Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#21. 天空の盾

 ふ、と無意識の淵から浮き上がる。

 

 見覚えのない天井……は、ここは船上だっただろうか、と未だ靄のかかった頭で束の間思考を巡らせる。が、澄んだ声が僕を一瞬で現実へと引き戻した。

「──テュール、さん」

 反射的に視線を向けると、心配そうに僕を覗く碧い双眸。

「……フローラ」

 シーツに肘をついて上半身を持ち上げ、からからの喉でそれだけ絞り出すと、目の前の君は力が抜けたように息を吐き、微笑んだ。

「良かった。……覚えていらっしゃいますか? 父がまた、皆様のご帰還のためにあなたにルーラをお願いして……」

 彼女の鈴のような声を聞きながら、少しずつ先程の事態を思い返す。そうか、どうやら僕はまた昏倒していたらしい。

 婚礼のあと、サラボナの街を挙げて宴を催すと豪語したルドマン卿の言葉に、参列客は色めき立った。船を降りた島の砂浜に魔法陣を描いて順次移送したが、陽が高くなるにつれ眩暈がしてきたのは覚えている。それでも今回は隣にフローラが控えていてくれて、僕が転移する度に魔法陣を綺麗に描き直したり、戻るたびに飲み薬や水を差し出してくれたりと、ずっと手伝ってくれたのでなんとか最後まで頑張れた。……それで、最後にフローラと肩を寄せ合い卿らご家族と友人達を運んだはずだが、そこから再びサラボナに到着したあたりの記憶がない。

 今日一日で一生分……とまでは言わないが、軽く数年分ルーラを唱えた気がする。

「もう夕方になりますわ。ずっとお忙しくしてらして、疲れていらっしゃるのに……父が無理ばかり言って、本当に申し訳ありません」

「いや、いいよ。寧ろこれくらいで力尽きるなんて情けない……僕の方こそ、ほんとに」

 さらりと碧い頭を垂れて詫びてくれるフローラに、しどろもどろに言葉を繋ぎながら、ふと不安になった。今のこのやり取りすら、現実味がなさすぎて。

 ──実は、夢だったりしないだろうか。今も。

 随分と、長い夢を見ていたような気がする。それもひどく幸せな、現実にはありえないような夢を。

 目の前のフローラは、普段着ているような清楚な白いドレスを身に纏っているが、婚礼の時のそれではない。

 あの、この世のものとは思えないほど儚くも美しかった、女神の如き純白の花嫁姿は、僕が望み過ぎた故に見た幻だったのではないだろうか。

 ……結婚した気になっているのは、自分だけだったりしないだろうか。

 ちら、とフローラの左手を盗み見ると、薬指にあの、清らかな蒼をまとった細い指輪が見えて、僕の心臓が勝手に跳ねる。

 ──夢じゃ、ないよな。

 項垂れるフローラを見つめながら、毛布の中に忍ばせた自分の左手を右の指先でこっそりとなぞった。少し熱を帯びた感触を薬指に見つけたその瞬間、僕は絶対に頰が緩んだだろう。咄嗟に口許を覆って隠す。

 ──ちゃんと、つけてる。大丈夫。

 夢じゃない。

 僕の高揚を知ってか知らずか、フローラが控えめに切り出した。

「それで、今本宅で父が皆様をお招きして宴を催しておりまして……テュールさんがお目覚めになったらお連れするよう言われているのです、けれど。良かったら、先に何か軽く召し上がりませんか? ずっと慌ただしかったですし、この後ももしかしたら、あまりお腹に入れられないかもしれませんし」

「あ、ありがとう……うん。まだ時間が大丈夫なら、お願いしたいな」

 駄目だ、やっぱり舞い上がってる。思いがけずうわずった己の声に、頭を硬い何処かに打ち付けたいような衝動に駆られる。しかしやはり僕の挙動不審には気づかぬ様子のフローラは、いつものように優しく微笑み頷くと、そっと立ち上がりベッドから離れていく。

「それでは、一階のテーブルにご用意しますね」

 軽やかになびく碧い髪の背を見送り、トン、トン……と階段を降りる、体重を感じさせない足音を聞きながら、僕は未だ毛布に埋れる膝に両肘をつき、組んだ指の上で項垂れながらも盛大に溜息をついた。

