椰子の実と魔女   作:蒼崎一希

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第四話

 蒼い空、照りつける陽光、そして白い波の立つ大海原。

 その大海原を進む、黒々とした巨大な鋼鉄の巨鯨。

――ここは、どこだろうか。

 その答えはあまり時間のかからないうちに理解できた。

 ――あぁ、ここは、私の上だ。

 陸を離れ、はるか遠洋を進む『私』。

 帝国海軍の潜水艦伊400の登場まで世界最大の潜水艦として大海原を駆け巡った、艦としての私だった。

 

 身をとりて 胸にあつれば

 新なり 流離の憂

 

 その艦体のどこかから、波の音に決して負けずに響き続けるひとつの声があった。

 優しく、悲しく、そして美しく。心の琴線を激しく揺さぶられるような、何か未知なる力を秘めていると感じられる声だった。

 声のする方に視線を向けた。

 

 海の日の 沈むを見れば

 激り落つ 異郷の涙

 

 ――あぁ、また、出会えた。

 そこには、生涯忘れられない人が鋼の皮膚に腰掛け、唄い続けていた。

 今の私を作った人。私の運命を変えた人。私に、たくさんの唄を教えてくれた人。

 そして、私に「眼」の力を与えてくれた人。

 黒髪が海風に靡く。私の斜め前に腰掛けているその人の横顔が、僅かに覗いた。

 

 思いやる 八重の汐々

 いずれの日か 国に帰らん

 唄い終わった彼女が、余韻の中静かに海を眺めていた。その顔が、不意にこちらを向き、視線があった。彼女の名は、パウラ・アツコ・エブナー。過酷な運命を背負い、それでもその運命と向き合い、生き続けた少女。

 パウラの唇が、小さく動いた。何かを口にしたようだったが、発されている言葉は聞きとれない。彼女が何かを口にしている。しかし、その言葉で彼女が伝えたいことは、私に伝わらない。

 待って、もう一度聞かせて。私には、あなたの言葉が必要なの。

 そう叫ぼうとするが、その声もまた届かず、私の心の中でのみ響いていた。

 彼女が何かを伝え終えて、優しげな笑みを浮かべた。

 待って、私はまだ何も受け取っていない。何も返せていない。

 待って、待って!

 その叫びを遮るように、世界が、どんどんと遠くなっていく。

 視界がぼやけ、あやふやになっていく世界に手を伸ばしてみたが、その手は何も掴むことなく、やがて腕自身もぼやけ、その世界は急速に姿を消していった。

 ――私は。

 ――私は、一体、どうすれば。

 

    ◇

 

「ねぇ不知火聞いた?」

午前中に入っていた遠征任務を終え昼食を摂りに食堂へ歩いていた不知火に背後から弾むような声が掛けられた。陽炎の声だと振り返らずとも分かった。

「いおなちゃん、今日の午前中の特別演習でいきなり気失っちゃったんだって!」

一体どのような他愛のない話だろうかと思いながら聞き始めた不知火の耳に飛び込んできたのは、予想の斜め上をいくとんでもない出来事だった。

「――気を失った?」

そこでようやく不知火は陽炎の顔をまじまじと見た。彼女の表情は驚きと衝撃で満ち溢れている。不知火もようやく事の重大さを理解し始めていた。

「私今日午前が非番だったでしょ? それで暇持て余してランニングしていたら、昼前にいきなり岸壁に停泊していた救難艇が出航していくのを見て何事かなって思っていたの。そうしたらしばらくして榛名先輩に護衛されて救難艇が帰ってきて、タラップがかけられると同時にしおいちゃんがピクリとも動かないいおなちゃんを担いで飛び出して来たのよ」

「演習中に衝突事故でも起こしたのかしら?」

不知火はあるふたりの駆逐艦娘を連想しながらそう想像した。衝突も打ち所が悪ければ気を失ってしまうことも十分に考えられた。

「でもそれならぶつかった時に痣のひとつやふたつできても不思議じゃないじゃない? でも見た限りそんな傷もなかったし、駆けつけてきた明石さんに榛名さんが『急に意識を失って』って話しているところを聞いたから、何か別に理由があるんじゃないかな、って……」

陽炎の話を聞きながら、不知火は疑問を深めていた。

 海上で戦う、それも人間の持つ武力が一切歯の立たない深海棲艦と渡り合えるほどの戦闘力を持つ艦娘が演習を含めた海上で艤装をつけた状態での行動中に意識を失うなどという話は初耳だった。もちろん不知火が知らないだけで、司令官や耳の早い青葉あたりは何かそれに類似する事実を耳にしたことがあるのかもしれないが、仮にそうだとしてもこの事態はとんでもない異常事態であることは間違いなかった。

「――ローレライの歌声が、自身を沈めてしまったのかしら」

不知火は心の奥底から浮上してきたそんな印象を思わずつぶやいた。

「どういうこと、それ?」

よく分からないと表情に出ている陽炎の表情を見て、不知火は余計なことを口にしてしまったと少し後悔していた。

「なんでもないわ」

首を横に振りながら不知火はその言葉でこの会話を終わらせ、食堂へ向かう足をほんの少し早めた。その後を「ねぇ、どういうことよそれ!?」と言いながら陽炎が追いかける。その声に不知火は一切応答しなかった。半ば強引ではあるが話は一旦そこで途切れた。

