Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
────カタン、
と小さな物音と共に、潮の香りのぬるい風が寝室を吹き抜けた。
明るい方を確かめるように寝返りをうって、うっすらと瞳を開けると、窓から差し込む柔らかな光が逆光になって、窓辺に佇む君の輪郭をどこか幻想的に映し出す。
「あ。……起こしてしまいましたでしょうか?」
僕の目覚めにすぐ気づいたフローラが、身体ごと振り返って微笑んでくれた。
「おはようございます。テュールさん」
「……うん。おはよう」
すっかり身支度を整え、薄化粧も綺麗に施した彼女をシーツの中から見上げ、少しばかり決まり悪いのを誤魔化すように微笑んだ。
フローラは朝が早い。初めて身体を重ねた翌朝こそ共に目覚めたものの、それ以外の日はほとんど彼女が先に目覚めて全ての支度を整えている。僕がとりわけ寝坊症ということはないはずだけれど、きっとフローラを抱きしめて眠ると心地良過ぎて、いつも以上に熟睡してしまうのだと思う。
「……フローラ、ちゃんと眠れてる?」
微かに枕元に残った彼女の香りに鼻孔をくすぐられ、ささやかな幸福感を噛みしめていたが、ふと不安になった。僕がこんなにも安眠させてもらっている裏で、君は眠りが浅いのではないだろうか、と。
「え? ……はい。ぐっすり、眠れておりますが」
「なら良いんだけど。いつも朝早いから、また……あの夢とかみてるんじゃないかって思って」
戸惑いながらも僕に答えたフローラが、ベッドに腰掛け目を瞠る。すぐ近くに来てくれた彼女の頰を撫でると、彼女は朝の野薔薇の如くその肌を色づかせながら、そっと視線を彷徨わせた。
「……大丈夫です。私も……テュールさんと一緒に眠るようになってからは、あの夢は見ていません、から」
その言葉にほっとして、自然と頰が緩む。
サラボナを発つ直前、街のすぐ側に立つ塔の最上階で君が話してくれた夢の話。雲より高いところから落ち続ける夢の話。物心つくほど幼い頃から君を悩ませ続けているというその夢が、今も君を蝕んでいるのではないかと懸念していた。
僕が救われたように、君にとっての救いになれたらいい。
「早く支度するのは、習慣……と申しましょうか」
「習慣?」
「はい。修道院では日の出と共に活動を始めるのが常でしたので、一度そのリズムが出来てしまうと今でもつい、早く目が覚めてしまって」
しっかり者の彼女らしい答えに感心してしまう。そうは言っても、彼女が修道院に居たのは二年近く前の筈だが、帰郷してからもずっと早起きを習慣づけているということか。
「ほとんど幼少の頃から続けていますから、中々変えられないだけなのですよ。──それに」
ついため息混じりに彼女の横顔に魅入ってしまう僕に、君が控えめな微笑みをみせる。
「いつだって、きちんとしていたいのです。……あなたの妻として、恥ずかしくないように」
十六歳の、まだあどけなさを残す目の前の少女は、大人びた表情を湛えたまま真っ直ぐに僕を見る。
その瞳に、恥じらいだとか、浮立つような感情は微塵も映っていなくて。
悔しいほどに凛とした、美しい人がそこに居た。
「──あんまり、頑張りすぎないで。……僕が居た堪れなくなるから」
呼吸も忘れるほど見惚れた後、やっと息を吐いて出たのはそんな一言。
「え……?」
当然ながら困惑し、俯いた僕を覗き込んでくれる君の肩に、自分の額を押し付けてこの重さを預ける。
「今だって、十分すぎるのに。これ以上頑張られたら、隣にいる自信がなくなりそう……」
「──っ、そ、そんな」
情けなさすぎる僕の独白に、狼狽えてくれる。
たった今あんなにも強く美しい眼差しを向けてくれた君が、今度は眉尻を下げて僕を覗き込んでくれる。
「……うん、冗談。見放されないよう、頑張る」
顔を傾けてすぐ側にある君の顔を見つめれば、まだ不安そうな瞳が揺らめいて僕を映している。
「見放す、なんて、…………っ」
尚も言い募ろうとした優しい君の言葉は、甘く噛みついた唇の奥に溶けて消えた。
突然の口づけに君はぴくりと身体を震わせた、けれど、突き放すようなことはせず、恐る恐る緊張を緩めて僕を受けとめてくれる。
彼女の赦しに応えるようにかたく抱きすくめて、縋り付く君の小さな頭を上向かせた。仰け反った細い喉元から、ん、と愛らしい声が漏れて、一瞬ずくん、と鳩尾を掴んで揺さぶられる激しい衝動に襲われる。
────これ以上は、駄目だ。
蕩けそうな恍惚感の中、なけなしの理性が頭の中でそう、叫んだ。
弾かれたように肩を掴んで、身体ごと唇を引き離す。どくどくと早鐘が鼓膜を打って響く中、びっくりして綺麗な目を大きく見開いた君が、声もなく僕を見上げているのだけが視界に映った。
