Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
そんな素敵な日に、こちらでも新たな幕開けを迎えられました。
少しでもお楽しみいただければ幸いです!
#0. 序・ある日の船上にて~side Flora
「僕と一緒に、来る?」
いつぞや聞いたような殺し文句を、私の最愛の夫はいつもの穏やかな微笑みのまま、さらりと口にしてのける。
告げられたばかりの薄く青みがかった、柔らかなゼリーのような愛らしいその魔物は、さも嬉しそうに全身を震わせると、ぴゃっ! とまた愛らしく鳴きながらテュールさんに飛びついてきた。
「──っ、待って。君、興奮すると麻痺毒を出すんだっけ?」
咄嗟に両手で受け止めてしまったテュールさんが、少しだけ困ったように笑いながら首を傾げる。
「あ、あ、ごめんなさいっ。しびれん、なおせるっ」
夫の腕に青い触手を巻きつかせたしびれくらげは、すぐに何か呟いて青い光を彼に浴びせた。「ありがとう」と微笑む彼に、小さな魔物はぽやんとした笑みを返す。
──話には聞いていたけれど、本当に悪意が感じられないわ。
ついさっきまで魔物の大群の中にいた、あの殺気立ったうちの一匹とは思えない。
この船の他の船員達も、彼が魔物遣いであることは聞かされていたはずだけれど。あれだけの死闘の直後に、起き上がってきた魔物とこうも朗らかに馴れ合う彼の姿には戸惑わずにはいられないようだった。
「しびれん、っていうんだ? 可愛い名前だね。僕はテュール、好きに呼んでね。ここにはスライムとか、ホイミスライムの仲間もいるから、きっと仲良くなれると思うよ」
「うんっ! しびれん、がんばるっ!」
新たな主人となった彼に抱き上げられ、益々にこにこと笑みを深めるしびれくらげを私と並んで眺めやる、スライムに跨った熟練の騎士は「やれやれ、久々に拝見しましたな。つくづくあるじ殿も罪な御方よ」と苦笑まじりの声で私を見上げた。
「ピエールさん? いかがなさって……」
「ああ、いや」意味がわからず仮面を横から覗き込んだ私から、ピエールさんはこほんと咳払いをし顔を背ける。「失礼。奥方殿が気分を害されているのではと、早合点を」
私が、気を悪くして?
そう思われてしまった理由はよくわからなかったものの、新婚の私を気遣ってくださっていることだけは理解できたので、私は控えめに「お気遣い、ありがとうございます」とだけ返事をして微笑むに留めた。
──折角来てくれた新しい仲間に、私が妬いていると思われてしまったのかしら。
それくらいしか考えが思いつかなかったが。確かに、自分にもいただいたような言葉をかけてもらっている様を目の当たりにするのは若干もやっとしたものを感じたものの、彼に懐いた風のその魔物は大変愛らしく、むしろああして睦みあっているのが羨ましく感じられてしまうほどだ。
ホイミンちゃんやスラりんちゃんのように、私もあの子と仲良くなれたら嬉しいわ。
テュールさんの仲間の魔物達は彼のようにとても優しくて、彼らはすんなり私を受け容れてくれた。まだ、共に戦う仲間としてではなく、客分に過ぎないことは否めないけれど、私も私にできることを早く身につけて、彼らの力になっていきたいと思う。
その為に、今は少しずつマーリン様に教えを乞うている。ベホイミ以外の魔法は実践したことがなかったから、本当に初歩的な補助の魔法から少しずつ、だけれど、最近は後方から支援させてもらえるようになってきた。先ほどの戦闘でも、やっといくつかの魔法をかけられるようになって。
