Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
目が覚めて、いつも通り冷えた真水で顔を洗う。
髪をいつもより少しきちんと梳って、後ろで一つにまとめ直した。服は、普段旅ばかりなのもあって大したものを持っていなくて。少し悩んだけれど、父さんが小さい頃僕のために誂えてくれたものに似せて仕立てた、紫の旅装が結局一張羅みたいなものだから、と思い直して、いつも通りの服を身に纏う。
結果的にはそれが良かったみたいで、緊張が幾許かほぐれた気がした。
まだ早い時間であることを確認して、食堂へ向かう。早めに朝食をとるのは、他のお客にあまり余計な詮索をされたくなかったから。いつもは寧ろ噂話に耳をそばだてる為に人の多い時間を狙って利用したりするけれど、今この街でその必要はほとんどなかったし、寧ろどうみても噂話の渦中にあるのは僕だったからだ。
食堂でも従業員からちらほらと冷やかしをもらい、愛想笑いを返しながらも手早く朝食をとる。
いつも自分が朝食をとる間に仲魔達の分を用意してもらうのだけど、今朝はそれが妙に豪勢だった。
「この街の大旦那様からのお心付けでございます」
支配人からのそんな言葉に恐縮しつつ、差し入れ分の朝食を受け取る。リング探しに一役買った彼らを評価していただいたものだろうか。後ほど改めて御礼を申し上げなくては、と心密かに誓い、僕は一度宿を出て街の外の馬車へと急いだ。
「みんな、おはよう」
幌を覗く前に、匂いに反応したらしいスラりんがぴょこんと顔を出す。「わぁ、おいしそー! あっ、おはよーごしゅじんさまー!」と大はしゃぎだ。続いて他の仲魔達も、それぞれ朝の挨拶を口にしながら幌を大きく開けていく。
この街に来たばかりの頃は他の馬を驚かせてはいけないと静かにしてもらっていたが、ちょくちょく立ち寄るこの奇妙な馬車の面々は、今ではこの場所にすっかり馴染んでいるらしい。心優しいプックルやガンドフなど、いつのまにか動物たちの輪に混じってうたた寝していることすらある。
「ほう、これは中々。サラボナはさほど肥えた土地ではなかったと記憶しましたが、飯は悪くありませんな」
「今朝はルドマン卿が差し入れてくださったみたいなんだ。あとで御礼を言わないと」
満足げに籠の中身を眺めるピエールとマーリンにそう言い添えると、二人は何を思ったかしげしげと僕を眺め、顔を見合わせて頷きあう。
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、と申しましてな」
「なるほど、先ずは佳き娘御の父親から懐柔するとは。さすがご主人、見事な手腕」
「してない! 何その言い方! 僕にそんな特殊能力ないからね⁉︎」
いちいちそうやって混ぜ返すのはやめてほしい。ほとんど反射で言い返した僕に、二人はくつくつ忍び笑いを漏らしている。
「して、本日のご予定は?」
グルグルと喉を鳴らして側に寄ってきたプックルの首をくすぐってやりながら、ピエールに予定を問われ、僕は少しだけ思案してから返事をした。
「午前中は大事な用があるんだ。とりあえず昼過ぎまでは自由にしてもらってていいかな」
「承知。では、そのように」
いつも通りの返事に頷き、宿に戻ろうと身を翻した僕の背にピエールがどこかにやついた一言を投げかける。
「ご武運を。あるじ殿」
「っ……、よく分かってるね」
僕の相方は相変わらず人の虚を衝くのが上手い。しれっと投げられた言葉に少なからず狼狽えた僕を更に愉しげに見遣り、ピエールは籠の中の料理を摘みながら低く笑った。
「リングが揃って、あるじ殿が斯様に身嗜みを整えられての大事な用といえば、それ以外にあるまいよ」
反論のしようがございません。恐らく赤面して更に口籠った僕を「ごしゅじんさま、がんばれ〜!」「いけいけー!」などとぷにぷにした青い二匹組が囃し立てる。
「……行ってくる!」
結局どうにも良い返しを思いつかず、未だ熱い顔をひたひた叩きつつ、僕は納屋を後にした。愉快そうに笑うみんなの微笑ましげな眼差しを背中に受けて、くすぐったく感じながら。
明朝と言っていたはずだから、常識の範囲内で早めに伺おうと思い、宿の部屋で準備を整えていたら、ちょうど出ようかというタイミングでルドマン邸からの遣いが来た。
