名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも 波に幾月
旧の木は生いや茂れる
枝は尚 影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身の浮寝の旅ぞ
呉軍港の岸壁の突端に腰をおろし、夏の朝日に輝く呉の海を眺めながら、慣れ親しんだ唄を口ずさむ。
故郷の唄ではない、言うなれば遠く遠い異国の唄。
それなのに、どこか心に染み渡るような、心を締めつけるような、言語がなせる表現の先にある感情を抱かせる不思議な唄。
この唄をはじめ多くの唄を聞かせてくれた『彼女』の面影を海に重ねながら、歌い続ける。その唄は穏やかに凪ぐ海原を渡り、この世界へ沁み入っているようだった。
「あ、いおなちゃんここにいたの?」
不意に背後から快活な少女の声が飛び込んできた。振り返ると、セーラー服のようなノースリーブをまとい、そこから垣間見える水着の先から小麦色に焼けた肌を晒す少女の姿が目に入った。
「朝目が覚めたらベッドにいなかったから、こんな朝っぱらからどこに行ったのかなって探したんだよぉ?」
少し怒ったような口調で話すが、その明るい声質のためにあまり怒っているようには聞こえなかった。むしろ怒っている、と見せているほんの少しのわざとらしさに彼女の無邪気さを感じ、僅かにではあるが、頬が緩んだ。
「ちょっと、歌いたくなって。部屋で歌ったら、迷惑だから」
不意に吹く風にはためくブロンドの髪を手で押さえ、立ち上がって彼女と向き合った。
「それはまぁ、そうだけどさ、せめて書き置きぐらいはしてほしいかな、『岸壁でちょっと歌ってきます』とか」
次からは約束ね? と念を押す彼女に小さく頷く。ひとまずは納得してくれたようだった。
「ところで、今の歌、日本の歌だよね? 歌詞は日本語だったし。なんていう曲なの?」
彼女はこの曲を知らないようだった。この唄が生まれた国とは違う国で生を受けた者が、その唄の『祖国』の者へ唄の内容を教える。何とも言い難いちぐはぐな出来事に思わず苦笑しながら、私は彼女に教えてあげることにした。
「『椰子の実』って唄。海辺に流れ着いた遠い異国からやってきたであろう椰子の実のことを歌った曲よ。この椰子の実が旅立った場所は今どうなっているのだろうか、そして私自身の故郷も今、どうなっているのだろう、って……」
教えてあげながら、ふと脳裡に懐かしい風景が浮かんだ。
生まれ故郷、フランス北西部の海沿いの街、シェルブール。その海の色と、海の先にある今この地とは違う色合いに彩られた街が、私の原風景。
この呉から遠く離れた場所にあるであろうあの風景は、今もあの時のままなのだろうか、それとも劇的に変わってしまっているのだろうか。そもそも、この世界にも、あの土地はあるのだろうか……。
何気ないきっかけに湧き上がるその想いが涙腺を少し緩めてしまったのか、目尻に僅かに涙が滲んでくるのが分かった。
「……どうしたのいおなちゃん?」
彼女もその涙に気がついたらしい。自分が何か変なことを言ってしまったのではないかと心配している様が手に取るように理解できた。
「――なんでもない」
私は少し意識的に笑顔を作り、そっと目尻の涙をぬぐった。
「なんでもないよ、しおいちゃん」
「ホントに? ホントになんでもないの?」
彼女、帝国海軍潜水艦伊401こと、しおいはしつこく訊いてくる。その無邪気さの中に垣間見える姉のような優しさを感じないわけではなかったが、
「なんでもない」
今はそう答えておくことにした。
ふたりの距離は近いようで遠い。何かが伝わりそうで、伝わらなさそうで。そんな感慨を今まさに抱いていた。
◇
