Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#16. 願い

 ────話をしたくて。今、いいかな。

 僕の申し出をバルコニーの上で聞いたビアンカは「紳士らしくしてくれるんなら、いいわよ」とおどけて言い、扉を開ける為に一度、部屋の中へと消えた。そんな一言についさっき、フローラの手に落とした口づけの記憶がよみがえり、今更ながら身体が急激に熱くなるのを感じる。

 ……あれは紳士の範疇だろうか。そうだと思いたいけれど。

「お待たせ。どうぞ」

 慌ててぱちぱちと頰を叩いて熱を冷ましていると、ビアンカの卒ない呼びかけが聞こえ、僕は声のした方へ向かった。

 ルドマン邸の離れは、それでも尚一般的な家よりも随分大きい一軒家だった。普段は賓客の宿泊に使われているのだろうか、決して華美ではないが上等な家具家財が並ぶ。思わず室内を見回した僕に「緊張するでしょ。汚したり壊したりしたら大変よね」とビアンカが小さく苦笑した。

 しかし一階の居間部分に設えられたテーブルの一角には以前ルドマン邸の応接間で見たような大小の酒瓶が並べられており、今度は僕がつい笑いを零してしまう。

「何? テュール。わざわざ色々とご用意下さったのよ。どれでも好きにいただいていいんですって」

「うん。以前卿が、お酒を集めるのがお好きだって言ってらしたのを思い出して。──あ、これ」

 居並ぶ酒瓶の中から見覚えのある黄色のラベルを見つけ、その一本を手に取る。

「この間ご馳走になった蜂蜜酒だ。サンタローズの酒なんだって。僕達が生まれる前のものだよね、多分」

 サンタローズ。今は亡き村の名にビアンカの顔が一瞬辛そうに歪む。けれどもすぐにいつもの表情を取り戻し、「そうなの? すごい! 初めて見たわ」と酒瓶を覗き込んだ。

「せっかくだから開けちゃう? 蜂蜜酒なんて美味しそう!」

「うん、結構軽くて飲みやすかった。実は僕、あんまり酒には強くないんだけど」

「あはは、テュールらしい」

 笑いながらビアンカがグラスを差し出し、それを受け取って席に着いた。手元のグラスにビアンカが手ずから、とくとくと金色の液体を注いでくれる。用意されていたらしい軽食の皿をテーブルに出し、対面の席に彼女が腰掛けるのを待ってから、「せっかくだから、乾杯」とグラスを傾け、縁を軽くぶつけ合った。

「……はぁ、美味しーい」

 こくりとグラスから液体を飲み込んだビアンカが、ほぅ、と息をつきながら視線を手元に落とす。

「──なんか、変な気分ね。テュールとこうして向かい合ってお酒を飲んでるなんて」

「……お互い、大人になったから。ね」

 グラスの中の液体に映る自分を覗き込んで僕が言うと、ビアンカもついと目をあげて「そうよね」と頷き、またグラスを揺らす指先の方へと顔を俯かせた。

「……なんか、大変なことになっちゃったね。ごめんね」

 しばらくの沈黙の後、ぽつり、とビアンカが呟く。

「僕の方こそ。巻き込んで、ごめん」

「テュールは悪くないじゃない。私が無理言ったから……最悪な誤解、させちゃったし。幸せになって欲しいって言ったのは私、なのにね」

 睫毛を伏せたままの彼女を見つめれば、眉尻を下げて困ったように微笑まれる。

「まさかテュール、悩んでるわけじゃないでしょ? ──悩むことないわ。フローラさんと結婚した方がいいに決まってるじゃない」

 優しく、諭すようなビアンカの言葉に。今度は僕が視線を外し瞳を伏せる。それを肯定と捉えたのか、ビアンカがグラスを置いて頬杖をつき、少し遠くを見るように目を細めた。

「私のことなら心配しないで。今までだって、一人でやってきたんだもの」

「──ビアンカは、本当にそれでいい?」

 遮るように問うた僕の言葉にビアンカがほんのわずか、震えたのが見えた。その表情を追うように、正面から真っ直ぐに彼女を見る。

 ……見たことがないほど真剣な眼差しのビアンカが、僕の鎖骨のあたり、一点だけをじっと、見つめていた。

 

