椰子の実と魔女   作:蒼崎一希

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第五話

 燃える。

 辺り一面が、燃えている。

 海の上で、陸の上で、ありとあらゆるものが燃えていた。

 レンガ造りの呉鎮守府の建物が、呉の町並みが、呉の街の東西を囲むようにそびえる山々が、そして、海の上に立つ、仲間たちが。

『私は、私はまだ……、沈んでいないぞ!』

『ここで、ここで沈むわけには……!!』

『まだ、まだやれます!!』

辺り一面に響く、絶望の淵で懸命に踏みとどまろうとする、決意の叫び。

 日向が、鳳翔が、榛名が。艦娘としての身体を焼かれながらも、懸命に、戦おうとしていた。その叫びを、戦意を消し飛ばすように、空を黒々とした数え切れないほどの影の群れが覆う。

響く爆音。視界を埋め尽くす閃光。さらに燃え盛る炎。それなのに。

(身体が、動かない……!)

 微動だにしなかった。左腕も、その腕に纏った主砲も。

 私には……、何もできないのだろうか。

 せっかく艦娘としてこの世に生れて、今の自分が生まれるきっかけとなった街に戻ることができて、あの時護ることさえできなかった『仲間』と再会して、もう一度護りたいと思えるような存在と出会えたのに、私は……。

 辺りに、サイレンの音がかすかに響き始めた。あまりに遅すぎる、危険を告げる音。

 その音が響くと同時に、私の意識は遠のいていき、やがて――。

 

 そこは、自分のベッドの上だった。

 夢。それもとびきりに性質の悪い。

 ただ、ひとつだけ夢と現実で差異がなかったのは、部屋の中に響き渡るサイレンの耳障りな音だった。その音で私は直感した。今、現実でも悪夢を見ることになるかもしれない、一歩手前に立たされているのだということに。

 私は迷うことなくベッドを飛び出し、ベッドのそばにいつも置いている潜水服を、自分でも驚くほど素早く身にまとった。そして部屋の入口の脇に設けてある艤装置き場に駆け寄った。両手がそこに置かれた艤装に触れる。

 ひとつは、少し大きな懐中電灯くらいの大きさのミニチュアの潜水艦のようなもの。ローレライの眼の力の根源であるPsMB‐1を内に秘める、特殊潜航艇『ナーバル』。

 もうひとつは、腕の太さの何倍もの幅を持つ、連装砲。触れたそのふたつの艤装の感触を一瞬感じる。

 正直、これから先私が取ろうとしている行動に恐怖を覚えないわけではない。

 ただ、自らの無謀な行動に感じる恐怖よりも、これから何もできずにこの部屋でうずくまりながら、仲間たちに護られるだけの存在になることへの恐怖の方が、勝ってしまっていた。手先から感じる冷たい金属の感触に艦娘としての本能を目覚めさせられるイメージを手にした私は、そのふたつを手に取った。

「いおなちゃん」

艤装を手にした直後、背後から聞きなれた声が私を呼んだ。振り返る。そこには、よく見知った同室の仲間が立っていた。伊401。私の大切な、友人。そして戦友。

「しおいちゃん、ごめんなさい。私、行くね」

彼女から何を言われようがもう返す言葉は決まっていた。私は、艤装を身に付けた。身体と艤装が繋がり、戦闘艦として目覚めていく感覚を、より具体的に感じ取っていた。

「――だろうと思った」

彼女が返してきた言葉は、想像していたものとは少々違っていた。

「いおなちゃんなら、私を振り切ってでも行きそうだもの」

そう言いながら彼女も艤装置き場の前に立ち、自身の艤装を肩にかけた。

「無断出撃は厳禁って通り一遍のこと言ったところで、聞く耳持たない、でしょ?」

図星だった。

「なら、私も一緒に行く。いおなちゃんは、私が護るから」

私の沈黙を肯定と捉えたしおいの力強い視線が私を捉える。同時に、艤装にかけた左手の力が強くなるのを、私は見た。

 彼女も怖いのだ。この呉鎮守府がここまで敵に肉薄されたことは当然ながら今の今まで一度もない。しかも今呉は季節外れも甚だしい嵐の真っただ中だ。何がどうなるかは、誰にも分からない。それでも、彼女は私のために出撃すると言ってくれている。勝利どころか死のリスクさえ孕む中、無事に帰還したとしても厳罰も十分考えられる無断出撃で。

