Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
帆船でサラボナを発った朝から、およそ二週間近くが経過していた。
────僕達は再び、この街に戻ってきた。
水門を再び越えて、「本当に一度戻らなくていいの?」という僕の問いかけを無視したビアンカも帆船に乗せたまま、僕達は旅立ちの時と同じ岸辺に船をつけた。
「本当にありがとうございました。お世話になりました」
感謝してもしきれない、この長旅につきあってくださったクラウスさんに深々と頭を下げる。この穏やかな航海士のお陰で、僕の心はどれほど救われただろうか。
「こちらこそ、旦那様に土産話をお聞かせできるのが楽しみです。大変楽しい船旅でした」
船の手入れをしてから戻るというクラウスさんにその場で別れを告げ、僕達は馬車と共にサラボナの街へと向かった。
初めてこの街へ来た時と同じように宿の納屋に立ち寄り、既に顔見知りになっていた厩番の方に話しかけると、二つ返事で馬車を引き受けてくれた。「今夜はお泊まりですよね?」と何故か目を輝かせて言うその男に愛想笑いで頷き返し納屋を出る。外で待っていたビアンカの元に駆け寄り「お待たせ。街に入ろうか」と声をかけた。
ビアンカは、あれだけ厚かましいことを言っていた割に今は珍しくも大人しくしていた。……どこか緊張しているようにも見てとれた。
「ねぇ、すぐにルドマン様のところに行くの?」
「その前に一ヶ所、寄りたいところがあるけど……何、まさか本当にお屋敷までついてきたりしないよね?」
いつもの軽口のつもりだったが、やはり歯切れが悪い。「やだ、さすがに中まではついていかないわよ。……お屋敷の外で待ってるのは駄目?」などと微妙な提案をしてくる。僕としてはビアンカを見咎められて変に誤解を受けてはたまらない。出来れば、本当に街歩きでもしていてほしいと言うのが本音だった。
「ビアンカも今夜は宿に泊まるんだろ? だったら、先に行って部屋とってきたらどうかな。それで少し散歩でもしてきなよ。行き先が同じなだけ、なんだろ?」
少し意地悪かな、と思いつつそう言い返すと、ビアンカは顎を抑えて少し考え込む風をする。すぐに「そうね、じゃそうする」とこれまた珍しく物分かりのいい返事をして、宿の方へと手を振りながら去っていった。ほっと胸をなでおろし、僕もまた改めて久々の街中を目的地に向かって歩き出した。
いつの間にか僕の顔はそんなに知れ渡っていたのか、道行く人から「よっ! お帰り、色男!」だの「水のリングってやつも見つけたのかい? すごいねぇ!」だのと声をかけられる。こういう経験は今までにないので、どういう顔をしていいかわからない。
やはり炎のリングを持ち帰った話は、その後水のリングの探索に出た話と共に、街中で持ちきりの噂になっていたようだった。
すぐに目的の場所であるノルン家──アンディの家に辿り着き、いつかのように扉を軽くノックすると、「はい、はい」という耳慣れた声と共に、二、三拍置いて中からノルン夫人が顔を覗かせた。
「ああ、テュールさん。帰ってきたんだね」
当初の頃よりは幾分か物腰が柔らかかったが、それでもまだこの方の僕への対応は決して温かいものではない。息子への愛情が為せることなのだろう、そう思えたから、僕もさして気に留めないよう振る舞いつつ頭を下げた。
「こんにちは。たった今戻りました。長い間ホイミンを預かっていただき、本当にありがとうございました」
「こっちこそ、ホイミンちゃんにはずうっと助けてもらったよ。ありがとうね。……だいぶ良くなったんだけどさ、アンディがちょっと重い風邪をひいちまったみたいでね。でも、やっと起き上がれるようになってきたんだ。さあ、上がっておくれ」
促されるままに室内に入り、何度か上がらせてもらった階段を静かに昇る。
