Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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あなたは40分以内に3RTされたら、攻めが記憶の一部を喪失している設定で両片想いでじれったい主フロの、漫画または小説を書きます。

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 という、診断メーカーで叩き出したお題です。
 if的な短編として書いたものなので、ご都合主義感は拭えませんが、幕間としてお読みいただいても差し支えないかと思い、第一幕の番外に組み込みました。
 分割しようか悩みましたが、試しにこのまま投稿します。凡そ2.5万字です…目が滑ってごめんなさい…

 祝・主フロ(0526の語呂合わせ)の日!
 本日(の予定が間に合わない気がしてきた…近日中に必ず!)、pixivにもEND後想定の新作短編を投稿します。ポイピクにはそちらの挿絵を投稿済です。宜しければ是非、覗いてやってください。



第一幕・幕間
七十二時間後の永遠【記憶喪失if】


「ほんっと、ごめんねぇ。勢い余っちゃって……」

 憎まれ口を叩かれて、衝動的に軽くつねってやりたくなっただけなのだが。どうやら相手は身を躱した時、背後にあった食器棚を避けようとしてくれたらしい。有り難い配慮だが、それで頭を打って昏倒していれば世話がない。

 思わず重いため息が漏れてしまって、目の前で屈み込んだ可憐な少女が綺麗な瞳を揺らめかせ振り返った。

「いえ、そんな、ビアンカさんの所為では……ちょっと当たりどころが悪かっただけだと思いますから、どうか気になさらないでくださいまし」

 どうしたどうした? と肩掛けを羽織って出てきた父親が眼を円くして、ビアンカは苦い笑みを返す。すっかり意識を手放した青年の側に侍る碧髪の少女は、彼が惚れ抜いてつい先日めでたく婚礼を上げたばかりの彼の新妻だ。翡翠の瞳をいっぱいに見開き訴えかける様が痛々しくて、どうにかして安心させたくて。気づけばビアンカは目の前の少女に向かって優しく微笑みかけていた。

「ありがと、フローラさん。……ごめんなさいね。せっかくの新婚さんに水刺すような真似しちゃって」

 自分でも驚くくらい慈しみ深い声が出た。少女はそれでも尚、哀しげにほんのり微笑んで首を振る。

 青年とビアンカは幼馴染である。長く疎遠にしていたが三週間ほど前に偶然再会し、今日はその後結ばれた可愛いお嫁さんを連れて遊びに来てくれた。すぐに遠方の街へ向かうと言う若夫婦をもてなして、村の自慢の温泉に新妻を誘った。のんびり秘湯とお喋りを堪能し自宅に戻ってきたところで、青年が放った一言がほんのちょっとビアンカの癪に触った。いつものことである。なのでいつものようにうっかり手が出た。頰をつねってやろうとした手はあっさり躱されたが、たまたまその背後に食器棚があった。勢い余った自分を咄嗟に抱きとめ、さらに棚にもぶつからないよう体勢を変えた青年はビアンカの体重も相まってうっかり脚をもつれさせ、椅子の背もたれに後頭部を強打してしまったのだ。

 すぐに屈み込み手を貸した妻に彼は大丈夫、と呂律の回らぬ様子で答えたが、そのまま意識が飛んでしまった。細い腕で懸命に抱き起こし、妻が回復魔法を施したが意識は戻らない。とりあえずベッドに運ぼうとしたが、体格の良い成人男性を運ぶのは女性二人でも荷が重い。ビアンカの父も病のため長く伏せっていて、体力が著しく落ちている。他の村人を呼んでも良かったが、街の入り口に停めた馬車の中には青年の仲間である魔物たちが控えているという。すぐに彼らを呼んできます、と華奢な令嬢は気丈にもしゃなりと立ち上がった。

「私が呼んでくるわよ? フローラさんはこいつについていてあげて」

「いえ、私が。馬車の場所もすぐにわかりますから……ビアンカさん、テュールさんをよろしくお願いします」

 見守る家主とビアンカに軽やかな会釈を返し、フローラと呼ばれた少女が急ぎ足で家を出ていく。父親もこほこほと軽く咽せながら、倒れた青年を心配そうに覗き込んでいた。

 まったくもう、人騒がせなんだから。責任転嫁でしかないがそんなことを思いつつ、目の前で人事不省に陥った幼馴染みの頰をむにっと摘んだ。

 今更二人きりにされたって、気まずいだけなのよ。

「なんだか、結婚式の日みたい、ね……」

 男のくせに整った長い睫毛を眺めていたら、ぽろりとそんな言葉が唇から零れ出た。父親が怪訝な、どこか寂しげな眼差しでこちらを見たが、気づかないふりで誤魔化す。

 自分自身の結婚式だっていうのに転移魔法の使い過ぎで倒れたこの男を、彼女は世界一清楚な、天使みたいな花嫁姿で、ひたすら献身的に寄り添って看護していた。

 もしテュールがあの時、私を選んでくれていたら────ああやって一番側にいたのは私、だったのよね。

 そんな戯言が一瞬脳裏をよぎる。莫迦なこと考えるもんじゃないわ。頭を振って思考を散らし、腹立ち紛れに幼馴染みの額をぺしりと叩いた。

「こら、ビアンカ。倒れている人間に手荒なことをするんじゃない」

 珍しい父親の小言にたしなめられ、はぁい、と肩をすくめる。と、微動だにしなかったテュールがようやく微かに身動ぎした。

「────う……」

 絞り出すように呻いた彼は、瞼をゆっくり半分ほど持ち上げると尚も茫然としたままビアンカと、白髪まじりの父親の顔を眼球だけ動かして見比べる。

「気がついた? ごめんね、頭ぶつけさせちゃって」

 まだ頭がはっきりしないらしい。なるべく優しく謝りながら額をそっと撫でた。隣で覗き込んでいた父親も安堵したらしく、緩く息を吐く。

「良かった良かった。坊、少しビアンカのベッドで休んで行きなさい。ビアンカや、テュール坊に優しくしてやるんだよ」

 それだけ言って、父親はのそりと立ち上がり軽く咳き込みながらも奥の部屋へと戻って行った。無理させちゃったかしら。小さく丸まった背中を見送って幼馴染みの方を向き直った瞬間、ビアンカはどきりと全身の血が逆立つのを感じた。

 ────びっくりした。

 いつの間にか上体を起こしていた彼の、精悍な顔が、優しくて深い黒曜石の瞳が、食い入るようにまっすぐ、自分だけを見ていたから。

「…………、ビアン、カ?」

 一体どうしたのか、その呼びかけはあまりにも真摯で。心臓を彼の手で直接掴まれているような、恍惚にも似た心地さえする。

 声も出せずに瞳孔を見開き彼を見つめ返すと、幼馴染みはますます身を乗り出した。ビアンカの両の二の腕を強く掴み、揺さぶりながら勢いよく畳みかける。

「本当に……? 本当に、ビアンカ!?」

「は⁉︎ ちょっと何よ、テュール! 寝惚けてるの!?」

 思いの外顔が近くて、赤くなってしまったかもしれない。

 けじめをつけてすっぱり諦めたつもりでも、一度自覚した想いはそう簡単には消えてくれない。どきどきと高鳴る鼓動が耳障りで咄嗟に突き飛ばしそうになったけれど、また頭を打ったりしたら。済んでのところで耐えて、せめてもときつく睨み返した。

 新婚のくせに、自分に気なんかないくせに。何を考えているんだろう、この男は。

 けれど、テュールは────目覚めたばかりの幼馴染みはどこか様子がおかしかった。周りをきょろきょろと見廻したと思えば小さく呻きながら後頭部をさする。まだ痛いのかしら、とビアンカが申し訳なく思ったところで、ひどく心許ない、驚愕に満ちた呟きが微かに、聞こえた。

「っ……だって……え、ここ、どこだ……? 僕は、サラボナに向かって」

 サラボナ?

 ついさっきはポートセルミに向かうって言っていたのに。愕然として見つめ返したビアンカを尻目に、テュールは一人額を抑えて考え込む。何か思い出したらしく唐突に息を呑むと、ほとんど衝動的に腰を浮かせた。

「そうだ、天空の盾……!」

 今にも飛び出さん勢いで立ち上がったが、目を見開いたまま黙って見上げるビアンカにようやく気づいたらしい。申し訳なさそうに眉尻を下げ、彼はゆっくり跪くとビアンカの目の高さに合わせて屈み、その顔を覗き込んだ。

「あ、ごめん。……あのさ、ここ、どこ? 馬車……そうだ、馬車を知らないか? 仲間の……えっと、モンスターたちがそこにいるはずなんだ、けど」

 怖くないよ、いい魔物ばかりだから。一生懸命言い募るテュールにビアンカにはぎこちなく頷くことしかできない。知ってるわよ、プックルもいるんでしょ。言い返したくても、凍りついたように固まった唇は全く動いてくれなかった。

 どういうこと?