 私は、今ようやく悟った。人は、ただ一方的に護るものではない。護り守られ、こうして生きていられるのだ、と。

「ありがとう、しおいちゃん」

本当ならここは彼女に対して謝るべきなのかもしれない。でも、今浮かんだ言葉は感謝の言葉しかなかった。伝えておきたいその一言を伝え終え、私は一歩を踏み出した。

「行こう」

ドアを開け廊下に飛び出した私のすぐ後ろを彼女がついてくるのを感じ取りながら、私は宿舎の出口へ向かい駈け出していた。

 

 同時刻、作戦会議所はピリピリとした空気に覆われていた。

 全くといっていいほどに予測していなかった最深部奇襲。太平洋近海まで来ることはたまにあったが、瀬戸内海の奥深くまで付け入られてしまったのは完全なる不覚だった。

 そして、狙ったかの如く呉を襲う台風。そのふたつが負の相乗効果を発揮し、事態はかなり深刻なものになっていた。

 問題はこの悪天候だ。いくら内海の瀬戸内海とはいえ、この勢力の台風が来れば海はかなり荒れる。艦娘は艦船と比べて当然ながら波浪に弱い。波高に注意を払わなければ、彼女たちの言う第四艦隊事件の再来だ。敵の侵攻を阻止するためとはいえそう簡単に出撃を命じるわけにいかない状況に、提督以下鎮守府防衛を担う艦娘たちは歯がゆさを感じていた。

「た、大変じゃ!!」

その張りつめた空気の中に特徴的な口調の声が響く。その場に詰める全員が声のする方を振り向く。その視線の先を、ひとりの艦娘が慌てふためいた様子で駆けてきた、重巡利根だ。

「どうした利根、何があった?」

会議机の前に辿り着き肩で息をする彼女に日向が問いただす。そのただならぬ様子から、何かとんでもなく嫌な予感を感じ取っていた。

「いおなと……、しおいが、む、無断で出撃しおった……!」

まだ呼吸の落ち着かない彼女のたどたどしい言葉ではあったが、何が起こったのかはその場にいる全員に十分に伝わった。

「無断出撃って……、貴様、なぜふたりを止めなかったッ!」

座って事の次第を聞いていた日向が不意に立ち上がり、利根の胸倉をつかんだ。そのすさまじい剣幕に胸倉を掴まれた利根も、制止しようとした姉の伊勢でさえたじろいてしまうほどであった。

「……す、姿を見た時には、も、もう岸壁から海に飛び込む瞬間だったのじゃ! 声をかける暇があれば、吾輩だって止めておったわ!」

日向の剣幕に一度は言葉をのみ込まされた利根が絶叫するように反論する。張りつめていた空気は、臨界点を迎えようとしていた。

「日向、利根、まずは落ち着け」

今にも取っ組みあいの喧嘩でも始めそうな勢いのふたりを、凄味の効いた声が諌める。組みあった状態のまま、ふたりはコの字型の会議机の底を見やる。そこには、先ほどまでの両手を組んだ姿勢のままこちらを見つめる提督の姿があった。我に返ったふたりは、ばつの悪そうな顔をしながら離れた。

「――この事態は、想定しておかなければいけなかったな」

提督が頭を掻きながらそう呟いた。昨日執務室で彼女の話を聞いていた時の表情を思い出す。あそこまで思いつめている彼女ならば、このような事態が発生した時無謀な行動に出てしまうこともないわけではない。今更ながらにそこに想像が行きついたのだった。

