Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
生まれたばかりの心地良い、瑞々しい風が頰を撫でる。
朝の澄んだ気配に身じろぎし、うっすらと目を開ければ──鼻先にぶつかりそうなほど近くに貴方の顔を見つけて、どきりと心臓が跳ね上がった。
────私、あなたと……
昨夜の記憶が、一気に脳裏を駆け巡って。いっそ爆発してしまいそうなほど身体が火照るのを感じる。大好きな、誰よりも大切なその人は、恐らく昨夜の行為そのままの姿で穏やかにその瞼を閉じている。規則正しい寝息と落ち着いた鼓動が、触れた肌越しにほんのりと伝わる。
(……あたたかい……)
まだ、自分の心臓はうるさいくらいに高鳴っているけれど、その温もりに少しだけ、ほっとした。
(……、すき)
彼の、整った睫毛をぼんやりと眺めていたら、昨日何度も伝えた言葉が口をついて溢れそうになる。
────好き。
こんな気持ちが在ることすら、今まで全く知らなかった。
こんな想いを知る日など、私には来ないと思っていた。
少し、視線を移せば、彼の腕や胸元に、恐らく古い傷であろう痕が無数に見える。
どんな世界に、生きてきたのだろう。
少しだけ聞かせてもらった彼の生い立ちは余りにも凄惨で、自分が如何にぬるま湯に浸かってきたのか思い知らされた。
十年にも及ぶ長い時間、光のない世界を生きてきた人が。
『君がいなければ、眠ることだってできない』
私を見つけて、私を望んで……そんな風に言ってくれた。笑ってくれた。
嬉しくて、嬉しすぎて胸が痛むなんて、知らなかったの。
──絶対に、良い妻になろう。
誰よりもこの方に相応しい女でありたい。
昨夜は彼の優しさに甘えて、随分と醜態を晒してしまった。
愚かな、情けないばかりの私を、それでも彼は愛しいと言ってくれた。
「テュール……さん」
その、名を。大切に、噛みしめるようにそっと、呟いて。
「……フローラ」
聞こえないくらいの囁きだったと思うのに、眠っていたはずの貴方は、私の声を当たり前のように拾ってくれる。
「──おはよう」
少し、照れ臭そうに。貴方が微かに笑って、囁く。
「おはよう、ございます……あなた」
その優しい響きに胸がいっぱいになるのを感じながら、私も微笑む。
そんな私を、まるで玻璃の置物にでも触れるかのように、そっと抱きしめて。
「幸せすぎて……怖いな」
耳の奥に、甘い声が直接流し込まれるような感覚に、私の躰は昨夜の快楽を呼び覚まされるように──びくん、と背筋が震えてしまう。ぁ、と小さな声まで漏れて、あまりの恥ずかしさに身悶えてしまいたくて、私は慌ててシーツに顔を埋めた。
そんな私の反応を愉しむように、彼はくすりと笑みを零して。
「すごく、可愛い。フローラ」
「……も、もうっ……」
きっと私、今どこまでも真っ赤になっているわ。
身体の全てが心臓になったみたいに、ばくばく鳴り響いているもの。
「そんな顔をされたら、また触れたくなってしまう。──身体、辛くはない?」
少し、悪戯っぽい笑みを口の端に浮かべて、でも変わらぬ優しい面差しで、私を気遣う言葉をくれる。
「は、い……大丈夫、だと……思います」
おずおずと私が答えると、テュールさんはほっとしたように息をついた。
「本当に、ごめん。加減が全然できなくて……今日は無理しないで。辛かったら、休んでいていいから」
「いえ、そんな……平気です、私」
慌てて、被せるように答える。だって、今日は出立の日なのに。休んでなんていられないもの。
「そ、そうですわ、朝食の前に湯浴みを────」
「⁉︎ フローラ!」
立ち上がろうとして、あ、と思ったのもつかの間、テュールさんの腕が咄嗟に私を抱き止めてくれる。
脚に力がうまく入らず、身を起こした勢いで寝台から転がり落ちそうになったみたいで。
昨日に続く醜態に、そして自分が全裸だったことにも今更気づいて、またもや私は身体中を沸騰させてしまう。
「ご、ごめんなさ……、こんな」
「謝ることないのに。良かった、間に合って」
俯く私にシーツを被せて、あまりに優しく撫でてくれるから、ついつられて顔を上げてしまう。
──上げた先には、貴方の……慈愛に満ちた微笑みが、待っていて。
そっと、触れるだけの口づけを、落としてくれる。
「……あー……駄目だ。自制がきかない」
