Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#24. 碧き光

「そうか。壺は青かったか」

 街に到着してすぐに義父を訪い報告すると、彼は安堵したように頷いた。

「ご苦労だったな。テュール君、フローラはどうだった? 君の邪魔にならなかったなら良いんだが」

「邪魔どころか、大変助けてもらいました。彼女がいち早く敵の襲来に気づいてくれたお陰で、ほとんど被害らしい被害も受けておりませんし」

 僕の回答にルドマン卿はどこか満足そうに頷く。その表情を見て、実はこの方は反対する気など初めからなかったのだと直感した。

「よろしい。フローラの出立を許可しよう。──フローラ、これまで以上にしっかりとテュール君を援け、動くようにな」

「……ありがとう、ございます」

 しかし、当のフローラは相変わらず沈みきった様相だった。父親の門出への一言も沈痛な謝辞一つで受け流し、目もあげない。義父はまた溜息をついて僕を見たが、僕もせめて苦く微笑んで首を振ることしかできなかった。

 出立前にフローラときちんと話をしよう。彼女が抱えている悩みを知ることができれば、一緒に解決だってできるかもしれない。

 ……夫婦、なのだから。

 卿からは改めて、出立の際にはポートセルミの港に停泊している卿所有の大型船を自由に使って良い、という有難い申し出をいただき、恐縮しながら屋敷を辞した。

 別宅への帰宅前に、少し遠めの寄り道をしてアンディを見舞った。

 アンディを蝕んでいた病魔は去ったらしく、彼は元々細身の身体をさらに痩せさらばえて、自室の椅子に腰掛けていた。

 僕達を見ると、存外にも嬉しそうに微笑んでみせた。

「おめでとう。……残念だったよ。僕も是非とも、君の花嫁姿を見たかった。さぞかし美しかったんだろうな」

 アンディの言葉にフローラはますますその身を固くし、表情を歪ませる。

「仕方ないね、病み上がりだったから」

 俯くばかりのフローラに自嘲気味に笑ってみせ、今度は傍らに立つ僕へと目を向ける。

「……フローラを、連れて行くんですか?」

 もう、僕を責める色はない瞳に、まっすぐに視線を返し頷いた。

「──はい。僕が絶対に、守ります」

「当然でしょう。彼女に何かあったら許しませんから」

 薄く笑った彼の瞳には、どうしようもない羨望が滲んでいた。

「悔しいが、あなたになら任せられる。……フローラを、よろしくお願いします」

 もう一度、しっかりと頷いて。尚も項垂れるフローラの肩をそっと抱いて、アンディの部屋を後にした。

 階下にいたアンディの両親はそれぞれに複雑な表情を浮かべ、階段を降りてくる僕達を見守っていた。

「フローラさん。……幸せにな」

 最後に見送られるとき、父親が優しく彼女に告げた。

 彼女は胸を抑え、掠れた声で、ありがとうございますと短く呟き頭を下げた。

 

 

 

 別宅に辿り着き、留守を預かってくれた仲魔達を軽く労ってから屋敷に入った。

「今日は僕が食事を作るよ。……大したものはできないけど。フローラは休んでいて」

 そう声をかけたら、彼女はますます泣きそうな顔で俯く。

 ……なんと言って訊いたら、君は話してくれるだろう。

「えっと。出発は全然急がないからね。三日後でも一週間後でも、フローラが準備できたら教えてくれたら」

 少しでも不安を取り除いてあげたくて、思いつくままに言葉をかけたけれど、フローラは目を合わせずに息を呑み、小さく首を振った。

「──明日、出られますわ。そんなに物は多くありませんし……これ以上、遅くなっては」

 言葉少なにそれだけ告げ、絶句した僕に構わずフローラは二階へと上がっていく。

 明日、だなんて。

 僕はいい、元々本当に荷は多くないし。しがらみもないから、少しの着替えや道具を馬車に積めば何処へでもいける。でも、フローラにとっては性急すぎるんじゃないか。

 僕に迷惑をかけまいとしてくれているのは、わかる。

 今回の祠参りのことだって、僕に余計な時間を使わせたと随分気に病んでいた。彼女が気にする必要などないのに。

 旅ばかりの男の料理なので、本当に適当な煮込み料理くらいしか作れないが、ピエールたちに駄目出しされながらも日々試行錯誤を繰り返してきたレシピを手早く下ごしらえして、僕はフローラを追って二階に上がった。