(ベホイミとは違って、攻撃の魔法も補助の魔法も、少し遠い対象にかけることになるから。まずはかけ間違いをしないよう、よく練習をしないと……)
敵味方が入り乱れた戦いの場では一瞬の判断が生死を分ける。マーリン様から何度も伝えられた指導の内容を今一度、頭の中で反芻する。
幻惑だろうが減防だろうが、間違って味方にかけてはたまらない。味方にかけるべき魔法なら、その逆もまた然りだ。
ましてやそれが、強力な攻撃魔法であれば尚のこと。
先程は焦ってしまう気持ちを深呼吸で必死に落ち着かせながら数回、魔法をかけたけれど。判断に間違いはなかっただろうか。
後でマーリン様にお伺いしてみよう、と一人頷いたところで、先ほどのしびれくらげを連れたテュールさんが私のすぐ近くに来ていることに気がついた。
「フローラ」
一人思索に耽ってしまっていたことに気づかれたのだろうか。急に気恥ずかしくなり、慌てて背筋をしゃんと伸ばして彼に視線を返した。
「お疲れ様でした、テュールさん」
「うん、ありがとう。フローラ、怪我はない?」
いつもの優しい手つきでそっと頰を撫でてくれる。それだけで、私は幸せばかりで胸がいっぱいになってしまう。
「……はい。守って、いただきましたから」
顔を上げて、精一杯微笑みを返すと、彼もほっと息をついて照れ臭そうに笑った。
「良かった。すごく頑張ってくれていたから、そっちが狙われるんじゃないかって心配で。──マヌーサとルカナン、絶妙だった。あのタイミングで二つ詠唱できるなんてすごいね」
褒めてくださった。敵の一群にマヌーサをかけた直後の敵の散り方を見て急いで詠唱したものがうまくかかっただけなのだけれど、彼はちゃんと見てくれている。
「いえ、……そんな」
嬉しいのに、どんな顔をしたものかわからなくて。思わず熱くなった顔を俯かせると、彼がふわりと微笑んだ気配がした。
「本当に、助かったから。ありがとう」
身を屈めて、耳許に優しく囁いてくれる。そんな風に言われてしまったら、私は全身に火がついたような心地になる。
「……お気持ちはわかりますが、あるじ殿。衆目が」
「わかってるよ! ……ご、ごめん、フローラ」
きっと真っ赤になって固まってしまった私の傍から、ピエールさんが苦笑まじりに呟いて。俯いたまま益々頭に血がのぼる心地を覚えながら、彼もまた動揺を露わにするのを聞いていた。あわあわと謝られて、恥ずかしさに顔を上げられずただ黙って首を振る。
「いやぁ、お二人が仲睦まじくして下さるなら我々としてはいくらでも、大歓迎ですよ」
白髭をたっぷりと蓄えた船長が豪快に笑いつつ言えば、一連の流れを見守りつつ撃退した魔物の残骸を片付けていた船員達もどっと声をあげる。
「全くだ! ええ、いくらでも見せつけてくださいよ。俺ら独り身連中に嫁さんの有り難みを教えてやってくださいッ!」
「そうは言うが、お嬢様ほどの嫁さんなんて普通見つからねえからな? お前、現実を知るだけだぜ?」
悲哀すら感じる面持ちで一人の若い男が自棄気味に叫べば、もう少し落ち着きのある男がそれを冷やかし、船員達から海をも揺るがすような笑いが起きる。
雰囲気につられて顔を上げた私と、テュールさんの目があって。気恥ずかしげにお互い、微笑んだ。彼の紫の旅装の肩に触手を落ち着けたしびれくらげが、もぞもぞしながら「だぁれっ?」と小さくテュールさんに問いかける。
「あ、えっとね。フローラ、っていうんだ。僕の、奥さん」
言いながら、彼の首筋がほんのり赤らむのが見えてしまう。どことなく幸せそうに緩む表情を見てしまうと、大切にしていただいている実感を否応なしに感じてしまって。嬉しくて、勿体無くて、胸がぎゅっとするのを感じる。
