Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
彼が、もう一つの結婚指輪である水のリングを探すため、サラボナを発ったと父から聞かされたのは、幼馴染のアンディが大火傷を負って帰ってきてから四日ほど経った、ある夜のことだった。
「────テュールさんが」
父から彼の名を告げられ、呑み込んだ呼吸と共に一瞬、心臓がすくみ上がるのを感じる。
「そうだ。今日、クラウスが同行して行った。さすがに帆船は素人には難しいからな」
「……そう、ですか」
淡々と告げられる父の言葉に、この身を支配しようとする動揺を必死に押し殺し、なんとかそれだけ答えた。
テュールさんが、二つ目の指輪を求めて行ってしまわれた。
また、一つ目の時のような危険があるかもしれない。アンディのような大怪我をなさるかもしれない。その恐怖に、今にもこの心臓が抉り取られそうな気すらして、無意識のうちに肩をぎゅっと抱いて立ち尽くしていた。
そんな、無力でしかない私を一瞥し、父は深い溜息をつく。
「だというのに、お前は……いつまでノルンの家に入り浸る? あの息子は目を覚ましたとお前が言ったのだろう。いい加減、自分の伴侶となる相手を見定めたらどうだ」
「……お父様」
思わず、咎めるような声が出てしまい、慌てて口許を抑えたがもう遅い。父は呆れた視線を遠慮なく私に降らせ、私はそれ以上の申し開きができるわけもなく、口を噤んだ。
「お前も、彼を好いているものだと……思っていたのだが、な」
落胆させた。どこか諦めたような父の声が胸に刺さる。違うんです、と叫びたかったが、言葉がどうしても出てこなかった。まだ、その感情を直視する勇気がなくて。
父はしばらく、黙って立ち尽くしたままの私を眺めていたが、やがてもう一つ溜息をつくと、何も言わずに部屋を出て行った。
────アンディは、大切な幼馴染です。
呑み込んだ言葉を喉の奥で反芻する。それを口にしてしまうことは、ひどく残酷なことのように思われた。
それ以上に想うことは、きっともう叶わないのだから。
十日ほど前、この街に来たばかりのあの方に出逢った。
あの瞬間、私という人間は、あの方にすっかり塗り替えられてしまったのだと思う。
『夫となる人は、私自身で決めたいのです』
それを、父に告げることは酷く勇気のいることだった。それでもあの時は、言わなくては、と私の中の何かが強く叫んでいた。あの場に集まってくださった皆様にも、無為に危険を冒すことになって欲しくはなかった。
出逢ってしまったと、思ったから。
彼以外の誰が父の条件を満たせたとしても、きっと応じることなどできないのだと、思ってしまったから。
だから、あの場に彼の姿を見つけた時、驚きのあまり、息が止まるかと思った。
あの方が。あの方も、私を……妻に、望んでくださって……?
そんな自分本位な悦びと共に、すぐに私を戒める私自身が叫び始める。
ここまで、総てを運命に委ねると誓ってきたではないか。
今日初めて知り合ったばかりの殿方がその相手だなどと、どうして断じることが出来ようか。
都合の良い夢に己を委ねてはならない。
何のために生きている。何のために生かされてきたのだ。父に護られ、母に愛されて今日まで来たのは、
────あの盾と共に生きるため。
(この気持ちに、流されては、いけない……)
もう何度も何度も自分に言い聞かせた、その言葉を今一度、まじないのように呟く。
窓の外をふと眺めれば、暗い門の前に、居るはずのない影を探してしまう。
一昨日、彼がアンディの家からの帰り道を送ってくれた。
歩幅一つ分は離れていたのに、隣を歩く彼の温もりが私をずっと包んでくれていた気がした。
この方はどうして、死の火山へ赴いたのだろう。
その答えはほとんど示されていたというのに、私はそれを、自信を持って受け容れる勇気を持てなかった。
私を、望んでもらえているなんて。
そう思うことすら、おこがましく感じられて。
