白昼幽夢 / Daydream_Revenant 作:宇宮 祐樹
■
――ノイズと共に現れたのは、かつての女神だった。
「これが、あなたの望む理想の世界だというのですか?」
「うん」
頷いた彼女の顔は、黒いノイズで塗り潰されている。
それがただのデータの破損なのか、あるいは自らが塞ぎ込んだだけなのか。
答えは、未だに分からなかった。
「もう、疲れちゃったのかもね」
「疲れた?」
「失うことにも、悲しむことにも」
声は震えていて、今にも消え入りそうなほどに掠れたもので。
言葉が裏表のない本心であることを、何よりもはっきりと示していた。
「だからといって、こんな世界が許されるとでも?」
「じゃあ、何かを失っている人はいる。誰か、悲しんでいる人はいるの?」
「それは……」
窓から望むプラネテューヌの街並みは、いつも通り変わらぬまま。
何も変わることなく、永遠にこの雨の一日が繰り返されていく。
変化を拒んだ、退屈で平穏な日々。終焉は訪れず、循環のみが存在する世界。
「これが、みんなが幸せに暮らせる、たった一つの答えなんだよ」
「……ですが、それは未来を放棄しているのと何も変わらないのでは?」
「だったら、過去に縋り続けることって、悪いことなのかな」
はっきりと、彼女の言葉を否定することはできなかった。
眼下に広がるこの世界は、ある意味では一つの幸せを体現したものなのだから。
「……あなたは未来を拒絶している。それでいいのですか?」
「この平和がいつまでも続いてくれるのなら」
静かに語る彼女は、どんな表情を浮かべていただろう。
欠け落ちたデータには、何も残っていなかった。
「……もう、記録は意味を持ちません」
「そうだね」
「ですから私の役目は終わりです」
「うん。今までありがとう。お疲れさま」
別れに悲しみはない。怒りも、呆れも通り越した。
ただ、心の中に会ったのは、こんなものか、という錆びついた理解だけ。
「……私は、あなたのことが好きでした」
「そうなの?」
「はい」
引き留めようなどとは、今更思わない。これで何かが変わるとも、思っていない。
ただ、最後なのだと。
「あなたは、人々に希望を与える存在だった」
「そうかな」
「そうです。私も、国民の皆さんも、他国の女神たちも。あなたの姿を見て、勇気を貰っていた。あなたは私たちに未来を与えてくれた。先の見えない暗闇の道を、その明るさで照らしてくれた。幾度も訪れる夜に、朝焼けを齎してくれた。あなたは――この世界を照らす、太陽だった」
「……そんなこと」
「きっとあなたは、この世界の主人公であったんだと、思います」
言葉は自らの予想より、遥かに多く紡がれた。
願っていたのだろうか。無謀にも、そんな希望を与える存在に戻ってほしいと。
けれど同時に、それが不可能であること、無駄であることを、誰よりも一番理解していた。
では、何故こんなにも、濁流のように言葉が吐き出されていくのか。
……ああ、そうか。
後悔、していたのか。
「もっと、あなたを理解するべきでした」
「充分だよ。そう思ってくれるだけで、私は嬉しかった」
「私は、あなたの傍にいちばん長くいたはずなのに、それができなかった」
「そうだね」
短く返される答えに、造られたはずの心がじんじんと痛んでいく。
データベースで構築された思考領域に、どろどろとした感情が湧き上がってくる。
「……私はもう、ここにはいられません」
「そんなことないよ」
「いいえ。あなたを理解することができなかった。あなたの痛みを共有することができなかった。あなたの本当の望みを、叶えられなかった。私は……私は、あなたに望むことしかできなかった。祈ることしかできなかった。希望で在り続けることを、まるで呪いのように願っていた」
後悔は続く。永遠に振り続ける雨のように、それが止むことはない。
「私は、行きます」
「どこに?」
「分かりません。ここではない……あなたの傍ではない、どこかに」
それを戒めと呼ぶには、いささか高尚すぎるだろうか。
ただ、今の自分にはそうすること以外、できないような気がした。
「寂しくなるね」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ。ここには、みんながいてくれるから」
「でも、そこにあなたを理解してくれる人はいるんですか?」
