Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#6. 出航準備

 それから出航までの数日は慌ただしく過ぎた。

 ポートセルミに戻った翌日、連日の疲れが祟ったのかフローラが珍しく少し寝過ごした。と言っても僕とほとんど同時に目が覚めた、と言うくらいだけど。

 顔色も優れなかったので、ホイミンとスラりんを宿の部屋に呼び寄せ、フローラの話し相手兼監視役を担ってもらった。こうでもしないと、ふらふらしたまま僕について動こうとしてしまうから。

 午前中は、火山で得た雑多なものの整理や換金に奔走した。忘れないうちに鍛冶屋へ足を運び、父の剣を見てもらう。先日ホースデビルの一撃を無理矢理防いでからというもの、柄と剣身がややぐらついた感じがしていた。ここはプックルの隠れ家で見つけたばかりの、未だ煤けていた父の剣を綺麗に手入れしてくれた鍛冶屋でもある。

「立派な剣だからそうそう壊れはしないだろうが、あんた、あんまり無茶な扱いはいかんよ?」

 耳に痛い忠告をありがたく受け取り、研ぎ直しと調整を依頼して宿に戻った。部屋に昼食を持ち込んで妻と一緒に軽く食べた後、細かい用事などは気にせずしっかり休むよう念押しをして船へと出かけた。

「テュールさんは、お元気なのですね……」

 見送り際、ベッドに腰掛けたフローラは落ち込んだうさぎの如くしゅんと項垂れ呟いた。

「いや、えっと、僕は本当に丈夫だから。育ちのせいかな、普通の人より体力あるんだ、多分」

 慌てて言うと、目を伏せたまま遠慮がちに頷いていた。どう解釈してくれているかはわからないが、十年の奴隷生活で鍛えられた体力だけは伊達じゃない、と我ながら思う。

「夕方、元気そうだったら外の店で食事しよう? だから、今日はゆっくり休んでいてね」

 昼食の様子からあまり食欲もないようで心配だったが、目の高さを合わせてできるだけ優しく伝えたら、嬉しそうにほんのり微笑んでくれた。

 係船場では既に、船長達が海図を広げて話し合いをしていた。

 遅れての到着を詫び、その輪に加わる。気後れしそうなお歴々に囲まれ若干緊張しつつ、先ずは宝石採集の成果を報告した。凡そ道具袋二袋分の宝石を前船長に手渡したところ、居合わせた航海士達は各々目を丸くし嘆息していた。

「まさか本当に、これだけの宝石を一週間足らずで集めて来るとはな。仄かに魔力を感じるが、これらの石は魔物から?」

「はい、踊る宝石という魔物が生成したものです。どうでしょうか、まだ足りないようなら市場を当たって来ようかと思っているのですが」

 僕の問いにイヴァン殿は首を振り「あればあるほど良いとは言ったが正直、想定以上だ。これなら十分事足りる」と言ってくださった。

現船長のフォスター殿もまた「テルパドールにも幾らか宝石をお持ちになる予定でしたでしょう? 掃討後、余った分はそのままお持ちいただけるようにしましょう」と言い添えてくださる。ほっとして、お二方に深く頭を下げた。

「大旦那様からも言伝を頂戴しております。こちらは、若旦那様に」

 久々の大仰な呼ばれ方に苦笑いしつつ、書簡を受け取った。

 中には流麗な筆致で、当に激励としか言いようのない力強い言葉が並べられていた。曰く、母なる海の安寧を願い、長く辛酸を嘗めた航海環境の是正を試みる、その心意気に深く共感し、また西の主公として大いに期待している、と。卿の興奮が直に伝わるその書簡を胸を熱くしながら読み進めていたが、最後の一文にぴたりと目が止まった。

「僕に、……総帥権を一任する、と」

 口の中で反芻し、さすがに強い戸惑いに躊躇いつつ顔を上げた。

「……僕はただの旅人で、人を率いた経験などありません。いえ、人と一緒にこういった戦いに臨んだこともほとんどないんです。ましてや今回、共に海に出てくださる皆様はイヴァン殿やフォスター殿の元に集った方々なのですから……」