こんな気持ち、なんと呼んだらいいのだろう。
「おくさん、っ……」
私のそんな高揚とは裏腹に、目の前の可愛らしい魔物はどことなく消沈したように声を落とす。
「……よろしくね? しびれんちゃん」
膝に手をついて、少しだけ目線を落としてしびれくらげを見つめた。怖がらせないように、できるだけ優しく微笑んで。
私、とりわけこのスライム属の魔物ちゃん達が好きみたい。
本当に愛らしくて、人懐っこくて。ぷにぷにと水を含んだような柔らかな身体にも、その朗らかさにもいつだって癒される。スラりんちゃんも、ホイミンちゃんも、魔物だなんて気にならないほど私と仲良くしてくれて。
だから、割と純粋に、この新しい仲間が増えてくれたことは嬉しかった。仲良くなれたなら、もっと。
「……よろしく、ねっ」
引っ込み思案なのか、彼の肩に半分ほど顔を隠したまましびれんちゃんは遠慮がちに囁く。
それでも、ちゃんと返事をもらえただけで私は嬉しくなってしまって。もう一度にっこりと微笑んで「仲良くしてくださいね」と言い添えた。
しびれんちゃんは毒気を抜かれたように私を見つめて、やがて小さく頷きながら、はにかんだ顔を見せてくれた。
「他のみんなにも、紹介してくるね」
交替で休息を取っている他の仲魔の皆さんの元へ、テュールさんはしびれんちゃんを連れて去っていった。この船に誂えられた、前方の甲板下にある小部屋がそうだ。その部屋はかつて、テュールさんが幼い頃このストレンジャー号に乗った時、お義父様と共に過ごされた部屋なのだという。
──この船で、幼い私とテュールさんがほんの一瞬、邂逅した。
四歳の頃の記憶なんて、ほとんど残ってはいないけれど。艶やかな黒髪の、穏やかな眼をした親子連れを見かけたことは何故だか朧げに憶えていた。いつ、どこで会ったのかも思い出せなかったけれど、この船にテュールさんと訪れた時、不思議と鮮やかに記憶の断片が蘇った。
当時忙しかった父に連れられて、幼い頃はずっとあちこちを旅していた。ある港で、船の段差を跨げず立ち往生してしまった私を抱き上げて、この船に乗せてくださった大きな手。
怖いほど大柄な体躯に圧倒されたのに、その深く優しい瞳に覗き込まれた途端、安心してしまったこと。
そして、すれ違いざま、私の髪を物珍しそうに振り返った、小さなあなた。
当時の私は、幼いなりに自分が異質であることを呑み込んでいて。この髪の色も、両親の本当の子供ではないからだということを理解していた。だからどう、ということではなかったけれど、お揃いの髪と瞳の色を持つ、とても仲が良さそうだったその親子のことが──眼に、焼きついた。
……いいな。
父親が小さな子供の頭を優しくくしゃりと撫でて、その子が満面の笑みで父親を見上げていた。それがひどく、印象に残った。
あの笑顔が、ずっと私の心に灼きついていて。
幼心に、また会えないかしら、なんて淡い期待を抱いたけれど、その旅を終えて暫くはサラボナに閉じ篭もる事になってしまって。その後、今度は修道院に滞在することになったから、その頃にはそんなささやかな願いなど諦めてしまっていた。
──まさか、あなたがあの時の男の子だったなんて。
ほとんど時を同じくしてこの記憶を取り戻した私達は、やっぱり顔を見合わせて、微かに戸惑いながらも微笑み合うばかりだった。
「奥方様。先ほどは、大変良い動きでした」
夕食の準備までまだ間があるから、少し魔道書を読んでこようかしら。そう思って、船の後方にある特別室へと足を運ぼうとした時、マーリン様が声をかけてくださった。
「ありがとうございます。まだ、どの魔法をかけるべきかの判断に自信がなくて……咄嗟のことだと、どうしても」
