Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「よう。効果覿面過ぎやしないかい? 坊や」
筋骨隆々、浅黒い肌を更に真夏の日差しの下黒々と焼き上げたイヴァン船長が、接舷した客船の向こうから挨拶がわりに笑い含みの声を投げかけてきた。
愛想笑いと、若干の緊張感で以て彼を出迎える。ポートセルミ港を経って四日、竜神の帆を戴き、時折魔物の餌を撒きつつ緩やかに航行を続けるストレンジャー号は彼の指摘の通り、目覚ましいと言える戦果を挙げ続けていた。
「お前らが全部料理しちまうもんだから、うちの船員どもが暇すぎて呆けかけてるぞ。ちったぁこっちに回せ」
「そうは仰いましても……そちらが少し航路を変えてみてはいかがですか。セルマー到達までにも出来る限り魔物を減らしておきたいと、こちらの総帥殿も仰せですので」
戦意を隠さず揶揄する老船長の態度に動じることなく、共に出迎えた当船舶の長は澄まし顔で応酬する。
僕には決して見せることのないフォスター船長の慇懃とも取れる表情が可笑しく、僕はこっそり顔を背けてこみ上げる笑いを噛み殺した。
イヴァン船長率いるヴィクトリア号は、ストレンジャー号よりさらに十年ほど長く稼働している大型客船である。年季の入った船だがまだまだ現役で、普段はカジノ島から各都市への送迎を担っているらしい。古めかしくも懐かしさを感じさせる、上品な装飾が美しいこの船がストレンジャー号の左舷後方を二海里ほどあけて航行し、さらにその後方を少し小ぶりな新型客船、フローリア号が護っている。
フローラの名を冠した通り、結婚を控えた娘のために卿が造らせたばかりの真新しいこの客船は、なんとこれが処女航海となる。
実質義父から僕達夫婦に贈られた三つ目の結婚祝いであったが、いかんせん僕が馬車つきの大所帯であったが故に、当面の旅の間はストレンジャー号を借り受けることになった、という経緯がある。
いよいよセルマー海峡入りを目前に控えた今日、各船の長を交えた最後の作戦会議が行われる。二人の老船長には先に船長室へと向かってもらい、僕とフローラでもう一隻の客船の到着を待った。船長を下ろしたヴィクトリア号が一度離れ、次いで接舷してきた可憐なフローリア号から先の二人よりも年若い、壮年の船長が降りてきた。
彼ともポートセルミでの打ち合わせの際、何度か同席したことがある。デニスと名乗ったこの方は長くストレンジャー号に乗っていた人で、雰囲気はフォスター船長に似たところがある。少し線の細い引き締まった体躯、しかしどことなく父を思い出させる黒髪に黒い瞳。勇猛な雰囲気の人ではないが、彼の風貌に父を見てしまうのは穏やかながらも闘志の宿る眼差し故だろうか。
「お待たせしました。打ち合わせの場所は船長室で良かったですか?」
頷き、フローラと共に船内へと彼を促した。彼にとっては勝手知ったる古巣だけに、途中すれ違う仲間達と親しげな挨拶を交わしながら迷いなく甲板を進んでいく。どうやら彼は、この船の乗組員達にとっても大変頼れる兄貴分であるようだ。
「活気があって何よりだ。あまり心配はしてませんでしたが、今のところ問題なさそうですね」
「ええ。皆さん、本当に腕が立つので、却って僕の立つ瀬がありません。あの見張り台でじっとしているくらいしか」
僕の返答に、はためく帆の隙間から見える見張り台を仰いだデニス船長が肩を軽く揺らして笑った。
同乗する船員達は皆腕利きだと聞いていたが、これほどとは思わなかった。ひとたび魔物が海面から顔を出せば見張り番の掛け声とともにブーメランが矢の如く飛び交い、近接戦を得意とする仲魔達には出る幕すらない。僕もほとんど見張り台の上から戦況を見守るだけ、精々マーリンが何やら炎魔法を試してはほくそ笑んでいるくらいのものだ。「甲板か、せめて船首まで登ってくる気概が欲しいものよ。こう距離があっては手持ち無沙汰でかなわん」などと珍しくピエールがぼやく程度には、僕達もまた暇を持て余していたのだった。
ただ、なまじ時間があっただけに、考え事に没頭することはできたように思う。
セルマー海峡で、そしてこの内海で一体何が起きているのか。結局推測の域を出ない結論は一周回って出港前とさほど変わらないけれど、僕の中の覚悟だけは大きく変わった。否、フローラの意識もより強く変わったかもしれない。
──同じ悲劇を、起こさせたくない。
きっとあと数日で迎えることになるセルマー海峡での戦闘を前に、今日は歴戦の船長達の説得を試みなくてはならない。船長室の手前で思わず足が止まり、自然汗ばむ掌を握り直す。緊張に強張る身体をそっとほぐすように、妻の白い、華奢な手が二の腕に触れた。