「……連れていって、って言ったら、そうしてくれるの?」

 

 弓を、引き絞るような。

 生まれて初めて見る女性が、そこに居る。

 

 ぎりぎりに張り詰めた、

 彼女の剥き出しの感情を、僕は今、初めて見ている。

 ずっと目を逸らし続けていた、

 僕が黙って葬ろうとしていた、

 彼女の、本当の想いを。

「──ごめん。でも……やっぱり、テュールとの思い出ってすごく、大切で」

 再び瞳を伏せ、ビアンカはテーブルの上に視線を彷徨わせながら言葉を探す。両手の中に置いたグラスを指先で幾度も弄びながら。

「サンタローズがあんなことになって──でも私、絶対にテュールは生きてるって信じてた。一緒にまた冒険するって、約束したもの。……私より小さな背中で、私のこと一生懸命守ってくれた。あの勇敢な男の子に、ずっと……ずっと、会いたいって思ってたの」

 一度、ビアンカの双眸が窺うように僕を見て。僕は黙って緩く微笑み、続きを促す。

 目があうと、ビアンカはくしゃりと泣きそうに目許を歪ませる。

 いつも快活な彼女が見せる痛ましい表情に、どうしたって胸が潰されそうなほど締めつけられる。

「だから、テュールがうちに来てくれた時……本当にすっごく嬉しかった。わがまま言って一緒にリングを探してた間、楽しかったけど……それ以上に──ドキドキ、してた。テュールは子供の頃よりもっとずっと強くなってたし、私より大きくて、……優しくて」

 ……格好良かったし、と最後に、ほとんど消え入りそうな声で付け足して。──買い被りすぎだと思ったけれど、下を向いて小さくなったビアンカが首筋まですごく赤くなっていたのが見えてしまって、僕もやはり恥ずかしくてたまらなかったから、ただ黙って彼女の手元を見つめながら続きを聞いていた。

「──私が先に、会いたかった……」

 微かに届いた苦しげな吐息とともに、ビアンカが頭を深く、深く垂れて。視界の端に、太陽の色の三つ編みが揺れる。

「……洞窟までついて行ったのは、失敗だったかな。……だって、……どんどん、好きになっちゃうんだもん」

 テーブルの向こう、深く俯いたままのビアンカが、やっと聞き取れるほどの掠れた声でそう、呟いた。──本人の口から直接紡がれたその言葉に、一際大きく心臓が脈打つ。

「幸せになって欲しいって、初めは本当にそう思っていたのに。私、どんどんわがままになってた。テュールの側にいればいるほど、フローラさんに嫉妬、してた。……嫌な考えもいっぱいした。今だって、──ほんとは、私を選んで連れて行って欲しいって、思ってる……」

 そこまで言って、ビアンカはふと、さっき佇んでいたであろうバルコニーの方を振り仰いだ。

 吹き抜けになっている居間からそちらを見るとバルコニーの広い窓が天窓のようになっていて、そこから見える星がいくつか、漆黒の窓辺をちかちかと彩っていた。

 もしかしたら僕の来訪に気付くまで、あのバルコニーで彼女が思い描いていた、願い。

 

「……一緒に、行きたいなぁ……」

 