 覚えて、ないの? ……嘘でしょう!?

「……助けて、くれたの? なんか、迷惑かけちゃったみたいでごめん。よく僕だってわかったね」

 気恥ずかしげに微笑む幼馴染みが、同じ人なのにさっきとは別人に見える。

 憎まれ口、叩いてたじゃない。どうしちゃったのよ。

 何も答えないビアンカに、テュールは少し怪訝な目を向けた。けれど、再会を驚いていると思ったのだろう。ふわりと目許をやわらげると、優しい手つきで一度、ビアンカの頬をそっとなぞった。

 まるで、愛しく想われていると錯覚してしまいそうな。

「ああ……でも、良かった。ビアンカ、元気だったんだ。アルカパの宿屋にいなくて、残念だけどそのうち会えるかなって……」

 何も言えずその場に座り込むばかりのビアンカに、目の前の男は事もあろうか、甘やかな──それはビアンカがそう感じただけかもしれないけれど──ひどく甘やかで嬉しそうな囁きを、耳許にそっと零す。

「びっくりした。すごく、綺麗になってて」

 ああ、もしかしてこれ、やっぱり夢かな。なんて小さく笑いながら独りごちるテュールを茫然と眺めて、ビアンカはもう本当に、何一つ言葉に出来なかった。

 ちょっとよろけて、頭をぶつけただけ。すぐに意識だって戻った。何も変わらない、このまま何も変わらず、彼らを見送って今日という楽しい一日が終わるはずだった。

 なんでよ。

 先に出逢いたかったって、確かに願ったわ。でも、こんなの。

 夢であってくれれば何倍もいいと思う。神様の悪戯? それともこれは、傲慢だった私への罰なの?

 その時だった。コンコンと軽やかに扉が叩かれ、「ビアンカさん。フローラです、入りますね」と遠慮がちな声が扉の向こうから聞こえた。

 ちょっと待って。今、会わせちゃったら────

 制止する間も無く扉は開けられ、目の醒めるような青が視界一杯に広がる。今日は暑いくらいの快晴だったが、この青はそれだけの所以じゃない。

「テュールさん! 気がつかれたのですね」

 鈴を転がしたみたいな透き通った声が空気を震わせて、碧い髪が風に流され翻る。

 見るからにほっとした愛らしい少女が青年を呼んで、その瞬間彼の真っ黒な瞳が大きく、揺れた。

 澄んだ声に誘われるまま顔を上げる。碧髪の少女の、その瞳の翡翠色がテュールを映した。もう、そのまま、視線はまっすぐ彼女に縫い留められて。

 ……やっぱり、これは罰なんだろう。だって。

 たった一目で恋に陥ちるこの男を、今になって、こんな風に目の当たりにしなければならないのだから。

 

 

「────────君、は……?」

 

 

◆◆◆

 

 

 はじめの一声は、ただ安堵が漏れ出ただけのものだった。

『気がつかれたのですね』

 その瞬間まで何の疑いも持たなかった。だが、茫然と自分を見つめる瞳が昨夜……一昨日と交わしあったものと全く違うことに、フローラもすぐ気がついた。あんなにも優しく、慕わしげに見つめてくれた眼差しが、今はまるで自分を初めて映したと言わんばかりに驚愕を宿し、ただただ大きく見開かれていたから。

 どうなさったのかしら。温泉に入ったあと、どこかおかしなところが……もしかして、さっきビアンカさんに指摘された『痕』が、見えてしまっているのでは。

 思い至ると無性に恥ずかしくなり、思わずぺたりと首筋を隠したところで、傍らから飄々とした声が飛んだ。

「如何なされた、あるじ殿。魔物にでも抓まれたような顔で」

「ピエール。ホイミン」

 ずっとフローラに縫い留められていた黒曜石の視線が緩やかに解かれる。あからさまにほっとした様子で立ち上がりながら、青年は親しげに仲魔たちを呼んだ。

「良かった。実は僕にも、何が何だかよくわからなくて」

 はて、と小首を傾げ合う仲魔たちの側に歩み寄ると、テュールはきょろきょろと辺りを見回し、次いでビアンカを振り返って、言った。

「気づいたらここで、介抱してもらってたんだ。みんなは無事? あ、この人、僕の古い知り合いでビアンカって言うんだけど」

 ………………妙な沈黙が女性陣と魔物たちの間に流れる。

 ん? とテュールもまた首を傾げたが、何とも生温い相槌と共にピエールが続きを促した。うん、と怪訝な顔をしつつ、テュールは更に皆が頭を抱える言葉を発する。

「すごい偶然だよね。まさかこんな風に再会するとは思わなかった。……それで、ここはどこだろう。サラボナからそんなに遠くはないと思うんだけど」

「ちょ……っっっと、待って。テュール」

 喋るテュールの肩を半ば強引に掴み、え? と動揺するその人をそのままずるずるとキッチンまで押し遣った。そこに居て、動かないでよ! と子供に言うが如く強めに言いつけて、ビアンカは急ぎフローラたちの側へ駆け戻る。

「……頭を打ったと聞き申したが。これまた随分と阿呆になられたようで」

「もう! 何言ってるの。さっきからこんな調子でおかしいんだってば!」

 主人が主人なら仲魔も仲魔だ。どこかのんびり宣うスライムナイトに対し、ひそひそとではあるものの思わず声を荒げてしまう。そこへ少し硬い澄んだ声が、りりん、と小さな鈴を転がすようにか細く響いた。

「覚えて、いらっしゃらない……の、ですか?」

 声の主は物腰柔らかな領主令嬢────フローラ・ルドマンだった。否、今はフローラ・グランと名乗っているかもしれない。つい先日、あの阿呆と婚礼を挙げたばかりの清楚な少女は今、自分たちを襲った予期せぬ出来事に震えながらも気丈に相対している。

 自分もこの状況に頭がついていきかねているし、正直叫び出したいくらいの気持ちだったけれど、彼らの姉としての矜持がビアンカを支えた。なるべく動揺を見せないよういつもの顔を装って、ビアンカは両手をひらりと振ってみせる。

「そうみたい。こういうのって、いきなり本人に言ってもいいものかしら。あんた記憶が飛んでるのよ、って」

 ビアンカの言葉を受けて、フローラの翡翠の瞳が一瞬悲しみに揺れた。だがやはり、彼女は気丈だった。ぐっと唇を噛むと長く碧い睫毛を静かに閉じ、何かを思案し始める。

「健忘……記憶の障害は戻る確証がないものだと聞きます。すぐ戻ることもあれば、数十年、或いは一生そのままということも。テュールさんの場合は頭を打ったことが原因なのでしょうから、とにかく後頭部の挫傷の治癒が健忘解消の糸口になればいいのですが」

 さすが、修道院帰りの令嬢は博識らしい。私のベホイミではお変わりありませんでしたが、と落胆するフローラにホイミンがそっと寄り添い、つぎはホイミンがやってみる〜、と懸命に声をかけていた。微笑んで頷く少女を見ていると痛々しくて、堪らない心地になる。

 もう、こんな健気な奥さんにいらない心労かけて。何やってるのよ、あんたは!