私は、呉鎮守府所属の艦娘だ。昨日夜も遅くに急きょ開かれた提督による紹介によって、私伊507、いや、いおなは呉鎮守府所属艦娘の一員、仲間として迎え入れられることになった。夜遅くの出来事だったにもかかわらず、艦娘のみんなは私のことを暖かく迎え入れてくれた。もちろん全ての艦娘が無条件に快く迎え入れてくれたとは思わないが、それでも大多数の艦娘は私が仲間に加わってくれることを歓迎してくれていた。私の『事情』を知りながらも。
紹介の後に私の周りにたくさんの艦娘が集まり、あれこれと話をした。それは簡単な自己紹介のようなもので、特段に深い話をしたわけではない。そのあと、私が暮らすことになる部屋の同居人である伊401ことしおいが紹介され、その場で話をし、部屋に戻ってからも話は少し続いた。
しかし、私は朧げにではあるが感じていた。私と、他の艦娘との間の『ずれ』を。
どこがどうずれているのか、具体的には分からない。ただ、私と皆の間には不可視の断層が横たわっている、そう私には感じられた。
私が、彼女たちとまた違う別の世界からやってきた、という埋めがたい違いという名の断層が。
「もうすぐ起床時間だよ、そろそろ部屋に戻って準備しよ?」
しおいが私の手を取り、引っ張るように連れて行こうとした。
私は手を引かれるままに彼女の後を追い、岸壁を離れる。やはり無邪気に私の先を歩く彼女の後姿を、どこか遠い世界にいるかのように感じながら眺めていた。
軽快にリズムを刻むピアノの音色に合わせ、整列した艦娘たちが腕を、上体をそれぞれ動かす。列をなして身体を動かす艦娘たちの前には秘書艦―この鎮守府に属する艦娘のトップらしい―を務める榛名が笑顔で手本となる動きを見せている。
ラジオ体操、というこの国の運動の一種なのだそうだ。鎮守府に属する艦娘だけではなく、夏になれば休暇の子どもたちも各々集まり行う夏の恒例行事、とこの場に着く直前にしおいが教えてくれた。
動きを何も知らない私は、すぐそばで元気に身体を動かすしおい、そして列の先で台に立つ榛名の動きを見よう見まねでやるしかない。もっとも、それほど複雑な動きをするわけではないので、すぐに覚えられるだろうが。
軽快なピアノの音色と、凛とした榛名の掛け声が朝の夏空に響く。上体を反らす運動で自然に視線が上を向いた。目の前に広がる青空には早くも入道雲が出来上がりはじめていた。今日も暑い一日になりそうだった。
ラジオ体操を終えたその足で、私たちは朝食を摂りに食堂へ向かう。一緒に体操をしていた重巡や戦艦、空母の艦娘たちは各々会話を交わしながら私たちとは別の場所へ歩いて行った。
「あの人たち、食事は?」
「あぁ、重巡や戦艦の先輩たちは私たちのあとが食事の時間なの。艦娘もたくさんいるから、艦種ごとに食事時間が分かれているんだよ」
私の素朴な疑問にしおいが答えてくれた。艦種が上位になればなるほど艦娘の外見年齢は上がっていく。艦の建造年はともかく、彼女たちを先輩と呼ぶことについてはあまり違和感を覚えなかった。
「先輩より先に食事するの?」
私にはそのことが気にかかった。軍隊では先輩や上官が全てにおいて優先されていた記憶がハッキリと残っていたからだった。海軍の主力である戦艦や空母は、私たちの上官には当たらないのだろうか。
「普通ならそうなんだけど、ほら、戦艦のみんなとか空母のみんなとかたくさん食べるから……、私たちの食事先にしないと食材がね、なくなっちゃうんだって」
「――なくなるんだ」
確かに戦艦や空母は私たち潜水艦よりもはるかに大量の資源を必要とするのは知っていた。ただ、それによって食材が『枯渇』するなどということが起こるということに、少しばかりではない驚きを感じていた。
そんな会話をしている間に私たちは食堂に着いた。食堂には食欲を呼び起こす朝食の香りに満ち溢れ、食堂のテーブルにはすでに到着していた駆逐艦娘たちが席に着き食事を始めている姿が目に入った。
「こっちこっち」
しおいの手招きに従うままに、私は配膳に列をなす艦娘たちの後ろに並んだ。列の先では一人の女性が一人ずつに食事を渡していた。和装のその女性は、ポニーテールに結んだつややかな黒髪を揺らしながら笑顔とともに食事の載ったプレートを渡していく。その姿に私は、我々にはいるはずのない存在を連想させた。
