「…………。」
今日は、幸子さん達の事務所に新しく入った、白雪千夜さんとの合同練習。
事務所間の仲を深めることや、他事務所のアイドルと互いに切磋琢磨することを目的として、こういうことはたまにある。
……といっても、幸子さん達の事務所は、もう概ねウチと同じような扱いなのだけれど。
「どうしたんですか、そんなに難しい顔をして。」
休憩時間になると、私はすぐ気になっていたことを質問した。
普段から真面目に練習に取り組む彼女が、何か考え事をしているのは、本当に珍しいことだった。
「すいません、ほたるさん。顔に出ていましたか。」
ぺこり、と行儀よく謝る。
私は両手で「違う」とアピールしながら答えた。
「いえ、怒っているわけではないんです。叱るつもりも。
千夜さんはいつも、とても熱心にレッスンを受けていますから。
……何か、悩み事ですか?」
千夜さんは少し考えて、私に話をしてくれた。
「……何かを、忘れている気がするのです。
とても大切な、何か。それが無ければ私が私でいられないような何か。
しかし、何度記憶を振り返っても、何もないのです。
今日もこうして、予定通りレッスンに参加している。」
私も少し考えて、ひとつのことを閃いた。
隅に置いているバッグから、メモ帳を取り出す。
「私、大切なことを忘れないように、メモに書いているんです。
予定が急に変わることとかは、しょっちゅうですから。
勿論覚えておくようにはしていますけど、万が一忘れてしまっては大変なので。」
千夜さんにメモ帳を差し出すと、彼女は数瞬迷ってから、両手で礼儀正しく受け取った。
「……なるほど。ありがとうございます。」
「いえいえ。……思い出せるといいですね。
心に何かが引っ掛かったままというのは……もやもやしますから。」
「もやもや、ですか。」
私の言葉に、彼女はどこか納得したようだった。
自分の心を表す単語を、やっと見つけられたように。
「…………。」
午前の仕事が終わり、事務所に来てからというもの。
千夜さんがメモ用紙に殺気を放っている理由を、ボクは随分と長い間考えていた。
「…………む……。」
ペーパーレスのこの時代、紙というものに敵意を向けるのは、もしかしたら自然な流れなのかもしれない。
いやそんなわけない。第一彼女は絵が好きなはずで、絵は紙の上に描くものだ。
「……あの、千夜さん。
何か、そのメモにただならぬ因縁が……?」
近寄ることすら困難な雰囲気を纏わせる彼女に、何とか恐る恐る聞く。
千夜さんはメモ用紙からボクに視線を移し、それから一つため息を吐いた。
「……いえ。何か、忘れているような気がしたのですが。
何度確認しても何も忘れていないので、単に気のせいなのでしょう。」
と言って、彼女はメモ用紙をポケットに仕舞う。
……千夜さんが忘れ物をするなんて、珍しい。
珍しいどころか、想像すら難しいことかもしれなかった。
自分のスケジュールどころか、ボク達の予定まで頭の中で把握しているほどなのだから。
「千夜さんにもそういうことがあるんですね。」
「ええ。何というか……もやもやします。
仮に何か忘れているとしても、仕事に支障は無いはずなのですが。」
「まあ、何かあってもボクに任せてください!
