白雪千夜の美術観   作:maron5650

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0.幸福の来訪者

もしも、すべてが変わらないのなら。

それはどんなに、素敵なことだろう。

 

「ちーちゃん、すごいね! お魚さんがいっぱい!」

 

ずっと、この日々が続くなら。

それはどんなに、幸せなことだろう。

 

「そうね。本当に、綺麗。」

 

きっとあの頃の私は、まだ、自分が人生の主役なんだと思っていた。

私の周りにあるものはどれもキラキラと輝いていて、それら全てが私を楽しませてくれる。

本気で、そう思っていた。

 

「あっちにもあるよ! ……えっと、」

 

だからあの日も、私はちーちゃんに甘えていて。

生まれて初めて訪れた水族館は、本当に幻想的だった。

 

「ぜつめつきぐしゅ。

お外だと、死んじゃうかもしれないお魚さんね。」

 

私があちこち駆け回り、その後をちーちゃんがゆっくりと歩いていく。

それがなんだか嬉しくて。

知らないものを見つけては、ちーちゃんに聞いていた。

 

「この子、しんじゃうの?」

 

夢を見るときは、いつだって水族館から始まる。

動き出したジェットコースターが、ゆっくりと高度を増していくように。

叩き落される衝撃を、より大きくするために。

 

「この中にいれば大丈夫。

ここではみんなが、守ってくれるから。」

 

ここにいれば安全。

ここにいれば傷つかない。

平穏に、安寧に、水の中を揺蕩っていられる。

 

「へー……。

じゃあここは──」

 

この先、何を言ったのかを、まだ私は思い出せないでいる。

 

「──ちー、ちゃん……?」

 

夢を見るときはいつだって、ここで終わりが始まるからだ。

 

「なぁに? ちーちゃん。」

 

私の目を見て微笑んだままのちーちゃんの足元に、ゆっくりと炎が立ち上っていく。

最初は、マッチの火よりも小さく。それがだんだん大きくなって。

呆気にとられている間に、どんどん手遅れになっていく。

 

「火が! 燃えちゃうよ! 」

 

ジリリリリリリリ。

館内の火災報知器が、けたたましい警報音を発する。

ジリリリリリリリ。

だいじょうぶ。君は生きるよ。

ジリリリリリリリ。

その音に遮られて、ちーちゃんの声が聞こえない。

ジリリリリリリリ。

音のひとつひとつは鋭い針になって、私の頭に突き刺さっていく。

ジリリリリリリリ。

耐えきれなくなった私はしゃがみ込み、両手で頭を押さえつける。

ジリリリリリリリ。

音が発せられるたびに、思い切りこめかみを殴られたような感覚。

ジリリリリリリリ。

綺麗な青で彩られていた館内は、危険を示す赤のランプで覆いつくされる。

ジリリリリリリリ。

すべてが、ぬりつぶされていく。

ジリリリリリリリ。

ジリリリリリリリ。

ジリリリリリリリ。

ジリリリリリリリ……

 

 

 

 

 

ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……。

 

私を刺し殺さんとする非常ベルは、いつからか朝を告げる時計のアラームに変わり。

水中でするように恐る恐る目を開けると、暖かな日差しが包み込んだ。

揺れるカーテン。さえずる小鳥。目覚めたばかりの木々のにおい。

お嬢さまのお屋敷。私の部屋。

 

「はぁ……。」

 

ため息をひとつ。目覚まし時計を軽く叩き、アラームを止める。

いつも通りの朝だった。

汗でびっしょりと濡れてしまった、お嬢さまから貰ったパジャマを脱ぎ、いつもの服をクローゼットから取り出す。

着替えながら、これからの仕事をリストアップする。

お召し物を準備して。

軽い朝食の支度をして。

それから今日は……

 

「レッスン、だったか。」

 

頭の中のスケジュール帳に記された文字列は、未だ見慣れない。

お嬢さまも次から次へと、よくこんな戯れを思いつくものだ。

アイドル。

舞台の上で、歌って踊る人気者。

そんな存在、私に、なれるはずがないというのに。

 

そんなことを考えている間に着替えが終わり、私は頭を切り替える。

お嬢さまを起こす時間までに、一通りのことを終わらせなければ。

 

「よし。」

 

扉へと振り返り、ドアノブに手をかけ──

 

 

 

「初めまして、鷹富士茄子です♪」

 

 

 

──私がそれを開けると、目の前に女性が立っていた。

 

「……貴方、は、」

 

突然のことに、脳が追い付かない。

不審者? 泥棒? 強盗? 来客?

いや、その名前、どこかで……

 

「たかふじ、かこ?」

 

「はい♪ ナスじゃなくてカコですよ~♪」

 

思い出した。

鷹冨士茄子。

アイドルについて知ろうと片っ端から漁ったときに、テレビ番組に出演しているのを見たんだ。

確か、誰だって幸福にしてしまう……

 

「……他事務所のアイドルが、ここに何の用です?

お嬢さまはまだお目覚めになる時間ではありません。

用件があるのでしたら、後日……」

 

彼女はどうやってここまで来れたのだろう。

戸締りを忘れていた? これも幸福とやらの一部?

そんなことを考えながら、お嬢さまの身の安全を考え、ひとまず追い返そうとする。

 

「ああ、いえ、違うんです。」

 

しかし、鷹富士茄子は笑ってそれを否定した。

 

「貴方に少し、用がありまして。」

 

予想外の返答に、少し考える。

私などに用事なんて、それもまるで接点のない、他事務所のアイドルが。

そんなこと、ありえるか?

 

「今……いえ。もう、少し前でしょうか。

何か、嫌なことがありませんでしたか?」

 

嫌なこと。

そもそも目覚めたばかりというのに、そんなもの……いや、

 

「……強いて言うならば。

少し、嫌な夢を見ました。」

 

それを聞いて、目の前の女性は、ほんの少し口角を上げる。

先程まで以上の満面の笑みで、彼女は私に提案した。

 

「詳しくお話を聞いてもいいですか?

何か、力になれるかもしれません。」

 

はぁ、と、ため息を一つ。

どうやら物取りの類ではないようだが、だからといって、素直に帰ってくれるわけでもないようだ。

ここまで入ってこられた理由が、もし彼女の幸福によるものなのだとしたら、追い返したところで再び同じことになる。

仕事をしながらでもいいのなら、と付け加えて、私は彼女に掻い摘んで説明を始めた。

 

 

 

 

 

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[Tips] 千夜の夢

 

千夜が幼い頃の夢。

実際の記憶が元になっていると思われる。

二人が訪れた水族館で火事が発生し、すべてが燃えていく。

けたたましく鳴り響く火災報知器の音に塗りつぶされて、目が覚める。

千夜が夢を見るとき、決まってこの夢を見るようだ。

 

 

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