多分、一目惚れ、だったんだと思う。彼女の走りを初めて見た時に目が離せなかった。誰にも頼らず、自分を信じ自分を律し、掲げた目標の為直向きに努力する自信の塊の様な彼女に心を奪われた。
トレセン学園に中途採用が決まった時は自分の耳を疑った。次に夢じゃないかと壁に頭を打ちつけ、痛みで蹲って唸っていたら電話の相手の人に心配されたのを覚えてる。数日後トレセン学園の理事長秘書の駿川さんから連絡がありお話があるとの事で呼ばれ、トレセン学園につくと相変わらずの建物の大きさについ口を開け上を見てしまう。そこへクスクスと笑いながらお疲れ様ですと駿川さんが迎えに来てくれた事に気づき、恥ずかしくなりお疲れ様ですと言って下を向いてしまった。
駿川さんに軽い説明を受けながら理事長室の道すがらコース場を見やるとざっと30人程だろうか、ウマ娘達が併走や筋トレ、兎跳びにクイズ勝負?をしていた。不思議そうに見ているとあそこにいる子達はまだトレーナーさんが決まってない未デビューの娘達なんですとばつが悪そうに駿川さんが説明してくれた。「本来ならトレーナーさんが付いてチームに入り、専用のメニューなどを行うんですけれどそうじゃない娘達はああして学園が調整したカリキュラムに沿って練習を行い、他は自主トレと言った形をとっています」トレーナーがつかない。これは得てしてどのトレーニングセンターでも起こりうる事だ。ましてや国内最高峰と言われるこの日本トレセン学園は一流と呼ばれるトレーナー達が常駐しているが、質を高める事によって起こる量の弊害。詰まるところ在校生に比べて圧倒的にトレーナーが不足しているのが現状だ。それも全て把握しているが故に駿川さんも歯切れが悪くこれ以上詮索されたくないのか行きましょうと歩みを進める後ろで聞こえる芝を蹴る音が耳にひどく残った。
広大な敷地の中心に位置する学生棟の奥にある理事長室に向かう最中にもちらほらとウマ娘達を見かけるがどの娘も見かけない人がいると遠巻きに見ては噂をしているのでまるで見せ物にでもなった気分になる。しばらくしてようやく理事長室に着き、失礼しますと部屋に入ると栗色の腰にまで届きそうな髪を靡かせ、頭に猫、そして
「感謝ッ!今日は突然の呼び出しに応じてもらって申し訳ない!」
バッと広げた『感謝』と書かれた扇子を持つのはこのトレセン学園の理事長の秋川やよいその人だ。部屋に入るや否やソファーに座る様促され、今日呼ばれた理由を話し始めた。今回の中途採用は現在学園の問題となっているトレーナーとウマ娘達のバランスを取るための緊急措置だったらしく少し試験的な物があったらしい。急な事だったのでそもそもの応募も少なく、倍率も通常よりかなり低くなっていた様だ。一通り話終わると採用にするに当たっての契約書及び誓約書へのサインを求められた。ウマ娘達の個人情報並びに学園の情報漏洩を防ぐ為に学園内の社宅に入って貰えないかという事、入らなくても構わないがその場合データ、書類の持ち出しは厳禁、もし持ち出しが発覚した場合は懲戒解雇された後法的措置を行うとの事でかなりセキュリティに力を入れている様子に改めてトレセン学園に畏怖の念を抱く。その後駿川さんに丁寧な補足説明を受けながらその他諸々を確認し終わる頃には夜の帳が下り始めており、随分長居してしまった事を謝罪し行きと同じく駿川さんに出口まで送ってもらう事になり部屋を後する。
帰り道に何か他に質問はないかと聞いてくる駿川さんの気遣いに大丈夫ですと相槌を打ちながら他愛のない会話をしているとナイター設備により煌々と照らされたコース場に1人のウマ娘がいた。ザシザシザシと芝を蹴り上げる音、跳ね上げられる土、遠く離れていてもまるで近くにいる様に聞こえる風切り音、体から吹き上がる蒸気。なんとなしに見えた彼女に何故か目が離せなくなり足を止めた。