 食堂の入口を目にしながら、不知火はまだ先ほどの話について考え続けていた。

 不思議な存在だとは出会ったとき―五島列島沖海域での遭遇のときだ―から感じてはいた。ただ、今回の事態はあまりにも予想外すぎた。

 伊507、彼女は本当に何者なのだろうか。

 不知火は答えの見つからない問いに一旦蓋をして昼食を選ぶ作業に移ることにした。

 その時ようやく食堂内を飛び交う会話の群れが耳にはっきりと認識されるようになった。そこでもまた、『いおな』そして『伊507』の名が飛び交っていた。

 とにかく異常事態ということは間違いない。不知火はそう確信していた。

 同時に、得体のしれないぬめりとした空気を不知火は感じるような気がしていた。

 それは戦闘の直前、強大な敵と遭遇する前に感じる、決して心地よくないもの。

 普段ならここぞとばかりに立ち向かっていく気持ちになるのだが、今日はその気持ちより先に焦燥感のようなものが先に立つように感じられた。

 ――予感が当たらなければいいけど。

 不知火はそう心に願っていた。『らしからぬ』出来事は、ここでもまた起こっていたのだった。

 

    ◇

 

「彼女の意識は、まだ戻らないのか」

提督執務室の応接ソファーに腰掛ける日向は、提督にそう尋ねながら啜っていた緑茶の入った湯呑を置いた。

「まだドックで眠ったままだ」

提督は執務机のイスから立ち上がり、窓際にそっと歩いていった。その窓の外に広がる呉の景色は夕焼け色に染まっていた。

「明石の報告によれば単純に意識を失っているだけの状態で、衰弱はしているが命に別条はないらしい」

提督は窓に手をかけ上に引き上げた。ガタガタという音を立てて縦開きの窓が開き、優しい潮風が部屋の中を流れていく。

「ただ、状況を見る限り精神的に極端に疲弊しているのではないか、ということだった」

提督は窓枠に肘をつき、外に視線を向けたままそう答えた。

「精神的に疲弊って……、駆逐艦を一隻沈めたことが?」

「『ローレライの眼』が、原因ではないでしょうか」 日向の隣に腰掛ける伊勢の疑問に、向かい側に座る榛名が答えた。

「一体何なのだ? その『ローレライの眼』というのは」

日向が腕を組みながら疑問を口にする。

「実は、私も具体的には把握していないのだよ」いつの間にか窓際を離れ、榛名のそばに座ろうとしていた提督がそう答えた。

「新式の海中探査手段、ということしか私は聞いていない。よほど特異なものなのだろう、効果を目の当たりにさせてから全てを語ろうとしていた節がある」

「それにしてもあまりに特異過ぎはしないか? 艦娘の意識を失わせる装備など初耳だ」

日向の意見は全ての艦娘が共通して持つものだった。艦娘が持つ装備は大きさや作りは最適化されているものの、基本的には艦艇が装備するものだ。その威力はかなりのものがある。しかし、艦娘はその威力を受け止める力を持って生まれてきているはずだった。そうでなければ戦闘行動など不可能だ。

 そんな艦娘を気絶させてしまう装備とは、一体どういうものなのだろうか。

「意識が戻って落ち着いたら、一度話を聞かなければいけませんね」

榛名は提督の顔を見やりながらそう言った。秘書艦としても、彼女のことをよく知っておかなければならない。そうしなければ、艦隊の一員として迎えいれることは到底できない。

「ただ」

提督は身を乗り出し、低い声でこう切り出した。

「このような事態が起こってしまった以上、彼女に『アレ』を言い渡すことを考えておかなければいけない、かもしれない」

提督の「アレ」という一言に、その場にいた全ての艦娘が鋭く反応した。

「――艤装解体処分、ですか」

かなりの時間を置いてから、伊勢が伏せられていた事柄を口にした。

「そうだ」

提督が視線を落としたまま、短くそう答えただけだった。

 四人の沈黙を埋めるかのように、開いた窓から蝉の鳴き声が聞こえてくる。その鳴き声をどこか遠くの音のように、四人はしばらくの間聞き続けていた。

 

    ◇

 

 私が次に認識した世界は、清潔を体現した一面真っ白なものだった。

 それが天井で、今自身がベッドの上に寝かされた状態でいるということを認識したのは、それから少し時間が過ぎてからだった。

 ほんの少しだけ首を動かすと、壁にかけてある時計が目に入った。時刻は7時を少し過ぎたところを差していた。そして視線を時計から小さな窓に移した。窓からは鮮やかな陽光が射している。その色から考えるに、気を失ってからかなりの時間が経過していることをようやく認識するにいたったのだった。

