しになった。
「前」と同じようにあっさりと捨てられる母子。
愛した男に捨てられたという事実に繊細なマルチェロの母は悲しみのあまりすぐに体を壊し、亡くなったという。
そしてばあやの差し金でマルチェロは修道院に向かうように伝えられ、無事に保護された。
愛憎劇を下敷きに何も知らない末の弟はすくすくと育つ。
今度こそはとばあやはククールにも変わらぬ愛情を注ぎ、ククールはプリーモにもマルチェロにも見られた素直さでばあやによく懐いた。
両親の愛を一身に受け、将来を約束され、ふたりの兄の悲劇を知らないからは今度こそ、健やかに大きく……なる前に。
きっと兄たちと同じ道へ向かうことになった。
幸い、ばあやが早々に隔離した彼は流行病にかかることなくこの屋敷を出ることができた。
寂しい思いをさせてしまったが、命には代えられない。
「あぁ、燃やしてしまわなければ」
呪われたこの屋敷を全て焼いてしまわなければ。
二度と不幸になる子どもたちが生まれないように。
「あぁ許してちょうだい、わたくしはあなたたちを愛していたの、助けられなかったばあやを許して……」
老婆の手がカーテンに火をつける。
あっという間に絨毯や壁に回った炎は彼女を取り囲む。
ばあやは火を恐れることなく背筋を伸ばし、炎のゆらめきの中に愛しい子たちの影を見出そうとして、そして、
ククールが修道院に保護されてから、程なくして。
病死した領主の屋敷が焼け落ちていたいう知らせが届いた。
<願いは叶えられた>
静かな祈り、清浄な空気。
厳かな雰囲気が宿る場所で、神に身を捧げた者たちが生活している。
ぴたりと音階の揃った賛美歌、聖書を暗唱する声、あるいは聖堂騎士たちの訓練の掛け声。
“必然”だけが支配しているその空間。
街のようなざわめきはない。
冷たい彫刻のように美しくも在るべき形がそこにあり、そしてそれはこれからも変わらない。
マイエラ修道院。
世界三大聖地のひとつ。
巡礼者を受け入れ、祈りを捧げる場所。
そこでは俗世を捨てた穏やかな修道僧たちと同じく厳粛な信仰を持つ聖堂騎士たちが質素倹約して暮らしている。
そこの一員である、黒の僧衣を纏った幼い少年は泣いていた。
年相応の華奢な見た目と裏腹に、まるで老人のように色褪せた白い髪の少年は静かに涙を流して、うずくまっていた。
周囲はそんな彼を気にする素振りを見せたものの、今に始まったことではなくいつも泣き暮らしているものだから、かける言葉もとうに尽きて扱いに困ってしまっているようだった。
少年は少年で、周囲に腫れ物扱いされるのを嫌がって、物陰に身を潜めて泣くように変わっていった。
少年は自分がなぜ泣いているのか説明できなかった。
なぜなら、彼のなかに“理由”はもう残っていなかったからだ。
彼はまだ幼く、見かけからして推測してもせいぜい五歳かそこらくらいだったが母親も父親もそばにいなく、そしてそれは亡くなってしまったからではなかった。
はじめに母親ともども傲慢な父親に捨てられ、少しの間も開けずに己が邪魔になった母親に修道院へ捨てられ、あまりの悲しみに彼は己を守るため名前以外の全てを忘れてしまったのだった。
さて、偶然にもまだこの世に生を受けていないさる国の神殺しの英雄も似たような身の上を持つことになるのだが。
彼の両親は英雄の両親のように悲恋の末に引き裂かれた訳ではなく、愛する人に会うために危険な地へ赴き殺された訳でもなく、失った悲しみのあまり子どもを産み落として儚くなってしまった訳でももちろんなく。
単に結婚前の遊び相手の女を捨てた身勝手な男と金蔓を失ったならば必要無くなった邪魔な子どもを体良く修道院に捨てた身勝手な女がいただけだ。
哀れにもそんなろくでもない父親の容姿によく似てしまった少年は、それまでの記憶を失っただけではなく悲しみのあまり髪まで真っ白にして泣き暮らす。
その理由も思い出せないが、ひとりぼっちになってしまった悲しみだけはわかるから。
様々な事情で修道院に来た神の子たち。
修道士や聖堂騎士になる、聖職者のたまごたち。
口減らし、両親の死、そして少年のように単に親に捨てられた者……。
幸か、不幸か。
少年……プリーモがマイエラ修道院にやってきてから五年もの間、新入りがやってくることはなく、プリーモは泣き暮らしながら密かに“弟”という存在に憧れを募らせるのだった。
皮肉にも、かつて親元にいたプリーモもまた下の兄弟に憧れを持っていあのだが……その記憶はもうない。
泣いてばかりの小さなプリーモ。
哀れな捨て子。
領主さまは新しい女との間に子どもを作ったらしい……シッ、プリーモに知られてはいけないよ。
分かるわけないさ、全部忘れちまったんだろ、可哀想に。
その方がいいに決まってる。
確かに、親に捨てられた記憶なんてない方がきっといい。
しかし、領主さまの正妻に子供がいないという事は、また同じことを繰り返すのでは?