「それだけ貴方が、大旦那様の信の篤い方だと言うことでしょう」

 ほとんど間を置かず、真っ先に静かな言葉を返してくださったのはフォスター現船長だった。

「ご心配には及びません。もちろん我々も自分らの兵の統率はいたします。若旦那様に率いていただきたいのは船の長である私と、イヴァン殿。そして貴方のお仲間方と、この掃討作戦の全容、です」

 穏やかに微笑む白髭の船長の隣で、イヴァン殿もまた、皺を刻んだいかつい顔を悪戯っぽく歪めて男前に笑う。

「今度の作戦は君と、君のお父上の共闘のようなものだろう? 我々は同調したまでだ。……それに、お嬢様の新婿が指揮をとる、となれば、我々ルドマン様に仕える多くの船乗り達への顔見せとしても申し分ない」

 言いようのない不安に恐れを抱きつつ頷く。つまり今回の戦線は、現状ルドマン家後継の筆頭候補である『フローラの伴侶』の存在を知らしめる絶好の機会である、と。その意図は卿の手紙からも薄々読み取れた。

 ここまでお膳立てしていただいて、身の丈に合わない大舞台に躊躇しているに過ぎないと、頭ではわかっている。

「……今回乗船する中にはパパス殿を知る者も多い。彼らもまた、君の活躍を楽しみにしている」

 ────更に、駄目押しで父の名を出されては、ここで引くようなみっともない真似が出来るか。

 まだ踏ん切りはつかないけれど、元々この話を持ちかけたのは僕だ。ここまでおおごとになるとは予想していなかった、けれど、参戦してくれる船員達一人一人の命を預かる責任を船長二人に押し付けようとは思わない。

「……精一杯、務めさせていただきます。若輩ですし、海のことは全くの素人ですので、皆様、何卒諸々ご教示ください」

 汗ばむ掌を固く握り込み、数多の視線を受け止める。改めて、集まってくださった一人一人に向き直り、深く拝礼した。

「それでは、海洋における戦則についてご説明いたしましょう。若旦那様、こちらへ」

「あの」

 言うなら今しかない。思い切って声を上げたら、居合わせた面々がぱらぱらとこちらを振り返った。再び視線を受けて気恥ずかしくなるのを堪え、懸命に言葉をつなぐ。

「あの、出来れば……やっぱり名前で呼んでいただけると。若旦那様、というのはなんとなく、心臓に悪くて」

 僕の懇願を受けて、フォスター船長は些か面喰らったようだった。初対面の際も伝えたことだが、社交辞令と思われていただろうか。

「……と、坊やが言っとるぞ? フォスター。お前さんは船乗りのくせに堅苦しいのが難だなぁ」

 にやりと笑ったイヴァン殿がすかさず肘で船長の脇腹を小突いた。いや、豪華客船の船長として礼を重んじるその姿勢は絶対に必要だと思うし、尊敬しています。ただ僕が恐縮してしまうというだけで。

「そういう貴方は気安過ぎます。その呼び方は失礼だと申し上げたでしょうに」

 苦虫を噛み潰した顔の船長がイヴァン殿の軽口を咎めたが、老練の船乗りは意に介すことなく笑っている。坊や、という呼び方のことなら確かに幼い気はするものの僕は気にならない。生真面目な船長がちらりとこちらを見たが、微笑んで首を振ってみせるとややため息混じりに頷いた。

「……わかりました。では、テュール殿、こちらへどうぞ」

 瑣末事ながらも押し通してしまったことに罪悪感を覚えたが、僕を促す船長の瞳は先ほどより少しだけ親しげに緩んで見えて、何よりその呼びかけに心からの安堵と感謝が湧き上がる。

「はい。────ありがとうございます!」

 

 

 

