「……え、じゃあ君は、何も知らずに送り届けたのかい?
千夜ちゃんを、ここまで。」
ちとせの絵を背に、彼が問う。
カワイイキックを放ちながら、幸子は頷いた。
「自分には何か忘れ物がある。
それがあるのはこの世ではない気がする。
千夜さんはそう言っていました。
だから以前にボク達が、不思議な体験をした場所に案内しただけです。
小梅さんの通っていた小学校。今では廃校となっている場所に。」
幸子の背後を狙おうとする吸血鬼に、血で作られた剣を振り下ろす。
荒く息を吐きながら、彼は信じられないものを見るような目を幸子に向ける。
「……確かに、あの廃校は不思議な場所だよ。
あそこは鏡として扱われ、だから鏡として機能している。
きっと誰かがあの場所を、鏡として用いたんだろうね。」
そんな奇想天外な使い方を、どうやったらできるのか。
心底不思議そうに幸子は首を傾げている。
その幸子こそが廃校を鏡として扱ったのだと、彼女はまだ知らない。
「千夜ちゃんの忘れ物は、黒埼ちとせという存在。
そしてちとせは千夜ちゃんの、心の奥底に隠れた。
千夜ちゃんがちとせを見つけるためには、自分自身をその目で見る必要があった。」
剣を振り下ろしたその隙をつき、吸血鬼が彼の右肩を狙う。
飛びかかってきたそれをカワイイ裏拳で吹き飛ばし、幸子は次の言葉を待った。
「でも、自分を見るということは、通常は不可能だ。
自分の身体に目が付いているのだから、自分自身なんてまず視界に入らない。
それこそ、鏡でも使わない限りはね。」
伸ばされた幸子の腕に噛み付こうとする人影を、下からの一閃で両断する。
彼と幸子は、切っ先とこぶしを吸血鬼の群れに向ける。
「……結果的に鏡の役割を果たしたのは、千夜ちゃんの描いた白雪だ。
そこから君達は、千夜ちゃんの心の中へと入っていった。
その最奥が、この絵の向こう。ちとせの隠れている場所だ。」
通路の左右にある絵から、吸血鬼は無尽蔵に湧いてくる。
いくら倒し続けても、終わりが来ることは無さそうだった。
千夜がちとせを連れてくる、その時まで。
「千夜さんの心の中に、ちとせさんやアナタがいる理由は分かります。
千夜さんの身体には、お二人の血が流れていますから。
……でも。あれは、何なんですか?」
吸血鬼の群れを指差し、幸子が尋ねる。
彼は一瞬、言葉に迷ったようだった。
「あれは……ちとせの、自己破壊欲求だ。
自分が自分を許せない。だから自分を傷つける。
そして、それを止めようとするものを、排除する。」
「……ボク達ってことですか。」
彼は頷き、続ける。
「ちとせは千夜ちゃんに、深く根付いている。
千夜ちゃんの心の中に、ここまで影響を及ぼせるほどにね。
だから、ちとせを連れ出すためには、まず千夜ちゃんから切り離さなくちゃいけない。」
「だから、剣を渡した?」
「そう。これは僕の血。僕そのものだ。」
消耗品。
彼が千夜に剣を渡すとき、そう言っていたのを思い出す。
あれは、彼そのもの。
千夜の身体に流れる、彼の血そのものなのだ。
ならば、使い切ったときは。
千夜に流れる彼の血が、すべて使い尽くされたときは。
千夜の心の中からも、彼の存在は、きっと消える。
「本当にぴたりとくっついてしまったものを、綺麗に剥がすのは難しい。
ケーキのフィルムにクリームが付いてしまうように。
シールの跡が残ってしまうように。
何も傷つけず、接着面だけを綺麗に切断することは、事実上不可能だ。」
彼の動きが精彩を欠き始める。
剣を持つ手が重力に逆らい切れず垂れ下がる。
肩で息をする彼を守るように、幸子は彼の前に立った。
「だから千夜ちゃんが選ぶのは、どちらを傷つけるか。
自分ごとちとせを切り離すのか。ちとせごと自分を切り離すのか。
どちらかを選んだ上で、どちらかを傷つけなくちゃならない。」
彼は幸子の肩にそっと手を乗せ、よろよろと幸子の前に立つ。
何かを言おうと開かれた幸子の口に、そっと人差し指をあてがった。
「ちとせは、自罰をやめられない。
現実で抑制することはできても、感情そのものを無くすことなんてできない。
だから二人が帰ってきた時、守る人が必要だ。
あの自罰感情から二人を守り、現実へと返す人が。」
彼は大きく息を吐き、剣を構える。
