辺りが暗くなってきた。時計を横目で見ると18時をちょっと過ぎるくらい。事務所でマニキュアを持ち、目の前の人物に向き直る。とりあえず人差し指から塗り始めた。
手をこちらに差し出し、爪を塗られているのは、283プロ所属のアイドル、浅倉透である。
慎重に透の手を取り薄青い色のマニキュアを人差し指の爪に塗った。
何故こんなことになっているか。それは透との会話の流れで美容品の話題になった。透から美容品の話題が出るとは、すこし驚きである。失礼だろうか。
アイドル達の話題は美容系も多いため自然と覚える。自分は男性であまり縁はないが女性の多い職場であるため知識や流行など多少は頭に入っている。
そうしたら、いつの間にか透がカバンからマニキュアを取り出して、こちらに差し出してきた。当然クエスチョンが頭に浮かんだが、気づけば自分はマニキュアを持って透は手を差し出していた。
遊びのつもり。構ってほしい。理由としてはそんなところだろう。透はたまに想定外というか、突拍子のないことをしたりする。
それをちゃんと把握できていないのが、プロデューサーとして悔しいところだ。
しかし、そういった行動を透がとると妙に魅力的に見えてしまい、嫌いじゃないのが、大分やられている証拠だろう。
マニキュアを塗るために透の手に触れているからか、熱くなりいつのまにか汗が滲んできたような気がする。
こちらを見る透の表情はどこか満足気で口元が緩んでいた。いつも通り綺麗で可愛らしいと思った。顔が良い。
いつも透がしている薄青いマニキュア。頬の色が塗っている爪とは反対の色になりそうだ。
人差し指の爪をようやく塗り終えて、疲れたようにこぼした。
「…疲れたぁ。難しいなこれは…」
「ふふ、そうでしょ。結構難しいんだ」
「透の爪はいつもちゃんとしてるな。自分で?」
「雛菜ちゃんが」
「なるほど、納得した」
アイドルから教えられる事や活動に関わることなら積極的に知ろうとするべきだと思う。
今はマニキュアの事も知ろうとしているが、当然スタイリストさんに代わって、等は考えていない。あくまでプロデューサーとしての仕事の範疇であると思っているし、透についてもっと知りたいという思いもあるからだ。あくまでプロデューサーとしてである。
それを逆手に取られてイタズラされたりもするが、それも子供らしいところもあって可愛らしいと思う。
「なんかさ、意外かも」
「なにがだ?」
「勝手にだけど、プロデューサーってなんでもできそうなんて思ってた」
「はは、いいや。できることの方が少ないよ」
だから毎回頑張るのだが空回りの方が断然多い。もしなんでもできそうに見えているのなら、そう振舞っているからだ。それだって見透かされるときの方が多いが。
外の扉が開く音が聞こえて、顔をそちらに向ける。
透の手を握ったままだったので、離そうとすると一瞬抵抗があったが、すぐに離れた。
離れたすぐ後にドアがガチャッと音を立てた。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です」
そちらに目を向けると、間延びした口調で同じくアイドルの田中摩美々が入ってきた。透が先に彼女に向けて労いの言葉を言い、同様に労いの言葉をかけた。
「お疲れ、摩美々。今日は一人の現場だったけど、大丈夫だったか?」
「さあ、どうですかねぇ……なにかあったかもです」
摩美々は手で自分のツインテールをモフモフといじりながら笑顔で返した。
その返しに安心した。
摩美々がこういう笑いを浮かべる時は問題無しだ。一日現場に出た疲労が少し見られたが、会話になると笑みがあった。
「なにもなかったようで何よりだ。最近は中々ついてやれなくて悪いな」
「…ですねぇ、最近は一人でこなすことに慣れてきちゃいましたよぉ」
「いや、すまん。…明日の仕事は付いていけそうだから」
摩美々はいつもの悪戯っぽい表情で口角が上がった口元を手で隠す仕草をした。
透は摩美々にお疲れ様と掛けてからは、話に入ることもなく自分と摩美々の会話を聞いているようだった。
二人は同じ事務所の一員として、最低限のコミュニケーションを取っているが特段親しいと感じる接し方はしていない。
まだ出会ってから日が浅いし、ユニットも別なので関わる機会も多くないから仕方ないのだが。
しかし今後の事を考えるならば良好な関係になっていて損することはないと、良いきっかけは何かないか考えた。
「二人は何してたんですか?」
「透にマニキュア塗ってたんだ。難しいなこれは」
「塗ってもらってた」
