椰子の実と魔女   作:蒼崎一希

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第二話

 そこに広がるのは、薄暗い緑色に彩られた世界だった。

 遠く、はるか先まで複雑に連なる岩礁。その上へ向かって、幾重にも厚く重く重なり時を重ねるごとに姿を変える水圧の壁。その中を気まぐれに泳ぐ魚達。

 あぁ、いつもの『世界』だ。

 私は、慣れ親しんだ光景をただ受動的に感じていた。

 ある時を境に視ることができるようになった、私の暮らす世界の別の視点。それは、『世界』が自分の身体と一体になったかのような、とても言葉で表現しきれるようなものではない代物だった。その視点は、今も健在のようだった。

 その『世界』に、何者かが割り込んでくるのを感じた。何かを探し求めるかのように動き回り、波紋のように広がる音波の波を立てながら進む『ヤツら』の姿に、私は驚愕した。

 人型のようで、すでにその道を大きく外れてしまっている異形。それは、端的な表現をすれば、『怪物』だった。海原の奥底に潜み、現れる者に牙をむけ襲いかかり獲物を喰らう、怪物。

「キサマハ、ソノ呼ビ名ヲワレワレダケニ向ケルノカ?」

唐突に、怪物のひとりがそう語りかけた。その一言が、全身を粟立たせる。

「キサマダッテ、コノ海ヲサマヨイ獲物ヲ狙ッテイルデハナイカ。ソノ『眼』ノ力ヲ使ッテ」

「我々カラスレバ、貴様ニコソソノ名ハオ似合イダ、『シーゴースト』」

直後、海の至る所から「声」が湧き上がってきた。

 

 熱い。

 助けてくれ。

 死にたくない。

 断末魔の叫び。

 ママ……!

 イザベル……!

 

 母や、最愛の人の名であろう単語を叫び続けるなにか。

 その叫びが、身体だけではなく心すら叩き潰し、切り刻むような痛みを刻みつける。

 そして、

『なぜ?』

叫びに遅れて湧き上がってきた幾百を下らない眼が、血に塗れた眼がこちらを一斉に見つめ、こう問い続ける。

 なぜ、と。

 ――わからない。

 ――ごめんなさい。

 心身を蝕む痛みの中、思いついた言葉はこのふたつだけであった。目の前の景色が黒く霞み、意識がより深淵へ沈んでいく。しかしその『声』は決して消えることなく、いつまでも響き続けていた。

 

「――さん、いおなさん!!」

次に意識が捉えた声は、先ほどの憎悪に満ちた声とは違う、誰かを呼んでいるであろう優しさを帯びた声だった。意識が浮かび上がり、視界に徐々にピントが合っていくと、そこにはひとりの黒髪の少女が私の顔を覗き込んでいた。

「眼が覚めましたか?」

その声で、ようやく目の前にいるのが榛名だということが、そして『いおな』が単純な漢字と数字の組み合わせの記号でしかない私の名を少しでも呼びやすく、要は人間らしくするために榛名によって付けられたここでの新しい私の名であることを認識できた。

「――ここは?」

ようやく発せた声は掠れきっていた。

「提督執務室の寝室です。大丈夫ですか? ひどくうなされていましたけど」

ようやく身体が言うことを聞き、ゆっくりと上体を起こす。ようやく、今私がどこにいるのかを頭が認識できるようになっていた。昨日の呉への『帰還』の後、この呉鎮守府を預かる提督執務室に用意された小さな寝室を一時的な寝床として与えられていたのであった。首を横に動かし、唯一ある窓のほうへ顔を向ける。窓の外には昨日のような夏空が広がっているようだった。

「――大丈夫です」

先ほどまで見ていた光景が夢であるということがようやく理解できるようになってきたが、その夢の中身はとても話せる気にはならない。未だに少しかすむ眼をもみながら、一言そう返しておいた。

