Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#15. 覚悟

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 ルドマン邸を辞して、野次馬に揉みくちゃにされながら宿に戻った。ほとんど何も考えられないまま。

 茫然自失のまま宿泊の手続きをして、充てがわれた部屋の寝台に身を投げ出し宙を仰ぐ。

 一体、何が起こったのだろう。

思い出せるのは、ルドマン卿にもう一つの指輪を渡したこと。結婚の許しをいただいたこと。ビアンカがその場にいたこと。──いざその時になって、フローラが、僕とビアンカに問いかけたこと。

(……違う)

 問題は多分そこじゃない。そうじゃないんだ。

 一切の感情が見えなかった。いつもの優しい微笑みも、慈愛に満ちた穏やかな気配も。ただ感情を押し殺すばかりのフローラと、──ビアンカ。

 ……これは、報いだ。

 気づいていた。見て見ぬ振りをした、その報いだ。

 ビアンカの想いに、気づかなかったわけではなかった。何度も何度も示されていた。ビアンカの家で、船の上で、洞窟で。──ただ僕に、受け止める勇気がなかっただけのこと。

 初めての想いに翻弄された。二つのリングを手に入れて浮かれていた。冷やかされるのも、本当はそこまで嫌じゃなかったのかもしれない。想いを打ち明けて、フローラのことを話せる唯一の人となったビアンカに、僕が甘えすぎた。

 その関係が心地よくて。

 今のままの僕達から、変わってしまうことを怖れて。

 ビアンカは今まで、どんな想いで僕の話を聞いてくれていたのだろうか。

(……なんて、ことを)

 そして今、この街にあるルドマン家の離れで、きっと一人、戸惑いながら過ごしている。

(──なんてことを)

 ビアンカが勝手について来たんじゃない。

 ここまでついて来させたのは、僕だ。

 いつまでたってもビアンカに向き合えなかった僕が、そうさせただけだ。

 

 ──そして、

 そんなビアンカの想いをたった一人、掬いあげたのがフローラだった。

 それだけのことだ。

 

 感情を欠片も見せなかったフローラは、本当はどんな想いで僕とビアンカを見ていたのだろうか。

 あれほど側にいた女性の想いを踏みにじる愚かな男を、どう思っただろうか。

 あんなにも優しいフローラに、

 あんな顔をさせたのも僕なのだ────

 情けない。あまりに、愚かで。

 込み上げる憤ろしさを、唇を噛んでやり過ごす。

 どうしたらいい。どうするのが、僕にできる最善なのか。

 必死に考えを巡らせるけれど、こんがらがった頭では何一つ糸筋が浮かばない。

 もういっそ誰の手もとらず、このまま街を出てしまおうか。

(────、ふざけるな‼︎)

 一瞬脳裏を掠めた卑劣な考えに益々、己への嫌悪がこみ上げる。

 ここまでついてきてくれたビアンカを、このまま黙って放り出すことなどできない。できるはずがない。

 ──だったら、その手を取るのか?

 彼女がもしも僕と行きたいと願ったら、僕は彼女を選ぶべきなのか?

 天空の盾も捨てて。使命も、いっそ何もかも投げ打ってでも、たった一人を選んで良いというのなら────

 

 

 未だまとまらない思考を叱咤して、のろのろと身体を起こす。

 ちゃんと、伝えなくちゃいけない。

 まだ何も形にならない。何が正しくてどうするのがいいのか、わからないけど。

 それでも、このまま明日を迎えることだけは、しちゃいけない。

 ──寝台の上に投げ出したターバンをもう一度乱暴に掴み、僕は宿の外へと駆け出した。

 

 

 

