Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
#1. 来る瞬間【序】
記憶は混沌として、時に己が何の為に在るのか自問することがある。
直ぐに返る答えは、父の為。
また、未だ見ぬ母の為。
僕に連なる人々の、その切実な願いの為。
僕自身もずっとそれ以外答えを見つけられなくて、それだけに縋るしかなくて、
そのほかに、己を奮い立たせる術を持ち得なくて。
ただ、この命ある限りは挫けるものかと。
未だ耳に残る父の断末魔が、毎晩のように僕にそれを知らしめるから。
あれからおよそ、十年────
喪った父との誓いは未だ、果たせずにいる。
「一緒に行けなくて悪い。本当に有難うな。……テュール」
長年苦楽を共にした友人であり、ラインハット王国の第一王子であったヘンリーは珍しく、その瞳に真剣な色を滲ませ、訣別の言葉を口にした。
「いいんだ。これ以上親分が不在にしてちゃ、デール様だって困るだろ?」
「子分としては、お前の方が上等だけどな」
彼の異母弟であるデール様を槍玉に挙げた僕に、ヘンリーは愉しげに笑う。十二年ほど前、ほんの遊びで始まった関係は、しかし僕達をしっかりとした絆で繋いでくれた。父を目の前で喪ったその直後、魔物達に拉致され、どこぞの神殿の建設現場で奴隷として昼夜を問わず働かされた。幼すぎて何も知らなかった僕に読み書きから根気よく教えてくれたのは、他でもない『親分』ヘンリーだった。
「……本当は、一人で行かせるの少し不安なんだけど」
ぽそり、と悔恨を滲ませた声が聞こえて。僕は精一杯、いつも通りの笑顔を作りヘンリーを振り返る。
「大丈夫だって。一人じゃないから……スラりんに、ピエールだっているし」
買ってさほど年月が経っていない割にくたびれた馬車を見上げれば、中には『仲魔』になったばかりの、いわゆる魔物が何匹か。出発を前にちらちらとこちらを窺っている。
オラクルベリーで魔物を研究しているお爺さんから教えてもらった、魔物を従える力がある、ということ。実際仲魔にしてみたら、従えるというより友達になると言った方が近かったけれど、とにかく僕にはそういう奇特な力があるらしい。こちらに寝返ってくれた魔物達は総じて知能も高いようで、名乗りもあげられれば人間である僕と簡単に意思疎通も図れる。今や仲間として、そして僕の新たな友人として、戦力としても十二分に活躍してくれていた。
ヘンリーには祖国がある。一度は全てを諦めながらも魔物の手に陥ちかけた祖国を救い、今は弟王陛下を支え生きることを誓った。そんな彼を、僕に引き留められようはずがない。
「……大丈夫」
もう一度言うと、ヘンリーはわざとらしく大きな溜息をついて顔を上げた。
「わかったよ。……気をつけて行けよ。無理かもしれないけど、たまには顔出せ」
「うん。ヘンリーも、元気で」
これ以上は別れが辛くなるだけだから。ひらりと手を振り背を向けて、いよいよ彼から数歩分の距離を離れていく。
「……テュール!」
馭者台に登ろうとしたその時、ヘンリーが一際大きな声で僕を呼んだ。
「早く、嫁さん見つけろよな‼︎」
何かと思い振り返れば、そんな一言で。
思わずつんのめりそうになるのをなんとか踏みとどまり、僕もまた大声を投げ返した。
「……ヘンリーこそ! 早く迎えに行ってこいよ‼︎」
僕の言葉は的確に伝わったらしい。みるみるうちに頭のてっぺんまで赤くしたヘンリーが「な、なっ」と口籠るのを見て思わず噴き出した僕は、今度こそ腕を大きく振って別れを告げた。
父との誓いを果たす、新たな旅に出るために。
長く姿を隠していたラインハット王国のヘンリー王子が無事の帰国を果たし、修道院に身を寄せていたとある女性を妻として王家に迎えたと噂に聞いたのは、それから割とすぐ後のこと。