「…………っ、ごめん」
途端に抗い難い羞恥が襲ってきて、思わず彼女から顔を背け、手の甲でぐい、と燒け焦げそうに熱い口許を拭った。
また、だ。ほんの二、三日前から感じるようになった、抑圧、抑制じみた感覚。僕が己の情慾に溺れてしまいそうになる度、こうして現れては戒めてくる。
君と心を通じ合わせ、初めて身体を重ねて、その悦びを知ってしまったから。きっと、歯止めの効かない熱情を知ってしまったから。これ以上に箍が外れてしまいそうになるのを、本能が必死に押し留めているのかな、となんとなく思う。
だからこそ、旅立ってからは必死に自重していたつもりだ。まだ通じ合って間もない君だから、これから先ずっと、ずっと一緒に居たいから。勢いに任せて性急になりすぎることだけは避けたかった。キスくらいなら、と隙あらば乞うていたことは否定はしないけど、それですらも今のように目の前が昏くなるほどの衝動に侵されそうになる。
君に触れることが段々、空恐ろしくなっていく。
「……嫌じゃ、ないんです。……本当に……」
顔を背けたままの僕の腕に、彼女の華奢な指が、遠慮がちに、触れた。
その引力に逆らうことなく彼女を見下ろすと、ほんのりと首筋を薄紅に染めた君もまた、気恥ずかしげに俯いたまま僕に身を寄せ、少しだけ体重を預けてくれる。
「うん。……ありがとう。────僕が、もっと君を大切にしていたいだけ……」
今度こそ、何より優しく、傷つけないようそっと腕に包む。
碧い髪の中に指を埋めて、小さく綺麗な頭の形を確かめて。
「……朝食、行こうか?」
そっと耳許に囁いて、君の返事を待った。昨日の木苺ジャムより赤い顔が、どこか心許ない表情のまま僕を窺い見る。至近距離にある翡翠の瞳は戸惑うままに泳いで、やがて小さくこくりと頷いた。
◆◆◆
顔を洗い、手早く身支度を整えて階下に降りた。早朝のひと仕事を終えたらしい、港で働く人々に混じって二人で簡単な朝食をいただいた後、仲魔達用に頼んでおいた食事も受け取って、朝の挨拶に赴いた。
妻の手料理ではないことにあからさまに落胆してくれた面々であったが、朝から準備する方の手間くらいは理解しているらしい。僕にだけわかる程度のため息をつきつつ、大皿を囲んでいた。
今日はこの後、商業都市オラクルベリーへ行く。昨夜船長達と話をして、不都合がなければ何名か同行させてもらえないか、との申し出を頂いたため、数名の船員達と連れ立っての移動になる。あの街には夜しか開かない店も多いので、オラクルベリーで一泊してから明朝一度ポートセルミに戻り、その後僕達だけサラボナへと飛ぶ算段だ。
宿にはしばらく戻らないので一度荷物をまとめて精算をし、馬車のみんなと共にストレンジャー号が待つ係船場へと向かった。
「やぁ、おはようございます。今日は我々の無理を聞いていただき、まことに申し訳ありませんな」
甲板に出て整備の指図をしていたらしい船長が早々に僕達に気づき、朗らかに声をかけてくれた。
「いいえ、僕こそ我儘をお聞きいただいていますから……空間転移くらいお安い御用です。帰還は明日の予定でよろしかったでしょうか?」
「ええ、それで構いません。よろしくお願い致します。────お前達、くれぐれも羽目を外して若旦那様方にご迷惑をかけるんじゃないぞ?」
若干の凄みを帯びた船長の言葉に、船内から駆け出してきた数名の若者達が姿勢を改め「はい!」と叫ぶ。
今更ながらこれが大富豪ルドマン卿の所有船であり、その息女が今、僕の妻なのだという事実に、畏縮にも似た恐れ多さばかりがこみ上げる。
僕自身が望んだのはフローラただ一人。とは言え、付随して得たこの後ろ盾、ルドマンの名はこれまでの僕では考えられないほど大きな影響力を持っている。その意味を、僕は理解しておかなくてはならないだろう。奇跡的に卿のご厚意をいただける結果となったとは言え、僕自身は今も身寄りのない一介の旅人に過ぎない。こんな根無し草によくぞ一人娘を任せようと思われたものだ、とこちらが驚くほどだ。
改めて、結婚という結びつきのもつ意味を考えさせられる。
「今日は、ストレンジャー号も沖に出られるのですか?」
先程から忙しない船上の様子を見上げつつ質問を投げかけると、船長が白髭を撫でつつ穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「ええ、まぁ。カジノ島への送迎です。元々月に数回行き来をしておりまして」
「そうなのですか? ──それでは、僕達の旅にお付き合い頂いてしまっては」
「いやいや。それは問題ありません」思わず狼狽してしまった僕に、船長は表情を変えず緩やかに首を振ってくれた。