可哀想なプリーモ、きっとそう遠くない未来、願ったとおりに半分血の繋がった弟が来てしまうね。
何も知らないプリーモへ、多少よそよそしく、しかし、哀れという名の同胞であったから。
彼は噂によって流れてきた“ろくでもない”母の非業の死を知らされることなく、“ろくでもない”父が新たに設けた弟の生誕を知ることもなく、ただそこにあった。
皮肉なことに、プリーモは幼くして誰がどう見ても領主にそっくりであったから、何も語らずとも“答え”を周囲は知っている。
幸運にも良識ある大人たちはそれを悟らせることなく、彼はすくすくと育ち、そして……。
それからさらに、五年が過ぎて。
『オディロ院長、その子が新しい子ですか?』
陰機で異質な白髪のプリーモは、何も知らず“本物の弟”に手を差し出して、はじめてあかるく笑ったのだ。
<兄弟賛歌のその後で>
「そういえば、プリーモ兄貴はなんで髪を伸ばしているんだ? 兄貴は知ってるか?」
「……私がマイエラに来た時にはまだ短髪だったような……気になるならお前が直接兄さんに聞けばいい話だろう」
「それもそうか」
「……もっと私たちが会話をすれば早く起きてくださると思わないか」
「ぶっちゃけるとそれは思うけどよ、プリーモ兄貴の『習性』を逆手取って無理やり叩き起してるようなもんじゃねぇのか。
あのひと、文字通り奈落に落ちる弟どもを無理やり押し上げて自分は落ちた人だぜ?」
「……」
なんだか頭の上で麗しい兄弟たちの会話が聞こえた気がした。
ゆっくりと意識が浮上する。
意識がはっきりすると共に全身の凄まじい激痛を自覚して呻きそうになるもそこにかわいいかわいい弟たちがいるのだから兄として我慢した。
沽券に関わる。
いつだってわたしは「いつでも格好良くて強い兄さん」でいたい。
もちろん、そこにいたのがわたしの大切な部下たちだったとしても同じことだ。
過半数がマイエラ育ちのかわいい弟たち。
血の繋がりはなくとも同じ釜の飯を食い、同じ道をめざし、同じ神の僕であり、信仰を同じくする存在。
当然彼らの前ではわたしは「強くて頼れる上官」であるべきだ。
さて、痛みの原因はなんだったかな。
何をやらかしたんだったか。
そうだ。
そう、わたしはちゃんと大事な大事な弟たちを守り抜けたんだった。
嗚呼!
オディロ院長、感謝いたします。
この痛みは甘んじて受けいれます。
むしろこの命、受け取っていただけなかったことを天命と思いより精進させて頂きますとも。
ご覧下さい、あの犬猿だったふたりが!
ルチェとククールが会話をしているんですよ、仲良く!
なんて素晴らしい日なんだろう!
この兄、寿命が伸びて伸びてしょうがない!
こんな怪我なんてかすり傷に等しい!
