白雪千夜の美術観   作:maron5650

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22.綺麗に生きて死ぬなんて

少女が、絵を描いていた。

椅子の上にちょこんと座り、キャンバスに向かい合っていた。

少女は何かを描きたくて、筆を動かし続けていた。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

パレットには、白。

ただそれだけを塗るために、少女は筆を執っていた。

白い布に、白い絵の具を、ひたすらに伸ばしていた。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

じわり。じわり。

白しか無いはずのキャンバスに、黒が滲み始める。

それを消すために、少女は白を走らせる。

それでも黒は、無くなることはなくて。

絵筆の穂先と混ざり合い、灰色がキャンバスを汚した。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

ちゃぽん。穂先を水に沈める。

汚れてしまった絵筆を洗い流す。

再び絵の具を乗せて、少女は筆を走らせる。

しかし黒は水に滲んで、その範囲を広げていく。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

少女が描いているのは水彩画だった。

乾く暇も与えずに、ひたすらに画用紙を濡らしていた。

あの頃の私は確かに、人生を水彩画だと思っていた。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

乾かなければ、色は滲むだけで。

時間が経たなければ、それは過去になってくれなくて。

しかしこの頃の私は、それを知らなかったから。

目を逸らしたあの時間は、確かに必要だったのだ。

 

「白雪でいなきゃ。」

 

少女が再び絵筆を水に沈める。

乾かない画用紙に、穂先を当てようとする。

その手首を、私はそっと遮った。

 

「もう、白雪です。」

 

少女が私を振り返る。

あの頃の私がそこにいた。

長い髪は焼け焦げて。手には火傷を負っている。

何もかもを失った、かつての少女がそこにいた。

 

「あなたは、白雪になれます。

そんなに焦らなくたって。

必死に齧りつかなくたって。」

 

少女から、パレット筆を受け取る。

パレットは私の手の中で、油絵具に変わる。

筆の水分を拭き取り、絵具をつけ、走らせる。

 

「無理に黒を、消そうとしなくていいんです。」

 

まっすぐに白が、キャンバスに刻み付く。

それは黒を透過して、人工めいた色ではなくなっている。

目の前にあるのは紛れもなく、私の目指した白雪だった。

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。」

 

もうどれだけの間、私はこうしているのだろう。

どこまでも果ての見えない、真っ白な世界。

空も。地面も。きっと空気すら白いこの場所で。

唯一の黒である千夜ちゃんが、私の周囲に立っていた。

喪服に身を包んだ彼女が、私の周囲を埋め尽くしていた。

 

「ごめんなさい。」

 

私は謝り続ける。

何度でも。何度でも。

決して許されないと分かっていて。

許されるべきではないと分かっていて。

私は彼女に膝を折り、ただ許しを乞い続ける。

 

「ごめんなさい。」

 

どうして思い上がっていたんですか。

真面目に話を聞かなかったんですか。

私に瞳を、ふつうに見せていたんですか。

 

「ごめんなさい。」

 

制御法を学んでいれば、ああならなかったはずなのに。

傲慢でさえないければ、私の家族は死ななかったのに。

私に瞳を見せなければ、最愛の人を亡くさずに済んだのに。

 

「ごめんなさい。」

 

許さない。許さない。

絶対に許さない。

私はあなたを許さない。

人生を壊したあなたを許さない。

 

「ごめんなさい。」

 

 

 

 

 

 

「許しません。」

 

 

 

 

 

 

「……ぇ、」

 

千夜ちゃんの声だった。

彼女の心の声じゃない。

それは私の鼓膜まで、はっきりと届いていた。

 

「許しませんよ。お嬢さま。」

 

顔を上げ、振り返る。

千夜ちゃんがそこにいた。

その手には、深紅の剣が握られていて。

切っ先は私の喉元を、正確に捉えていた。

 

「ちよ……ちゃ、」

 

どうして私はこんなにも、動揺しているのだろう。

どうして彼女の言葉が、こんなにも胸を裂くのだろう。

今まで聞いてきた言葉と、同じもののはずなのに。

それは予想外なんかでは、決してないはずなのに。

 

「謝っていれば。苦しんでいれば。

贖罪に身を捧げ続ければ。

いつかは楽になれると、そう思っているのでしょう?」

 

千夜ちゃんの目はどこまでも冷たくて。

私は彼女のこんな顔を、一度も見たことが無かった。

そこにあるのは、明確な敵意で。敵意だけで。

 

「許しません。私はあなたを許しません。

どんなに自分を犠牲にしようと。

どんなに苦しもうと。どんなに謝ろうと。

私は、あなたを、絶対に許しません。」

 

どうして私は、彼女はこんな顔をするはずがないと、思っていたのだろう。

 

「……ごめんな、さい。」

 

声が震える。涙が出る。

分からなかった。

どうしたら彼女が許してくれるのか、私には分からなかった。

 

「どうしたら、いいの?