「今までもいなかったじゃん、そんなの」
ノイズの裏に隠れた彼女の顔を想像することが、怖くてできなかった。
「さようなら」
「うん、さよなら」
会話はそこで途切れる。
彼女の姿も、データの欠片となって崩れ落ちてゆく。
ただ。
遺された後悔が消えることは、決してなかった。
■
記録終了。
わずかなノイズの後に見えたのは、あの時と同じ鈍色の空だった。
■
「おはよ、ピーシェ」
止むことのない雨の下、屋上で佇んでいたピーシェが、ネプテューヌの声に振り返る。
「あんたたち、やっと起きたの?」
「ごめんごめん、クロちゃんが思ったよりぐっすりしてて」
「お前だって、さっきまで寝ぼけてたじゃねーかよ」
「……まあ、いいけどさ」
適当な呟きを返して、ピーシェが再び同じ方向へ望む。
彼女の隣に立ったネプテューヌが見たのは、雨の中に佇むプラネタワーの影だった。
「……まだ、怖い?」
「かもしれない。これで何も変わらなかったら、意味がなかったら、って思うと」
「そっか」
「……でも、ここにいたままじゃ、何も変わらない」
「うん」
「それに、さ。二人が一緒に来てくれるなら、何かが変わる気がするんだ」
なんて答えたピーシェが、ビニール傘の向こうでくすりと笑う。
張り付いた雫で歪んでいたけれど、それが二人の初めて見た、彼女の笑顔だった。
「……水を差すようで悪いけどよ、具体的にはどうするつもりなんだ、お前ら」
「んー……いつも通りにやればいい、って私は考えてるけど」
「つまり、行き当たりばったりってことじゃねーか」
「でも、私達の旅もそんなもんでしょ」
交わされる会話に、ピーシェがため息を一つ。
「奥の手はある」
密かな、しかし強い呟きと共に、彼女が首にかけていた紐を指先に絡ませる。
少なくともそれは、昨日の彼女にはなかったものだった。
「何それ?」
「内緒。偶然見つけた代物だから、うまく動くか分かんない、ってだけ言っとく」
「……そんな隠し事してる時間ねーぞ?」
「かもね。でも、その前に私はアイツと話がしたいんだ」
「話って……今更、何を」
答えの代わりに、雨粒が傘に跳ね返る音だけが響く。
向けられる彼女の静かな視線に、クロワールが肩をすくめた。
「好きにやらせろ、ってことかよ」
「悪いね」
申し訳なさそうに、ピーシェは弱々しい笑みを浮かべるだけだった。
「勝手にしろよ。ただし、マズいことになったら、俺はコイツを連れて逃げるからな」
「ちょっと、逃げるならクロちゃん一人でやってよ! 私は最後までちゃんと付き合うから!」
「……ありがと。クロワール」
「ああ。無理やりにでも連れてくから、安心しな」
「え?」
間の抜けた声を上げるネプテューヌの肩を、ピーシェが軽く叩く。
「あんたは旅人なんだろ? だったら、旅を続けなきゃ」
「……それって」
「ほら、さっさと行くよ」
心に浮かんだ疑問は、雨音に埋もれて霞んでいってしまう。
ぼんやりと彼女の背中を眺めていたネプテューヌは、やがてその足を踏み出した。
■
「……で、何事もなく到着したわけだけど」
プラネタワーの正面、門の前に立ったネプテューヌの呟きだった。
「当たり前だろ。俺たちと同じで、街の連中も俺たちに干渉できねーんだからよ」
「そうじゃなくてさ、女神様は私たちに気づいてないのかな、って」
「……知らないとは考えにくいな」
「でしょ? それなのにここまで来れたのって、やっぱり……」
「待ってるなら、それはそれで都合がいいさ」
会話を続ける二人の間を割って、ピーシェが雨粒に濡れた門へと手をかける。
軋んだ鉄の音と共に、すんなりと道が開かれた。
「進むよ」
「うん……」
臆することなく踏み出したピーシェの後を、ネプテューヌとクロワールが続いていく。
踏みしめた水溜まりには、プラネタワーの全貌と、その頂上にある光が反射して映っていた。
そのまま教会の講堂を開き、二人が傘に着いた雫を落とす。
ばさばさとビニールの暴れる音だけが、広大な空間に響き渡った。
「……誰もいないね」
「こうも都合がいいと、怪しくなってくるな」
誰もいない長椅子の間を、三人が進んでいく。
「静かすぎて不気味だよ、私は」
「でも、これがアイツの望んだ世界なんだよ」
「……女神様が望んだ世界、か」
上階へと続く階段を見つけると、ピーシェがそこで立ち止まった。
「で、クロワール? アイツは一体、どこにいるのさ」
