遅くなりました~
<Chapter4-2-13>
「酷い目にあった……」
ちゃぷん、と顔から落ちた水滴が湯船沿いにまで広がる。
はぁぁ、と深い溜め息を吐くのもたった一人だから出来ること。
独り言のような愚痴を漏らせるのも同じような場所だから。
いや、ある意味で言えば良い意味になるのだろうか。
茹だりながらも少しだけ前のことを思い出す。
あの後、何を考えていたのかを根掘り葉掘り聞かれそうになり。
慌てて取り繕いながらも、一度猜疑心に呑まれた二人はそれで納得しなかった。
故に逃げ出さないように背後からの羽交い締めと、前からの圧力。
そして二人が物理的な意味で近付くことでの圧力。
感情面を強く押し出しているからか、普段よりも防御面が薄く感じ。
不意に香る匂いやいつぞやの背後からの感触……を少し固くしたような状態。
更に言えばパーソナルスペースを平気で乗り越えてくる状況。
考えた内容を伏せるのに精一杯で、具体的に何を話したのかまで覚えていない。
(あんまり変なことは言ってないと思うんだが……。)
ばしゃりと湯を掬い、顔に当てる。
少しだけ熱いくらいの湯温に、心の内の動揺を沈める。
嘗ての……穂織にやってくるまでの俺と今の俺。
恐らくは恥ずかしさを感じる範疇なんかも変わっている筈。
だからこそ、何を言ったか覚えていないというのは自分自身に恐れさえも感じる。
「はぁ……」
もう一度漏らした溜息と声が、風呂場全体に広がり反射し。
『何をぼやいておるんじゃ』
「う、うぉお!?」
聞こえるはずのない声が、聞こえるはずのない方向……壁の中から聞こえ。
思わず声を挙げつつ体を動かし、ばしゃりと水音が大きく弾けた。
『何じゃ、その反応……』
「いやそうもなるだろ……っていうかなんで入ってきてるんだよ!?」
顔を見せたのは
普段は見せることも減ってきた、人間らしくない動き方。
入り口の対面、奥側から顔だけをポンと突き出して。
やや細目で睨みつけるように文句を言われるがそれもそうだろ。
仮にも別性の相手の入浴中に入ってくるってなんだよ。
……いや、経験したことあるから強くは決して言えないんだが。
「少々二人に聞かれたくないことがあっての……ご主人の方は出来るだけ見んようにする。
少しばかり時間貰えぬか?」
「……今か?」
「前までなら朝方とかで話も容易じゃったがの。
現状、確実に時間が作れるかというと怪しかろ?」
「ああ……」
若干呆れつつ……そして、少しばかりの警戒を挟みつつ。
身体全てを滑り込ませた上で、半面だけを此方に見せるように壁へと向き直りつつの会話。
普段どおりの向き合っての会話とは違う、妙な会話。
……確かに、今までとは少しばかり状況が違う。
確実に、二人だけでの話として控えられるかといえば少しだけ首を捻る。
夜に隣に眠る、と言った我儘くらいは今後言ってくるかもしれないし。
そして既に一度以上経験している以上、否定するのも怪しまれる一つの材料となってしまう。
ただ……頬が少しばかり朱に染まっているように見えなくもない、んだが……。
はっきり確かめるには今の姿が悪すぎる。
見なかったことにしながら、言葉を選ぶ。
「で? 普段絶対しない行動するってことは……何か気付いたのか?」
二人に聞かれたくないこと。
それ即ち、何かしらの不利益が発生する可能性があること。
ほんの少し前にしたばかりの話を思い返しつつ、波打っていた心中を抑えるように胸に手を。
そのまま彼女に声を投げ掛けた。
「ああ……いや、より正確に言うなら”思い出した”という方が近いかの」
「思い出した……?」
何の、と当たり前のことを問い。
うむ、と一言だけ付け加えて彼女は更に口にする。
「ご主人には以前話したかの? 吾輩の……幾らか覚えている過去のことは」
「あ、あー……どうだっけ?」
色々とありすぎてその辺の記憶が曖昧だ。
落ち着いてみれば思い出せるかもしれないが、今直ぐには思い当たらない。
……だが。
「って、ちょっと待て。
ふと流しそうになり。
けれど、どうしても見逃せなかったその言葉を追求する。
今までの――――嘗ての伝承や過去のこと等。
彼女から聞いてきたことは多数にあった筈だが。
曖昧な様子で口にした言葉は殆ど思い当たらないし、そうであるなら前置きしていた筈。
それとも、実際には今までの会話に幾らかの推測が混じっているのだろうか、と。
身震いさえ起きそうな推測が浮かび、口にしようとして。
「……ああ、すまぬ。 言葉の選び方を間違えたの」
「なら……?」
言葉尻の変化に気付いたように、彼女は自分が口にした内容を訂正する。
「吾輩が未だ叢雨丸に宿る前……唯の人であった頃の記憶だ。
今の、幾らか覚えているというのは」
その表情が、少しだけ寂しさを混ぜているようにも見えて。
更に確認しようとしていた言葉を、呑み込んでしまった。
「人から”変わる”際に、吾輩は記憶を幾らか失っている。
いや……正しく言うのなら、肉体に残してきたと言うべきじゃろうな」
淡々と。
「じゃが、母様からほんの少しだけ聞いた覚えのあることを思い出した。
故に、ご主人に伝えておこうと思ってな」
淡々と。
なにを、と口にする前に。
感情を塗り潰したような横顔を滲ませながら、大事なことだけを伝えようと。
更に一つ、口を開いた。
「穂織のはじまりのはじまり。 朝武家の始まりの伝承について。
その中に、
獣。
最初に浮かんだのは――――彼女に未だに影響を与え続けるモノ。
そして、長男が生贄に捧げた生物もまた獣……犬だった筈。
「どう思う?」
その言葉は、からからに乾いているようにも。
二度と会えないモノを思い出して、泣いているようにも。
そんな思いが込められているような、気がしていた。