どうやってもそれを聞く勇気が持てなくて、思いきって切り出してみたものの、結局は言葉を呑み込んでしまった。
テュールさんの、時折感じる視線はとても優しかったけれど、その瞳にどこか悲しい色を含んでいる気がして、私は中々まっすぐに見返すことができなかった。
どうして、そんなに哀しい眼をなさるのですか。
私には、私を見つめるその切ない瞳の理由が、どうしてもわからなくて。
私に、その哀しみを埋めて差し上げることが出来たらいいのに──……
そんなことを思っていたから、つい、別れ際に彼を見上げてしまった。
あの瞬間、きっと、気持ちが溢れてしまった。
一体どんな顔をしてしまったものか、今思い出すと、身悶えたくなるほど恥ずかしいのだけれど。
私が見上げた瞬間、彼は目を瞠って、そして────
これ以上ないほどに、愛しげな眼差しを……くれたのだ。
胸が、苦しい。
思い返すと、どうして、…………
掌を合わせ、私はひっそりと窓辺の神に祈りを捧げる。
どうか、あの方がご無事でありますように。
大きなお怪我をすることなく、この街に戻られますように。
指輪なんて要らない。どんな財宝も無くていい。
貴方だけが、生きていてくださればそれでいい。
私のものなど、何もかも捧げて構わないから。
(…………お願い、です)
もう涙など出ない。そう思ったのに、彼を想うと喉の奥からこみ上げて、抑えきれないものがある。
(……、……お願い……っ)
自室の、誰も居ない窓辺に小さな椅子を置いて腰掛けたまま、私はひっそりと声を殺して泣いた。
怖い。
貴方を失ってしまったら。
もう二度と、会えなくなってしまったら。
出逢って数日の方なのに。お会いしたのも、言葉を交わしたのも数えるほど。だと言うのに、どうして、こんなに心が震えるの。どうしてこんなに、惹かれてしまうの。
どうして、あの方じゃなくちゃ駄目だって、思ってしまうの。
恐怖感に押し潰されそうになりながら、私はただ一心に、神へと……恋しいあの方へと、祈りを捧げ続けた。
お願いです。
どうか、ご無事で────
早く……早く、帰ってきて。
私の願いとは裏腹に、彼はそれから十日経っても、サラボナに戻っては来なかった。
「心ここに在らず、だね」
アンディの声に、ぼんやりと遠いところに囚われていた意識が不意に覚醒する。
「あ……、ごめんなさい」
「いいよ。……どうせまた、眠れてないんだろ?」
見透かされてしまった問いに、私は黙って目を伏せる。ふわりふわりと私達の周りを漂う可愛らしいホイミスライムが、心配そうに私を覗きこんでくれる。
「ふろ〜らちゃん、ねむれないの〜? だいじょうぶ〜?」
温かい触手がそっと頭を撫でてくれる。その温もりになぜか肩の力が抜けていく心地を覚えて、私は彼──彼女かもしれないけれど──に向かって精一杯の微笑みを向けた。
「大丈夫よ。心配させてしまって、ごめんなさい」
いつも通りに笑ったつもりだったけれど、どこか不安そうな目をした優しいホイミスライムは、尚も私をじっと見つめてから口を開いた。
「ごしゅじんさまとおなじこと、いってる〜。でも、ちゃんとねないと、ホイミンもげんきにしてあげられなくなっちゃうから〜」
テュールさんも。
彼のことを耳にしただけで、この身がじんわりと熱を持つのを感じる。
彼は今頃、どこに居て、何をしているのだろう。
「ホイミン。フローラはね、君のご主人のことが心配で、気になって気になって眠れないんだよ」
苦笑まじりにアンディがそんなことを言い、私はまたぼんやりと想いを馳せてしまっていたせいで、その言葉に反応するのが遅れてしまった。
「──っ……、あ、アンディ!」
「だって、そうだろう? 毎日見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、その顔。……もう少し、寝る前に冷やした方がいいんじゃない」
アンディの指摘にはっとして目許を抑える。だって、ちゃんと化粧で誤魔化せていると思っていたのに。