「……行きましょう?」
いつものようにふわりと優しく笑う、妻の存在が僕の背中を押してくれる。
頷いて、ひとつ深く息を吸い込む。改めて彼女の温かな手を包み、三人の船長が待つ船長室へと足を踏み入れた。
◆◆◆
遡って、昨日の昼下がりのこと。
「ほれ。これなら使えそうか?」
真夏の日光が燦々と降り注ぐ甲板で、スライム属の二人が何やら船員達と話し込んでいた。またもや見張り台で海面を眺めつつぼんやり考え事をしていた僕は、ふとその様子が気になってロープ伝いに甲板に降りた。
「うん! ありがと、おにーさん! やーったー!」
大喜びで飛び跳ねるスラりんが喋りながらも器用に何やらくわえている。彼らの周りをふよふよと漂うホイミンも「スラりん、よかったね〜」と嬉しそうだ。
「何が『良かった』の?」
首を傾げつつその賑やかな輪をひょいと覗くと、「あ、ごしゅじんさまー! みてみてー!」とスラりんが振り向きざま、得意満面の笑みでくわえた得物を見せてくれた。少し小さめの、使い込まれたブーメランだった。
「ブーメラン使いたいけど持ってないって言うんで。使い古しですけど、良かったら」
気のいい船員が人好きする笑顔を向けてくれて、僕はすっかり恐縮しつつ軽く頭を下げた。
「有難うございます。こちらの準備不足で、申し訳ないです」
以前オラクルベリーで買った刃つきのブーメランなら所持しているのだが、子供の頃使っていた木製の古いブーメランはさすがに手元になかった。仲魔達にはそれよりずっと威力の高い武器を買い揃えたからもう使わないかと思ったのだけれど、考えてみたら船から攻撃を仕掛けるなら飛道具の方が使い勝手が良い。確かにスラりんなら僕のお下がりのブーメランを一時期使っていたし、ここでは牙よりブーメランの方が参戦しやすいだろう。
「得物は多めに積んでますから、気にしないでください。むしろ入り用ならどんどん相談してもらえた方が、役に立てればこっちも嬉しいですし」
「へーぇ、スライムってこういうの使えるんだなぁ。ちっこいのに頼もしいじゃん!」
会話の合間にも逞しい腕が数本伸びてきて、ぐにぐにとスラりんの頭を撫でた。やや乱暴な手つきではあったがスラりんも特に嫌がらず、腕の主達にへへーっと緩んだ笑顔を向けている。
長い船旅になるので、船員の皆さんに改めて僕の仲魔達を紹介してあった。どうしても魔物なので受け入れてもらえるか不安だったし、当初はあからさまに異質なものを見る目つきで見られたこともあったけれど、とりわけ人懐っこいスライム属達との触れ合いをきっかけにこのような微笑ましい交流風景を見ることもできるようになっていた。一度話してみれば興味が湧くらしく、遠巻きに見ていた航海士も恐る恐る挨拶や質問を投げてくれる。お陰でスラりんとホイミンはたった三日ですっかりストレンジャー号のマスコットと化している。乗船初日には少しばかり船内の他人行儀な雰囲気を心配していたフローラも、先程甲板を通りかかった際はほっとした顔つきで彼らを眺めていた。
「はやくなにかでないかなー。これ、なげてみたーい」
ぷにぷにと跳ねながら鞠のごとくブーメランを弄ぶスラりんに、いつものように笑いながら釘を刺した。
「調子に乗って海に落ちたら、助けられるかわからないよ? 小さくて軽いんだから、気をつけなきゃ」
「おちたことないもーん! おちそうになったらこーやって」
意気揚々と答えながら飛びついてきたと思ったら、唐突に身体を薄く拡げ伸ばして僕の身体にぺとりと張り付く。僕は慣れているからいいけど、いきなりその超軟体ぶりを披露すると皆さんきっと引いちゃうぞスラりん、と僕はひっそり心の中で毒づいた。
「べったりするからへいきだもーん!」
「これ、不用意に人にやっちゃだめだよ? 顔巻き込んだら下手すりゃその人窒息するからね?」
「ううう、わかってるもん‼︎」
つい小言ばかりになってしまう僕にもごもごとスラりんが言い返し、そのやりとりが面白かったのか、甲板は和やかな笑いに包まれた。
「テュールさん、なんか父親みたいだなぁ」
居合わせた若き航海士のアランさんが可笑しそうにそう言って。周囲の面々がにこやかに頷くのを見ながら、僕は少しだけ不思議な感覚に捉われていた。
幼い頃、父さんにこういう細かいことを言われた記憶はあんまりないけれど。よくよく思い返せば、一人で遠くへ行くな、くらいのことはちょくちょく言われていたっけ。
僕の小言が父性からくるものなのかは自分ではわからないけれど、それだけ彼ら仲魔達への思い入れを大事に持てているということなんだろう。そう思うと、なんだか嬉しい。先日感じた、家族なんだ、という実感を改めて噛みしめる。