「さあな。けどよ、六年もバカみたいに同じ部屋にいるとは考えにくいぜ?」
「でもアイツ、そういう類のバカじゃなかった?」
「……否定できねーな」
そうやって立ち止まる二人をよそに、ネプテューヌがかたん、と階段を踏み出した。
「ちょっと、ネプテューヌ?」
「多分だけど、女神様がいるのはこのいちばん上じゃないかな」
「……どうしてそう思う?」
「だって、この世界は女神様が望んだ世界なんでしょ?」
「ああ……」
「それならきっと、女神様はずーっと、この世界を眺めていられると思うんだ」
顔を見合わせるピーシェとクロワールを差し置いて、ネプテューヌが階段を昇っていく。
やがて二人も進みはじめ、階段を昇るだけの時間が続いていった。
途中に見える曇り切った窓の前で、ピーシェがふと立ち止まる。
「私だって……この国の景色は嫌いじゃないさ」
表面を指でなぞると、その隙間から雨に包まれたプラネテューヌの街並みが顔を覗かせた。
「……晴れたプラネテューヌの方が、私は好きだったのに」
くぐもった雨音が、ピーシェの呟きをかき消していく。
やがて階段を昇り続けること、しばらく。ついに三人が、屋上へ続く扉へと辿り着く。
額に浮かぶ僅かな汗を拭うと、ネプテューヌはピーシェへと道を開けてから、
「この先に、君の未来が待ってるよ」
「……うん」
そうやって伸ばした自分の腕が、未だ震えていることに気づく。
怖くないといえば、嘘だった。相対するのが女神という存在であること、この先に待つ未来が、もしかすると自らの望むものではないということ。先も見えない不確かさに対する恐怖と不安が、どろどろと足元に纏わりつくような感覚を、ピーシェは覚えていた。
ずっとこうだった。この現象が起きる前もずっと、こんな風に一人で怯えていた。
けれど。
「私はもう、一人じゃないんだ」
解き放った扉から聞こえてきたのは、強い雨音だった。
降りしきる雨をものともせず、ピーシェが一歩ずつ、しっかりと前へ歩いていく。
水の滴り落ちる階段を上がってゆき、その先の街を見渡せる展望へ。
そして。
「おかえり」
言葉と共にこちらを振り向いたのは。
ネプテューヌともパープルハートとも言い難い、歪な姿をした女神だった。
■
「……随分と、無様な恰好になったもんだな」
「君だって、人のこと言えないんじゃない?」
返ってきたその言葉に、クロワールが口を噤む。
抑揚のない笑みを浮かべる彼女の左目には、電源マークを模した構造体が浮かび上がっていた。
「シェアエネルギーが暴走しちゃってさ。自分でも手がつけられなくなっちゃったんだ」
「……六年もこんなことしてたら、当然だろ」
「まあね。でも、この世界を維持できるなら安いもんだよ」
女神化した右腕と、少女のままの左腕を交互に見つめながら、彼女が息を吐く。
「……私のことは、知ってたのか?」
「そりゃ、ね。女神である私を嫌っていたことも、知ってる」
「だったら、どうして放っておいたのさ」
「放っておいても問題なかったから、ってのもあるけど……」
少し言葉を探すようにしてから、女神は再び口を開いて、
「君は、この世界を受け入れていたんじゃないかな?」
「……は?」
唐突に言い渡された問いかけに、ピーシェが間の抜けた声を返した。
「だって、前の暮らしよりも今の暮らしの方が、君にとっては遥かに幸せなはずだよ?」
「それは……」
「今までの君なんて、いつ死んでもおかしくなかったんだからさ」
否定はできなかった。今、こうして生きていることが、何よりの証拠だったから。
拳を握りしめる。荒んだピーシェの視線に、女神はあれ? と首を傾げながら、
「もしかして、無理やり元の暮らしに戻してあげたほうが、よかった?」
「ふざ、けるな……!」
「……ふざけるな、だって?」
空気が冷たく感じられたのは、雨に体を打たれすぎたからだろうか。
一瞬にして静寂を齎した彼女の言葉に、ピーシェが息を呑む。
雨に濡れた神の隙間からは、ぼんやりと光る紫の瞳がこちらを覗いていた。
「どうして……」
「……え?」
「どうして、今まで私のところに来なかったのさ」
「それは……」
「君は生きてきたじゃないか。今までとは違って、食料にも眠る場所にも困らなかった。違う?」
「違わない、けど」
「君は私の理解者だって思ってたんだけど、勝手な思い込みだったんだね」