 ――そうだ、私、特別演習中に発見した敵に雷撃を仕掛けて、それで。

 意識が少しずつハッキリとし始め、そしてこの場所に至るまでの事の成り行きが徐々に繋がりはじめていた。

 身体を動かすために左腕に力を入れて、その腕に乗る重みに気がつき、視線を下げた。

 そこにあったのは、私の左腕、そしてお腹にかけてに頭を預け眠りにつくしおいの姿だった。その顔が僅かに動き、ゆっくりと瞼が開いた。起こしてしまったらしい。

「――しおい、ちゃん」

掠れきった私の声に気がつき、彼女は勢いよく上体を起こした。視線が一瞬ぶつかり、そして彼女が突然飛びついて来た。

「気がついたんだね! よかった……」

挙げた左手を強く握り、そしてその手を顔に近づけ、彼女は安堵した表情を見せた。その表情もつかの間、目尻から一筋光るものが零れおちるのを、私はしっかりと目にしてしまった。

「ごめんね」

その光景を見た私は、絞り出すように次の言葉を発した。今はその言葉しか見つからなかった。

「心配、したんだよ……」

「ごめんね」

「ビックリ、したんだよ……」

「ごめんね」

「怖かったんだよ……」

「――ごめんね」

私のことを友達と認めてくれた彼女に、涙を流させてしまった。その罪悪感が、津波のようにどんどんと押し寄せてくるのを感じていた。

 こんなことになるのならば、最初から話しておけばよかったのだ。

 信じてもらえるかは分からないけど、私の事を全て話そう。私の能力の根源を。私の能力の欠点を、すべて。

 左腕に伝う彼女の涙の熱さを肌に感じながら、私はようやく決心をすることができたのだった。

そして同時に、鎮守府の仲間入りをするときに決意した『呉を守る』という思いにわずかな揺らぎが生まれ始めていることにも気がついていた。

 私には一体、何ができるのだろうか。その自問自答は、いつ終わるとも知れず続いていた。

 

    ◇

 

「検査、終わりましたか?」

榛名がやさしい声で声をかけドックにやってきたのは、しおいが任務につくために後ろ髪を引かれるようにドックを後にし、明石による念入りな身体検査が終わった直後のことだった。その手には少し大きな籠をさげていた。籠の口からその中に収まる梨の姿が見えた。ただ、その梨は私の知っている梨とは少し違う形をしていた。

「ご心配、おかけしました」

立ち上がって謝ろうとする私をおだやかに制して、榛名はベッドの横の椅子の傍に小さなテーブルを寄せて座った。

「頂き物の梨が執務室にあったので提督に断って持ってきたのですけど、食べますか?」

私が小さく頷いたのを見た榛名が、籠の中から梨を取り出した。さらに果物ナイフとまな板を取り出し、そつなく梨を切り、そして皮を剥いていく。

「私の知っている梨と、少し形が違いますね」

如何にも手慣れているその包丁さばきに見惚れ、しばし梨を剥く音だけが響いていたドックにようやく声が響いた。

「そういえばいおなさん、生まれはフランスでしたね。いおなさんが知っているのは洋ナシで、これは和ナシ。同じ梨でも品種が違うものなの。食べてみれば違いがよく分かりますよ」

そういって榛名は細かくカットした梨に楊枝を刺して渡してくれた。いただきます、と言って一口かじる。シャリシャリとした触感とさわやかな甘みが口に広がった。

「――そういえば、私、洋ナシ、食べたことないです」

そのことを思い出したのは、渡された一切れを全て食べきってしまってからのことだった。

「それも、そうですね」

どうやらそのことを完全に失念していたらしい榛名がクスリと笑い、それにつられて私も笑い出してしまった。おかげで、部屋の中に広がっていた微妙な緊張感のようなものはほぼ霧散していた。

「それにしても、榛名さん、包丁の扱い上手ですね」

ひとしきり笑ったところで私はそんな素朴な疑問を口にしてみた。

「提督に果物や、あとちょっとしたお菓子を作ってみたりすることがありますから。提督、実は洋菓子がお好きなんですよ。……意外、でしょ?」

「――そう、ですね」

確かに、提督に甘いものに目がなさそうな印象というのは全く以って存在しなかった。

 ――というより、考えてみれば私の知る提督というものは、著しく狭い範囲のものでしかなかった。この地に来てまださほど時間が経過していないから当然のことではあるのだが、私は、目の前にいる榛名を少し羨ましい、と思った。

 彼女は提督の秘書艦だ。つまり提督がこの鎮守府に陣取り任務を遂行する間のそれなりの時間、彼女は提督と共に過ごしている。

 その提督はこの鎮守府の最高責任者であり、頼りにすることができる最も近しい『人間』であり、そしてある種父親のような存在でもある。それゆえ提督はここに所属する艦娘たちに大なり小なり差はあるが尊敬され、慕われている。それは私に関しても同じことで、出自もハッキリとしない疑問だらけの潜水艦をひとまず信じ、この場所に受け入れてくれた提督には敬意を抱いていたし、ありがたさを感じてもいた。

 そんな提督を想う気持ち、敬う気持ち。それこそが艦娘を深海棲艦との戦いに赴かせる原動力なのではないか。私はどこか嬉しそうに提督の事を話す榛名の姿を見ながら、そんなことを考えていた。

 直接見たことはないが、恐らく榛名は戦場に出れば、とてつもない強さを見せるのだろう。感覚的にだが、私はそう感じていた。提督を想う気持ちに関して言えば、恐らく彼女がこの呉鎮守府の中で一番強い。長い間提督のそばであの人の多くを見てきた彼女は、その人を守るために、その人の期待にこたえるために、その力を遺憾なく発揮するのだろう。