「提督」

日向がこちらに向き直り、両手を机に叩きつけた。

「頼む、出撃させてくれ! このままでは、いおなたちが……」

先ほど利根の胸倉をつかんだときにも勝るとも劣らない剣幕で彼女が迫る。

「提督! 私からもお願いです! 今出撃しなければ、彼女たちが危険です!」

「吾輩からもお願いじゃ! 今行かずして、いつ行くというのじゃ!」

気がつけば、その場にいる全ての艦娘が同じ意見でまとまっていた。

 今まさに、無謀にもこの街を襲おうとしている敵に不利を承知で立ち向かおうとしている仲間がいる。そんな彼女たちを、決して見捨てることはできない、と。

「――榛名、秘書艦である君に聞きたい」

一瞬だったか、しばしの間だったか。沈黙を置いた提督が、静かに口を開いた。

「行ける、か?」

意見を聞くのではない。行けるか否かを彼は尋ねた。その一言で、彼がどう考えているのかは十分に伝わった。

「はいっ! 気象隊の予報では間もなく呉は台風の目に入ります。行くのなら、今しかありません!」

そう答える榛名の両手が強く握りしめられるのを彼は見逃さなかった。その拳が彼女の、ひいては彼女たちの決意を言葉より雄弁に語っていた。

「分かった」

彼女の言葉を聞いた提督が背筋を伸ばした。そして机に置いていた制帽を手に取り、被った。それは、彼が出撃などの命令を発するときに行う、一種の儀式のようなものだった。

「現時刻を以って榛名、伊勢、日向、鳳翔、北上、利根を第四艦隊へ組み込む。旗艦は榛名。第四艦隊はこれより直ちに出撃。瀬戸内海へ侵入した深海棲艦艦隊に対峙する味方艦隊を援護し、これを撃破せよ」

彼もまた、ふたりを助けたかった。大切な部下を犬死させることは、提督として、ひとりの男として、到底容認できるわけがなかった。

 榛名たちが待っていたと言わんばかりに駆けだすように会議所を飛び出していった。その姿をひとり見送った提督は、彼女たちの姿が見えなくなったところでこう呟いた。

「全員で、帰ってくるんだぞ……」

 

    ◇

 

 ローレライの眼が、鉛色の「奴ら」の姿をハッキリと捉える。

 旗艦は艦隊の中央に陣取る空母ヲ級。それもフラグシップタイプ。その周りを取り囲む駆逐イ級も、これまたフラグシップタイプ。ひと時よりは落ち着いたとはいえ、まだ荒れる海域の上に、彼らはいる。同時に、その眼が別の姿を捉える。位置は私のすぐそば。姿形は人型。敵ではない、色。

私を護る。そう宣言してついてきた私の親友で、戦友。潜水艦伊401。

 無断で呉鎮守府を飛び出して数十分。全速力で海を突き進んだ私たちは、あと一息で敵艦隊を仕留められる距離まで到達していた。敵は対潜にそこまで重点を置いていないのか、ソナーを使う頻度はそれほど高くない。このレベルの対潜警戒なら、行ける。腹をくくる最終段階に到達した。私は静かに左手を動かし、前方を指差す。そして、親指を突き立てた。その合図に、彼女は一度だけ頷いた。突撃開始の瞬間だった。

 

    ◇

 

 その少し前、彼女たちの後方、ローレライの眼が設定した索敵範囲から僅かに外れる海域を、榛名たち第四艦隊が波を乗り越えながら突き進んでいた。艦船の身体ならば蹴散らせる波も、艦娘の身体ではいなすように乗り越えなければあっという間に時化た海に飲み込まれる。索敵と同時に、大波という別の敵との対峙を強いられていた。一瞬後ろに続く隊列に目をやった榛名は、再び視線を前へ戻し先を急ぐ。

 彼女の速力ならば、今ごろ私たちのかなり先を進んでいるはずだった。場合によっては、もう会敵した後かもしれない。今彼女たちがどこでどうなっているのか。まだそれをつかみ切れていなかった。

「鳳翔さん、彩雲からの報告は?」

後ろに陣取り、しばらく前に偵察機彩雲を放った鳳翔に訊ねた。

「まだです。―――いえ、今来ました!」

いつもは穏やかな口調の鳳翔も実戦となればハリのある声で報告をする。世界で初めて就役した空母、『空母の母』の異名は伊達ではない。

「敵艦隊、艦数6、南東5キロを艦隊行動中。旗艦空母ヲ級フラグシップ、護衛の駆逐イ級フラグシップ5隻、輪形陣を構成」

鳳翔の力強い声が、艦隊全体へ情報を伝達させていく。地元目撃者の通報通りの敵の布陣だった。

「全艦フラグシップ級か……、手強いな」

その報告に、日向が思わず唸る。攻撃力も防御力も通常型に勝るフラグシップ級。単純な力比べならば、鎮守府随一の錬度を誇る榛名以下戦艦陣に撃破できないことはないはずだった。問題はひとつ。