「暇を持て余した我々を見かねた大旦那様が、こちらにも仕事を振って下さったまでですよ。カジノ島には元々送迎用の客船があります。最近はビスタ港にも寄れるようになりましたから、それでこちら側の賓客の送迎を少しばかり請け負って居りましたのです」
なるほど、と頷いていたが、少しばかり嫌なことに思い当たった。
────それでは婚礼の時、僕はポートセルミまで転移していれば良かったのでは? 少なくとも初めのあの強制連行からのキメラの翼、あれは必要なかったのでは……
思いついてしまうと悶々とするが、否、恐らく時間を優先させた結果なのだろう、と自分を納得させる。そうだよな、ここから船で移動したらまた一日以上かかってしまっただろうし。どうせ移動させるなら直接会場に転移した方がやはり楽か。それを思うとさすがは卿、随分と画期的な方法を思いついたものだ。寧ろ、遣いの方……は恐らく元々連絡用に配置されていた方なのだろうが、彼こそご無事で本当に良かった。道中ろくに宿も取れず大変だっただろうに。
何というか、思った以上に引きずっていた自分に冷笑を禁じ得ないし、結局はあれが最善であったと思えるあたりに富豪ルドマン氏の先見を垣間見て改めて驚嘆してしまう。どのみちあの人数を何とかして運ばなくてはならなかったのなら、それは転移先がどちらだろうと大して変わらないことだ。うん、もうこの件について考えるのはやめよう。
何とか思考に折り合いをつけて息をついたところで、心配そうに僕を見上げる視線に気がついた。眉間に皺が寄ってしまっていただろうか、慌てて目許をこすって誤魔化す。
「な、何? フローラ」
「────いえ。何だか、難しいお顔をなさっていたようでしたので」
その表情は、多分僕が何のことを考えていたか思い当たっている顔だろう。彼女は挙式の前後にも、卿の思いつきに幾度となく苦言を呈していたから。
かと言って、実の父親に対する疑念など不用意に抱かせたくはない。「うん、ちょっと思い出したことがあって。でももう解決したから、大丈夫」と早口に答えたら、彼女は釈然としない様子だったものの、小さく頷いてそれ以上問うてくることはしなかった。
「若旦那様、ルドマン家ですぞ。こんな船の一隻や二隻、長旅に出したところでどうとでもなります」
終いにはどことなく得意げな船長に笑いながら嘯かれ、僕はあはは、と乾いた笑いで答える。
────もうさ、スケールが違うんだよなぁ。
この船を、その名を預かって旅立つのだ。ルドマン家の紋章を文字通り御旗と掲げて。サラボナのルドマン家本宅で、幾度も卿を前にして感じた緊張感が蘇る。知らず力の篭った腕に、暖かくも華奢な手が触れた。
振り返ると、穏やかに微笑む愛しい君がいた。
「テュールさん」
鈴を転がした清らかな音色は、僕の内心を支配した感情を一瞬で解きほぐしていく。
「私を、フローラ・グランにしてくださったこと。本当に……、ありがとうございます」
そうしてまた、幸せそうに、少しの恥じらいを含めて、笑ってくれる。
一昨日宿帳を書いた折、僕の姓名に連ねて綺麗な筆跡で綴られた君の名に、心臓が跳ねたことを思い出す。
「僕の方こそ。────僕の妻になってくれて、本当に、ありがとう……」
また抱きしめてしまいたい気持ちを懸命に怺えて、触れた手を繋ぎ微笑みを返した。
君の名が、一つの証。君が僕のものである証。
他の誰もが僕達の影にルドマン家を見たとしても、彼女だけはそれに縛られない。思えば出会ってから今まで、彼女が僕より実家を重く見るようなことは一度もなかった。僕だけを見てくれる。僕だけを尊重してくれる。それがどんなに、このちっぽけな存在に力を与えてくれていることか。
────『あなた』の妻として、恥ずかしくないように。
今更ながら、彼女の決意が心に染み入る。
僕はどんな夫になっていけるだろう。誰より寄り添ってくれる、優しく強い君に恥じない夫になっていきたい。いつだってあの凛とした眼差しを受け取るのに相応しい夫でありたい。
もう一度指を絡め直せば、応えるように握り返してくれる。
「お待たせいたしました。全員準備が整いました」
船長とは違う低い声が僕達を呼んで、振り返ると六人程の程よく日焼けした見事な体躯の若者達が、若干の緊張を漂わせつつ目の前に立っていた。
「お嬢様、若旦那様。本日はよろしくお願い致します」
律儀に頭を下げてくる、生真面目そうな一等背の高い青年に、一縷の望みをかけて話しかけた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。──あの、できたら本当にテュールと呼んでもらえたら。僕はまだ婿入りした訳でもないのですし、僕の方が皆さんよりずっと若輩なのですから」