「ビアンカ。ビアンカ、あの」

 またもや自分のことは棚上げで、内心悪態をついたビアンカの肩をちょんちょんつつく者がいる。動くなと言ったのに、この阿呆は五分と保たなかったらしい。

 しかめっ面で振り返ると、何やら浮ついた様子のテュールが背後にくっついて覗き込んでいた。「待ってても来ないから。みんな、玄関に集まってないで中に入って話せばいいのに」と人の気も知らずけろりと言ってのける。

「……ところでさ、あのひと……ビアンカの友達? あのひとも、僕を助けてくれたのかな」

 さてはこちらが本命か。さりげなくフローラを目で示し、テュールがビアンカの耳許にこそこそと囁いた。平静を装っているつもりだろうが、明らかにそわそわ落ち着かない。耳朶、思いっきり赤いし。そんな反応を見せつけておいて、いったいビアンカにどうしろというのか。

「仲魔たちを見ても動じないなんて、すごいひとだね。……さすがに怖がられることが多いんだけど。特に、女の人には」

 あんなにお淑やかに見えるのにな、などと感じ入った様子で囁くテュールをまじまじと見つめながら、ビアンカは肩に色濃い疲労感がずしりと溜まっていくのを感じていた。

「……いや、もう、ちょっと黙ってて……」

 忘れてる。やっぱり間違いなく、忘れてる。

 これは何か。仲を取り持てとでも言いたげなテュールの様子にふつふつと苛立ちが募る。紹介しろというならしてやってもいいが、あんたの奥さんでしょ、と言ってやったら今この男は再び卒倒するのではなかろうか。

「あるじ殿、とりあえず一度状況を整理してみては如何か。我々がどこへ、どのような目的で向かっていたのか、こちらの婦女子方にはおわかりになるまいよ」

「ああ。そっか、そうだよね」

 ピエールがまたもや絶妙なタイミングで助け舟を出して、ビアンカもフローラもほっと小さく息を吐く。当のテュールはあっさり頷くと女性たちへと向き直り、自分を救助してくれたことに対するあさってな謝辞を述べた後、彼自身が把握している現状について訥々と語り始めた。

 曰く、自分たちはサラボナという街に向かって旅をしていた。道中の魔物にさほど苦戦した覚えはない。サラボナを目指しているのは、ラインハットという国で勧められたから。訳あって、その街にあるという『あるもの』を手に入れたいと思っている。もう数日でサラボナに着けると思った。確か十日ほど前ルラフェンという街を発って、昨夜は街道沿いの宿屋に一泊したと思う。

 生温い沈黙と共に、ピエールとホイミンが顔を見合わせた。

「なるほど。凡そひと月分というわけか」

「ひと月? 何が?」

 気心知れた相棒の呟きをテュールは聞き逃さなかったが、鉄仮面の小柄な騎士は苦く笑って首を振った。その隣からホイミスライムがおずおずと進み出て、黄色い触手をテュールの後頭部へと伸ばす。

 治癒術を試みるも、残念ながら変化は特になかったらしい。

「も、もどるのかな〜? これ……ホイミンにもわかんない〜〜」

 え、ここ怪我してるの? と驚いたテュールが首から上をさすったが、外傷はない。治りかけのたんこぶがターバンの下にしぶとく鎮座しているぐらいだ。今の治癒で記憶が戻れば、と全員が期待したが、どうやらその兆候もない。

 面倒なのは、彼がちょうどサラボナに着く直前以降の記憶を失っているらしいことだ。この一ヶ月のうちに彼の身に起きた出来事はあまりに目まぐるしく、最も側にいた仲魔たちでさえ彼の状況を正しく説明できる者はいない。

 テュール除く四者の間に再び、何とも言えない沈黙が漂った。

「……とりあえず、『例のもの』については心配要らぬ」

 誰も、何から切り出していいのか判じられず顔色を窺いあっていたが。沈黙に耐えかねたテュールがまた余計なことを言いかけたところで、ピエールが小さく呟いた。例のもの、と濁したが、それが何であるかはテュール以外の全員も当然承知している。

「ピエール、でも……」

「それの持ち主は今この場にいらっしゃるから、心配は要らぬと申しておる」

 もう一歩踏み込んだ発言にフローラが瞠目し、テュールも迷わずフローラを凝視した。この中で今、彼が素性を知らないのはフローラだけなのだから当然だが。

「────それじゃ、もしかして貴女が……富豪、の?」

 遠慮がちに尋ねたテュールに、フローラもまた睫毛を伏せて控えめに頷く。可憐な仕草にとくりと心臓が高鳴ったが、同時に処理しきれない情報量が頭の中を駆け巡った。

 噂の富豪令嬢がここに居る。と、言うことは。

「え、それじゃあここ……もしかしてサラボナ、なのか!? どれだけ倒れてたんだろう、本当にごめん。みんながここまで運んでくれたんだよね?」

 何だろう、変な病だったら嫌だな。いまいち記憶に自信がないんだけど、と再び眉間を抑えたテュールを四者四様にまじまじと見つめた。

 彼なりに必死に記憶を繋ぎ合わせているのだろうが、さっきからテュールが口を開くたびに何かが混乱する。誰も彼もこの状態の彼を扱いかねている。うんざり顔のビアンカがちらりとフローラを見れば、彼女は悲しみとも切なさともつかない、何とも言えない表情で新婚の夫を見つめていた。

 どうするつもりなんだろう。いっそ言ってしまえばいいのに。自分たちは結婚したばかりなんだって。

「あれ? でも……」

 はたとテュールが思考を止めてフローラを見た。再び正面から見つめられてフローラはびくりと身を固くする。何か思い出してくれたのだろうか、と皆ささやかに期待したけれど、彼が口にした言葉は場の空気を更に凍りつかせただけだった。

「ご結婚……決まられたばかりですよね? 申し訳ない、大事な時にこんな、行きずりの旅人の世話をさせてしまって」

 ────言うに事欠いてなんてことを、あんたは!

 喉元まで迫り上がった罵倒を辛うじて飲み込めたのは、ビアンカより早くホイミスライムが声をあげたからだ。

「ごしゅじんさま! ちがうよ、ふろ〜らちゃんは」

「え、何? 僕がどれくらい眠ってたのかわからないけど……もうお相手は決まったんだよね? ほら、指輪だってなさってるし」

 声はひそめたつもりだったが、しっかり聞こえてしまったらしい。さっと青褪めた富豪令嬢がほとんど反射的に、指輪の左手を背後へと隠した。

 指輪のことを指摘したのはあまりに不躾だっただろうか。事情は噂で伝え聞いていたから、そういうことかなと思っただけなのだが。

 ────ただ、どうしてだろう。

 自身で発した言葉だと言うのに、それを口にした瞬間、心の臓を抉り取られるような……ひどく嫌な、違和感が。

 身体の芯を、駆け抜けたような気が、した。

 今までだって決して楽しい半生ではなかった。しかし、こんな奇妙な……言いようのない不快感に襲われたことは未だかつてなかった。

 ……なんだろう。

「だって、結婚相手に家宝の盾を譲るって話だったよね。それは無理だから、とにかく持ち主に相談してみようって話してたんじゃないか。僕が役立たずの間に、ホイミンたちが代わりに交渉してくれたのかなって」

 何もおかしなことは言っていない。旅の途中、仲魔たちに話し聞かせていた内容を繰り返しているだけだ。だというのに、自分を見つめるみんなの目が次第に憐みと戸惑い、ついでに軽蔑めいたものまで満ちてきて、ひどく居た堪れなくなっていく。しかも何故か、碧髪の令嬢を直視できない。何となく目を向けることが怖くて、テュールはそっと彼女から顔を背けた。

 仲魔たちがなんらかの理由で使い物にならなくなった自分をここまで運び、盾を貸してもらえるよう話を通してくれた。それなら彼女が仲魔たちを恐れないのも納得できる。見た目よりずっと豪胆な方だなとは思うけど。

 女性二人から背を向けて、あくまで仲魔たちに向かって声を殺して告げたつもりだったが、珍しく憤慨した様子のホイミンがさっきより更に大きな声をあげて跳ね上がった。

「うも〜〜〜っっ! ごしゅじんさま、あのゆびわはねぇっ!」

「ホイミンちゃん!!」

 すかさず遮ったのはあの、清純な碧髪の乙女だった。切実な、懇願の篭った呼びかけ一つでホイミンの口を噤ませて。

 どこか悲しげに振り返ったホイミンに優しく目配せを返し、少女は緩やかに首を一度振ってみせる。そうして、綺麗な翡翠の双眸をゆっくりとこちらへ移した。

「……いいえ。まだ、お目覚めになったばかりですから。もう少しゆっくり、お身体を休めた方がよろしいですわ」

「あ。は、はい。すみません……」

 母性すら感じられる透明な眼差しに見つめられて、テュールは思わずどぎまぎしてしまう。変に緊張して、呂律もうまく回らない。

 ……また、あの違和感がちり、と胸をかすめた。

「あの、フローラ……さん。その、……盾の、ことは」

 それでも何とか、真っ先に問うべき用件を絞り出すと、花のような清楚な令嬢はまたもや優しく微笑んでくれた。

「大丈夫です。何も……、心配は要りませんから」

 そう言って向けられた表情があまりにも慈愛に満ちていて、けれどどこか胸を軋ませる切なさを覚えて、テュールは相槌も忘れ再び目の前の令嬢に見入ってしまう。

 ……フローラ、さん。

 初めて呼んだ名前なのに、たった一度口にしただけで、不思議と甘く芳しい、けれど苦しい心地で胸がいっぱいになる。

 まだあどけなさが残るその少女はとても優しげで、儚くて清らかで。まるで天空の女神のよう、今にも空に溶けて消えてしまいそうだ。本当に生身の人なのだろうか。見慣れない碧い髪も、彼女の白い滑らかな肌にとてもよく映えて。先ほどから極々わずかに漂う花の香りも、きっと彼女のものなのだろう。……どこかで嗅いだことがあっただろうか。甘くて、何故か恋しい匂いがする。

