少女が、絵を描いていた。
椅子の上にちょこんと座り、キャンバスに向かい合っていた。
少女は何かを描きたくて、筆を動かし続けていた。
「白雪でいなきゃ。」
パレットには、白。
ただそれだけを塗るために、少女は筆を執っていた。
白い布に、白い絵の具を、ひたすらに伸ばしていた。
「白雪でいなきゃ。」
じわり。じわり。
白しか無いはずのキャンバスに、黒が滲み始める。
それを消すために、少女は白を走らせる。
それでも黒は、無くなることはなくて。
絵筆の穂先と混ざり合い、灰色がキャンバスを汚した。
「白雪でいなきゃ。」
ちゃぽん。穂先を水に沈める。
汚れてしまった絵筆を洗い流す。
再び絵の具を乗せて、少女は筆を走らせる。
しかし黒は水に滲んで、その範囲を広げていく。
「白雪でいなきゃ。」
少女が描いているのは水彩画だった。
乾く暇も与えずに、ひたすらに画用紙を濡らしていた。
あの頃の私は確かに、人生を水彩画だと思っていた。
「白雪でいなきゃ。」
乾かなければ、色は滲むだけで。
時間が経たなければ、それは過去になってくれなくて。
しかしこの頃の私は、それを知らなかったから。
目を逸らしたあの時間は、確かに必要だったのだ。
「白雪でいなきゃ。」
少女が再び絵筆を水に沈める。
乾かない画用紙に、穂先を当てようとする。
その手首を、私はそっと遮った。
「もう、白雪です。」
少女が私を振り返る。
あの頃の私がそこにいた。
長い髪は焼け焦げて。手には火傷を負っている。
何もかもを失った、かつての少女がそこにいた。
「あなたは、白雪になれます。
そんなに焦らなくたって。
必死に齧りつかなくたって。」
少女から、パレット筆を受け取る。
パレットは私の手の中で、油絵具に変わる。
筆の水分を拭き取り、絵具をつけ、走らせる。
「無理に黒を、消そうとしなくていいんです。」
まっすぐに白が、キャンバスに刻み付く。
それは黒を透過して、人工めいた色ではなくなっている。
目の前にあるのは紛れもなく、私の目指した白雪だった。
「ごめんなさい。」
もうどれだけの間、私はこうしているのだろう。
どこまでも果ての見えない、真っ白な世界。
空も。地面も。きっと空気すら白いこの場所で。
唯一の黒である千夜ちゃんが、私の周囲に立っていた。
喪服に身を包んだ彼女が、私の周囲を埋め尽くしていた。
「ごめんなさい。」
私は謝り続ける。
何度でも。何度でも。
決して許されないと分かっていて。
許されるべきではないと分かっていて。
私は彼女に膝を折り、ただ許しを乞い続ける。
「ごめんなさい。」
どうして思い上がっていたんですか。
真面目に話を聞かなかったんですか。
私に瞳を、ふつうに見せていたんですか。
「ごめんなさい。」
制御法を学んでいれば、ああならなかったはずなのに。
傲慢でさえないければ、私の家族は死ななかったのに。
私に瞳を見せなければ、最愛の人を亡くさずに済んだのに。
「ごめんなさい。」
許さない。許さない。
絶対に許さない。
私はあなたを許さない。
人生を壊したあなたを許さない。
「ごめんなさい。」
「許しません。」
「……ぇ、」
千夜ちゃんの声だった。
彼女の心の声じゃない。
それは私の鼓膜まで、はっきりと届いていた。
「許しませんよ。お嬢さま。」
顔を上げ、振り返る。
千夜ちゃんがそこにいた。
その手には、深紅の剣が握られていて。
切っ先は私の喉元を、正確に捉えていた。
「ちよ……ちゃ、」
どうして私はこんなにも、動揺しているのだろう。
どうして彼女の言葉が、こんなにも胸を裂くのだろう。
今まで聞いてきた言葉と、同じもののはずなのに。
それは予想外なんかでは、決してないはずなのに。
「謝っていれば。苦しんでいれば。
贖罪に身を捧げ続ければ。
いつかは楽になれると、そう思っているのでしょう?」
千夜ちゃんの目はどこまでも冷たくて。
私は彼女のこんな顔を、一度も見たことが無かった。
そこにあるのは、明確な敵意で。敵意だけで。
「許しません。私はあなたを許しません。
どんなに自分を犠牲にしようと。
どんなに苦しもうと。どんなに謝ろうと。
私は、あなたを、絶対に許しません。」
どうして私は、彼女はこんな顔をするはずがないと、思っていたのだろう。
「……ごめんな、さい。」
声が震える。涙が出る。
分からなかった。
どうしたら彼女が許してくれるのか、私には分からなかった。
「どうしたら、いいの?