「……でも。私は今、ここに立ってる」
震えながらも、しっかりと言い放ったピーシェの言葉に、女神がゆっくりと首を傾げた。
「……今更、何をしに来たのさ」
「対話を」
短く答えた彼女が、額に張り付いた前髪をかき上げる。
翡翠の双眸はしっかりと、正面に立つ女神のことを映していた。
「私は、お前が嫌いだ」
「……どうして?」
「私を見てくれなかったから。女神なのに、救いの手を差し伸べてくれなかったから」
「それは……うん、謝るよ。ごめんね」
「でも、本当に嫌っていたわけじゃないんだと、思う」
「どういう、こと?」
「私も、この国の景色が好きだから」
街並みを見下ろすピーシェと同じように、女神の瞳もその風景を映し出す。
雨に包まれたプラネテューヌの街並みはいつも通り、何も変わることはない。
ただ、何故だろうか。
いつもだったら気にしない雨音が、こうも煩わしく聞こえるのは。
「私は、お前が信じられなかっただけなんだ」
「信じられなかった?」
「お前を信じても、何も変わらなかったから。信じても無駄だって、分かってたから」
「……耳の痛い話になるね」
「私は……未来を信じられなかった。今日を生きていくだけで、精いっぱいだった」
「そうだね」
「……でも、お前も私と同じじゃないの?」
「同じ? 女神である私と、人である君が?」
「うん。未来を信じられずに、今に縋り続けることしかできない、寂しがりやなんだ」
「そんな、こと……」
「じゃないと、こんな世界なんて望まないよ」
ピーシェの言葉に、女神は口を閉ざしたまま答えない。
降りしきる雨音が沈黙を紡ぐ。濡れた前髪が、彼女の瞳を隠していた。
「お前の痛みが分かったわけでもない。寂しさを理解することなんて、きっとできない」
「……そうだね。君は人間で、私は女神だから」
「でも、一緒に進むことはできるんじゃない?」
「一緒に……?」
「そう。それなら寂しくなることもない。そうでしょ?」
「それで、私たちの望む未来は訪れるの?」
「分かんないよ。少なくとも、ただの人間である私には」
「……私にも、分からない。これからの事なんて、誰にも分かるはずがない」
「なら、今よりもずっといい未来があるかもしれないよね?」
「君は一体……何を望んでいるの?」
「雨が上がった後の、青空を」
鈍色の雲、その向こうを見つめながら、ピーシェはそう答えた。
「……君が生きていけるかどうかも、分からないのに?」
「それでも。今よりずっといい未来になるって、信じられるよ」
会話はそこで途切れる。視線を交わす二人の間を、雨粒が通り過ぎていく。
やがて言葉を繋いだのは、彼女からだった。
「……私は」
「うん」
「私は、プラネテューヌの女神。この世界を守護する、最後の一人」
宙に伸ばした女神の右腕には、漆黒に染まる刀が握られる。
それを地面に突き立てると、彼女は紫に輝く瞳をピーシェと向けて。
「人間よ。未来へ進みたくば、その意思を私に示してみろ」
背後に浮かび上がるのは、透明の片翼。頭上には天使を模したような円環。
そして、放たれたシェアエネルギーの覇気が周囲の雨粒を吹き飛ばす。
「ピーシェ!」
「……やっぱり、こうなるのか」
ピーシェが吐き捨てると同時、刀を取った女神が、彼女へと襲い掛かる。
咄嗟に後方へと回避。地面を転がりながら取り出した銃を構えて、引き金へと指をかける。
乾いた音が続き、それと同じ数だけ、彼女の刀から甲高い音が鳴り響く。
刀身から上がる白い煙の向こうからは、それよりも鋭い彼女の視線が向けられていた。
「お前は進みたくないの?」
「……この世界を望んだのは、他でもない私なんだ」
「だから、この世界に残り続けて……進もうとしないってこと?」
「それが最後の女神である、私の役目だから」
言葉を放ち、再び女神が刀を振り下ろす。
それを防いだのは、双剣を重ねるネプテューヌだった。
「ネプテューヌ!」
「っ……この……!」
「……旅人か」
交差する刀身を挟みながら、女神が言葉を紡ぐ。
「私と同じ名前。でも、それ以外は全て違う」
「どういう……こと……?」
「君には失うものが何もない。だから、進み続けることができる。私と違って」
「……そうじゃない、よっ!」
刀を蹴り上げ、そのままネプテューヌが女神の同体を踏みつけて、跳躍。
空中へと舞い上がる彼女へと、体勢を立て直した女神が刀を振るう。