 ストレンジャー号をはじめ、ポートセルミ港を拠点とする船の多くは客船もしくは漁船で、戦闘に特化した船というわけではない。ヘンリーの祖国ラインハットにならばそう言った船もありそうだが。

 しかし、そこはさすがルドマン卿の膝元といったところで、小さな船でも沈みにくい工夫を施してあったり、飛び道具だの救命用の魔道具だのを至る所に積んであったりする。

 話し合いの後、埠頭に停船中の船を幾つか見せてもらった。今回参戦する船は大型の船がストレンジャー号を含め三隻、他に出られるだけの小型船舶を集めてざっと十数隻とのことだった。既に何隻かの小舟は近海の警備がてら沖に出ているという。

 今回の作戦、第一の目的はここ数年の難所であるカボチ村西の海域、セルマー海峡をストレンジャー号で無事通過すること。第二がその海域の魔物をできる限り殲滅すること。その後はストレンジャー号が囮となり、魔物らを釣ってなるべく南へと誘導する。残った船隻で海峡以北の魔物を散らし、まずはポートセルミからサラボナ近辺までの海域の安全を確保することが狙いだ。それ以南の海域についてはストレンジャー号、つまり僕らの力に依るところとなる。

「船底を覆うように、この網を取り付ける」

 小さな革袋をいくつも縫い込んだ大きな網を広げて見せながら、イヴァン殿がいつも以上に固い低音で告げた。

「中には砕いた宝石と聖水を仕込んである。船底に穴を開けようと寄ってきた魔物はこいつを破って酔っ払うって寸法だ。宝石は魔物にとって猫のマタタビのようなものらしいが、宝石片を聖水に漬けることで更に濃い酒のような効果を得られるのだと。君のお父上が授けてくださった秘策だ」

 海だから、革袋が破れれば水中に一気に拡散する。陸上では風向きその他の要因であらぬところに影響を及ぼしかねないが、海中だからこそ、一度に多くの魔物が暴れてもこちらへの危険はほとんどない。イヴァン殿曰く、少量でも十分効果があったそうだ。ただ宝石はどうしても高価なので、常時この罠を張り続けることは難しいのだという。

 ストレンジャー号に出会った当時、父は手持ちの宝石を剣の柄で粉々に砕いては聖水の瓶に流し込み、海に撒きながら尚追いすがる魔物を次々斬り伏せ船を動かしたのだ。その顛末も、臨場感さながらに教えてくださった。

 イヴァン殿から語られる父の武勇譚を聞きながら、まるで子供の自分に還ったように、胸がわくわくと躍り昂るのを止められなかった。

 どんな勇者だって敵わない。僕の父さんは、世界で一番の英雄だ。

 出航まであと数日。足りない買い物や雑用をこなしがてら、空いた時間に罠づくりを手伝うことを申し出た。その日は日暮れまで宝石を砕いたり、革を裂く作業を手伝ってからフローラの元へと戻った。

 妻の待つ部屋に帰る、という所帯じみた行為がたまらなく嬉しい。昼食ぶりに見た彼女は肌もだいぶ温かみを取り戻していて、僕はまた安堵の息を吐いた。

「たくさんお休みをいただいて、すっかり元気になりました。ですからまた……明日は、一緒に連れて行ってくださいね」

 にこりと控えめに笑い、彼女なりに精一杯ねだってくれる。そんな姿にまた愛くるしい気持ちを抑えられず、傍に腰を下ろして柔らかな身体をそっと抱き寄せた。

「じゃあ、明日こそ市へ買い物に行こう。なんならジャム作りも手伝うよ」

 額をこつりと合わせてそう言ったら、嬉しさが溢れるような、満面の笑顔で頷いてくれた。

 その夜は約束通り二人連れだって外に出て、船員に教えてもらった穴場の料理屋で食事をした。港町ならではの、新鮮な海の幸のスープがとても美味しかった。

「なんだか、元気になれるお味ですね」

 相変わらず美しい所作で銀の匙を口に運ぶ彼女が、鈴の声で囁いて微笑む。

 珍しい料理を楽しみながら、今日の打ち合わせの報告をした。義父からの指名について話すのは何となく気が引けてしまったが、フローラは「あなたになら、きっと皆様ついてきてくださいます。私も精一杯お手伝い致しますから」と優しく、そして心強く肯定してくれた。

