トロンベが日本の地に降り立ったのはドイチェスダービーを終えた、しばらくしての事だった。
空港を出た彼女は空を見上げる。晴れ、そして微風。天気予報では曇りと聞いていたので、これで問題はすべてクリアした。
荷物はバッグ一つと、とある物品だけ。後は何もない。
「トロンベ様」
老執事がトロンベへ声をかける。
彼こそは長年トロンベの育ての親に仕えし忠臣である。トロンベ自身、彼には幾度も世話になっている。
老執事に促され、彼女はとある場所へと向かう。
その間、初めての日本に思いを馳せる。
――ここがカトライア様の生まれた地。
良く彼女は言っていた。“日本は素晴らしいところよ”と。そして、“いつか貴方を、私が生まれた場所に連れていきたいわ”とも。
トロンベはドイツを出る気はなかった。彼女はそこで生まれ、そこで力尽きるまで走り続けるつもりだった。
だが、カトライアが懐かしみ嬉しそうに話すのを見ている内に興味が湧いたのだ。
故に彼女は彼女自身の目標であったドイチェスダービーを制覇したら、次はカトライアが言っていた日本に行こうと決めていた。
右を見ても、左を見ても、視界に入るものが物珍しい。肌を撫でる風も、鼻孔に広がる空気の匂いも、耳に入る人々の息遣い、そのどれもが。
トロンベは少しばかりの寂しさを感じ、ついこんな事を呟いていた。
「カトライア様の意思は固かったな」
「旦那様のお帰りをお待ちする――そう仰っていましたね」
カトライアと、そして彼女の夫であるエルザムと一緒に日本の地を踏むつもりだった。だが、エルザムを取り巻く環境がそれを許さなかった。
――ブランシュタイン家。
ドイツでも名のある名家の次期当主として、彼は常に世界を飛び回っている。
そんな彼の帰る場所となるべく、カトライアはドイツに残ることを決めていた。
これは最初から、そしてドイチェスダービーを優勝した後、改めて聞いても同じ答えだった。
トロンべ自身、理解していた。
エルザムは常に大局を見据えて行動している。
だからこそ、カトライアの内心を考えるとまるで全身を針で刺されたような、そんな気持ちになってしまう。
(理解しているとも。エルザム様のお気持ちも、カトライア様のお気持ちも。だから、これ以上は求められない)
ドイチェスダービーを制覇した時、エルザムはいなかった。
そこに寂しさがないと言えば、嘘になる。だが、エルザムとカトライアの二人に“その瞬間”を見て欲しかった。
「……いかんな。母国を離れて、センチメンタルになっているのか」
「トロンベ様もカトライア様と同じく、エルザム様のお帰りを常にお待ちしていた者。お気持ち、お察しいたします」
「む……もしや私は心の中を口に出していたのだろうか?」
決して何も言ってはいないはずなのに、老執事は柔らかな笑みを浮かべていた。
それもそのはず。この老執事にとって、これは当たり前の推測。超能力だとかそういうものではなく、トロンベが幼少の頃から世話をしていた者の当然のことなのだ。
トロンベの質問に老執事はこう返した。
「妖精が私に耳打ちをしてくれましたので」
「フッ、ならば後で贈り物を用意しなければな」
目的地に辿り着くと、トロンベはすぐにそれが目に入った。
彼女がバッグの他に持ち込みたかった物品はカゴ付きの自転車――いわゆるママチャリであった。黒と赤と金で塗装され直し、各所の部品にはいくつもの修繕やメンテナンスの痕跡が見て取れる。
配色を除けば、どこにでもあるシティサイクルであった。その辺の店へ行けば、すぐに手に入るようなシンプルなデザイン。
それをトロンベは愛おしそうに撫でた。
「先に現地入りし、このアウセンザイター号を持ってきてくれて感謝する。これで私はこの日本で心置きなく走る事ができるだろう」
「それは僥倖。これにて私の役目は完遂しました。あとはトロンベ様のこれからのご活躍を陰ながら応援することにいたします」
サドルに跨り、ハンドルを握るトロンベ。その姿はさながら極めて近く、限りなく遠い世界に存在する生物の背に乗る一人の貴族のように見えた。
「行くぞアウセンザイター号。日本でも私と共に駆け抜けよ!」
新天地を目指し、黒い竜巻はペダルを漕ぐ両脚に力を込めた。
◆ ◆ ◆
『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』――通称、“トレセン学園”。
全国のウマ娘達のトレーニング施設の中でも最大規模の施設。そこではトゥインクル・シリーズでの活躍を目標に競い合う、全国津々浦々に存在する実力者達が集いし魔境中の魔境。
ここには弱いウマ娘はいない。絶対に何か一つは頂点を目指しうる刃を持っている。
そして、それはトロンベにももちろん適用される事実なわけで。
「ここか。ふむ、大きいな」
空港からそう長くない時間。日本の風を感じているうちにいつの間にか辿り着いていたトロンベの目的地。
ここがトロンベの新天地。
周りを見ると、見慣れない顔がやってきたためか、視線を向けられ続けている。
常に大衆の目に晒されてきた彼女にとって、そこはさして気にならなかった。
どこに行けば良いのか分からず、とりあえず中に入ろうとすると、遠くから女性が手を振りながら近づいてきた。
「初めまして! 貴方がトロンベさんですね」
「貴方は?」
「私はこのトレセン学園の理事長秘書『
そう言って、たづなはニコニコと笑顔を浮かべた。
何かが始まろうとするのは常に唐突。
彼女と話す内にトロンベはふと、そんな事を思っていた。
今がその時なのだ。
駆け抜ける黒い竜巻がこれから様々なウマ娘達に出会い、振り回されるというのはまだ、誰も知らない。
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