心の準備は十分すぎるほどにしたつもりだったが、いざその時を迎えると、指先まで伝わるほどの動悸に身体中を支配されるのがわかる。
宿を出て歩いてしまえば、程なく屋敷に着いてしまう。
遣いの方に促され応接間の扉を通ると、既に室内にはルドマン卿と奥方のアウローラ様が昨日と同じく中央のソファに座っていた。奥に腰掛ける卿の向こうにフローラが、僕が入室した側にはビアンカがそれぞれ立って、僕の到着を待っていたようだった。
「おはようございます。申し訳ありません、お待たせしてしまったでしょうか」
開口一番に僕が詫びると、ルドマン卿はいつもの人の良い笑みを浮かべ立ち上がる。
「何、儂がせっかちなだけだ。ビアンカさんも急がせてしまい、すまなかったな」
話を振られたビアンカは「いいえ、平気です。朝はいつも早いですから」と首を振り朗らかに答える。その表情は普段のビアンカと同じで、僕はまた少しだけ緊張がほぐれるのを感じた。
きっと僕のために、ああして振舞ってくれているんだろう。ちらりとビアンカを見ると、奥の皆様には見えない角度で微笑みをくれる。
奥に佇むフローラからビアンカの表情は見えないだろうが、僕がビアンカに視線を遣ったのは分かったのだろう。わずかに床へと視線を逃し俯いた。けれど、それを追って彼女を見つめると、すぐに顔を上げて遠慮がちな微笑みで応えてくれた。
────ちゃんと、僕を見てくれている。
昨日ここに来た時には一切目を合わせてもらえなかったから。一日ぶりに見る彼女の微笑みに胸が熱くなり、また、僕をその目に映してくれたことに安堵して、改めてルドマン卿へと向き直った。
「……さて」
もう何度も聞いた、腹に響く低音の声にこの身がわずかにすくむのを感じる。
「テュール君。結論を、聞かせてもらっても良いかな」
落ち着いた声にもかかわらず凄みを感じる卿の言葉に、僕も肚に力を込めて、怖気付きそうになる己を叱咤し頷く。
その隣に腰掛ける奥方は、まるで昨日のフローラのような感情を窺えない微笑みを浮かべて僕を見つめている。
ビアンカもまた、ずっと励ますような視線を僕に向けてくれていた。
────フローラだけが、耐えきれないというようにわずかに僕から顔を背けた。
華奢な両手を胸の前できつく握りしめ、伏せた瞳は昨日のように感情を失ったまま、床の一点をじっと見つめている。
「フローラと、ビアンカさん。どちらを君の伴侶に望むのか、この場で示してもらいたい」
重ねて響いた父親の言葉に、ついにフローラは目をそっと閉じて、祈るように項垂れた。
そんな彼女の仕草ひとつひとつに決意が挫けてしまいそうになり、心の中で何度も自分を叱責する。
信じるって決めた。後悔しないって、決めたじゃないか。
彼女の心が既に他の男のものであったとしても。
彼女が僕に望まれることを拒んだとしても、僕のこの気持ちが変わることはない。偽りもない。
────伝えなければ、始まらないのだから。
一歩、瞼を落としたままの彼女に近づく。黙って見守る奥方が、小さく息を呑んだ気配がした。
ビアンカの強い視線に押されて、もう一歩。
初めて逢った日と同じように、清楚なドレスの胸許に固く握られた小さな手が震えている。今すぐにその手を取りたい衝動を必死にこらえて、肩をすくめたまま動かないフローラの前に立ち、彼女を見下ろした。
緊張のあまり、重く吐息が零れる。──その気配に驚いたように、フローラがうっすらと瞼を開けた。
緩やかに、花弁が開くように。
翡翠の瞳が見開かれて僕を映す。
「────僕は、見ての通り……目的があって旅をしている途中で」
頭の中で何度も何度も考えてきたのに。用意してきた台詞なんて、いざ彼女を前にすればあっさりとどこかへ吹き飛ぶ。
驚愕に揺らめくばかりの彼女の瞳に、嫌悪の色は見えない。
「怖い思いを、させてしまったり……貴女に、要らぬ心配をかけてしまうかもしれない。ずっと側にいることも、もしかしたら、できないかもしれない。…………それでも」
僕の声以外に音のない、静謐なはずの広間で。
自身の鼓動の音ばかりが耳の中に煩いほど響いている。
真っ直ぐに見下ろした翡翠の双眸に映り込む自分を見ていると、あの日、君に一瞬で心を囚われたことを思い出す。