ラインハットを発った後、僕は船で別の大陸に移動していた。直接二人に祝福を伝えに行けなかったのは残念だったけれど、彼らのめでたい報せはその当時少しだけ荒んでいた心を温めてくれたように思う。
なぜかその頃、行く先々で結婚の話題がついて回っていた。街の誰々が結婚式を挙げたばかりだとか、どんな相手が良いか聞かれたりとか。僕と同じ年頃の人々は男も女もそんな話で持ちきりで、ああ、そういう年頃なのかな、なんてぼんやりと思ったりしていた。
────結婚、なんて僕は考えたことがない。
そもそも、僕には父の遺志を継いで母を魔界から連れ戻すという命題があって、そこに他所のお嬢さんを巻き込む気などさらさらない。母を救うまでは、どこかの街に定住するつもりだってもちろんないわけで。
今はただ、父の悲願であった母を救うこと。その為には魔界に赴かねばならないこと。ただの生身の人間にはそれは叶わぬらしいということ。魔界への扉を開く為には、伝説の勇者の力が必要だということ。
その為に、父は勇者だけが扱えるという剣を探し当てていた。
勇者が見つからないなら、勇者の方から見つけてもらうしかない。だから、まずは僕も父に倣って勇者の武具といわれる天空の装備品を蒐集することにしたのだった。その一つがサラボナという街にあるらしい、とヘンリーの義弟であるデール国王から教えて頂いて、僕は迷わずサラボナに向かうことにした。
途中、昔はぐれてしまったキラーパンサーのプックルと再会したり、古代転移魔法ルーラの復活に協力したり、そのお陰で思ったより早くヘンリーとマリアさんに祝辞を伝えられたり……そこでまた僕の婚期について駄目押しされたり。と、色々とあったものの、やはり僕はその時はまだ、とにかく勇者を見つけることしか頭になかったのだ。
「聞きました? サラボナの大富豪が娘の結婚相手を募っているって噂」
この話題も、ここに至るまでにもう何度か聞いた気がする。曖昧に笑って頷き、頼んだ食事を摘みながら相手の話に耳を傾けた。
そこは、サラボナから歩いて三、四日ほどの場所にある宿屋だった。小さな酒場はほぼ満席で、僕も何とか部屋を確保できたほど。
どうやら、数日後に噂の大富豪が娘のお披露目をするそうで、我こそはと思う男達が集まってきているらしい。
「ルドマン家の一人娘だろ? なかなかの別嬪さんだって聞いたぞ。しかも実家は大金持ち。そんなお嬢様と結婚できたら……いいよなあ」
「以前、旅からのお帰りでうちの宿屋にお泊まりなすったんですがね。いやぁ、ほんとに天女みたいなお嬢さんでしたよ。私も独身でもっと若けりゃ手を挙げるんですがねぇ」
「あんたらじゃ無理だっての。あんな上等な娘さんに相手してもらえるわけないだろ? 莫迦だねぇ」
宿を切り盛りするおかみさんが、酒場のカウンターでうっとりと喋るマスターの言葉を耳聡く聞きつけ、スパッと一刀両断する。だが夢見る男達の雑談は止まらない。どんな容姿だったとか、どんな会話をしていたとか、持参金がどうとか、すっかりその話題ばかりで盛り上がっている。
「まったく、男ってやつは。……あんたくらいの男前なら、目があるかもってのも分からなくないけどねぇ?」
年頃だからか、僕は時折こんなお世辞を貰うことがある。苦く笑って首を振ると、おかみさんはさも勿体ないというように息を吐いた。
「ああ、そういやなんか凄い盾も譲ってもらえるって?」
盾、という単語に反応し、僕は今度こそ、会話の内容だけに全神経を研ぎ澄ませる。
「本物かは知らんけど、勇者の盾だって話だぜ」
「さすがにレプリカだろ? いくらルドマンさんでもそんな大層なもんを婿程度の男にやったりするかよ」
「そうだよなぁ。ま、俺は白薔薇の君と結婚できればもう御の字だけど。盾と言わず、資産もたんまりついて来るだろうし」
────どうやら、娘の結婚相手に盾を譲る、という話らしい。