 ――私も、この人のようになれるのだろうか。

 心の奥底から、そんな疑問がゆっくりと湧き上がってきた。そしてその疑問を明確に否定しきる自信は、今現在の私にはこれっぽっちも存在してはいなかった。

「榛名さん」

再びこの部屋の空気を覆う少しばかり重苦しい空気を切り裂くように、私は彼女と向き合い、こう問うてみることにした。

「私に、できることって、一体何でしょうか?」

そこから先は、堰を切ったかのように次々と言葉が溢れてきた。

「榛名さんは提督の秘書艦で、仕事もできてお菓子も作れて、提督のことを誰よりもわかっていて。伊勢さんに日向さんも、私たちの指導ができて、いろいろと面倒も見てくれて。しおいちゃんも……」

激流の川のように迸る言葉を榛名はただ黙って聞いてくれていた。

「だけど、私には何もできない。確かに私はまだこの世界に来たばかりで、艦娘としては半人前なのは分かっていて、だから頑張ろうと思うけど、だけど、私……」

言葉の濁流の最後は、今度は眼頭から目尻から溢れ流れ落ちるもう一つの激流にかき消され尻すぼみになっていった。

「いおなさん」

榛名が私の名を呼んだのは、ふたつ目の激流が少しずつ収まりはじめた頃だった。

「私は、いおなさんが何もできないとは思っていませんよ」

それは、私の心をそっと包み込むような、優しく、それでいて力強い言葉だった。

「いおなさんにはいおなさんのいいところがあるの。ただ、今はそのいいところを上手く活かしきれていないだけ」

榛名がそっと顔を近づけ、膝で強く握りしめていた両手をやさしくその手で包み込んだ。その暖かい体温が、張りつめた皮膚を通して伝わってくるのを感じていた。

「だから、いおなさんのこと、もっと知りたいの。大事な仲間のこと、もっと知りたいの」

ふたりの視線が完全に重なる。榛名の橙色の瞳がこちらを見つめている。その瞳はあの日、私を鎮守府の仲間として迎え入れてくれた時に見た瞳と全く同じだった。

「もしかしたら、他の人に話すことが少し憚られるようなこともあるかもしれない。それでも、私は知りたいの。あなたのことを。それは、提督も同じはず」

榛名は、まるで私の心の中を見透かしているかのようだった。それでも、そこに嫌悪感はなかった。むしろ、少しばかりの安心感すら覚えている私がいた。

 この人たちになら、話せるかもしれない。

 提督や榛名たちが知りえる私の足跡の『その先』を。混沌と、狂気と、絶望と、そして最後の最後に見つけた希望を一身に抱いた、『ローレライの眼』の正体を。

「――わかりました」

私は一旦瞼を閉じ、深呼吸をした。ほんの少し心が落ち着くのを感じ、私はそう答えた。

「遅くなってしまって、ごめんなさい。聞いて欲しいです、私のこと、全部」

朝の決心が、ようやくしっかりと固まった瞬間だった。

 もしかしたら、私は少し逃げていたのかもしれない。自分の出自から。自分の持つ能力から。自分から話しても、信じてもらえないだろうと勝手に高をくくって。そんな私のことを、すべてひっくるめて受け止めようとしてくれている人がいる。そのことを知った瞬間、私の中にあった壁が完全になくなったような、そんな感覚を私は覚えていた。

「ありがとう、いおなさん」

榛名が目を細め、私の手をギュッと握りしめた。より強く伝わる彼女の体温を今はただ静かに感じていよう、私はそう思った。

 しばらくして、榛名はそっと手を離した。そして自分で梨を切っていたことを思い出し、ふたりで分けて食べあった。

 その梨の味は、とても甘く、そしてほんの少し、しょっぱかった。

 

    ◇

 

 夕方6時前、提督執務室。そこは、ほんの数日前に来たはずなのに、やけに久しぶりに訪れた気が私にはした。私の前には伊勢先輩と日向先輩、そして不知火さんと陽炎さん。私の隣にはしおいちゃんと榛名先輩。そして、応接テーブルの上座には提督が座っていた。しおいちゃんが加わったこと以外は数日前とあまり変わらない光景が広がっていた。

 私は一瞬外に目を向けた。数日前は晴れ渡っていた呉だったが、今は雲が空の大半を覆い、窓を揺らす強風が吹き始めていた。この季節に珍しいという本州直撃コースを取りながら大型の台風が接近しているという情報を確実に裏付ける天気の模様だった。これから先は海も荒れ、艦娘も船舶も航海が難しくなることだろう。もちろん、必要に迫られれば私たちは出港せざるを得ないのだが。

「話して、くれるそうだな」

第一声を切りだしたのは、当然ではあるが提督だった。私は静かに頷いた。

「端的に聞こう、『ローレライの眼』、正式名称はどうやらPsMB‐1というようだが、これは一体、どういうものなのだ? 私は『新式の海中探査手段』としか聞いていないが」

提督は早速話題の核心をついてきた。彼から注がれる視線から少しだけ視線をそらしながら、私は話すと決めたことを口にし始めた。

「結論からいいます。『ローレライの眼』は、ひとりの少女が、人体実験の結果手にした、水の中や、その水と接している物体・生物などを感知する特殊能力を活用した、海中探査手段です」

