夢を見ている。
何の夢かは分からない。
ただボクは、どこかでゆらゆらと揺蕩っている。
そこに物語性は存在しない。
だから起伏も幸福も、不幸だってひとつも無い。
ボクは何をしていたんだっけ。
ボクはどこにいたんだっけ。
ボクは……
「……はっ! ボクは!?」
カワイイ。よし。次。
「ここは「幸子ちゃんの……おうち……。」ァっひゃあ!」
左耳に息がかかり、ボクは反射的に飛び上がる。
小梅さんが楽しそうに、口元に手を。
それをすっぽりと覆うパーカーの袖を当てて笑っていた。
辺りを見回すと、確かにここはボクの家。そのリビング。
ボク達はソファに並んで腰掛けており。
正面にはテレビが、ここ最近の異常気象により、季節外れの雪が降るかもしれないことを伝えていた。
目の前のテーブルには、ココアの入ったマグカップが2つ、湯気を立ち上らせていた。
「……ボク、寝てました?」
なんだか記憶が抜けている。
仕事が終わって、事務所で話をして、そしたら芳乃さん達が来て。
話を聞いているうちに、ちとせさんもやってきて。
それで……記憶の追体験をして。それから……
『寝てたよ。そりゃもうぐっすりと。』
程々に硬いものでこつんと頭を叩かれる。
後ろを向くと、仁奈ちゃんのキグルミが、中身もないのに自立していた。
キグルミは紐のついたホワイトボードを首から下げており、ボクを叩いたのはこれの角らしかった。
「……追体験の後から、今までですか?」
ボクがそう返すと、キグルミはこくりと頷き、再びホワイトボードに何かを書き始めた。
このキグルミは、以前ボクの家を皆で大掃除した際、仁奈ちゃんが「あの子」さんにあげたものだ。
これを着ていれば「あの子」さんがどこにいて、何をしているのかが分かるから、と。
実際、小梅さん以外の人間に自分の存在を見てもらえるというのは、「あの子」さんも嬉しいらしく。
家では殆ど常にこれを着た状態で過ごしている。
流石に外で着ては大事になりかねないので、家の中限定だけれど。
『ちとせは今晩、杏達の家に泊まることになった。
本当は、あのまま《しんぱん》までやっちゃう感じの流れだったんだけど。
そういう空気じゃなくなっちゃったからね。誰かさんがぐーぐー寝始めたせいで。』
《しんぱん》。
ボク達以外の人間に、飴を持たせていいかを決める儀式。
ちとせさんは、飴を欲している。
飴を使って、自分の存在を消そうとしている。
そうやって、千夜さんの記憶から、自分自身を消そうとしている。
ちとせさんの命は、もう長くない。
現状のまま彼女が死ねば、千夜さんはきっと、どうかしてしまう。
茄子さんに願って、自室を水槽にしてまで、ちとせさんの死を回避しようとしているのだから。
ちとせさんが死ぬくらいなら、水の中で永遠に揺蕩っていた方がいい。
心の底からそう思っている確かな証拠を、彼女は提示しているのだから。
だから、最初から存在しなかったことにする。
発生した幸福によって矛盾が生じた際、それは最大限自然な形で修正される。
ちとせさんの存在が消えたなら、きっと彼女に関するものの全てが消える。
彼女が確かに存在していた、証拠の全てが消え失せる。
それを、許容するか。
許容することがボク達に許されるのか。
拒絶することが、ボク達に、許されるものなのか。
『こら。』
考えていたことが、表情からバレてしまったらしい。
「あの子」さんは再びホワイトボードの角でボクを叩いた。
『今それを考えたってしょうがないでしょ。
どうせ《しんぱん》の時になったら、嫌ってほどうんうん唸るんだ。
今日はもう寝ちゃいなよ。明日朝10時だってよ。』
ぺらぺらと喋りながら、ボクの背中をグイグイと押し、ボクの部屋まで無理矢理移動させる。
……前から思ってましたけど。
「「あの子」さん、結構お世話好きですよね。」
キグルミは首を傾げ、小梅さんは何故か自慢げに、ふふんと鼻を鳴らしていた。
「お邪魔します。」
「「「いらっしゃ~い。」」」
丁寧にお辞儀をするちとせを、杏、きらり、仁奈の3人が暖かく出迎える。
「今日はごちそうだよぉ☆」
「ちとせおねーさん! 七並べしやがってくだせー!」
「ほれほれ立ってないで靴脱いでこっち来なよほれほれ」
暖かすぎる気がする。
「……杏ちゃん。私もしかして、」
「魅了なら、かかってないよ。」
こっそりと杏に耳打ちするちとせ。
しかし杏は、ちとせの疑問を否定した。
「単純に、お客さんが来るのが珍しいからさ。ウチ。」
きらりが笑顔のまま、目で追えない速さで玉ねぎをみじん切りにしている。
「仁奈のクラスメイトくらい呼ばせてあげたいところだけど、アイドルが3人もいるって広まったら困るし。」
だいぶ目に染みたのか、涙を流しながら笑顔でみじん切りにしている。
「たまに幸子や小梅とかが遊びに来るは来るけど、よく見知った人だからねぇ。」
それに気づいた仁奈が台所ときらりの間に入り、玉ねぎエキスの身代わりとなろうとする。