「いおなちゃんたちが今どこにいるか……」

最大の問題がそこであった。元々防御力の小さい潜水艦、発見されないうちはいいものの、ひとたび見つかってしまえば2対5、数の時点で歩が悪い。加えて敵が全艦フラグシップ級ともなれば、ひとたび攻撃が始まれば確実に致命的な打撃を受けてしまう。それまでに艦隊が攻撃可能な位置に到達できなければ、味方艦隊援護という任務を果たすのは、極めて困難な状況に陥る。

「航空攻撃可能圏内までは?」

「あと1キロ弱です」

鳳翔の情報から、榛名は策を練る。とにかく今は、敵の対潜能力を何としても削らなければならない。そのためには、旗艦を取り巻く護衛たちを何としてでも排除しなければ、何も始まらない状態だった。

「攻撃可能圏内に入り次第、鳳翔、伊勢、日向から艦載機発艦。旗艦を護衛する駆逐イ級を最優先に排除します」

榛名の判断に、艦隊は当然すぐに了解の意を示す。ただ単純に敵を殲滅するだけではなく、この先に必ずいるであろう仲間を護るためには、妥当な判断だった。

「いおなさん、しおいさん、今助けにいきますから」

榛名の呟きは荒れ狂う海の轟音の中に消えていく。ただ、その想いはここにいる全ての艦娘たちの心に宿っている。その想いを消させはしない。その願いを誰にも踏みにじらせはしない。その決意を示す第一撃が、放たれる。

 鳳翔が構えた弓から矢が放たれ、その矢が艦載機に変わる。万が一に備え予備機として呉に残しておいた艦戦・烈風、艦攻・流星。形を成し、数を増やし、編隊を組んだ濃緑色の群れが、先を目指す。そしてその後ろを、伊勢・日向から放たれた水上機瑞雲も続いていく。

この攻撃が、どうか間に合いますように。誰もが祈りながら、自らの歩を進める。会敵まで、あと少し。

 

    ◇

 

 しおいは、ただひたすらに泳いでいた。ただ闇雲に泳ぐのではない。すぐそばを泳ぐいおなの動きに追従して泳いでいた。私の目に見えないものを彼女は探し求め、それに触れないように私を導く。密やかに、そして確実に、敵との距離を縮める。

 敵艦隊まであとわずかというところで、いおなの手が動いた。左手が右から左へ振られる。隊列解け。ここからは各艦個別で動く。海に飛び込む直前に聞かされた作戦は、今のところなんとかうまく回っている。あの僅かな時間で考えたのであろうこの作戦。あとは、彼女を信じるしかない。

幸運を祈る、の意味を込めて親指を立ててみせ、いおなから離れていく。彼女に託された任務を果たすために。

『ペー・エス・エム・ペー・アインツ、ディー・アウフヘーブンク(PsMB‐1、解除)』

ローレライの眼の力を解き、通常の視野に戻る。水圧や水温のグラデーションによって作りだされる広大な世界から、灰色の限られた世界へ。だが、もうその広大な世界は必要ない。水面を見上げる。波が立てる泡の向こう側に、探し求める相手が今もそこにいることを確認した。時が来た。

 彼女の足が海を蹴る。左腕を突き出しながら、彼女が静かに浮上していく――。

 

    ◇

 

 空母ヲ級は、空を睨んでいた。嵐が影響をするのは何も艦娘だけではない。人間の大きさに近く、海上で行動するという点においては深海棲艦も艦娘と弱点を共有するところもある。艦隊は、時化に行く手を阻まれる形になり、速力を落して進んでいた。

 ヲ級は、空を睨み続ける。この先に、目指すべき場所がある。

 焼キ払イ、壊シツクシ、跡形モナク消シ去レ。

 本能、いや呪縛のような何かが、そこへ向かえと叫ぶ地が。それは何故なのか、何のためなのか、それすらも分からないままに、彼女らは進む。

 その時、足元から何かを感じた。ヲ級の視線が下降する。その視野に入った海面が、唐突に盛り上がった。波とは違う飛沫が上がり、その中から、ふたつの砲身が現れる。

 ヲ級は、それが砲身であると理解ができなかった。砲身は通常海上に姿がある。海面下には沈没でもしなければ存在するものでは、ない。

 その砲身の先を覆っているカバーが開き、黒々とした中身が目に入る。そしてその直後、さらなる飛沫が上がり、その中から金髪の髪の毛と、白っぽい肌をした顔が姿を現す。そして、その顔に穿たれたふたつの眼孔から覗く碧眼の目が、強烈な力の籠った視線を送る。その視線とヲ級の視線がガッチリとぶつかりあった瞬間、目の前に砲身が突きつけられた。

