さっきまでは青空が広がっていたというのに今は空一面が黒くなっていた。降り注ぐ雨の勢いもそれなりに強い。傘がなければ中々辛い。そんな雨だった。
慌ててカバンから折り畳み傘を取り出し、広げた。
広げるまでの短い間に鞄とコートに雨がしみ込んでしまい、うわ、と思わず声を出した。
周りの人たちも傘を持っていた人は急いで傘を差し、持っていない人は走って、おそらく駅に向かって行った。
流石に多少は濡れてしまうが傘を持っていてよかった。鞄の中には帰ってから使う書類が入っているのだ。濡れてしまうと困る。
教えてくれてありがとう、と雨が降るかもしれないと教えてくれた事務所にいるであろうアイドルに心の中でお礼を言った。
「雨みたいな匂いか」
教えてくれたアイドルが言っていた言葉を思い出す。
確かにそれっぽい、と感じることはあるが見事に当たったなぁと感心した。今日のテレビの天気予報では雨の心配はなかったのだ。
「…なんか買っていこうかな」
お礼、というと素直に受け取らないかもなと思わず口が緩んだ。
どうせだ、皆の分も買って行こう。簡単なものなら大丈夫だろうと、菓子店ではなく帰り道の途中のコンビニに向かった。
コンビニに着くと、見知った顔がいて目が合った。
いつも通り綺麗目な服装にグレーの髪。前髪からわずかに傷パッドが見える。
「霧子」
283プロ所属のアイドル。幽谷霧子がコンビニの入り口に立っていた。雨宿りしているのだろうか、立っているのはコンビニの軒下なのに、雨に降られている様子がどうにも様になっていた。
「お疲れ様。…雨宿り?」
「プロデューサーさん、その…傘を忘れてしまって」
雨宿りしている美少女は絵になる。結華のことも、雨宿りしてるときにスカウトしたものだと勝手に思い出した。
困っている様子の霧子だが、特に服が濡れている様子には見えなかった。最初からコンビニにいたのだろうか。
「レッスンに行こうとしていたら、雨みたいな匂いがして」
「そうか、降る前にコンビニに。俺は傘があったから良かったけど災難だったな」
うちのアイドルたちは、どうにも雨に敏感なようだ。よくわかるな。
「ふふ…さっきまでちょっとだけ困ってましたけど、今はプロデューサーさんに会えましたから。ラッキーかも」
ドキリとする。霧子はたまにこういうことを言う。
平静を装って、いつも通り接した。
「そうか、俺もラッキーだ。ここで会えたから霧子を雨で濡らさずにすんだよ」
差し入れと一緒にビニール傘も買おう。そう霧子に伝える。
「一緒に選んでくれるか、差し入れ」
「はい、けど」
「ん、なんだ?」
霧子はいつもの優し気な微笑みというよりは、どこか悪戯っぽい笑顔で言った。
「傘は、プロデューサーさんのに入れてもらえれば大丈夫です」
「え…いや、それは良いんだけど…帰りとかさ」
「事務所に何本かありますから、買うの、もったいないなって」
「…霧子が、良いなら」
「はい♪」
なんというか、結局押されてしまったような気がしないでもない。アイドルの押しに勝てた試しが最近ないような。
気を取り直してコンビニで霧子と差し入れを選んだ。コンビニスイーツって結構好きだ。最近のはどれも美味しい。
全員分とはいかないが、シュークリームを今回はチョイスした。
雨の中、傘に霧子と二人で入り事務所への帰路に着く。
濡れないようにと、当然身体が触れてしまうくらい近くなるが、出来るだけ何ともないように振舞った。
折り畳み傘というのはそんなに大きくはない。二人で入ろうとすると、近づいていてもやはり少しは濡れてしまう。既に傘からはみ出た右肩に雨がしみ込んできている。霧子はそうならないようにと、出来るだけ悟られないように傘を寄せた。
やはりビニール傘を買った方が良かったと思うが、霧子の表情を見ると嬉しそうに微笑んでいる。まるで雨に濡れることなんて気にならないといった感じだ。だから言い出すことはなかった。
「大丈夫か、霧子。結構肌寒いだろう」
雨の匂いと霧子の匂いがして、少し雨で濡れている彼女を見て、本来肌寒いと思うが身体はちょっと熱かった。