閃光。わずか一瞬の後に訪れた剣戟が、彼女の髪を切り払った。
「私にだって失うものはある……ううん、失ってばっかりだよ」
「何を」
「誰かと出会って、何かを手に入れても、旅に戻ったらそれは全部なくなっちゃうから」
「それで君は、悲しくならないの?」
「なるよ。でも、笑顔で送り出してくれるみんなが、それ以上の嬉しさをくれる」
「……そう」
続くのは言葉ではなく、連続して鳴り響く銃声だった。
咄嗟に刀を構えて、向かってくる鉛玉を女神が弾く。
ただ、そのうちの一つは刀を通り過ぎ、彼女の頬へと直撃した。
血は流れない。ぼろぼろと、まるで砂の城が崩れるように、彼女の頬の
「お前……」
「しょうがないよ。シェアエネルギーとか全部、維持に使ってるからね」
地面に転がる灰色の欠片を踏み潰して、彼女が答える。
「……そこまで行くと、もう戻れねーぞ」
「いいよ。戻るつもりも、進むつもりもないから」
そうして刀を構えたネプテューヌが、地面を蹴ってピーシェへと向かう。
斬撃。咄嗟にピーシェが横へと跳躍し、拳銃を握り直して胸の前へ。
狙いを定め、引き金に指をかける。
一瞬の間の後に、乾いた銃声が鳴り響く――ことはなく。
「な……!?」
からん、と。
真っ二つになった銃身が、彼女の足元に跳ね落ちた。
「ピーシェ、これ使ってっ!」
その理由を理解するよりも先に、ネプテューヌから投げ渡された剣を掴む。
次の瞬間、直上より振り下ろされた漆黒の刀を、その剣が受け止めた。
「……っ、あのさ!」
「なに?」
「一緒に進めないのか!? 私と、お前で!」
「……よくそんなこと言えるよね。私が嫌いなんじゃなかったの?」
「自分でもそう思うよ! でも、私もお前も、同じだから!」
「…………」
「私と一緒に、この世界の未来を確かめにいこうよ!」
答えはない。代わりに返ってくる剣戟が、彼女の体を吹き飛ばした。
濡れた地面に拳を撃ち付けながら、ピーシェがゆっくりと立ち上がる。
「……それは、できない」
「どうしてだよ!」
「私は、この世界の女神だから」
静かに告げる彼女に、ピーシェは一度歯を食いしばってから、
「この、分からずやッ!」
叫ぶと同時、ピーシェが首からかかる紐へと手をかけ、強引に引き千切る。
そして彼女の手に握られたのは――黄金の光を放つ、菱形の結晶体で。
「女神メモリー……?」
輝きを目の当たりにしたクロワールが、思わずその名を呟いた。
女神メモリー。
とある次元において、手にした人間を女神へと昇華させる、奇跡にも近い代物であり。
また同時に、手にした人間を醜い怪物へと堕落させる、危険なアイテムであった。
「奥の手ってまさか、アレのこと!?」
「アイツ、博打にも程があるだろ……!」
緊迫する二人をよそに、ピーシェがメモリーを自らの胸元へと掲げる。
「……化け物になるかもしれないけど、いいの?」
「でも、お前と同じ女神になれるかもしれない」
「そんなの、分からないよ」
「ああ。お前にも、私にもね」
黄金の光が示す道は、誰にも分からない。
けれど、今になってピーシェがその一歩を躊躇うことなど、あるはずがなかった。
「なら、私に見せてよ。君の未来ってやつを」
静かな呟きと共に、女神がその刀を構え、ピーシェの眼前へと迫る。
けれど、目は逸らさなかった。握り締めたメモリーが、急速に輝きを増していく。
視界を埋め尽くすのは、黄金の光。太陽の如く煌めくそれは、二人を強く照らしていた。
そして――
「……え?」
轟音と共に全身を襲ったのは、強烈な浮遊感で。
声を漏らしたピーシェが見たのは、遠ざかっていく女神の姿だった。
「ピーシェ!?」
「……残念だったね」
「そんな……!」
落ちていく彼女を一瞥し、女神が刀をネプテューヌへ向ける。
「まだ、やるつもり?」
「……諦めないよ。だってピーシェと約束したもん」
「君は旅人なんだから、放っておけばいいのに」
「でも、そうしたら絶対に後悔するから」
「……旅人に向いてないよ、君」
じりじりと詰め寄ってくる彼女に、ネプテューヌが片方だけになった剣を構える。
後ずさって、ぶつかった手すりの後ろには、プラネテューヌの街並みが広がっていた。
「あの子の未来はここで終わった。それだけのことなんだ」
言い放った女神の言葉に、震えた声で返したのは。
「……勝手に」
「なに?」
「勝手に決めてんじゃねーぞ、お前!」