 食事の後は夜のポートセルミを二人でのんびり散策して宿に戻り、また少しだけ身体を動かしてから就寝した。

 出航まで、あと五日。

 

 

 

 翌朝は朝から市場巡りをした。

 やはり地方によって売られているものが違うので、ポートセルミとオラクルベリーをもう一度はしごしていろんな果物を見て回った。

 柑橘類に色とりどりのベリー、桃。光沢の素晴らしい林檎に、珍しい水分の多い果物なども見かけた。「こんなにたくさん買っていただいて、良いのですか?」と彼女は何度も僕を振り返り、その都度笑って頷いてみせた。

 雑貨屋でジャムを入れる小瓶を見繕っていた時、小ぶりな深い蒼色の石にしゃらりと金のフリンジが飾られた、シンプルな耳飾りが目に留まった。

 つい先日、躍る宝石に飲み込ませたものと少し形が似ているが、あちらは全て金で出来ていて細工もずっと細かかった。こちらはそれより質素な装飾だけれど、わずかに紫がかった瑠璃色の宝玉が放つ清楚な輝きはフローラによく似合いそうな気がした。

 ちらりと彼女を盗み見るとまだ小瓶選びに夢中なようだったので、こっそりと店主を手招きして急いで会計してもらった。

 我ながら一端の夫のようだな、なんてどきどきしつつ。

 フローラは今回、あまり装飾のない簡素な小瓶を選んだ。硝子が厚い方が密閉するのに良さそうだから、という理由で選んだ小瓶を大量に馬車へと運び込む。割れないよう細心の注意を払って転移先を選び、ルーラを詠唱して船の近くまで一気に戻った。

 それからまた船に材料を運び込ませてもらい、フローラはこの後ずっとジャム作りをするとのことだったので、僕はキッチン外の甲板で罠の材料をちまちま準備しつつ、たまにフローラの手伝いをすることにした。聞けば、仕上げにジャムを詰めた小瓶を煮沸することで保存性を最大限高めるのだそうで、火傷されてはたまらない、とそこは僕が申し出て担当することにした。修道院仕込みの手際を疑う訳ではないが、過保護上等の夫としては妻の白肌に痕でも残ったらと思うとどうしても心配なのだ。

 簡単な軽食でお昼にしたあと、それぞれの作業に取り掛かった。小さく切った革を見本の通り小袋に仕上げていく。ここに宝石片ごと聖水を流し込み、溢れないように絞り上げる。奴隷だった頃は力仕事専門で、こういった細かい仕事はあまりしたことがない。綺麗に仕上がっている見本と睨めっこしつつ、四苦八苦しながら革袋を仕立てていった。中身が簡単に漏れないよう隙間なく縫い合わせる。革は厚いので、これは確かに非力な方には辛い作業だろうな、と思う。

 尤も、この浅はかな先入観は翌日、呆気なく破られてしまうのだが。

 集中して縫っていたら、程なく甘い香りが立ち込め始めた。

 扉の向こうでフローラも頑張ってくれている。そう思うと、慣れない作業もまだまだやれると思えてくる。

 そこからまた一、二時間、黙々と縫い作業をしていたら、後ろで髪を結いたエプロン姿のフローラがひょこっと顔を出した。「お疲れ様です。出来立てのジャムで少し休憩はいかがですか?」と、中に紅茶まで用意して手招きしてくれる。仕込んだばかりのそれは桃のジャムで、ついでに焼いたというふわふわのスポンジにジャムを挟んでちょっとしたケーキのようにしてくれていた。スポンジとジャムの相性も絶妙で、木苺とはまた違う爽やかな甘さに舌鼓を打った。