ボクはカワイイですからね!」
「はい、期待しています。」
「そんなに感情の無い声も出せたんですね……。」
「…………。」
千夜おねーさんが、ホワイトボードを睨みつけています。
それはもう、憎い相手を殺さんとばかりの迫力で。
「あの……千夜おねーさ……?」
仁奈の声にはっとして、千夜おねーさんはこちらを振り返ります。
その表情は優しくて、いつもの千夜おねーさんでした。
「仁奈さん。すいません、考え事をしてしまって。」
「どうしたでごぜーますか?」
「何か……忘れているような気がして。
しかし、何度確かめても、何も忘れてはいないのです。」
それは、とても珍しいことでした。
千夜おねーさんは、自分のことだけでなく、仁奈の曜日ごとの宿題まで覚えているのです。
「ナゾでごぜーますね……。」
「ええ……こうやって確かめても、まだ忘れている気がするのです。」
千夜おねーさんはため息を吐きます。
何か、どうにかしてあげられる方法は無いでしょうか。
千夜おねーさんと一緒に、仁奈もうんうん考えます。
「……そーだ!」
ぱん、と両手を合わせ、千夜おねーさんの方を向きます。
こんな時のエキスパートが、事務所にいたではありませんか。
「芳乃おねーさんに聞くですよ!」
「ふむー……。何かを忘れている気がする、しかし思い出せず、周囲を確認しても当てはまるものがない、とー。」
芳乃が茶をすすり、話を要約する。
千夜は頷き、芳乃に尋ねる。
「芳乃さんのお力で、見つけられることは可能でしょうか。」
しかし芳乃は、首をゆっくりと横に振った。
「申し訳ございませぬー、失せ物探しは得意分野ではあるのですがー。
何が消え失せているのかを、知っていなければならないのでしてー。」
ですがー、と、芳乃は続ける。
「そなたが記憶を振り返る、手助けは叶いましょうー。」
その言葉に、千夜は頷いた。
「それだけでも構いません。……お願いします。」
芳乃は立ち上がり、千夜の前へ移動する。
座ったままの千夜は、少し見上げる形で芳乃を見る。
芳乃は千夜の顎に、そっと手を添えた。
芳乃と、目が合った。
「さあ、よく見てくださいませー。」
言われるままに、千夜は芳乃の瞳を見る。
その瞳は、千夜の目を見てはいなかった。
千夜の目の、その奥にあるものを。
芳乃の瞳は、それを映し出していた。
芳乃の瞳を通して、千夜は自分自身を見ていた。
黒。
真っ黒な世界。光を、暖かさを与えられない世界。
次第に吐息が色を持ち、下り始める気温に、身体が震えて恐怖した。
そこに物語性は存在しない。
だから起伏も幸福も、不幸だってひとつも無い。
そんな空間に、私は一人揺蕩っている。
何かを抱き締めている。
暖かく、自ら光を放つ何か。
これが世界に触れてしまわないように。
冷たさに侵されてしまわないように。
光が漏れてしまわないように。
私はこれを抱き締めている。
この光は何だったっけ。
この光の正体は。
覗き込もうとしても、眩しすぎて分からない。
守らなければ。
この光を守らなければ。
果たさなければ。
約束を果たさなければ。
約束?
誰と約束したんだっけ。
何を約束したんだっけ。
いつ約束したんだっけ。
光を守ると決めたのは、いつのことだったっけ。
息を吐く。
ごぽり、と音を立てながら、それは上へと昇っていく。
水中。ここは水中だった。
冷たくて、真っ暗で、だからこそ変化が無い。
そうだ。
私はこれを望んでいた。
私はここを望んでいた。
私はここにいることで、光を守ろうとしていた。
ここはみんなの──
「──天国なんだね……。」
顔を上げる。
カラスの声。
差し込む夕陽。
赤く染まる空。
太陽を背に受けて、依田芳乃は佇んでいた。
「失せ物は見つかりましてー?」
彼女が問う。
その視線に、私は頷いて答えた。
ここは水の中。
ここは人の及ばない場所。
ここは天国。
ここは、私の天国。
私だけの天国だった。
「ではー。まいりましょー。」
私の表情を見て、芳乃さんは立ち上がる。
「ああ、いえ、分かったことは確かなのですが。
具体的に何処なのか分かったわけではなくて……。」
「ふむー。」
芳乃さんは再び私の目を見て……きっと、心を読んでいる。
やがて目を閉じ、考えを纏めると、芳乃さんはこう言った。
「専門家を知っておりましてー。」
「何で……ボクなんですかね……?」
全身の力を抜き、座席に深くもたれかかって。
バスの中、輿水幸子は何度目かの不平を呟いた。
「幸子殿はー、以前あの場所にてもう一人の自分を見ましたゆえー。」
幸子の隣に座る依田芳乃が、水筒の茶をすする。