 あんなに欲しかった、フローラとの二人きりの時間。

 なのに、ここまでろくに話ができないとは。

 不甲斐なさのあまり、胸を焼くような吐息ばかり漏れてしまう。

「……見放されないように、しないとな……」

 自分に言い聞かせたくて、ぽつりと小さく口にする。

 正直、未だに信じられない。密かな期待は捨てきれなかったものの、フローラが僕をこうもあっさりと──笑顔で受け入れてくれたということが、実感として湧いてこない。

 それでも、きっと彼女は、ずっと側にいてくれた。船上の婚礼の前も、今だって。

 僕の目覚めをひたすらに待っていてくれたフローラの姿を思い浮かべて、ふと今も階下で僕を待っているであろう姿に思い至って、僕は慌てて毛布を跳ね除け、ベッドから飛び起きた。

 先程こっそりと確かめた、左手を今度こそ持ち上げてかざしてみた。

 あの深い夕闇にも似た紅い指輪が、僕の指に誂えたかの如くぴったりと嵌っていた。

 

 

 

 婚礼直後、その足で帰還劇を繰り広げたので当然ではあるのだが、僕は未だ礼装のままだった。もちろんこれは私物ではない。意識が飛んでしまったのだから言い訳のしようもないが、これはやはりルドマン卿──義父が用意してくださったものだろうか。

 有難いことに、枕元に僕の旅装が畳まれていた。ほっとして急いで着替え、さすがに皴がついてしまった礼服を溜息混じりに畳む。慣れない格好はするものじゃない。

 ふと、礼服の襟の下に刺したままにしていた、白い小花の束が目に留まった。

 シルクで精巧に作り込まれたそれは、奇跡的にどこも歪んではいないようだった。ほっとして、何となくそれを大事に道具袋に入れる。まだ夢うつつの今だからこそ、指輪だけでなく、実感として記念になるものを取っておきたかった。

 ドワーフがくれたアドバイスの通り、胸につけて式に出て良かった。赤い絨毯の向こうに彼女がヴェールをたなびかせた瞬間、胸元のものと同じ小花が美しく躍った。それに気づいた時、嬉しかったし、誇らしかった。彼女と同じ花を身につけたことで、彼女は僕の花嫁なのだとより強く思うことができたから。

 もはや記憶の中にしかない、夢のような瞬間を噛み締めてから、僕は急いで階下へと降りた。

 一階の居間では、フローラがちょうど見覚えのある立派なダイニングテーブルの上にサンドイッチを並べているところだった。ああ、ここはビアンカが泊まっていた離れなんだ、と今更ながらに理解する。道理で、天井に覚えがなかったわけだ。

「本当に、簡単なもので申し訳ないのですけれど…」などと俯くフローラに何度もお礼を述べながら、サンドイッチとスープをありがたくいただいた。フローラが初めて僕のために用意してくれた手料理、と思うと勿体ないやら緊張するやら、咀嚼すれどもほとんど味がわからない。だがもちろん不味いなんてことはなく、しっかり具を挟み込んだサンドイッチは良い具合に腹に溜まって、僕は十分すぎるほど空腹を満たすことができた。

「フローラは、食事とれてる? 良かったら一緒に、どうかな」

 ずっと控えめに微笑みながら斜向いに腰掛けて僕を見守ってくれているフローラに、そんな風に問い掛けてみる。ずっと僕についていてくれたのだし、きっと彼女も食事の暇なんてなかっただろうから。

 僕の提案に彼女は少しだけ動揺を見せて、視線を泳がせ暫し思案したが、「それでは、お言葉に甘えますね」と遠慮がちに微笑んで席を立った。

 程なく、僕によそってくれたものより小ぶりな皿にスープを入れて戻ってくる。

 今度は向かいの席に座り、きちんと手を合わせ神に祈りを捧げてから、僕に一度小さく笑いかけてスープをひと匙、すくって持ち上げた。

 全ての所作が流れるように美しく、いつの間にか僕は、彼女の動作にすっかり魅入ってしまっていた。

「……あの、テュール、さん?」

 音も立てずに三回ほどスープを可憐な口許に運んだ彼女が、気恥ずかしそうに肩をすくめて僕を見上げた。

「私、どこかおかしい……でしょうか」

「あ。いや、違……違うよ、ごめん。つい、ぼーっとしてしまって」

 僕は変態か。すっかり彼女の唇に意識を奪われてしまっていたことに気づき、慌てて手と首を振った。本当は思いっきり見惚れてしまっていたのだけど、僕の曖昧な返答に目許を緩めたフローラは「お疲れですもの。無理もありませんわ」と優しく頷いてくれる。ああ、良心が痛む。