 せっかく作ってくれたおやつなので、差し入れと報告がてら、イヴァン殿が作業場として解放している灯台の一階を訪った。手隙の船乗り達が僕と同じく、それぞれの作業に勤しんでいる。「妻が甘いものを作ってくれましたので、良かったら」と皿を差し出すと灯台に居合わせた男達は祭りの如く沸き立った。

「さすがお嬢様、人心を掌握する術を心得ておいでだ」

 あっという間に空になった皿を苦笑しつつ眺めやり、イヴァン殿は冗談めかして呟く。僕の作った拙い革袋も検分し「うん。ま、綺麗ではないがしっかり縫製できている。この調子で頼めるかね? 坊や」と労ってくださった。頷き、またフローラが調理する船の甲板へ戻って作業を再開した。ちまちま縫う作業に没頭していたら、あっという間に陽が傾いてきた。

 ちょうどその頃、小瓶にジャムを詰め終わったというので最後の仕上げ、煮沸をまとめて行った。ぐつぐつ煮え立つ鍋に小瓶を沈め、しばらくしてから取り出す。高温のそれを金属の棒で挟んで取り出し、ミトンで拾い上げてテーブルに並べていく。うっかり取り落とさないよう細心の注意を払わねばならない。料理とは時としてこのような危険まで冒さなくてはならないものなのか、と密かに戦慄する。

 後片付けまで全て終わる頃には、すっかり陽が沈んでいた。

 今日の成果をイヴァン殿に渡し、鍛冶屋に寄って研ぎ終わった剣を受け取ってから宿に戻った。二人ともそこそこ疲れていたので今日は酒場で簡単に夕食を済ませ、湯を使った。あとは寝るだけというところで、昼間こっそり買った耳飾りの小さな包みを手渡した。

 え、と目を瞬かせた彼女に、照れ臭いのを我慢しつつ開けるよう促す。おずおずと包みを開けた彼女は、中から現れた耳飾りを見つめて息を呑んだ。

「小さいけれど、瑠璃石を使ってるんだ。幸運の石なんだって」

  両手にそっと耳飾りを載せて見入っているフローラに、じわじわと侵食する緊張を堪えながら、声をかけた。

「ちょっと濃いめの蒼だけど、フローラに似合いそうだなって……こないだ溶かしちゃったやつより、ずっと質素なんだけど」

 気に入ってもらえただろうか。ベッドに腰掛けたまま耳飾りを見つめている彼女の表情は僕からは見えず、敢えて覗き込む勇気も持てなくて。それでも中々返事は返ってこず、緊張が振り切れそうになった頃、

「……指輪だけ、あれば、十分だって……申しましたのに」

 きゅっと、胸許に耳飾りを握り込んで。

 微かに湿った声音で、ぽつりと彼女が呟いた。

「手放せないものが増えてしまいました。……大切に、します」

 そうして顔を上げた彼女は、言い表せないほど澄み切った、綺麗な笑顔を僕に向けてくれた。

 胸がいっぱいになる僕の目の前で、耳飾りをつけて見せてくれる。微かに潤んだ瞳でにこり、と微笑んだ、そのあどけない表情は、そう。求婚した日に僕の心臓を射抜いていった、一片の曇りもないあの笑顔と同じもので。

 ────ああ。

 僕はやっぱりその笑顔が、好きで好きで仕方ないんだ。

 嬉しくて、こみ上げる愛しさが抑えきれなくて、逸る衝動のまま彼女の傍に手をついた。耳飾りごと頰を掬い取って、ほんのりと紅色に染まった目許に口づける。次いでやわらかな唇と、恥ずかしそうに睫毛を伏せた瞼もなぞって。