 旅の途中のどこかで聞いた、サラボナの白薔薇という異名をふと思い出した。実際目にした彼女は白薔薇よりももっと可憐で繊細で、自分の貧相な語彙ではとても形容しきれない。

 こんな、聖女のような少女の花婿に選ばれた幸せな男が、この世にいるのか。

 羨む理由もないのに、妙に肚の中が落ち着かなかった。暗くて苦い、知らない感情が身体の奥底で不気味にざわつく。

 どうやら、盾を探している事情は正しく汲んでくれているらしい。確かに安堵しているのに、心臓をぎゅっと握り潰されるような奇妙な痛みはどうしても消えてくれなかった。

 さっきから、なんでこんな気持ちになるんだろう。

 少し席を外しますね、と令嬢が告げて、テュールと彼女をおろおろ見比べたホイミンが華奢な背を追って出て行った。

 扉に吸い込まれた二つの影を目で追いながら、テュールは胸に芽生えたばかりの、まだ名前も知らないその感情を茫然と持て余していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 足早に外へまろび出て、ようやく深く息を吐く。

 室内の雰囲気の所為だろう、ひどく息苦しかったことに気がついた。温泉村であるここの空気は変わった匂いがして、肺の空気を入れ替えれば少しだけ気分がすっきりした。

「ふ、ふろ〜らちゃん……」

 すぐに追ってきたホイミスライムがおずおずと声をかけてくれる。明らかに自分を気にかけてくれたホイミンの心遣いが嬉しくて、でも同時に惨めな気持ちを打ち消せない。せめてもと微笑みを繕い、フローラはホイミンを振り返った。

「……ごめんなさい。私のことは、心配要りませんから」

 あんなふうに出てきたら、きっと皆さん気にしてしまう。

 耐えれば良かった。けれどフローラにはあの時、既に自分を御しきれる自信がなかったのだ。

 泣くのだけは嫌だった。何も覚えていない彼の前では、特に。

「ホイミンちゃんもどうか、テュールさんについていてあげてくださいね。きっと今、とてもお心細くていらっしゃるから」

 せめてもの本心からの願いを託せば、ホイミンはひどく悲しそうに目尻を下げる。

 ホイミンとフローラはサラボナで出会ってからの仲良しだ。フローラの幼馴染のアンディが大火傷をした際、ずっと一緒に看病してくれた。テュール一行が船で水辺探索の旅に出た際もホイミンはアンディの部屋に残ったから、ホイミンだけが他の仲魔たちより長くフローラと過ごしている。

 無欲な主人に初めて『彼女が欲しい』と言わしめた女性。

 そしてフローラもまた、彼の身を案じてずっと眠れずにいたことをホイミンは知っている。人間の世界のことはよくわからないが、なんやかんやあってフローラはいつでも主人の一番隣に居るようになった。ホイミンたち魔物にも分け隔てなく優しいし、美味しいご飯も作ってくれて、おまけにいつもお花のいい匂いがする。大好きな主人の隣を取られる寂しさはあっても、その相手がこれまた大好きになったフローラだったのは、ホイミンにとってたまらなく嬉しいことだった。

「もう少し、様子を見て……どうしても記憶が戻られないようなら、皆さんはポートセルミに向かってください」

 だから、そのフローラがどこか寂しそうに微笑みながらそんなことを言った時……ホイミンは、青い身体のどこかがぎゅうっと悲しく、締めつけられるような心地になった。

「ふろ〜らちゃんは、どうするの……?」

 ────どうするのがいいのかしら。

 自問して、自嘲する。そんなことも自分で判断できないなんて情けない。

 わかっている。対外的に、自分は正当な彼の妻だ。彼の記憶があろうとなかろうと。彼が拒絶しない限り側にいれば良いし、彼もまた、記憶になくても本人と周囲が妻だという人間を邪険にはしないだろう。先ほどの様子を見ていてもそれはわかる。

 わかる、からこそ。

「何で……言わないの。フローラさん」

 込み上げたものをこらえたところで、憤りを抑えた女性の声がした。咄嗟にまた表情を繕い振り返る。

 黙って微笑むばかりのフローラを見て、ビアンカは深々と大きなため息をついた。

「ううん、なんとなく、そんな気はしてたけど……もう」

 思いきりしかめっ面で、フローラの目礼にも愛想ひとつ返さない。今のビアンカにそんな余裕はない。苛立ちを隠さない様子に、フローラもまたひっそりと吐息を漏らす。

 呆れられてしまうだろうか。

 想いを伝えあってから。真実『夫婦』と呼べる間柄になってからまだ、たった三日しか経っていないのだと言ったら。

 きちんと向き合って、話をして、お互いに心を寄せ合っているのだと思えた。想いを通わせあえたから、一緒に行きたいと素直に伝えることもできた。

 ……でも、今の彼は。

 彼はフローラを知らない。盾のことも指輪のことも、初めて出逢ったとき仔犬を助けてくれたことも、フローラが死の火山で火傷を負ったアンディの看病をしていたことも。結婚のことももちろん、知らない。

 好いてくださる理由がない。何も、何もご存知ないのに。

 そもそも、ほとんど話もできていなかった。一目……そう、一目見た時から、と彼は言ってくれたけれど。疑うわけじゃない、けど……今の彼を見て自分を望んでくれているなんて、どうしても思えない。

 寧ろ、────

(やっぱり、……自然、ですよね)

 先ほど目にした光景を思い返し、フローラは密かに俯き、ひっそりと重苦しい息を吐く。

 自然なのだ。自分といるより、ずっと。

 テュールとビアンカ。二人が並んで話をしているその光景が、フローラの目にはいつだってこの上なく眩しく映っていた。

 お似合いだとか、美男美女だとか。形容する言葉はいくらでもある。でも、ただ似合っているというだけではなくて。

 欠けた破片が嵌るみたいに、二人で立つ姿はしっくり、そうしていることこそ何よりも当然のように思えた。

 そして二人もまた互いに、幼馴染みである以上に親密に、心を許しあっているのだろうと。

 フローラにはどうしても、そう思えてならなかった。

 二人こそが、本物の家族────夫婦の、ようだと。

「ビアンカさんもお聞きになったでしょう? 彼は盾を必要となさっていただけなのです。……元々、私と結婚するおつもりは」

「それ以上言ったら怒るわよ」

 険しい顔で遮られて、フローラは困ったように微笑んだ。

 その側にはホイミスライムがふよふよと漂って、ひたすら心配そうに自分たちを見守っている。

「何も遠慮することないわ。話してきなさいよ、私も魔物さんたちもちゃんとわかってるんだから。あなたたちが、夫婦なの。あんな状態のあいつを支えてあげられるのはフローラさん、あなただけなのよ」

 重ねて言葉を尽くしてくれるビアンカに、フローラはやはり固い微笑みを返すことしかできなかった。

 わかっている。彼が、そう言えばきっと受け容れてくれること。あなたの妻だと言われれば、その実感が持てなくとも優しくしてくれることも。

 彼の、気持ちがなくても。

「テュールさんは、『私』をご存知ありません」

 フローラは努めて穏やかに首を振る。さっき見た、とても親しげに顔を寄せ合い話す夫とビアンカの姿が浮かんだ。

「突然、夫婦なのだと言われても……戸惑われるだけ、ですわ」

 どうしても、思うのだ。

 これは、神が与え賜うた最後の機会なのでは。

 何も知らず、この方から彼を奪ってしまった愚かな自分に、ようやく下された審判の時なのではと。

「盾のことは、心配いらないのだと。それだけ伝われば、私はもう……十分です」

 フローラ自身の口から盾の件を示唆されて、ビアンカは密かに唇を噛む。

 盾を探しにきた自分を気取られることを、テュールはずっと恐れていた。ビアンカも、船の上でそれを指摘した時のテュールの取り乱した様子から、何となく察してしまった。

 盾の情報を得るためにサラボナに来たのであって、伴侶を望んだわけではなかった。結婚なんて生涯、するつもりもなかった。────それでも、彼女に出逢い、彼女を欲して、指輪を探し始めた時には盾なんてもう二の次になっていた。

 打算による求婚であり、愛などないのだと。フローラにそう『誤解』されてしまうことこそが、初恋の衝動に掻き立てられたテュールにとって何より恐ろしいことだった。

 それがわかったから、嫌と言うほどわかっていたから。ビアンカは恐れ多くもラインハットの王兄殿下に抗弁したのだ。親友の為にと、純粋な善意で伝説の盾の件を口にしたヘンリー殿下に。それは言わない方が良かった、本人が聞いたらきっと怒ると。

 あの時の凍てついた空気、花嫁が黙って受け止めた重すぎる葛藤は、赤の他人であるビアンカにも痛いほど伝わった。

 だと言うのに、あの莫迦はさっき、自分からそれを彼女に曝した。何も覚えていないからって、知らないからって!

