慎ましい生活に張り合いができた。
なにしろ自慢の弟の出現だ。
真面目だし、懐いてくれる。
ちょっといい格好したくて頑張るっきゃないのだ。
弟は「マルチェロ」といったから縮めてルチェと呼ぶことにした。
最初にマルちゃんと呼んだらとても嫌そうな顔で返事をしてくれたので。
ここは修道院。
みんな出自なんてバラバラだ。
だから当然、血はつながっていないけれど、目の色が一緒だから、相手が何も知らなければ本当の兄弟のようにも見えて嬉しい。
血が繋がっていなくたって可愛い弟だけども。
ルチェは真面目だった。
真面目で、実のところ愛されたがりで、愛に脅え、それでも前を見る素直な子だ。
わたしは、実は昔のことをあまり覚えていない。
ルチェと同じ黒い髪が老人のように真っ白になるほど嫌な経験をしたはずなのだけど、あんまり覚えていないのだ。
オディロ院長はわたしの昔を知っていると言うが、大人になるまでは預かっていてもらっている。
だから、昔のことなんて知らないし分からない。
思い出したらそれまでだし、教えてもらう日が来たとて俗世を捨てた聖職者に過去なんて何か関係があるだろうか。
そんな過ぎ去ったことに一喜一憂するルチェはなんて可愛らしく、愚かしいのだろう。
なんて愛おしい。
時に母の腕を求めていることを知っている。
わたしは母のことなど覚えていなくて、わからない。
母の代わりにはならないだろうが抱きしめてやることは出来る。
時に認められたくて、その一心で必死になるのを知っている。
わたしは、彼がかつて誰にも必要とされずにここに来たことは……うすうすわかっているから、ルチェの努力を認めよう。
わたしが認められなかった分まで。
嗚呼素晴らしき哉兄弟愛。
弟のために頑張るというのはただ頑張るよりいいことだ。
頑張って、規範になろうじゃないか。
頑張って、聖堂騎士になるんだ。
院長への恩返しをして、この慎ましい生活を頑張って、勉強して、鍛錬して。
そしていつか……。
いつかもなにもないけれど。
わたしたちは聖職者になるんだから、あたたかな家庭を得ることはない。
可愛い弟たちが増えることはあっても、彼らとは決して血が繋がらず、彼らの子どもを見る日も来ない。
分かっている。
所詮はわたしたち、神の子は、「いらない」と言われて院長に拾われた神の子なのだ。
心から幸せになったっていいのだけど、幸せを感じてもいいのだけど、それは心の持ちようとして。
あくまで質素倹約を心掛け、神の言葉を説き、人々の規範とならねば申し訳が立たないじゃないか。
ただ生きていくのにだって金が要る。
わたしたちは生きているだけで金を得ることはできず、神の子として正しく立ち振る舞うからこそ施しを与えられ、そうしてそれを無駄遣いしないように生きていくものなのだ。
嗚呼素晴らしき哉兄弟愛。
わたしにはそれしかないのです。
敬愛を、嗚呼敬愛を!
すべての人間は神の子なのです!
悔い改め、神の慈悲を乞い、慎ましく正しく生きていく僕なのです、我が主よ!
どうか皆に祝福あらんことを。
家族に飢え、愛に飢え、夢見るだけなら赦された。
本当の弟なんていないだろうし、本当の家族だっていないのだ。
だから血の繋がった本当の家族よりもしあわせに、血の繋がった本当の弟よりもうんと可愛がってやらなくちゃ。
そのためには、どんな兄より素晴らしく、完璧になってやらねば叶うまい。
もう捨てられたくないじゃないか。
ねぇ?