「う、うん……。私も、見た……よ……。」
二人の前の座席から、白坂小梅がぴょこりと顔を出した。
「それはそうですけど……。」
いつもの勢いのあるツッコミは何処へやら。
幸子はこの上なく、行きたくなさそうだった。
それもそのはず。
バスが向かっているのは、小梅と「あの子」の通っていた小学校。
今では廃校となっている場所だ。
幸子と小梅は以前、そこで「もう一人の自分」と会った。
それは幽霊とも、幸福や不幸ともまた違う、正真正銘の超常現象とでも言うべきものだった。
「申し訳ありません。こんな時間に。」
芳乃と幸子の後ろから、千夜が声をかける。
律儀にもバスの移動中は席を立たないので、小梅のように顔は出せない。
「いや、時間はいいんですよ……。
夜じゃないとダメな気もしますし……。」
そう言って、幸子は何度目かの大きなため息をついた。
『いい加減慣れなよ』
ふよふよとホワイトボードが、幸子の眼前に浮かぶ。
幸子は、ぺし、とそれを軽く叩いた。
「慣れるもんじゃないんですよ……。」
こんなにも幸子が、乗り気でない理由はひとつ。
幽霊だ。
廃校には数多の幽霊が存在しているのだ。
幸子は幽霊が、とんでもなく苦手なのだ。
自分に害する存在がいないと、十分に分かっていて、尚。
それが幽霊という、ただそれだけの理由で、純粋に怖いのだ。
「……おさらいをしましょう。」
バスの学校の近くまで来たのを景色から察し、幸子はそう切り出した。
「千夜さんは何かを忘れている。
そしてその内容は、陽の差さないほど深い水の中で、抱えている光に見えた。
更に言えば、この世界に存在するものではない気がした。」
間違いないですか、と、幸子は視線で問う。
千夜はそれに頷いて答えた。
「……そこで、あの廃校が役立つかもしれない。
ボクも小梅さんも、ガラス越しに「もう一人の自分」を見ました。
ワケは分かりませんが、どうやらあそこは、そういう場所のようです。
だから、千夜さんの忘れ物も、あそこでなら見つかるかもしれない。
見つからないとしても、ヒントくらいは得られるかもしれない。」
バスが路肩に近づき、ゆっくりと止まる。
ぷしゅー、と息を吐きながら、ドアがスライドする。
「じゃあ、いきましょうか。」
少女達は、校舎へと歩き出した。
「あれ、仁奈。どうしたのそれ。」
家に帰ると、仁奈が両手で画用紙を、水平に持っていた。
卒業証書でも受け取ったかのようなポーズだ。
「学校の宿題でごぜーます……。」
よく見ると、彼女の手は小さく震えている。
短くない時間、この体勢を維持しているらしかった。
「乾かすなら新聞紙か何か敷いて置きな?」
仁奈は私の言葉にはっとして、しかし両手が塞がっているから動けない。
ウチは新聞を取っていないので、ポストに挟まっていたチラシを適当に数枚抜き、念のため二枚重ねで畳の上に広げる。
仁奈は宝物を台座に置くように、画用紙をそっとチラシの上に置いた。
「……この人、お友達?」
女の人だった。
腰ほどまで伸びた金の髪。
透き通った紅い瞳。
私やきらり、仁奈と一緒に、オムライスを食べている。
「……わかんねーんでごぜーます。」
これだけ細部も描けているのだから、きっと親しい人物なのだろう。
そう思ったが、仁奈は力なく首を横に振った。
「……でも。食べたような気がして。
ここで一緒に、オムライスを食べたような気がして。
きらりおねーさんに手伝ってもらって、仁奈が作ったオムライス。」
絵に描かれた紅目の少女は、笑顔でオムライスを食べている。
これは仁奈の、願望なのだろう。
笑顔で。幸せそうに。美味しそうに。きっと食べて欲しいのだろう。
「……悲しそうに、食べてた気がするんでごぜーます。」
絵にはきらりも、私も描かれている。
しかし私は、ここで客人と一緒にオムライスを食べた記憶が無い。
そういう夢を仁奈が見たのか。
それとも私がそれを忘れているのか。
或いは、それ以外の何かがあったのか。
「じゃあさ。練習しようよ。」
真実がどうであれ、私は仁奈を守らなければならなかった。
「れんしゅー?」
「またこの人に会った時。今度こそ、笑って食べてもらえるように。
とびっきり美味いオムライスを作れるようになっちゃおうよ。」
「……はい!」
仁奈が元気を取り戻したのを見て、私は冷蔵庫を開ける。
確か卵はまだ余っていたはずだ。
しかし。
「「…………へ?」」
冷蔵庫にあったのは、冗談かってくらいバカでかいオムライス、その食べかけだった。
〔Mission List〕
あなたが成さねばならないことは、最初から何もありません。