 それは、あまりにも切実で。

 きっと再会してから今、初めて僕が触れた、ビアンカの一番まっさらな想いだった。

 僕が受け取るには勿体無いくらい、綺麗で純粋な感情。

 嬉しいと、素直に思った。そうやって想ってもらえることを、僕はずっと怖がっていただけだった。

 思えば、ビアンカの心はいつだって──幼い頃も今も、真っ直ぐに僕の方を向いてくれていた。

 そんな彼女を知っていたからこそ、希望が見えなかったあの十年も、彼女やヘンリーを拠り所にして耐えることができた。

 何から話したらいいだろう。僕にとって、貴女がかけがえのない存在であるということを。

「──父さんを亡くしてから、十年、……あるところに囚われて、いてね」

 先日は話さなかったつまらない話を、ぽつり、零してみる。

 ずっと顔を伏せたままだったビアンカが、僕の声に反応して、少しだけこちらに目線をくれる。

「確か、セントベレス山と言ってた。ある教団の神殿の建設の為に、ずっと奴隷として働かされていたんだ。……二年くらい前かな、そこから逃がしてくれた人がいて。その人のお陰で、僕は今ここに居る。──暗い話で、申し訳ないけど」

 話している最中にも、ビアンカが息を呑み固まった気配を感じて、僕は出来るだけいつも通りの微笑みを彼女に向ける。

「聞いて。……ずっと、夜が怖かったんだ。毎晩毎晩、父さんが夢の中で死んでしまう。まだ子供だった僕は眠るのが怖くて──そういう時、ビアンカのことを思い出してた。……目を閉じていれば、ビアンカが迎えにきてくれる。そんな妄想に、必死で縋ってた」

 真っ暗な闇の中、僕を揺り起こしてくれる小さな手。

 目を開ければ、どんな暗闇でもわかる、金の髪。

 あの思い出が、幼い僕をどれほど救ったか。

「父さんを目の前で失った。大人になって、奇跡的にサンタローズへ戻れたけど、村はとうの昔に滅んでいた。家を守ってくれていたサンチョがどうなったかも分からない。もう僕にとっての肉親は、会ったことがない母親しかいない。……だからかな。アルカパの宿屋へ行った時、ビアンカたちに会えなかったのは残念だったけど……引っ越した、って聞いて本当は少し、ほっとした」

 さっきから、ビアンカは息を詰めたまま動かない。突然こんな話を聞かされれば当然だろう。その瞳は、僕の前に置いたまま中身が減らないグラスを真っ直ぐに見つめている。

 サンタローズ。今も思い出せる、蜂蜜色の平穏な日々。

「……まだ、どこかでちゃんと生きてる。旅を続けていれば、いつかきっとまた会える。そう思えたから、頑張れた。──いつだってビアンカは、そうやって僕の手を引いてくれる。怖い夢に怯えても、ビアンカを思い出せば越えられたみたいに」

 ふと、温かな色の記憶がよみがえる。小難しい本を一生懸命読んでくれる幼い君の姿。

『あなたより二つもお姉さんなのよ』

 そう言って得意げに笑った、金のおさげが眩しい少女。

 どちらも兄弟がいなかったからか、自然と君が僕の世話を焼いてくれる形になっていた。

 僕が泣いたら慰めて。一人でいれば遊びに誘って。

 一緒にいれば、どこへ行くにも手を繋いで引っ張って。

 そんな風に僕に構ってくれる人なんて、父さんとサンチョ以外知らなかった。

「今だって、僕はビアンカに救われてる。──大事な、大事な……僕の姉さんが、元気でいてくれて。変わっていなくて、すごく、ほっとしてる……」

 一点を見つめ続けていたビアンカの蒼い瞳が一瞬、戸惑うように大きく揺らめいた。

 君は、象徴なんだ。

 太陽のような君が、僕にとって、あの幸せな日々そのもの。

 終わりのない暗闇を、その温かい記憶で照らしてくれた。

 これからもきっと変わらない。僕の太陽であってほしい。

 だから、ただあの頃のままでいて欲しかった。 僕の過去など知らなくていい。共に越えてきたヘンリーとは違う、幸せな頃の僕の記憶だけを守っていてくれるひと。まるで本当の姉のように慕っていた。