「それに、今はビアンカさんが居てくださいますから。見ず知らずの私より、ビアンカさんが付き添ってくださる方がテュールさんも……きっと、安心なさると思うのです」

 淡々と、穏やかに微笑んで告げるだけの彼女が、ビアンカにはひどく痛々しく映ってならない。

 まるであの時のようだ、と思う。

 サラボナの街中で、空気を読まず声をかけてしまった。そんな自分を疎んじることなく呼び留めた、誰にも気づかれなかったビアンカの想いをフローラだけが誰より優しく拾い上げてくれた。あの時と。

「……お目覚めになった時、お側にいたのがビアンカさんで良かったです。本当に」

「良いわけないでしょ。何言ってるの」

 フローラにまで言い方がきつくなってしまう。ああ、こんなふうに追い詰めたいわけじゃないのに。

 それでも、やんわり言い聞かせただけじゃ彼女は説得できない気がする。────そう、例えば、

「サラボナに……、帰るつもりじゃないでしょうね?」

 一人で。

 感情の窺えない、凪のような瞳でフローラはビアンカを見つめ返した。決して肯定されたわけではなかったけれど、フローラが半ば本気でそのつもりでいることは容易に察せられた。

 ────冗談じゃ、ない!

「そこのホイミスライムちゃん!!」

 衝動的に、声が出た。びくんと触手ごと震え上がったホイミンに構わずビアンカは叫ぶ。

「フローラさんを村から出さないでよ。キメラの翼も使わせちゃ駄目! ……テュールに言うわ。フローラさんが言わないつもりなら、私が全部ぶっちゃけてやるから」

「ビアンカさん!」

「フローラさんは、私とテュールがくっついた方がいいって言うの!?」

 鋭く問えばフローラはびくりと肩を戦慄かせる。怯んだのを見てすかさずビアンカが大声で畳みかけた。

「結婚したのはフローラさんでしょ!? あいつが選んだのも、その指輪を必死に探してきたのも……全部あなたと結ばれたかったからじゃない!! フローラさんが要らないって言うなら喜んで引き取るわよ。けど、そうじゃないんでしょう!?」

 ビアンカだって好きだった。淡い恋をしたことは何度かあるけれど、テュールに恋をしたのは多分二度目で、本当に本気の恋だった。選んで欲しいと本音では思ったし、フローラに嫉妬だってした。けれど今は、ちゃんと諦められて良かったと心から思っているのだ。テュールが、フローラが、二人が愛し合い幸せに笑っていてくれさえすればそれでいいのだと。

 なのに、どうしてこの子は。

「……だっ、て……!」

 苦しげな、絞り出すようなフローラの声が、真っ直ぐなビアンカの訴えを跳ね除けた。

 瞠目したビアンカを、フローラは強い眼差しで見つめ返す。どこにそんな意思の強さを秘めていたのかと思うほど。

「違います。違うんです。だって、あのひとには初めからビアンカさんが……いたのに。盾なんて、言ってくださればいくらだってお貸ししたのに!」

 信じたい。好きだって、盾が欲しかったんじゃないって言ってくれた彼を信じたい。それなのに。

 今、彼の中に自分はいない。その記憶の中に、彼が好きになってくれた自分は存在すらしないのだ。

「……私じゃ、ない! 私が、盾を持っていなかったら……私、なんて、本当は……!!」

 会うこともなかった。知ることもなかった。盾がなければ、こんな分不相応な夢を見ることもなかった。

 初めて恋した殿方に見初めていただくなんて、身に余る幸せにうつつを抜かすこともなかった。

 自分が愛された幻想は泡沫の夢と消えたけれど、ビアンカは今もちゃんと彼の中にいる。あんなにも近く居られて、あんなにも気を許しあっていて、彼が望めばずっと支えてどこまでも一緒に行ける。彼女が側に居てくれる、それだけが救いで、それこそが、盾の守役を放棄した自分に神が下した最後の罰なのだと。

 ────あるべき形に還るのだ。それだけだ。

「お願い、します。……ビアンカさん。テュール、さんを……」

 サラボナでは一度も涙を見せなかった。ひたすら気丈に、自身の感情を内に封じて凛として微笑んでいた彼女が。

 今、ついに脆く崩折れる様を目の当たりにして、ビアンカはたった一つの問いかけを胸の内側でひたすらに反芻していた。

 そんなにも好きなくせに、どうして貴女は自分から私に譲ろうとばかりするの。

 そもそも呼び止めなければ良かったのに。ビアンカから見ればテュールがフローラに夢中なことなど一目瞭然だった。あのまま黙って引き下がらせてくれれば、二人とも何のわだかまりもなく結婚できたのに。告白するチャンスをくれたことは感謝しているけれど、ビアンカだって決してフローラを傷つけたかったわけではない。

 けれど、────深い事情までは知らないけれど、これがテュールが恐れていた、盾の認識がもたらす可能性の一つなのだということは何となく、理解できた。

 否、もしかしたら最悪の結末かもしれないということも。

 ……私の所為だ。全部。

 軽率な行為の結果を悔やんでも悔やみきれない。もし本当に、このままテュールの記憶が戻らなかったら? 今までの全部、なかったことになってしまうの?

 もう、ビアンカにはそれ以上何も言ってあげられる気がしなかったけれど、せめて優しくしてやりたかった。自分のことは二の次にして他人のことばかり考える、その為に自らを傷つけて顧みない、やっぱりとんでもなくお人好しなこのお嬢様に。

 手を伸ばして、その綺麗な碧髪を撫でようとした、その刹那。

 

 古傷だらけの大きな掌がビアンカの手首を掴み、阻んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 フローラと、彼女を追ったホイミンが出て行ったあと。

 テュールは暫し茫然と、彼女が居た余韻に浸っていた。あの鈴のような綺麗な声が、まだ耳の中にりんと響いている。

 夢のような時間だったな、と思う。ほんの二言程度言葉を交わしただけなのに。あの翡翠の瞳に自分が映ったのだと思うと、ひどく甘酸っぱい心地になる。

 ────そういえば初め、名前を呼んでくれてなかったか?

 今更思い出し頭を抱える。彼女に自分の名を呼んでもらえていたなんて。認識してなかったとはいえ、もっとちゃんと正面から聞いておけば良かった。

 先程からの自分の思考がおかしくて、ふと失笑してしまう。何を考えているんだか。これではまるで、自分が恋煩いでもしているみたいじゃないか。

(…………、まさか)

 あり得ない可能性に行き当たり、愕然として首を振った。自分が女性に恋をする? 笑ってしまうほどあり得ない。先日結婚したばかりのラインハット王兄夫妻を訪った時、自分は一生色恋ごとに縁がないなと改めて実感したばかりだ。元々興味も薄ければ、そんな気持ちの余裕もない。親友を祝福こそすれ、未だ羨む気持ちすら湧かないというのに。

 大体、彼女は既に人妻だ。あの指輪が全てを物語っている。ちらりと見ただけだけれど、彼女の細い指に悔しいほどよく似合う、とても清楚で上品な白銀の指輪だった。あれを贈れる男に甲斐性で勝てるとも思えない。

 出逢うのがもう少し早かったなら、自分は結婚を請うただろうか。その男より先に、彼女に。

 見知らぬ男に言いようのない劣等感を抱きつつ、ふと、本当に何の気無しに、自分の手を見た。

「……あれ?」

 左手だ。その薬指に、いつの間にか金の美しい指輪が嵌められている。こんなもの手に入れた覚えはないけど。手の甲を自分に向けてかざすと、石座には燃えるように美しい赤い宝石が埋まっていた。否、微かに揺らめいている。何だこれは。まさか炎の幻が映っているのか?