正直に不安な点を告げると、マーリン様は厳かに頷き、静かに見解を述べられる。
「今回、先にマヌーサをかけられたのは正しいご判断と思います。単純に被弾が減ります。あれ以上こちらに寄られるとご主人らも巻き込みかねませぬから、間合いとしても正しい。ルカナンは、あの間なら無理はせずとも良かったかと思いますが、結果的にはうまくかかりましたな」
とりあえず間違いはなかったとの回答に、私は思わずほっと安堵の息を漏らした。
「そろそろバイキルトも試してみましょうか。あれは逆に、お味方が近くに居る時にかけるのが良い。ベホイミほどではないが、少しばかり前に出ていただく必要があるやもしれぬ。──もう少し扱える呪文が増えましたら、状況に応じたそれぞれの使途を細かく考察致しましょう」
「わかりました。ありがとうございます、機をみて試してみますわ」
的確なアドバイスに感謝を込めて深く頭を下げると、マーリン様は満足げに頷き、また先ほどの戦闘の跡地へと去っていった。
マーリン様は個人的に魔導、魔力について研究をなさっているらしく、戦闘の後余裕があるとああして実地を検分なさるらしい。後に残る残り香のようなものから古い魔法の痕跡を見つけたり、属性の検証などをするのだとか。
私の持つ魔力についても大変興味深いと仰っていたから、今こうしてご指導いただけているのも単に研究対象としてかもしれない、けれど。
何とかして皆様の足手まといになりたくない私にとっては、マーリン様のご教示はただただ有難いことでしかない。
──幾つかの補助呪文で対象を絞る練習を致しましょう。遠方の対象にも的確に術を施せるようになられましたら、次は炎魔法を詠んで頂こうと思っております。
先日、講義の終わりにマーリン様が私にそう告げた。
……いよいよ、戦力として実戦に参加する。そう思うと身体が竦んでしまいそうになる。炎魔法を扱う自分など想像もつかないが、万が一にもテュールさんを焼くようなことがあってはいけない。もっともっと気を引き締めて、魔力を正確にコントロールする術を身につけなくては。
魔物といえども、命ある者。それをを手にかけることが、私に出来るのだろうか。
そんな、恐れに似た思考を頭を強く振って追い出す。ここまで来たら、温いことなど言ってはいられないのだ。私も、戦う。そう決めたのは他ならぬ私自身なのだから────
「ふろーらちゃああああーん!」
背筋を這い上がる緊張に一人唇を噛んでいたら、いきなりその背中にぺしゃりと生温い、柔らかいものが飛んできた。
びっくりして振り返ると、勢い余ったらしいスラりんちゃんが、えへへ、と苦笑いしながら私の肩に貼りついていた。くすくす笑いながら手を伸ばし「どうしたの? 新しいお友達には会った?」とぷにぷにの頭を撫でた。その後ろからふよふよとホイミンちゃんがしびれんちゃんを連れて飛んできて、些か興奮気味に声をあげる。
「みてみて〜! かわいいおんなのこ! しびれんだかられんちゃんってよんじゃおうかなっておもって〜!」
ホイミンちゃんの言葉に、何故か一瞬脳天を打たれた如く衝撃を受け固まる。そ、そう、やっぱりちゃんと性別はあったのね。──というか、
……さっきのピエールさんの言葉は、そういう意味……だったのかしら。
(人間と魔物でも、恋は成立する、の、かしら……)
確か、昔話で魔族とエルフの恋物語を読んだことがある。とてもロマンチックで悲しいお話だったけれど、そんなことを思い出すとテュールさんの先ほどの言葉に益々もやもやしたものを感じてしまう……のは、私の愚かさ故に違いない。
「れんちゃ〜ん! ふろ〜らちゃんだよ! やさしいよ!」