「ママ……?」
「どしたの?」
喧騒に包まれた食堂でもしおいの距離からでは私の呟きが聞こえたようで、今日何度されたか分からない顔の覗き込みをまた受けることになった。
「いや、なんだかあの人、母親みたい、って……」
「あ、鳳翔さん? そうねー、私たちからしたらお母さんみたいな存在だよね。毎日美味しいご飯を作ってくれて、いろいろな悩みとか聞いてもらったし」
私もいろいろお世話になったかな、と笑うしおいの声を聞きながら、私は決して全ての事柄において私と周りがずれているわけではない、と認識していた。そして、あの女性が昨日私の食事を作ってくれた鳳翔という人なのだ、ということも理解した。
食事というものにはその作り手の人柄が出るものなのかもしれない。私はそんなことを考えた。目の前で食事を渡していくその姿には、優しさや暖かさ、そして懐の広さ、そのようなものがほんの僅かにだが垣間見えるように感じた。
「鳳翔さん、私朝食Aセット! いおなちゃんは?」
「あ……、私も、Aセット、で……」
順番が巡って私はしおいと並んで鳳翔と向かい合った。初めて出会う彼女になぜか萎縮してしまい、答える声が小さくなってしまった。
「はい、Aセットふたつね。あと、はじめましていおなちゃん、軽空母の鳳翔です。といっても、普段は海に出ている時間より厨房やお店にいる時間の方が長くなってしまっているのだけど。よろしくね」
丁寧に頭を下げる鳳翔にならって私も頭を下げる。普通の人間の手によって食事が作られていると想像していた私にとって、彼女が艦娘であるというのはちょっとした驚きだった。
「はい、Aセットふたつね、しっかり食べていらっしゃい」
そんな一言を添えて彼女が食事の載ったプレートを私たちに手渡してくれた。
「いただきます!」
「――いただきます」
しおいに倣い料理を作ってくれた彼女への感謝の意を伝えて、テーブルへと足を向ける。ちらと視線を向けた先には、美味しそうに湯気を立てる朝食が食事の時を待っていた。
見よう見まねで覚えた箸の使い方に早くも馴染んできた私は、食事を口にしながらあることを考えていた。
船は、造船所で生まれ、そのドックから私たちが生きる世界である海へと生まれ出ていく。いうなれば、私たちの母はそのドック、ということになる。では、父親とは一体誰なのだろうか。私たちを設計した人なのだろうか、それとも私たちを発注した人、つまり軍なのだろうか。
そんな艦の記憶―いや、ここは魂というべきか―を持って生まれてくる私たち艦娘には当然両親がいない。私たちは鎮守府に置かれた建造ドックや、はたまたどこか分からぬ場所からこの世に生まれてきて、気がつけばドックの中か海原にひとり立っている。
そこに人間の親のような存在は、いない。
そんな我々から見れば、鳳翔のような存在は、いないはずの『母親』のように感じられた。
――人間は、母親という存在がいるからこそ、ひとりの人間として成長できるのだろうか。
――それならば、母親という存在のいない私たちは、どのように成長していくのだろうか。
艦という存在では決して考えなかったであろうことを考えながら、私は味噌汁を啜った。
「――どうしたの? すごく難しそうな顔してるけど」
向かい側に座っているしおいの声で、私の意識はこの世界に戻ってきた。
「ちょっと、考え事」
「考え事?」
「うん。……母親って、どんな存在なのかな、って」
彼女はこのことをどう考えているのだろうか、そのことが気になって、私は率直に訊ねてみることにした。
「そうだねー、私たち艦娘に親っていないもんね。だから私もはっきりとはわかんないけど、やっぱり鳳翔さんみたいな人なんじゃないかな?」
しおいの視線を追いかける。そこには今も朝食を出し続ける彼女の姿があった。自分と同じようなことを考えている人がいる、それを知った瞬間、私は少し安心した気がした。