飛び出したクロワールは、一目散に落ちていくピーシェへと向かっていく。
ネプテューヌが身を乗り出して覗くと、既に彼女は自由落下を続けるピーシェに追い付いていた。
「おいっ! ピーシェ!」
「……クロワール?」
「お前、なんでそんな簡単に諦めてんだ! この馬鹿野郎!」
「でもさ……もう、ダメだったじゃんか」
「何がだよ!」
「女神と対話をしても無駄だったし……メモリーも、何も応えてくれなかった」
「それは……」
「結局、私の未来はこんなものだった。そういうこと、でしょ?」
「……けど、それはお前一人の話だろ!?」
叫ぶクロワールに、ピーシェがおぼろげな視線を向ける。
「足りないのはシェアエネルギーだ! それは俺がサポートする! だから、もう一度!」
「もう一度……どう、すればいいの?」
「信じればいいんだよ! そんなに難しいことじゃないだろ、今のお前には!」
「信じるって、今更……何を」
「んなもん、本当は分かってるんだろ!?」
「……そう、か。私……は」
輝きを灯すメモリーを握り、ピーシェが告げた言葉は。
「私は、青空が見たい」
――そして。
「っ!?」
「……なに、これ」
先程のものとは比べ物にならないほどの光に、ネプテューヌと女神が声を漏らす。
鈍色の空へと繋がる、黄金の柱。天上へ伸びるそれは雲を切り裂き、太陽を覗かせた。
降り続いていた雨は上がり、暖かな日差しがプラネテューヌの照らす。
晴れ渡る青空の中、陽光を背に君臨したのは。
「……女神?」
黄金の陽を翼に宿す、その者の名を。
「イエロー、ハート……!」
自らの意思を告げるように、ピーシェ――イエローハートが、口にする。
琥珀に輝く瞳の先には、剣を構えるかつての女神の姿が映っていた。
「行くよ!」
高らかに声を上げると同時、イエローハートの翼が空を駆ける。
衝突はすぐだった。漆黒の刀と陽光の刃が激突し、衝撃波を放つ。
「言ったでしょ?」
「……何を?」
「未来はどうなるか誰にも分かんない、って!」
叫ぶと同時、イエローハートの放った蹴りが、女神の体を打ちあげる。
そのまま追走。上空に舞い上がった彼女の拳は、しかし紙一重で避けられる。
刃が女神の頬を掠り、零れ落ちた欠片が宙を舞う。
直後に放った斬撃がそれを両断し、ピーシェへと襲い掛かった。
「うわっ!?」
体を揺るがすほどの衝撃と共に、世界がぐるぐると回転する。
翼の出力を上昇、無理やり体勢を立て直すと、眼前には既に次の一手が迫っていた。
両腕を重ねる。直後に、鈍い金属音が体の全体に響き渡った。
「っ……この……!」
「……人であることを捨ててまで、進もうとするなんて」
「なに、さ!」
「愚かだ。もう、後戻りできないんだよ?」
「かも、しれないね! でも!」
太陽の輝きに呼応するように、イエローハートの翼が光を放つ。
未来へと続く道を照らす、黄金の光。それはやがて、交錯する彼女の刃へ灯る。
「戻る必要なんて、もうどこにもないんだ!」
「な……!」
「進み続けたその先に、私の望む未来があるはずだから!」
張り上げた声と同時に、イエローハートが両腕を解き放つ。
灼熱。空間を歪ませるほどの熱が、女神の体ごと吹き飛ばした。
瞬時に体勢を立て直す彼女へ、再び光を纏う刃が迫る。
剣戟は鳴り止まず、幾度も交わる刃と刀が、星屑のように青空を彩っていた。
「……すごい」
「急造とはいえ、ここまで張り合えるなんてな」
ぽつりと言葉を漏らしたネプテューヌに、クロワールが答える。
「急造?」
「考えてみろよ。街がこんな状態で、メモリーにシェアエネルギーが残ってるはずねーだろ」
「失敗したのはそれで……じゃあ、ピーシェはどうやって変身してるの?」
「アイツの中にある信仰心を、無理矢理シェアエネルギーに変換させてんだよ」
「……信仰心? でも、ピーシェは女神を信じてないんじゃ……」
「けどよ、アイツ言ってたじゃねーか」
青空を自由に駆ける彼女を眺めて、クロワールが。
「自分の未来を信じてる、って」
過去に縋り続けるための力と、未来を信じて進むための力。
そのどちらが強いかなど、語るに及ぶはずがなかった。
「ただまあ、まだ博打なことには変わりねーな」
「まだ……って、まさか!」
「何といっても急造だからな。長くは保たねーぞ」
クロワールが告げたその瞬間、三度目の激突が起こる。