穴が開くかの様にじっと見つめる先を見た駿川さんが気づくと彼女について教えてくれた。
エアグルーヴ
母はオークス覇者、その為か彼女は母娘揃ってのオークス優勝を目指しており、トレーニング後の追加に加え早朝練習もこなすかなりストイックなウマ娘。だが彼女は選抜レースや模擬レースで結果が振るわず例に漏れず未だ専属トレーナーが付いていない未デビューでかれこれ一年経つと言う。
「彼女は、エアグルーヴはまだトレーナーがいないんですよね…」彼女から目を離さず自問の様に呟いた僕の言葉に駿川さんは「ええ、まだ」と小さく返す。学園のトレーナー達は目が節穴なのだろうか、あんなに素晴らしく才能溢れるウマ娘が未だにデビューすらできていないなんてどう言う事だ。皆あのシンボリルドルフをみて、知らずに比べてしまっているだろうかと勘繰ってしまう。
胸が高鳴る。不謹慎ながら心の中で幸運だと思ってしまった。彼女が夢を叶える姿がありありと見える。その手助けができるかもしれない自分が本当に幸運だと思った。そして心の底からこう思う。
僕は彼女のトレーナーになりたい
冬の気配がする日々が続き、肺を満たす空気は冷たい。しかしそんな事は気にならない程に緊張をしていたが同時に高揚もしている。
トレーニング場で彼女の姿を見つけ足早に近づき、少しでも好印象を持ってもらおうと張り付けた様に笑顔を作る。
「はじめまして。エアグルーヴさん、だよね?今時間いいかな?」
「そうだが、どなたですか?」
「昨日このトレセン学園に中途採用された新米トレーナー。エアグルーヴさん、突然なんだけど君のトレーナーにならせてくれないか?」
光陰矢の如しとはよく言った物で、僕とエアグルーヴはそれこそ光の様に駆け抜けていった。デビュー戦での7バ身差、初めてのG1での敗北、ホープフルステークス、桜花賞、夢のオークス、秋華賞でのトリプルティアラ、あげればキリがないほどエアグルーヴは輝かしい戦績を積み上げて行きいつしか『女帝』と呼ばれ始める。質実剛健、清廉潔白、生徒達の模範になる様努め学園の生徒会副会長になりエアグルーヴが皆に認められた事がとても嬉しかった。エアグルーヴと二人三脚でこれからも頑張って行けると思うとどんな事も苦ではなかった。
「あぁそうだな。奴はトレーナーというより私のマネージャーが正しいかもしれん。未だに未熟なところが多くて参ってしまうよ」
でも僕はエアグルーヴに認められていなかった。
きゃーきゃーと食堂に響く笑い声とエアグルーヴさんには見合ってないと言う声。聞き間違いではとつい聞き耳を立て様子を伺うも会話はヒートアップしていき気づけば僕の愚痴の言い合いに発展しエアグルーヴも同意する様に相槌を打っている。否定して欲しかった。違うと声をあげて欲しかった。ああ、そうか、そうだったのか。頭から下に向けて流れる血が氷にでもなった様だった。さらさらとした唾液が口内に分泌されごぽりと食道を登ってくる胃の中身を抑え、飲み込み、静かにその場を離れ手洗いへと駆け吐き出した。
何を思い上がってたんだ。
これまでの活躍は全部彼女の力だ。僕はその手助けをほんの少しだけしただけ、そう、そうだ、彼女は何も間違っていない。僕は彼女に相応しくない。けれど彼女から、エアグルーヴからお前は必要ないと言われるまで彼女の横にいたい。女々しいと言われても構わない、僕のエゴだ。みっともなくてもいいそれでも…
フラフラと立ち上がり口を濯ぎ、おぼつかない足取りで自室へと戻り「マネージャーか」と呟く。
まずはこのへらりと笑う癖をやめよう
彼女の横にいても恥ずかしくない様口調も直そう
自分を変えよう
これから彼女のトレーナーを目指そう