もしも、すべてが変わらないのなら。
それはどんなに、素敵なことだろう。
「ちーちゃん、すごいね! お魚さんがいっぱい!」
ずっと、この日々が続くなら。
それはどんなに、幸せなことだろう。
「そうね。本当に、綺麗。」
きっとあの頃の私は、まだ、自分が人生の主役なんだと思っていた。
私の周りにあるものはどれもキラキラと輝いていて、それら全てが私を楽しませてくれる。
本気で、そう思っていた。
「あっちにもあるよ! ……えっと、」
だからあの日も、私はちーちゃんに甘えていて。
生まれて初めて訪れた水族館は、本当に幻想的だった。
「ぜつめつきぐしゅ。
お外だと、死んじゃうかもしれないお魚さんね。」
私があちこち駆け回り、その後をちーちゃんがゆっくりと歩いていく。
それがなんだか嬉しくて。
知らないものを見つけては、ちーちゃんに聞いていた。
「この子、しんじゃうの?」
夢を見るときは、いつだって水族館から始まる。
動き出したジェットコースターが、ゆっくりと高度を増していくように。
叩き落される衝撃を、より大きくするために。
「この中にいれば大丈夫。
ここではみんなが、守ってくれるから。」
ここにいれば安全。
ここにいれば傷つかない。
平穏に、安寧に、水の中を揺蕩っていられる。
「へー……。
じゃあここは──」
この先、何を言ったのかを、まだ私は思い出せないでいる。
「──ちー、ちゃん……?」
夢を見るときはいつだって、ここで終わりが始まるからだ。
「なぁに? ちーちゃん。」
私の目を見て微笑んだままのちーちゃんの足元に、ゆっくりと炎が立ち上っていく。
最初は、マッチの火よりも小さく。それがだんだん大きくなって。
呆気にとられている間に、どんどん手遅れになっていく。
「火が! 燃えちゃうよ! 」
ジリリリリリリリ。
館内の火災報知器が、けたたましい警報音を発する。
ジリリリリリリリ。
「だいじょうぶ。君は生きるよ。」
ジリリリリリリリ。
その音に遮られて、ちーちゃんの声が聞こえない。
ジリリリリリリリ。
音のひとつひとつは鋭い針になって、私の頭に突き刺さっていく。
ジリリリリリリリ。
耐えきれなくなった私はしゃがみ込み、両手で頭を押さえつける。
ジリリリリリリリ。
音が発せられるたびに、思い切りこめかみを殴られたような感覚。
ジリリリリリリリ。
綺麗な青で彩られていた館内は、危険を示す赤のランプで覆いつくされる。
ジリリリリリリリ。
すべてが、ぬりつぶされていく。
ジリリリリリリリ。
ジリリリリリリリ。
ジリリリリリリリ。
ジリリリリリリリ……
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。
私を刺し殺さんとする非常ベルは、いつからか朝を告げる時計のアラームに変わり。
水中でするように恐る恐る目を開けると、暖かな日差しが包み込んだ。
揺れるカーテン。さえずる小鳥。目覚めたばかりの木々のにおい。
お嬢さまのお屋敷。私の部屋。
「はぁ……。」
ため息をひとつ。目覚まし時計を軽く叩き、アラームを止める。
いつも通りの朝だった。
汗でびっしょりと濡れてしまった、お嬢さまから貰ったパジャマを脱ぎ、いつもの服をクローゼットから取り出す。
着替えながら、これからの仕事をリストアップする。
お召し物を準備して。
軽い朝食の支度をして。
それから今日は……
「レッスン、だったか。」
頭の中のスケジュール帳に記された文字列は、未だ見慣れない。
お嬢さまも次から次へと、よくこんな戯れを思いつくものだ。
アイドル。
舞台の上で、歌って踊る人気者。
そんな存在、私に、なれるはずがないというのに。
そんなことを考えている間に着替えが終わり、私は頭を切り替える。
お嬢さまを起こす時間までに、一通りのことを終わらせなければ。
「よし。」
扉へと振り返り、ドアノブに手をかけ──
「初めまして、鷹富士茄子です♪」
──私がそれを開けると、目の前に女性が立っていた。
「……貴方、は、」
突然のことに、脳が追い付かない。
不審者? 泥棒? 強盗? 来客?
いや、その名前、どこかで……
「たかふじ、かこ?」
「はい♪ ナスじゃなくてカコですよ~♪」
思い出した。
鷹冨士茄子。
アイドルについて知ろうと片っ端から漁ったときに、テレビ番組に出演しているのを見たんだ。
確か、誰だって幸福にしてしまう……
「……他事務所のアイドルが、ここに何の用です?
お嬢さまはまだお目覚めになる時間ではありません。
用件があるのでしたら、後日……」
彼女はどうやってここまで来れたのだろう。
戸締りを忘れていた? これも幸福とやらの一部?
そんなことを考えながら、お嬢さまの身の安全を考え、ひとまず追い返そうとする。
「ああ、いえ、違うんです。」
しかし、鷹富士茄子は笑ってそれを否定した。
「貴方に少し、用がありまして。」
予想外の返答に、少し考える。
私などに用事なんて、それもまるで接点のない、他事務所のアイドルが。
そんなこと、ありえるか?
「今……いえ。もう、少し前でしょうか。
何か、嫌なことがありませんでしたか?」
嫌なこと。
そもそも目覚めたばかりというのに、そんなもの……いや、
「……強いて言うならば。
少し、嫌な夢を見ました。」
それを聞いて、目の前の女性は、ほんの少し口角を上げる。
先程まで以上の満面の笑みで、彼女は私に提案した。
「詳しくお話を聞いてもいいですか?
何か、力になれるかもしれません。」
はぁ、と、ため息を一つ。
どうやら物取りの類ではないようだが、だからといって、素直に帰ってくれるわけでもないようだ。
ここまで入ってこられた理由が、もし彼女の幸福によるものなのだとしたら、追い返したところで再び同じことになる。
仕事をしながらでもいいのなら、と付け加えて、私は彼女に掻い摘んで説明を始めた。
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[Tips] 千夜の夢
千夜が幼い頃の夢。
実際の記憶が元になっていると思われる。
二人が訪れた水族館で火事が発生し、すべてが燃えていく。
けたたましく鳴り響く火災報知器の音に塗りつぶされて、目が覚める。
千夜が夢を見るとき、決まってこの夢を見るようだ。
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