もういらないって言われたくないじゃないか。
確かなつながりが欲しくて、だけど得られないってわかっていた。
嗚呼弟に必要とされたい。
良い兄だと思われていたい。
それだけは確かなんだから。
兄は性格的には野心家ではない。
兄を少しでも知っている人間なら兄をそう思うはずもない。
だけど、行動に向上心が満ちあふれていて、その人となりを知らないならそう思う人間がいてもおかしくなかった。
そうだ、兄は常に上を見ていた。
誰よりも努力して、誰よりも、……昇進したがっていた。
もちろんそれが目的なのではなくて、より良い聖堂騎士となることが「良いことなのだ」と考える価値観の持ち主だった。
いくら敬愛されるオディロ院長がいるからといって、マイエラ修道院は三大聖地の一角だからといって。
他の聖地と比べれば格が落ちるのは言うまでもない。
もちろん兄はマイエラを、そしてマイエラにいる兄弟のこと、そして私のことだってあふれんばかりに愛していたがそれはそれとして愛するものに報いるためにより昇進したがっているように見えた。
兄は五つも年上なので当然ながら、先に聖堂騎士となり、日々の任務をこなし院長が出かける際にはその護衛として完璧に振る舞い、その努力を実らせて。
私が修道院に来る前からストレスで真っ白になっていたという髪は時間をかけてぽつぽつと黒が生えそろい、いつしか強者の風格まで手に入れた兄は眩しかった。
私の目標であり、誇りだった。
たまたまではあるが、黒い髪に緑の目……本物の兄弟にさえ見える容姿。
そう思ってしまえばどことなく顔つきまで似通っているような気がした、兄。
そんな兄が法王のいる権威あるサヴェッラに行ってしまうと。
そのような話を盗み聞いてしまい、私はいても経ってもいられなくなった。
もちろん喜ばしいことなのだけども、寂しかった。
修道院では、かつてのように妾の子と揶揄されることも実力で黙らせることが出来たし、院長も兄も優しい。
院長は言わずもがなだが、兄も尊敬できる人物で……人生においてこんなに順風満帆なことはなかった。
もちろん兄がサヴェッラに引き抜かれるほどの実力者だというのもまた「誇り」ではあったが……まだ、若輩者の私には寂しいという感情の方が上だった。
私は兄を探した。
まだ出発しているはずもないのに、分かっているのに私は珍しく厳格な修道士たちに眉を顰められるほど走り回って、探した。
当たり前のことだが、兄はその辺りの廊下を普通に歩いていたのだが。
「兄さん! 兄さんはサヴェッラに行ってしまわれるのですか?」
「ん? あぁルチェ。もうその話を聞いたのかい」
挨拶もそっちのけで息を切らして兄の前に回り込み、いきなり尋ねた私に気を悪くすることもなく兄は暗に肯定して見せた。
「今日明日で行くわけではないのだけどね。また折を見てきちんと話をしようと思っていたのだけど……可愛い奴め」
「兄さん!」
「悪いねルチェ。でもお前なら院長を任せられる。そしていつか追いかけてきてくれるんだろう?」
「!」
兄は騎士団長にもなれただろうに、ならなかった。
今の騎士団長は年配で、その御鉢はきっと若く実力のある聖堂騎士に回るだろう。
だけど兄が辞したということは。
院長を任せるとは。
そして追いかけてこいということは。
兄には、院長を除いて私以上に信頼出来る人間はいないという証左だろう。
「意地悪ですね兄さん」
「そうかな。ルチェを信頼してなきゃこんなこと言うわけないじゃないか」
「それもそうですね?」
「だろう? あぁ、あと。わたしは結構せっかちに顔を出するつもりだから心配しないでね」
サヴェッラ大聖堂所属の聖堂騎士に早々まとまった休みなんてないと思うのだが、兄は涼しい顔をしていた。
「院長は高齢だし、弟たちは可愛いし、一番の弟はとびっきり可愛いし、そりゃあ、ねぇ? 何があっても突然顔を出すくらいの茶目っ気がなきゃオディロ院長の息子じゃないだろ?」
「確かに」
「いっちょ兄さん頑張っちゃうから。だから任せたよルチェ。弟たちには優しく、時に厳しくな」
「えぇ」
「わたしはルチェの道を切り開くよ。だから、お前は私の分までここで役目を果たし、弟に尊敬される兄になりなさい。院長を護り、教えを広めなさい」
兄が、狂う前の、あるいは死相を浮かべる前の母の顔と被った。
慈しむような微笑み。
兄はもとから過剰ともいえるほど「弟」を愛する人だったが、十六の成人の折からその表情をますます浮かべるようになった。
「かわいいわたしの弟。寂しくなるね」
私は一も二もなく頷いた。
兄となんの軋轢もなく交わした会話は、それが最後だったように思う。