「本当に大丈夫ですか? 何かあったら、遠慮なく話してくださいね?」

心の底から心配しているようである榛名の顔が霞む眼でもはっきりと認識できた。だから私は小さく頷くことしかできなかった。

「もうすぐ朝食の時間です。鳳翔さんのおいしい朝ごはん、今から持ってきますね」

そう言って榛名はベッドのそばから立ち上がり、ドアを開けて出て行った。

「朝食、か……」

そうひとり呟きながら、さまよう視線が窓のそばに置かれている姿見を捉えた。位置関係的に今現在の自身の姿を映し出せる位置に置かれている鏡が、ベッドの上で半身を起こす寝間着姿の私の姿を映し出していた。袖などの丈が長いその寝間着は、何も着替えのない私のために榛名が貸してくれたものだった。そこに映る姿は、自身もよく知っている人間の女性、それも少女と呼ぶべき姿そのものであった。

「私、本当に人間になったのね……」

昨日から先ほどの夢までにかけて遭遇した出来事の多さが封じていた感慨が、ようやくこのタイミングで動き出しはじめていた。

 今の私は潜水艦伊507ではない。

 私は、潜水艦娘、伊507なのだ。

 

    ◇

 

 テーブルの上に広げられているのは、私の『艦』としての記憶にはないような彩りを放つ食事たちであった。その食事たちを、榛名が丁寧に並べていく。最後にボールのような容器に白米をよそい私の前に置くと、もうひとつの器にも白米をよそい、反対側の椅子に座った。

「それでは、いただきましょう。いただきます」

榛名が手を顔の前で合わせる。伊507の乗組員として乗り組んでいた日本人たちが食事前にしていた儀式と同じ仕草だった。

「――いただきます」

榛名の真似をして儀式を済ませ、テーブルに置かれた箸を握る。目の前にいる榛名を見よう見まねで箸を操りながら、たどたどしく食べ物を口へ運んでいった。

「――おいしい」

自然と口からそんな言葉がこぼれた。昨日は緊張や疲労からろくに食事すらしていなかったことを思い出す。考えてみれば、これが艦娘になって初めての食事だった。

「鳳翔さんの和食は天下一品ですから」

美味しそうに白米を箸でつかみ、口に運んでいく榛名がそんなことを言う。この料理は鳳翔という人が作ったようだった。

「これが、和食……」

思わず箸を止め、器を彩る様々な料理を眺めてしまっていた。

 伊507にも日本の食べ物は持ち込まれていたが、多くは缶詰などであり、これほどたくさんの料理を見たのはこれが初めてであった。

「そんなにじっくりと見なくても、ここにいれば朝も昼も夜も、いつでも見られますよ?」

榛名はそう言ってほほ笑むと再び白米を口に頬張った。

 私はもう一度箸を手に取り、少し苦労しながらも白米を、焼き魚を、そして少し変わった香りのする『ミソシル』というスープを口に運んでいく。それらはどれも優しく、豊かな味を持っていた。

「――おいしい」

再び口をついたその言葉に、私の姿を眺めている榛名がやさしく微笑む。その姿はつい半時間ほど前まで見ていた世界とまるで対極にあるもので、そこに安堵感のような、くすぐったいような言葉にしがたい感情が浮かぶのを感じ取って、私は視線を榛名からそらし、静かに残りの朝食を食べてしまうことにした。

 

    ◇

 

「ねぇ、不知火」

ひそやかに掛けられた呼び声に、不知火は動かしていた箸を止め、その声の発せられた方向へ顔を向けた。

「昨日のあの潜水艦娘、これからどうするのかな、司令は……」

その先にいる声の主であり、不知火の姉でもある陽炎の口から出てきた次の言葉はものの見事に彼女の予想通りの内容であった。

 幸い彼女たちが座るテーブルの両隣は早々と食事を終えて席を空けていて、朝の食堂は一同に会した呉に属する様々な艦娘たちの声に満ちていた。駆逐艦娘の寮は4人一組だ。もちろん陽炎たちも他の駆逐艦娘と同居をしており、提督に固く口止めされているこの話題をおいそれと持ち出すわけにはいかなかった。だからこそこのタイミングなら、ということだろうか。