「ごはんおいしいよ! いいにおいだよ! だいすきー!」
そんな私の馬鹿げた葛藤など知る由もなく、仲良しのこの魔物達は口々に嬉しい言葉をちりばめながら私を紹介してくれる。
「……しってるっ。ごしゅじんさまの、おくさまっっ」
もぞもぞと、どこか気弱げに囁くしびれくらげの女の子が何とも愛らしく、しかしどこか寂しそうに見えて、不意に、つい先日別れを告げてきたばかりの、金髪の快活な女性のことが思い出されてしまった。
──思い上がりも甚だしいわ。
同じ人を好きになったからって。こんな気持ちで思い出すなんて、烏滸がましいにも程がある。
優越感など持つわけがない。私が何かに優れていた、などという理由で選んで頂いたのではないということを、私が一番よくわかっている。想いを通わせた今でさえ、愚かな思考を拭いきれないのに。選ばれるべきではない私を、ただ天空の盾という付加価値のために選んでいただいたのではないか、という思考。天空の盾が私の元にあったが故に、本来選ばれるべきだったあの方からテュールさんを奪ってしまったのではないか、という思考。
そんな理由で伴侶を選ぶ方ではないと、どんなに頭では理解できても。
私よりずっと理想の一対に見えた、お二人が並んだ姿は、今も私の瞼の裏に灼きついたまま、時折浮かんではこの胸を切なく締めつける。
あの方がどんなに魅力的な方なのか。私など足元にも及ばない、きっと一生かかっても叶わない、素晴らしいところをどんなにたくさん持っていらっしゃるのか。私が誰よりも一番にわかっている。
何より私が、私自身が、あの方を──ビアンカさんを、とてもとても、心からお慕いしているのだから。
「……素敵な方ですよね。テュールさんは」
尚もホイミンちゃんの後ろに隠れるようにふわりと浮いているしびれんちゃんに合わせて腰を落として、少し見上げるくらいの高さから、彼女を優しく覗き込む。
「────、うんっ」
先ほど仲間になったばかりの小さな魔物は、襲ってきた時とは似ても似つかない純真なばかりの瞳をきらめかせて頷く。
「あのひと、しびれんのこと、らくにしてくれたよっ。ずっとずっとくるしかったのっ。もうくるしくないのっ」
「わかるー! なんかね、ごしゅじんさまのそばにいるとやさしくなるよねー!」
「うんうん♪ ず〜っとそばにいたくなるよね〜!」
目の前のそれぞれに青いスライム属達は、口々にそんな、聞いているだけで嬉しくなる言葉を謳う。まるで私が日々感じていることそのもので、自然と笑みがこぼれてしまう。
「……私もよ。ずっと、お側にいたい……」
最後のホイミンちゃんの言葉にぼんやりと同調した私は、みんながつと私の後ろを見たことに気づかなかった。次の瞬間、背後から唐突にきつく抱きすくめられ、息を呑む。
「──離さないって、言っただろ?」
耳許に、愛しい声。
「テュ……、ル、さん」
さっきからびっくりさせられることの連続で、どきどきと心臓の音が鼓膜まで響く。私を捕まえたテュールさんの腕にもきっと、この動悸は伝わってしまっているのだろう。
「側にいたいのは、僕だって同じ……だから」
ぎゅ、と更に力を込めたテュールさんの逞しい腕にそっと触れて、私はきっとまた赤らんでしまった頰をその肌へと擦り付ける。
「……はい」
────好き。
あなたの温もりを感じて、この心に囁くだけで、きっと私の想いは簡単にあなたに伝わってしまう。
そっと腕の戒めを解かれて、大きな手が私の肩を支えて振り向かせる。誰よりも大好きな、その優しい瞳に射抜かれて。頰を滑る掌に、近づいてくる吐息に合わせて、緩やかに瞳を閉じる。
