翌日。
芳乃から「ちとせから来てほしいと電話があった」との連絡を受け、再び黒埼邸を訪れると。
「なんとー……。」
千夜ちゃんの部屋を満たす水が、明らかに黒くなり始めていた。
昨日のような、「気がする」では済まされない。
明確な変化がそこにあった。
「……間違いない、ね。」
スマホの画面に表示された、昨日撮った写真と、現在を見比べる。
その差は歴然だった。
唯一変わらないものは、水槽の中心で揺蕩う千夜ちゃんだけだった。
変化はそれだけではない。
昨日は、くっきりと部屋を満たしていた水が。
部屋だけを満たしていた水が。
部屋からは、決して出ることのなかった水が。
「廊下にも、漏れ出してる。」
カーペットを濡らし、その領域を広げようとしていた。
開かれたままの窓を抜けて、庭の地面に染み渡り、壁を覆い始めている。
これでは、まるで。
「この館を、呑み込もうとしているみたいだ。」
私の言葉に、ちとせは神妙な面持ちで頷く。
「朝起きたら、こうなってて。……これって、どういうことなのかな。」
「それが分かったら苦労はしないよ。
それさえ分かれば、どうとでもなるんだけど。」
千夜ちゃんが何を願ったのか。
何を叶えるために、こうなっているのか。
それさえ分かれば、鷹富士茄子の幸福と対立することなく、千夜ちゃんをここから出すことができる。
飴を使った幸福が打ち消されるのは、あくまで「真っ向から」彼女の幸福と対立した時だけ。
例えば、「双葉杏は自由に空を飛ぶことができる」に対し、「双葉杏は空を飛ぶことができない」は効力を発揮しない。
しかし、「双葉杏は地面を足につけている」ならば、空を飛ぶ能力を奪うわけではない。
結果、空を飛ぶ能力を得た、地に足つける双葉杏が存在することになる。
「自由に空を飛ぶことができる」という幸福は、本質的には有効なままだが、実質的に無効、という形だ。
要は屁理屈をこねてしまえばいいのだ。
そして屁理屈というものは、やろうと思えばいくらでもできてしまうもの。
だから必要なのは、千夜ちゃんが何を願ったのか。
何を欲しているのか。
何から、逃げようとしているのか。
そのために最も効率の悪く確実な方法は、あるにはある。
片っ端から飴を使い、あてずっぽうに願いまくるのだ。
例えば昨日、「双葉杏は白雪千夜と接触することができる」が通用しなかった。
それを「ここにある水がすべて消える」とか、「白雪千夜は目が覚める」だとか。
思いつく限りの、あの状況を解決する願いを、ありったけ願いまくる。
そうすれば、徐々に徐々に、千夜ちゃんの願いがどういうものなのかが見えてくる。
しかし、これを行うことはできない。
その理由は、この方法が選択肢にある理由と同じ。
千夜ちゃんの願いが、鷹富士茄子によって発生したものだからだ。
飴はあくまで、鷹富士茄子の幸福を付与したもの。
製造するには彼女の協力が無ければならない。
そして私達は、千夜ちゃんの願いを消そうとしていることが彼女にバレたら、その時点でゲームオーバーなのだ。
鷹富士茄子が千夜ちゃんの願いを叶えたということは、彼女はそれを良しとしているということに他ならないのだから。
どうあがいたって、私達と彼女は敵対関係にある。
そして、敵対していると彼女にバレた瞬間に敗北。
そんな状態で、一気に大量に飴を消費して、その使い道を尋ねられでもしたら。
……いくら飴にストックがあるといっても、あまりにリスキーだ。
だから、少しでも情報が欲しい。
それがどんなに、重箱の隅をつつくようなものであっても。
0より0.1の方が、良いに決まっているのだから。
どんなに些細な違和感でも、砂漠の貴重な一滴だから。
「……ん?」
スマホの画面と現在の部屋を、穴が開くほど見つめていると。
水の明るさではない、何か別の違いがあるように見え始めてくる。
その違和感のままに、画面を拡大する。
目覚まし時計だった。
画面に移されたそれは、午前10時を指している。
現実の部屋に目を移す。
目覚まし時計は……
「……午前、9時半。」
時計が指す時間が、異なっている。
「ねえ、ちとせ。あの時計。」
「え? ……あ。」
時計を指差すと、ちとせもすぐに気づいたようだった。
「このタイミングで電池が切れるとか、そういう可能性はある?」
「ううん、確かあれ、アイドルになってから買ったやつだから……。」
勝手に止まることはまず無い、と。
なら、もう理由はひとつだ。
千夜ちゃんの願いの影響だ。
水が光を通さなくなり。
時間の流れが遅くなる。
これがこのまま、進行していくのだとすれば。
「……深海。」
彼女は、ここを深海にしようとしているのか?
「……ちとせ。昨日と同じようなことを聞くけどさ。」
私は左手で頭を搔きながら、ちとせに向き直る。
芳乃と一緒に、前もって決めておいた合図のひとつ。
「私の心を読み取れ」。
「千夜ちゃんに関することを教えて。どんな些細なことでもいい。
……特に、海に関することを。」
目線はちとせの両目に向けたまま、視界の端で芳乃を捉える。
……合図はきちんと伝わったようだった。
「海、海……?」
ちとせはあごに手を当て、目を閉じて深く考える。
芳乃は「あの子」と共に、この館の探索に向かった。
彼女の寿命に関するものを求めて。
information : データが更新されました。
[Tips Update] 千夜の水槽⇒生きた化石
千夜の部屋にある水は徐々に光を通さなくなってきている。
と同時に、時間の流れが現実より緩やかになってきているようだ。
それはまるで、海の奥深くまで潜っているときのよう。
光が届かなくなるほどの深海にいるものは、生きた化石だ。
〔Mission List〕
・白雪千夜を水槽から出してください
・鷹富士茄子に気取られないでください
・火災の真実を探ってください