提督執務室が静まり返った。聞こえるのは風の音と、その風に身を委ね、枠のはざまで揺れる窓が発する音だけだった。

「――人間の力で、水中を見渡す、のか?」

ようやく声を発したのは向かい側に座る日向だった。普段いかなる時でも表情を変えない彼女の表情に、性質の悪い冗談でも聞いているかのような困惑の表情が浮かんでいた。伊勢や榛名も似たような表情で、不知火や陽炎、しおいに至っては言っていることの意味がよく分からない、といったところだろうか。ただひとり、提督だけが表情ひとつ変えることなく、私の話す内容に静かに耳を傾けていた。

「はい。私は、その力を借りて、いかなる海域をも航行することができる能力を得るための実験をしていました」

そう、あれは実験だった。狂気と、猜疑心と、絶望を化学反応させその反応を見るかのような、決してその存在を肯定してはいけないであろう、実験。

「それにしても、どうやって人間が水中の探知を?」

不知火が顎に手を当てながら問うてきた。

「装備している特殊潜航艇『ナーバル』を使います。ナーバルの中に一定量の海水を取り入れ続け、探知者がその海水に手を浸します。その手が触れる海水を媒介して海中の艦艇や岩礁、その他障害物、はたまた海を泳ぐ魚まで探知することができます」

私は、ナーバル内部で腰の高さより上まで水に浸かりながら探知する『彼女』の姿を思い出していた。

「一体、どんな人体実験をしたらそんな能力なんか……」

「――ナチスドイツが行った、ユダヤ人の迫害について、知っていますか」

私の能力を話す上で、絶対に切り離せない出来事だった。その重みに、思わず口も重くなる。

「――少しだけ、聞いたことがあるくらい、ですね」

榛名が少しだけ目を伏せながら答えた。同じく伊勢も日向も、それ以外のみんなも何か知るところがあるのか、どことなく表情が変わる。私としては、それでもう十分だった。

「その時に、一部のユダヤ人の子どもに投薬などで人種を改良しようという実験が行われました。その時の投薬の副作用によって目覚めたとされるのが、この『ローレライの眼』の能力です。その能力に目を付けた軍によって、新式の海中探査手段として装備の形にしたものが、PsMB‐1です」

「――無茶苦茶な話ね」

陽炎が一言吐き捨てるようにそう言った。それは多くの人ならそう感じるはずの、至極もっともな感情だった。

「後にドイツが降伏し、その間に私たちは同盟国である日本へ装備を譲り渡すべく、密かに地球を半周近く周りました。そして、ここ呉で伊507という名をもらいました」

私は、あの狂気に塗れた艦としての後半生を思い出していた。フランスで艦として生を受け、海の世界へ生まれ出た時には想像することすらできなかった半生だった。

「ドイツ軍、日本軍、さらにはアメリカ軍までがこの能力に興味を持っていました。この能力を量産することができれば、海での覇権を一挙に握ることができるに違いないと考えて。そんなこと、できないのに」

そう、知らないということは恐ろしいことなのだ。私は艦として、それは身を持って体験していたはずだったのに。

「そして、私は日本で新しい艦長、そして乗組員を迎えて南へ向かいました。当初はアメリカに私たちを引き渡すための航海でした。最終的に艦長たちは、その能力を活用して日本を、大切なものを守るために、戦いました。そして、マリアナ海溝に、沈みました。これが、私の最期です」

ようやく話すことができた、私の後半生だった。あの時、私と最後を共にした艦長たちの顔が浮かんでは消えていく。その表情はどれも、曇りのない笑顔だった。

「――ゴーヤちゃんには、聞かせられない、かな」

ふと、しおいがそう漏らした。

「―――どうして?」

「それって、その人が武器になるってことだよね? それに近いこと、経験しているから」

その彼女の言葉で、私はあるふたり若者の顔を、そしてそのふたりが本来乗るべきだったものの用途を思い出した。

 そう、もしかしたら、私の搭乗員として選ばれなければあの人たちも、乗っていたかもしれなかった。そして、海原へ決して帰らない航海をしていたかもしれなかったのだ。確かに、決して話していい類の話ではなさそうだった。

「その特殊能力を持った搭乗者の能力を引き継いでいるのが、君というわけか」

ようやく提督が口を開いた。彼は話を進めるために必要な最低限のことしか話さないつもりなのだろう。

「はい」

「そして、その搭乗者が持っていた欠点もそのまま引き継いでいる、ということで、いいのか?」

「……はい」

「気を失ってしまう原因は?」

そこに突然不知火が口を挟んできた。

「――敵を撃沈するときに、感知してしまうんです。絶望、憎悪、嘆きを。人が、無慈悲に命を奪われるときに発する、決して普通の人間や艦娘が感じることのない『衝撃』を。それが砲弾や魚雷が炸裂して相手が砕け散る瞬間に感じ取るんです。神経を焼かれるような、身体をコマ切れにされるような痛みとして」

そう、人の形を取ってこの世に生まれた時、私は彼女が持っていた能力を、そしてその致命的な欠点をそっくりそのまま受け継いで生まれてきていたのだ。それが、私の能力、『ローレライの眼』の全てだった。