 零距離射撃。

 相手の真意を悟った瞬間、ふたつの砲身が炎を吹き、身体に衝撃が走る。その直後、空母ヲ級の身体が瀬戸内海の海の上に、舞った。

 

    ◇

 

「今の爆発は!」

意図しないタイミングで響き渡る爆音に、榛名は驚きを隠せなかった。音の方角は敵艦隊が遊弋する方角からだ。

「彩雲より報告! 敵旗艦に謎の攻撃あり。敵旗艦に甚大な打撃! 海上に姿を留めるものの沈黙!」

報告を受け取った鳳翔が声を張り上げる。

「謎の攻撃だと!? どういうことだそれは!」

「我々の編隊は、まだ敵艦隊に到達していません!」

その報告に、榛名は今この瞬間海域で起きていることの全容を察したようだった。榛名は速力を早め、艦隊より少し前へ出た。

「伊勢さん!」

「はい!」

「少しの間艦隊を任せます!」

「――はい?」

榛名は速力を伊勢たちの出せる速力以上に上げ、すでに艦隊との距離を開きつつあった。

「ふたりを、迎えに行ってきます。伊勢さんたちはヲ級に警戒を!」

そう言い残すと、榛名はひとり少しだけ方角を変え、突き進んでいった。

 

    ◇

 

 私は、動きの鈍る身体に鞭を打ちながらかろうじて泳いでいた。体のあちこちが痛い。視界がわずかに霞みはじめる。そんな身体にもう一度活を入れて泳ぐ。

 零距離砲撃の代償は、決してゼロではなかった。砲撃の反動、着弾後の爆発、破片の被弾。それらによって潜水服は破れ、身体のあちこちに裂傷を負っていた。冷静に考えれば泳いでいられるのが不思議なほどである。おまけとして、零距離砲撃の直後、直ちに急速潜行をしたため砲口へのカバーが間に合わず、主砲も使用不能な状態。攻撃手段は潜水艦本来の装備である魚雷のみだった。もっとも、今の状態で、とても次の攻撃を繰り出せるとは、到底思えなかったが。

 そんな霞が晴れては蘇る視界に、禍々しい鉛色の影がよぎる。駆逐イ級フラグシップ。その影が海面で獲物を捜し求め蠢く。距離が近い。ここで発見されてしまえば、致命的な一撃は免れない。

次の瞬間、海面で仄かな光が走り、そして蠢く影が散った。ほどなくして、影を成していたのであろう存在が破片となって頭上から降り注いでくるのを目撃した。自身は一切攻撃を加えていない。どこからか雷撃がやってきた気配もない。そうなれば、答えはひとつ。意を決して、私は海面へ向かって上っていった。

 海面を破り、無意識のうちに大きく息を吸い込む。そして、辺りを見回し自らの予想が当たっていたことを知った。海面を跋扈していたはずの深海凄艦の艦隊の姿がほぼ消えていた。残存している駆逐イ級フラグシップも、今まさにその身を海中に没しようとしている最中であった。そして零距離砲撃を加えた空母ヲ級フラグシップは、海面に浮いてはいたものの、海面に横たわり、身動きひとつ見せなかった。背後を見やれば、同じく現状を察して浮上してきたしおいが同じように海面に顔をのぞかせ、あたりを見渡していた。

 その光景に、思わずこれまで張りつめていた緊張の糸が緩んでいくのを感じていた。

「いおなちゃん!」

聞きなれた声が耳朶を打つ。同時に、うねる海面をひとりの艦娘が滑り、目の前に現れた。間違いない、榛名だ。

「ごめんなさい、無茶しちゃって……」

「その話はあとで聞きます。ヲ級を攻撃したのはあなたなのね?」

謝ろうとする言葉を制し、彼女は冷静に状況を把握しようとしていた。

「眼の前に急速浮上して、主砲で至近距離から砲撃するところまではうまく行きましたけど、それが精一杯で……」

そこまで口にしたその時目に入ったのは、できれば信じたくない光景だった。

『榛名! ヲ級は、まだ生きている!』

榛名の無線にも、日向の絶叫のような声が届いていた。ふたりの視界が捉えた光景は、日向の絶叫の通りだった。

 先ほどまで微動だにしなかったヲ級が、膝を笑わせながら、それでも立ち上がっていた。爛々と妖しく輝く黄色の瞳がこちらを捉える。そして、ゆるゆると、しかし何か恐ろしい感情をこめた右手を振り上げられた。