「さぁ、それは司令しか分からない。ただ……」

「ただ?」

陽炎がグイと身を乗り出した。

「――上手く説明できないけれど、彼女は何か違う、そんな気がするわね」

違和感というべきか、はたまた異質というべきか、はたまたそのどちらの言葉も違うのか。どの言葉を選べば最適かを判断することに迷い、不知火は曖昧な言葉で表現することにした。

「――やっぱり、不知火もそう思う、よね」

その不知火のいつもらしからぬ曖昧な表現が、却って陽炎が例の彼女に抱いている印象をより強固なものにしているようだった。

「いずれ司令が詳しく話す時が来るはず。それまでは待つしかないわ」

不知火はそう言い切ると再び箸を手に取り、残りわずかの朝食を黙々と口に運び始めた。

「そう、よね……」

 不知火の言葉に圧され、それ以上の詮索をあきらめた陽炎も同じく箸を取り、焼鮭の切り身を口に運ぶ。いつもならその度に口の中に豊かな風味の広がりを感じることができるはずなのだが、今日に限っては頭の中を支配する疑念が、味覚への感度を下げているようだった。

(ちゃんと、説明してくれるのよね、司令……)

 その日の朝食をよく感じ取ることができないまま、陽炎の朝食の時間は終わったのだった。

 

    ◇

 

「伊勢先輩、日向先輩!」

朝食を終え、今日の任務である初任の駆逐艦娘たちへの基礎教育の教官の任務の準備のために講堂へ向かう伊勢・日向をひとりの艦娘が呼びとめた。振り向いた先から、カメラとメモ帳、ペンを片手に駆け寄ってくるのは重巡洋艦娘の青葉だった。

「とうとう来たか……」

その姿に日向はやれやれと首を横に振るが、呼びとめに止まってしまった以上無視をするわけにもいかなかった。

「あのっ! 昨日の訓練の帰りに艦隊に同行していた艦娘さんのこと、ちょ~っとでもいいので教えて……」

「無理だ。提督に口外厳禁と厳命されている。それがどういう意味か、分かるだろう?」

『厳命』という単語が十二分に効果を発揮したようで、鎮守府内のあちこちに張り出される新聞制作を自主的に行っている身としては十分すぎるほどにおいしいネタを何としても聞きだしたいという、記者根性とでも呼べそうな強い気持ちの持ち主の青葉も、追及の弁が鈍ってしまう。

「外出禁止令どころか新聞発行禁止令でも出されたくなかったら、提督が説明をするまでおとなしくしておくこと、いいな?」

一気に捲し立て青葉の反論を完全に封じ込めた日向は伊勢を引き連れその場を後にした。

「まぁ、青葉の場合は別としても、みんな気になるところではあるよね……」

とぼとぼと引き返していく青葉の後ろ姿をちらりと眺めてから、伊勢がそう呟いた。

「だから今提督があれこれと調べているわけだ」

「昨日軍令部へ飛んでいったきりだったわね、何か分かったのかしら?」

「秘書艦の榛名が何も言わないということはまだ何も分からないのだろう。今あれこれと詮索したところで何も始まらない。さぁ、今日もいつものように新任たちを鍛えてやろう」

「――そうね」

ちょうどよく講堂に到着したふたりは講堂の扉を開き、きれいに並べられた机にちょこんと座る新任の駆逐艦娘たちの姿を一瞥した。

 個人的にも疑問が全くないわけではない。しかし、何も分からない以上あれこれと考えを巡らせたところで何も生まれない。今は彼女について調べる提督と、鎮守府を空ける提督に代わり鎮守府をまとめ、同時に軟禁状態の伊507の面倒を見る榛名に全てを任せ、日向は口を開いた。