唇が離れていく瞬間、溜息混じりに自嘲気味な囁きが聞こえる。
でも。
私も、触れて欲しいって……思ってしまうの────
その囁きへの同意を込めて、彼をそっと見上げると。
ちょっと困ったように、少し耳を赤らめて、貴方は笑う。
「……湯浴み、一緒に……いい?」
きっと、そういう意味であることを、私は理解して。
恥ずかしさをこらえるために一度肩をきゅっとすくめてから、私を抱き寄せてくれる彼の唇に届くよう──黙って、身体を擦り寄せて口づけを返した。
(ほとんど、私からねだった……のに……)
本当に、情けないことに。すっかりのぼせてしまった私は、湯浴みの後しばらくソファから動けなかった。
せめて浴室の掃除くらい、自分でしないと恥ずかしいと思って何とか立ち上がろうとしたけれど、腰も膝もがくがくと嗤ってしまって歩くことすらままならない。そんな私に呆れるでもなく、テュールさんは何度も謝罪の言葉を口にして、私をソファに横たえるとすぐに館の奥へと消えていった。
──ああ……私、これほど何も出来ないなんて……
昨夜はようやくお互いの気持ちを打ち明けあって、色々なことを話して。私が勝手に感じていたテュールさんとの距離感も、テュールさんとビアンカさんとの関係のことも、一切の憂いが断たれるほどになった。だから──今度こそ、良い妻になろう。もっとしっかりしようって、誓ったのに。
わがままを言って同行を願い出たのも自分のくせに、いざ出立の日にこの体たらく。情けなさすぎてじわりと目尻が熱くなる。
テュールさんにお会いしてから、私……涙腺が緩すぎだわ。
自分は我慢強い方だと思っていた。少なくとも記憶にある限り、人前でこんなに泣いたことはない。我慢強いというより──今まで、それほどまでに感情が昂ることがなかっただけかもしれないけれど。
テュールさんは、不思議。
修道院に入って、シスターも皆穏やかな方々だったけれど、テュールさんの持つ雰囲気はこれまでお会いした他の誰とも違う。
どこまでも優しくて、どこまでも穏やかで──そう、母なる海のような広さ。神が降り立った瞬間の、波一つなく輝く海のことを凪と呼ぶのだと、昔乗った船で教えられたのを思い出す。
それに似た深い愛情をたたえながら、きっとその、ずっとずっと奥で、もっと凄まじい激情をも秘めているひと。
(昔……占い師の方が言っていた『光』というのは、やっぱりテュールさんのこと、なんだわ……)
ほとんど記憶に残っていない、そんな邂逅をふと思い出す。
私は、両親の本当の娘じゃない。
まだ生まれたばかりの赤ん坊の頃、不思議な盾と共に泣いていた私を、旅行中だったルドマン夫妻が見つけてくれたのだそうだ。
盾から離すと一層強く泣くから、とりあえず揺り籠がわりに盾を裏返してその中に寝かせていたのだと、母が良くおどけて話してくれた。
父にはその盾の文様に覚えがあり、拾った赤児の変わった髪の色も気になって父なりに色々調べたのだという。
結局、その盾がどうやら天空の盾と呼ばれる伝承の品に良く似ているということ以外、明確なことは分からなかったそうだけど、盾が本物ならば無暗に所在を明らかにするわけにはゆかない、そして共に居た私もまた捨て置いてはおけない──との判断で、私は旅先で生まれた子供として二人の娘になった。ただ、私のような碧髪はとても珍しいらしく、両親は私を好奇の目から守る為、旅を終えても病弱と称してサラボナの街中にはあまり出さないようにした。そういうわけで、幼い頃、私が言葉を交わせた同年代の相手といえば、ルドマン邸に時折出入りしていた鍛治師さんの息子のアンディだけだった。
ルドマン家の娘になって五、六年ほど経った頃、私は修道院に入ることが決まった。
表向きは花嫁修行と療養を兼ねて、内実も似たようなものではあったものの、どうやら本当の目的は──本当かどうかは分からないけれど、神託をいただいたのだと、父が一度だけ話してくれた。
『お前は聡い、佳い娘だ。まだ幼い頃から自分の立場を良く理解し、儂ら夫婦に仕えてくれた』
人払いをした書斎でそう切り出した父は、大きな掌で私の頭を撫でた。