「そんな難しいこと考えてないで、朝ごはん食べちゃおうよ。冷めたら美味しくなくなっちゃうよ?」
とてもおいしそうに白米を頬張るしおいに倣って、私もご飯を食べることに集中することにした。白米を箸で取り、口に含む。舌にその旨味が広がっていく。旨味が先ほどよりもより感じられるような気がしたが、またあれこれと考えることは止めておくことにした。
◇
「授業を始めるよー。はい教科書の32ページを開いて……」
広々とした講堂に、伊勢の声が響く。講堂のあちこちから教科書を開く音が聞こえる。私もそれに倣って教科書を開き、黒板に板書を始める伊勢の話を漫然と聞いていた。
朝食を終え、各艦娘のその日一日の活動の予定を確認して、それぞれの持ち場へと散っていく。新たに掲示板に書き加えられた私の名の横には、午前、そして午後共に講義という予定が刻まれていた。
今行われているのは、私たちが今まさに生きているこの世界の歴史についてだった。といってもそれほど深く教え込むものではないようで、最低限覚えておいてほしい事柄だけを教える集中講座のようなものになっていた。
艦娘には教養だけではなく各々が装備する艤装の取り扱いなどといった実地訓練も必要だ。双方に時間を割かなければならない以上、どうしてもこのような教室で机を並べる時間は限られ、必然的にこのような集中講義の形式になってしまうようだった。
教えられていたのは、私たちが元いた世界―私と他のみんなでは少しずれているかもしれないが―でいう第二次世界大戦に相当する時期の話だった。そして、黒板を踊る事柄に、私たちの知っている出来事はほぼない。
周囲を見回してみた。周囲のほとんどは新任の駆逐艦で、中には軽巡や軽空母、といった様子の姿も見えた。その誰もが真剣に講義を聞き、ノートにメモを取る。そう、彼女たちにとっても、ここは違う世界なのだ。その事実を今更ながらに痛感した私は、視線を教科書に落とし、耳を講義する伊勢に傾けた。
そう、環境が変わってしまったのは私だけではない。艦娘ならば大なり小なりそれは同じこと。先ほどまでの考えを振り払うかのようにそう自分に言い聞かせ、今度こそ私は授業に集中することにした。
その様子を講堂の入り口の窓から密かに見つめるふたりの姿があったことに気がついた者は、いおなや教壇に立っていた伊勢をはじめ誰ひとりいなかった。
「いおなさん、ちゃんと勉強していましたね」
講堂を出て、艦隊司令部を構える建物へ向かう道を歩きながらそう語る榛名の声色は、どこか嬉しそうだった。
「まぁ、しばらくは様子見だな。特別演習を行うのは、あと数日見てから考えよう」
榛名の隣を歩く提督も、心なしか安堵しているように感じられた。
「それにしても、ローレライの眼とは、一体どういう能力なのでしょうか」
まるでおとぎ話の世界の中の物のようです、と榛名が続ける。
おとぎ話、か。我々人間からすれば、彼女たち艦娘の存在の時点で、十分すぎるほどに『おとぎ話』のようなものなのだが。そう思ったが、それは口に出さないことにした。
「まだそこまでは聞きだしていないから何とも言えん。そういえば……」
「そういえば?」
「今朝鳳翔がこんなことを言っていたな、朝早くに、岸壁からとても美しい歌声が聞こえた、と」
「歌声、ですか……?」
榛名が考え込むが、彼女の知る艦娘の中で、朝から歌うようなことをする娘は、どうにも思い当たらなかった。話題から、すぐにその歌い手と彼女がつながっていく。
「そうだ、歌声だ。実はな、ローレライの伝説というのは歌声が鍵、と言われているそうだ。船乗りはライン川の難所に響く美しい歌声に誘われ難破する、とね」
鳳翔の言葉が、ドイツに留学していた頃、仲良くなったドイツ軍の歳の近い士官が話してくれたその伝説を思い出させた。そして同時に、伊507が呉へやってくるその日の朝に行きの車の中で聞こえた、あの歌声も思い出させた。