幸子は力を抜き、息を整えることに集中した。
幸子の舞台はまだ先で、今は彼の舞台だった。
「……僕はもう、じゅうぶんだ。」
幸子は観客として、ひとつの舞台を見届ける。
愛する者を守ろうとした、一人の人間の大舞台。
死して尚、献身をやめることの無かった、優しい吸血鬼の物語を。
「あの子は今も、あの頃のように綺麗だったから。」
「……っ!」
どこまでも真っ白な空間。
黒が埋め尽くす中央で。
ひとすじの紅が、舞うように線を描いている。
「キリがない……!」
何十人目かの自分を剣の腹で押し返し、千夜が吐き棄てる。
左手で、守るべき主の手を引きながら。
千夜は、どこにあるかも分からない出口を探し続けていた。
「千夜ちゃん……!」
ちとせが不安げな声をかける。
目の前だけを見つめながら、千夜はしっかりと手を繋ぎ直す。
この手を離さない。
この手だけは絶対に離さない。
例え剣を落としても、これだけは、決して。
周囲を取り囲む自分自身を睨みながら、千夜は肩で息をする。
どうする。いっそ切り捨ててしまうか。
ダメだ。お嬢さまの命を忘れたのか。
お嬢さまだけでも何処かへ逃がすか。
ダメだ。私を置いていくわけにはいかない。
二人で。無傷で。ここから出なくては。
周囲が、その半径を徐々に縮めていく。
千夜は牽制するように切先を正面に向ける。
何度も振るううちに、剣は随分と短くなっていた。
それでもその紅は、とうとう黒に触れようとした。
その時だった。
ジリリリリリリリ。
火災報知器が、けたたましい警報音を発する。
周囲の黒は不快そうに眉をひそめ、両手で耳を塞いだ。
半径の歩みが止まり、その場でうずくまっている。
「……これは、」
千夜はこれを経験したことがあった。
廃校の美術室、杏から着信があった時。
まるで非常ベルのような音が、空間を満たしていた。
自分のポケットに触れる。携帯は動かない。
振り返り、ちとせを見る。
彼女は、震える携帯を手にしていた。
目線だけで、どうすればいいかを尋ねている。
その画面に映る数字が、見覚えのあるものだから。
千夜は優しく頷いて、彼女が話し終えるのを待った。
「……もしもし。」
『もしもし……ちとせおねーさ……っ、』
「どうしたの? どこか、痛いの?」
『ちげーでごぜーま……、あの、えっと……オムライスっ! 』
「うん。……うん。」
『……仁奈のつくったオムライス、あやまんなくちゃ、って、』
「……それは、どうして?」
『だってちとせおねーさん、ずっと悲しそーで……! きっと仁奈が、まちがえたから……!』
「ううん。違うの。あれは……私が、悪いの。」
『……そうなんでごぜーますか……?』
「うん。……まだ、残ってたよね。
また、食べに行ってもいいかな。今度は、千夜ちゃんも一緒に。」
『……はいっ! きてくだせー!』
「うん。楽しみにしてる。……またね。」
『またでごぜーます!』
少女の耳から携帯が離れ、主は祈るように赤のボタンを押す。
警報音は鳴り響いたままで、まだ喪服達は両耳を塞ぎ苦しんでいた。
その中でただ一人、佇んでいる少女がいた。
少女は絵を背に立っていた。
少女は筆を手に持っていた。
少女は絵を描き切っていた。
少女はちとせに、筆を差し出していた。
「……もう、だいじょうぶ?」
ちとせは筆を両手で受け取る。
千夜の持つ紅に滑らせると、穂先は同じ色に染まる。
すべてを吸い取るように、絵筆は紅を引き受けた。
ちとせは千夜に筆を渡し、少女に振り返って微笑んだ。
「だいじょうぶ。生きるよ、一緒に。」
千夜は筆で宙に描く。
その軌跡は線を成し、形を成し、意味を成した。
その向こうには、二人分の人影。
「ええ。生きましょう。一緒に。」
千夜の言葉に、ちとせが頷く。
二人は扉の向こうへと、その一歩を踏み出した。
「……そうか。そうしたんだね。」
彼は、まだそこに立っていた。
身体中に生傷を作っても。
手にした剣が、その長さを殆ど失っても。
存在自体が曖昧なものになってさえ。
彼はまだ、そこに立っていた。
「千夜ちゃんは、ちとせを切り離さなかった。
千夜ちゃんの傷はちとせの傷で。
ちとせの傷は千夜ちゃんの傷。
そのままでいいと、二人は結論づけたんだ。」
彼の重心がぐらついて、どん、と肩を壁にぶつける。