「おお⁉︎ 噂の色男のお出ましじゃねえか‼︎」

 宿を飛び出すなり、たった今酒場へと向かおうとする見知らぬ男達の群れに捕まった。

「ちょうどいいや、兄ちゃん。ちょっとつきあえよ」

「いえ、あの! 行くところがあるんです。それは後で」

 焦ってなんとか交わそうとしたが、がっつり取り囲まれて抜け出せない。こんなところで暴れるわけにも行かず、僕はほとんど引きずられるまま宿屋の二階へと連行された。

 まだ踏み入れたことがなかったサラボナの酒場は、さほど広くない室内に客が所狭しと席に着き、注文を叫ぶ声が賑やかに飛び交っている。

「──テュールさん」

 カウンターを取り囲む人だかりの中心から、聞き覚えのある穏やかな声で呼ばれて、思わずそちらを覗きこんで目を瞠った。

「……クラウスさん」

 その名を呼び終わらないうちにも、彼を取り囲む人々に「噂の御仁じゃないか! おい、ここに座んな」と腕を引き寄せられカウンター席に強制的に座らされる。その目の前に次々にエールや葡萄酒が置かれ、僕は困惑しながら周りを見渡した。

「すみません。陸に上がったらここで一杯やるのが常なんですが、今日は事情が違ったようで」

 申し訳なさそうに小声で肩をすくめる彼に、ぶんぶんと首を振る。恐らく、僕の探索に同行したことで質問責めにあっていたのだろう。船旅を終えた後までご迷惑をかけてしまっていることに、酷く申し訳ない気持ちになる。

「なぁ、あんた随分と優男なのにやるじゃねぇか! 伝説のリングを二つとも手に入れたって?」

「あんなものはフローラさんを嫁にやらない為の口実かと思ってたよ。本当に存在するとは思わなかった」

「なあ、昼間連れていたいい女、ありゃ誰だい? フローラさんとはまた違ったタイプのとんでもない美人だったじゃないか。まさか愛人、とか言わないよな?」

「見てたぜ、幼馴染なんだろ? 羨ましいよな、あんな別嬪の幼馴染がいるなんてよ。ほんと、実はコレ(・・)だったりしねぇの?」

 背後から覗き込む客の群れに何発も小突かれ、終いにゃ小指をちょいちょいと示されて僕はたまらず首を振る。「違います! そういうのじゃ」と必死に弁解していたら、隣でグラスをからりと揺らしたクラウスさんが溜息混じりに背後のハイエナたちを一瞥し呟いた。

「テュールさんはあんた方と違って紳士なんだから、あまりからかっちゃいけない」

 いや、子供なんです……と言いたい気持ちをぐっとこらえる。齢十八など、ここにいる皆さんに比べたら若輩もいいところだろう。それにしてもこの状況でこの落ち着きぶり、僕はつくづくクラウスさんの態度に感銘を覚える。

「幼馴染っていやぁ、お嬢さんもまぁ熱心に通ってるよな。アンディって火山で酷い火傷をやらかしたんだろ?」

「あぁ、なんか今度は病気で臥せってるってよ。兄ちゃんに力及ばずで腐ってんじゃねえの? 水のリングには挑戦すらできなかった訳だしな」

 今度はまた気鬱な話題を繰り出され、僕は内心嘆息する。そういえば先ほどもアンディ宅でフローラに会ったんだった。しかも、痴話喧嘩のようなおまけつきで。

 病が気落ちからくるものだというのもわからなくはない。もしも僕が同じ境遇だったら、寝込むとまではいかなくともやはりしばらくは立ち直れなかっただろうから。

「しっかしまぁ、あんな美人の知り合いがいるくせに、なんでまた白薔薇に求婚しようと思ったんだい? あっちはどうみてもあんたを好いてるだろうに。罪な男だねぇ」

 さらに酒臭い男が肩越しに顔を近づけ問うてくる。不躾だが、あまりにもはっきりと言い切られてしまい思わず目が泳ぐ。アルコール臭からつい及び腰になりつつ、回らない頭を必死に動かしながら、僕はもう何度目かの首を振った。