「フローラ。……好きだよ……」

 覆いかぶさるように体重をかけると、華奢な身体がすんなりとベッドに沈んだ。

 浅黒い肌の下に閉じ込めた君は、その碧髪も相まって深海の真珠のようにまっさらで美しい。僕と視線を絡めるたび、白い肌がほんのり色づいていく様はたまらなく愛らしくて。

「良かった。すごく、似合ってる」

 形の良い耳朶に揺れる瑠璃と金の耳飾りをくすぐれば、その耳の先までさぁっと鮮やかに赤らむ。

 熱を持った耳をそっと、甘やかに食んで。

「もっと、触れても……いい?」

 耳の中に囁きを落とせば、君がこくり、と恥じらいながらも小さく頷いてくれる。

「……テュールさん。……大好き、です……」

 透明な、鈴の声が僕を君の奥へと誘う。

 滑らかな肌に掌を這わせて、指を絡めて。

 眠りにつくまでの僅かな時間、僕は思うままにフローラと肌を重ね、お互いを貪りあった。

 薄衣を脱ぎ捨てた肌はしっとりと汗ばんで、触れたところから二人分の鼓動がとくとくと重なって響きあう。

 深く、深く交わって。抱きあって求めあって、何度も何度もお互いを満たしあって。

 愛しい花の香りに浸った秘め事の最後、僕はフローラの温もりを腕の中に確かめながら、緩やかに瞼を閉じた。

 

 

 

 翌朝は恐ろしいほどすっきりと目が覚めた。

 こう言ってはなんだが、何をそんなに溜め込んでいたのだろうかと。思えばサラボナを発ってからずっと彼女とこうして睦み合うことを我慢していたんだった。と言っても二週間程度の空白でしかないけれど、夫婦なんだからもう少しくらい、開き直ってもいいものだろうか。

 フローラは昨夜の耳飾りもそのままに僕の胸許に額を寄せて、健やかな寝息をたてていた。耳飾りがしゃらりと揺れる耳だけは色めいて艶かしいのに、無防備な寝顔は不似合いなほどに無垢そのもので。つい緩んでしまう頰をそっと額に擦り寄せた。当然、彼女もすぐに目を覚ます。昨夜抱き合った姿のままであることに互いに気づき、こみ上げる羞恥を紛らわしてくすくす笑いあった後、順番に朝湯を使い身体を流した。

 朝食の後は、以前頼んだオーダー品の靴などを確認しに仕立て屋へ行った。出来たものを試着させてもらい、ほんの少しの微調整をお願いしてから昨日の続きの仕事をもらう為に灯台へ行った。

 いよいよ作業も追い込みで、仕上げのために船員のご家族も駆り出されているようだった。

「ほらほら、あんたらがとっとと手を動かさないとあたし達の仕事がなくなるんだよ! 早くおやり!」

 数人で大網を取り囲み、威勢良く船員達をけしかける奥方達は神と見紛う手捌きで網に革袋を取り付けていく。え、あれ僕が昨日使っていたのと同じ針と糸だよな? 絞った革袋は益々硬くて針が通らないはずなのに、なんなんだあのスピードは。

「手練れ、どころの話ではありませんわね。さすがですわ……」

 僕の隣で呆然と奥方達の神業を見つめていたフローラもまた、ほう、と吐息に感嘆を滲ませて呟いた。

「まあ! もしや、ルドマンのお嬢様では⁉︎」

 灯台の入り口に佇んだまま彼女達の手腕に見とれていたら、場を取り仕切っていた年配の身なりの良い女性がふと、こちらに視線を留めた。

「こんなむさ苦しいところへよくお越しに! ……あら? ではそちらがもしかして、噂のお婿様で?」

 噂のって何だろう。大凡見当はつくものの、混ぜ返したい気持ちを堪えて愛想笑いで会釈をした。同じく僕らに気がついたイヴァン殿も「おいおい、若人を威嚇してくれるなよ?」と揶揄い混じりに夫人をいなしつつ立ち上がり出迎えてくれた。