幸子は彼の後ろで、それをじっと見つめていた。
自分が動くべき時を、しっかりと理解していたから。
今はまだ彼の、彼だけの舞台だから。
「……あの子に必要だったのは、他者を傷つける剣じゃなかった。
あの子の手にあるべきものは、過去を切り捨てる刃じゃなかった。
記憶の上に塗り重ねる、生きようとする色だった。」
沈むように、彼から力が失われていく。
ゆっくり、ゆっくりと、彼が片隅に収まっていく。
その表情は、幸子には見えなかった。
しかし。それでも。確かに彼は。
「あの子は僕が思うより、ずっとずっと強かったんだ。」
ようやく安心したように、笑っていた。
「……終わったようでしてー。じきに此方へ戻られるでしょうー。」
非常ベルが鳴り続ける通路の真ん中で。
吸血鬼の首を鮮やかに刎ねながら、芳乃はちとせの気を読んだ。
背後には、ぜーはーぜーはーという音と共に、小梅が座り込んでいる。
「……やっと……終わり……?」
本人もチェーンソーもガス欠で、小梅はこれ以上動けそうになかった。
幽霊である「あの子」はいいとしても。
いくら芳乃がアイドルとして、日々体力をつけているとしても。
これだけの時間動き続けられるのは、その上で息ひとつ乱れないのは。
小梅の目に、異常に映って仕方がなかった。
『あとはこのまま、退路を確保するだけ。もうひとふんばりだよ。』
「あの子」の声に頷き、小梅はよろよろと立ち上がる。
スターターロープを引くと、ぶおん、とチェーンソーが唸った。
小梅は、全力でそれを振りかぶる。
すると。
「カワイイキーック!」
振り下ろそうとした場所に親友が飛び出てくるものだから、小梅はぐるんぐるんとチェーンソーに振り回されてしまった。
「お待たせしました。
皆さん、お怪我はありませんか。」
「はいー。」
千夜と芳乃が淡々と話をする。
無事じゃない。ぜんぜん全くこれっぽっちも無事じゃない。
そう喚くだけの体力も、小梅には残っていなかった。
「よーしそんじゃ逃げますよ!!」
幸子が小梅を、ひょい、とお姫様だっこし、そのまま走り出す。
それに千夜と、手を繋いでいるちとせが続く。
明らかに何かから逃げている。
芳乃は幸子の気を読み、反射的に振り返る。
幸子達がやってきた方向。最奥へと続くはずの廊下を。
「……なんとー。」
燃えていた。
燃え盛っていた。
その向こうにあるはずの、黒埼ちとせの肖像画。
それがまったく見えないほどに、火が立ち上っていた。
炎が、少女達を追いかけていた。
「お嬢さまを頼みます。」
千夜が芳乃に声をかける。
芳乃が頷くと、千夜はちとせの手を放し、筆を宙に走らせる。
紅はみるみる形を成し、一台の大きな車……消防車になった。
「乗ってください、「あの子」さんは放水を!」
『OK』
「でしてー。」
芳乃は薙刀の石突で人を消防車の上へとぽいぽい投げ、「あの子」は側面のホースを取り外し背後へ向ける。
全員が乗り込むと消防車は加速し始め、放水によって火の勢いも弱まっていく。
「……千夜殿、ちとせ殿、その御怪我はー。」
火に飲まれる心配がひとまず無くなると、芳乃は二人の傷に気が付いた。
千夜は左手の。ちとせは右手の手首に、それぞれ切り傷があった。
決して深くはないものの、血がぽたぽたと流れ落ちている。
「これは……絵の具です。」
その言葉に、幸子は千夜の右手を見る。
彼が渡したはずの剣が無い。
その代わりに、一本の、深紅を纏う絵筆が握られている。
「こうやって……。」
ちとせは千夜の隣に立ち、右手を彼女の左手と繋ぐ。
千夜は穂先を二人の手首につけ、勢い良く宙に走らせる。
手首から血の紅が、線となって空中に刻まれた。
「出口を作ります。掴まっていてください。」
そのまま大きな長方形を描き、最後にドアノブを添える。
消防車は加速を続け、ドアを破る勢いで突進する。
来たるべき衝撃に備え、少女達は互いに掴まりあう。
そして千夜の描いた絵は、彼女の心を飛び出していった。
「おにいちゃん。」
懐かしい声に、僕は重い目蓋を開けた。
「……ああ、なんだ。」
思考も視界も曖昧で、輪郭がぼやけていた。
「もう、じゅうぶんだったのにな。」
僕は少女を抱き締める。
「もう、じゅうぶん、幸せだったのにな。」
ただ、抱き締める。