放たれた熱波が、ネプテューヌの髪を荒く靡かせた。
「……なるほど。未来への信仰心、か」
向けられた紫の瞳は、どこか懐かしい雰囲気を纏っていて。
「無理やりなことするなあ、いーすん。そんなことする性格じゃなかったのにさ」
「……変わったんだよ。きっと、お前を連れ出すために」
「私を?」
交錯する刃と刀の向こうで、彼女がこくり、と首を縦に振った。
「クロワールは、未来を見せたかったんじゃないかな」
「未来?」
「うん。未来にはこんな可能性もあるんだって、教えたかったんじゃないの?」
「……そのために、三日どころか六年もかかるなんて。時間かけすぎだよ」
くすりと笑ったのも束の間、女神が刀を振り払って、イエローハートを軽く吹き飛ばす。
体勢を立て直すのは容易だった。そしてそれは、対話が始まることを意味していた。
軽く息を一つ。そして、崩れ始めた右腕を眺めながら、女神が口を開く。
「私はもう長くない。このまま戦い続けたら、たぶん朽ちていくんだと思う」
「……降参する?」
「まさか。それに、それは君だって同じじゃないの?」
女神の右腕が示した、その先には。
ぼろぼろと微かながらも、同じように崩壊を始めつつあるイエローハートの左腕があった。
「本来、存在しない筈のエネルギーを使ってるんだ。そうなって当然だよ」
「……でも、私は降参しないよ」
「そっか」
瞼を閉じ、再び開いたそこには、紫の瞳が冷たく光り輝いていて。
「次で、終わらせる。この戦いも、君の未来も」
そうして刀を構えた女神の姿を、太陽のように光を放つ琥珀の瞳が映していた。
「終わらないよ。私はまだ、進み始めたばっかりだから!」
永遠の過去を守り続ける旧き女神と、未来への道を歩み出した新たな女神。
対峙する二人は、それぞれの翼で青空を駆け出した。
そして。
永きに渡る白昼夢が、終わりを告げた。
■
「……あ、れ?」
朧げな視界に映ったのは、心配そうな表情を浮かべるピーシェの姿で。
「大丈夫?」
その声に答えることもせず、首だけを動かして周囲へ視線を巡らせる。
見えたのは、彼女と同じような表情で自らを見つめる、同じ名を冠した少女と。
傍らで呆れた表情を浮かべている、かつての同僚。
そして、そんな彼女らの後ろに広がる、晴れ渡った青空であった。
「……そっか。負けちゃったのか、私」
深く息を吐くと、どうしてか安心したような落ち着きが胸の中に広がった。
不思議と後悔はなかった。あるのは、整然とした理解のみ。
思えばいつかはこうなるのだと、自分でも分かっていたのかもしれない。
「いつもみたく、勝てると思ったんだけどなあ」
「……残念だけど、私の勝ちだ」
「そうだね。完敗だよ」
はは、と軽く笑みをこぼすと、視界の片側だけが不自然に歪む。
それが、顔の右半分が崩れ落ちたことだと気づくのに、時間はかからなかった。
言葉を失う二人の代わりに、クロワールが問いかける。
「ワガママはもう済んだか?」
「そうだね。やり切ったよ」
「……そうか」
吐き捨てた彼女の顔が、どこか悲し気な色に染まっているのは、気のせいだろうか。
片側だけになった女神の視界では、そんなことすらも分からなかった。
「謝りもしねーし、嘲笑いもしねー。別れの言葉は、六年前に言ったからな」
「冷たくなったなあ、いーすんも」
「……ただ」
「ただ?」
「もう後悔はしねーし、させねーよ」
「……そっか」
その言葉が向けられたのは自分でないことくらい、理解できた。
けれど、どうしてだろうか。それが、自分のことのように、嬉しく思えた。
「ピーシェ」
「なに?」
「君の意思、確かに見せてもらったよ。この国の未来は、君の手に託された」
告げられた言葉に、ピーシェが自らの右手へ視線を落とす。
すると彼女は、ゆっくりとその手を女神へと差し出した。
「……なんの、つもり?」
「未来は私の手に託された、って言うんでしょ?」
片目を見開いたままの彼女に、ピーシェは微笑みを携えながら、
「一緒に進もうって、言ったじゃん」
「……あはは。そういえば、そうだったね」
「だから、ほら。一緒に……」
「ごめんね。でも、それはできないんだ」
力なく震える腕が、差し出された手のひらへと伸びる。
そうして指先が触れた瞬間、彼女の右腕が胴体から離れて、ぼろぼろに崩れ落ちた。
「残念だけど、私は行けない。だって、私はこの世界の女神だから」