 フローラは、寝台に腰掛けて茫然としていた。

 傍らに大きくない旅行鞄を広げ、何枚かのドレスや、旅装にあたる魔力のかかった服、それに魔導の本が何冊か綺麗に入れられていたが、その半分くらいはまだがら空きだった。

 そこまで入れたら燃え尽きてしまったというように、彼女は放心状態で力なく、ベッドの端に座っていたのだった。 

「……フローラ」

 恐る恐る声をかけると、フローラはどこか虚ろな瞳を揺らして僕を見る。

「……あ。ごめんなさい、ぼうっとしてしまいました……」

「いいよ、そんなの。本当に大丈夫? 準備なんて後にして、今日はもう休もう。船旅で疲れてるんだから」

 寧ろ、休んでほしい。こんな状態の君を放ってはおけない。

 けれど、僕の願いも虚しく、君はやはり首を振る。

「大丈夫です。本当に、ご心配ばかりおかけして、申し訳ありません……」

「いいから、休んで。……ここのところずっと塞ぎ込んでるの、気づいてない? 僕には話せないことなのか?」

 空いている隣に腰を下ろして、思い切ってそう訊いてみたけれど、フローラはやはりずっと俯いたまま、唇をかみしめて何も言わないままだった。

 ──お二人が、お二人だけの辛さを、和らぎあえる関係になってくださったら。

 いつかクラウスさんが僕にくれた、優しい言葉が耳に還る。

 そうなりたいと思った。彼女の苦しみを癒してあげられるなら、もう僕の苦しみなんて何もかも気にならないのだと。

 実際は、何もできない。僕には君の痛みを一つも解ってあげられない。

 全てを分かち合うと、誓ったはずなのに。

「……明日さ。ポートセルミ港へ向かう前に、ビアンカの村に行かないか?」

 せめて、気分転換になったらという思いからだった。ビアンカの父であるダンカンさんも、今度はお嫁さんを連れておいでって言ってくれた。結婚式の前後、ビアンカは嬉々として準備を手伝っていたようだったし、フローラも何だかんだとビアンカには心を許しているように見えたから、もしかしたら女同士、朗らかな姉御肌のビアンカに引き合わせた方が彼女の心が軽くなるかもしれない。そんな思惑もあった。

 正直悔しいが、なりふり構っていられない。

「ほら、またしばらく会えなくなるから。定期船で行って、挨拶したらルーラでポートセルミに飛ぼう。山あいの素朴な村だから、少しは気が紛れるんじゃないかな」

 僕は入りそびれたけれど、温泉だってある。何なら頼み込んで、彼女が入る時だけ女性だけの湯にしてもらってもいい。色々効能のあるらしい温泉に浸かれば、彼女を蝕む気鬱も少しは晴れるかもしれない。

 

「────……きま、せん」

 深く、俯いた君が、

 重苦しい呟きを膝に落とした。

 