『逃げろ榛名! 奴にはまだ艦載機が残っている!』

その手が我々に振り下ろされた瞬間、飛び出してきた艦載機が襲ってくる。すぐにでも榛名を逃がそうと考えた瞬間、視界をその榛名の艤装が遮った。

「勝手は!」

身体の中まで震わせる咆哮が響き渡る。彼女の艤装の横から顔を出し、ヲ級のいる方角を覗き込んだ。ヲ級の直後に水柱が上がっていた。

「榛名が!」

二発目が放たれ、今度はヲ級の身体に直撃した。砲口から吹き出す炎と煙の隙間越しに彼女の顔が見えた。

「許しませんっ!」

三発目が反対側の砲塔から放たれた。二度目の直撃を受け、ヲ級の体勢が崩れた。

 何かを感じ、私は榛名の顔に視線を向けた。そこには、凛々しくヲ級を見据える彼女の顔があった。その表情に、私が過去艦だった頃に何度も見てきた怒りも、憎しみも、狂気も、微塵たりとも存在しなかった。そこにあったのは、誇り高く力強い、そして優しい表情だった。

 直後、爆発音が轟いた。つい一瞬前まで敵が立っていた海には黒煙が上がり、空母ヲ級はその身体を四散させると静かに海へと没していった。

「榛名!」

無事を確かめる伊勢の声が響き、榛名を取り巻くように第四艦隊の面々が集まった。それと同時にしおいも合流し、ようやく現在出撃中の全艦娘集合、と相成っていた。大声を張り上げる伊勢の視界に飛び込んだのは、ボロボロな姿になって眠っているいおなを抱きかかえながら人差し指を口の前にかざして静かに、という仕草を見せる榛名の姿だった。

「――さぁ、みんなで帰りましょう」

『呉鎮守府艦隊司令部、こちら第四艦隊旗艦榛名――』

第四艦隊は帰路に就いた。空には、台風の目が到来していることを告げる、薄い晴間が射していた。

 

    ◇

 

 一週間後、呉鎮守府。

 昼前の提督執務室には、この日も執務に励む提督の姿があった。山のように積まれた数々の書類に目を通し、トントンと小気味よい音をハンコが立てる。その中に入っているひと束の報告書を手に取り、その中身を読み返していく。

 一週間前、嵐の中行われた瀬戸内海での対深海棲艦撃破作戦。作戦名など付けられることもない、これまでに行われた作戦の中では決して規模の大きいものではなかったこの作戦。しかし、そこに至るまでの経緯やその結果を、彼はこの先も決して忘れることはないだろう。書類に記載された様々な情報の中から、作戦に参加した艦娘が挙げた成果が列挙された部分を視線が追う。

 榛名、敵艦隊旗艦・空母ヲ級フラグシップを砲撃にて1隻撃沈。

 日向、駆逐イ級フラグシップ2隻を砲撃にて撃沈。

 北上、駆逐イ級フラグシップ1隻を雷撃にて撃沈。

 鳳翔、敵航空機部隊を迎撃、多数撃墜(正確数不明)

 伊401、駆逐イ級フラグシップ2隻を雷撃にて撃沈。

 伊507、敵艦隊旗艦・空母ヲ級を砲撃にて大破、一時行動不能に。

 これが、あの作戦で挙げられた全戦果だった。

 作戦後、緊急出撃した第四艦隊は無断出撃していたふたりを引き連れ、全艦無事に帰還した。そのうち、最もダメージの大きかった伊507はすぐに入渠させられ、肉体、艤装に受けた無数の負傷・損傷を手当てしている。その後回復したことを受けて、今は伊401共々とある『任務』を命じている。

「提督、冷たいお飲み物はいかがですか」

書類への押印が一段落ついたのを待っていた榛名が静かに執務机の傍へより、一本の瓶を机に置いた。

「――ラムネか」

置かれたラムネ瓶が放つさわやかな光を受け止めた彼は、その瓶を手に取り、応接机の方へ向かった。

「大和さんお手製だそうですよ。是非とも提督にも、と」

彼について応接机にやってきた榛名がテーブルを挟んで座る。彼はラムネ瓶の栓を押し下げ、ふたを開けた。炭酸の圧力で吹きだそうとする中身をできる限りこぼさないようにすぐに口を近づけ、喉の奥へと流し込んでいく。さわやかな風味と弾ける炭酸の感覚が心地よい。