横目で霧子を見ると、頬と耳にかすかに赤みがあって口元は相変わらず微笑みを作っていた。
こちらを見上げる様子に、またドキリとする。
「大丈夫です。…その…実はこうして歩くのちょっと楽しいです」
「…そうか、でもこれ以上雨が強くならないうちにな?」
「はい。雨と一緒に…帰りましょう」
なんでもないように振舞うのが、最近どんどん難しくなってきていると思う。気のせいではないと、そろそろ認めなければならないのか。
霧子の歩くペースに合わせて歩を進める。
トン、トン、と足を鳴らし、ちょっと楽しそうな足取りの霧子を見ると雨に降られるのさえも悪くないかもしれないと思った。
*
事務所に着くと、やはりお互い多少は濡れてしまった。とりあえずタオルで軽く拭こうと事務所のドアを開け中に入ると、今度は赤みが強めの髪色に黒いパーカー姿が目に入る。雨の降る外を窓越しに眺めている。レッスンが終わって休んでいたのだろうか。同じく283プロのアイドル、樋口円香がソファに座って窓の外を見ていて、こちらに気づくと軽く頭を下げた。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
「お疲れ様」
誰かいた事に少し安堵した。差し入れを買っても渡す相手がいないと意味がない。
それと一緒に今日は珍しい組み合わせだなとも思った。霧子と円香、この二人が一緒にいるところをあまり見たことがない。
少し考えていると、濡れているこちらの様子を見て円香が言った。
「雨、降りましたね。…濡れました?」
「ああ、流石にちょっと濡れちゃったな」
「幽谷さんも」
「うん、ちょっとだけ。でもプロデューサーさんのお陰で、あんまり濡れなかったよ」
「プロデューサーの?…まぁいいですけど」
濡れてもニコニコした笑みを浮かべる霧子とは対照的に円香はこっちを向いて少しむすっとしたような、怪訝そうな表情をした。嫉妬とかだったら可愛いものだが残念ながら円香はこれがいつも通りである。
相変わらずの様子に苦笑いしながら、上着を脱ぐ。
脱いだコートを見ると当然濡れている。特に傘からはみ出ていた右肩の部分ががっつりだ。やはり相合傘というのはロマンがあるが実際にやると結構濡れる。乾かさなくては。
「幽谷さん、髪乾かして来たら。濡れたままレッスンは嫌でしょ」
「うん、ちょっと行ってくるね」
霧子は言われた通りこちらにペコリと頭を下げてから洗面台の方へと向かった。
当然アイドルが優先である。霧子が乾かし終わったら使わせてもらおう。
洗面台の方からドライヤーの音が聞こえてくる。
ひとまず自分のデスクに荷物を置こうとすると、上にタオルが置いてあることに気が付いた。
少し驚いて、ちらりと円香の方を見る。円香はスマホを見ていて、こちらを見ようとはしない。
それから事務所を見まわすがやはり、はづきはいない。というより円香以外はいない。
「…」
思わず頬が緩んだ。実は雨が降るかもしれないと教えてくれたのは円香だ。
コートの水気をタオルで拭きながら、ちょっと伏し目がちに買ってきたシュークリームを見る。
素直に受け取らないかも、か。
いつも通り悪態を吐かれながら受け取ってもらおう。そっちの方が良い。
どうせ円香に嘘などすぐバレる。軽く服や荷物を整えて、ソファに近づく。
「円香、これ今日のお礼だ」
スマホから顔を上げて、円香はこちらを向いた。座っているから自然と上目遣いになり、特徴の一つである泣き黒子が相まって妙に色気が出ていた。
差し出したシュークリームを見て、ため息を一つ吐いた。
「降るかもって言っただけで、お礼とかいいですから」
「そう言われると思ったんだけど、実際助かったからさ」
「その正直に言えばいいだろうって感じもあまり好きじゃありません」
「はは、知ってる」
今まで何度も言われたことがある。けどこのやり取りは嫌いじゃなかった。
円香は受け取りながら言った。
「…コンビニのスイーツって結構カロリーあるんですよ」