「適度に初対面で、ウチに来ても問題ない立場の人で、更には一泊するってなったら、そりゃあもう。」
きらりは流れるように仁奈の手に自らの手を添えて、包丁の練習を始めた。
「修学旅行みたいなビッグイベントなんでしょ。」
結果、2人で泣きながら一緒に玉ねぎをみじん切りにしている。
「そっ……かぁ。」
杏があれを見て動じていないのは、日常的にあれが行われているからなのだろうか。
いや、今日が特別なだけだ。きっとそうに違いない。うん。
「しかしまぁ、ウチの幸子がご迷惑をおかけしました。」
杏は畳に寝転がったまま、冗談めかして頭を下げる。
事務所にて、ちとせの魔術により記憶の追体験をしている際。
なんとその途中で、幸子が眠り始めてしまったのだ。
本来ならそのまま《しんぱん》をするはずだったが、なんだか空気がシリアスではなくなってしまったので。
明日の午前10時に再び事務所に集まり、そこで《しんぱん》を開始することになった。
別に一堂に会する必要はないが、いきなり始められても心の準備ができないだろう、という、ほたるの配慮だった。
水槽へとなりつつあるちとせの屋敷から、一応避難しておく、という意味もあった。
水が屋敷を飲み込むペースは非常にゆっくりとしているので危険性は薄いが、万が一という言葉もある。
「いえいえ、気にしてないよ。おかげでこうして会えたしね。」
杏の家に泊まりたいと申し出たのは、他ならないちとせ自身だ。
ほたるや芳乃は寮住まいだから、最初から選択肢になく。
じゃあどこにするか、となったとき、家の広さという点から、輿水家が一番に候補に上がったが。
ちとせが、できるなら杏の家がいい、と言い出したのだった。
それは、今となっては不要な、杏にかけたままだった魅了を解くという意味もあり。
超常現象プロダクションの面々を可能な限り多く見ておきたいという意味もあり。
自分の過去を知っていては、どこか気まずくなってしまうだろうからでもあり。
双葉杏に、最も大切な人と、どこか似ているものを見出したからでもあった。
双葉杏と白雪千夜は似ている。黒埼ちとせはそう考える。
それは論理だった推測ではなく、直感に基づく憶測だった。
彼女達が纏う雰囲気をそうさせているのが何なのかまでは、ちとせには分からない。
ただ、その過程が何であれ。
双葉杏と白雪千夜は、その内面は、とてもよく似ている。
だから黒埼ちとせは、双葉杏を無視できない。
「……ねえ、ちとせ。」
そしてそれは、双葉杏も同じだった。
黒埼ちとせは諸星きらりと似ている。双葉杏はそう考える。
故に彼女の行動が、杏には推測できる。
《しんぱん》の際に初めて知るはずの情報を、当然のように導き出す。
「それで千夜ちゃんが、幸せになると思う?」
皮肉でも何でもない、心からの、本当に純粋な疑問だった。
黒埼ちとせが死んだら、きっと白雪千夜は壊れてしまう。
だから、最初からいなかったことにする。
黒埼ちとせという存在はこの世から消え、記録も消え、そして記憶も消える。
この世で最も大切な存在が、消失する。
それは、今すぐとまではいかなくとも、数十年後のいつか。
いつか仁奈にも起こりうる問題だと、双葉杏は考える。
杏達は仁奈にとって重要な存在になっている。自己評価の低い杏ですら、そう認識できるほど。
杏が死んだら。きらりが死んだら。そうなると分かったときは。
杏達の存在が、遠くないうちに、彼女の悲しみを生むことになったなら。
最初からいなかったことにした方が、仁奈は笑ってくれるだろうか。
いつか悲しみを生むのなら、最初から無かった方が良いのだろうか。
「……思うよ。だから、そうしてる。」
ちとせは寂しそうに微笑む。
そんな顔をする理由も、杏には見当がついてしまう。
諦めてしまったのだろう。自分が彼女を幸せにすることを。
疲れてしまったのだろう。自分が生き永らえようとすることを。
安心してしまったのだろう。アイドルに出会った千夜を見て。
もう頑張らなくていいのだと、ほっとしてしまったのだろう。
「……そっか。」
彼女の寿命そのものを何とかすることは、きっとできない。
できるなら千夜が茄子に願った時点で叶えられているからだ。
鷹富士茄子の幸福は、その発生の可否は、当事者の意思によるものが大きい。
願い事をする人間が、心の底から願わなければ。
より具体的に言うなら、実現可能であると思っていなければならない。
例えば、空を自由に飛びたいと思ったとして。
自分が翼を持たないただの人間である以上、心の底からの願いにはならない。
そうだったらいいのにな、という、ただの願望でしかない。
だから、幸福の発生条件を満たすには、本人が「幸福によって実現可能である」と思っている必要がある。
逆に言えば、そう思ってさえいれば、文字通り何でも叶うはずだ。
勿論、前提条件である「意思のあるものには作用しない」に逆らうことはできないが。
……あれ?
