「あれ、あの子、知ってるかい?」
「……いえ。あまり見ない髪色ですね」
「なんだか昔のわたしを彷彿とさせるよね。彼は生まれつき白っぽい頭ならまだいいのだけど。新しい子かな」
別れの日が近かった。
今生の別れではないが、おいそれと兄さんと会えなくなる日が。
だから私はできる限り兄さんと話したかった。
いつも以上に兄さんを慕ってついて歩く姿を、他の見習い修道士たちに揶揄われたか構いやしない。
兄さんはそれを嫌がらず、微笑ましげに見守っていた。
兄さんは頭二つ分以上大きい人だったが、いつだってこちらを怖がらせないようにしてくれ、私と過ごしてくれた。
その日も、剣の稽古を終えた兄さんと一緒に歩いていた。
兄さんは疲れを微塵も感じさせずに私の話を聞いてくれたし、私は兄さんの明るい口調を聞くのが好きだった。
兄さんは変わらず私に「弟たちをまかせた」という趣旨の発言を繰り返していた。
弟たち。
つまり、血の繋がらない不憫な神の子ら。
イフの自分であり、兄さんである修道士見習いたち。
つまるところ、私と同じように外の世界で生きていくことを許されずに最後の頼みの綱に縋っている子らである。
兄さんの関心が他の弟に向くのは癪だったが、兄さんの弟としてそれだけは守り通さなくてはならない約束事だった。
兄さんは自分の出自をよく知らないようだったが、自分のように修道院に来た人間を救ってやりたいと願っていた。
だから今日も、新しい弟を見つけた兄はことさら優しい微笑みを作り、小さな少年に近づいた。
所在なさげに歩いていたその子は兄さんを見ると驚いたように見上げた。
その方向だと兄さんの顔は逆光で見えないはずだが、高身長の男が怖かったのだろうか。
「お、お父様?」
「君は新しい子かい? 荷物はそれだけ? ごめんね、わたしは君のお父様じゃないんだ。でも、君の兄になることは出来るよ」
「……」
少年は荷物をぎゅっと抱きしめたまま緊張を解こうとはしなかった。
知らない大人が怖いのだろう。
兄さんは優しい人だが、騎士として鍛錬に励んだ結果、随分風格がついた。
風格は時に恐怖にも置きかわるのだった。
顔つきも……浮かべた表情はともかく、どちらかといえば目つきも悪い方というか……それは私もだが。
顔の系統も兄さんと似ていて嬉しかったが、時に子どもに怯えられるので兄さんがひそかに気にしていることを知っていた。
兄さんは優しい笑顔を浮かべる練習をしていたので見た目ほど怖い人ではないとすぐ分かるはずなのだが。
とはいえ年上の男に人見知りするというなら兄さんが頑張ってもどうにもならない。
私の方が背も歳の頃も近い。
緊張が解けるまでの間、少しは心を開いてもらえるかと思い、話しかけることにした。
「怖がらなくていい。もう大丈夫だよ。今日から私たちは家族になるんだ。この人は私たちの兄なんだ。もうすぐサヴェッラ大聖堂の騎士になるような人だぞ、すごいだろう」
「こらルチェ。あんまり言いふらすんじゃない」
「はぁい……」
軽いげんこつが飛んできた。
だが怒っている様子はない。
兄さんは少年の前にしゃがみこんだ。
「こいつはマルチェロっていうんだ。わたしはマイエラからすぐにいなくなっちゃうし……そうだ、こいつをルチェ兄さんって呼んでごらん。君の最初の兄さんだ」
「……ルチェ兄さん」
「そう! あぁ感慨深い! 可愛くて小さなルチェが兄さんと呼ばれるなんて!」
「兄さん!」
「いいだろ、ルチェ兄さんだぜ? わたしはお前の『兄さん』だろ、そういうこと。嗚呼兄弟仲が良いのは素晴らしいことだ。兄弟愛こそ良いものなんだよ。二人とも、これから仲良くしなさいね。向こうへ行く前にいい思い出を作れてわたしは嬉しいよ!」
兄さんの大袈裟なまでの喜びようは気にかかるが、数ある兄のひとりとしてこの子を導きなさい、ということなのか。
じゃあいいか。
兄さんのようになれば兄さんは喜ぶのだ。
かつて私が兄さんに救われたように、この少年を救うことで連鎖するのだろう。
「ここに来ると、血が繋がっていなくともみんな家族となるんだよ。兄さんと私のように。そうだ! 君の名前を教えてくれるかな?」
だから、気分を良くして、よく構ってやろうと思っていたんだ。
小さくて、くりくりした目の年下の少年は庇護欲を誘った。
哀れっぽく荷物も少なくて、怯えきっていた。
兄さんの前だし、特にカッコつけて大きくなって頼れる兄さんもやれるんだって見せつけたかった。
手を取って、そのままオディロ院長のところに連れて行ってやろうと思っていた。
だけど。
涙をふいて、差し出した手を握ろうとしたその少年は、初めて口を開いた。
そしてか細い声で、呪詛を吐いた。
「……ククール」
「っ! ククールだと?」
その名前だけは、ダメだ!