目を開くと、そこには予想通り弟たちがいた。
「おはよう、ふたりとも」
喉はかすれ、酷い声だったが話すことも出来る。
神よ、お慈悲に感謝いたします。
拾った命で弟たちに還元しろと仰せなのですね。
すぐに気づいたふたりの顔はぼやけていて、それは長いこと眠っていたせいかと思ったが違った。
知らず知らずのうちにわたしの目からは涙が溢れていて、もちろんそれは命を拾ったからではなくて弟たちが無事だったことが嬉しくて溢れた涙だった。
「ふたりとも、怪我は大丈夫だったか。わたしのベホマはちゃんと効いたかい。あれからどれくらい、経ったのかな。ルチェを操っていた不届き者は、どうしたのかな。まだ倒していないなら、このわたしにも一発、いや千回くらいは強めに殴らせておくれ。それから、」
「酷い声だ。ククール、水を」
「言われなくともここに。ほらプリーモ兄貴、水飲んで落ち着いてくれ。生きているのが不思議なくらい酷い傷だったんだぜ。その身体に興奮は毒だ。……それに悪い状況じゃない」
水を飲まされ、人心地つく。
目元を拭ってようやく真っ当な視界でふたりを見れば、嗚呼、元気そうだ。
見回せば部屋には心配そうな顔をした部下たちもいてたくさんの迷惑をかけてしまったことがわかった。
ククールの仲間たちはいない。
きっと、あれからかなり時間が経つのだろう。
「先日、元凶は倒した。あー……つまり、あの杖の中にいた暗黒神はもういない」
「倒した……つまり、わたしが寝こけている間にかわいい弟たちに苦労を押付けていたという訳かい」
「違うさ、プリーモ兄貴が身を呈して守ってくれたから戦えたんだろ。俺はあんな高さから落ちたら助かるような頑丈な身体してないぞ」
「弟を守るのは兄として当たり前のこと。弟たちを矢面に立たせて自分が安全な場所でぬくぬくと過ごしていたのが気に食わないだけさ……。これはわたしの心の問題。しかし、それはわたしが自分で消化すべき問題だね」
ククールはきっと仲間たちとやり遂げたのだろう。
その為にどれ程の苦労があったか。
なんとかして盛大に労ってやりたいが指に力も入らないこの不甲斐ない様子ではまだ叶いそうにない。
そして、騎士団の服を着ていないルチェもまた、きっと裏からククールの助太刀をしてくれたんだろう。
目を見れば分かる。
サヴェッラにいた頃よりもずいぶんすっきりとした目をしている。
きっと心の奥にあった大きな岩を壊すことが出来たんだろう。
それにさっきの麗しい兄弟の会話はきっと幻聴じゃない。
わたしには遂に成し得なかった兄弟間のわだかまりがひとつ、解き解されたに違いない。
嗚呼、それはなんて。
「麗しき哉、兄弟愛……兄さんは嬉しくて涙が止まらない……」
「そう、それですよ兄さん」
「ルチェの『兄さん』呼びが久しぶり過ぎてプリーモ兄さんはすごく嬉しいよ。それで一体何が欲しいんだ? 今度は国を取りたいのかい? ちょっと頑張っちゃいたくなるからあんまりおだてるんじゃないぞ。さ、まずはアスカンタから取りに行こうか」
「ご冗談は程々になさることですな。
つまり言いたいのは……私は貴方が実の兄だと知らなかったことだ」
「嗚呼、そっちか。愛しいルチェ。知ってしまったんだ。ククールに伝えていたから時間の問題だとは思っていたけれど、三人のうちの誰も欠けないうちに知ってくれたのは僥倖、と言うべきかもしれないね。
そう、あのろくでもない父親の最初の被害者こそこのわたし。『プリーモ』、いちばん。途切れることなく女を囲い、ぽんぽんと子どもを作らせては次々に捨てたあのとんでもない野郎の長男さ。もちろん、マルチェロとも腹違いのね」
「私が、その事実を知らないで貴方に冷たくあたったというのに、どうして。知っていれば、私はあなたが望んだように振る舞ったかもしれなかった。……私が生まれたせいであなたは屋敷を追い出されたんだ。どうして、」