 それからしばらくの間、誰もが声を発することなく、ただ沈黙と風の音だけが部屋の中に満ちていた。

 

「話してくれたことに、感謝する」

提督が口を開いたのは、沈黙が始まってからどれだけの時間が経過してからだっただろうか。それはほんの数十秒の出来事だったのかもしれないし、数分間の間の出来事だったのかもしれない。ただ、今そのことは私にとっては特に何も関係しない出来事だった。

「この鎮守府の提督、つまり司令官として、私はここに属する艦娘のことを知らなくてはいけない。何ができて、何ができなくて。物事をどう感じていて、その物事にどう反応するか。できる限りのことを、だ」

提督は目の前にいる艦娘全員を一旦見渡した。

「私にとって君たちは、皆娘みたいなものだ。もちろんここは仕事場であり、前線基地だ。その感情を前面に押し出し過ぎてはいけない。だが、気がつけばその感情を押し殺しきれない自分がいることも、また分かっている。だから私は君たちを死なせたくはない。提督として、父親のような何かとして、お前たちを何としても守ってやりたい」

提督は目をつぶり、一瞬天井を見上げた。そしてもう一度私をしっかりと見据え、こう口にした。

「ただ、いざ戦場へ足を踏み入れた瞬間、仲間が互いの安全を確保できるために出来ることには限界がある。そして、戦場にいる間、私に出来ることは、ほぼない」

私には提督が何を言いたいのか、もう察しがついていた。恐らく周りの皆も同じだろう。だが、提督の言葉を遮る者は、誰もいなかった。いるはずがなかった。

「君がここにいるということは、戦場に身を投じる可能性はゼロではないということでもある。そしてその戦場でローレライの眼の副作用で気を失った君を守りながら戦えという命令を、残念だが私は旗艦に命令することはできない。そのような命令を出せば仲間に何が起こるか、もう皆まで言わなくても分かるだろう」

その言葉に、周りを取り囲む艦娘たちの視線が一様に下がっていく。ただ私だけが、まっすぐに提督の視線を受け止め続けていた。

「鎮守府には艦娘の所属上限枠というものが存在する。その枠を超えて艦娘を所属させることはできない。深海棲艦との戦闘には、一人でも多く戦える艦娘が必要だ」

結論が近付いていた。それでも私は、視線を外すことはなかった。

「――残念だが現時点では、君の艤装を解体して非艦娘化するという手段を講じることが、我々にとっても、そして君にとっても最善の策、といえそうだということだ」

提督もまた、彼女からひと時も視線を外すことなく、決して避けることのできない言葉を口にし、伝えたのだった。

 艤装の解体。それは艦娘として、一種の『終わり』を意味する。艤装と艦娘の肉体には固有の結びつきがある。その固有の装備を解体・無力化した瞬間、その艦娘はそれまで持っていた艦娘としての能力を全て失い、ひとりのただの女性になる。現時点では、その能力の回復手段は存在しない、とされている。

「君たち艦娘は艦の記憶を生まれながらに抱いてこの世に生まれ、同じく生まれながらに手にしている戦う力をふるいながらこの世を生きている。だが……」

そこで一瞬言葉が途切れた。

「戦うだけが艦娘の人生だというのなら、それはあまりにも残酷すぎはしないか? せっかく船としてではなく、人として生まれてきた。それなのにまた戦うだけの日々を送る。それはあまりに、哀しすぎる。戦うだけがすべてではない。人にはそれ以外にもできることが無限にあるのだ。戦うことが難しい、戦うことが身を滅ぼしかねないことが明らかならば、その戦いから遠ざけてやることもまた、提督の務めなのかもしれん」

今この瞬間、そこには提督はいなかった。そこにいたのは、大切な娘の将来を慮る、父親であった。

「艤装の解体は、私の承認が得られれば直ちに行うことができる。だが、私は本人の意思を考慮することなく解体を行うつもりはない。三日、考える期間を与える。その間、座学を除いた全ての任務・演習から君を外す。短いかもしれないが、その中でよく考えて自らの意思を固めてほしい。私は、その意志を最大限尊重するつもりだ」

私からは以上だ。そう締めくくり、提督はゆっくりと席を立った。カーペットを踏みしめながら窓辺に向かった提督は、嵐に染まっていく呉の海に視線を泳がせ、そのまま動かなくなってしまった。

 その滞留する重々しい空気を無遠慮にかき乱す音が響き渡ったのは、それから程なくしてからのことだった。提督が執務机に置かれた電話のひとつである総司令部からの直通電話を取り、耳にあてた。

「呉鎮守府艦隊司令部」

軍特有の、余分なものをそぎ落とした冷静沈着とした電話のやり取りが始まるように見えたが、そのやり取りの中にこれから起こる出来事を容易に想起させる熱が籠っていくのを、私はすぐに感じ取っていた。

 提督は数度電話の相手―恐らくは総司令部に属するそれなりの階級を有したエリートであろう―と言葉を交わし、静かに受話器を元に戻した。

「榛名、全艦娘を講堂に集合させてほしい。すぐにだ」

「ハイっ!」

榛名が素早く席を立ち、執務室の隅に用意されている放送設備に走り寄っていく姿をどこか冷静な目で見つめた後、私は視線を再び提督に向けた。

「大規模な深海棲艦の艦隊を捕捉したとの情報が総司令部にもたらされ、総司令部は複数の泊地所属の艦隊に出撃指令を下した。総司令部からの要請を受け、呉からも迎撃・支援の両艦隊を送り込む。台風が接近している。嵐で身動きが取れなくなる前に出撃、我々は南方へ向かう」