「授業を始めるぞ」

 

    ◇

 

 それは、初めて見る不思議な額縁であった。壁にかけられているのではなくスタンドに取り付けられて台の上に置かれている。そして……、

「額縁の中で、小人が……」

その不思議な黒い額縁の中で、自分と比較すれば小さい男性がこちらに向かって何事かを話している。ただ、何かを話しているのは分かったが、目の前で起こる出来事があまりに衝撃的すぎて、その『小人』が話す内容は全く耳に入ってこなかった。

「これは、一体……?」

その摩訶不思議な代物の前後をゆっくり、じっくりと見まわす。中に人が入ることなど到底できないような厚みだった。

「これはテレビですよ」

「テレビ?」

「遠く離れた場所での出来事などをその場にいなくても見ることができる機械です」

その説明が、私が今こうして人の姿をとり、地上へやってくるまでにどれほどの時が過ぎていったのかを如実に表していた。

 断言できる。私とこの世界には、とてつもない断絶が存在するのだ、と。

「いおなさんも、私たちと同じような反応ですね」

絶句してしまった私に、少しの間を空けて榛名がそう語りかけた。

「私も似たような反応でしたから」

「私が海の底に沈んでいる間に、こんなにも世界は変わっていたのですね……」

話すべきことを話し終わったのか、額縁の中の男が一礼する。その光景を眺めながら、断絶は想像以上のものだ、と改めて認識を深めていた。

「そうですね、ある意味、変わったと言えるかもしれません」

「……ある意味、ですか」

その意味深な一言が、やたら耳に引っ掛かる。何か、とてつもなく大きな秘密を明かされるような、そんな予感があった。

 榛名が執務机に置かれていた本の中からひとつを手に取り、大事そうに胸に抱いてこちらに持ってきた。抱かれた厚表紙本が差し出された。あるページに貼られた一枚の付箋が、妙に存在感を発していた。

「この付箋の貼られたページを読んでみてください。そうすれば、私の言っている意味がよく分かると思いますよ」

 

 

    ◇

 

 

 軍令部の入る赤煉瓦の建物の内外を区切る、石造りの荘厳な玄関をくぐり抜け、私は車寄せの屋根の端に覗く空を見上げた。朝から燦々と陽を浴びせ続ける太陽の勢いはいまだに健在で、一瞬にして汗がどっと湧きあがりそうな予感を覚え、その暑さから少しでも早く逃れようと私は身体を車の後部座席に滑り込ませた。ドアが閉まると、適度に空調の利いた車内の空気が身体を包む。その気持ちよさにホッと一息つくと、出します、という声とともに静かに車は車寄せから動き始めた。

手にしている鞄にはいくつかの資料が収まっていた。この資料が示す内容を彼女に伝えたら、彼女はどのような反応を示すだろうか。

 流れ去る霞が関の景色をぼんやりと眺めながら、そのような単純なことを考えていた。

 その考えが、我々の存在自体を問うさらに大きな疑問を呼びよせる。

 我々は一体何者と戦っているのか。

 彼女たちはどうして我々の目の前に現れたのか。

 そして、我々は彼女たちと共に、どこへ向かって進んでいるのだろうか、と。

 

    ◇

 

「これは……」

榛名に渡された本の付箋を貼られたページを開いた。そこに居並んでいるのは、私の全く知らない出来事の群れだった。

「これは、一体……?」

何かがおかしい。このページに書かれているべき出来事が、ほぼ全てと言っていいほど書かれておらず、その代わりに別の事柄がつらつらと綴られていた。

 本来ならこのページには、そう、あの出来事に関する記述が山のようにされているはずなのだ。

 第二次世界大戦。

 太平洋戦争。

 そしてそこで繰り広げられた様々な戦いや悲劇の記録が。

「さっきいおなさんが言いましたよね、世界は変わった、って」

榛名が沈黙を破り語りはじめた。橙色の瞳が、真摯に私に向けられていた。

「それは、ある意味で正解なのです。今私たちがいるこの世界は、私たちが艦として戦っていた世界とは違う世界なのですから」

榛名の、言っている言葉の意味がすぐには頭に入っていかなかった。

「この世界には、私たちが痛いほどによく知っている第二次世界大戦、そして太平洋戦争は存在しないのです。もちろん戦争は起こっているけど、その様相も、規模も、全くの別物」