 目を凝らしてよくよく覗くと、やはり石の中で炎が龍の如くうねっているように見える。

「……ピエール。これ、何だか知ってる?」

 じっと見つめていると、何やらその炎に語りかけられているような気がしてくる。自分が倒れている間に誰かが嵌めたのかもしれないが、何かしら知っていると思われたピエールはあっさりと首を横に振った。

「さぁて。あるじ殿のものには違いなかろうが」

 ピエールの古めかしい言い様は時に謎掛けに聞こえる。こういうやりとりは苦手だ。とりあえず追及するのはやめて、テュールは改めてその指輪をまじまじと見つめた。

 ……これは幻じゃない。本物の炎だ。

 何故か確信を持ってそう感じた。同時に何か、息苦しい心地が意識の端を過って思わず胸を抑えた。けれどそれは一瞬のこと、抑えた時には既に違和感は去ってしまっていた。小さく首を捻り、再びその石を眺める。

 黙り込んだ主人をちらりと盗み見て、ピエールは鉄仮面の下、密かに思考を巡らせた。

 主人の現状について懇切丁寧に説明するのは構わないが、ピエールにはもう一つ、大きな懸念があった。

 主人が気付いているかはわからない。そして、ピエールにとっても経験による推論でしかないことだが。

 何某に従属する魔物は、恐らくその主に因って精神状況を左右される。

 スライム属は不思議と人間に近い感性を持っているように思うが、自分たち魔物という生き物は基本的にヒトのような感情を持たないことが多い。魔法使いのマーリンなどその点で大いに親近感が湧く。判断基準は本能、もしくは自分たちより上位の存在による下命であり、個々の感情が左右することは基本ない。どうやら自分たちのような傑出した力を授からぬ魔物というものは、他者の力なり思想なりの受け皿たり得るよう造られているのでは、などとピエールは最近よく考える。ピエールとて元々は今よりずっと淡白な気質であり、今の主人に出会って随分とヒトらしい機微を学んだのだ。

 ピエールが主と定めたその男は、普段よく己を律している人間だ。激昂したところなどまず見たことがないし、強敵を前にしても動じることはほぼない。常に己を冷静に保ち思考する。だからこそ彼に従属するピエールや他の仲魔たちは如何なる時も彼の下、冷静に行動することができている。

 以前、緑髪の王子が同行していた頃に少しだけ、主人の育ちについて聞いたことがあるが、なるほどと感心した。その環境で生き抜くことができたのは意思の強さや運もあろうが、その類稀なる精神性も大きく影響していたことだろう。

 現状、主人は記憶を一部欠損しているようだが、幸い情緒の面に大きな混乱は見られない。今この状態の主人を必要以上に刺激したくないと考えている。というのもこの一ヶ月、ピエールにとっては中々刺激的な毎日でもあったが、主人の感情の起伏はいつになく激しかった。落ちたと思いきや上がるし、かと思えば呪いに足をとられたかの如く精神の底を這いずる有様が二転三転と続いていた。悦ばしいとは言い難いが、青臭いその感情の波が不快でなかったのもまた事実だ。それがこのニ、三日で嘘のように落ち着き、いや寧ろ今までになく上機嫌を保っていたとも言える。記憶をなくした為か、たった今の状況はこの数日ほどではないが、とりあえず随分と落ち着いた状態のように思える。

 サラボナにおける目的も達成出来ているのだし、彼にとっての大元の目的……尊父の遺言を継ぐという記憶は損なわれていないようなので、大局で言えば問題なかろう、放っておけば何とかなると楽観視していたのだが。主人はともかく新妻である奥方殿と、一時船旅を共にした黄金色の乙女のご様子がどうも芳しくない。はて、これは些かまずいかとも思ったが、人の心の機微に聡いスラりんやホイミンならばともかく、ピエールには人間同士の仲らいなど管轄外であった。

 結果、生温いこの空気を愉しみつつ、腑抜けた主人を眺める以外に出来ることなどなかったわけである。

 もう一人、惚けた男を見守っている視線があった。彼と親しいという黄金色の髪の美しい乙女だ。ここの家主の娘であるというその女性は、ホイミンたちが出て行った後も複雑な顔つきでテュールを見守っていた。何か言いたげに何度か息を吸い直していたが、その都度ため息に変えて肩を落としていた。

 テュールが指輪に気づいた時にもどうやら思うところはあったようだが、何か問われる前に目を逸らしていた。やがて何度目かのため息を零し終えると、彼女はひどく落胆した様子で黙って外へ出て行った。

「どうしたのかな……? ビアンカ、元気なかったね」

 誰の所為だか。間抜けな発言に思わず忍び笑いを漏らすと、気に障ったらしいテュールが顔をしかめてピエールを見た。尚もくつくつと笑いを噛み殺し、主を見上げたピエールはさも慇懃に礼を取る。

「失敬。無自覚とは罪深きものよと思ったまで」

 憮然とした主人にもう一つ苦笑を返し、ピエールは改めて自身の思索に耽る。さて、自分にとってさほど大きな問題はないが、このまま先の旅路を急ぐのも短慮と思える。どうしたものか。

 余計な刺激を与えぬ程度に根気よく治癒を促し、同時にうまく辻褄を合わせてじわじわと記憶が戻るよう仕向けるか。ホイミは外傷によく効くが、皮膚の内に篭った傷へ作用させることは難しい。身の内を冒す病魔を治癒できないことと似ている。但し、今回のこれはあくまで挫傷であるから治癒の見込みは当然ある。欠損しているのはここひと月の記憶のみ、うまく説明出来ればさほど問題なく進めそうだが。

 ただ、……問題はやはり、彼女であろう。

 一ヶ月間、主人の精神状態に多大な影響を及ぼした張本人である彼の奥方。彼女は難なく自らの素性を伝えてくれるものとピエールは考えていた。それが最も混乱の少ない伝達方法であろうと。だが、彼女は告げなかった。だけでなく、それを訴えようとしたホイミンを止めて出て行ってしまった。

 こういった場合、本人を差し置いて話しても良いものか。

 はて、と何度目か首を捻ったその直後、扉の外でにわかに騒がしく、言い争うような声がした。

「ビアンカ達かな? どうしたんだろう」

 喧騒につられてテュールが立ち上がる。さすがに一旦止めるべきかとピエールも緑のスライムごと跳ねたがその時、がちゃがちゃ! とドアノブを激しく揺さぶる音がした。すぐさまテュールが駆け寄り扉を開け放つと、黄色い触手を目一杯ドアノブに絡ませたホイミンがもつれながらこちらへ転がり込んできた。

「ホイミン!? どうした、フローラさん……二人は!?」

 驚いたテュールがホイミンを抱きとめて、外に出た女性二人の安否を問うた。けれどホイミンは答えず、飛び出そうとしたテュールの腕に触手を絡ませ引き留める。うるうると水を湛えた瞳で、まっすぐに主人を見上げて。

「…………おもい、だして、よぅ〜〜〜!」

 涙声でぺしぺしと外套を叩き、かと思いきやいくつかの触手を持ち上げてベホイミを詠み出す。温かな光をテュールの後頭部にかざした途端、ずきりと鈍く、首の後ろに痛みが走った。

「ホ、ホイミン……? 何、一体」

 一瞬の痛みだ。緩く息を吐いて紛らわせながら振り返ろうとするが、ホイミンがそれを許さない。ほとんど無理矢理に肩と、耳の後ろから首の付け根のあたりまでを触手で懸命に抑えつけ、ホイミンはまたもやベホイミを唱えるのだ。

 ずくん! と再び、抉られるような痛みが脈動と共に、頸椎の上のあたりを鈍く突き抜けた。

「はやくっ、おもいだして〜! はやく〜〜!!」

 ベホイミの光が消えるより早く、ホイミンは次のベホイミを触手に宿す。「思い出すって、一体なんのこと?」と落ち着かせるよう穏やかに問うたがホイミンの激昂は治まらない。施術している以外の触手でぽこぽこと人の背中を叩いてくる。しかもピエールまでもが苦笑混じりに立ち上がると、「やれやれ。どれ、拙者も加勢致すか」などと宣い、これまたテュールに向かって治癒魔法を唱え始めたのだ。