 ──……これからは毎日だって、こんな風に彼女と食事が出来るんだ。

 そう思うと何ともくすぐったかったが、同時に己の中に保留し続けている悩みが頭をもたげる。しかしすぐにその思考に無理矢理蓋をして。

 今日はまだ、考えたくない。このひと時にもう少しだけ甘えていたい。

 そんなわがままな考えがよぎった瞬間、「テュール、さんは」とフローラが遠慮がちに言葉を発した。

 彼女に目を向ければ、皿の縁に手を置いたまま、微かに揺らめく瞳を僕に向けて。どこか言い澱むように、唇が動いた。

「──テュールさんは、勇者様を求めて旅をしていらっしゃると……お聞きしました」

 どくり、と身体中の血液が逆立つ。たった今目を伏せたことを、どうして彼女が。

「……先程、ヘンリー殿下からそのように伺いました」

 僕の動揺を察したのか、フローラは尚も控えめにそう言い添える。

 出来ればちゃんと自分の口から伝えたかったことだけど、ずっとその機会がなかったのだし。知られてしまったならこれ以上隠すことでもない。

「──うん。勇者、というか……母親を、探しているんだ。本当は」

 静かに告げると、身じろぎこそしなかったものの、微かにフローラが息を呑んだのがわかった。

 出来るだけ怖がらせないように。微笑みを顔に貼り付けて、言葉を探す。

「物心ついた時には、居なかったんだけどね。父さんがずっと母さんを探して、幼い僕を連れて旅をしていて……でもある時、魔物に襲われた僕を庇って父さんだけ、亡くなってしまったんだ。──その、父さんの遺言が、伝説の勇者を探すこと」

 ちらりとフローラの様子を窺うと、気丈に僕に目を向けて話を聞いてくれていた。少しだけほっとして、続く言葉を頭の中から探りあてる。

「母さんがね。魔物に攫われて、『魔界』ってところにいるんだって。そこには生身の人間は行けない、勇者の力が必要だって。だから、勇者の力を借りて、母さんを助けてくれって……父さんが最期に僕に言い残して。父さんの願いを叶えたくて、僕もやっぱり、母さんには会ってみたいから、勇者を見つけるためにずっと、旅をしてる。──まだまだ、会えそうにないね」

 最後は、自嘲交じりの愚痴が溢れた。まだ、さすらい始めて二年くらいしか経っていないけれど。勇者の話なんて、眉唾物の噂でさえも聞こえてこなくて。

 本当に存在するのか。この世界に、いつ現れるのか。僕が老いてこの生を終えるまでに、否、母の命が尽きる前に、勇者の力を借りることはできるのか。

 ────この旅はいつ、終わるのか。

「……それでは、この街にこのまま留まることはできません、よね? お母様をお救いしてはじめて、あなたの旅は終わるのですもの」

 静かに、確かめるように降るフローラの言葉に、黙って頷く。

 わかってる。僕は行かなきゃいけない。その為に今日まで、死に物狂いで命を繋いで来たんだ。終わりがなくても、行く宛がなくても、この道の先にどんな危険が待っていても。

 

 

「……私、ついて行っては駄目でしょうか」

 

 

 意を決したようなフローラの訴えが、僕の思考を唐突に遮った。

 え?