榛名がゆっくりと向きを変え、静かに歩き始めた。その後ろを追いかけ、私は壁に掲げられた世界地図と向かい合った。

「この地図にも、私たちの知らない海峡や海の名前が記されています。私たちが走りまわった海も、姿は同じでも、名前が違うのです」

私は地図に一歩ずつ近づいていった。私の眼が地図に刻まれた文字を視認できる距離まで到達し、そこに記された名が頭の中の『記憶』と照合される。確かにそれは、私の艦としての記憶にはない海の名だった。

「それでも、この場所は私のよく知っている呉にそっくり。空も、海も、街並みも、空気の感触も」

榛名が眼を閉じ、自身もこの事実を再認識しようとするかのように深呼吸した。

「私たちがいるのは、そういう世界なの。似ているようでどこか違う、そんな世界。例えばそう、深海棲艦とか」

「しんかい、せいかん……」

その単語が纏う禍々しい何かが顔をなで、私は再び榛名と真正面から向かい合った。

「人間、そして私たち艦娘の敵、それが深海棲艦。『あの戦争』の時の負の魂の具現化、と言われているけど、今を以ってどういう存在なのか、なぜ人間と敵対するのかさえわからない謎の存在。そして、その深海棲艦と戦える唯一の存在が、私たち艦娘。その両者の戦いが存在するのが、この世界なの」

真摯な榛名の表情に、ほんのわずかだが複雑な感情が浮かぶのが分かった。しかしその表情はすぐに消え、彼女はこう続けた。

「だけど私は決めているの。確かにここは私の知っている世界ではないかもしれない。でも、大好きな場所と、大切な人のために、私は戦うって。そのために、私はここにいるって。勝手は! 榛名が! 許しません!」

揺るぎない自信と決意が、榛名にはあった。

 その表情をどこかで見たような気がして思い出し、結果いくつもの顔が浮かんできた。それは、艦に乗り組んでいた人たちが見せた、何かを守ろうと心から願い、必死に戦ってきた人たちの顔だった。フランスでも、ドイツでも、そして日本でも。そう心から願う人たちの顔は人種も民族も関係なく、皆同じような表情をしていた。

 彼女の決意が私の心の奥底に、僅かな、それでいて決定的なさざ波を立てていくのを、朧げにだが感じていたのだった。

 

    ◇

 

「さて、君のことについて調べることができた限りのことを話そうか」

軍令部から帰りついた提督が口を開き始めたのは、とうの昔に日も沈み、夜の帳がこの世界を支配し始めてからかなりの時間が経過してからのことだった。

 コの字型になるように置かれた応接ソファーのうちのひとり掛けの席に座る提督。そして私の隣には榛名が座り、テーブルを挟んだ向かい側には私を呉まで連れてきた艦隊の構成メンバーである日向・伊勢・陽炎・不知火が座っていた。どうしても直接説明を聞きたいという切望に提督が折れた結果、ということだった。