 一体なんだというのか。魔法に副作用はないが、傷もないのに何度も何度も治癒魔法をかけられるのはあまり良い気がしない。

「ちょっと、二人とも……」

 さすがに本気でやめさせようと腰を浮かせたが、その瞬間頭の上からホイミンにのしかかられる。もう数度目のベホイミに思いきり魔力を込めた彼が、涙目で絶叫した。

「もぉ、もおぉっ! ごしゅじんさまのばかっっ!! ふろ〜らちゃんをなかせてぇぇ……ふ、ふろ〜らちゃんがいなくなったら、いくらごしゅじんさまだってゆるさないんだからね〜〜〜!!」

 

 

 

 ────────あな た ハ、ジ ユウ ニ。

 

 

 

 唐突に、

 霞みがかった意識の底から映像が還る。真っ白な、まるで光の洪水みたいに流れ込む怒涛の幻影の中、

 彼女の透明な泪──……だけが、

 頭の中の漠然とした靄をあたたかく照らす。

 違う。違うよ。違う違う違う違う違う違う。

 泣かせたくない。悲しませたくなかった。誰よりも君の幸せを願ってる、叶うならこの手で誰より幸せにしたい。自分の所為で僕を縛ったなんて、僕を苦しめただなんて、そんなこと絶対にない。君に囚われて、この心は至上の喜びを知ったのだから。

 指輪。水の幻影、仔犬。祠、青の光、帆船、礼装の小花、塔、天空の盾、炎と水の喚び声。

 イメージが次々に瞼の裏を奔って、同時にずっと奥の方から自分を喚ぶ気配がする。静かに、静かに時を待っていた左薬指の炎の石がじわりと熱を灯し、己を醒ませとテュールを叱責する。

 この気配を、知っている。

 そして、────そして、

 絶対に離さないとあの時、誓った、

 

 やっと捕まえた、僕の碧。

 

 弾かれるように立ち上がった。が、耳の後ろで割れんばかりに激しい頭痛がして途端に崩折れかける。気持ち悪い、頭の中を轟音がこだましているようで、これが夢か現かもわからない。咄嗟に追従したピエールに支えられて何とか均衡を保った。

 記憶の順列が、意識と無意識が混濁する中、半開きのままの扉が目に留まる。

 もう、何も考えず、まろびながら遮二無二外へと飛び出した。

 

 逃がさない。

 自由なんかいらない。

 今更他人になるなんて、絶対に許さない。

 

 

◆◆◆

 

 

 いきなり手首を掴まれて動きを止められ、ビアンカは驚きのあまり言葉が出なかった。

「ごめん。……ちょっと、二人で話させて」

 そう言ったテュールの顔は、血の気が失せてほとんど蒼白だった。ぶつけたところが痛むのか、ひどく顔を歪めていて、額からは幾筋かの脂汗が流れて顎へと伝う。

「テュー……、ル」

 尋常ならざる雰囲気に、ビアンカは益々言葉をなくした。

 記憶は戻ったのとか、二人ってどっちのことよとか、ひどい顔色じゃないのとか、言いたいことは色々あったけれど。

 真剣な眼差しと有無を言わさぬ気迫に押され、それ以上何も言えなくなってしまう。

「少しだけ、フローラ……と、二人にして」

 自分にだけ聞こえるよう身を屈め、耳許に囁かれたその名にビアンカが目を見開いた。

 敬称をつけず妻を呼んだ男の顔を、正面からじっと見上げる。

 大丈夫なのね。

 目で問えば小さく、しかし強い首肯を返された。それだけで納得して、ビアンカも黙って二人に背を向けた。いつの間にか、あの小さなホイミスライムも姿が見えなくなっている。縋るようなフローラの視線を振り切ってその場を離れた。

 フローラは固まっていた。テュールがビアンカの手を掴んだ時にはやはり彼女が望まれるのだと覚悟を決めたのに、何故かビアンカだけが無言で去ってしまう。その背が家の中に消えるのを待って、怖いほどの真顔でテュールが振り返った。外壁まで追い詰められ、フローラは益々怯えて小さくなる。顔を伏せた瞬間その脇にどん! と勢いよく掌をつかれ、びくりと心臓が跳ね上がった。華奢な身体を壁と自分の間に閉じ込めて、テュールは低く、静かに、自らの憤りを発露させる。

 

「……なんで、言わなかったの?」

 

 怒ってる。

 俯いた顔をあげられない。こんな彼は見たことがなくて、フローラは戸惑いと怯えを隠しきれない。

 否、付き合いの長いヘンリーや仲魔たちでさえ、ここまで怒りを露わにするテュールは見たことがないかもしれない。

「何も覚えてない今ならビアンカを好きになるだろうって? ……余計なお世話だ。今だってずっと、僕は君しか見えてなかった」

 重く、低く押し殺した声がフローラの身をすくませる。

 怖い。

 すごく、すごく、ものすごく、こわい。

 でも────……

「思い知らせてあげる。僕が、誰のものか」

 言うなり、大きな両手に頭を包み込まれた。息を呑む間も、瞳を覗き返す暇すらなく、フローラを引き上げた彼は問答無用でその桜色の唇に喰らいつく。

「ッ、────!!」

 三日前にも強引に奪われた。泣いて、意固地になったフローラの心をこじ開けるような口づけをくれた。

 あの時よりずっと荒々しい、激情をぶつけるような求め方。

 熱い。触れたところが爛れそうなほど熱をもって。獣のように噛みつかれて、必死の息継ぎの隙をついて口腔にまで彼の舌が入り込む。ちゅく、と甘い水音が直接脳に響いて。絡み合う舌も、振り解けない腕も、もう髪の先まで全て、彼に食べられて、吸い尽くされてしまいそう。

 顎を無理矢理上向かせ、吐息まで全て呑み込む。酸素が回らずふらついた身体を抱き込んで、逞しい腕が檻のように彼女を捕らえた。ん、と声にならない喘ぎを喉から零せば、テュールはまた愛しげに眦を細める。赤く色づいたこめかみから頬、首筋と指の腹で優しくなぞって、深く咥えこんだ唇を更に強く押しつける。

 全身全霊で、彼の熱情を注ぎ込まれる感覚。

 やがて、すっかり腰が抜けて土の上にへたり込んでしまったフローラを、彼は紫の外套で覆い隠すように抱きしめた。

 愛しい声が直接、鼓膜を震わせて流れ込む。

「何度だって、君を選ぶよ」

 ……背筋が、

 ぞくりと、痺れる。

「君が思い知るまで、何度だって好きになる。忘れたっていい。そのたび君に恋をするから」

 蕩けそうな恍惚に耳が、為す術もなく侵されていく。

 どうして、私にまだこんな、残酷な夢を見せるの?

「……許さないよ。手を、放そうとしたこと」

「────あ……」

 わずかに息を呑んだフローラを、漆黒の瞳が見下ろした。

 視線が交錯した先の、哀しみと憤りに染まった双眸が切なく、歪む。

 そのまま、彼はフローラの肩にことりと額を落とした。

 一際大きく跳ねた心臓の音が伝わってしまったかもしれない。鎖骨に吐息がかかる至近距離で、心臓がばくばく叫んで破裂しそう。緊張を必死に堪えるフローラの、その耳許に、彼はかすれた声で力なく、囁いた。

 

「叱ってよ……」

 

 幼い、本当に稚い、まるで怯える子供のよう。

 どうしようもない寂しさが彼の全身から溢れ出て、切なくて、フローラは思わずその大きな背中に腕を回した。

 大人の男性にそんなことを思ったのは、初めてだった。

 フローラに抱きとめられたテュールもまた、折れそうな肩に縋りつき、万感の想いを込めて抱きしめ返した。

 白い首筋から漂う甘い花の香りが、そっと背中を撫でてくれる細い手が、彼の内に芽生えた恐怖を優しく解きほぐしてくれる。

「叱って、いいよ」

 どこにも行かないで。

 僕を『解放』なんてしないで。

「僕がまた君を忘れたりしたら、怒っていい。めちゃくちゃ怒っていいから、だから……お願いだから、僕から離れていかないで」

 手を放せばきっと天に帰ってしまう。天女のような君だから。

 直感したのはそれだった。いつのことだったか、まだはっきりとは思い出せない。あなたを自由にしたい、そう言って泣いたフローラの姿が鮮烈に浮かんだ。一度思い出したら、瞼の裏にこびりついて剥がれなかった。