「…………、え?」

 聞き間違いかと思って、咄嗟に横顔を覗き込んだけれど。胸許まで深く、俯いた君の顔は見えない。

「フローラ。今なんて──……」

「ごめんなさい」

 僕の問いを遮って、フローラが立ち上がった。よろめきながらベッドを離れ、逃げるように目の前の壁へと縋りつく。

 つられて僕も立ったが、フローラの全身から伝わる拒絶に二の足を踏んだ。

 ──────どうして。

「……めん……なさい」

 壁に向かって俯かせた顔を更に僕から背けて、フローラは今にも消えてしまいそうな声で、呟く。

 華奢な肩は、初めて魔物に対峙した時と同じくずっと震えている。君の薬指に光る白銀の指輪が、その指が、心臓の痛みに堪えるように白い胸へと爪を立てて。

「どうか……、お一人で……行ってください。ビアンカさんの、元へ」

「────どうして」

 それしか、言えなかった。どうして。どうして、君を置いて行かなきゃいけない。

 一緒に行きたいって言ったじゃないか。その為に、二人で試練を越えたじゃないか。

 僕の悲愴な問いかけにも、君はやはり、緩く首を振るだけだった。

「…………もう、良いの……、です」

 震え続ける肩をぎゅっと抱きすくめて。ますます小さく感じられる君が、絞り出すように、言葉をつなぐ。

「選んで、いただけただけで、十分だったのです。身に余り過ぎる幸福を、いただきました。……なのに」

 痛ましげなのに、揺るぎなく響く声。君の矜持かもしれなかった。けれど、今にも崩折れそうな肩が、君を冒す苦しみの昏さを物語る。

「私は愚かにも、一緒に……行きたいなどと、わがままを言って。あなたを縛って、繋ぎ止めて、しまいました。その所為で、無駄に時間を使わせて。やっぱり、私は……あなたに相応しくなど、なれなかった」

「そんなこと、ない。無駄でも、わがままでもないよ。──聞いて、フローラ」

 君に届く言葉を選べない。もどかしくて、必死に呼びかけるけれど君はこちらを見てくれない。

 ────あの日みたいだ。

 求婚の前日、ビアンカの想いを汲み取った時の、君みたいだ。

「……魔法だって、使えません」

 押し殺すような、ひどく痛々しいフローラの声が、耳に、頭の中に直接こだまする。

「守って、いただく、ばかりで。魔物ひとつ、相手できませんでした」

 守るって言ったのに。僕が守るって。

 それすら、君を追い詰めるだけだったのか。

「ビアンカさんは──ビアンカさんなら、お一人で山を歩けるほど、お強くて。魔法だって、お上手で。あなたのことも、ずっとよく、ご存じで……私、わたしは、ビアンカさんのようには……あなたの力には、なれない────」

 彼女の、苦し過ぎる独白を聞いているうちに、

 腹の底から、ずっと積もらせた昏い感情が。

 君を知ってから何度も葬り去ってきた、僕の醜さが。

 君の毒に誘われるように、ゆっくりと頭をもたげた。

「──……、フローラは」

 一人で行け、と言った。

 それは、ただ挨拶をしに行けという意味ではなくて。

「ビアンカが選ばれるべきだったって……言いたいのか?」

 

 

「──────っ、だ、って」

 

 

 今、この瞬間に、

 はじめて君が迸らせたその感情は、

 痛々しいほどの、────ただ深い、ふかい、哀しみ。

 

「盾、を」

 苦しい、苦しすぎるそれを。

 フローラはきっと知らず肩をきつく抱いたまま、小さく己を抱きすくめたまま、吐息とともに少しずつ絞り出す。

 彼女を蝕むそれを、その毒に抗いながら、少しずつ。

「天空の、盾を。……私と結婚したら、渡すなどと……父が、言わなかったなら」

 張り詰めて、今にも決壊しそうなそれを、必死に己の内に押し留めて。

 ──────そこまで、

 彼女を追い詰めてしまったのは、

 

 

 

「────あなたは、

 ビアンカさんを選べたのでは……ないのですか……」

 

 

 

 はらり、と。

 地面に花弁が舞い落ちたように、

 彼女の言葉が、唇から重く零れて、落ちた。

 