どうしたら、許してくれるの?」
どうしたらいいのか分からないことが。
行動の選択肢を奪われることが。
こんなにも恐ろしいのだと、私は今まで知らなかった。
「苦しんだよ。傷ついたよ。消えようとさえしたの。
これ以上、どうすれば──」
──ぴしゃり。
……首が横を向いている。
右頬がじんじんと痛い。
ぶたれた。千夜ちゃんに。手のひらで。
周囲が異質を認識し、喪服がぎょろりとこちらを向いた。
「……ちーちゃんの……、」
怒りを抑えきれないように、彼女の肩は震えていて。
ならば私は、彼女に殺されるのだろうか。
右手に持った紅い剣で、心臓を貫かれるのだろうか。
そうすればすべて、何もかも終わるだろうか。
彼女の手で私が死ねば、溜飲は下がってくれるだろうか。
「バカぁぁぁぁぁっ!!!」
「ば……!?」
剣を持っていない左手で、胸ぐらを掴まれる。
何度も揺さぶりながら、千夜ちゃんは捲し立てるように続けた。
「なんで簡単に苦しもうとするの!?
なんでもないように傷つくの!?
自分が消えればそれでいいって、それ本気で言ってるの!?」
千夜ちゃんと目が合う。
その瞳には力が宿っていて。
確かに意思が輝いていて。
ああ。あの頃の彼女は、こんなふうに綺麗だった。
「……だって、しょうがないじゃない!!
私が傷つけてしまったの! 私が曇らせてしまったの!!
私が! 私が! 私があなたを!! だから……!!」
「だから嫌いになるとでも⁉︎」
苛立ちを表すように、彼女は剣を振りかぶる。
左から右への、力任せの一閃。
その刃は、確かに私を貫き……、
「そんなわけないでしょう……!」
紅は自在に形を変え、私の身体を透過した。
背後から、どさりと何かが倒れ込む。
それは先ほどまで私を責め立てていた、幼い姿の千夜ちゃんだった。
その切り口と同じ箇所、千夜ちゃんの服が切れていた。
「私なんてどうでもいい!
あなたはどうしたいんですか!!
”寿命が無いですもうすぐ死にますじゃあ消えます”!!
それで本当にいいと──」
──ぴしゃり。
千夜ちゃんが左を向いている。
左の頬がじんじんと赤くなっている。
私の手も、少しだけ痛かった。
「……思ってるわけ、ないよ。」
聞き捨てならない言葉だった。
「死にたくなんて、あるわけない……!」
視界が滲む。涙が頬を伝う。
千夜ちゃんにぶたれた熱が冷めていく。
泣くなんていつぶりだろう。
声を荒げるなんていつぶりだろう。
ほんとうのことを言うなんて、最後にしたのはいつだっただろう。
「怖いよ嫌だよ死にたくないよ!
それでも私は死んじゃうんだ!!
どれだけ嫌がったって! どれだけ抗ったって!
死は何の情も湧かず、一切をすり抜けてやってくる!」
だからこそ、あの時に死にたかった。
千夜ちゃんのすべてが焼き尽くされたあの日。
灰色の日に、私は死にたかった。
いつか訪れることに怯えながら生きるより。
何の音沙汰もなく降ってきた死を、理解する前に逝きたかった。
「どうでもいいって何!? そんなわけないでしょ!?
あなたが幸せでなきゃ、私が嫌なんだ!!
あなたが生きていなきゃ、私が嫌なんだ!!