その一言が、艦娘たちの表情を一瞬にして変えていく。大規模な敵艦隊の殲滅。敵の規模はまだ不明だが、泊地にいる艦娘だけでは確実に討てるとは断言できないほどの規模ということは確実なようだった。

「私も当然……」

「講堂へ向かうように。任務や演習から外すとは言ったが、今現在君はこの鎮守府の一員だ。前線に送ることはまずないが今は君に出来ることをやる、それだけだ」

早く行きなさい。そう促され、同じく手をしおいに引かれ私は執務室を後にした。戸口を出る瞬間、私は一瞬提督を振り返った。そこにいたのは、受話器を手にどこかへ連絡を取る提督の姿だった。そう、艦隊を束ね、戦闘を指揮し海を守る、この部屋にいるべき提督が、そこにはいたのだった。

 

    ◇

 

 出撃指令から数時間後、私は軍港岸壁に他の艦娘たちと共に整列していた。台風が確実にこの地に接近していることを否応なく感じさせる強風が吹き付ける中、私は微動だにせず海を向いたまま直立し続けていた。海はすでに白々とした波が立ち始めている。海に出ることすら危うくなるのは時間の問題だった。

「帽ふれーッ!」

誰かが号令をかけた。それに合わせ、全員が海に向かって手を振る。帽子を身につけている者は帽子を脱ぎそれを手に持ち、帽子を身につけていない者は手を振れる限りの大きさで、大きく振る。

『帽振れ』。それは帝国海軍に伝わる見送りの儀式なのだそうだ。この国ならではの、戦いへ赴く者たちへの敬意の表現、そして無事を願う、大切な儀式。

 その振る手の向こう側、荒れ始めた海を進んでいく艦娘の艦隊。この鎮守府の空母勢のエースである正規空母・赤城と加賀、かつてこことは違う世界で最強と呼ばれた一航戦のふたりを基幹とした今回の作戦の主力部隊。先頭を行くふたりは大きく振られる手や帽に応え、自信に満ち溢れた笑顔を見せ答礼する。一方の加賀はいつものように表情を変えず、しかし赤城よりは控え目ではあるが手を振っていた。その後に続く軽空母の龍穣、戦艦長門、陸奥、そして軽巡神通が後に続き、各々陸から見送る仲間に応え旅立っていった。艦隊は台風の進路に十分に気を配りながら、一路南方、敵主力艦隊のひとつがいるとされる珊瑚諸島沖へと向かう。

 主力艦隊の出港前には彼女たちを援護するふたつの艦隊がそれぞれ出港しており、その艦隊にも同じように列を作り、帽振れを行ってきた。これで今日三度目の帽振れ。そして今のこの帽振れが当分のうちの最後になるはずだ。

 先発した艦隊のうちのひとつ、艦隊決戦を援護するために敵艦隊の背後または側面に回り込み奇襲をしかけるという重責を担う第二艦隊には、陽炎と不知火が加わっていた。必死になって手を振る私の姿を認めたふたりが手を振るのを一旦止め、そして私をしっかりと見つめながら敬礼する。陽炎は笑顔で、不知火は凛とすまして、いつもとそれほど変わらない表情ではあるが、その中にも重大な作戦へ赴くという緊張感、高揚感を漂わす顔色が、暗がりの港からでもはっきりと見ることができた。そんな彼女たちの表情ひとつひとつを目に焼き付けながら、私たちは彼女たちが見えなくなるその時まで手を振り続けた。

 解散の号令がかかり、各々は自分の宿舎や、当直として即出撃可能な状態で準備する艦娘は宿直室へと戻っていく。宿舎や宿直室へ向かっていく背中には、私がよく見知っている姿が多くあった。

榛名、伊勢、日向、鳳翔、青葉、利根、北上、伊58。

 そして私の目の前を歩いている伊401。

 恐らくその誰もが同じことを考えているのだろう。

 あの夏の日、この呉にいた者の多くが、姿を変えながらまたここにいる、と。

 提督が敵を確実に叩ける艦隊として編成を考えた結果がこの留守を務めるメンバーの陣容なのだが、何か因縁のようなものを感じずにはいられない面子だった。

 何気なく空を見上げる。空を尋常ならない速さで雲が流れていくのが僅かに見える。まるで私の心の中のようだ。私の中にそのような感慨が浮かんだ。

 先ほど見送った艦隊が帰ってくる頃合いには、私は自身の身の振り方を決めておかなければならない。帰投するその時、私はどのようにして彼女たちを出迎えるのだろうか。その答えは、まだ出ていない。

「いおなちゃん!」

堂々巡りに陥りかけていた思考が、しおいの声によって現実に呼び戻された。

「雨が降る前にお部屋に帰ろう? 私たち待機だから、ちゃんと寝ておかないと」

そうだ、今この鎮守府は戦闘行動中なのだ。確かに今後の自身のことも考えなければならないが、いつ自分に出番が来るか分からない。その時に備え、今は身体を休めておく必要があった。