「…へぇー、じゃあ代わりに摩美々がやりましょうか?結構得意なんですよー」
そう思っていると、都合の良いことに摩美々が提案した。
「おっ、そうか?摩美々はお洒落だからな。じゃあ…」
「ううん、プロデューサーにしてほしい」
「えっ?いや透、摩美々の方が上手に塗ってくれるぞ」
「うん、そう思うけど、プロデューサーが良い。…だめ?」
「俺はいいけど」
良いきっかけと思ったが、一瞬で終わってしまった。こういう断り方をされると良い気分にはならないだろうと摩美々を見る。
「大丈夫ですよぉ。出しゃばりましたー。灯りがついてたのでちょっと寄ってみただけですから、摩美々はこれくらいで帰りますねー」
流石に笑顔は浮かんでいなかったが、それほど気分を害したようには見えなかったのでホッとした。
こちらにお疲れ様、と言うと摩美々はスッと猫みたいにアッサリと事務所から出て行った。
再び透と二人になると、不意に透はプロデューサーの手を取った。
「次、プロデューサーの番ね」
「え?」
これまた再びのクエスチョンだ。
呆ける彼を横目に透はマニキュアを取った。
「今度は私が塗ったげる」
「い、いやいや俺は遠慮するよ。男だしさ」
「いいじゃん、お揃いで。それに今日はプロデューサーも帰るだけでしょ」
「そ、それはそうだけど」
「手袋あるでしょ?まだ寒いもんね。…帰ったら落としていいからさ」
そこまで言われて大人しくマニキュアを付けることを受け入れた。
塗られている時と同じように満足そうな表情になった透は同じ色を彼の親指の爪から付けていった。
「あ、そういえば」
「なに?」
「さっきみたいな断り方はあまり良くないぞ、摩美々から歩み寄ってきてくれたのに」
「ああ、それは…ごめん。けど、私も久しぶりだったから」
「久しぶり?」
「プロデューサーが一緒なのが…」
「それは…」
そう言われたら弱い。事実だからだ。
「今度謝るよ」
「うん、ごめんな」
「ふふ、なんでプロデューサーが謝んの」
「たしかにな…っ、はは!くすぐったいって」
指先がこそばゆい。
それに思わず笑って、それを見た透も可笑しそうに笑った。
ひとしきり笑った後、気付けば彩られていないのは左手の小指だけとなっていた。
「はい、じゃあ仕上げね」
最後に小指の爪を塗り終えて、やっと手が解放された。見れば見事に左手の全部の爪が透と同じ色になっていた。
自分がした時よりも上手い。ムラがないというやつか。
「透も上手いじゃないか」
「気合い、いれたから」
「はは、なんだそれ」
「ふふ、じゃあ乾くまで一緒に待とうよ。そしたら帰ろ」
「ああ、そうしようか」
「プロデューサー綺麗になったね」
「透がやったんだろ」
また二人で笑い合って、爪が乾くのを待った。
*
次の日は予定通り、摩美々の仕事に付いていた。
しかし、仕事は本当にアッサリ終わってしまった。
ラジオ収録だったが、摩美々は慣れたようにスタジオ入りし本番も特に問題なくこなしている。
パーソナリティの会話にテンポ良く乗っている。パーソナリティが上手いのももちろんあるが、摩美々もこんなにラジオが上手だっただろうか。
付いてきたは良いものの、これでは自分がいなくても同じだったのではないか。ここに来てから関係者に挨拶しかしてないぞ、と一人でも問題なくなった摩美々の成長を喜びつつも、どこか寂しい気分だった。
他の皆もそうなのだろうか。プロデューサーは自分一人。こなせることにも限界があると皆は自分でできることは自分で責任をもってやるようになった。置いていかれないようにしなくては。
「…まいった。もっと頑張りたくなっちゃうなぁ」
「これ以上まだ頑張るんですかー?…本当に際限なく頑張ろうとするんですねー、プロデューサーは」
気づけば収録が終わり、ブースから出てきた摩美々が隣にいた。
「いや、すごいな摩美々。本当に一人でも問題ない。正直驚いてたんだ」
「…ふふー、本気出せばこんなもんですよ」
摩美々はいつものようにツインテールをいじって笑顔で返した。
たまにだが、摩美々は悪戯っぽい笑顔でなくて、とても優しそうな表情で笑うことがある。
ああ、本当に嬉しいんだろうなと見ていて思うくらい良い笑顔を。
今、そういう顔をしていた。
ラジオ収録じゃなくて雑誌の撮影の仕事を取ってくればよかったかもと、つい考えてしまった。流石に関係者に失礼か。
ひとしきり褒めて、帰り支度をしようと一緒に楽屋に戻ろうとすると、摩美々が何かに気づいたように言った。
「プロデューサー」
「ん、どうした?」
「いえ、ちょっと手を見せてください」
「え?」