あの船長の手前無理な願いかもしれなかったが、それでもこの二日間若様扱いされ続けるのはなかなかしんどいものがあったのだ。フローラは一人娘だが、卿は僕にすぐには後継を強制なさらなかった。だから、まだ入婿の体はとっていない。卿には養子を考えている者もいるそうで、そう言ったことを含めて僕が旅の目的を果たした後改めて家の話をしよう、と言ってくださったのだ。フローラは事実彼らの主人の娘なのだから仕方ないとは思うが、現時点で後継者でもない僕がその威光を着るのはどうにも居心地が悪い。
恐らく僕より年上である青年達はちらりと顔を見合わせ、首を捻りあったが、中でも奔放そうな青年が「じゃあ、俺テュールさんって呼ぼうかな? それでいいですか?」と言ってくれて、ほっと肩の力が抜けた。
「ええ、是非それでお願いします。小心者なので、大仰な呼び方をされると本当に居た堪れなくて」
冗談めかして言うと、彼らも軽く声を上げて笑ってくれた。
「お嬢様を射止められたのはどんな傑物かと思っていましたら、なんだ、随分と気安い方じゃないですか」
「こら、アラン。お前がどう思おうと我らがお嬢様の旦那様には違いないんだからな? 弁えておけよ」
小突かれて軽く口を尖らせた青年らを微笑ましく見遣り、「いいんです。本当に、旦那様なんて柄じゃないですから」と言い添えた。
「では、表で転移の術式を行いますね。馬車ごと転移しますので、少々手狭ですが皆さん乗っていただけますか? 中に僕の仲間の魔物がおりますが、みんな気の良い者達ですのでどうぞご心配なく」
僕の言葉に軽やかに頷いたフローラが真っ先に幌へと向かっていく。「お邪魔しますね」とにこやかに言いながら入っていく姿を見て、青年達も緊張を露わにしながら馬車に近づいた。誰よりもか弱げな少女に誘われ、大の男達が「し、失礼します!」と口々に畏まり慄きつつも幌に入っていく様は見ていてなんとも心が和む。……本人達は決死の覚悟なのかもしれないが。
「────それでは、行って参ります」
密やかな笑いを噛み殺しつつ、船長に挨拶を告げて係船場の外へ出た。幌の中に向かって「では、すぐに転移しますね」と呼び掛け、パトリシアと馬車に触れたまま詠唱を開始し風の精霊を喚ぶ。すぐに視えてきた懐かしい光景の先に着地点を探しつつ、ルーラを唱えた。光の粒子の中、僕の手に触れた全てのものは重力を一度失い異なる風景の元にその存在を再構築した。
瞬きほどの合間に、馬車は絶え間なく人が行き交う賑やかな街の南側、修道院へと続く海沿いの道に降り立っていた。通りすがりの旅人達が突然現れた馬車を見て一瞬目を丸くしたが、ああキメラの翼か、というようにまた視線を逸らしていく。何となく苦笑しつつ、着きましたよ、と声をかけた。すぐに狐につままれたような面持ちで男達が幌から顔を覗かせる。その背後から、フローラが彼らを覗き込みくすくすと可愛らしい笑い声を零していた。
馬車から降りた面々は「おお! オラクルベリー‼︎」とそれぞれが喜びに表情を輝かせた。
特に詳しいことは聞いていなかった僕は、何かあるのかと背の高い青年に意見を仰ぐ。僕の視線に気がつくと、彼は小さく笑いながら答えてくれた。
「実は、我々は皆この辺りの出身なのです」
なるほど、納得できた。つまり船長は束の間の里帰りの意味で彼らに一日の暇をくれたということなのか。
「ビスタ港には以前より寄港し易くなりましたが、オラクルベリーやラインハットまでは少々日数がかかりますから。船も待ってはくれませんし……ですので、一日だけでもこうして帰らせていただけるのはありがたいことです」
「ほら、最近までビスタ港はほとんど閉鎖状態だったじゃないですか。俺やこいつは十四、五の時に船の仕事がしたくてポートセルミに渡ったんですよ」
「そうそう。一人前になるまで帰らねえ!とは言ったものの、まさかその後船が出なくて本当に十年以上帰れなくなるとは、思わなかったよなぁ」
和気藹々と語り合う彼らの歳の頃は二十半ばから後半くらいだろうか。この十余年、ラインハットの政変をきっかけにこの近海を取り巻く情勢は目まぐるしく変動し、彼らの人生もまた大きく揺れ動いた。
「────うん。本当に良かった……でしたら、今日はゆっくりなさってきてくださいね」
愉しげに語らう青年達に声をかけると、彼らもまた照れ臭そうに頷く。
「ええ。若……テュールさん達も、良い買い物が出来ますように」
言い直してくれる律儀さがまた清々しい。明朝、またこの辺りで合流する約束をし、馬車に残った仲魔達に声をかけた。降りてきたフローラと並んで馬車を引き、街に入ろうとしたところで、先ほどアランと呼ばれた朗らかな青年が追ってきて「お嬢様、テュールさん」と呼び止めてくれた。