いつの間にか、すす、と物陰に隠れた三匹の熱っぽい視線を気恥ずかしく感じながら。私は限りない幸福感に身を委ね、愛しいあなたの、甘く啄むばかりの口づけを受け容れた。
「……ごめん。そういえば何か用事、あった?」
暫し、船室の陰に隠れて秘めやかな時間を堪能して。は、と熱い吐息を零したあなたが、私の濡れた唇に親指をそっと這わせて拭い、間近に瞳を覗き込む。
「あ、いえ……少し、時間があったので、本を読もうかと思ったくらいで」
すっかり口づけの熱に浮かされて、ぼんやりした頭を必死に働かせてそう答えると、彼はまた優しく笑って、私の手を取り特別船室の奥へと誘っていく。
「じゃあ、僕も一緒に勉強しようかな。実は今、ベホマを覚えたいなって思ってて」
「え? あの、全快魔法を、ですか?」
全快、といっても完全に回復させるわけではないらしいが、表に見える傷という傷を一瞬で修復する高位魔法だ。
その奇跡とも呼べる回復力のために、術者には比類なき精神力を要求されるという、単回復魔法の最上位格。
「凄いです、テュールさん……いずれは神官様にもなれそうですわね」
ほぅ、と嘆息しつつ彼を見上げると、私の呟きが可笑しかったのか、彼は緩んだ顔を私から背け、肩を小刻みに震わせた。
「もう。そんなに笑わないでくださいまし!」
「っ……、ごめん。でも、神官かぁ。面白いね。僕自身は全然、信心深くないけど」
謝りながら尚も笑いを噛み殺す彼に軽く唇を尖らせ、特別船室のテーブルに読み途中の魔道書を広げて座った。これは補助の呪文がいくつか収められた本で、次に習得したいと思っている誘眠の呪文、ラリホーのところに栞を挟んであった。
魔道書はそれ自体が媒介となるわけではなく、あくまで理論を記したものだ。実際に習得するには魔力を行使してみなくては始まらない。
補助魔法や回復魔法は特別な属性の精霊の祝福を必要としないので、魔力の鍛錬にうってつけなのだとマーリン様がおっしゃっていた。勘の良い方なら魔道書などなくても戦闘中の感覚で習得されることもあるらしくて、よくよく聞いたらテュールさんの風魔法は殆どが独学、精霊の祝福のみで習得したらしい。それだけ、彼が昔からその身を危険に晒していたということの証左でもある。
……私がそれだけ、ぬるま湯に浸かって生きてきたということの証左、ともいえる。
「でも、テュールさん。ベホイミでは間に合わない、と言うことは今のところございませんよね? ホイミンちゃんもいるのですし……どうして最上位の回復魔法を?」
さらに分厚い魔道書を持って私の向かいに腰かけた彼に、ふと湧いた疑問を投げかけた。もちろん、高位魔法の使い手が増えるに越したことはない。それでも、彼の負担が大きくなり過ぎるのではという余計なお節介からきた疑問だったのだが、彼は軽く眼を瞠ってからやや気まずそうに視線を逸らした。
「────それは、……内緒」
「え」
何気なく発した問いにまさか、そんな反応が返ってくるとは思っていなくて。逸らされた瞳を追うように彼を見れば、どこか拗ねたように眉間に皺を寄せて、口許に手の甲を宛てがって隠す。
「……やっぱり。僕に神官は無理だな」
そうしてぽつりと零された独り言の意味がわからず、遠慮がちに首を傾げると。彼は困ったように小さく笑って、どこか自嘲気味に囁いた。
「こんな、邪な神官はいないよ」
「────っ、そんなこと」
彼自身の口から紡がれたとは思えないほど、彼にそぐわない表現に思わず声をあげてしまう。私に言わせれば、あなたほど純粋な魂の持ち主はいないのに。
「邪だってば。──先を越されて悔しい、ってだけなんだから」
先を、越されて?