「昨日の君の着任後から、私の伝手や軍令部に協力をしてもらい、君に関連するであろう情報を集めてきた」

提督が床に置いていた鞄から数枚の書面を取り出し、静かにテーブルの上に置いた。

「まずは君の生まれたフランスに、『シュルクーフ』という潜水艦娘が存在するかについて、私の知り合いを通じて調べてもらった」

「司令にそんなコネが……」

「提督、若い時に士官留学生としてフランスとドイツにいらっしゃったことがあるそうですよ」

思わず漏れたといった趣の陽炎の呟きに、榛名がどこか誇らしげに補足していた。

「結果はすぐに分かった。その彼の管轄する軍港に彼女は所属していた。その特徴的な主砲も、ほぼ同じものを装備しているということだ」

提督が書類の一枚を取り上げ、それを私たち全員が見える位置に置いた。そこには写真が添付され、私の容姿に似た姿を持った女性がそこに映し出されていた。

「経歴も君が話したものとほぼ合致した。ただひとつ、商船との衝突の出来事だけ話が合わない。彼女が言うには、衝突後、二度と浮かび上がることなく、全乗組員と運命を共にした、彼女はそう証言している」

思わず反論しそうになったが、すぐに言葉をつづけた提督に遮られ、その機会を逸してしまった。

「そして、ドイツ側にも軍令部を通して確認を取った。そして帰ってきた結果がこれだ」

その言葉と同時に、先に置かれた書類を覆うようにもう一枚の書類が置かれた。ドイツ語で書かれたその書類にはこう書かれていた。

『調査の結果、当方の主張するU‐109による自由フランス海軍所属潜水艦『シュルクーフ』の拿捕や、それに伴うキール軍港への移送、ならびにUF‐4を名乗る戦利潜水艦の実験参加の事実をU‐109本人に確認したところ、そのすべてを明確に否定したことをここに伝達する』

「君が名を挙げたU‐109の艦娘もドイツに存在している。彼女本人に問いただしたところ、君の主張するような出来事は記憶にない。仮にその出来事が事実ならそれほど特徴的な艦の拿捕について覚えていないはずがないし、実験に関しては尚のことそうだ、ということだそうだ」

提督がそこで一旦言葉を切り、テーブルに置かれた湯呑を手に取り、冷茶を喉に流し込んだ。

「そこで、少し情報は少ないがある推測をすることができる」

提督が黒々とした瞳をこちらに向けてきた。

「推測、ですか?」

「そうだ。これまでの情報の中には君の主張と食い違いのない点もある以上、伊507という存在が全くの虚構である、とは少々言いづらい。だが、現にある時点から君の主張と関連する艦娘たちの主張が噛み合わない部分が出てきている。もちろん彼女たちが本当のことを話していないということも否定しきれない。しかしこの情報は私の信頼する筋を通ってもたらされた情報だ。私はこの情報はほぼ間違いなく真実を伝えていると確信している。そこで、あるひとつの推測を立てた」

提督が再び言葉を切り、もう一度続けた。

「その前に聞いておこう。君は、この世界のことについて、榛名から何か聞いたか?」

「えぇ、この世界は私たちが艦として生きていた世界とは違う世界、ということは……」

脳裏に、あの昼間に受けた衝撃がもう一度広がっていくのを感じていた。

「そうだ。この世界は君たちがいた世界とは違う世界だ。いわば並行世界、英語でいえばパラレルワールドだ。似ているところは多いが、違う点も多い。歴史の流れが違い、艦が人の形をとり、そして深海棲艦という謎の存在に世界を脅かされている。君たちが存在していた世界と並行する形で、我々の世界は存在している、と私個人は想像している。そして、似ているが違う世界がふたつ存在するなら、さらにそれによく似た世界がもうひとつ存在していても、決して不思議ではない。つまり――」

「私は、その『さらに別のよく似た世界』からこの世界にたどり着いた」

「――そういうことだ」

提督の言葉を引き継ぎ結論を口にした私の言葉を聞いて、改めて何か思うところがあるのか提督がひとつ息をつく。

「艦娘や深海棲艦については、我々は未だにその全てを科学的に解明できていないのが実情だ。敵対している深海棲艦はともかく味方側である艦娘でさえ、未だに分からないことだらけというわけだ。どのようにして人の身体として生まれてくるのか、なぜ深海棲艦との戦闘直後の海域をさまよっているのか、艤装はどのような仕組みになっているのか、どれも我々の理解の範疇を超えているのだよ。そんなあやふやな力に頼り、謎多き敵と戦う。言い方は悪いが、我々は今そのような状況下にある」