頰に手を当てたまま、ちらりとアンディを窺い見れば、アンディは尚も苦笑いしながら私から目をそらす。
「……分かるよ。何年、君のことだけ考えてきたと思ってるの」
──……あ。
私を見ようとしないアンディの、その優しげな横顔を見つめる。私をずっと支え、励ましてくれた、私の大切な幼馴染。
もう、その気持ちには応えられないことに、きっとお互い気づいてしまっている。
「……そろそろ、帰りな」
まだ寝返りすらままならない身体を横たえ、首だけをどうにか私の方へしゃくって見せて、アンディが帰宅を促した。
「ほら。ルドマンさんにもどやされてるんだろ? ……変な噂が立つのは僕も嫌だしさ。……僕も、もう少し眠るから……」
そう言うなり、アンディは長い睫毛をそっと伏せ、ふぅ、と少し長く息を吐き出した。
アンディは、恐らく火傷の損傷はあらかた癒えたものの、体力が著しく衰えてしまっていたためか、今度は風邪のような症状が出て寝込んでしまっていた。高熱が上がっては下がることを繰り返し、熱が上がっているうちは朦朧としてろくに話せない。ホイミンちゃんの魔法は基本的に皮膚の損傷を修復してくれるものだから、熱そのものを下げることはできない。だから、あまりに熱が高い時には、私とおばさまが交代でアンディの脇や首を冷やすなどしていた。
「──そう、ね。お邪魔してしまって、ごめんなさい。……ゆっくり、休んで。早く良くなることを祈っています」
「ん。ありがとう」
短く礼を言ってくれたアンディは、しかしもう私に視線を向けることはしなかった。目を閉じて脱力していく彼に頭を下げ、まだ心配そうに見つめてくれるホイミンちゃんに微笑みかけると、私はゆっくり階段を降りていった。
「ふろ〜らちゃん」
すぐに追いかけてきてくれたホイミンちゃんが、背中に呼びかけてくれる。
「ごしゅじんさま……、だいじょうぶだよ。つよいもん。ほんとうだよ、だから……だから、あんしんしてね」
振り向いて、ふわりとホイミンちゃんを抱きとめると、ホイミンちゃんはどこか泣き出しそうな顔をして、そんな風に言ってくれた。
この小さな魔物は、心底主人を敬愛し、信頼しているのだ。
私もこの子のように強くいられたら。
ただ信じて、待つことができたなら。
「──ええ。……ええ……、ありがとう……」
自分の不甲斐なさに。情けなさに。無力さに。
どんなに抑えてもこの心を支配する、切ない慕情に。
優しい、やさしいホイミンちゃんの言葉が引き金となって、私の瞳からもう枯れたはずの涙がぼろぼろと零れた。
「──っ、……め、なさ……っ」
心配させたいわけじゃないのに、あの方の使い魔は、彼をただ思い出させるほど優しくて。
ホイミンちゃんは、そんなどうしようもない私に、あわあわと優しい光を浴びせてくれる。「なかないで、ふろ〜らちゃん」と、一生懸命呼びかけてくれる。
嗚咽を堪えるのに必死で声も出せず、私はただ、頷くしかできなかった。
会いたい。貴方に、逢いたい。
無事に帰ってきてくれたら、もう泣かないと約束する。だから、
今だけ、……弱い私でいることを許して欲しい。
次にあの方に会う時には、きっと、笑顔で「お帰りなさい」と言いたい。それくらいしか、出来ることが浮かばないから────
彼がサラボナに戻ってきたのは、それから二日後の夕刻前のこと。
見たこともない、太陽のような、溌剌とした美しさを感じさせる女性を伴って。
ご無事だったことにほっとして、その女性がテュールさんの傍らに──とても親しげに、寄り添っているのを見て、その瞬間に全てを理解できた気がした。
なんて素敵な方なのかしら。
あの時の、哀しい瞳はきっと、この方を想っていたからだったのね。
愛しい眼差しをいただいたと思ったのも、きっと独り善がりな私の勘違い。
貴方を想うばかりに、都合の良い想像をしてしまっただけ。
だって、ほら────
こんなにもお似合いのお二人に、私が入る隙間なんてどこにもないのだから。
神は祈りをお聞き届けくださったのだ。
私の、淡い恋心をその代償として。