二階には──これも覚悟はしていたけれど、やはりフローラがいつもの椅子に座っていた。その傍に、心配そうに彼女に寄り添うホイミンと。ベッドにはだいぶ血色良くなったアンディが毛布をかけたまま上半身を起こして座っていた。……真っ先に目に入ってしまうのが彼女であることに、何故か自嘲めいた気持ちが湧き上がる。
「テュール、さん」
そして、僕に真っ先に気づいてくれるのも、やはり彼女だった。
あの日のように僕を見つけたフローラがすぐに立ち上がり、つられてホイミンが、アンディがこちらを振り向いた。それぞれがどこか安堵の息を漏らす中、フローラが桜貝の唇をわずかに、震わせた。
「────おかえり、なさい」
微笑おうと、してくれたようだった。いつも以上に綺麗に化粧を施した顔を、懸命に僕に向けて。その表情があまりにも切なくて、僕はずっとこらえていた愛しさがこの身を迸り出そうになるのを生々しく感じた。
会いたかった。すごくすごく、会いたかった。
「……ただいま、戻りました」
腕を伸ばして、捕まえてしまいたい衝動をどうにか抑えてそれだけ告げれば、彼女は今度こそ安堵したように柔らかく微笑んでくれた。
「ちょうどいいところに来てくれた。テュールさん、フローラを連れ帰ってやってもらえませんか」
ほとんど出会い頭に、どこか不機嫌さすら見せる様相でそんな不穏な物言いをする。未だ病床のアンディの言葉の意図を図りかね、僕は彼の方を首を傾げて振り返った。
「えっと、どういう……?」
「言った通りですが」
ますます不機嫌さを露わにするアンディはにべもなく僕の問いを退ける。傍に立つフローラをちらりと見遣り、溜息混じりに呟いた。
「僕の見舞いを逃げ場にされるのも、いい加減迷惑だ」
やはり僕には彼の発言の意味がわからず、ただ目の前の男女を眺めるだけだったが、フローラは幼馴染の男の言を耳にした途端目を瞠り、なんとも言えない表情のまま頬を赤く染めあげた。
「──ご、ごめんなさい、アンディ」
そんなつもりじゃ、と声を上げかけた彼女を制し、アンディは僕に退室を促す。何だか痴話喧嘩でも見せられているようで釈然としないが、僕は彼の譲らぬ姿勢を感じ取り、フローラとホイミンにそっと目配せすると、一つ会釈をしてそのまま階段を降りていった。
「おや、もう行くのかい」
ほとんどとんぼ帰りなので無理もないが、階下で家事をしていたノルン夫人が、降りてきた僕に声をかける。
「はい、アンディからフローラさんを家に送っていくように言われまして……とりあえず、元気そうで安心しました」
「そうかい。そうだねぇ」
僕の言葉に夫人はそっと目を細め、「命あっての物種、だよねぇ」としみじみと呟いた。
──ずっと、醜い嫉妬心が邪魔して素直に思えなかった「助けられて良かった」という気持ちが、やっと僕の中にも芽生えたような気がした。
『母親』に、こんな顔をしてもらえたなら。きっとみんなも、僕も、フローラも、彼を助けようと力を尽くした甲斐がある。
「……本当に、ありがとうね。……フローラちゃんも」
その頃階下に降りてきたフローラにも目を向けて、ノルン夫人が今一度、感謝の言葉を伝えてくれた。
僕も、フローラも、ホイミンも。夫人に微笑みを返すのが精一杯だった。
僕達から顔を背けた夫人の瞳には、あの晩すら見ることのなかった涙がひとしずく、光っていた。
ノルン家を出て、ホイミンはみんなのところに先に戻ると言ってそこで別れた。
「ふろ〜らちゃん、これであんしんしてねむれるね!」
ホイミンの言葉にフローラはまたうっすらと頬を染め、僕は驚いてしまって「まだ眠れていなかったのですか」と、後々思えば無神経極まりない問いを発してしまった。
「あ、……ええ、でも」
僕の問いかけに困ったように、頬を赤らめたままのフローラが視線を泳がせる。どういうことかとホイミンを見上げたと同時に、フローラの「……もう、大丈夫だと、思います」というか細い、どこか恥じらうような声が聞こえた。
「うん、もうだいじょうぶ〜! いっぱいねてね〜!」