「あの、この後宿をお取りになりますよね? 実は俺、実家が宿屋を営んでまして。ぜひうちに泊まっていってくださいませんか? お二人のことも是非家族に紹介したいですし!」
それは、願っても無い誘いである。どちらからともなくフローラと顔を見合わせて頷きあい「こちらこそ、是非お願いします」と微笑んで頭を下げた。「いや、頭はあげてくださいね? あまりいい部屋はないかもしれないんですけど!」などと焦りを隠さない青年は気質も大変好ましく感じられる。
「俺、アラン・マクベルと言います。ルドマン様には五年くらい前からお世話になっています。お嬢様には、以前ポートセルミでお出迎えした時、一度だけお目にかかりました」
「修道院から戻った時、ですよね? 海が荒れて中々船に乗れませんでしたので、無事に港が見えた時にはほっとしましたわ。あの時は皆さんでお出迎えくださり、本当にありがとうございました」
流れるようにたおやかに腰を折るフローラの姿に、青年は精悍な目許を赤らめつつ慌てふためき「いや、だから頭はあげてください、ってば!」と声をかけている。微笑ましい反面、どうにも胸に燻りを覚えてしまうのは僕の狭量故に違いあるまい。
「馬車は裏で大丈夫ですかね?」と尋ねる青年に頷き、誘導されるまま宿の裏手に向かった。さすがは商業都市の宿、数台の馬車が入れるであろう大きな厩を備えている。その入口付近でのんびりと薪を割っていた年配の男性が来客に気づき振り向いた、と同時にあんぐりと大きく歯抜けの口を開けた。
「や、ただいまダン爺! ──さっすがに老けたなぁ」
恐らく十数年来の再会だと言うのに、ちょっとお遣いにでもいっていたと言わんばかりの彼の挨拶にはこちらもかくりと拍子抜けしそうになるが。それこそが彼の性質なのだろう。
「あ、アラン坊ちゃん⁉︎ 本当に、本当に坊ちゃんで⁉︎」
すぐに彼が誰なのか理解したらしい厩番のお爺さんは、あっという間に瞳をたっぷりの水分で潤ませて青年に縋り付いた。
────もしもサンチョが生きていて会うことができたなら、こんな風にすぐ、僕に気づいてくれるだろうか。
つい感傷に浸ってしまうあたり、僕も大概諦めが悪い。
彼が当時何歳だったのか、僕はよく覚えていない。思ったより若かった気もするし、父より年上に見えた気もする。サンタローズの事変から十二年、生きていたとしたら今何歳で、髪はどれくらい白くなっているだろう。ふと、相応に歳を重ねたダンカンさんの白髪混じりの姿を思い出した。
「大袈裟だなぁ。手紙は送ってただろ? ボトルシップは無事届いた? あれ、今俺が乗ってる船がモデルなんだぜ!」
「もちろん拝見致しましたとも! まっことご立派な船で、なんでも西の大陸の偉い方の船だとか? まあまあ、こんなにご立派になられて……こうしちゃおれん、早く大旦那様方にお知らせしませんと!」
感極まったお爺さんはほとんど僕達や馬車には気付かず、早口でそこまでまくし立てると、言い終わらないうちに宿の中へと走っていってしまった。「……ああ、相変わらずせっかちなんだから」と呟く青年と軽く笑いあい、彼の案内で厩の中に馬車を入れさせてもらう。
「家を出るまでは、俺も結構こういうことを手伝っていたんですよ。なんか、懐かしいなぁ」
大人しく繋がれたパトリシアの毛並みを撫でやり、眼を細める青年に「家業は、他のどなたかが?」と問うと、彼は日焼けした顔を屈託無く緩ませて「ええ、自慢の兄が。今も張り切って切り盛りしているはずですよ」と笑った。
果たして、自慢の兄上は宿のカウンターに鎮座し弟君の来訪を待ち受けていた。「アラン! 貴様、ろくに便りもよこさんで‼︎」などと叱責口調で弟の首を締め上げながらも、その表情は溢れる喜びのままに破顔している。「嘘だろ、出したよ手紙。俺の雇い主様達の前で余計なこと言わないで」と情けない声を出した弟の言葉に、はたと兄上が真顔でこちらを見たのがなんとも可笑しかった。
「……雇い主様だと⁉︎ 莫迦野郎、それを早く言え‼︎」
弟に負けず見事な体つきの宿の若亭主は一瞬で顔色を変えると、たった今まで羽交い締めにしていた弟を放り投げ、即座に居住まいをぴしりと正し「失礼いたしました。弟が大変お世話になっております、西の大公ルドマン様の御家の方でございましょうか」などと慇懃なまでに丁寧な挨拶をくださった。僕の方が恐縮してしまい、「いえ、あの、彼女が卿のご息女なのです。が、そのような扱いは望んでいませんので、どうか普通になさってください」と狼狽える始末。僕のすぐ後ろに控え、黙って場を見守っていたフローラがそこで初めて口を開いた。