「それは……そういう話はしていませんから。そもそもリングを探す途中でばったり再会しただけなんです。彼女の方からリング探しを手伝いたい、と申し出てくれたので同行してもらっただけで」

 そんな言い方しかできない自分にますます嫌気がさしてくる。これではまるで、僕がビアンカのことを迷惑に思っていたみたいだ。

 ──違う。散々振り回されて困惑もしたけれど、この二週間近く、ビアンカと共に過ごして楽しかったこともまた、事実なのに。

 案の定男は「健気だねぇ!」と叫び、酒が入って昂ぶっているのか、ずずいと後ろから僕の肩にもたれかかって大げさに涙ぐんだ。

「あんた、ほんっとに罪だねぇ? 一言も言わないって、そりゃあんたに心底惚れてるからだろうよ。それで他の女の為の指輪を一緒に探すだぁ? こっちの胸が張り裂けらぁ! お嬢さんも美人さんの一途な恋心に感じるもんがあったんだろうよ。お前さん、抱いてやれよ。今夜一人で泣かせるとか男のすることじゃねぇぞ?」

「いや、もうおっさんはそろそろ水飲んどけや。兄ちゃんには兄ちゃんの事情ってもんがあんだろうよ、野暮はいけねぇ」

 僕に張り付いた酔っ払いの男性を誰かが引き剥がしてくれたが、次々に投げかけられた内容は僕に現実を突きつけるのに十分過ぎた。

 ……やはり、行かなくてはいけない。

 今夜のうちにちゃんと話をしなくてはいけない。

 カウンターに手をつき、勢いよく立ち上がる。一瞬だけ、僕達の周りの人だかりが動きを止めた。隣に座るクラウスさんを振り返れば、何度も僕を励ましてくれたあの穏やかな眼差しで頷かれた。

「……行ってください」

 頷き、一つ深く頭を下げて店を飛び出した。引き止めようと伸ばされた手を遮るように「あの人にはまだ、やることがあるんですよ」とクラウスさんが口添えしてくれているのが聞こえる。ありがとうございます、と心の中で呟いて階段を駆け下り、ルドマン邸のある噴水広場の方へと身体を向けた、その時。

「テュールさん」

 全く予期せぬ声がかけられる。振り向けばノルン夫人がどこか憔悴した様子で佇んでこちらを見ていた。──まさか、アンディの容体が急変でもしたのだろうか?

「どうなさったんですか。アンディは」

「よく、寝てるよ」慌てて駆け寄った僕に夫人は疲れた笑みを見せる。そうして僕をじっと見上げて──ひどく、哀しそうな眼差しを真っ直ぐに向けた。

「ねぇ、テュールさん。……随分と器量好しの幼馴染のお嬢さんがいるって、本当かい?」

 思いがけぬ問い掛けに身体が強張る。どうして、この人までビアンカのことを。

 動揺がそのまま漏れ出ているであろう僕をもう一度見上げて、夫人は重く息を吐き地面に視線を落とす。

「ごめんよ。さっきそこらで知り合いが話しているのを聞いちゃって……あんたを随分と慕っているようだったって。──うちの息子もね、あんな軟弱なりにフローラちゃんのことをそりゃもう、子供の頃から慕っていたもんさ。何かっていうとフローラ、フローラって……」

 握った拳が、震えている。もう僕を見ないまま、夫人は言葉の続きを口にする。

「……恩人のあんたに、こんなことは言いたくない……けど、一度だけ、聞いておくれ。もし、もしだよ。他に好い人がいるなら、────」

「リア‼︎ その人に莫迦なことを言うんじゃない!」

 夫人の後を追って来たのか、その背後から息を切らして駆け寄ったアンディの父親──初老のノルン氏が怒気も荒く妻の肩を引く。しかし夫人は頑なに地面を見つめたまま、夫の顔を見ようとはしない。