そういえばあの歌声も、物悲しさを覚えさせるような美しい歌声だった。
あちこちに散らばったピースが組み合うごとに、不思議とあの日聞いた歌声が記憶の中で鮮明になっていくように感じられ、提督は若干の恐ろしささえ感じてしまっていた。
あの唄声は、その『ローレライの眼』というものと関係があるのだろうか。それを知るのには、もう少し時間がかかるようだった。
「もしかして、その唄声というのは……」
榛名も同じことを考えるにいたったようだった。
「まぁ、すべては憶測の話でしかない」
自らの発言によりこのような憶測が始まってしまったことを棚に上げるかのような台詞によって、提督はその話題を打ち切った。
「いずれ分かる。彼女とともに過ごせば、いずれ」
提督は制帽を外し、頭を掻いた。
「いずれ分かるって……、不安にさせたのは提督ですよ?」
榛名の言うとおりだった。
だが、これまでの出来事の断片を組み合わせれば組み合わせるほどに伊507の姿に近づいていくのもまた事実であった。
ローレライ、か……。
口には出さなかったが、そのひとつの単語が妙に重みを持ったような気がした。
もう一度、あの日の朝聞いた歌声を思い出した。美しく、優しく、そしてどこか物悲しさを感じさせるその唄声。
ただ、思い返せば思い返すほどに、こうも思うのだった。
あの唄が、本当に我々を破滅へ導くだろうか、と。
「案外、破滅するのはあちらのほうなのかもしれないな」
無意識のうちにそう漏らしてしまっていた。
「――はい?」
タイミングを見計らったかのように蝉時雨がふたりに降り注ぐ。榛名には呟きがよく聞きとれなかったようだった。
「いや、なんでもない」
今度こそ本当に取りとめのない話を終わらせるために、蝉時雨に負けないよう声を張る。
気がつけば司令部が入る建物の通用口の前まで来ていた。榛名が開けてくれたドアをくぐり中へ入る。首筋を流れる汗をハンカチでぬぐい、ふたりは執務室へと戻っていった。
◇
「ねぇ、いおなちゃんでしょ、青葉日報の『ローレライの歌声』の持ち主って」
夕食を終えて自室に戻り、図書室で借りてきた本を読む私にしおいがそんな話題を振ってきた。
「――ローレライの、歌声?」
その単語に、ページをめくっていた手が思わず止まった。
「そうそう、『朝の鎮守府に謎の歌声響く』って見出しにあったから。たぶんこれっていおなちゃんの歌声の事だよ、うん間違いないよ」
自分のベッドに腰を下ろしたしおいがそういった。
「ところで、『青葉日報』って?」
「あ、重巡の青葉先輩が作っている自主製作の新聞のことだよ。鎮守府の中の出来事に関しては、もしかしたら司令より詳しいかもね」
私はその言葉に軽くふうん、と返しておいた。その
その時、しおいをはじめこの鎮守府のみんなはどんな反応をするのだろうか。
そういえば、まだ提督にすらどのような能力かを具体的には教えていなかった。尋ねてこないということは自身で口にするのを待っているのだろうが、まだ言いだせずにいたのだった。
私の能力は、自分で言うのもおかしな話だがあまりに荒唐無稽な代物だ。それを知った時の皆の反応で想像できるものがどれも悲観的なものばかりになった私は、そっと本を閉じることにした。「ねぇいおなちゃん」
再びしおいが声をかけたのは、本を閉じてからふた呼吸ほど間があってからだった。
「私、いおなちゃんの歌、ちゃんと聞いてみたいな」
それは、あまりに唐突なお願いだった。しおいに向けた顔は、恐らく間が抜けたような顔をしているのだろう。
「私の、唄を?」
「うん、朝の時は途中しか聞けなかったでしょ? だから、今度はちゃんと聞いてみたいな、って」
顔の前で手を合わせ懇願するしおいと真正面から向かい合う形になった。
それにしても、なぜ彼女はここまで私に素直に好意を示してくれるのだろうか。私と同室だからだろうか、同じ潜水艦娘だからだろうか、それとも、同じ鎮守府の『仲間』だからだろうか……。
「……ダメ?」