もう一度だけ、息を吐いて、
僕を戒めるこの緊張を、手放す。
「────僕の、妻に……なっては、くださいませんか……」
僕の言葉が途絶えて、広いこの応接間には静寂が満ちた。
彼女は眼を見開いたまま、その瞳に僕だけを映したまま、固まって動かない。
僕も、他の誰も、微動だにしなかった。分かるのは、ただ僕とフローラに三者の視線が注がれていることだけ。
「…………、……わ……私」
永遠かと思えた長い空白の中、か細いフローラの声が空気を震わせて密やかに響く。
「何もできない、女です。──ビアンカさんのように、あなたをお手伝いすることも……、私には、守っていただくことしか、出来ません……」
どこか辿々しい彼女の言葉に、その澄んだ鈴の声に。胸がじわりと熱く、いっぱいになっていくのを感じる。
「構いません。──僕が、貴女を守るから」
思わず半歩、踏み込んでそう言うと、フローラは微かに身体を震わせ、距離を詰めた分更に上向いて僕を見た。
「……ほんとうに?」
壊れそうな桜貝の唇が、ほんの小さく動いて、この至近距離でもやっと聞こえるほどの言葉を紡ぎ出す。
「ほんとうに、────私で……いいの……?」
このまま身を屈ませれば唇を奪える。そんな誘惑にくらりと酔いながらも、何とか理性を保ちきってひとつ、頷く。
「貴女がいい」
僕にもうあとわずかでもいい、詩人の才があったなら。
もう少し気の利いた言葉を選べるのに。
どうしても出てくるのは、そんな色気も何もない言葉だけ。
いっそぶっきらぼうなほどの告白に、フローラはその綺麗な双眸を目一杯見開いて。すぐにその瞳が大きく揺れて、彼女は急いで顔を伏せた。
「──……しい、……」
華奢な指先で、花弁の口許を覆い隠して。
「……嬉しい、です」
隠された顔を覗けば、その耳許が、項が、ほんのりと紅を点して。
上目遣いに僕を見上げた瞳は微かに潤む。
「ありがとうございます────テュールさん。私、きっと……良い妻になりますわ」
指先の下に隠した口許が。朱に染まった目許が。
僕に向かって、緩やかに愛らしく、弧を描いた。
──────笑った……!
今まで見た、どんな笑顔よりあどけなくほころんだその微笑みが、僕の心臓を瞬時に、鮮やかに歓びで射抜いていく。
笑った。笑ってくれた。
嬉しいと、言ってくれた!
「……フロー」
ラ、と舞い上がるまま名を呼ぼうとした瞬間、鼓膜を破らんばかりの勢いで「そうか! フローラを選んでくれるか‼︎ そうかそうか‼︎」と盛大に笑うルドマン卿の大声量が響き渡った。驚いて振り返るより先に肩をばしばしと叩かれ、そういえばフローラのすぐ隣に立っていらっしゃったことを今更ながら思い出す。それにしても思った以上の力で肩やら背中やら乱打され、それなりに鍛えたはずの身体が若干悲鳴をあげる。
「お、お父様、テュールさんが」
興奮した父親のあまりの勢いに、咄嗟にフローラが間に割って入ろうとしてくれる。だが卿の手が彼女にぶつかってはたまらない、こちらもほとんど反射的に彼女を庇う形で身を翻した。
「おお、すまんすまん。つい力が入ってしまってな」
期せずして身を寄せ合った僕達を眺め、卿は嬉しくてたまらぬというように破顔する。
お若い頃冒険稼業で鳴らしたという豪腕が伊達ではないことを再認識させられた。既に現役ではないにしろ、素晴らしい筋力を維持されていると思う。
「いえ、大丈夫です。……改めまして、結婚をお許しくださり本当に有難うございます。卿」
「父と呼んでもらえる瞬間が待ち遠しいよ」
深々と頭を下げ謝辞を伝えた僕に、ルドマン卿はますます笑みを深め頷く。そして一つ軽快に手を叩き、「さぁ! 忙しくなるぞ。皆、婚礼の準備だ!」と高らかに叫んだ。
卿の言葉を合図に、屋敷に控えた使用人達が一斉に動き出した。フローラはすぐさま僕の側から引き離、いや引き剥がされ、「さぁお嬢様、急いで採寸からやり直しですわ」と両腕を掴んだメイド達に引きずられていく。名残惜しげに僕にちらりと視線をくれたものの、すぐに奥方、そして彼女を捕まえたメイドたちと共に応接間の外へと消えてしまった。しかし絶妙なタイミングでその後を追ったビアンカが「あっ、私、お手伝いしまーす!」と楽しそうに声を掛け広間を出ていく。えっ、などと思う間もなかった。
