気づくと私達は、廃校の美術室に倒れていた。
時刻は零時を回ろうとしていて、外は季節外れの雪が、静かに降り積もっていた。
バス無くなっちゃったね。プロデューサーさんを呼べばいいですよ。
そんな会話を交わしつつ、美術室を後にする。
私も皆さんに続いてから、ドアを締めようと手をかけた。
「……いいんですか、それで。」
美術室の中心に、誰かが立っていた。
その姿を、私は見たことがあった。
彼女と、私は会ったことがあった。
「……ええ。いいんです、これで。」
鷹富士茄子に、私はゆっくりと頷いてみせた。
「死んじゃうんですよ。
いなくなってしまうんですよ。
あなたの主が。親友が。
愛した人の忘れ形見が。」
糾弾するように言葉を続けていた。
縋るように音を発していた。
茄子さんは当事者よりも、その人の命に必死だった。
「それで、何がいいんですか。
何が、いいって言うんですか。」
今になって思う。
茄子さんは、人の死を許せないんだ。
死ぬより生きている方が良いに決まっている。
だから人を生かそうとする。
それを良いことだと、信じて疑わない。
「……ずっと、真実を知らないままで。
何もかもを忘れたままで。
真実と向き合わないままで。
死ぬまでそうやって生きていられたなら。」
私はあの時、それを望んだ。
お嬢さまを失うのが恐ろしくて。
失った後のことを、考えるのが怖くって。
永遠に揺蕩っていられる水の中を、望んでいた。
「どんなに幸せかと思います。
どんなに安寧かと思います。
それを選ぶことが、もし許されるのなら。」
でも、と、私は言葉を続ける。
彼女は何かを言おうとして、しかしそれを飲み込んだ。
「嘘だと知ってしまったら、それはもう、嘘なんです。
真実を知ってしまったら、それがどれだけ幸せでも。それは幸せな嘘なんです。」
黒埼ちとせの存在が消えた世界で、私は確かに幸せだった。
けれど。違和感はいつまでも拭えなかった。
幸せを享受するよりも、解明を優先してしまうほどの違和感。
「お嬢さまは死ぬ。それが真実です。
私の愛した人はもういない。それが真実です。
私の愛した人は、最期にお嬢さまの幸せを願った。それが、真実なんです。」
私のキャンバスには、お嬢さまの存在が、既に刻まれてしまっていたのだ。
どれだけ私が逃げようと、それを逃避にしかしてくれないほどに。
嘘を真実にすることを、許してはくれないほどに。
「お嬢さまが息絶えるその時に、きっと私は大声で泣くでしょう。
それでもいつもと同じように、カーテンを開けて陽を浴びるのです。
何日かは塞ぎ込んで、声も出ないほど枯れ果てた喉を震わせるのかもしれません。
それでもきっといつの日か、いつものように息をするのです。」
開け放たれた窓から、風に乗って桜が舞う。
目の前にふわりと浮くそれを、そっと手のひらに乗せた。
花びらに、雪がついている。
雪は私の体温に溶けて、ゆっくりと染み込んだ。
「……あの時間が無ければ、私は今も黒を消そうとしていたでしょう。
乾かないうちに筆を走らせ、黒を塗り拡げていたでしょう。
あの逃避が無かったら、私は、現実を受け入れられなかったままでしょう。」
時間を凍らせるのはもう終わりだ。
冷たい暗い水の中を、揺蕩うのはもう終わりだ。
現実から目を背けるのは、もう、おしまいなんだ。
「だから。ありがとうございます。
あなたのおかげで、私はここに帰ることができた。
あなたのおかげで、私は逃避から戻ることができた。
あなたが理想を見せたから、私は現実で生きていける。」
茄子さんに、深く深く頭を下げる。
彼女は確かに、私を救った人だから。
彼女がいなければ、私はずっと、深海に一人きりだったから。
「……そんなこと、言わないでください。
ありがとうなんて、言わないでください。
私は、私は、私はただ……、」
彼女は俯き、呟く。
教室内に風が吹き、私は思わず目を瞑る。
彼女は雪と桜に包まれ……。
「……それでも、ありがとうございます。」
誰もいない教室で、私は一人呟いた。
私達のお屋敷。
私の部屋。私のベッド。
「……さま。お嬢さま。朝です。」
千夜ちゃんの声が聞こえる。
私の身体を優しく揺すり、現実へと手を引いている。
「んん……朝は毎日くるってぇ。」
こうやって彼女の声が聞けるのは、あと何日だろう。
「今日の朝日はいましか見られません。
……カーテンを開けますよ。」
こうやって時間を浪費できるのは、あと何秒だろう。
「もー。眩しいー。
んうー。ちーちゃんのいじわるー。」
それでもきっと、私の存在は消えないから。
それでもきっと、目の前の少女は泣いてくれるから。
「お嬢さまもちーちゃんです。
同じでは?」
いつか彼女は、私を塗り重ねていくだろう。
いつか彼女は、誰かと結ばれるだろう。
そう、例えば、あの
そして孫に囲まれて、そっと私の話をするのだ。
彼女の人生に不可欠な、絵の奥に潜む色の話を。
あの頃のように誇らしげに。宝物を見つけたように。
彼女が長い人生で見た、いちばん美しい色の話を。
「あーん。」
想い合う二人がきちんと救われてハッピーエンド。
そんな物語では、もう無くなってしまった。
時に迷い、時に悲しみ、時に絶望すらするだろう。
それでも彼女は私の色を、未来に持っていってくれるから。
「さあ、起きてください。
一日という名の物語が始まりますよ。」
この日々を、物語にしに行こう。
「もう随分、暖かいね。」
お嬢さまが、桜並木を眺めながら言う。
その少し後ろを歩きながら、私は日差しに目を細めた。
「……ちょうど今頃が、きっと一番良いのでしょうね。」
桜はもうすぐ満開で、あと少し待てば、最も美しくなると思わせる。
しかしそれを待っていたら、いつの間にか散っているから。
だからきっとこれくらいが、一番美しいのだ。
「そうだね。……桜は、すぐに散っちゃうから。」
舞い散る桜を手のひらで受け止め、呟く。
花びらは風に浮いて、再び空を舞っていった。
「……花が散ったら、桜は葉をつけます。
美しい緑は、やがて桜紅葉になり、冬は雪で彩ります。
そうして次の春、またこの景色を作るのです。」
私の言葉に、お嬢さまは立ち止まって振り返る。
桜で満ちた空間に、彼女の美しい金髪が揺れる。
「ちーちゃん。」
家に帰ったら、この色を描こう。
この瞬間を描き留めよう。
「なんでしょう。」
季節は巡り、また桜は散るために咲くけれど。
今と同じ色は、もう二度と訪れないから。
「愛してる。」
来年の春には、来年の美しさが、きっと私の眼に映るから。
「私もです、ちーちゃん。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「白雪千夜の美術観」、これにて完結とさせていただきます。
ちとせと千夜の過去に何があったのかを考えて書いてみました。
取り消し線やタイトル、あらすじなど、ハーメルンでできることを色々取り入れてみました。
リアルタイムで読んでいただいた方に楽しんでもらえていたら嬉しいです。
「14.鷧钰돤릃」の最後はモールス信号になっています。
「聞こえる」が「トン」、「声が」が「ツー」にそれぞれ対応しています。
解読すると、依田芳乃について少し知ることができます。
お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ご縁がありましたら、またどこかで。