摩美々が手を取ってから、気づいた。
昨日、透に塗られたマニキュアが落ち切っていなかった。
まだ薬指の先に薄青いところが残っている。
「ありゃ、まだ落ちてなかったか」
「…ちゃんと落とさないと駄目じゃないですか。…スタッフさんに見られちゃいますからー」
「それは、あんまり好ましくないな」
身だしなみはキチンとするべきだ。小さい部分でも指先などの先端には人の視線はつい行ってしまう。
「摩美々が落としてあげますよー、道具も持ってるんでー」
「…そうだな、事務所に戻ったら貸してくれるか」
色を取ろうとしているのか、摩美々は自分の爪でカリカリとひっかいていた。
手を離そうとすると一瞬抵抗があったが、すぐに摩美々は手を離した。
「…早く、帰りましょー。戻ったら来週の仕事の打ち合わせもするんですよねー?」
「ああ、そうだな。帰ろうか。…摩美々」
「はいー?」
「お疲れ、良い仕事だった。次も楽しみだよ」
「……ふふー、じゃあまた一緒に来なきゃダメですねー」
*
事務所に戻ってからは、摩美々から道具を借りて改めてマニキュアを落とす。除光液という物らしい。初めて知った。なくてもよく洗えば落ちるらしいが、使った方が当然落ちは良い。
その後は予定していた打ち合わせを行っていた。時折茶化してきたが、構うとクスクスと笑う顔が絵になるのでつい構いたくなる。まあ、あっちが上手で乗せられることも多いのだが。
しかし、一本仕事を終えたのもあって、少し気が抜けるくらいは許したいがダラダラとやるのも時間がもったいない。
「摩美々、そろそろ進めるぞ」
「えー、もうお終いですか」
こういう様子は本当に猫のようだ。もっと構えと言わんばかりに自分の髪をモフモフしている。
「打ち合わせが終わったら摩美々は上がりでいいけど、俺はまだやることがあるからなぁ」
「二人なのは久しぶりだったんですけどねー」
「…ああ、ごめんな」
「…ふふー、冗談ですよ。そろそろやりますかー」
ソファで寛いでいた摩美々が立ち上がりながら言う。
「真面目にやりますねー。その前に飲み物持ってきます。プロデューサーはコーヒーでいいですかー?」
摩美々はこちらの答えを聞かずにキッチンへと行ってしまった。
数分で戻ってくると、二つカップを持って戻ってくる。
いつも俺が使っているカップを摩美々は自分の方へ置き、自分用のカップをこちらの方へ置いた。自分の前に置かれたのはコーヒーで、摩美々のはココアだった。
「間違って逆に淹れちゃいましたー、淹れ直します?」
「いや、もったいないし飲むよ。摩美々こそいいのか?」
「そこまで潔癖じゃないのでー、使ったら普通に洗えば良いじゃないですかー」
その意見に同意しながら、カップを口元に持って行く。
しかし、いざ口を付けようとすると一瞬ためらってしまいそうになるが、そうしているとまたからかわれてしまうだろう。
少し冷ましながら、今度こそ口を付けた。
摩美々を見ると、自分と同じように口元に持って行ったまま、飲んではいなかった。
「…摩美々、飲まないのか」
「…いえ、冷ましているだけですよー」
なんでもないように摩美々も口を付けた。
いつも自分が使っているカップに紫の口紅が付いているのを見ると、妙な気分になった。
打ち合わせが終わると、摩美々が帰り支度をしていた。スマホを見ると15時。予定より早く済んでいる。この分なら、他の仕事にも今日中に手を付けられるかもしれない。
打ち合わせに使った書類やノートパソコンを片付けながら思った。
摩美々を見ると支度が済んだようだった。
「お疲れ、早く終わって良かったな」
「…そうですねー、早く終わりすぎかもですー」
「はは、そういう日もあるさ。じゃあ、俺はまだ残って仕事だから」
「プロデューサー、もう少し…」
摩美々が何か言いかけた時に、外の扉の開く音がした。
そちらに目をやると、少ししてからガチャリと事務所内の扉が開いた。
「お疲れ様でーす」
「おっ、透。お疲れ、今日はどうしたんだ」
「ちょっと忘れ物して」
「そうだったか、忘れ物しないようにって言っただろ?次から気をつけてな」
「うん、ごめん」
と言いつつ、あまり反省してなさそうだ。こういう所を見ると、まだ仕事を一人で任せるのは早いかと思う。
「…じゃあ、摩美々は帰りますねー」
「あ、ちょっと待ってもらってもいいかな」
帰ろうとする摩美々を透が呼び止めた。
「どうかしたー?」
「うん。私さ、昨日ダメな言い方したから。ごめん」
「…?」
「塗ってあげるって言ってくれたのに断ったから」
その言葉に妙に感動してしまった。まさか透がそんな事を言うとは。