 よろめいて、ぶつかった壁に身体を預けたまま、フローラは動かない。

 ……僕も、動けなかった。

 時計の音しか聞こえない静寂の中、彼女の落とした哀しい問い掛けだけが、僕の感覚を縛り上げていく。

 違うよ。

 本当は僕も、そう思われることを怖れていた。

 他の誰よりも君に、そう思われてしまうことを怖れていた。

 ずっと、ずっと求めてきたから。天空の伝説を、それに纏わるものを。父の悲願の為だけにずっと、生きてきたから。

 僕を知る人は皆、盾が手に入って良かった、と言う。

 結婚式でも、参列席から漏れ聞こえていた。「上手くやりましたね」という声。

 もしかしたら、ヘンリーだってそう思ったかもしれない。盾の為に結婚を決めたなどと、軽蔑されたかもしれない。

 ──────違うのに。

 今、僕自身が望んでいることは、そうじゃないのに。

「……もう、いいのです。もう、あの盾はあなたの……もの」

 力なく、首を振る。

 幻のように儚く、フローラのかそけき声が、この真っ白な空間に響く。

「……お願い。……どうか、もう、

……あなたは────自由に…………」

 

 透明な雫が、

 彼女の頰を伝い、降り落ちる。

 

 もう、

 どうしようもなかった。

 

 衝動のまま手を伸ばし、涙に濡れる細い手首をほとんど強引に、乱暴に引き寄せた。

 驚き濡れた瞳を見開く君の頰を捉まえて、

 無理矢理に唇を重ねる。

「……っ────!」

 唐突に唇を塞がれもがく彼女を、その両手の自由を奪って。

 苦しげに吐息を漏らす君の隙間に舌を滑り込ませて。

 震える背中に、腰に、腕を回して捕まえて。

 小刻みに震える身体を何度も何度も抱きしめて、舌を絡めとる。濡れた音が密かに響いて。絡み合う吐息は熱く、どちらのものともわからない心音がこだまする。細く、今にも折れそうな指の隙間に己の指先を潜り込ませれば、君が応えるように握り返してくれる。