「……ビアンカには、いい迷惑かもしれないな」

 我ながら身勝手すぎる言い分につい、自嘲の息が漏れるけれど。すぐに「そんなことないわよ!」と叫んでくれる、心優しい幼馴染にもう一度、感謝を込めて微笑みを返して。

 心配ばかりかけた。今だって、知らなくていいはずの話を聞かせてしまった。

 ──もう大丈夫なんだって、言いたい。

「……うん。だから……甘えてしまって、ごめん」

 十二年。誰も昔のままではいられないくらい、時間が過ぎた。それでも君は、変わらないまま僕を待っていてくれた。

「ビアンカの気持ちを考えず……僕ばかり、甘えてばかりで。本当に、ごめん」

 会えてよかった。話せてよかった。もう一度一緒に冒険ができたことも。変わらぬ信頼と、親愛をくれたことも。──この綺麗な感情を、寄せてくれたことも。

 全て拾って、この先の艱難を越える力に変えていく。

「──ここからは一緒に、行けない。……けど」

 どこか焦点の合わない眼を見開いたままのビアンカを、正面から見つめて、ここに来る前に決意した言葉を口にする。

 例えあの人が僕を拒んだとしても、それをビアンカの手を取る理由には絶対にしないと決めていた。

 誰かの望みを、僕の選択の理由にはしない。

 いつか、どんなにか後悔することがあっても、誰かの所為にだけはしたくない。僕の選択で誰かが悲しむことになるのなら尚のこと。

 だったらせめて、この心に誠実で在ろうと。

「ビアンカがくれたもの、思い出も、その気持ちも。全部忘れない。これからもずっと覚えてる。──本当に、ありがとう」

 やっと、一番言いたかった言葉を喉の奥から絞り出し、

 ひたむきに僕を見つめ返す眼差しに向かって、深く深く頭を下げた。

 ありがとう。────姉さん。

 伝えきれない深い感謝と親愛を込めて頭を垂れた後、姿勢を正して正面を見れば、顔をくしゃくしゃにしたまま限りなく優しく微笑む彼女が僕を見ていた。

「……莫迦ね。世話くらい、これからも焼かせなさいよ」

 少し鼻にかかった涙声が、優しい笑いを含んだまま、僕の耳を甘くくすぐる。

「何が、ありがとう、よ。嫁入り前の生娘かっての。……ほんと、莫迦。だったらもっと甘えてよ。おじさまが目の前で、なんて知らなかったわよ。……奴隷なんて、聞いてないわよ。そこまで信用なかったの? 私」

「違うよ。それは、違う」思いがけない切り返しに慌てて身を乗り出し弁解する。「僕がビアンカに知られたくなかっただけだ。正直思い出したくないことばかりだし、ビアンカと居るともっと懐かしい記憶ばかりでそういうの……嫌な記憶、忘れていられたから」

「──うん。ごめん、嘘。わかってる」

 しどろもどろに言葉を繋いだ僕を、真面目な声で遮って。

 ビアンカはもう一度、揺れる瞳で僕の瞳を覗き込む。

「…………私、……テュールを、救えた?」

 まだどこか不安げな彼女を安心させたくて。立ち上がり、テーブルの上、グラスを包んだままのビアンカの手の上から、そっと自分の手を添える。

「うん。──だから、ここに居るんだろ」

 生きているって、確かめて。

 重ねた掌に、ぽつりと雫が滴り落ちる。

 ほんの数滴だったけれど、ビアンカの嗚咽が落ち着くまで、僕はずっとそうして彼女の掌に触れていた。

 

 

 

 

 

 それから、グラスと酒瓶に残っていた酒を二人で急いで飲み干して、僕は逃げるようにビアンカの宿泊する離れを出た。

「もう大丈夫。目が覚めたわ」

 涙を拭い、蜂蜜酒をあおったビアンカはすっかりいつもの彼女だった。

「嫌という程よ──くわかった。テュールにとって私は世話焼きおばさんってことよ。母親代わりとも言うわね。仕方ないから甘やかしてあげる! ほら、言いたいこと全部言っちゃいなさいよ、聞いてあげるから」