一気に脳が冷える。
虫唾が走る。
ひたひたと懐かしくも悍ましい絶望が忍び寄ってきて、背筋を凍らせる。
にっくきククールの手を勢いよく払い除けた。
こいつはこの場所まで奪う気か!
今度はオディロ院長や兄さんまで取ってしまう気なのか!
私はまた追い出されて、大切な人をすべて失い、どん底に突き落とされてしまう!
「どうしたんだルチェ!」
「どうしたもこうしたもありませんよ! 兄さん! 行きましょう、こいつなんてそこらでのたれ死んでしまえばいいんだ!」
「な、何を言っているんだルチェ! この子はたった一人で神の家にやってきた哀れな子羊だぞ! 分け隔てなく院長の愛と神の慈悲が注がれるというのに!」
「だって! だって兄さん! こいつは、私の……弟なんです! 腹違いの、弟なんです! こいつが生まれなければ、私は、私は! 母さんは死ななかっただろうし、ここにも来なかった!」
私の叫びに、兄さんの新緑の瞳がはっと見開かれたことまでは覚えていた。
「ルチェの、弟?」
その、堪えきれないで漏れた、嬉しそうな微笑みも。
私はその笑みの意味も理解出来ないで、理解したくもなくて、なにか酷いことを言った気がする。
いつも兄は、底抜けに無邪気な人だった。
悪気なんていつもない。
少しばかり空気が読めなくて、底なしに明るく、非常に楽観的だ。
正確には悲観的過ぎていっそ楽観的なのだ。
これまでの人生、もう十分辛い目に遭ったのだから、ここからは良いことしか起こりやしないと考えている人間なのだ。
それも自分だけではなく「弟」すべてがそうだと思い込んでいる。
だから、「マルチェロ」がかつてこの地方の領主の息子であり、しかしメイドの子であったから……真の後継ぎが生まれた後に母親ともども捨てられたことを知っていても、それはそれとして考え。
元凶たる「ククール」を見て私の激昂を見ても、ただ「血の繋がった本物の弟を『弟』として迎え入れたら良い」とするだけなのだ。
おそらくは、兄は自分を捨てた親を見ても、その親が新しい子どもをこさえて溺愛していたとしても、子どもの方は恨みやしない。
まったく精神構造が違うのだ。
その後どうやって兄と別れたかなんて覚えていない。
「ククール」は兄の手によってオディロ院長のところまで連れていかれたのだろうし、私の生まれを知っていながら兄は無神経にも「あの弟と仲良くしろ、血を分けているなら尚更だ」と繰り返した。
兄がそんな浅慮な人間だとは知らなかった!
まともに奴と私の確執も知らないで!
そのまま兄にまで失望してしまった私は、見送りの日さえまともに口を利くこともなく別れたのだ。
今生の別れではないが、長い別れとなった。
彼は度々手紙を寄越したが、宥め透かすように血の繋がった弟を大事にしなさいと繰り返すばかりだった。
兄の気持ちを私は知らなかった。
兄は私の気持ちを知っていただろうか?
わからない。
わからないが、わかっていても彼は同じことを言っただろうと思う。
彼は寂しい人だったから。
私のように、母に一時でも愛されたことがなかったのだ。
どうして裕福な領主の息子、それも正妻の息子であるククールが修道院に来たのか。
その理由を語りながら兄が見せた寂しそうな顔だけは忘れられない。
「なぁルチェ。お前はここに来なきゃ、流行病で死んじまったかもしれないのに。なあ、ククールだって両親を失った。お前たちをここまでもてあそんだ酷い父親はもう死んだんだ。なら恨むべきは一人だけだろう? その一人はもういない。全ての神の子は、親を選べないんだぞ?」
兄は、出立の日まで何度も何度も繰り返しそう言い、そして、とうとういなくなった。せいせいしたさ。
あぁ分かっていた。
兄の言う理屈も、客観的な事実も。
兄の言うことはきっと正しいのだろう。
兄の言う通りにした方が倫理的に良い。
ククールが生まれて母が死んだ!
だがククールが生まれたのはあの父親が決めたことだ。
分かっていた。分かっていた、分かっていたが!
正しいだけで人間は納得できないし、正しいならば私は生まれなければ良かったのだ!
兄はやっぱり他人だった。
どこまでいっても血の繋がらぬ、少し容貌が似ているような、確執のない他人だったのだ。