 どうして忘れたんだろう。こんなにも大切なのに、あんな想いは二度とさせないと誓ったのに。忘れてしまえば楽になると思っても、忘れたいと思ったことなんてただの一度もなかったのに。

「ごめん。簡単に忘れたりして」

 ようやく落ち着いてきたテュールは、気づけば謝罪を口にしていた。ずっと背中をさすってくれているフローラがふる、と小さく首を振る。

「テュールさんの所為では、ありませんから……」

「ほら。またそうやって僕を甘やかす」

 相変わらず責めない妻に苦笑して、テュールは至近距離で額をこつんとぶつけると小さく、問う。

「……それとももう、怒るのも嫌になった?」

 翡翠の双眸が見開かれる。こんな時、臆さず真っ直ぐ見上げてくる彼女の眼差しはとても真摯だ。

「こんな情けない男が伴侶だなんて。愛想が尽きた?」

「そんな。そんなこと」

 咄嗟に言い募ったが、フローラにはそれより先に確かめたいことがあった。恐る恐る夫の頬に左手を滑らせ、溢れそうな衝動を懸命に抑えて問いかける。

「……記憶……戻られた、の、ですか?」

 もう、訊くまでもないことだけれど。添えられた手を武骨な掌に包んで、頬を預けたテュールが頷く。

「うん。……フローラが、泣いてるって思ったら」

 そっと告げれば、フローラが微かに瞠目する。

 実際は仲魔たちが諦めず、しつこく治癒魔法をかけてくれたお陰かもしれないし、ホイミンがフローラを想って叫んでくれたことが引金だったかもしれない。けれどどちらの記憶も、今のテュールにはひどく曖昧だった。

「まだちょっと記憶があやふやで。どれがいつのことだか、よくわからない」

 一気に思い出したから仕方ないね。そう言って、テュールはフローラのいちばん好きな、少し困ったような顔で笑う。

 もう向けてもらえないかもしれないと思った。はにかむような彼の笑み。

「でも、……僕のもの、だよね?」

 穏やかな、しかしどこか妖艶な眼差しが、一度交われば逸らせない引力を伴ってフローラの視線を捕まえた。

「記憶違いじゃないよね。好きって……言ってくれたよね」

 甘く。甘く、搦めとるように。

 慈しみと愛しみを限りなく込めて、彼はフローラに繰り返し触れる。少し乱れた髪を、湿った頰を、やわらかな唇を親指で優しくなぞって、指輪にもそっと、触れるだけの口づけを落とす。

 事が起こってまだ一時間くらいしか経っていないけれど、優しい仕草がひどく懐かしかった。せっかく拭ってもらったのに、喉を灼く涙が頬を伝ってフローラの旅装をぽつぽつと濡らす。

 寂しかったの。とてもとても、寂しかったの。

「────っ……テュール、さんが、目覚められた時……わ、私のことだけ、わからなくて」

 ちゃんと答えたいのに、嗚咽が邪魔をしてうまく言えない。広い胸に顔を埋めれば、テュールはうん、と頷きながらまたフローラの頭を撫でる。

「ひ、ひと月も……なかったんだって。私、だけ、たったひと月分の記憶も……そう、思ったら────」

「うん」

 また優しく髪を梳かれて、フローラはもうそれ以上何も言葉にできなくなってしまった。しゃくりあげるたび漏れてしまう情けない声を掌で必死に呑み込む。

 テュールもまた、頭痛に耐えつつさっきまでの記憶を少しずつ手繰っていた。妄想と現実の境界が曖昧で認めたくないものの、あれは全部事実なんだろう。記憶が飛んでいたとはいえあんなことを言った自分を殴りたいし、消せるものならそっちの記憶を抹消したい。

「うん。……ごめんね。怖かったよね。本当にごめん」

 詫びれば、フローラはまた健気に小さく首を振って応える。

 やっぱり僕は、君しか要らない。

 そう思ったらもう自然と、誓いの言葉が口から出ていた。

「これからの、僕の一生分。全部、君のものだから」

 再び息を呑んで顔を上げ、目を瞠ったフローラがとてもとても可愛くて。こんな時にもテュールはつい破顔してしまう。

 ひと月がなんだ。そんなものいつか思いきり笑い飛ばせるくらい、自分はフローラのことをきっとずっと好きでいる。何度でも好きになる。そう言い切れる自信がある。

 君を知らなかった時間の分まで、愛し抜くって誓うから。

「要らないって言っても駄目。返されてやらない」

 冗談めかして言い添えたら、真っ赤な目をしたフローラがようやく、ふわりと遠慮がちに笑ってくれた。

 その微笑みにテュールは何度でも心を奪われる。幸せな、甘やかな感動を伴って。

「すき、です。……テュール、さん」

 愛しい、澄んだ鈴の声が、りん、と胸に沁み渡る。

「あなたの側に、いたい……です」

 少し恥ずかしそうに微笑む、誰より愛しい彼の妻を、テュールはもう一度、大切に包み込んで抱きしめた。

 そうして、さっきの乱暴なそれとは違う、玻璃に触れるような優しすぎる口づけを……

 涙の滲んだ薄紅色の目尻にそっと、落とした。

 

 

◆◆◆

 

 

 何をしていたのかは知らないが、長々と話し込んだ末に妻の肩を抱いて戻ってきたテュールは、記憶喪失とは何だったのかと思うくらいいつもと変わらない様子で、迷惑をかけたことをビアンカと仲魔たちに繰り返し詫びた。

 あの後も相当泣かされたのか、俯いたフローラの瞳は兎のように赤かった。けれどさっき感じた深い絶望は消え失せていて、ビアンカは心底ほっとする。

 散々引っ掻き回されて脱力したものの、元はと言えば自分が手を出したのが悪い。喉まで出かかった文句をぐっと飲み込み、ビアンカはわざとらしく苦笑いを浮かべて顎をしゃくってみせた。

「もういいから、あんたたちこれからポートセルミに行くんでしょうが。またこっちに帰ってきたら顔出しなさいよね。今度はもうちょっと家具の配置、考えておくわ」

「……またどつかれるのが前提なの?」

 痛い目を見た所為だろう、テュールお得意の愛想笑いもさすがに少し引き攣っている。ビアンカにしてみれば可愛くないことを言われるとつい身体が反応してしまうのだから、テュールがもう少し可愛げのある弟になればいいだけの話である。……とはいえ。

 まあ、これくらいの仕返しは許されるかしらね。

 恐らく誰も気づいていないが、ビアンカにしてみれば二度も失恋の憂き目を見せられたのだ。このまま帰すのはどうにも腹の虫が治まらない。すっかり自分の背丈を追い越した幼馴染を見上げれば、彼は慄いて反射的に身を退く。整った鼻先へと利き手を持ち上げ、ターバンに隠れた額を一つなぞって、ビアンカは容赦無くその眉間をぴしりと弾いた。

「痛って!」

 咄嗟に額を抑え声をあげたテュールと、すまし顔のビアンカを困惑したフローラがおろおろと見比べる。ビアンカにあまり馴染みのないホイミンはそんな光景に目を円くしているが、ピエールは何やら愉しそうである。そんな、やっと戻ってきたいつものテュールとのやり取りに、ビアンカはああ、とようやく心から安堵した。

 戻って良かった。本当に良かった。

 さっきのあれはやはり泡沫、悪い夢のようなものだったのだ。

 そうよ。もう、あんなものは見たくないわ。

 今のこの関係が大切なの。私はいつまでも、この二人の姉さんでいたいんだから。

 ────やっぱり、この子たちとはこうでなくっちゃね。

 そうしてビアンカは今度こそ憂いのない、太陽の如く輝く笑顔を二人に向けたのだった。

「テュールがフローラさんをちゃあんと大切にしてたら、彼女に免じてちょっとは我慢してあげる。『次は』ね!」

 

 唖然として固まった新婚夫婦を尻目に、ピエールとホイミンが揃って笑い出したのはいうまでもない。

 

(了)





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執筆当時描いた蛇足漫画をこちらにも掲載。ヘンリーはヤブルーラの使い手なのだ!(嘘)



2021.06.12 追記
ヤンデレな壁ドンテュールをどうしても絵で見たくて描いてしまった、ワンシーンコミカライズ。神絵師様に描いていただけたら昇天する……と幸せな妄想をしつつの妥協の産物です。お粗末様です!

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