「――これを大和が直に売り出したら間宮が泣きそうだな」

一気に半分ほど飲み干すと瓶をテーブルに置くと、時計に視線を向けた。

「もうこんな時間か……。そろそろ彼女たちの任務も終わりか」

時計の針は11時をとうに過ぎて正午を迎えようとしていた。

「そういえば、大和が外出届を出していたな」

「私も直接話を聞きました。今ごろふたりと合流しているのではないでしょうか」

「だろうな」

彼は、もう一度ラムネを口に流し込んだ。

「せっかく外出許可を出してあげたからな、今日が晴れでよかった」

「……ここ数日蕩けそうなほどの猛暑ですけど」

彼の呟きに榛名が苦笑する。彼は振り返り窓越しに外を見る。そこには、青々とした夏空が広がっていた。

 

    ◇

 

 顔を、首筋を、背中を、汗が幾筋にも分かれ流れ落ちていく。身につけている白い体操服にはいくつもの汗の染みが広がっていた。何度拭っても止まらない汗に対処することを諦めた伊507は、とにかく黙々と手を動かし続けていた。その手に握られているのは、握りなれた艤装ではなくトングとゴミ袋。引き金を引く代わりにトングをつまみ、戦果の代わりにゴミを拾い集めていく。

 ふと顔を上げ、視線を別の場所へ送る。その視線の先には、この『任務』にあたるもうひとりの艦娘の姿があった。伊401だ。

 今こなす任務、それは『地域奉仕活動』。無断出撃という禁を破った私たちふたりに与えられた懲罰がこれだった。

 正直に言えば、無断で出撃した揚句に救援を要する状況まで作ってしまったわけで、謹慎どころか艤装解体処分が言い渡されてもおかしくはないと考えていたし、実際覚悟もしていた。

 そんな覚悟を決めながら、傷が癒えたのちに提督に呼び出され処分を言い渡された私たちは、正直拍子抜けしてしまったのだった。

『懲罰として、呉市内指定区域の清掃活動への5日間の従事を言い渡す』

これが言い渡された処分の内容だった。榛名曰く、これまでにこの呉鎮守府所属の艦娘に言い渡した処分の中で一番長い活動期間、らしい。

 その清掃活動もこの日の正午までで終わり。今は最後の仕上げとして呉駅前のロータリーの掃除に汗を流しているところだった。夏も佳境に入り、お盆の季節に差し掛かったこの時期の呉駅は、恐らく帰省したのであろう人たちの姿が目に付く。それぞれに思い思いの目的地へ向かっていく姿を視界の隅で見送りながら、私はとにかく必死に手を動かし、ゴミを拾い続けていた。普段何気なく歩いていればさほど気にならない道端の状況も、このように拾う立場になって見てみればかなりゴミが目に付く。思えば今回のことで初めて鎮守府の外に出たわけだが、次に出るときは絶対にゴミを落とすものか、という堅い誓いが心の奥底に出来上がっていた。

 そんな誓いを胸にペースを落とすことなくゴミを拾い続けている中、周囲を歩く人々がある方向に目を向けていることに気がついた。その視線の先に何があるのか気になり、顔を上げ同じ方向に視線を送り、息を呑んだ。

 駅の方向から、ひとりの長身の女性が歩いてきていた。紅白のセーラー服に赤のミニスカート。そのミニスカートからはすらりと長い脚が伸びている。首元には金の桜をあしらった首飾りが輝き、一歩一歩の歩調に合わせ、美しくつややかな長いポニーテールが揺れる。赤い和傘を差し、ゆったりとした歩調で歩くその姿に、思わず見とれてしまっていた。まさに、大和撫子を体現した存在だった。

「お掃除お疲れ様。差し入れのラムネを持って来たわ」

そんな彼女が私の前で立ち止まり、茫然としている私の顔に向けて優しい笑顔を投げかけ、労をねぎらってくれた。

 彼女こそ、帝国海軍が誇る世界最大・最強の戦艦、大和。先日の一件の直後、鎮守府のドックで目覚めたばかりだった。

「や、大和先輩、こんな暑い中、ありがとうございます……」

考えてみれば、着任直後のあいさつで顔合わせはしたことはあったものの、このように直接面と向かって話をするのは初めてだった。その身体から溢れる何かに、思わず身体に力が入る。