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ!! 私が許せないからやってるんだ!!」
それでも。それよりも。
千夜ちゃんが傷つく方が嫌で。
千夜ちゃんが泣いている方が嫌で。
千夜ちゃんが笑わない方が嫌だった。
だから。
「そのためなら自分さえ、捧げ切るって決めたんだ!!」
私達の周囲を取り囲む彼女達が、異質を排除しようとする。
千夜ちゃんの背後から、喪服達が襲い掛かる。
私は千夜ちゃんに抱きつき、そのままくるりと半回転する。
「お嬢さ……!」
熱が、背中を走る。
切られたのか。抉られたのか。
足元を見る。
じわりと円形に広がる赤が、少しずつ白を染めていた。
「……だから私は、あなたを傷つけない。
だから私は、あなたを傷つけさせない。
傷つけられるというのなら、私がそれを引き受ける。」
背後の彼女達は、もう一度振りかぶる。
私は目を閉じて、しっかりと千夜ちゃんを抱き締める。
空気の引き裂かれる音が聞こえ……、
「……そんなの、いやだ。」
私の身体は、傷つけられることはなかった。
いつまでも痛みが走ることはなくて。
恐る恐る目を開けると、千夜ちゃんが右手を伸ばしていた。
その先にある深紅の剣が、私の背後を切り裂いていた。
「私のせいであなたが傷つくなんて嫌だ。
私のせいであなたが笑わないなんて嫌だ。
私のためにあなたが犠牲になるなんて、嫌だ。」
どろり。
千夜ちゃんの背後に回した手に、何かが触れる。
見なくても分かる。赤だ。
千夜ちゃんの血だ。
彼女は今、彼女自身を傷つけたのだから。
「……だから私は、あなたを傷つけません。
だから私は、あなたを傷つけさせません。
傷つけられるというのなら、私がそれを引き受ける。」
……ああ。そうか。
それじゃあ、きっとダメだ。
これじゃあ、きっとダメなんだ。
「そのためならばこの身など、いつでも差し出してみせましょう。」
私が彼女を守ろうとしたって、それを見た彼女は勝手に傷ついてしまう。
彼女が私を守ろうとしたって、それを見た私は勝手に自分を傷つけてしまう。
「……どうしたら、あなたは傷つかないのかな。」
庇って。庇って。庇い続けて。
互いの背後を、身を挺して守り続けて。
「どうしたら、あなたを。傷つけないで済むのかなぁ……。」
そうやって進んだ先が、行き詰まった今なんだ。
「……簡単ですよ。お嬢さま。」
すると彼女はそう言って、すっと立ち上がる。
左手で抱えられたままの私は、つられて彼女の前に立った。
「ただ、一言。使用人に命じればいいのです。」
彼女は跪き、そっと私の手を取った。
「誰も傷つけるな、と。」
依然として私達は、喪服に取り囲まれたままで。
私を責め立てる感情そのものであるそれは、私を守ろうとする彼女を許さない。
それは千夜ちゃんの心の中に、私を許さない感情が確かにある証で。
だから私は、どうして千夜ちゃんが跪くのか分からなかった。
どうして私を、助けるような行動をするのか、分からなかった。
「……わが僕。わが使用人。黒埼ちとせに仕える者よ。」
それでも。彼女がそう言うのなら。
私を助けると。私を守ると。
何もかも全部、何とかしてくれると。
そう、彼女が言うのなら。
「私は、誰ひとり傷つくことを許しません。
誰ひとり傷つけることを許しません。
あらゆる手段を以って、その眼に映る誰もを守りなさい。
……無論、あなたも。」
姿勢を正し、命ずる。
吸血鬼として。魔女として。
黒埼家の者として。
白雪千夜の、主として。
「……かしこまりました。」
彼女の唇が、私の手の甲に触れる。
そっと立ち上がり、私を見るその瞳は。
「あなたの白雪は、眼に映るすべてを守ってご覧に入れましょう。」
あの頃のように、笑っていた。
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[Mission] 眼に映るすべてを守りなさい
私が傷つけば、千夜ちゃんは傷ついてしまう。
千夜ちゃんが傷つけば、私は傷つくのを止められない。
私には、傷つかずに、傷つけずにいられる方法が分からない。
お願い。私を、助けて。
〔Mission List〕
・白雪のままでいてください
・生きる意味を救ってください
・眼に映るすべてを守りなさい