確かに昨日注意したが。
先程の反省してなさそうは撤回しよう。きっと自分がわからないだけで、透はちゃんと考えるのだと。
「別に気にしてないし」
「うん、良かった。それで折角会ったし、お願いしていいかなって」
「え?」
「マニキュア、塗ってくれるかな」
「…いいよー」
その光景に安心した。何か言うまでもなく、皆は皆で良い関係を築いていくのだろう。
心配していたが、その必要はあまりないかもしれない。
「じゃあ、ちょっと待っててくれる。喉渇いたから……二人は何か飲む?」
「いや、俺も摩美々もさっき飲んだばかりだから」
「ん、じゃあちょっと待ってて」
透はそう言ってキッチンへ向かった。
その後、自分たちのカップも片付けてしまおうかと思い、摩美々の分も持って椅子から立ち上がる。
「摩美々、透とは上手くやれそうか?」
「まあ、ある意味って感じですかねー」
「そうか、なら良いんだ」
キッチンに入ると、透がインスタントコーヒーをカップに淹れているところだった。
こっちに気づくと不思議そうにした。
「やっぱ、いる?」
「いや、片付けに来ただけだよ」
「そっか。…それ、プロデューサーのカップじゃない?」
「え、そうだけど」
「…プロデューサーのカップに紫が付いてるなって」
別に悪いことはしていないはずなのに言われて何故かちょっぴりゾクッとした。
「ああ、間違って逆に淹れちゃったみたいで」
「…そうなんだ。…じゃあ洗うから置いてていいよ」
「え、いいのか?」
「いいよ、置いといて」
特に疑問に思うこともなく、シンクに置きキッチンを出る。
妙に圧があったような気がしたが、理由はよくわからなかった。
*
透は戻って来てから一息つくと摩美々にマニキュアを塗られていた。色は透のリクエストで摩美々がいつもしている紫だった。
二人の様子をデスクに座り仕事をしながら、ちょくちょく見ていた。
絵になる。
しかし、透の爪が紫になるのを見ると似合っているのだが、正直イメージと違うなと思った。
摩美々もそう思ったのか、軽く唸りながら言った。
「うーん、似合わないねー」
「ひど」
「イメージじゃないって感じー」
「うーん、紫。…プロデューサーにも合わなそう」
「摩美々もそう思いますねー」
「え?」
「…似合わないから、似合ったら面白いじゃないんですかー」
「…面白いかな」
「じゃあ試して見ましょー」
それは、こちらがえ?なんだが。同じ事務所の中にいるから内容が全て聞こえる。
二人に目をやると、こちらにそれぞれの色を持ってやってくる。
こういう時は大体断れない。
「プロデューサー、手を貸して下さい」
「…なにか困り事か?」
「ううん、物理的に貸して」
「まてまて、仕事中だ」
「大丈夫ですよー、道具もあるからすぐに落とせますからー」
誤魔化し、効かず。今日は他の件にも手を付けられるかと思ったが、無理だなと内心ため息をついた。
「私が左手」
「昨日、左手塗ってたでしょー?だから今日は摩美々が貰いますね」
結局の所許可はだしていないが、透は少し不満そうに右手を、摩美々は少し嬉しそうに左手を取った。
どういう状況だろう。アイドル二人が自分の手を取っている。当然近い。握手会より近いのだが。
塗り終わり、両手が彩られる頃にはグッタリとしてしまった。
よくわからない緊張感で息苦しささえ感じたのだ。アイドル二人の圧というのは中々効く。
「出来たね、やっぱりこっちの方が好き」
「ですねー、けどプロデューサーに紫が付いてても違和感なくなってきてませんかー」
色々言ってるが、この息苦しさに耐えたことをまず初めに褒めてほしいくらいだ。
「ふぅ、二人とも満足したろ。今日は終わりな。こっちは手に色は付いたが仕事に手は付いてないんだ」
「…プロデューサー、なんか親父っぽいね」
「あと、あんまり上手くないですよ。付けたのも手じゃなくて爪ですしー」
ほっといてくれ。今は茶化すことでこの場を濁せたらそれで良しなのだ。素直に物を片づけはじめる二人にホッとする。
多分二人も今日はこれくらいと察したのだと思う。
まったく参った。
茶化さないとやばいとか。ホントやばいな。
気づかれなかったがこっちは熱でも出たかと思う程、身体と頭が熱くなった。
あれでまだ高校生なのだから、勘弁してほしい。今より大人になったら正直いつか瓦解するかもしれない。
この考えが頭をよぎる時点で、自分も相当やばいなと思った。
両手の爪が綺麗に彩られているのを見る。
右も左も薬指だけ濃く塗られているような気がしたが、多分気のせいだろう。