 その意図を捉え損ね、思わず顔を上げて正面から瞳を見つめ返すと、見覚えのある強い視線が交わる。

「わがままなのは、わかっています。……あなたの旅路にはお荷物でしかないということも。ビアンカさんのようには、お役に立てないことも……わかっています。でも……、でも、私」

 声を震わせながら、皿の縁を支えたままの華奢な指先に視線を落とす。

「…………もう、待っているだけなんて、嫌なの……」

 それきり、彼女は口を噤み、肩を小さく縮めて俯いた。

 死の火山から戻った夜、そして長い船旅から戻ったあの日にも、恐らくほとんど寝ずに僕の身を案じていてくれたことを、今更ながらに思い出す。

 それでも、僕にはすぐに頷けない。僕の往こうとしている道は平穏には程遠い。先日の、滝の洞窟のようなところばかりならまだしも、例えばあの死の火山へフローラを伴って行けと言われたら。馬車で待っていてもらうことすら、僕にはできないだろう。他に停まっていた、魔物に襲われた後の馬車の残骸を見てしまったら尚のこと。

 けど、でも、それでも。

 危険だとわかっているのに、彼女の願いにどうしても揺らいでしまうのは。

「……すぐに決めてくださいとは、申しません」

 瞳を伏せたまま、フローラは小さく呟く。

「父だって、反対すると思います。……わかっています。……ただ、私の望みを、知っておいていただきたかったの……」

 

 私の、望み。

 

 その言葉が、信じられないほどこの身体を清涼な感覚で一気に満たしていく。

 フローラが、彼女自身の意思で、僕に同行することを望んでくれる。

 ──────なんて、倖せ。

「……ちゃんと、考えてみる。僕も、出来るなら一緒に行きたい……から」

 まだ、触れる勇気が出せなくて。対面の椅子に座ったままの距離でそれだけ、絞り出す。

「……ありがとう。すごく、嬉しい」

 辿々しくもなんとか微笑んで伝えると、目の前の君もほっとしたように表情を和らげた。

「おかしな話をしてしまって、ごめんなさい。……スープのお代わりはいかがですか?」

「あ、うん。大丈夫だよ。自分でやるから」

 まだ彼女の皿にスープが残っているのをちらりと見て慌てて立ち上がり、空になった皿を持ってキッチンへと急いだ。自分のことは自分で、なんて子供染みた教訓だが、食事途中の妻に給仕をさせるわけにはいかない。すっかり冷めてしまっただろうが、彼女が作ってくれた小鍋の中のスープをよそう。レードルに一杯、すくっては皿へと流し入れるごとに、胸が幸福感でいっぱいになる。

 ……もう、怖いほどに幸せで。

 まだ、実感には程遠いけれど。他の男に渡したくない一心で、ここまでなりふり構わずやってきた、けれど。

 当たり前に一人きりだった生活に、君が加わってくれるこの幸福。

 甘く見ていた。これは、知ってしまったらそう簡単には抜け出せそうにない。

 本当は今すぐ、このまま連れ出してしまいたい。

 絶対にフローラに気づかれないよう、居間に背を向けてごくごく小さな溜息をつく。頭を振り、思考を振り切ってから、フローラの待つテーブルへと戻った。

 明日改めて、これからのことをちゃんと話そう。

 だからせめて、今日だけは────

 二杯目のスープも、フローラを眺めながらあっという間に平らげてしまった。「お口にあったなら、良かったです」とはにかむ彼女を抱きしめたい衝動に抗いながら、空になった皿を手早く片付ける。そうして僕達は連れ立って、まだまだ大盛況の宴の輪へと急いだのだった。

 

 

 

 本宅、とフローラが呼んだルドマン家の屋敷の庭から噴水広場の向こうまで続く道は、どちらを向いても文字通り、お祭り騒ぎの様相だった。

「よっ! ご両人のお出ましか。なかなか似合いの夫婦ではないか!」

 門を解放した豪邸の庭先にこれでもかと酒やご馳走を並べ、顔を真っ赤にして大層上機嫌な卿、いや義父が僕達を出迎えてくれた。どうやら卿の相手はヘンリーが務めていたらしく、こちらもすっかり出来上がった様子で「やっと来たかテュール! おら、お前も呑め! こら!」とグラスを押しつけ絡んでくる。僕が酒に弱いのは知っているだろうに。