そういうと提督は私だけではなく、その場にいる全ての艦娘たちを見まわした。そのすべてが、提督の言葉に気分を害するようなそぶりも見せず、静かにその言葉に耳を傾けていた。

「ただひとつはっきりしていることがある。それは君たち艦娘たちが我々人類を信頼してくれているということだ。元いた世界とは違う世界に突然人の姿をなして転生し、その世界を蹂躙する謎の敵と戦ってほしいと懇願される。どう考えてもまともな状況ではない。しかし、君たち艦娘は我々の願いを快く引き受けてくれ、我々を守るために文字通り命がけで戦ってくれている。そんな君たちを、当然私も信頼している。それだけははっきりとした事実だ。その相互の信頼が、私たち人間と艦娘がこの世界にいることを可能にしている、そう私は思っている」

「榛名」

提督が突然彼女の名を呼び、その橙色の瞳を見つめた。

「ひとつ聞きたい。君は、彼女を信頼できるか」

瞳をそらすことなく、そう問うた。

「はい」

その答えはたった一言であった。しかし、これ以上ないというほどの説得力を持った一言であった。

「私はいおなさんを信頼しています。いおなさんは、私たちの味方です」

そういうと、橙色の瞳がこちらを見つめていた。気がつけば、それ以外の艦娘たちの瞳もこちらを見つめていた。そのいずれもが、榛名と同じ意味合いを持つ瞳を向けていた。

 その程度はそれぞれ違うかもしれない。しかし、共通しているものがひとつあった。

 今この瞬間、ひとりの艦娘として、私は見られている、と。

 それまでは、どこかわずかにだが疑念のようなものが私へ向けられる視線に混じっているような気がしていた。

 誰もがその存在を知らない、正に幽霊のような存在。その幽霊のような私を、隣に座る榛名は認めてくれた。警戒すべき対象としてではなく、信頼すべき仲間、と。

 その榛名の言葉を信じ、他の艦娘たちも程度は違えども信頼を示している。そう感じるようになった。

 その姿、特に日向に、ふとあの日呉で見た目の前でもうもうと煙を上げながらもあの呉の海に立ち続けていた姿が重なった。

 あの日、私は呉のために何もすることができないまま、片道切符の航海に旅立っていった。

 あの時私に何かできることがあったのかといえばそれはなかったのかもしれない。

 しかし、今の私なら、この呉の役に立つことができるかもしれない。そんな気がしてきていた。

ふと脳裡を、一節の歌詞が流れた。よくよく考えたら、この歌こそ私をこの呉へ導く何かを作ったのかもしれなかった。

 最後に辿り着いたこの呉を守りたい。そんな気持ちが少しずつ湧き上がってくるのを感じていた。

「――そうか。みんなの気持ちはよく分かった」

全員の顔をもう一度見渡してから、ゆっくりと提督が口を開いた。

「伊507、いや、榛名にならっていおな、と呼ぼうか」

「はい」

何度目か分からない視線の接触。

 しかしその時初めて、彼が信頼の籠った視線を送ってきているのを感じたのだった。

「君を正式に呉鎮守府所属艦娘として迎え入れることをここに決定する」

そういうと提督は立ち上がり、静かに手を差し出した。私は、戸惑いながらも手を伸ばし、そっとその手に触れた。そこから伝わる暖かい感覚を感じ取り、それが心に最後まで残っていた何かを取り払ったようだった。

「よろしく、おねがいします」

私はゆっくりと、控え目に提督のごつごつとした少し堅いその手を握った。

 止まっていた歯車が動き出したような、そんな瞬間だった。

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