『お前はな──フローラ。その身に大きな運命を背負っているという。それがどんなものかは、儂にもわからん。ただ、大いなる護りと共にあれと、お告げをいただいた。さすれば運命はお前を光へと導くであろうと。先日占星術の大師を招いただろう、あの方が仰られた。もしもそれが本当なら……儂はお前に、その運命とやらを生き抜く力を備えさせてやらねばならん』
盾が私を護り、私が盾を護るのだ。父はそう解釈し、ゆくゆくは盾の守役である私と共にその役目を果たしてくれる相手が現れることを予見して、修道院に入れることを決めた。盾のことは内密に、決して外に漏れぬよう計らってもらい、私は盾と共に凡そ八年間、修道院で過ごすことになった。修道女として、また良家の子女として学びながらも、修道院の奥に用意された個室で一日に何冊もの本を読み、魔術について、魔物について、この世界とかつての伝説について──そういった知識を得ていった。いつか必ず必要になる、そう自分を叱咤して励み続けた。
それまでの私の人生に、私の意思など不要だった。私という存在は盾の為にあり、いつか来たる運命の日まで盾を護ることだけが私の存在意義だった。
それで良いのだと、私自身は納得して生きてきたつもりだった。──けれど、いざサラボナに戻った時、父が当の私を無視して結婚相手を決めようとしていること、名乗りを上げてくださった皆様にとんでもない条件を突きつけようとしていることを知った時は、さすがに憤りを禁じ得なかった。
──私は確かに盾の守役かもしれないけれど、盾の為なら誰を犠牲にしてもいいなんて考えが許されるはずがないのに。
父の意図は理解できなくもなかったけれど、それが余計に私を苛立たせた。父に対してそんな風に思うのも、初めてのことだった。
──私が本当に、天空の盾の守役であるならば、
そんなことしなくても、『光』へと導かれるのではないのですか。
盾と共にあれば、いつかは。
そう、訴えてみたけれど、父は眉根を寄せるばかりで。
「お前は些か甘さが過ぎる。少し頭を冷やしてきなさい」
そう言ったきり、私を屋敷から追い出してしまった。
あまりに無力で、やるせなくて。
だからって、今まさに結婚相手の噂に沸き立つ街を迂闊にふらつくこともできなくて。
せめて、庭にいた仔犬のリリアンと戯れて気を紛らわせようと思ったら、
唐突に、リリアンが駆け出した。
慌てて追いかけた、その先に────
『光』を、
見つけた。
『光』だと、思ったの。
とても穏やかな、懐かしい空気を纏った方。
懐かしいのに、視たことがないほどあたたかい光が、彼から溢れ出ているように見えた。
目映い光ではない、けれど、きっと世界のどんな暗闇も塗り替えてしまいそうな、すべてを癒してしまいそうな。
不思議な強さを感じる、優しくてあたたかな、光が。
その光に当てられて、私は言葉を失ってしまった。
リリアンはそんな私に目もくれず、彼の足元に寄り添い鼻を鳴らす。
リリアンを抱き上げた彼の、深い、黄昏のような濃紺の瞳が私を映した瞬間、────
ああ。
ひどく嬉しくて、泣いてしまいたい。
何故かしら。たった今、出逢ったばかりの方なのに────
「フローラ」
一番呼んで欲しい声に呼ばれた気がして、私はふっと薄く目を開ける。
──いつの間にか、眠ってしまっていたのかしら。
「……ごめん。少し、うなされていたように見えたから」
「私……?」
言われて、ひた、と頰に触れれば、確かに一筋濡れているのを感じた。
──泣きたい気持ちの夢を見たから、泣いてしまっていたのかしら。
「大丈夫……?」
睫毛に滲んだ涙を指で拭って、テュールさんがそっと覗き込んでくれる。
「……あなたの、夢を見ていました」
「僕の────?」
「ええ。……出逢った日の、ことを」
そう、呟いて、貴方の頰に手を伸ばす。
手を伸ばせば、届く距離。
ずっと逢いたかった、わたしの、光。
「一目、見た瞬間────泣きたいほど嬉しかったことを、……思い出して、いました」
私の告白に、貴方がわずかに瞠目する。
その精悍な頰をなぞり、いつも貴方がしてくれるように、精一杯優しく、微笑んでみせて。
いつか、ちゃんとお話ししますね。
今日はこれから忙しいのだから。旅装に着替えて、遅い朝食を用意しなくては。両親に挨拶して、街の人にもお別れを告げて、そうして盾と、少しの荷物を持ってあの馬車に乗り込むのです。
運命へと続く、この永く遥かな旅路への第一歩を、
貴方と共に、……共に踏み出す日なのだから。