「え」
「ほら、350kcalもあるじゃないですか。…私、今週雑誌の撮影あるんでしょ」
「ああ、いやほら毎日レッスンしてるし、自主練だってさ」
「それ…言わないで」
「す、すまん。はは…」
嫌いじゃないと思いつつも、中々上手くいかないものだ。みんなにはプロデューサーは何でも出来そうなんて言われたこともあるが、実際はこうして空回りの連続だ。
首に手をやりながら申し訳なさの含んだ、乾いた笑いがでる。
「まあ」
「…」
「嫌いじゃないですけど……シュークリーム」
円香の頬が少しだが緩んだ、ように見えたのと同時に、ドライヤーの音が止んだ。
ハッとすると、円香はいつもの表情に戻っていた。
*
昨日とは違い良く晴れていて、気分良く外回りを終えられた日だった。抱えていた仕事も順調に進み、今日の天気と同じような晴れやかな気持ちで事務所でデスクに着いていた。
事務所の中には自分以外に、霧子と円香が会話をしていた。また昨日に引き続き珍しい組み合わせの二人だ。
二人の時はどんな会話をするのだろうか、正直想像がつかなかった。
内容は円香がたまになら植物に水くらいやる、等が聞こえてきた。なるほど、確かに円香は好きか嫌いかに関わらず、任せっぱなしにするのはあまり好みではないだろう。
「ふふ…あげちゃいけない人は…いないよ」
微笑みながら霧子が返した。
本当に良い娘だ。こんなに心の綺麗な子いる?
なのにこちらを見る時たまに悪戯っぽくなるのがズルい。摩美々に影響されたのか。
霧子から水差しを受け取った円香も普段より表情が柔らかいように見える。
二人で事務所に飾ってある花や葉たちに水をあげている様子は私服なのにも関わらず雑誌の1ページみたいだなと思った。
つい見ていたのが悪かったのか、円香がむすっとした顔でこちらを向いた。
「なに笑って見てるの、頭の中に咲いてる花にも水掛けられたいんですか」
「勘弁してくれ、微笑ましいなって思ってただけなんだ」
「水をやるたびにそんな顔されたんじゃ気が散るんですが」
「悪かったって、俺もこっちに集中するよ」
その様子を霧子は微笑ましそうに見ていて、クスクスと軽く聞こえた。その様子に頭をワザとらしく掻いて、円香はそっぽを向いた。
悪かったよ、と内心思い、それにしてもやっぱり良い気分だなと感じていた。
植物に水をやるのを円香に任せ、霧子はキッチンへと向かって行った。数分経つと、おそらく三人分お茶とお菓子を持って戻ってきた。
事務所に置いてある茶葉は以前仕事先から貰ったもので中々値が張る良い品だ。お茶に関しては素人だが、良い匂いが漂っているのが分かった。
「円香ちゃん、終わったら休憩にしよ? プロデューサーさんも」
「…どうも」
「おお、ありがとうな! たまにはお茶もいいな」
もっぱらコーヒーしか飲まないため、たまに誤解されるのだがお茶だって好きだ。嫌いな人はほとんどいないと思うけど。
「その人には水でいいのに」
「おいおい」
「コーヒー飲みすぎなんですよ」
「あー、それは…心配かけてすまん」
「…別に。でも普段飲んでるものがコーヒーか栄養ドリンクしかないのは、どうなんですか」
それに関しては心配してくれてありがとうと、ごめんの両方が出てしまう。実際飲みすぎなのかもしれないと、たまにだが思うことがないわけではない。
「せっかく心配してもらったんだ、少し控えることにするよ」
「そうですか、期待しています」
「円香ちゃん…優しいね」
その様子にまた霧子が少し微笑み、円香は特に表情を変えなかった。
悪態にも似た気遣いを貰いながら、やっぱり悪くない気分でお茶に口を付けた。
ちょっと苦くて美味しかった。
*
いや、申し訳ありません、という他ない現象が起きている。
昨日コーヒーを少しは控えるといった手前、朝の目覚めの一杯しかコーヒーは飲んでいない。
ちらりと事務所の時計を見ると18時になりそうな頃だ。そろそろ仕事に行ったアイドルたちの何人かは帰ってくる時間だ。
なんというか、飲みたい。口が寂しい。