ただ、いつまでも懇願のポーズを示され続けるのは、さすがに気が引けた。私は軽く咳払いした。息を吸い込み、私は口を開いた。
なじかは知らねど心詫びて
昔の伝えはそぞろ身にしむ
寂しく暮れゆくラインの
いりひに山々あかく映ゆる
口を衝いて出たのは、滑らかなドイツ語の歌詞だった。眼を閉じながら、静かにその唄を歌い続ける。歌の名は、ローレライ。
麗し乙女のいわおに立ちて
小金の櫛とり髪の乱れを
櫛きつつ口ずさぶ歌の声の
くすしき
なぜこの唄を選んだのか、自分でもよく分からなかった。
もしかしたら、彼女の反応を見たかったのかもしれない。『ローレライ』と呼ばれる私のこの唄声を、どう思うのか、と。
漕ぎゆく舟人歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むる人も舟も
くすしき
唄い終わり、私は静かに瞼を開いた。そこには、先ほどと変わらずにしおいが座っていた。
静かに拍手をする、彼女が。
「すてきな歌だね」
彼女はまず一言そういった。
「これはね、『ローレライ』って唄なの」
私は、静かに語りはじめた。まるで、私の正体でも明かすかのように。
「ドイツのライン川には、船乗りを惑わせて沈めてしまう妖精、ローレライがいるという伝説があるの。その伝説を唄ったのが、この唄。その唄声を聞くと、誰もが心を惑わされ、優秀な船乗りでさえ難破してしまう。だからこの唄は艦娘らしからぬ唄、なのかもしれない」
『彼女』が今の話を聞いたら、どう思うのだろうか。その考えへ思い至ったのは、全てを話してしまってからだった。
「そうなんだ……」
しおいは私の話を聞くと、少しの間何か考え込んでいるようだった。視線を下げ、思案する僅かのようでそうではない時間が流れ、彼女は視線を上げた。
「でも、いおなさんの声は、とても優しい声だよ」
視線が真っ向からぶつかる中、放たれたのはそんな一言だった。
「――え?」
「その伝説の中のローレライって妖精は船を沈めちゃうかもしれないけど、いおなちゃんの歌声はそうじゃない気がする。こう、うまく説明できないんだけど……、とにかく! いおなちゃんの唄は、とっても優しい気持ちになるの! そんな唄を歌えるいおなちゃんは、きっと優しい人だと、思うの」
その言葉に、私は頭を撃たれたかのような衝撃を受けたような気がした。
ここに来てからずっと感じ続けていた『壁』。
私が感じていたその壁を、作っていたのは恐らくは自分だったのだ。
仲間と近づきたいと思いながらも、自らで壁を作って距離を置いてしまう。
そんな矛盾したことをやっていたことに、今ようやく気がついたのだった。
「優しい人、ね……。私、本当にそんな人なのかな?」
「うん、いおなちゃんは優しい人だよ」
二度目は断言に近かった。その言葉を聞いて、ようやく心の底からこう感じることができるようになっていた。
彼女は、少なくとも彼女は、私の本当の『仲間』なのだ、と。
「ねぇ、変なこと聞くけど」
「なに?」
私は軽く息を吸って、吐いた。そして、口を再び開いて、こう尋ねた。
「私たちって、友達、だよね?」
ともだち。
トモダチ。
友達。
私には、その言葉には妙な力がこもっているような気がした。私を支えてくれる、そんな力を持っているのではないかという、そんな気が。
「もちろん、友達だよ! どうしたの? そんな当たり前のこと聞いて」
しおいは、笑いながら私の問いに答えてくれた。
そう、彼女はとっくの昔にそう思っていたのだった。私が、そう感じ取れていなかった、それだけの話だった。
「ううん、なんでもないの」
私はいつもの調子で返したつもりだった。けれどどうもそうではなかったらしい。しおいが私の顔を見ながらさも可笑しそうな顔をして、ついに声を出して笑い始めた。
それにつられて私も顔がほころぶ。そして気がつけば互いに声を上げて笑い合っていた。
ここまで笑うのは、もしかしたらこの姿になって初めてだったかもしれなかった。