「すみませんな、家内です。お嬢様にまでわざわざお運びいただき申し訳ない。坊やは今日も手伝ってくれるのかい?」

「はい。こちらの準備は、あとは持ち物の確認くらいですから。僕ではあまり役に立ちそうにないのですけど」

 不躾だと鼻白んだ奥方の視線をさらりと受け流し、イヴァン殿がまた革布と裁縫道具を手渡してくれる。

 昨日と同じく、ストレンジャー号の甲板を借りて縫製に明け暮れた。フローラのジャム作りも順調なようで、これまでに半分以上の果物を消化できたらしい。早ければ明日中には全部ジャムにできそうです、と、合間に作ってくれたサンドイッチを昼食に振る舞いながら話してくれた。

「結局一人で任せちゃってごめんね。ずっとやってて疲れない?」

 船のキッチンに籠りっぱなしのフローラを労うと、彼女はやはり微笑んで緩やかに首を振ってみせる。

「修道院で作っていた時も、一度にたくさん仕込んでいましたから。それに、スラりんちゃん達やあなたの喜ぶ顔を思い出したら、疲れなんて吹き飛んでしまいます」

 予想はしていたが、相変わらずの殊勝な回答についため息が漏れてしまった。ずっとやっていて集中力が途切れがちなのは寧ろ、僕の方だったからだ。

「……負けてられないなぁ。僕ももっと頑張らないと」

 呟いて、扉の外へ視線を投げる。午前中縫えたのは精々六、七袋。昨日とさほどペースが変わらない。あの神業とまではいかなくとも、もう少し早く縫えたらいいのだけど。

「ほ、ほら! 早くしないと船出に間に合わなくなっちゃうからね! その調子でどんどん、おやりっ!」

 唐突に響いた愛らしい声に、全くそぐわない威勢の良い台詞回し。ぎょっとしてフローラを凝視すると、当の本人は勢いで握ったらしい拳もそのままに、ぱちくりと目を瞬かせたあと、困ったように首を傾げた。

「……こんな感じでした? 難しいですね、叱咤激励って……」

 ────今の、励ましのつもりだったのか⁉︎

 腹を抱えて笑い出したい衝動をそれこそ死ぬ気で抑えつつ、「も、もしかして、さっきのイヴァン殿の奥方の真似?」と訊いてみたらやや憮然として頷かれた。面白い。面白すぎる。とんでもなく上品で落ち着いたお嬢様なのに、大真面目にこういうお茶目な一面を見せてくる。しかもどうやら自覚がない。幾らなんでも隙がなさすぎだろう。

「笑っていただけたなら、良いですけれど」

 どうにも堪えきれずテーブルに突っ伏して肩を震わせていたら、つん、とそっぽを向いて唇を尖らせる。そんな横顔も可愛くて仕方がない。

 ああ、もう、このひとは本当に。

「本当に、……どれだけ僕を骨抜きにすれば気が済むのさ?」

 くすくす笑いながら君を見上げて囁いたら、またもやかぁっと鮮やかに顔を赤らめた。そんな反応もまた、可愛い。本当に、冗談抜きで僕は君に惚れ直してばかりなんだから。

 フローラの激励のお陰で憂鬱な気分は一気に晴れて、その後も思い出すたび笑わせてもらった。うん、確かに疲れが吹き飛ぶ。大変楽しい気分のまま、とりあえず午前より少しペースを上げてこの日は計二十三枚の革袋を縫うことができた。気の持ちようって素晴らしい。

 この作業報告を以て僕はお役御免となった。あとはこちらで仕上げるから、とのお言葉に頷いて、次の日は一日フローラの調理手伝いと荷物の確認に費やした。

 既にほとんどの荷はストレンジャー号に運び込んであり、特別船室はいつでも使えるようになっている。卿らご家族がご遊航の際使われる特別船室を今回、夫婦で使うようフォスター船長から伝えられた時の緊張ときたら。フローラには当然のことでも、これまでにしがない三等船室しか使ったことがない身には恐れ多いことこの上ない。

 オーダー品の靴や衣類も全て無事に受け取り、これでほぼ僕達の出航準備は整った。

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