 やがてわずかな蜜を吐息と共に零し、名残惜しくも唇を解放して。

「────それ以上は、聞かない」

 まだ、荒く息をつくフローラを抱きすくめ、耳許に囁いた。

「いらないよ。そんな、自由なんて」

 睫毛に涙を滲ませたフローラが、困惑した表情で僕を見上げる。

「……君がいない自由なんか、いらない」

 びくり、と君が腕の中で身体を震わせる。その折れそうな身体を、頰を擦りつけて抱きしめて。

「盾が欲しかったんじゃ、ない。そうじゃないよ……」

 どうして、今まで一度も言わなかったんだろう。

 もう、そんな勇気がないなんてこともなかったのに。たった一言、この想いを口にしていたら、君はここまで苦しまなかったはずなのに。

「……好きなんだ」

 当たり前すぎて言わなかったなんて、言い訳にもならない。

「好きなんだ。君が好きだ。君しか、君以外に、僕が欲しいものなんてない……!」

 もっと強く、腕に力を込めれば、君の頼りないほど細い腕がそっと僕の背を滑って。

 小さな掌が、僕の服を遠慮がちに、掴む。

 震えるその肩を肯定するように抱きしめれば、君の碧い小さな頭が、この胸に甘やかに埋まる。

 ────微かな、嗚咽が、吐息を乱して。

「ごめん……ごめん。ずっと、言いそびれていて。こんなに泣かせて……こんなに、苦しませてしまった。本当に、ごめん」

 ふるふると、君は僕の腕の中でまた力なく頭を振る。

 震える手で、崩折れそうな肢体を懸命に僕に縋りつかせて。

「────っ、……すき……」

 か細い、今にも消えてしまいそうな声が、埋まった胸許から静かに届く。

「……、……好き……あ、なたが……っ、好き────」

 一言、発するたびに苦しげに息をつきながら、君が腕の中でしゃくりあげる。

「すき、なの……っ」

 あんなにも苦しかった。

 あんなにも辛く、思い悩んだのに。

「────うん。僕も、……好きだ……」

 このたった一言で、全ての痛みは霧散して溶けてなくなる。

 初めからずっと、その心だけが欲しくて。

 僕にしがみついてうずくまる、君の碧い髪に頰を埋めれば、甘やかな悦びが、痛みの代わりにこの胸を浚っていく。

 ────君を欲するたび、初めての感情に翻弄された。

 どんなに苦しくても、何度自分を嫌悪しても、

 この想いを手放そうとは思わなかった。

 滑らかな髪を掬って、綺麗な形の額を撫でて。涙に濡れた頰を口づけでなぞる。

 もう一度、呼吸ごと君の唇を塞いで、飲み込む。

 やわらかな唇を甘く噛めば、君が愛くるしい声を漏らして。

「……僕と一緒に、来てくれる?……」

 離れゆく唇の中に、密やかにそう囁けば、君が濡れた頰を耳まで赤らめて、微かに頷いてくれる。

 湧き上がる愛しさを全て込めて、僕はもう躊躇いなく、やっと捕まえた君を抱きしめた。

 ……あの日の誓いが、この胸に去来する。

 この世界で僕だけが、この手で君を幸せにすると誓った。

 誰にも渡さない。手放したりしない。

 僕を好きだと言ってくれた君を、

 ────死が、二人を分かつまで。

 

 

 

 その夜は、以前より枕を近づけて、並んで休んだ。

 たくさん泣かせてしまったから、軽く濡らした布をフローラの目許にあてがいながら、僕らは小さな灯りを頼りに寄り添いあって、これまでのことをぽつぽつと告白しあった。

 ──ろくに話もせず夫婦になってしまったから、これからはこんな風にたくさん、お話しましょうね。

 そう、密やかに囁いて、はにかむ君が可愛くて仕方なかった。

「……まだ、眠くない?」

 そう問いかけると、フローラはこくりと小さく頷いて。

「こんなに、近くにいると思うと……眠れそうになくて……」

 吐息だけでそう答えた彼女は、恥じらいを隠すように軽く目を逸らして俯いた。

 あまりに可憐なその横顔に、今にも何処かに吹き飛んでしまいそうな理性を必死に押しとどめていたら、ふと、数日前訊こうと思った些末事を思い出した。

「……そういえば、さ」

「はい……?」

「どうして、寝たふりをしていたのか……聞いてもいい?」

 フローラの吐息は、まるで生まれたての雛鳥の羽音のようだ、と思う。彼女が息を詰める気配が似ていると思う。

 かそけき音だけれど、僕はきっとどこにいても聞き分けられる自信がある。

「……ど、して、そう……?」

 驚きのあまり、声音を掠れさせて君が問い返す。その髪を一房掬い上げて、そっと口づけを落として。

「……なんとなく。でも……」

 髪に、唇を寄せただけなのに。ぴくんと身を捩るフローラはあまりに繊細で、清純で。

「手を……とったから。かな」

 奴隷生活が長かったせいなのか、戦闘の中で培われた感覚なのかはわからない。

 ただ、触れれば──見ただけではわからなくとも──それが深い眠りか、そうでないかはわかる。

 あの夜。フローラは眠っていなかったはずだ。僕が部屋に入ったことも、手のひらに口づけて行ったことも……おそらく気づいていたはずだ。ベッドに入ったのがいつかはわからないけれど、少なくとも僕の来訪は分かっていて、目覚めないふりをした。

 フローラはそんな僕の言葉を、噛みしめるように聞いていた。

 その瞳に少なくとも先程の慟哭は見られなくて、僕はひっそりと安堵する。

「……テュールさんの、仰る通りです」

 ぽつり、と独り言のようにフローラが呟く。

「あの晩──あの夜は……ビアンカさんとあなたを祝福しなければ、と……そればかり考えて、いました」

 誤解は解けたと思っても、彼女の静かな独白は、僕の胸をこの上なくきつく締めつける。

「朝になれば、あなたはきっとビアンカさんを選ぶから。私は笑ってお祝いしなくては、って……」

 どうして、そんな風に思ったの?