「ちょ、何だそれ。別にそんなこと思ってないって」

 泣き止んだと思ったら唐突にとんでもないことを言い出す。あまりの物言いに僕が声を上げるとビアンカはまだ中身の残る酒瓶の底をどん! とテーブルの中央に叩きつけ「女の涙は安くないのよ。私を泣かせたからには、それ相応の対価を払ってもらうからね」などと凄んでくる。さっきまでのしおらしさはどこへいったのか。

「大体さ、二つの指輪を揃えたんでしょ? 何なのその自信なさげな顔。もっと堂々としてりゃいいじゃないの。そんなんだからフローラさんに要らない誤解されるのよ」

「……それは、……もうほっといてくれよ。自信なんか……あるわけないだろ」

 酒の所為なのか、いつぞやの冷やかされやり込められ続けた夜より更に勢いを増す幼馴染の弁舌に、僕は頭を抱えて顔を背ける。

「それがわかんない。なんでそこまで卑屈になるわけ? こういっちゃなんだけど、テュールは十分男前よ。そんじょそこらの男よりずっと顔はいいし、腕も立つでしょ。フローラさんだって相手がテュールなら嫌がらないわよ。さっきだって別に嫌だなんて言ってなかったじゃないの」

 その剣幕とは裏腹に、素直に受け取るには気恥ずかしすぎる称賛の言葉を羅列され──それ自体は、喜ばしいことなのかもしれないけど。

「……だからさ、言っちゃいな」

 顔を伏せた僕に、ビアンカがひどく優しい声を降らせる。

「姉さんが聞いてあげる。──他にもフローラさんに言い寄ってる人がいる、とか?」

「言い寄ってる……っていうか……」

 相変わらずなんなのだろう、この鋭さは。ニュアンスは違う気がするけれど、僕の脳裏を金髪の青年がかすめていく。

「幼馴染は、いる……かな。先の火山で酷い火傷をして、ずっとフローラが彼の看病をしていた」

「ああ、炎のリングがあったところ? ははぁ、それで嫉妬に狂っちゃったと。まぁねぇ、好きな人がずーっと異性を、しかも親しい仲の異性をかかりっきりで看病してれば気にもなるわよね。フローラさんも罪な人だわー」

 言わなきゃよかった。立て板に水の如く饒舌に喋り続ける幼馴染に完全に気圧され、僕は苦い溜息を漏らした。ビアンカはそんな僕の様子に気づいたらしく軽く睨め付けたが、特に追求はせず話を続ける。

「でも、それが理由じゃないでしょ。指輪を見つけたのはテュールなのよ。その幼馴染とやらはフローラさんと駆け落ちでもしそうな相手なわけ?」

「……そんなの、わからないけど……ない、と思いたい……」

「ないでしょうねえ、私もそう思う」何の根拠があるのか、ビアンカは僕のやはり自信のない回答にうんうんと深く頷く。そして僕の鼻先にびしりと人差し指を突きつけ「とにかくね! そんなしみったれた顔で明日うまくいくと思ってるわけ? プロポーズするのよ、プロポーズ! いい加減肚の中全部曝け出しなさいよ。私くらいしかテュールの話聞いてあげられる人いないでしょ⁉︎」と大変男前な啖呵を切ってくれた。