 ほとほと疲れた表情のマリアさんが僕達に歩み寄り、「お身体はもうよろしいのですか? テュールさん」と心配そうに声をかけてくれる。

「ええ、もうこの通り。二度もご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません」

「だーいじょうぶだって、こいつは昔から頑丈だけが取り柄なんだからさぁ。なぁテュール?」

 首に巻きつき、尚も酒癖悪く絡んでくるヘンリーの腕をそれとなくほどきながらマリアさんに詫びると、今度はルドマン卿が背中を豪快に叩いてくる。

「いや、本当に悪かったな! しかし君のお陰で最高の式になった。礼を言うぞ、テュール君!」

「……それは、何よりです」

 はらはらと父親を眺めるフローラの視線を肩越しに感じつつ、若干の引きつり笑いを返す。どうしよう、これは今から朝まで呑まされての泥酔コースまっしぐらなのでは……

 非常に嫌な予感に、なんとかこの場を逃れられないかと思ったところで、ルドマン卿が少しだけ声をひそめて僕を手招きした。

「渡したいものがある。フローラ、お前も来なさい」

 僕のすぐ後ろに控えたフローラが一瞬瞳を揺らめかせたが、すぐに黙って頷く。卿は更に「殿下と妃殿下も、よろしければご一緒に」と傍らのヘンリーたちにも声をかけた。大丈夫なのかと一瞬思ったが、ヘンリーは赤ら顔ながらも真剣な面持ちで頷き、マリアさんをエスコートする形で僕らの後に従った。

 戸外の喧騒を逃れて屋敷に入れば、人気のない屋敷にどこか冷んやりとした空気が漂う。

 卿は振り向かず、まっすぐに階段へと向かっていった。僕とフローラ、ヘンリーとマリアさんもただ黙ってその後に続く。階段を上がると、すぐにフローラの部屋の扉が現れる。先日一度だけ訪れたその場所にまつわる記憶に、心臓が密やかに跳ねた。──その扉を、卿は躊躇いなく開け放った。本人を伴うとはいえ、淑女の部屋に無遠慮に入ることは躊躇われたが、卿に目で促され、大人しく中へと入った。

「これを、君にあげよう」

 渡されたのは鍵だった。卿を見返すと、彼は何も言わず僕の背後に控えたフローラへと目配せをした。フローラはまた黙って頷き、しとやかに一歩前へ出る。そうしていつか覗いたベッドへと歩み寄り、そっとシーツを持ち上げた。

 ベッドを支える脚と脚の空洞部分に、高さの低い、大きな宝箱が収められている。

「──……テュールさん」

 澄んだ声に促され、鍵を握りしめてフローラに近づく。

 さすがにこの状況で、中身が何かはわかる。父の悲願を成す為に必要な、あの盾だ。

 宝箱をベッド下から引き出し、鍵を宛がった。かちり、と軽い音が響いて錠が開く。フローラの華奢な手が宝箱の縁を滑り、そっと蓋を奥へとずらした。

 中から、白銀に似た光沢が静かに輝く、神々しいばかりの盾がその姿を顕す。

 これが、──────

 僕だけではない。後ろで見守っていたヘンリーも、マリアさんもきっと呼吸すら忘れてその盾を見つめていた。フローラは緩やかな手つきで全ての蓋を滑らせ終え、再び僕のすぐ後ろへと下がった。刃と竜頭を象ったその盾は、遥か昔世界を駆逐しようとした悪を今も尚許さぬというように、荘厳な気配をまとって箱の中に鎮座していた。

 これが、天空の盾。

「持ってみるかね?」と問いかけた卿に、ゆるく首を振った。僕に扱えないことはもう、わかっている。

「ヘンリー殿下からお話は伺ったよ。テュール君、伝説の勇者に会う為に、これら天空の武具を集める旅をしているそうだな」

「……はい。仰る通りです」

 深く頷いた僕に卿は薄く笑い、「なるほど、これが運命か」と独りごちた。

「その盾は元々、フローラのものだ」

 思いがけない一言に、言葉が詰まる。反射的にフローラを振り返れば、彼女はただ厳かに目を伏せたまま僕の側に控えていた。振り返った視線の向こうでは、扉付近に佇んだヘンリーもまた、驚愕を露わにしてフローラを見つめていた。