 視線だけで問いかければ、フローラは困ったように……口の端に自嘲めいた笑みを零した。暫し逡巡したあと、静寂に溶け込む声で密やかに、答える。

「お似合いだと、思ったのです。……私などよりずっと。その場所は──あなたの隣に居るべき方は、初めから、私ではなかったのだと……」

 その時を思い返しているのだろう。フローラの表情は、見たことがないほど翳りを帯びていて。

 遠く、遠くを見やるように。暗闇にその視線を沈め、フローラは訥々と話し続ける。

「あの時、アンディが──ひどい火傷を負って帰ってきました。……看病しながら、私、とても……怖くて。あなたが火山の、もっと奥へ向かったと、アンディが言っていたから。無事にお帰りになっても、またすぐに旅立たれて。お見送りもできなくて、私……」

 そこまで呟いて、君は長い睫毛を祈るように伏せる。美しい碧髪がさらりと寝衣をつたい落ちて。

「……ずっと、無事なら何もいらないって、祈っていました。お願いです、私の信心をお聞き届けください。私の全てを捧げても構いません、あの方をご無事にお返しください、って……」

 だから、代償だったのだと。

『テュール』が無傷で帰る、その手助けの為に、神が僕にビアンカを引き合わせたのだと。

 神が巡り会わせたのがビアンカだったからこそ、フローラは身を引かなくてはならなかった。僕と結ばれることこそが、フローラが捧げた代償だった。

 ──そう、フローラは判断した、ということ。

「……莫迦げた、思い込みに過ぎませんでした」

 眸を伏せて、自嘲めいた呟きをこぼすフローラを、ただ抱き寄せることしかできなかった。

 そんなものは結果論で、僕は実際ビアンカの助けを必要としていたわけではなかった。火山だって、僕と仲魔達には少し苦しかった程度。それでも──もしかしたら、それらもフローラの祈りが為したことかもしれない。もちろんそうではないかもしれない。誰にも、貴き神の本当のご意志を測る術などないのだから。

「ただ、……あの夜の私は愚かにもそう、思い込んでいて。あなたはきっと、ビアンカさんと行く、と……告げにいらしたのだと、思ってしまったから……」

「…………うん」

 僕が首肯して、それきり暫し沈黙が満ちる。

 すっかり夜も更けて、先程までざわついていた街もすっかり寝静まったようだ。

 静謐な暗闇に、さらさらと木々が揺れる音と、時折ホゥ、と梟が啼く声ばかりが微かに響く。

 ────フローラ。

 その悲しみは、君も僕を望んでくれていたが故のものだと、そう思ってもいいのだろうか?

 そういう話を、今日に至るまで僕達はしたことがなかった。タイミングも、きっかけもなに一つ持てなかった。

 誰々と結婚しろとか、諦めろとか。

 周りの誰もが言いたいことを言うばかりで、本当はこの気持ちは間違いなんじゃないかって、何度も何度も自問した。

 だって、恋なんて知らない。こんな気持ちは初めてなのに。

 この想いが本物かどうかなんて、どうやったら判別できる?

 いっそ子供じみた独占欲でしかないのかもしれないって、今でもずっと、不安なんだ。

 誰が決められるというのだろう。誰かが鑑定でもしてくれるのか。これが偽りなき愛だと。真実、運命なんだと。

「──諦められると、思ったんです。まだ出会って間もないから、あなたのことはまだよく知らないから。……なのに、駄目でした。つらくて、胸が張り裂けそうで……あなたの口からそれを告げられる瞬間がくるのが、怖かった。すべて運命に委ねようと思っていたのに、愛憎に狂っていく自分なんて認めたくなかった。だから……」