「……フローラちゃんのことは、諦めてやってくれないかい。あの子には……フローラちゃんだけが、支えなんだ……」

「やめないか‼︎」

 怒号が飛ぶ。無理矢理に紡がれた言葉を断ち切るように、温和だったアンディの父親が目の前の母親を烈しく叱責した。いつしか母親の頰からは嗚咽とともに二、三滴の涙がぱたぱたと滴り落ちていた。

 僕には、何も言えなかった。

「──すまん、テュールさん。アンディの意志じゃないんだよ。それだけわかってやってほしい。……あいつは心配いらん。すぐに元気になるさ」

 ノルン氏はいつもの穏やかな声でそう言い、尚も身体を強張らせたままの奥方を支えるように寄り添って自宅の方へと去っていく。夫人は深く俯いたまま、それきり僕を振り返ることはなかった。

『──なぁ、坊。ビアンカを、よろしく頼むよ』

 いつか、ダンカンさんに告げられた言葉を、何故か今思い出す。

 ビアンカと一緒になってほしいと、僕に言った父親。

 フローラを諦めてほしいと、僕に言った母親。

 どちらもひどく切実な、子を思う親の心の現れ。

 ────では、僕は?

 きり、と軋む胸を掴んで抑える。

 この痛みは、どうしたらいい。

 息を、吐く。目を閉じて、ゆっくり息を吸い込んで。もう一度目を開けた時、僕の覚悟は決まっていた。

 改めて、噴水広場の先へと駆け出した。まだ何もまとまらない思考を振り切るように。その先に、何がしかの光が見えることを祈りながら。

 

 

 

 街の喧騒を逃れた、静まりかえった豪邸の重厚な門扉を前に立ち止まる。

 ここを訪れるのは五回目だ。一度目は、結婚の許しを得る条件を聞くため。二度目は、フローラを送って来た時。次はその翌日。

 四度目は、ついさっき、ビアンカを伴って水のリングを渡しに来た時。

 この門のところで、フローラが僕に頭を下げてくれた。

 あの日、見上げてくれた君とほんの一瞬──想いが通じ合った、気がした。

 会えなかったこの二週間、何度あの記憶に慰められただろう。

 窓の所々に明かりが灯された屋敷を見上げるが、僕には彼女の部屋がどこかなど知る由も無い。

 そういえば、眠れていないと言っていた。

 無性に不安が募り、幾つかの暗い窓辺をじっと見遣る。

 アンディさえ回復すれば、君は安心するのだと思っていた。

 これだけの時間が経てば、アンディはきっと元気になって、君が彼を見舞い続けることもない。

 ──でも、それでも君はアンディの元に通うのではないか。そんな風にも、思っていた。

 僕にとっての幼馴染は、ヘンリーとビアンカくらいしかわからない。二人とも、とてもとても大切な存在だけれど、フローラにとってのアンディがそれと同じとは限らない。

 だから、本当はその覚悟も、して来たつもりだった。

 君が誰を望んでも、この気持ちに変わりはない。

 ただ、胸が痛むだけ。

 

 ──暗いだけのはずの窓辺に、人影が映り込んだ。

 

 普段と違う雰囲気のその人影に、思わず息を呑む。

 暗い窓辺に、翳りを帯びた長い髪の女性が佇んでいる。

 ぼんやりと窓に手を添えた彼女は、ふと僕の方を見遣ると憂いを帯びたその表情を驚愕へと変える。

 惹きつけられるように、視線が交わった。

 ────どうして。

 こんな気持ちでいるのに、たった一度視線を交えただけで。

 どうしてこんなにも、この胸は甘く燻るのか。

 昼間、あれほど表情を隠したままだった彼女が、今は窓辺から赤裸々に戸惑いを見せている。

 僕だけを、見てくれている。

 ────お願いだ。どうかそのまま、待っていて。

 すぐに身を翻し、屋敷の扉を軽く叩いた。使用人の方が扉を開け、突然の来訪者に些か怪訝な目を向ける。しかし程なく屋敷の主が奥方を伴って姿を現し、僕は彼らに深く頭を下げ夜分の訪問を詫びた。