「詳しいことはいずれ、フローラが話すだろう。……盾はここに置いてある。いつでも、好きな時に持って行きなさい」

 ありがとうございます、と乾いた喉で答える。

 フローラはまた黙って進み出ると、蓋を再び盾に覆わせ、僕に鍵をかけるよう促した。そうして全てを元に戻し、順番に彼女の寝室を出る。

 あの盾の威光に当てられたように、誰も何も言葉を発しないまま、屋敷の外へと歩み出た。

 まるで屋敷の中に結界でも張られていたかのように、外に出た瞬間、先程の激しい喧騒が一斉に耳に還る。

「さぁ皆、飲み明かすぞ! 夜はこれからだ‼︎」

 背後から叫んだ卿に、街の主を待ちわびた町民達が熱気の篭った歓声をあげた。逃げる間も無く首根を捕まえられ、ほとんど無理矢理に乾杯させられ口許に酒を運ばれる。「お前一人素面とか許すわけないだろうが! おら、親分様の酒はしっかり呑めよ!」とまぁ口悪しく絡んでくれるヘンリーはやはりそれなりに回っていたらしい。そっちはそれなりに呑めていいよな。僕には無理なんだ‼︎

 案の定、二杯も流し込まれたところで吐き気をこらえきれなくなり、逃げるようにその場を辞してきた。フローラはフローラでどこかに連れていかれているらしい。しかし僕は今夜、宿屋に行くべきなのか、先程の離れに向かうべきなのか。おたおたしているとまた捕まってしまう。とりあえず急いで宿に向かったが、すっかり馴染みの番頭からは「グラン様のお荷物はルドマン様のご意向により、全て別宅の方へと運ばせていただいております」と無慈悲なお言葉をいただいてしまう。仕事とはいえ、このどんちゃん騒ぎに加われないのは無念だろう。心密かに手を合わせ、急いで離れへと向かった。

 途中でビアンカと話し込むフローラを見つけ、声をかけた。

「やぁだ、何テュール? ひっどい顔ー!」

「うるさいなぁ、無理矢理飲まされたの……限界なんで、先に戻ってるね。フローラ」

 耳元で容赦なく大声を出され、ますますがんがんと割れ始める頭を抑えてそれだけ告げると、フローラもすぐにビアンカに挨拶をして僕の後を追ってきてくれた。

 こんな時なのに、帰る場所が同じ、ということがたまらなく嬉しい。

 ──……本当に、連れていけたらどんなに幸せか。

 婚礼の時は勢いで手を引いたり、抱き寄せたりできたけれど。

 今、後ろをついてきてくれる君に、気安く触れる勇気もまだないのに。

 離れに辿り着き、フローラが急いで冷たい水を汲んでくれる。すぐに一杯飲み干し、水に晒した冷たい布を渡してもらって額に当てた。

「ありがとう……フローラ」

「いいえ、これくらい……無理はなさらないでくださいね。今日はもう、お休みになってくださいまし」

 まだ湯も使っていないし、せめて顔くらいは……と思ったけれど、一度脱力してしまったら急激に酔いが回って、身体がいうことを聞かなかった。フローラの目の前で、なんという失態か。

 ……さっきは気づいたらこの離れに運び込まれていて、一緒に過ごす覚悟も、何もないままだったけれど。

 本当は、心のどこかで緊張していた。

 宿のものとは明らかに違う広さの寝台。フローラの私室のものよりもっと広い、二人で十分寝られてしまうそこに、今夜は二人で休むのかと思ったら、さすがの僕でも色々とあらぬことを想像してしまった。どうなってしまうのか、一体どうしたらいいのか──……

 けれど、少なくとも今夜については哀しい杞憂だった。僕はすっかり酩酊状態で、横になるなり意識を手放してしまったから。

 翌日、目が覚めた頃には太陽はすっかり真上に上がっていた。隣に寝ているかもと思ったフローラの姿もなく、その気配は階下から聞こえる。記念すべき初夜に何事もなかった安堵と落胆、相反する感情に激しく弄ばれ、僕はがっくりと項垂れつつ階下へと降りていった。




原作ゲームでは、別宅の一階入ってすぐがベッドなんですが。
よく考えたら違和感もりもりでしたので二階にしてあります。
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