ということは、茄子は、ちとせの延命を不可能だと思っているのか?
時間を止めて、現状維持を永遠に続ける。
そこまでしか叶えられないと、そう思っているのか?
それも、あんなに大規模な追加コストまで設けて。
それでやっと、あれだけなのか?
違和感があった。
普段の茄子の様子を見ているからこそ、知っているからこそ、違和感があった。
彼女は文字通り、何だって叶えられる。その前提で行動している。
彼女の言動は、杏にそう思わせるだけの自信を常に纏わせていた。
なのに──
「「──できたぁ!!」」
台所から声。
視線を移すと、きらり……に抱えられた仁奈が、両手で皿を持ち上げていた。
絵本ですら見たことがないようなバカでかい皿を。
「いやいつ買ったのそれ」
皿の上に鎮座する、溢れんばかりのオムライスを。
「いやいつ炊いたの米」
少なめに見ても6合はある。
ウチの炊飯器は3合炊きだったと思うんですけど。
そんな杏のツッコミを物ともせず、机の上にドーンと置かれる巨大オムライス。
それを見て、ちとせは言葉を失っていた。
「はいっ、それじゃあ手を合わせて~☆」
いつものようにきらりが音頭を取る。
きらりと仁奈は満面の笑みで。
杏は「これ余り冷蔵庫に入るのかな」という表情で。
ちとせは圧倒的ボリュームに面食らったまま。
「「「「いただきまーす!」」」」
幸せな家族の声が、小さな家に木霊した。
「んぅー……トイレぇ……。」
仁奈は目をこすりながら、のそり、と布団から抜け出します。
右にはきらりおねーさんが、左には杏おねーさんが。
それぞれ目を閉じて、静かに寝息を立てていました。
そして今日は、もうひとり。
ちとせおねーさんが、うちに泊まっているのです。
仁奈の布団で一緒に寝ていたはずのちとせおねーさんは、ベランダに出ていました。
空を見上げて、きっと、月を見ていました。
「あら、仁奈ちゃん。どうしたの?」
がら、と硝子戸を引くと、ちとせおねーさんが振り返って、しゃがみながら笑います。
きらりおねーさんと、おんなじでした。
きらりおねーさんも、こうやって目の高さを、おんなじにしてくれる人でした。
「……ちとせおねーさん。」
おんなじでした。あの日のきらりおねーさんと。
「いなくならねーでくだせーね?」
キグルミを脱いでしまうきらりおねーさんと、おんなじ顔をしていました。
「……うん。分かった。消えないよ。」
ちとせおねーさんは仁奈を抱き締めます。
そっと頭を撫でられて、それでも仁奈は、いつまでも安心することはできませんでした。
ちとせおねーさんにトイレに連れて行ってもらって。
一緒に布団に入って、ちとせおねーさんの寝息が聞こえてからも、ずっと。
そうだ。
仁奈には、魔法の飴がありました。
どうしても不安なとき、食べるといいって、杏おねーさんがくれた飴でした。
仁奈の髪とおんなじ、杏色の飴でした。
ランドセルから取り出して、口に含みます。
ちとせおねーさんの隣に戻って、目を瞑りながら、何度も願いごとを繰り返します。
ちとせおねーさんが消えてしまいませんように。
ちとせおねーさんが消えてしまいませんように。
ちとせおねーさんが消えてしまいませんように。
ちとせおねーさんが、消えてしまいませんように。
information : データが更新されました。
[Tips] 《しんぱん》
きいわあどの一つ。
常にアップロードされている飴所持者の人格のバックアップと一人ずつ対話をし、飴を所持しても問題ないか確認する作業。
新たに飴を所持する人間を増やす際に行われる。
過半数の同意、或いは過半数の反対が取れた段階で終了する。
終了時に同意と反対が同数だった場合、反対が優先される。
対話をする順番は基本ランダムだが、市原仁奈は必ず最後になるよう、双葉杏が設定している。
飴を所持しても問題ないと判断された場合、その結果が杏に通知される仕組み。
〔Mission List〕
・白雪千夜を水槽から出してください
・鷹富士茄子に気取られないでください