「こちらこそ、アランさんにはいつも大変お世話になっております。ですが今、夫が申しました通り、今の私はルドマンの遣いではございません。どうかお気兼ねなく、一介の客として扱っていただけましたら大変嬉しゅうございます」
どこまでも清涼に響く、彼女が奏でる鈴の声に僕も主人も毒気を抜かれてしまった。
彼女はいつもと変わらず穏やかに笑う。拭いきれない気品をまとい、物腰は優雅に柔らかく、この場で誰より落ち着き払っている。どこをどう見てもお忍びの姫君である。いつの間にかカウンターの奥から顔を出したご両親らしき年配のお二方と、ご亭主の奥方と思しき女性も、呆気にとられたようにフローラと、久々に見る次男坊とを交互に見ていた。
────本当に、このひとには敵わないな、と思う。
「えーっと……そんなわけで、ただいま」
へらりと笑い沈黙を破ったのは、やはり奔放な宿屋の次男坊であった。
絶妙に緊張感を打開してくれた彼の言に、思わず笑いがこみ上げる。フローラもまた彼から僕へと視線を移し、愉しそうに微笑んだ。まだ唖然としている宿屋の面々へと向き直り、最後の締めくらいはと笑顔を作り直し、宣った。
「昨今は海路も荒れており、中々帰郷が叶わなかったようですが、縁あって本日、彼のご帰省に同行させていただきました。しかし一日限りですので、どうか我々には構わずご家族水入らずでお過ごしいただければ。……その前に一泊だけ、宿泊の手続きをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
無事宿に一室を確保し、日中の予定を全て消化し終えた僕達は今、修道院から街へと続く道をのんびりと散策しながら夜の訪れを待っている。
宿屋マクベル亭の大旦那と現主人は、ルドマン公息女であるフローラをもっともてなしたがっていたように見えたが、相変わらずおっとりと微笑みつつ首を傾げる令嬢を前に寧ろたじたじのご様子だった。それとなく匂わされた夕食への誘いにも「せっかくですから私、以前入れなかったお店でお食事をしてみたいですわ。ね、あなた」と花の微笑みで言われれば、僕はもちろん宿の皆様もそれ以上強く言えるはずもない。明日の朝食だけはお言葉に甘えます、と約束をして、また連れの魔物達に食事を用意してもらえたらありがたい旨を伝えて、あとは自由にさせていただけることになった。
代わりに、いくつか探し物を扱っていそうな店を教えてもらい、昼食を挟んで順調に店を回ることが出来た。あとは夜に開く雑貨屋やオラクル屋を覗いて、昼見たものといくつか比較をしたいくらいのもの。
昼食の後少し時間ができたので、あの海辺の修道院へ足を運んできた。
実はこれまで本人にちゃんと確認したことはなかったのだけれど、フローラが数年学んだという修道院はやはりここのことだった。僕とヘンリー、マリアさんが樽に入って流れ着くほんの数日前、ほとんど入れ違いにこの修道院を発っていたのだそうだ。
正直、この二年間の出来事は自分に直接関わること以外あまり覚えていなくて、そういえばどこぞのご令嬢が最近までここで学んでいた、とシスターが言っていたかな、くらいにしか思い出せない。
当時は父の遺言や母の行方のことで本当に頭がいっぱいだったし、サラボナで彼女に出会うまでご令嬢の噂に興味のひとつも湧かなかった僕だから、今となっては致し方ないことかと寂しく思ったりもする。
もし二年前に君と知り合っていたら、僕の人生は今頃どう変わっていただろう。
再会を喜んだのも束の間、マザーから僕らのことを聞かされたフローラもまた、あと数日出発を遅らせていれば……と唇を噛んで俯いていた。
でも、それで良かったのかもしれない。もしも僕達が流れ着いた時君がここに居たら、君はきっと実家には戻らず僕達を世話してくれる羽目になったのだろうし。僕もまた、ここで君に出会ってしまったなら黙って実家へ帰せた自信はない。最悪、結婚の許しを待たずに卿の不興を買い、サラボナを叩き出されていたかもしれない。当時十四歳の少女に、今ほどの想いを抱いたかどうかは定かではないけれど。
「敬虔なる私達の家族、シスター・フローラ。いいえ、今はグラン夫人でしたね。神の与え給うご縁とはまことに異なもの。神の寵愛を戴いたあなたと、神のお導きに因りこの地へと辿り着かれたグラン様。お二方にもたらされた希なるご縁、素晴らしき出逢いを──私達も心より歓び、祝福いたします。お二人の歩む道に、尊き神のご加護をいただけますように」
慈愛に満ちたマザーの言葉を戴き、手を合わせ祈る清廉な妻の隣で、いつもは信心の薄い僕も首を垂れて神への感謝を捧げた。
顔馴染みのシスター達や、住み込みの母子とそれぞれ懐かしく言葉を交わし、ヘンリーがマリアさんに求婚した時の様子などという大変愉快な話も聞かせてもらって、満ち足りた心持ちで修道院を後にした。