剣と同じく、可能ならば手元に持っておきたいが、一人娘の婿に譲るというのが条件なら、僕にその資格は頂けそうにない。であれば富豪令嬢の婿となる人を見極めて、必要なら交渉するしかないか。最悪手に入らなくとも、盾の在り処だけ押さえておけばいい……
そんな風に考えて、食事を終えた僕は部屋に戻り、早めに休むことにした。
まさか、この四日後に、僕自身の人生を大きく揺るがす出逢いが待っていようとは。
その時の僕は、露ほども思いはしなかった。
何度も耳にした噂のご令嬢が一体どんな女性なのか、特段の興味も湧かなければ、考えることすらしなかったのだ。
翌日、宿を出て中一日。野宿を二泊、地下に作られた洞窟を更に半日と少しかけてやっと通り抜ければ、サラボナはもう目と鼻の先だ。
洞窟から出ると、山に囲まれた森の中にきちんと整備された石畳が、恐らくは街へと長く続いているのが見えた。
同じく洞窟を抜けて来た旅人達は思い思いに水場を使ったり、束の間の憩いに勤しんだりしている。昨今の魔物の荒れようからここはまだ安全とは言い難いものの、ある程度の治安は約束されている様子を見ることができた。
────良い、ご領主様なんだな。
ラインハットやその周辺は偽の太后が荒らした後だったから、丁寧に手入れされている土地をこうして歩くのは少し新鮮だった。
石畳を数刻も往けば大きな川のせせらぎに出会い、そこで軽く昼食をとる。あとは川沿いに、爽やかな空気を楽しみながらのんびりと南下していった。
いよいよサラボナが近づくほど活気が伝わってくる。普段から賑わっている街なのだろうが、見るからに富豪の噂目当ての男達があちらこちらから集ってきているようだった。
僕はというと、街の外に架けられた橋を渡ってすぐのところで宿屋の納屋を見つけて、先ずはそこに居た宿の人に宿泊したい旨を告げ、馬車を繋がせてもらった。中の魔物を警戒されては困るので念の為、その旨も伝える。どうやら僕のような、所謂『魔物遣い』と呼ばれる人間は珍しいものの稀には居るものらしく、どこの宿屋でもちゃんと説明すれば快く受け入れてもらえたのが救いだった。
宿の場所を教えてもらい、いざ街に入ろうとしたその瞬間。
人だかりの向こうが突然、派手にざわついた。
何だろう?
咄嗟に、街の様子を窺い見た。明るい街並みに人が群れて、騒めきの向こう側から甲高い仔犬の鳴き声がする。と思うとほぼ同時、人集りの隙間から白い仔犬が唐突に現れ、勢いよく僕に飛びついてきた。激しく尻尾を振りながら前足で服にしがみつき離れようとしない。驚いたものの、その可愛らしい仔犬を抱き上げようとして僕は自然と膝をついた。
────その時、
「どなたか、その仔犬を捕まえてください!」
微かに甘い花の香りと共に、
澄んだ、鈴のような涼やかな声が僕の耳を軽やかに打った。
その響きに、導かれるままに顔を上げた、その先に。
人の波間をかき分けて現れた、
晴れた青空のような長い髪がふわりと視界の端に翻った。
──────────時間が、
止まる。
彼女をこの目に映した瞬間、
息を継ぐことも忘れその存在にただ意識を奪われる。
翡翠の瞳が大きく見開かれ、
跪いたままの僕を映す。
互いの瞳の中に
囚われてしまったかのよう、
何も聞こえない。
他に、何も見えない。
────彼女しか、視えない。
きっと、ほんの一瞬だったけれど、永遠とも思える不可思議な瞬間。
一層のざわつきが、人混みの中から聞こえる「フローラさんだ」という囁きが、そして手元に抱いた仔犬の体温が、切り取られた空間から僕を唐突に現実へと引き戻す。
胸を、鋭く衝かれた心地でもう一度焦点を合わせると、目の醒めるような美しい碧髪をなびかせた可憐な少女が、胸元で両手を固く握りしめたまま、その清楚なドレスを風に揺らして僕を見つめ、立ち尽くしていた。
────この女性が、フローラさん?