そして、ついさっきまで感じていた距離が、少し縮まったように感じられた。
歯車が、またひとつ回った瞬間だった。
◇
あれから、鎮守府での生活は少しずつ変わっていった。しおいを通して他の艦娘たちと交友を重ね、私をこの呉までいざなってくれた日向たちとも少しずつ話すようになった。
まだまだぎこちない会話だが、会話をすれば少しでも互いのことは分かる。当たり前の話ではあるけれど、あのときまでの私はそれができていなかった。それができるようになったということは、私も、少しは進歩したのだろうか。
そんな日々が一週間ほど過ぎたある日、私の予定に『特別演習』の文字が刻まれた。
いよいよその日が来た。
私は不安と期待の入り混じる感情を抱きながら、その文字を見つめていた。
◇
「それでは、特別演習前の演習説明をはじめます」
司令部の入る建物の一階に設けられた作戦会議所のブースの一角に私は座っていた。
黒板の前には榛名が立ち作戦内容を板書し、上座には提督、そしてコの字型のテーブルには私としおい、その向かい側には今回の演習の相手となる呉鎮守府所属の潜水艦娘、伊58、伊168、伊19、伊8がずらりと並んでいた。彼女たちは私としおいが暮らす部屋の隣室の住人であり、私よりはるか前から在籍する『先輩』たちだった。
今回の演習の内容は、私としおいによる艦隊と伊58を旗艦とする対抗艦隊との模擬戦。あくまでしおいは同伴で、演習の主体は私。その演習を秘書艦として榛名が監視することになっていた。
「今回の演習は、いおなが持つ装備、PsMB‐1の能力試験がメインだ。この装備がどのような能力を持ち、どう活かせるか、それを探る」
最後に提督が今回の演習の目的を話し始めた。私のもつ『ローレライの眼』正式名PsMB‐1の能力については、まだ提督にすら具体的には話していない。言葉で話すより、実際にその実力を発揮したほうがより理解してくれるだろう。そう考えて今までこの装備について話すことはしなかったが、本当に理解してくれるだろうか、という不安もまだ残ってはいた。
「それでは演習説明を終わります。出航準備を始めてください」
榛名の号令を受けて、それぞれ海へ出るための準備に入っていった。
「行こう、いおなちゃん」
いつも通りのしおいに連れられ、私も作戦会議所を後にした。
「いおな」
出口を出ようとするとき、提督が私を呼びとめた。
「なんでしょうか」
「出航するときだが、念のため最低限の実弾を装備して出撃するように」
演習中でさえ実弾を用意しておけ。それは、この海に決して完全なる平和が訪れているわけではないということを如実に表していた。
「鎮守府によってはそのような措置をとっていないところもあるが、何が起こるか分からない。準備だけはしておくように」
「はっ」
敬礼する私に提督は「同志討ちは避けるように」と言い残して去っていった。
私はもう一度気を引き締め、今度こそ出航の準備へ向かうことにした。
◇
一時間後、私はしおいを引き連れて湾抜けて瀬戸内海沖に設定されている訓練区域『イ』を目指して泳いでいた。私たちのもう数キロ先を伊58―あだ名は、ゴーヤ、だったっけ―率いる対抗の艦隊が進んでいるはずだった。
訓練区域に到着し、私は一度海面へ浮上した。浮上した海面のすぐ横には、監視役を務める榛名が佇んでいた。
「伊507、訓練区域『イ』に到着いたしました。これより演習に入ります」
榛名に敬礼し、演習開始を報告した。
「お気をつけて」
答礼する榛名の姿を横目に、私はもう一度潜行した。もう潜って待っているしおいと隊列を組む。こちらを見ているしおいに一度頷き、演習開始を伝えた。同時に手先まで通じている神経に意識を集中させ、静かに目を閉じこう念じた。
『ペー・エス・エム・ペー・アインツ、ベヴェーグング・フェングト・アン(PsMB‐1、起動開始)』