「どうしてって、ねぇ。
そもそも屋敷を追い出されたことなんて昔のこと過ぎて覚えてないけどね。でもせいせいするよ。
わたしはとびきり、とびきり憎んでいるんだよ。是非ともこの手で殺してやりたかった、あの父親のことを。さっさと病気で死なれて叶わなかったけど」
再び涙を拭って、ルチェを見据える。
いつの間にか空気を察した優秀な部下たちは部屋から居なくなっていた。
「わたしはこの身の血が憎いんだ。全ての息子を不幸にしたあの父親を地獄に堕とすためならなんでもする。母親のことだって何も覚えていないけれど、わたしを愛することなく屋敷から追い出されたその足で修道院に捨てていったと聞き及んでいる。
でもね、でも、わたしたちを繋ぐ確かなものなんてあの父親の血しかないだろう?」
わたしは弱くて、父親のことも母親のことも、屋敷での出来事も全て忘れてしまっているけれど。
「できれば知らないでいて欲しかった。わたしの大事な弟たちに、あんな父親の息子であることなんかさ。
俗世のしがらみを全部捨てて聖職者になったのに血の繋がりは避けられなくて。あの父親の行動は変わらず、導かれるように可愛い弟たちは次々と修道院に来たわけさ。弱いわたしは修道院に来るまでの全てを忘れていたけれど、オディロ院長にわたしの過去を教わった時は酷く荒れたね。そして呪った、呪ったさ、もう死んだ相手を呪って、もう過ぎたことなのにどうかその末期ができるだけ苦しいものであるようにと祈ったね。
そして、手元にいる唯一の肉親たちが幸せでいて欲しかった。少しでも心穏やかにいて欲しかった。それも叶ってなかったけど。
言えるものか。言えるものか、お前たちとわたしを繋ぐ唯一なのに、わたしはこれが憎くてたまらない……。
でもね、親なんて、身体に流れる血なんて選べない。こんな世の中、こんな巡り合わせだからこそ。兄弟は仲良くするべきなのさ。それだけはわたしが守らなくてはならない信念なのさ……」
父は憎い。
母にもうっすらとした憎悪がある。
なんなら、可愛い息子を置いて逝ったマルチェロとククールの母に対しても苦々しい気持ちがある。
でも、一度だって弟たちが憎かったことなんてない。
むしろ同じ被害者として哀れだった。
全部全部選べもしない親のせいでしかないじゃないか。
「プリーモ」はいらない。
どうせ新しい子どもは作れるんだから。
「マルチェロ」もいらない。
正妻との間に新しい子どもができたんだから。
そして今更「ククール」は守れない。
暴虐の果て、全ての罪を被って
「……兄さん。私のこれまでの非礼を許してくださいますか」
「許すもなにもないさ。マルチェロ、わたしのかわいいルチェ。ずっとずっと守るべき最初の弟だと思っているよ。
あとは少しは弟に優しくしてくれたらもう言うことないが、その辺はわたしの口出しでどうにかなるとは思っていなくてね……でも、ずっとふたりの仲は良くなった。そうだろう?」
ふたりは視線すら交差させずに鼻を鳴らしたり肩を竦めたりしたけれど、この距離で嫌味を言わないルチェと嫌そうな顔をしていないククールを見ただけでもう十分分かる。
じゅうぶんだ。
もう、じゅうぶん。
わたしは果報者だ。
オディロ院長、見ていてくださっていますか。
わたしはこんなに幸福です。
それに弟たちだって。
「嗚呼……本当に生きててよかった! このプリーモでもさすがに死んだかと思ったんだよ!」
身体から力を抜いて目を閉じる。
これから訪れるであろう、「幸せ」への予兆を胸にしまい込んで。
もう悪いようにはならないと信じられる。
「わたしは、兄弟仲が良いことを望んでた」
祈りは届いたのさ。
これ以上の幸福があるものか。
嗚呼、これこそは兄弟賛歌。