 ああ、やっぱり、僕はこの姉貴分に一生敵わないのだろう。

 ちらり、と鼻先に突き立てられた指の向こうを覗き見れば、威勢の良い台詞には似つかわしくないほど、優しいばかりの眼差しに見守られていて。

 その瞳に、何度でも甘えてしまう。導かれてしまうんだ。

「……こんな……、旅をしている、僕だから」

 気がつけば、ずっと自分の奥の奥に押し込めていた考えが、ぽつりぽつりと言葉になって口から出ていた。

「──僕が、フローラを望むことで、……彼女を不幸にしてしまうかもしれない……」

 例えばこの街で、毎朝彼女に見送られて仕事をして、家には可愛い子供もいて、温かな食事や団欒を楽しみに家に帰る。

 そんな、当たり前のような生活は僕には到底無縁のもので。

 そんな当たり前の日常を彼女に過ごさせてあげることも、僕には出来ない。

「幸せで、いて欲しいのに。僕には何も叶えてあげられないかもしれない。悲しませることしかできないかもしれない。……そう思うと、──それだけが、怖くて……」

 こんな男に望まれる彼女が不憫で。

 申し訳なくて、それがわかっていながら手を伸ばすことは罪悪のように思えて、結局は躊躇ってしまう。

 どうしようもなく欲しいのに、手に入れてしまうことが限りなく怖い。

 父さんのようにいつか、守りきれずに最悪、命を落としてしまうかもしれない。側にいる限り絶対に守ろうと思うけれど、それでも万が一、彼女を失うことになったら。

「……そう思ってるテュールなら、大丈夫よ」

 幾度となくこの身を苛む葛藤に縮こませた僕の背を、優しいビアンカの声が撫でる。

「大丈夫。不幸になんてならないわ。──誰よりもフローラさんの幸せを願う人が夫になるんだもの」

 その温かい声につられて顔を上げれば、やっぱりひどく優しい微笑みが僕を見守っていてくれる。

「テュールがフローラさんを不幸にするわけない。絶対に大丈夫よ。……それとも、境遇が違うってだけで、テュールはフローラさんを好きになったこと、不幸だと思ってるの?」

 ビアンカの言葉に、ただ黙って首を振る。

 どんなに苦しくても、胸が痛くても、僕は彼女と出逢えて幸せでしかなかった。

 彼女も、そう思ってくれるだろうか。

「……っていうかね。この私を振ったんだから、二人とも幸せにならなかったら本気で殴りに行くからね?」

「ビアンカ、励まし方がわかりにくい……」

 乾いた笑いを浮かべた僕をもう一度睨んで、最後に残った金色の液体を一気に飲み干す。

 そうしてビアンカはグラスをたん、と音を立ててテーブルに置き、「さぁ、もう大分いい時間だけど。明日に備えてそろそろ帰れば? それとももう一本つきあう?」などと宣った。え、と思って時計を見れば、そろそろ日付も変わろうかという頃合い。

「……っ、もうこんな時間⁉︎」

「あーら大変。こんな時間にここにいるの、誰にも見られなきゃいいけどー」

「なっ……からかうなよ、もう!」

 あわあわと席を立ち、僕も大急ぎでグラスの中身を飲み干した。急激に回るアルコールに若干の眩暈を覚えつつ玄関へと走り、ドアノブに手をかける。

「じゃあ……、おやすみ。ビアンカ」

 去り際に振り返って告げれば、慈しむような視線が返る。

「おやすみ。──テュール」

 椅子に腰かけ、テーブルに肘をついたままひらりと手を振るビアンカにもう一度微笑みかけて、僕は早足で離れを出て行った。

 ────ありがとう。

 込み上げる気持ちを、たった今閉めたばかりの扉の向こう側に置いて。

 

 

 

 

 

 寝静まりつつある街中を通り抜けて宿に戻った。

 そろそろ宿の二階にある酒場から聞こえる声も先程の賑やかさは薄れて、ちらほらとすれ違う人達から冷やかしの声はとんでも呼び止められることはない。

 ──明日、どんな結果になっても後悔はしない。

 僕はただ、この想いのまま彼女に向き合うだけ。

『その幼馴染は、フローラさんと駆け落ちでもしそうな相手なわけ?』

 ふと、先程のビアンカとの会話が頭をよぎる。

 夫となる人物は自分自身で決めたい。そう言ったフローラ。

 本当にアンディを望むなら、彼女はきっと駆け落ちだってするだろう。

 あの時の、凛とした声が今になって僕を支える。

 あの時交わした眼差しも。君の、ほんのりと赤らんだ頰も。

 信じたい。信じている。

 宿に着き、外套とターバンを外して再びベッドに身体を横たえた。夕方混乱しきった頭で感じていた重く気怠い気鬱さとは違う、どこか心地よい疲労感に包まれて、束の間体重の全てを寝台に預ける。それから身を起こし、手早く湯浴みをしてから僕はようやく、久々の陸での眠りについた。


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