大富豪が結婚相手を求めているという、あの。
「……ごめんなさい、私ったら……、ぼうっとしてしまって」
僕の不躾なまでの視線に我にかえったのか、少女は恥じらうように頬を染め、狼狽えながら言葉を紡ぐ。
「……、いえ、こちらこそ……この子は、貴女の?」
何故かからからに乾いてひりついた喉からやっと声を発すれば、彼女はおっとりと頷き、遠慮がちに僕へと一歩、歩み寄った。
「────はい。突然、走り出してしまって……あのまま街の外へ出てしまうのではと、気が動転してしまいました。……捕まえてくださって、本当にありがとうございます」
感謝の言葉を述べて頭を下げた彼女の陶器のごとく白い肩越しに、長く艶やかな空色の髪がさらりと零れ落ちる。
「そう、なんですね。止められて本当に、良かった」
動転しているのはこちらの方だ。
僕の拙い返答にほんのりと微笑む彼女は、今まで見たどんな絵画より清らかで、愛らしかった。天女か、聖女かと見紛う微笑みに、暫し僕の意識は魂ごと奪われる。翡翠の瞳を彩る薄紅色の頬、咲いたばかりの桜の唇は控えめに弧を描き、慈愛に満ちたその表情の傍らを瞳に似た碧い髪が流れる。人のものとは思えない白い肌は壊れそうなほど儚いが、よく見れば走ってきたためか薄っすらと額が汗ばんでいる。──その様が妙に生々しく、僕の心臓は知らずどくんと跳ねる。
胸の前で組んでいた掌を紐解き、彼女は華奢な腕をそっと僕の方へと差し伸べ、呼びかけた。
「リリアン、……いらっしゃい」
優しくも甘いその響きに誘われ、吸い寄せられるように立ち上がった。捕まえた仔犬を手渡そうとしたが、外套にしがみついたまま仔犬はなかなか離れようとしない。
「……まぁ、リリアンがこんなに懐くなんて」
彼女の宝石のような瞳に、わずかに驚きの色が点る。
「ほら。ご主人様のところに帰りな」
整えられた白い毛並みを撫でてやると、仔犬はくぅん、と甘えた声を出しながらされるがままに、僕に抱えられるだけの格好になった。
作り物のような綺麗な腕が、武骨な腕から柔らかな仔犬を受け取って。
ほんのわずか、その透き通るような肌に触れたその瞬間、
ざわり、と、
全身を巡る血が一気に逆流したような熱さを覚える。
────この心地は、なんなのだろう。
「ありがとう、ございます」
指が触れた瞬間、彼女もうっすらと頬を紅色に染めながら、わずかにその肩を震わせてもう一度、感謝の言葉を伝えてくれた。
「……旅のお方、でしょうか?」
ふわりと白い仔犬を抱きしめた彼女が改めて僕を見上げ、首を傾げる。見るからにくたびれた旅装を恥じつつ、自然とどぎまぎしてしまう内心を必死に隠しながら、僕は精一杯の微笑みを繕い彼女に向けた。
「はい。たった今、この街に着いたばかりです」
「そうなのですね。お疲れでしたでしょうに、お手を煩わせてしまって本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、もう宿を取るだけなので大丈夫です。どうかお気になさらないでください」
一言、一言が澄み切った鈴の音の如くこの胸に凛と響く。彼女が頭を垂れるたび、癖のない長い髪が頸から零れ落ちて、まるで神秘的な滝でも目の当たりにしているような気分になる。──それでいて、美しい髪の隙間からちらりと覗く滑らかな肌はどこか煽情的ですらあって。あまりに清純な彼女に不似合いな、そんな感情を抱いてしまう己に気づき、密かに唇を噛みしめた。
……何を考えているんだ、僕は。
「わたくし、この地方にて代々領主を務めさせていただいております、ルドマン家長女のフローラと申します」
きっと彼女にとっては自然な所作なのだろう。仔犬を片手に抱いたままドレスの裾を軽く摘むと、流れるように優雅に礼を取り、目の前の可憐な少女はたおやかにそう名乗った。
「あ……、テュール・グランと申します。ご丁寧に、ありがとうございます」
慌てて僕も、普段あまり名乗らない姓を添えて答え、頭を下げる。
「テュール、さん。素敵なお名前ですね」
僕の名を反芻し、ルドマン嬢はそう言ってやわらかな笑みを覗かせる。
