『送信したよ。』
画面を見た芳乃は、ふぅ、と一息つく。
この用紙……健康ドッグの結果から判明した、事実。
黒埼ちとせは、生きているはずがない。
そう判断できる理由は、血圧の異常な低さにあった。
低血圧の一言で済まされる範囲を、完全に超えている。
身体中に血液を滞りなく行き渡らせる機能が、致命的に弱っている。
「あの子」が言うには、この数値はそれを表しているらしかった。
「千夜殿は恐らく、これを見たのでしょうー。」
いつものように、ちとせの部屋を掃除していて。
ふと目に留まった思い出の図鑑を手に取った。
その時、ひらりと落ちたのだ。
本棚の間に挟んでおいた、千夜に見られたくなかったものが。
『それで 茄子にお願いして、ああなった?』
画面に頷き、芳乃は続ける。
「一日にして家族を失った千夜殿にとって、ちとせ殿は決して失ってはならないものー。
その彼女が、死んでしまう可能性があると、そう知ってしまったならばー。
千夜殿は延命を望むでしょうー。
……杏殿の推察の通りでございましてー。」
そして千夜は、あの水槽を願った。
水の中で眠ることを望んだ。
しかし。
『ならどうして、ちとせは眠らない?』
水の中で眠ることが。
眠って時間を止めることが。
生き永らえさせることが、千夜の願いならば。
願いの対象であるちとせは、どうして影響を受けていない?
「それは恐らく──」
がちゃり。
「──まだ、ここにいたんだ。」
2人は声に振り返る。
ドアを開けたのは、この部屋の。この館の、主。
黒埼ちとせだった。
その瞳を見た瞬間、芳乃は袖から素早く飴を取り出す。
投げるように口へ放り込み、そのまま歯で噛み砕く。
「《えすけいぷ》!!」
叫んだ瞬間、芳乃はこの空間から消失する。
彼女の行動を見て、「あの子」は半ば反射的に携帯を持つ手を開く。
かたん、と音を立てて、携帯は床に落とされた。
「……なるほど、捕まえられない。厄介だね。」
ちとせはため息を吐きながら眉をひそめる。
「あの子」の存在には、気づいていないようだった。
知覚不可能な存在を認識することは、前もって知らなければできないだろう。
芳乃の近くには幽霊がいる、と。
「……。」
ちとせは唯一現場に残された携帯を拾い上げる。
テキストを消している余裕は、無かった。
「あの子」の入力した文字は、そのまま見られる状態だ。
「送信してない。下書きだけ。……会話をしている。」
どうする。
芳乃の携帯に、まるで誰かと筆談をしたかのような形跡が残されていて、しかも文体が芳乃とは思えない。
「この場に芳乃以外の人間が存在し、携帯を使って筆談をしていた」までは、まずバレた。
その上で自分がどうするべきかを、「あの子」は模索していた。
今すぐにここから離れるべきか?
つい数秒前、芳乃がそうしたように。
この状態はもう詰みで、これ以上は諦めるべきか?
これ以上の情報を探索することは不可能か?
そもそも、どうして芳乃はあんなに焦っていたんだ?
ちとせから見て、杏と一緒にいたと思ったらいつの間にかいなくなっており、更に自室に入り込んでいた今の状況は、確かにまずいっちゃまずい。
でもそれは、トイレを探してたら迷ってしまったとか、いくらでも言い訳できる範疇のもので……
……それでも尚、ああまでして逃げたということは。
芳乃はちとせの気を読んだんだ。
その結果、あの判断に至ったんだ。
今すぐにここから逃げなければならない、と。
ならば。ちとせは一体、何を考えている?
『……杏?』
ふと、窓に動く物体が見えて、自然と目が追う。
杏はゆっくりとした歩調で、館の外を歩いていた。
まるで夕焼けと共に家路につく子供のように。
双葉杏は館を出ようとしていた。
『……はぁ!?』
ちとせが開けたこの部屋の扉は、閉められていない。
風を立てて気づかれないように、しかし最大限の速さで、『あの子』は扉から部屋を出る。
そのまま廊下を突っ走り、杏の背後に迫る。
『ちょっと! 何帰ろうとしてんのさ! メール見なかったの!?』
「あの子」は杏のポケットからスマホを取り出し、スワイプで文字を打ち込む。
それを目の前に掲げても、杏の焦点は合わなかった。
ただゆっくりと、館の出口へ。門へと、歩き続ける。
『ねえ!』
目の前に押し付けるように、スマホを突き出す。
しかし。
こつん。
額にスマホがぶつかって、それでも杏は歩くことを止めなかった。
ぞわり。
当の昔に無くなったはずの背筋が、どこまでも冷えていくのを感じた。
杏の様子は明らかに普通じゃない。
そうだ。そもそも何故あのタイミングで、杏と話していたはずのちとせが部屋に来たんだ。
杏にメールを送って少しだけ時間の経った、あのタイミングで。
バレたのか。
私達があの紙を見つけ、杏に伝えたことが。
だからちとせは杏に何か……何かは分からないけれど、とにかく何かをして。
次に、メールの送信者がいるはずの自分の部屋へと向かった。
そうまでしてバレたくないものだったのだ。
ちとせにとってあの紙は、絶対に秘密にしておかなければならないものだったのだ。
……事務所に戻ろう。
ちとせの気を読んだ芳乃なら、何か分かっているかもしれない。
杏のこれを知らないだろうから、情報共有が必要だ。
スマホを杏のポケットに戻す。
「あの子」はふわふわと空を飛び、芳乃の元へと向かった。
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[Tips] 美術館の火災
[Tips] 生きた化石
[Mission] 白雪千夜を水槽から出してください
[Mission] 鷹富士茄子に気取られないでください
[Mission] 火災の真実を探ってください
〔Mission List〕
・白雪千夜を水槽から出してください
・鷹富士茄子に気取られないでください
・火災の真実を探ってください