「いつかまた訪れることができたら、と思ってはいましたけれど、こんなに早く皆様にお目にかかれるとは思いませんでした。テュールさん、本当にありがとうございます」
心底嬉しそうに声を弾ませ振り返るフローラが急に年相応に少女らしく見えて、そんな屈託ない表情にどきりとする。
「修道服姿のフローラ、ちょっと見てみたかったな。あそこにあった本全部読んだんだって? 物知りだとは思っていたけど、すごいな」
「ふふ。お陰様で、読書が趣味になりました。あと、お料理やお裁縫を教えていただいたり……修道院では可能な限り自分達で作って賄うのですよ。衣服の仕立てもしましたし、裏の畑をお世話させていただくこともありました」
重ね重ね驚かされてしまう。土仕事を喜んでやるご令嬢など想像もつかない。料理の件はもちろんのこと、このお嬢様の持つ生活スキルの高さは半端ないように思うのだが。
個人の研鑽を欠かさないことは勿論、見識を深めることも怠らない。いっそ彼女に出来ないことなどないように思える。思ったままそんなことを呟いたら、彼女は緩やかに首を振り、微笑んだ。
「私自身はまだまだ、足りないものだらけです。魔法も武器も満足には扱えませんし、一人では外を出歩くこともままなりません。目の前に助けを請う方がいても、きっと共倒れになるだけ。いいえ、私の方が助けを請うしか出来ないかもしれない……」
「それで、いいんじゃないかな? 助けを呼んでくれるだけで十分だと僕は思うよ。君にはもう、僕や仲間がいるんだし」
少し、遠くを眺めた彼女の横顔を覗いてそう言ったら、彼女は微かに驚いたように目を瞠ってから「そう、……そうかもしれませんね」と呟いた。
「今までは、自分の無力さにさほど疑問を抱いたことはありませんでした。出来ないことが当たり前で、何とかしようなどと思ってもみませんでした。……何も出来ないことが、あんなにも辛いことだなんて思わなかった……」
それは、僕がリングを探していた時のことを言っているのか。それとも、一緒に小島の祠を訪ねた時のことを。
さらりと長い碧髪を風になびかせ、彼女は地面に視線を落とした。旅装ではない、踝まで隠した清楚なドレスが髪に遅れて僅かにはためく。襟元を薄いカーディガンで覆った彼女はひどく大人びて見えるけれど、悔恨に揺れる瞳はどこか寂しげで、一人膝を抱えてうずくまる子供のようにも見える。
「……やっばり、我儘、なんだと思います。私もあなたと肩を並べていたい。後ろで守られるだけなんて、嫌。何処へだって行けてしまうあなたに、ちゃんとついていけるだけの力を持ちたいのです。……例え、其処が『魔界』だったとしても」
どくり、と心臓が強く鼓動を打った。母について僕が語ったことに、彼女が言及するのは初めてだった。僕ですら実感を伴っていないその場所へ赴こうという意志を、彼女はその強い眼差しで口にした。
「けれど────だからこそ、あなたにお願いしたいことがあります」
そうして、数歩分身体を開けて振り返った彼女は、ひたむきすぎる瞳を真っ直ぐに僕に向けた。
残酷なほどに澄み切った声が、耳許を凪いでいく。
「私がいることで危険が増してしまう時は、すぐにでもその場に置いていってください。そのことで気が咎めたとしても、どうか私のことは捨て置いてください。私一人のために多くの犠牲を払わないでください」
逸らすことを許さない綺麗な双眸は、その引力だけで僕の視界を捉える。交わった視線の先で、一瞬苦しげに翡翠の虹彩が揺らいだ。
「……私も、気をつけます。仲間の皆さんに、あなたに危険を及ぼさないよう、細心の注意を払っていくつもりですけれど、どうしたって間に合わないことがあるかもしれないから……」
そこまで告げたフローラは、やっと僕から視線を外し、瞳を伏せた。
そんなことは出来ない、と答えることは容易い。どんな局面だろうと置いていくつもりは微塵もない。それは彼女が譲れないのと同じで、僕にとっても引くことのできない一線だ。けれど、彼女が望むのはそういう答えではないのだろう。伴侶となった今ならなんとなくわかる。
君がここに居てくれるのは、それほどの覚悟があってのことなのだと。
「…………、────わかった」
三歩の距離を立ち尽くしたまま見つめあって、やっと吐き出した声に、君が小さく身動ぎする。
「誰一人危険には曝さない、って言いきれたらいいけど、さすがに無理だからね。だから、最善を尽くすよ。誰も失うことがないよう、今まで以上に気を配るようにする。だから……君ももっと、僕達を頼って」
ゆっくり一歩、踏み出して。黙って僕を見上げている君と視線を交わらせたまま、窺うように膝を屈めて微笑んでみせる。