──遠い昔に喪ってしまった『家族』だけれど、喪失の痛みは今もこの身の内にある。
どうしても、ふとした瞬間にそのことを考えてしまう。出航前夜の壮行会で、僕の不用意な発言から思い知らされたこと。目の前の誰かも大事な人を亡くしたひとかもしれないということ。『沈没』という短い言葉に表される事象の陰に、何百という命が喪われているであろうということ。
当たり前のことなのに、頭では理解していたつもりなのに、実感を伴って突きつけられた事実が重く胸にのしかかっている。
この船にもきっと、家族や知り合いを失った人達が多く乗っているのだろう。この三年、セルマー海峡だけで沈んだ船は客船が四隻、漁船に至っては十五は行方不明だと言っていた。三百人にも上る、凡そ村二つ分強の人々が還らぬひととなっているのか。おいそれと船を出せなくなるわけだ。
「また難しいこと考えてます? テュールさん」
アランさんの軽快な呼びかけに意識を引き戻される。「眉間に皺、寄ってましたよ」と笑い含みに囁かれ、思わず苦笑いしながら頷いた。
「あ、……はい。例の海峡の事が気になってしまって。結局、どうしてあの場所でよく船が沈むのかな、って」
言いながらちらりと周囲を見渡すと、居合わせた船員達は皆神妙な面持ちで互いの顔を見合わせていた。また軽率な物言いになってしまわぬよう気を引き締めつつ、努めてやわらかく口火を切った。
「良かったら、皆さんの見解をお聞かせいただけませんか? 一人で考えているとどうしても手詰まりになってしまって」
これは本当だった。暇を見てフォスター船長やピエール達にも度々意見を求めてはいるものの、どうしたって情報が少ない。そもそも沈没した船は陸を遥か離れた沖の上で『沈没』してしまっているのだから目撃情報も何もない。同海峡を越えて戻った船ももちろんあるが、証言としては魔物がいたが切り抜けた、くらいのものでさほど参考にならない。
『魔物が増えることと、魔物がひとところに集うことは全く別の事象よ。履き違えると痛い目を見る。基本的に我々は好き勝手群れても統率されることはない、魔王殿の御力でもない限りは』
相談を持ちかけた際、普段魔族について語ることのないピエールがそんな忠告をしてくれた。魔王殿とやらの詳細が気になったり、それでは君達の主人である僕はなんなのか、などとちらりと思ったりもしたが今は黙っておいた。
……どうしても気にかかるのは、光の教団だ。この内海の中央に位置する神が坐するという大陸で、今この瞬間にも神殿建設が続けられているであろう、セントベレス山の頂。
あまりに目と鼻の先だからこそ、何か関係しているのではと思わずにはいられない。どんなにこじつけに過ぎないと思っても、ここからすぐ東に目を向ければ嫌でも目に止まる崇高な山。頂上は常に分厚い雲がかかっていて見えない。多分あの中で、命をぎりぎりで繋いでいる奴隷達が必死に働いているのだ。今も。
「……うーん……やっぱり魔物なんじゃねぇのかな。って思うけど、俺は」
一人の航海士が首の後ろを掻きながら思案して、何人かがぱらぱらと同調するように頷いた。
「たまたま装備が悪かったとか、天候が良くなかったとか。考えられなくもないっすよ。嵐ン中魔物の大群に襲われたら、この船だってただじゃすまねえかも」
「でも、それだけだとセルマーに限定される理由がないと思うんです。現にポートセルミに所属する客船は、セルマー以外の海域で沈んだことはないんでしょう?」
ずっと引っかかっている理由の一つがそれだ。ラインハットの客船はポートセルミとの間で沈んだが、ポートセルミの客船がそこで沈んだことはまだ、ない。あくまでもセルマー海峡だけの出来事なのである。
事の起こりは三年前、魔物の蔓延を肌で感じるようになり同時に漁船がちらほらと行方不明になることが増え始めた。海上警備を強化するようルドマン卿がイヴァン殿に話をした頃、大型客船が悲劇に見舞われた。サラボナ北東を発って数日、待てども待てども船影は見えず、到着を待ち続けたご家族や知人の心中は如何許りであっただろうか。それから半年ほど経った頃、二度目の客船沈没があった。魔物に注意を払いつつ無事航行を遂げていた最中のことだった。いつ、どのように船が沈没したのかはわからない。残りの二隻はそれからおよそ一年後、時間差で航行していたものが行方不明になったのだそうだ。ここまで原因不明の船の消失が続き、サラボナ北東とポートセルミ間に出ていた連絡線は已む無く運行を休止することとなった。漁船その他の船も出来る限りの警備強化をして、必要に駆られた時のみなるべく船団を形成してその海峡を渡るようにしていると言う。