手先に触れる海水から意識が海原へ染み出すように広がり、広大な海と一体になるかのような感覚を得ていく。瞼をゆっくりと開く。そこには、今まで視界が捉えていた世界とは違う、別の視点で視た海中の世界が広がっていた。
水圧の差がヴェールのような襞を作り、複雑なラインを描く岩礁がはるか下に広がる。
魚がはるか先を泳ぐ姿が見え、そしてその先を泳ぐ、一定間隔を開け泳ぐ対抗艦隊の艦娘の姿を見つけることができた。互いに顔を見やりながら、演習が始まるのを待っているようだった。距離は恐らく5キロほど。それだけの距離がある魚・岩礁・艦艇、いかなるものでも目視で確認するかの如く認知することができる。それがこの『ローレライの眼』の力だった。
ひとりゆっくりと前進し、相手艦隊との距離を詰め、雷撃で確実に撃沈できる距離まで近づいていく。未だに感づかれている様子は、ない。
周囲を見渡すもう一つの視界の中に見慣れないシルエット、そしてオーラを探知したのはその時だった。大きさは非常に小さい。数はひとつ、そして、漂う負のオーラ。
深海棲艦、駆逐イ級。数日前の座学で教わった敵の艦種の判別が、早くも活きる時がやってきた。
その姿が向かう先には鎮守府がある。駆逐艦一隻とはいえ、見逃すわけにはいかない。私は進路を変え、『敵』へ向けて進路をとる。慌ててしおいが後を追いかける中、私は早くも雷撃態勢に入っていた。魚雷の調整を素早く終え、雷撃の態勢に入る。今、自分が使っている能力の事を忘れて。
「魚雷用意、撃てっ!」
用意した魚雷が手元を離れ、一目散に海中を走る。もちろん、対深海棲艦用の、実弾だ。雷撃に気がついたのか、イ級が回避行動に入るがもう遅い。
放たれた魚雷は吸い込まれるようにイ級の身体に突き刺さり、炸裂した。鉛色の身体が四散し、その原型を失った。
痛い。
熱い。
助けてくれ。
死にたくない。
なぜ。
何故。
ナゼ?
衝撃、爆発音、閃光。
そのいずれよりも早く到達した『何か』が身体、そして心を貫いた。そして、その身体を幾多もの『声』が襲いかかってきた。
神経に灼熱した鉄棒を押し付けられたような、身体を引きちぎられるような、とても言葉に言い表しがたい痛みが身体を襲った。
声にならない叫びが身体の中にあった酸素を吐き出させ、視界が明滅し歪む。もがいて海面へ上がろうとするが、身体が上手く動かない。やがてその『声』すら遠のいていき、歪んだ視界が薄れていく。
――助けて。
そう叫ぶこともかなわないまま、意識は急速に遠のいていった。
それは、あまりに唐突な出来事だった。単独で行動している駆逐イ級の発見が遅れ、先に発見し雷撃態勢へ入ったいおなに追従したしおいが最終的に目にしたのは、何かを強烈に恐れ、苦悶の表情を浮かべもがき、そして意識を失った彼女の姿だった。
「いおなちゃんッ!」
意識を手放し沈降していく彼女の姿を見つけ、しおいは必死に彼女に取り付き、必死に引き上げる。だが、完全に意識を失ってしまった身体は、とても人の身体を持ちあげているとは思えないほどに重かった。
必死の思いでいおなの身体を海面へ引き上げたところで、事態に気がついたゴーヤたちも駆けつけてきた。
「しおいちゃん! いおなちゃんに何があったのでちか!」
意識を完全に失ったいおなの姿に、多くの作戦出撃も経験している彼女たちも驚きを隠せなかった。攻撃を仕掛けた後に意識を失った艦娘なんて、聞いた試しがなかった。
「しおいさん!」
海面に必死にいおなの身体を浮かべ続けようと試行錯誤するしおいたちの姿を見つけ、榛名が海面を滑ってやってきた。
「榛名先輩、すぐに助けを、救助の船を呼んでくださいッ!」
パニック状態のしおいに急かされるように榛名は無線の回線を開き救助を呼んでいた。だが海域から鎮守府までは距離がある。救助の船の到着には時間がかかりそうだった。
「いおなちゃん、しっかりして。ねぇいおなちゃん!」
意識を失ったいおなに向けた声は、救助船が来るまでの間中途絶えることなく海原に響き続けていた。