いよいよ何のことかわからなくて、私は途方に暮れてしまったのだけれど。
最上位の回復魔法、と必死に考えを巡らせた時に、一つ思い出したことがあった。
つい先日の魔物との遭遇時、私の立ち位置が悪く転んでしまった際。膝と腕に傷を作ってしまったのだが、すぐ隣に居たホイミンちゃんが見たこともないほどまばゆい光で傷を瞬時に癒してくれた。お礼を言うより早く、ほとんど傷が塞がると同時にホイミンちゃんが大喜びでくねくねと空高く躍り上がり、感極まったように叫んだのだ。
『やった〜〜っ! ホイミンのはつベホマ、ふろ〜らちゃんにあ〜げた〜〜〜っっ!』
今の魔法こそが単回復最上位魔法ベホマ、と言う事実にすっかり気をとられてしまって、『すごいわ! ホイミンちゃん、本当におめでとう‼︎』と戦闘中にもかかわらず手に触手を取り合い二人で大喜びしてしまったのだが。
まさか、……────まさか、
あの時の、ことを?
「……ホイミン、いっつもいいところを持っていくんだよなぁ……」
そっぽを向いたあなたが、不貞腐れたようにぽそりと、呟いた。
そんなことを、思ってくださっていたなんて。
「────フローラ」
くす、くすと。思わず笑いが零れてしまう私を咎めるように、テュールさんが据わった眼で軽く睨め付ける。
そんな表情をも向けていただけるようになった今が、たまらなく幸せで。
「ごめんなさい。……こんなこと、言ったらお気を悪くされるかもしれないのですけれど」
どうにも緩んでしまう口許を指先で隠しながら、こみ上げる愛しさを思うまま、言葉に代える。
「あなたを──お可愛らしいと、思って、しまって……」
男の方にこんなことを思ったのなんて、初めて。
それでもやっぱり、ご本人を前にそれを口にすることは何となく申し訳ない気がして憚られて。にやけてしまう顔を両手で半分隠したまま、ほとんど口籠るように囁いた。
私達、似た者同士なのでしょうか。
胸に満ち溢れる幸福感をこっそりと噛み締めていたら、音もなく腰を浮かせたテュールさんが私の右肩を乱暴に引き寄せた。見上げる間も無く体勢を崩した私の耳を噛むように、
────今夜は覚悟、しておいて?……
低く、密やかに囁いて、手を放す。
彼はまた椅子にすとんと腰を下ろした。平然としてらっしゃるけれど、耳朶が赤くなっている。……きっともっと赤く、熱を持ったばかりの自分の耳朶を、私もそっと手で抑える。
「……、……っ……」
もう、何も言えなくて。羞恥のあまり所在無く虚ろう視線を開きっ放しの魔道書に何とか落としたけれど、文字はちっとも頭に入ってこない。
黙って魔道書を読むあなたを前にしていることがいたたまれなくなってきて、私はついに本を閉じ、立ち上がってしまう。
「────あの、そろそろ……お夕食の準備を」
この一ヶ月ほど、交渉を重ねて勝ちとった調理手伝い。料理長には何度も恐縮され首を横に振り続けられたが、毎日毎日ねだり倒してようやく了承してもらった。
数少ない、お役に立てそうなことだったから、私も船の一員として役割を得たかった。テュールさんやお仲間の皆さんは交替で魔物番をしてらっしゃって、さすがに私はまだそこには入れてもらえなかったから。
顔を上げたあなたと目も合わせられず、慌てて本を片付けた私に、テュールさんはいつもの優しい微笑みを向けてくれる。
「うん。ありがとう、楽しみにしてるね」
もう何度も目にしているのに、この表情にときめかずにはいられない。
大好きな、ひと。
彼の優しい眼差しに見送られ、私は真っ赤に茹で上がった顔のまま特別船室を出ると、扉を後ろ手にそっと閉めた。
お互いのことを何も知らなかった結婚式から、およそ二ヶ月。
まだきっと、お互いを手繰り寄せている最中だけれど。それでも私達は少しずつ、私達なりの夫婦の関係を形作りながら前に進んでいる。
そして、船は南にある砂の大陸を目指し進む。あなたの旅の目的に近づくための──『伝説の勇者』の存在を、確かめるために。
2019.6.6 pixiv初出