さっきから何なんだろう。アンディといいホイミンといい、僕にはわからない話をしているような。そんな僕の戸惑いなどお構い無しに、ホイミンはふよふよと馬車の方へと飛んで行ってしまう。
そうして、ノルン家の前には僕とフローラだけが取り残された。
「…………、行きましょうか」
ここでさりげなくエスコートできれば良かったが、そんな甲斐性があるはずもなく。相変わらず気の利いた言い回し一つできない自分に落胆しつつ、彼女を帰路へと誘った。
──ルドマン邸に着いたら、水のリングのことを報告することになるだろう。
そう思うと、自然と緊張で背筋が伸びる。
何度も何度も頭の中で考えて、彼女に気待ちを問う覚悟を作り上げてきたけれど、いざその時を思うと手が、身体がどうにも震えてしまいそうな気がした。
隣を歩く彼女は相変わらず清楚で、微かに花の香りがする。
一歩踏み出す度に視界に碧い髪がちらついて、何度も幻に視たその光景を目にする幸せに心臓が大きく跳ねる。
人波の間を通り抜け、噴水広場へとさしかかった。
人々の注目はすっかり僕達に注がれていたが、僕はこの後に控えた告白のことで頭がいっぱいで、密やかに囁かれる噂話も、好奇の目も何もかも気にする余裕がなかった。
だから、すっかり失念してしまっていた。
先程まで同行していた幼馴染に、街歩きを勧めてしまっていたことを。
「テュール!」
明るく、弾む声が背後から僕を呼んだ。
あ、と思った時にはもう遅かった。僕の紫の旅装束を見つけた幼馴染が、朗らかな笑顔で駆け寄ってくるところだった。
「もう行ってきたの? 早かっ────」
邪気のないその声は、僕のすぐ隣を歩く彼女が振り返ると同時に噤まれる。
碧い髪が、翻る。
きっとその翡翠の瞳に今、輝く金髪の三つ編みを揺らした女性が映っている。
普段は喧騒がやまないはずの街の広場で、ほとんどの人が息を止めて僕達を注視した。
──伝承の指輪を持ち帰ったらしい若者と、富豪令嬢が歩いている。
では、あの女性は?
「…………お知り合い……ですか? テュールさん」
沈黙を破ったのは、碧髪の富豪令嬢だった。
「──あ。はい、紹介します。僕の幼馴染で、上流にある水門を管理している人で……」
早口に言いながらも、頭の中が真っ白になって何も考えられない。
すぐ横に立つフローラの、ビアンカを見つめる横顔はただ真っ直ぐで、表情が窺えない。
ただ、わずかにその唇が僕の言葉を辿って動いた、気がした。
言葉を飲み込んだまま足を止めたビアンカは、酷く取り乱した様子で僕とフローラを見つめていた。
一目で、フローラ・ルドマンその人だと気づいたんだろう。
「……ビアンカ・ダンカンです。たまたま、リングを探しに行った時に再会して、それで」
「ごめんなさい‼︎」
僕の拙すぎる説明を遮るように、ビアンカが大声を出して、僕達に向かって勢いよく頭を下げた。
「邪魔するつもりはなかったの。ごめんなさい。──私、宿に戻ってるね」
「お待ちください!」
しん、と静まり返った広場に。慌てて立ち去ろうとしたビアンカの背中に、フローラの凛とした声が響いた。
ルドマン卿が結婚相手の条件を告知したあの日にも、広間で同じ呼びかけを聞いた。
あの時は、父親を制止する声だった。
「ビアンカ……さん。お待ちください。──テュールさんと、お知り合いでいらっしゃるの……ですよね?」
今、彼女から発せられる声は、あの時よりもずっとずっと優しくて。
「……、え、ええ。幼馴染です、けど」
まさかフローラから呼び止められるとは思っていなかったのだろう。ビアンカが珍しく、辿々しい口調でフローラの問いかけに答えている。
僕はこの状況に頭がついていかず、ただ二人のやり取りを眺めるしかない。
フローラは長い睫毛を一度伏せ、一つ深く息を吸ってから──僕と、ビアンカを交互に見つめて、言った。
聖女の如く、どこまでも優しく穏やかな。けれど、彼女自身の感情は欠片も見えない、その声で。