明日、貴方の答えが示される。父がそのように計らっていた。私と、貴方が連れてこられたビアンカさん。テュールさんが真実望む女性と結婚するように、と。
そんな猶予に意味があるとは、さほど思えなかったけれど。
──……せめて、
早く、眠って。少しでも元気にならなくてはならない。
貴方を祝福する日に、アンディに指摘されるような見苦しい風貌であってはならない。
何も憂うことなどなく、笑って、お二人を祝福しなくては。
そう思って早めに毛布を被ったけれど、やはり、すぐに寝付くことはできなかった。
眠らなくては。そう思うほど、動悸がベッドの中にこだまする。胸が千切れそうに痛くて、いっそ吐きそうなほど。
部屋の明かりをつけずに窓際に近寄れば、いつにも増して賑やかな夜の街が見える。
今頃、テュールさんのことが噂になっているに違いない。
こんな気持ちであの方を迎えることになるなんて、
この窓辺で、泣きながら祈っていた時には、想像もしなかった。
明日、
──……私はこの恋を喪失する。
恋だった。どうしようもなく、恋だった。惹かれて、苦しくて、切なくて、それでも心は貴方を求めてやまなくて。
……でも、もう、
終わりにしなくては。
幾度目かの涙を掌で拭い、もう一度、ほとんど無意識に、いつも眺めてしまっていた門のところをふと、見やった。
ずっと恋しく思っていたから、
幻を視てしまったのだろうか。
深い、紫色の装束が、
夜の闇に浮かび上がって。
息を呑み、窓の縁に手をかけて下を覗き込めば、
あの人がまっすぐに
私の部屋を見上げていた。
────目が、合ってしまった、
気がした。
すぐに彼は屋敷へと歩いて行った。階下で、誰かが話している気配を感じる。私は慌ててベッドに飛び込み、また毛布をかぶり直した。
──もう、告げにいらしたの?
あの方と一緒に行く、と。
それしか思い至れなくて、ばくばくと心臓が叫ぶのを、ただ必死にこらえていた。
どれくらい経っただろうか。階下から、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえて。
程なく扉が軽く叩かれ、廊下から遠慮がちな呼びかけが聞こえる。
「──……、フローラ?」
愛しい、声。
その声で名を呼ばれると、全身に甘い痺れが走る。
もう、こんな想いを募らせてはいけないのに────
黙って寝たふりをしていれば、静かに扉が開けられ、彼が室内に足を踏み入れた気配を感じる。
目を閉じて、熟睡を装う。どうか、気づかれませんように。
眠ったふりをした私に、彼はそっと近寄ると──その温かな手でほんの一瞬、私の頰に触れた。
びくん、と反応しそうになる身体を、もう全力で戒めて。
どうか、気づかないで。
今は何も言わないで。
明日になったら、きっと笑顔でお二人を祝福できるから。
今ここで聞かされたら、きっと私は明日起き上がれなくなってしまうから。
目覚めない私に、彼は静かな溜息をひとつ、零して。
毛布の上に投げ出した私の右の掌を一度、掬い取る。
手のひらに、
温かくて柔らかな何かが触れた。
すぐに掌は再びベッドに戻され、彼はもう黙ったまま、私の部屋を静かに出て行った。
階段を降りる音が聞こえなくなってしばらく経つまで、私はそうして息を殺していた。
──どうして?
もう、彼がきっとここにはいないことを薄く目を開けて確かめてから、彼が触れた手のひらにそっと、触れてみた。
どうして、口づけを、…………
もう何もわからなくて、恥じらいと戸惑いと、よくわからない感情が綯い交ぜになって。
その掌を胸に押し抱いたまま、私は毛布の中で小さく、小さくうずくまった。
──哀れで愚かな女を、憐れんでくださったのだろうか。
無理矢理にそう結論づけ、胸許に拳を抱きしめてぎゅっと目を閉じた。
眠ろう。
今は、眠ってしまおう。
明日、無様な私を見せないために。
あの方と、あの方の大切な方のために、
精一杯祝福できる私であるために。
人生で一番に切なく、辛い夜は、
そうして残酷なほどゆるやかに更けていった。