「もし、ルドマン家にお寄りになる機会がございましたら是非わたくしをお訪ねくださいませ。ささやかですが、リリアンを止めてくださった御礼をさせて頂けたら。──お時間を取らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。どうぞ、このサラボナでゆっくりなさって行ってくださいね」
どこまでも優しく、穏やかなルドマン嬢の声音に、浮ついたこの感覚をどうにも抑えきれない。
「はい、きっと」
地に足がつかない心地でようやくそれだけ答えると、ルドマン嬢はもう一度花のような微笑みを残し、妖精の如く軽やかに会釈して、仔犬を抱いたまま足早に去っていった。
────夢の中にいるような気分だ。
小さく、遠ざかっていくその背中をぼんやりと眺めながら、僕は心の内側でそっとそう独りごちる。
先程の、全ての空気が時間の流れを止めたようなあの感覚から、熱に浮かされているような、ふわふわした心地が続いている。
あくまでもそれは現実感がないということであって、これが夢ではないことくらい僕は嫌という程承知していたのだが。
それでも、この甘やかな邂逅が魔物の策による夢であってもおかしくないと思うくらい、僕は彼女に意識の全てを持っていかれていた。
「──兄ちゃん、すっかり鼻の下が伸びきってんなぁ」
どれくらいそうしていただろうか。とっくに見えなくなった背中を尚も目で追っていた僕に、周りで見ていたらしい一人がからかうように声をかけた。
「……あ、すみませ」
いつの間にか、否、そういえば初めから人集りをかき分けて飛び込んできていた気もする。僕とルドマン嬢のやりとりを見ていたであろう人々が声を上げ、我先にと彼女を褒めそやし始めた。
「仕方ないさ。あのひとをああも間近で見たらね。本当、女神様っているんだなぁって思っちまうよ……」
「なぁ? 別嬪だろ? サラボナの白薔薇、フローラ・ルドマンはさ。器量好しはどこにでもいるが、ああいう気品は一朝一夕で身につくもんじゃねえ。あれだけのご令嬢には中々お目にかかれねえよ」
「いつかどこぞの貴族様にでも輿入れするものかと思っていたら、まさか、誰でも求婚させてもらえるとは。いやぁ、すごい話もあったもんだよ!」
すっかり惚けてしまっている僕に、居合わせた人々は代わる代わるに彼女の素晴らしさ、美しさについて熱弁を奮ってくれる。
誰でも、求婚。
そうか。そうだった、彼女はもうすぐ、この街に集まった数多の男達のうち恐らくは誰かの元に────嫁ぐのだ。
腹の奥深く、ずっとずっと内の方で、ぞろりと。
僕の知らない、暗い感情が音もなく頭をもたげた。
「無謀だろうけど、息子には頑張ってもらわないと。そりゃもう、フローラちゃんはずーっと憧れの君だったんだから」
彼女を良く知る雰囲気で年配の女性がしみじみと呟くと、同じく求婚しようとしている誰かの親だろうか、白い髭を蓄えた男達が揃って頷いた。
「長いこと街を離れて、修道院で花嫁修行してきたと言っていたねぇ。あれほどの娘さんなら、どこぞの王様から声がかかってもおかしくないと思うんだがね」
「まぁルドマンさんは、誰が相手でもそう簡単には娘を手放さんだろうよ。だからこそ、今から屋敷で告知とやらをするんだろ? どんな無理難題をふっかけられるのかねぇ」
尚も盛り上がるばかりの街の人達の会話は、もう半分以上は頭に入って来なかった。
今日これから、ルドマン卿の屋敷で告知が為される。彼女の結婚相手を選定する為の条件が示される。誰でも、その試練に挑戦することができる。────誰でも。
ふらり、と勝手に脚が動く。彼女が去ったその方角を、既に見えない背中を追うように、僕はゆっくりと歩き出した。
「お? お兄さんも行ってみるかい? ──ルドマンさんの屋敷はそこの噴水を真っ直ぐ行ったところだよ!」
すれ違った男が、背中に囃すような声を投げかける。
けれど、僕には何も答えられなかった。振り返ることもできなかった。
──この時本当は何を考えていたのか、今でも僕にはよく思い出せない。
ただ、告知の場に行かなくては、と。
それだけが、僕の思考を占めていた。
2019.04.29 pixiv初出