「…………すぐに、挙式なのですか?」
周囲の怒涛の勢いに呆気にとられ、激しく間抜けな問いを発してしまった僕を卿は穏やかに振り返った。
「まぁ、そうだな。元々すぐに式を挙げられるよう、諸々の準備を進めさせておいてはあった」
君の式だと言うのにこちらで勝手に進めてすまないね、と言われれば、僕は首を振る以外ない。ただ何となく、結婚式とは準備に時間がかかるものという先入観と、正直すぐに彼女に頷いてもらえるとは思っていなかったので、実際に式を挙げるのはまだ大分先のことだろうと本当にぼんやり思っていただけなのだ。
……まだ、信じられない。フローラが僕を、喜んで受け入れてくれたなんて。
先程の愛くるしい笑顔を思い出すと、自然と口許が緩んでしまう。鳩尾のあたりがむずむずするのを掌で必死に抑え気持ちを落ち着けていると、何やら悪戯を思いついた小僧のような笑みを浮かべた卿がおもむろに僕を見上げてくる。
小首を傾げてみせればますます愉快そうに口角を持ち上げ、彼は言う。
「そうそう、言い忘れたかな? 君と飲み明かした翌日、ラインハットのヘンリー王兄殿下へ遣いを差し上げてね。君の結婚式にご出席を賜われるようお願い申し上げた。殿下は大層お喜びになり、すぐにでもと妃殿下とご一緒にサラボナをお訪ね下さることになったのだよ。もう二、三日中にはお着きになるそうだから、それを待って挙式の予定だ。頼んだぞ、花婿殿!」
────全く聞いていなかった訳ですが⁉︎
初耳も初耳、一切予想していなかった事態に言葉が出ない。ラインハットからここまでだなんて相当の日数がかかるはず……ということは、だからこそ僕が水のリングを探しに出るより前に卿は挙式を見越して動いていたのか。
そこまでの期待をいただいていたと思うと甚だ恐れ多く、同時にこの義父は中々お人が悪い、と思わせられる。思い返せば結婚相手の条件告知の際も、こんなたちの悪い笑みを浮かべていらしたものだった。炎のリングについて聴衆に問いかけた彼のあの愉しげな表情は今も忘れられない。
驚愕に言葉を失ったままの僕をますます愉快そうに眺めてから、卿は暫し視線を宙に彷徨わせて思案する。
「まぁ、そういうことだ。……ところで、実は式の前に一つ、頼まれて欲しいことがあるんだがね」
「……? はい。僕にできることでしたら」
戸惑ったまま頷くと、卿はまた満足げな笑みを一つ浮かべてその用件を口にした。
「恐らくビアンカさんの村だと思うのだが、温泉のある山奥の村の萬屋に花嫁のヴェールを注文してある。あそこの職人は良い技を持っていてね。そろそろ仕上がる頃だから、君が取りに行ってくれないだろうか。うちの者に行かせるつもりだったが、少々手が足りないようでな」
最後はやや申し訳なさそうに告げられたが、それくらいなら造作も無い。ここに居ても役に立てることはあまりなさそうなので、寧ろ願っても無い申し出だった。
「お任せください。出来るだけ、ヘンリー……殿下をお待たせしないよう、早く戻るようにしますので」
僕の返答に卿は少しだけ目を丸くした。答えてから、そういえば船で行ったらルーラでは戻れないかもしれないことに思い至る。いや、本当はルーラで村まで行ければ即日往復できるのだが、どうだろう。
「そうか、頼もしいな。よろしく頼むぞ。昨日まで使ってもらっていた船で行ってくれても良いし、村の近くまでは定期船も出ている。代金は全て支払い済みだから、注文の控えだけ持って行けば良いだろう」
続く卿の言葉に内心ほっとして頷いた。片道を定期船で行ければ、少なくとも帰りは魔法でなんとかなりそうだ。控えについては執事の方を訪ねるよう言われ、了承してその場を辞そうとしたところでふと、伝えねばと思ったことを思い出す。
「卿、……今朝は過分なお心付けを頂戴しまして、本当に有難うございました」
僕の謝辞に、ルドマン卿は卒なく笑う。
「領民の命を救ってもらった礼を、していなかったのでな」
恐らくアンディのことだろう。どこまで事情をご存知なのかはわからないが、僕ではなく仲魔達を指して言ってくださったことが嬉しく、僕は卿に向かって今一度深く拝礼する。
そうして件の執事からヴェールの注文票の控えを預かり、僕はルドマン邸を後にした。