禁煙でも禁酒でもないというのに、情けないと内心考えていた。
集中しきれずに、何となく背伸びをしながら事務所をボーっと眺めると、昨日水を貰っていた植物たちが目に入る。
水を貰った花や植物たちは、貰う前より茎と葉を真っ直ぐにピンと伸ばしていた。今の自分とは対照的だな、なんて考え、立ち上がって窓際に近づいた。
間近で花や植物の様子を見ていると、気張れと言われているような気がしないでもなかった。
流石プロデューサー。我ながらロマンチックだなぁと考えながら、気分を入れ替えようと窓を開けた。
「…あれ」
窓を開けると、日が長くなり、まだ明るめの空は晴れてはいるのだが一昨日に嗅いだような匂いがしているのに気が付いた。
雨の匂いだと思った。
雨の中、外に出たのは別に濡れたかったというわけではない。
ただ何となく、ソワソワしてしまったとしか言えない。休憩がてら昨日も入ったコンビニへと足を運んだ。見知った誰かがいるなんて保証はないというのに。
周りを見ると以前と同じだった。傘を持っていた人は差しているが、突然の雨に駅なのか、どこなのか当然知らないが各々の行くべき場所へと走っている人たちがいた。
既に水たまりも出来始めていて、歩きやすいとはまったく言えない。車が走ると車道の水たまりの水が歩道まで跳ねる所も出来ているようだ。
なんで空は晴天だと思ったら突然曇ったり雨が降ったりするのか、色々原理やら理屈があるんだろうが不思議だなと思った。
まあいいか、詳しいことなんて知らなくても。雨だが昨日ほど強い雨ではない。気分転換ということで、と誰に言うでもなく内心呟いた。
「あ…」
「…なんですか」
昨日と霧子と同じく、同じコンビニで雨宿りをしている様子の円香がビニール袋を手に引っ掛けて立っていた。
なんかいつも雨宿りに使われているな、このコンビニ。
「いや、休憩でコンビニにな。円香は…」
「見てわかりませんか、急に降ってくるから」
「そんなに濡れてないみたいで良かったよ」
先日と全く同じシチュエーションだな。こんな事なら予備の傘を持って出てくるんだった。
「コーヒーと一緒に傘も買ってくるよ」
「要りませんよ、コーヒーも傘も」
「え?」
「傘は貴方のに入れて下さい。あと、コーヒーは買わないで」
「え、でもさ」
「事務所も近いのにわざわざ買うことないでしょ。相合傘で恥ずかしがる歳ですか?」
おっしゃる通りで。でも一応ね、君ら見たいな美人や美少女と相合傘なんてやると多分誰でもちょっと緊張するもんだよ、と当然口には出さずに思った。
結局コンビニでは何も買わずに、帰路へと着いた。コーヒーを買えなかったのは残念だが、円香が濡れずに済んだので、結果オーライだろう。
歩き出そうと思ったら、雨がもっと近寄んなさいと言わんばかりに勢いを増した。勘弁してくれ。
傘に一緒に入っているために、いつもよりずっと近くにいる円香がこちらを向いた。泣き黒子に涙の代わりに滴った雨が流れて、妙に色っぽい。
うん、やはり緊張する。
「それと、これは一応お礼です」
円香は持っていたビニール袋からコンビニで買ったであろう缶コーヒーを出した。
「え」
「今日はあまり飲んでないんでしょ、だから買わないで良いって言ったんです」
「あ、ありがとう。でもいいのか」
「……」
円香は少し考え込むように下を向いた後に、なんでもないように顔を上げた。
「…私も水くらいやりますよ」
「…はは」
それなら仕方ない。あげちゃいけない人はいないのだから。
そういえばこのコーヒーはお礼だと言われたが、円香は俺が来ると思ったのだろうか。それとも差し入れのつもりで買った?これまたそういえば、霧子も事務所からそれほど離れていないコンビニなのに雨宿りしていたっけ。
まあ、あの時は雨も強めだったし。
「どっちでも良いか」
「なにが」
「いや…なんでもないよ」
ちょっとぶるっと震えた。やはり雨で肌寒いな。
受け取った缶コーヒーが温くなる前に口に含み、身体を温めた。
横目で見る円香は少し微笑んでるような気がした。