どうしたら、許してくれるの?」

 

どうしたらいいのか分からないことが。

行動の選択肢を奪われることが。

こんなにも恐ろしいのだと、私は今まで知らなかった。

 

「苦しんだよ。傷ついたよ。消えようとさえしたの。

これ以上、どうすれば──」

 

──ぴしゃり。

 

……首が横を向いている。

右頬がじんじんと痛い。

ぶたれた。千夜ちゃんに。手のひらで。

周囲が異質を認識し、喪服がぎょろりとこちらを向いた。

 

「……ちーちゃんの……、」

 

怒りを抑えきれないように、彼女の肩は震えていて。

ならば私は、彼女に殺されるのだろうか。

右手に持った紅い剣で、心臓を貫かれるのだろうか。

そうすればすべて、何もかも終わるだろうか。

彼女の手で私が死ねば、溜飲は下がってくれるだろうか。

 

 

 

 

 

 

「バカぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 

 

 

 

 

「ば……!?」

 

剣を持っていない左手で、胸ぐらを掴まれる。

何度も揺さぶりながら、千夜ちゃんは捲し立てるように続けた。

 

「なんで簡単に苦しもうとするの!?

なんでもないように傷つくの!?

自分が消えればそれでいいって、それ本気で言ってるの!?」

 

千夜ちゃんと目が合う。

その瞳には力が宿っていて。

確かに意思が輝いていて。

ああ。あの頃の彼女は、こんなふうに綺麗だった。

 

「……だって、しょうがないじゃない!!

私が傷つけてしまったの! 私が曇らせてしまったの!!

私が! 私が! 私があなたを!! だから……!!」

 

「だから嫌いになるとでも⁉︎」

 

苛立ちを表すように、彼女は剣を振りかぶる。

左から右への、力任せの一閃。

その刃は、確かに私を貫き……、

 

「そんなわけないでしょう……!」

 

紅は自在に形を変え、私の身体を透過した。

背後から、どさりと何かが倒れ込む。

それは先ほどまで私を責め立てていた、幼い姿の千夜ちゃんだった。

その切り口と同じ箇所、千夜ちゃんの服が切れていた。

 

「私なんてどうでもいい!

あなたはどうしたいんですか!!

”寿命が無いですもうすぐ死にますじゃあ消えます”!!

それで本当にいいと──」

 

──ぴしゃり。

 

千夜ちゃんが左を向いている。

左の頬がじんじんと赤くなっている。

私の手も、少しだけ痛かった。

 

「……思ってるわけ、ないよ。」

 

聞き捨てならない言葉だった。

 

「死にたくなんて、あるわけない……!」

 

視界が滲む。涙が頬を伝う。

千夜ちゃんにぶたれた熱が冷めていく。

泣くなんていつぶりだろう。

声を荒げるなんていつぶりだろう。

ほんとうのことを言うなんて、最後にしたのはいつだっただろう。

 

「怖いよ嫌だよ死にたくないよ!

それでも私は死んじゃうんだ!!

どれだけ嫌がったって! どれだけ抗ったって!

死は何の情も湧かず、一切をすり抜けてやってくる!」

 

だからこそ、あの時に死にたかった。

千夜ちゃんのすべてが焼き尽くされたあの日。

灰色の日に、私は死にたかった。

いつか訪れることに怯えながら生きるより。

何の音沙汰もなく降ってきた死を、理解する前に逝きたかった。

 

「どうでもいいって何!? そんなわけないでしょ!?

あなたが幸せでなきゃ、私が嫌なんだ!!

あなたが生きていなきゃ、私が嫌なんだ!!

ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ!! 私が許せないからやってるんだ!!」

 

それでも。それよりも。

千夜ちゃんが傷つく方が嫌で。

千夜ちゃんが泣いている方が嫌で。

千夜ちゃんが笑わない方が嫌だった。

だから。

 

「そのためなら自分さえ、捧げ切るって決めたんだ!!」

 

私達の周囲を取り囲む彼女達が、異質を排除しようとする。

千夜ちゃんの背後から、喪服達が襲い掛かる。

私は千夜ちゃんに抱きつき、そのままくるりと半回転する。

 

「お嬢さ……!」

 

熱が、背中を走る。

切られたのか。抉られたのか。

足元を見る。

じわりと円形に広がる赤が、少しずつ白を染めていた。

 

「……だから私は、あなたを傷つけない。

だから私は、あなたを傷つけさせない。

傷つけられるというのなら、私がそれを引き受ける。」

 

背後の彼女達は、もう一度振りかぶる。

私は目を閉じて、しっかりと千夜ちゃんを抱き締める。

空気の引き裂かれる音が聞こえ……、

 

「……そんなの、いやだ。」

 

私の身体は、傷つけられることはなかった。

いつまでも痛みが走ることはなくて。

恐る恐る目を開けると、千夜ちゃんが右手を伸ばしていた。

その先にある深紅の剣が、私の背後を切り裂いていた。

 

「私のせいであなたが傷つくなんて嫌だ。

私のせいであなたが笑わないなんて嫌だ。

私のためにあなたが犠牲になるなんて、嫌だ。」

 

どろり。

千夜ちゃんの背後に回した手に、何かが触れる。

見なくても分かる。赤だ。

千夜ちゃんの血だ。

彼女は今、彼女自身を傷つけたのだから。

 

「……だから私は、あなたを傷つけません。

だから私は、あなたを傷つけさせません。

傷つけられるというのなら、私がそれを引き受ける。」

 

……ああ。そうか。

それじゃあ、きっとダメだ。

これじゃあ、きっとダメなんだ。

 

「そのためならばこの身など、いつでも差し出してみせましょう。」

 

私が彼女を守ろうとしたって、それを見た彼女は勝手に傷ついてしまう。

彼女が私を守ろうとしたって、それを見た私は勝手に自分を傷つけてしまう。

 

「……どうしたら、あなたは傷つかないのかな。」

 

庇って。庇って。庇い続けて。

互いの背後を、身を挺して守り続けて。

 

「どうしたら、あなたを。傷つけないで済むのかなぁ……。」

 

そうやって進んだ先が、行き詰まった今なんだ。

 

「……簡単ですよ。お嬢さま。」

 

すると彼女はそう言って、すっと立ち上がる。

左手で抱えられたままの私は、つられて彼女の前に立った。

 

「ただ、一言。使用人に命じればいいのです。」

 

彼女は跪き、そっと私の手を取った。

 

「誰も傷つけるな、と。」

 

依然として私達は、喪服に取り囲まれたままで。

私を責め立てる感情そのものであるそれは、私を守ろうとする彼女を許さない。

それは千夜ちゃんの心の中に、私を許さない感情が確かにある証で。

だから私は、どうして千夜ちゃんが跪くのか分からなかった。

どうして私を、助けるような行動をするのか、分からなかった。

 

「……わが僕。わが使用人。黒埼ちとせに仕える者よ。」

 

それでも。彼女がそう言うのなら。

私を助けると。私を守ると。

何もかも全部、何とかしてくれると。

そう、彼女が言うのなら。

 

「私は、誰ひとり傷つくことを許しません。

誰ひとり傷つけることを許しません。

あらゆる手段を以って、その眼に映る誰もを守りなさい。

……無論、あなたも。」

 

姿勢を正し、命ずる。

吸血鬼として。魔女として。

黒埼家の者として。

白雪千夜の、主として。

 

「……かしこまりました。」

 

彼女の唇が、私の手の甲に触れる。

そっと立ち上がり、私を見るその瞳は。

 

「あなたの白雪は、眼に映るすべてを守ってご覧に入れましょう。」

 

 

 

 

 

あの頃のように、笑っていた。

 

 

 

 

 

information : データが更新されました

 

 

[Mission] 眼に映るすべてを守りなさい

 

私が傷つけば、千夜ちゃんは傷ついてしまう。

千夜ちゃんが傷つけば、私は傷つくのを止められない。

私には、傷つかずに、傷つけずにいられる方法が分からない。

お願い。私を、助けて。

 

 

 

〔Mission List〕

 

・白雪のままでいてください

・生きる意味を救ってください

・眼に映るすべてを守りなさい


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