「うん。──……うん」

 淡々と、呟くその様は押し殺した感情の大きさを思わせる。

 愛憎に狂っていく自分。その感情には、僕も覚えがあった。

 何度も何度も、見ないよう蓋をして閉じ込め隠した、僕の黒い嫉妬。

 君の気持ちを知ることが怖くて、何度も何度も怖気づき、躊躇して、言葉を呑み込んだ。あの頃の自分。

 俯いたままのフローラの額を肩で受け止めて、背中をゆっくりと摩る。静かだけれど、緊張が伝わってくる、その背を。

「……でも、あなたに誤魔化しは通りませんね」

 そこまで囁いて、フローラは長い睫毛を落としてゆるりと息をつく。僕にその華奢な身体を預けたまま、

「……愚かな女と、思われましたか」

「いや。──何だろう。溺れそう」

 感じたことを正直に言葉にすると、さすがに少し怪訝な表情で、フローラが僕を窺い見る。

 そんな顔も、可愛い。……と言ったら怒られそうだけど、そんなやりとりもいいな、と思うと自然と口角が緩むから、僕も大概救いがない。

「そんなに、そうやって、君も僕を求めてくれていたんだって思ったら。──嬉しくないはずが、ないよ……」

 言葉の最後は、口づけに飲み込ませて。ゆっくり、深く一度だけ唇を食んで、フローラの綺麗な瞳を覗き込む。

「────好きだよ」

 睫毛が触れそうな至近距離。

 暗がりの中でも僕をほのかに照らす、翡翠の眸。

 この世界の誰よりも近くで、君を独り占めできる、悦び。

「初めて会った、あの時から……君に惹かれた。どうしようもなく、焦がれた。他の誰かのものになる君なんて、考えただけで耐えられなくて……」

 耳許に囁けば、少しくすぐったそうに首をすくめる、その仕草も愛らしいと思う。

「父のこと。天空の武具のこと。その為にこの街に来た、ってことですら忘れていたくらい──君に、溺れているんだ。僕は」

 わずかに潤んだ瞳も。熱をもった頰も、桜貝の唇も。

 鈴が鳴るような軽やかな澄んだ声。朝露に濡れて咲いたばかりの花の香り。その髪は、穏やかに晴れ渡る春の空のように、荒ぶる事を知らぬ碧。白く滑らかな肌を辿って指を絡ませれば、その小さな掌は存外にも荒れていて。

 彼女を構成する何もかもが、ただただ限りなく愛おしい。

「今だって、夢を見ているんじゃないかって思う。こんな幸せな夢、見たことがない……ずっと、昏い夢を見てた。眠るたびに父の最期が夢に顕れて。なのに……君を、知ってから……あの夢を見ていないんだ────」

 微かに目を瞠る、フローラにそっと微笑みかけて。

「もう、君がいなければ眠ることだって、できない」

 薄手の寝衣を纏ったフローラはその体温だけでほんのりと温かい。その壊れそうな身体を、縋るように抱きしめて。

「……愛してる。ずっと、僕の隣にいて……、フローラ」

 僕の切実な声に応えるように、フローラが僕の背に腕を這わせ、そっと、優しい抱擁を返してくれる。

「……誰よりも、お慕いしております。──そう、わたしも、溺れてしまっているの……」

 その囁きに胸が熱くなるのを感じながら、僕はまた、彼女の濡れた頰を掬い、やわらかな唇を幾度となく啄ばんだ。

 

 

 

 

 

 それから、どちらからともなく、

 僕達は互いの素肌を重ねて。

 思うままに求めあい、何度もひとつになったあと、

 僕とフローラは融け合うように眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こどもの、声がする。

 

 

 

 まだ幼いこどもの、呼び合うような声。

 恐らく、男の子と、女の子がひとりずつ。

 こどもの頃の僕とビアンカだろうか? と思ったが、やがて視えてきた髪がフローラと同じ碧色で、ああ、これは夢だ、と思う。

 ああ、そっか。うん、……いいな。

 真っ白な、暖かな光に満ちたその空間で遥か遠くを見渡せば、こどもたちと、仲魔達、その中心に愛しい君。相変わらず美しい、輝くような碧い髪をなびかせ、穏やかな微笑みをたたえた君が僕を振り返る。

 いつだって、君が一番先に気づいて、見つけてくれるんだ。

 僕は知っている。

 僕も、そうだから。

 

 

 

『────あなた』

 

 

 

 

 

 

 初めて、願った僕の未来。

 

 僕自身の為に、僕が初めて、欲した。

 

 君と二人、紡いでいく、

 未来を。

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