「このような時間に、大変申し訳ありません。卿」

「何、一晩呑んだ仲ではないか。──どうしたね? 君の相談事なら喜んで聞かせてもらおう」

「もう、あなた。テュールさんはフローラにご用がおありなのではないの?」

 上機嫌で応接間へと僕を招き入れようとするルドマン卿を夫人がたおやかにたしなめる。

 しかし僕はその指摘の鋭さに密かに驚嘆していた。ビアンカといいフローラといい、女性は皆、特殊な勘でも持ち合わせているのだろうか?

「は、はい。お許しいただけるなら、フローラさんと少しだけお話したいのです。……このような時間に、非常識なのは重々承知しております」

 再び頭を垂れる僕に、お二方は顔を見合わせた。先に卿が静かに頷き、奥方が僕に向かって優しく声をかける。

「……フローラは、二階の自室におりますわ。早く休むように言いましたから、眠っておりましたらごめんなさいね」

 そのご厚意に深く感謝を覚え、ありがとうございます、とまた頭を下げる。使用人に促され数歩、踏み出した僕を「テュール君」とルドマン卿が呼び止めた。

 立ち止まり、僕は卿へと真っ直ぐに向き直る。

 僕の視線を正面から受け止めた卿はどこか、眩しそうに目を細めた。

「伝承の指輪は君を選んだ。君が誰よりも指輪を必要としていた、その証だ」

 低く、腹に響くその言葉は奇妙に心地よく、温かい。

「君は何かを為すために旅をしておるのだろう。君の目的が最後どこに往き着くものか、儂は聞いておらんな。だが、構わん。あの二つの指輪はいつか必ず君の往く道の援けとなるだろう。──同じように、君の伴侶は君の援けとなるべきだ。そう、儂は思うんだよ」

 ゆっくりと、噛んで含めるように。彼はそこで一度言葉を切ると、確かめるように僕の瞳をもう一度、覗き込んだ。

「その相手が真実ビアンカさんだと思うなら、儂らに気兼ねは一切いらない。それだけ、伝えておきたかった」

 なんとも言えない感情に恐らく顔を歪めた僕を、卿は穏やかに眺めやる。一つ頷いて視線を外すと、改めて階段へと促した。

「引き留めてすまなかったな。行ってやってくれ。そこの階段を上がってすぐ、左手の部屋だ」

 夫人と並んで僕を見守る卿に黙って一礼し、足音をなるべく立てないようゆっくりと階段を上った。

 すぐに彼女の部屋の前に辿り着き、今更ながら心臓が激しく動悸しているのを感じて、深呼吸を一つする。

 こうして女性の寝室を訪ねるなど、初めてのことだ。

 何とか緊張を落ち着かせ、軽く二回、扉を叩く。

「──……、フローラ?」

 ノックをしても反応がなく、躊躇いがちに呼びかけたものの、やはり返事はない。

 先程目があったと思ったのが間違いでなかったなら、きっとまだ眠ってはいないはず。

 どうしようかと、一瞬逡巡した。が、意を決してドアノブに手をかける。そっと扉を押し開き、僕は真っ暗なその部屋を覗き込んだ。

 広いその部屋は意外なほど殺風景で、暗がりにも上品な設えであることはわかるものの、恐らく必要最低限の家具以外は置かれていないようだった。

 この部屋で、彼女は普段何をして過ごしているのだろうか。

 そんなことを思いながら、薄く開けた扉の隙間から身体を中へと滑り込ませる。

 彼女はベッドに横たわっていた。先程見たのは幻であったかのように、静かな寝息を立てて眠っているようだった。

 眠り姫のような可憐な寝顔に、胸が疼くのを感じながら恐る恐る、一歩近づく。

 髪を全て下ろしたフローラを見るのは初めてだった。化粧を落とし瞼を閉じた彼女はいつもより少しだけ幼く、あどけなく見えた。

 ……眠れたなら、良かった。

 下で卿と少し話していた間に眠ったのかもしれない。間に合わなかったのは残念だったけれど、彼女がちゃんと眠ってくれたのならもうそれで良い気がした。

 そうして改めて、その寝顔を見つめる。

(……また、やつれた。……フローラ)