「大和先輩!」

ようやく彼女が来たことに気がついたしおいも駆け寄ってきた。彼女に手招きされ、私たちは手近にあったベンチに腰を下ろした。

「私特製のラムネなの。よかったらどうぞ」

そう言って手渡されたラムネの瓶を手に取る。保冷バッグの中に入れてあったお陰で、その瓶は今も冷たさを保っていた。

「あの、これはどのように開けるのでしょうか……?」

開け方を知らなかったので開け方を教えてもらうと、溢れそうになる中身に驚きながら口に含みます。

「――おいしい」

「生き返る~!」

ふたりの口から同時に感想が漏れた。連日続く猛暑によって熱を帯びた街中で汗を流した直後だけあって、正に生き返るような気持ちだった。

「そういえば、お礼がまだでしたわね」

ラムネを飲み干し気持ちが落ち着いたふたりを見守っていた大和が、ふとそのようなことを口にした。

「――お礼?」

こうして大和と直接話をするのはこれが初めて。それは隣に座るしおいも同じ。あれこれここ数日のうちに自分のしてきたことを思い出してみるが、どう考えても彼女に礼を述べてもらうようなことをした覚えがなかった。

「この間の嵐の日の作戦のことよ、ふたりとも私の故郷を護ってくれて、本当にありがとう。感謝の気持ちでいっぱいよ」

感謝される覚えがないということが顔に出ていたのであろう、大和が補足してくれたことでようやくふたりは理由が分かった。

「呉のお生まれだったのですね」

「そうなの。最も、生まれた時は極秘扱いだったから、長門たちみたいに盛大にお祝いはしてもらえなかったけれど」

そういうと、彼女はほんの少しだけ笑った。

「この街が、あのドックがなかったら、私がこうしてこの街を歩くこともできなかったわ。だから、この街はとても大切なの。例えここが私の生まれた呉ではないとしても」

辺りの景色を見渡しながら、彼女がそう口にした。

「だから、一言お礼を言っておきたかったの」

「そんな……、お礼なんて、私たちにはもったいないです」

何分正規の作戦としてではなく、無断で飛び出して行ってのことだったために、なおのことそのような思いが強くなっていた。

「あと、これは提督からの託ね。『午後からふたりに外出許可を出す、夕方6時までには帰ってくること』、だそうよ。ゴミと掃除道具は地元の町内会の人にお願いして預かってもらえるそうよ」

彼女から聞かされたその言葉に、思わずふたりの顔が緩む。

「外出許可ですか!」

今も鎮守府の外に出てはいるが、もちろん任務中なので遊ぶことはできない。本当の意味での『外出許可』をもらうのは私にとって初めてのことだった。

「提督からお小遣いを頂いてきましたから、お買いものにでも行きましょうか」

そんな提案に思わず心も弾む。一体何を買ってもらおうか、そんなことをアレコレと考え始めていた。

「それじゃあ、行ってみましょうか。――ところで、なのですけど」

ここで唐突に大和のテンションがほんの少し下がった。

「――呉にあるお店、ご存じありませんか?」

一転してとても恥ずかしそうに街中のことを知らないことを大和は告白した。考えてみれば、数日前に呉鎮守府に着任したばかりなのだから、この呉の街の中を知らないのは当然のことだった。

「だ、大丈夫ですよ私何度かお買いものに行ってますから!」

この中で唯一呉の地理に多少詳しいしおいが道案内をしてくれるということで、大和共々胸をなでおろす。これで誰も地理を知らなければ大変なことになるところだった。

「それじゃあ、今度こそ行きましょうか」

「はいっ!」

今度こそベンチから立ち上がり、三人は呉の街へ繰り出していく。

 抜けるような蒼に、白と影色のツートーンで構成された大きな入道雲が立ち上る、典型的な夏の空。そういえば、呉に来たあの日の空もこんな空だったと、私は今広がっている空を見上げ思い出していた。空の景色はさほど変わらない。だが、私自身は大きく変わった。そんな感慨が、不意に私の中に芽生えていた。それは、とても気持ちのいいものだった。

 空から視線を街の景色に落とした伊507は、ほんの少し先を進むふたりの横に並ぶと、昼下がりの呉の街中へと消えていったのだった。

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