そう考えるとなるほど、義父がフローラを急ぎ修道院から呼び戻したという話も合点が行く。彼女が十四歳という若さで修道院を発ち、また僕達が樽に入って流れ着いた頃には海洋事情は相当悪化していたのだ。
海流の関係か、船の残骸もご遺体もほとんど見つかってはいない。内海中央の神の地か、遠い東の大陸に多くのご遺体が流れ着いているらしいとの噂があり、そちらで弔われていることを祈るばかりなのだとか。
嵐だろうが、魔物との遭遇だろうが、あくまで偶発的な事象と捉えるべきだろう。そうではなく、こうもセルマー海峡でだけ頻発する理由があるはずなのだ。
強大な魔物が巣食っているのか。船底に穴を開ける罠でも張られているのか。ピエールが示唆したように、魔王のような力を持つ何者かが魔物を統率し動いているのか。
脳裏を過るのはあの青白い顔。忘れもしない、間違いなく教団と繋がっている、恐ろしい力を持つ高位の魔族。父を生きたままこの目の前で灼いた、残虐無比なあの魔物の姿だ。
「その海峡だけで何艘もの船が沈んでしまう、そこに共通した原因があるなら出来る限り取り除いてから先へ進みたい。それだけなんです。……でも何か、ずっと見落としている事があるような気がして……」
また、あの得体の知れない昏い混沌が足許をぞろりと這った。まるで呪いだ。一度だけ頭を揺すってそれを振り切り、まじないの如く自分に言い聞かせた。一見すれば誰にともなく呟いたかのように聞こえるよう。
「見落としかぁ……んー。確かに、ちょうど見えませんからね、セルマーって。ポートセルミの灯台からも死角だし、前に乗り付けてたサラボナ北東の岸からも結構距離があるんですよね」
アランさんの何気ない一言に、ふと意識を引かれた。ちょうど、見えない?
咄嗟に頭の中にある地図を広げた。細かいところは朧げだが、なんとなくの位置関係は頭に入っている。
「サラボナの見晴らしの塔からもさすがに見えないですよね? そうか、結構遠いんだ」
「遠いですよぉ。あの塔からだと見えるのは精々カボチの手前くらいまでじゃないですか? カジノ島からならもしかしたら見えるかもしれないけど……そもそもカジノ船自体が視界遮ってるからなぁ」
それではカボチ村周辺からならよく見えるのでは? と問うたが、あの近辺はカボチの住民が自治を任されている土地なのだそうだ。そもそも森があるせいで霧が出て見通しづらいこともあるが、村そのものが排他的な性分からか、船も寄せられなければ見張り台の一つも作らせない。正直、海峡の更に沖合を通らなくてはならないのもこの為なのだそうだ。僕もカボチ村にまつわる苦い経験を思い出し、然もありなんと溜め息を零した。
「そうだ。参考までに、これまでセルマー海峡にどんな魔物が現れていたのか、わかる方がいたらご教示いただけませんか?」
肝心なことを聞きそびれていた。改めて全員の顔を見渡すと、それぞれ首をひねりながら馴染み深い種属名を挙げてくれた。
「どんなって……普通じゃないっすかね? マーマンにオクトリーチ、しびれくらげ、あと海賊っぽいやつとか。幽霊船長って俺達は呼んでますけど」
「ああ、確かに。この辺で遭うやつと大体同じ感じなんですね」
名を挙げられた魔物達が最近相手をしたものばかりであることに内心落胆しつつ、頷いた。結局は全ては同じ海の中、延長線上にあると言うことか。セルマーでしか観測できない特異点のようなものが事前にわかれば、検証して手を打つこともできるのに。せめてヘンリーにもっと詳しく話を聞いておけば良かった、などと今更悔やんでも遅い。
「──そういえば、前に乗り合わせた船がセルマーを通って戻ってきたんです。半年くらい前でしたか、その時もやっぱり魔物の群れに捕まって」
いよいよ手詰まりか。そう思った時、一人の青年が思い出したように声をあげた。場の注目を一瞬で攫ったその航海士は状況を懸命に思い起こそうと瞼を閉じて宙を仰ぎ、そのこめかみをとんとんと軽く叩いた。
「振り切ってきたんですが……そうそう、最後にどこからかキメラが飛んで来てたんですよ」
記憶の、欠片がどこかでかちりと嵌った。
海で見るのは珍しいですよね、と言う彼の声が遠ざかり、同時に耳の奥でざぁっと血流がさざめく。身体中から血の気が引いていく感覚が妙に生々しく皮膚へと伝わる。
そんな、──まさか。
少し思い出したことが、と何とかそれだけ皆さんに告げて立ち上がり、身を翻すと同時に床板を蹴る。船内のとある部屋を目指して、僕は全力で駆け出した。
────どうして。
どうして、どうしてもっと早く気づかなかった!