「是非、お二人で我が家へおいでくださいませ。……テュールさんも、父にご用がおありなのでしょう?」
……どうして、こうなったのだろう。
先頭にフローラ。その後ろに、僕と、何故かビアンカが隣を歩いて、僕達はすぐにルドマン邸へと辿り着いた。背後からひしひしと感じる野次馬の視線があまりにも痛い。
「テュール、あの……本当にごめんね」
フローラに聞こえないよう、極々小さな声でビアンカが僕に囁く。
僕はただ、小さく首を振るしかない。ビアンカを引き留めたのはフローラであって、僕がそこに異を唱えることなどできないのだから。
屋敷の扉が内側から開き、令嬢を迎え入れる。すぐに彼女は何かを使用人に伝え、僕達にも中に入るよう促した。重い扉は閉じられ、痛いほどに刺さり続けていた好奇の視線は途絶えたが、気持ちは少しも楽にならない。
いつもの応接間へと案内され、先日はなかったソファへの着席を勧められたが僕もビアンカもそれを固辞した。フローラもまた僕達の傍に立ったまま、恐らくはこの館の主人を待っている。
程なく奥まった扉から人の気配がして、恰幅の良い熟年の男性が、加齢を感じさせつつも尚美しい女性を伴って現れた。
「テュール君、待っていたぞ。君ならば必ず、水のリングを手に入れると信じていた」
すでに確信に満ちたその口ぶりは、クラウスさんから報告を受けた後だったのだろうか。
上機嫌でそう言うと、ルドマン卿は後ろに控えた上品な物腰の女性を振り返り微笑んだ。
「紹介が遅れてすまんな。家内のアウローラだ。アウローラよ、どうだ。彼が我々の息子になってくれる男だよ」
「まぁ、あなたったらお気が早いこと」
フローラとは違う、豊かな栗色の髪を美しくまとめ上げたルドマン夫人はフローラに似た仕草でくすりと上品に微笑むと、僕達を優しく見つめて優雅に礼をとった。
「ロドリーゴの妻、そしてフローラの母でございます。テュールさんのお話は、夫より予々聞いておりますわ。先日はこの人の晩酌におつきあい頂いたそうで、ごめんなさいね」
「おい」と細君に向かって少し鼻白む卿に慌てて「いえ、こちらこそ大変ご馳走になってしまいました。テュール・グランと申します」と名乗り頭を下げた。
先程から、僕達より少し前方に立つフローラの表情は見えない。今この会話を何を思って聞いているのか、せめて確かめたいと思ったけれどその術がなかった。
「……それで、テュールさん。そちらのお嬢さんも、私達にご紹介いただけますかしら?」
ひどくたおやかな声音だったが、その内容に僕の背筋は凍るほどの思いがする。
「大変失礼いたしました。──彼女はビアンカ・ダンカン、上流にあります水門の管理者で、……僕の、幼馴染です」
僕の紹介に合わせて、すっかり恐縮した様子のビアンカが「ビアンカです。本日は突然訪問させていただき、失礼いたしました」と小さくなって頭を下げた。
「私が、お招きしたのです。お母様」
それまで黙って佇んでいたフローラが、凛とした声を発する。
父親は娘をちらりと見やったが特に何も言わず、母親だけがどこか憐れむような瞳で娘を見つめていた。
「……なるほど。先程クラウスから大方の話は聞いたよ。まあ、楽になさい。──それで、テュール君。私は今も期待していて良いのかな?」
それが、指輪のことを示しているのだと判断して。僕は頷き、中央の立派なソファに腰掛けた夫妻の前に歩み出ると胸元に下げた鎖をそっと外した。
「……どうぞ、お確かめください」
両の掌に指輪をのせて跪き、お二人の前に差し出した。白銀の指輪を卿がそっと摘み、奥方へとその宝石の中を覗かせる。恐らく中の漣を確認したであろうルドマン夫人が、口許をそっと抑えながら「なんて、美しいこと」と目を細めた。
「──間違いない。良くやってくれた、テュール君!」
興奮した様子のルドマン卿が勢いよく立ち上がり、僕の手を取った。使用人に合図をすればすぐにあの小さな宝石箱が運ばれてくる。ソファの前のテーブルにそれらの箱は置かれ、中を開ければ白銀と一対を為す紅い指輪がその一つの中に埋まっている。命懸けで手に入れた、あの指輪だった。