 昼間は化粧で気づかなかっただけか、それとも今は暗い中で見ているからなのか。

 彼女の衰弱具合は、二週間前に見たもの以上に酷いように見えた。恐らく、眠れていない、なんてものではない。食事もろくに取れていないかもしれない。元々が華奢とはいえ、出逢った日と比べればその違いは歴然としていた。

 アンディが運び込まれた日の彼女は酷い憔悴ぶりだったが、あれからもう二週間も経つのにこれほどまでに彼女が疲弊している理由を、僕には一つしか思いつけなかった。

 アンディの為に、君はこんなにも。

 ……いや、

 ────まさか。

 ふと、死の火山から戻ったあの日、目の前で泣き崩れた姿を思い出し、どくりと血が騒いだ。

 まさか、僕の身を案じて?

 そういえば、ホイミンとの別れ際にも確か「これで安心して眠れる」と言われていた。もう大丈夫と、頰を赤らめて。

 思わず手を伸ばし、そのやつれた頰をそっとなぞる。

 ────────。

 ほんのわずか、指先をかすめるくらいに触れてしまってから、僕はどうしようもない違和感に気づいてしまった。

 目の前の君は今も、静かな静かな呼吸を繰り返している。

 けれど、きっと君は────

 その寝顔が君の答えのようで、僕の口から知らず、溜息が零れる。

 どうしようもない。それでも、僕は君が恋しい。

 いっそ忘れてしまえれば楽になれるのに。

 ふと、毛布に投げ出された右手が目に留まる。

 恐らく連日の看病で痛々しく荒れた掌を、壊れ物に触れるようにそっと拾い上げる。

 その過程で、先程感じた違和感は確信へと変わる。

 ……君は、僕を望んではくれないかもしれない。

 この手を取ることを拒まれるかもしれない。

 けれど、それでもいい。本当にそれでもいいから────

 

 初めて触れた彼女の手は、ひどく小さくて、軽かった。

 その手のひらに、一度だけ、

 そっと唇を押し当てる。

 

 ────どうか、想うことだけは、許して欲しい。

 

 愛しさの波に飲み込まれてしまう前に、急いで彼女の手をベッドに戻して。僕は足音を忍ばせ寝室を抜け出した。

 彼女にどうか、伝わることを祈って。 

 扉を閉めて息を吐けば、遣る瀬無い想いばかりが僕を苛む。

 彼女の手を取った己の掌を、確かめるように握り直して。

 そうして、僕は階下へと降り、待っていて下さったルドマン夫妻に今一度、謝辞とともに深く頭を下げて屋敷を出た。

 

 

 

 ルドマン邸の敷地内にある、噴水広場より南へと続く橋を渡り、僕はそこにある建物を仰ぎ見る。

 離れというからにはここだと思ったが、さすがに卿にその所在を訊くのは憚られた。

 建物は未だ煌々と明かりを灯していた。入口を探して見回した瞬間、頭の上から聞き慣れた快活な声が降る。

「おっ。非行少年、発見」

 冗談めかしたその声はいつもの朗らかさを感じさせて、どこかほっとしながらそちらを見上げた。

「もう少年って歳でもないよ」

「そう? そうかもね」

 二階のバルコニーに、ビアンカは居た。手すりに腕を重ね、そこに頰を埋めてくすくす笑っている。ひとしきり笑うと、彼女は高みから僕を見下ろして……どこか艶めかしく微笑んだ。

「会いに、きてくれたの? テュール」

 僕も目を逸らさず、頷いて微笑みを返す。

「話をしたくて。──今、いいかな?」

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