「大丈夫。君が守ってくれるように、僕も、僕の仲間達も君を守る。────迷惑なんかじゃない」
手を伸ばせば、すぐに触れられる滑らかな頰。僕の掌に包み込むと白さが一層引き立つ。撫でられるままそっと頰の温もりを僕に預けた君が、やっと表情を緩めて息を吐いた。
「もう、家族、ですものね」
瞼を閉じ、やわらかく笑んで囁いた、透き通った彼女の声に。張り詰めていた心が解けてじわりと歓びが滲んでいく。
「うん。……君も、プックルもピエールもホイミンも。みんなみんな大切な、僕の家族だから」
それを口にしながら、僕は奇妙な高揚感を感じていた。
魔物遣いの資質を見出してもらい、魔物達が友となってくれて今日まで来たけれど、この不思議なつながりを『家族』だと認識したことは多分、なかった。
父さんとサンチョはこれまでの僕にとって唯一の家族で、今でもあの時間を愛しく思い出すけれど。仲魔達と過ごす時間はあの頃に少し似ていて、でもどうしてなのか、それを家族と呼ぶことは出来ずにいた。
今、やっと理由がわかった。
ずっとずっと、無意識裡に抱いていた『家族』の偶像。昨日、みんなでバスケットを囲んで昼食をとった。君が弁当を作ってくれた。一緒に買い物をして、甘いおやつも作ってくれた。見下ろせば、いつだってすぐ隣に居てくれた。共に眠って、目を覚まして、また君が笑って挨拶してくれて。そんなかけがえのない瞬間をいくつも、惜しみなく与えてくれる、君が。
僕達を『家族』にしてくれたんだ。
「……フローラ」
往来で人目はあったけれど、抱きしめたい気持ちが勝った。そっと肩を抱き寄せたら、君は戸惑いがちに軽い体重を預けてくれた。
「────ごめんなさい」
腕の中から、ごく控えめな囁きが辛うじて耳に届く。
「お義母様をお助けするために旅をなさっているあなたに、言って良いことではありませんでした」
「……いや。いいんだ、フローラの覚悟はちゃんと伝わったから」
もう一度だけ力を篭めて抱きしめたら、君もそっと優しい抱擁を返してくれた。そうしてお互いの体温を確かめてから、照れ隠しの苦笑いを交わしつつ身体を離して。
家族で、夫婦で、まだ恋人になったばかりの君と僕。ほとんど会話がないまま一緒になった僕達だけど、だからこそ、これからたくさん話をしようと君も言ってくれた。
こんな風にたくさん、たくさん話そう。譲れないことがあってもいい。意見がぶつかって折り合わないことがあっても、最後は笑って越えていければいい。
「あぁ。なんか、安心したらお腹空いちゃったな」
急に空腹を感じて思わずぽろりと口にしたら、フローラが肩を揺らして笑いながら僕を見上げた。
「ふふ。それでは街に戻って、食べるところを探しましょうか」
「そうだね。フローラ、食べたいものはある?」
「特にこれというものは……テュールさんは何かございますか? 通りを歩いて、美味しそうな匂いがしたところに入ってみるのも楽しそうですわね」
「あはは、いいかも。匂いは嘘つかないもんね」
肩を並べて他愛ない会話を楽しみつつ、ちゃっかりと君の手を引いて歩き出した。こんなのどかな夕暮れ時に二人きりで歩くのはそう言えば初めてに等しくて、気づいてしまうとどぎまぎして繋いだ手までじわりと汗ばんできてしまう。
「何だか、デートみたい、ですね」
ほとんど頭の高さにある僕の肩に頰を寄せたフローラが、幸せそうに小さく、囁いた。
「……デートです。結婚して二週間も経って、念願叶って今日がまさかの初デート。甲斐性なしでごめんね?」
「もう。テュールさんたら」
本当はどきどきして、きっとまた顔が赤くなってしまっていたから。夕映えの朱に紛れてわからないことを祈りつつ、態とらしく唇を尖らせて言ったら、君はまたくすくすと愛らしく笑って腕に抱きついてくれた。
「大好き、ですから」
────もうちょっと自重しようと思ったのに。そんなに可愛く言われたら、我慢なんかできない。
「うん。……僕も」
囁きとともに身を屈めて、柔らかな唇を掠めて奪った。
朝、身を竦ませたあの躊躇いは感じなくて、その代わり、信じられないほどの幸福感が胸いっぱいに広がっていく。
倖せを、増やしていこう。二人の時間を、思い出をたくさん。
諦めの悪い僕だから、さっきの君の願いを全て聞き届けることは出来ない。置いて行って、だなんて、どんなに懇願されてもしてやらない。その分がむしゃらに足掻くし、君にも足掻いてもらえることだけ考える。
僕と離れたくないって、置いていかないでって言わせてみせるよ。
通りすがりの旅人の冷やかしめいた口笛を受けて、お互い火照った顔のまま、肩をすくめて笑い合った。そうしてもう一度手を繋ぎ直して、街へ入っていく人々の群れへと溶け込んでいった。