運命と言えばそうなのだろう。末路と言えば、そうなのかもしれない。
ただ確かなことは、ある一つの時代が終わりを告げ、また新たな時代が始まるということ。
そこにかつての女神の姿など、あってはならない。
どれだけ足掻こうとも、世界がそれを許さないのだ。
「ねえ、いーすん」
「……何だよ」
「この子の引継ぎ、お願いしてもいいかな?」
「ああ」
「三日かかっても、いいからさ。立派な女神にしてあげてよ」
「分かってる。それが、俺の役目だからな」
「……ごめんね。最後になっても、迷惑かけちゃって」
「慣れてるよ」
淡々と答えるクロワールに、女神が微笑みを浮かべる。
それはかつて、彼女が浮かべていた、無邪気なものだった。
「旅人さん。いーすんのこと、これからもよろしくね」
「……分かったよ」
「それと、さ」
「うん」
「君の出来る限りでいいから、いーすんのそばにいてあげてね」
女神の瞳は、首を傾げる旅人を映す。
それはここではないどこか、ずっと遠くを見つめていて。
「私には、それができなかったから」
崩壊が止まることはなく、風に靡く髪すらも塵と化していく。
時代の終わりが迫るその中で、最後の言葉を紡ぐために、女神が口を開いた。
「君たちと出会えてよかった」
「私も。話が出来て、嬉しかったよ」
「……さよなら、だね」
「うん」
そして、最後に残されたぼろぼろにひび割れた瞳には。
突き抜けるような青空と、太陽の輝きに照らされる、プラネテューヌの景色が映っていて。
「ああ、そうか……この国は、こんなにも綺麗だったんだね……」
一陣の風が吹き抜けたかと思うと、それらは全て塵となって、消えた。
■
夕刻。眩い西日が差し込む、プラネタワーの頂上にて。
「俺ができるのは、ここまでだな」
クロワールが告げたのは、あれから三日が経ってからのことだった。
「近々、教会の方から話があるはずだ。それが終われば、お前はこの国の女神になる」
「思ったよりも早かったね」
「……アイツ、引継ぎがしやすいように色々調整してたんだよ。腹立つぜ」
小さな腕に顎を乗せながら、クロワールが口を尖らせる。
そんな彼女の代わりに、ネプテューヌが言葉を続けた。
「まだ実感、湧かない?」
「正直。でも、やらなくちゃいけない、って思ってる」
「上手くいくといいね」
「うん」
こくり、と小さく頷くと、改めてピーシェが二人の方へと向き直る。
「ありがとね。ネプテューヌ、クロワール」
「……いきなり何だよ」
「君たちがいなかったら、私はこの未来に辿り着けなかった」
「ピーシェがここまで来れたのは、自分の未来を信じられたからだよ。私たちは手を握っただけ」
「でも、二人がそうしてくれたから、私は進むことができたんだ」
自らの右手を見つめながら、ピーシェが答える。
その中には、黄金に輝く結晶体があった。
「……さよなら、だね」
「ああ」
「また会えるかな?」
「さあな。明日また来るかもしれないし、お前が女神を辞める直前になるかもしれないな」
「……でも、来てくれるんだ?」
「覚えてたらな」
意地っ張りな彼女の性格にも、もう慣れたころだった。
「もー、クロちゃんったら素直じゃないんだから」
「なんだと?」
「だって、ここはクロちゃんの故郷なんでしょ? なら、忘れるはずないもん!」
「……あー、もう! お前はほんっと、いらねーことばっかり!」
声を荒げるクロワールが、そのままの勢いで座標を記す。
二人の真後ろに、ぼんやりと光る穴が開いたのは、すぐだった。
「行くぞ!」
「あっ、ちょっとクロちゃん!」
強引に手を引かれながらも、ネプテューヌが後ろを振り返って。
「……やっぱり、未来は誰にも分からないんだ。もう、会えなくなるかもしれない」
「そうだね」
「でも、私はいつか、その時が来るって信じてるから!」
「……うん! 私もだよ!」
未来は誰にも分からない。人はおろか、女神ですらも。
だからこそ旅人である彼女は、その未来を信じて進むことができるのだろう。
続く道は未だ暗く、不安と恐怖が入り乱れている。
ただ、その先には小さく輝く、太陽のような光があった。
「さよなら、ピーシェ」
別れを告げる彼女へ、ピーシェは笑顔を浮かべながら、
「さよなら、ネプテューヌ! また、いつかの未来で!」
■
「白昼幽夢 / Daydream_Revenant」 結
■