卿と呑み交わした日、目を細めて見つめていたもう一つの小箱に、白銀の指輪が収められる。
「これで君は条件を満たした。フローラとの結婚、喜んで認めようではないか! フローラ、お前も彼が相手ならば異論はなかろう?」
嬉々としたルドマン卿の言葉に、今言わなくては、と気持ちが焦る。僕は、その前にフローラに確かめなくてはならない。
僕と結婚したいと思ってくれるのか。僕を夫に選んでくれるのか。僕を、望んでくれるのか。
「────はい、お父様」
けれど、僕の焦燥など無残に砕け散る。その、感情を窺わせない声で、フローラは確かに一度肯定した。した、けれど。
「……けれど、……ビアンカさんは?」
唐突に名前を挙げられたビアンカは、「え?」とフローラの横顔を凝視し、次いで焦ったように僕を見る。
助け舟など出せるはずもない。僕も僕で、自分のことでいっぱいいっぱいなのだから。
「わ、私⁉︎ ──私はただの幼馴染なんです。ほんとに。あの、私お邪魔ですから、もうこの辺で」
「お待ちください、ビアンカさん!」
完全に慌てふためいているビアンカを、フローラの凛とした強い声が押し留める。
びくりと肩を震わせたビアンカを一度だけ振り返って、フローラは慈愛に満ちた眼差しをビアンカに向ける。
その瞳が映すのはビアンカであって、僕ではない。
「ビアンカさんは、テュールさんを……お好きなのでは、ありませんか」
真っ直ぐな、優しすぎる彼女の声でそっと紡がれるその言葉が、僕には欠片も頭に入っては来ない。
立っているだけのはずの地面がぐるぐると旋回する。
────彼女は、何を言っている?
「……それに、テュールさんも、……ビアンカさんのことを」
再び両親に向き直ったフローラは、しかしその視界に僕を含めず睫毛を伏せて呟いた。ひどく、落ち着いた様子で、無感情なほど淡々と、彼女は言葉を続けている────のに。
それなのに。
「そのことに気づかず、私と結婚して……後悔することになっては……」
どうして、今。
彼女が泣いているような気がするのだろう。
「あ、あのね、フローラさん。そんなことは」
おろおろと取りなそうとするビアンカを、やはり僕は何も言えず、ただ茫然と眺めていた。
僕が、ビアンカを?
僕が気づいていないだけで?
────本当に?
「……まぁ、落ち着きなさい。フローラ」
混乱する頭に、ルドマン卿の溜息交じりの声が低く、重く響く。
「こうしてはどうかね。今夜一晩、テュール君にはよくよく考えてもらうのだ。そうして本当に望む相手を、明日改めてここで選んで貰えば良い。儂らとて彼には真実、好いた相手と添い遂げて欲しいと思っておる。……ビアンカさんがその相手だと言うなら、そう言ってくれて構わんよ」
「────え」
もう、本当に何が何だかわからなくて。畏れも何もなく縋るようにルドマン卿を見つめれば、卿は僕に限りなく温かな、信頼の眼差しを手向けてくれる。
「君なら、真実……君の援けとなる娘を選ぶことができるだろう」
そんなの、無理です。
叫び出したい気持ちを必死にこらえて。
何が本当かわからない。何を信じていいのか、自分の気持ちですら、こんなにも覚束ないのに。
たった一晩で一体、僕に何を決められるというのか。
「テュール君は、宿を取っているな。ビアンカさんは我が家の離れに泊まってもらうと良い。すぐに手配させよう。明朝またここに来たまえ。我々の目の前で、花嫁を選んでもらう。……それでいいな? フローラ」
最後の確認は、僕ではなく一人娘に投げられた。どこか呆れたような声音を伴って。
フローラは力なく、はい、と一つ頷いて俯く。
ビアンカも、僕から顔を逸らし俯いたままだった。
そのまま、二人の女性はそれぞれが手を引いて連れ出され、僕は茫然としたまま、いつの間にか屋敷の外に一人、遠巻きに僕を眺める人達に囲まれ立ち尽くしていたのだった。