「それに……、いおなちゃん、一応病み上がりの身だからね?」

しおいが腰に手を当て、反対側の手で私を指さすようなポーズを見せながらそう忠告する。その姿は彼女がまるで血の繋がった姉なのではないか、という妄想を抱かせるに至り、私は静かに頷くと、彼女の後に続いて宿舎へ戻る足を再び動かし始めた。

 宿舎の建物に取り付けられた時計が目に入る。時刻は就寝時間近くを差していた。部屋に戻ったらすぐに寝床に入らなければならない。ただ、例え入ったとしても眠りにつくのには時間がかかりそうであることは間違いなさそうだった。

 

    ◇

 

 明朝、呉鎮守府から離れること数十キロの地点に浮かぶ小さな島の海岸をひとり歩く老人の姿があった。最接近した台風の猛烈な風に身体を揉まれながら、それでも彼はひたすらにある方向へと足を進めていた。

 彼の生業は漁師だ。この海を仕事場にしてもう長い年月が過ぎ去っていた。その過ぎ去った時の中に、このような季節外れも甚だしい台風の記憶は存在しなかった。

 ニュースや新聞で、毎年台風の季節になれば海の近くで起こる海難事故が繰り返し報じられ警鐘を鳴らしていることも、所属する漁連の人間から万が一のことが起こってしまってからでは遅いからと、台風が最接近する最中に船の様子を見に行くことはやめてほしいと散々くぎを刺されていることも重々承知している。ただ、自身の生活を支えてくれている、命と同じくらいに大切な船が無事でいるか、どうしてもこの目で見ておかなければ気が済まない。それがこの嵐の中の外出の理由だった。

 叩きつける雨を凌ごうと両腕を顔の前にかざすが、この嵐の中では大した効果はないに等しい。それでも両腕で顔を覆いながら、ひたすらに前へ向かって進み続けると、腕で隠された部分以外の視野に、荒れ狂う海の様子が飛び込んできた。顔を上げ、目の前に係留され大波に身を委ねうねる自身の相棒の姿をしっかりと目にした。見たところ係留の綱も問題なく、嵐を凌ぎきることができそうだった。そのことに安堵して、彼は視線を海へ向けた。内海である瀬戸内海だが、台風の最接近ともなれば大きくうねり、あちこちで大きな白い波が立ち上がる姿が見えた。この時化が収まり、漁を再開できるのはいつごろだろうか。そんなことを考えながら、息子や近所の人間が外出に気がつき心配し始める前に自宅に帰ることを決心した彼の視界に次の瞬間飛び込んできたのは、異様で、そして不気味な影だった。

 近頃どんどんと老眼の進行が進んでいるため新聞を読むときは老眼鏡が手放せない彼だが、遠距離の物を見分ける力は今でも決して若者にすら劣らないと自負していた。そんな自慢の眼が、大時化の海を行く異様な影を、見たのだ。

 それは人型のように映った。頭と思しき部分には何やら帽子のようにも見える大きな突起が見え、その近くから何やら黒い影が空へ向けて飛び出していっているように見えた。そんな異形がこの岸壁から推定して1キロないところを進んでいた。

 直後、その異様な人型のような何かの後ろを小さな黒い物体のようなものが追従していく姿が見え、そして、先頭を行く人型の頭が動き、黄色く輝く眼のようなものと、眼が合った。

 時化で視界も悪く、ギリギリ人型として視認できるかできないかの状況にもかかわらず、その黄色い眼が、恐ろしい力を秘めながらこちらを見つめ、そして再び視線を外し、動き始めた。

 瞬間、彼は悟った。あの人型が何者なのかを。そして、この海に最大の危機が訪れていることを。

老人は見えない存在に急かされるように走りはじめた。雨に濡れ最悪の足場など気にしている場合ではなかった。彼は漁港にある漁連の詰所に駆け込んだ。

「ちょっと徳さん! あんだけ台風の時に船見に行ったらあかんと釘刺したのに――」

「そがぁなこ言っとる場合か! 奴が、深海棲艦が出たんじゃ! 早ぉ鎮守府に!」

老人の絶叫が詰所中に響く。その言葉にその場にいた全員が顔を老人の方へ向け、不審げに見つめていた。

「何を突っ立っとるんじゃ、早ぉ!」

恐怖に満ち溢れた二度目の絶叫でようやく状況を把握したのか、人がバタバタと動き始める。鎮守府、自治体など、考えられるありとあらゆる部署への連絡が始まり、詰所内はさながら声の洪水の様相を呈した。

「徳さん、敵は人型なの?」

そのうちのひとりがこちらを向き叫ぶ。

「先頭は人型だ! 眼が黄色い、帽子を被ったような奴だ!」

老人も相手や周囲の声に負けじと叫ぶ。その情報は漁連の人間によって各部署へ伝えられ、この地に暮らす人間たちはようやく今起こっている事態を知ることになった。

 

 敵深海棲艦艦隊、瀬戸内海侵入。

 旗艦空母ヲ級フラグシップ。以下護衛駆逐イ級フラグシップ数隻。

 推定到達目標、呉鎮守府。

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