違和感はあった。小さいけれど、ずっとずっと引っかかりはあったんだ。それこそ今回、サラボナを発つ前から。
初めの違和感は婚礼の後。出立の許しをいただくために、フローラと二人きりで西の小島の祠詣りに出掛けた。あの時、休息のために岸辺で停泊していた時、キメラの襲来を皮切りに水棲の魔物が襲ってきた。とは言え魔物の半分以上は船縁に絡みついて船を転覆させようとしていただけで、だからこそずっと違和感が残っていた。今までに、対峙した僕達より先に馬車を引き倒そうとするような輩がいただろうか?
それでもそれは、ほんの些末な引っかかりに過ぎなかった。偶々だと、それ以降は気にもしなかった。キメラが多いのも地域柄のことだろうと、漠然と思っていた。
「────フローラ‼︎」
ほとんど叫び声と共に目的の扉を開け放つ。その室内ではフローラが講師然したマーリンと向かい合い、昨日始めたばかりの魔導の講義を受けているところだった。只ならぬ様相であろう僕にいち早く気づいてくれたフローラが跳ねるように立ち上がり、すぐさま入口へと駆け寄って来てくれる。
「どうなさったのですか。まさかもう敵襲が?」
「いや、違う。ごめん講義中に……フローラに、どうしても訊きたいことがあって」
乱れた息を整えながらフローラの肩を強く掴んで訴えたら、すぐに彼女は可憐な唇にきゅっと力を篭めて引き締め、姿勢を綺麗に正してあとに続く言葉を待ってくれた。
「この間……お義父さんの帆船で二人で祠を見に行った時のこと、思い出せる? ほら、僕が途中で仮眠をとった時。君が魔物の気配に気づいて教えてくれた」
綺麗な双眸にわずかな戸惑いを映しながらも、君が頷く。期待通りの返答に安堵しつつ、更なる問いを被せた。
「あの時、真っ先にキメラが襲って来ただろ。何を狙っていたと思う? ──間違っていてもいい。フローラが感じたままでいいから、聞かせてほしいんだよ」
一言、ひとこと。問いかけを紡ぐたび、君の瞳にじわじわと驚きの色が滲んでは広がっていく。
今更何を言い出すのかと思うだろう。僕の勘違いならそれでいい。どうか気のせいであってほしい。莫迦げたことを言うなと、一笑に付してくれても構わない。
何故あの時、フローラを一人にした?
無事だったのが奇跡なんだ。側にいろと、僕が休んでいる間も船室から出るなと言えば良かった。話しかけられないなんて、干渉してこれ以上嫌われたくないなんて、莫迦げた感情に惑わされないで。
あの時だけじゃない。死の火山へ向かう時にも、キメラが先陣を切って突っ込んで来たことが何度かあった。そのいずれの時も、君が襲撃の気配に真っ先に気づいていた。
偶然では、なかったとしたら。
「……勘違い……だと、思っておりましたが」
やがて、記憶を深くまさぐった君が、怖気を堪えるようにその華奢な肩を両手に隠して抱いた。そのまま、恐る恐る先の問いへの答えを口にする。
──僕を震撼させるのに十分すぎる、おぞましい答えを。
「私……だった、かも……しれません……」
◆◆◆
何故、彼女が狙われたのかは分からない。
見るからにか弱いからなのか、碧い髪が珍しかったからなのか。それとも彼女が水のリングを持っているからか。
思いつくままに列挙してみたが、一通りの話を聞かされたピエールは渋い声音のまま「ま、指輪はないでしょうな。その中で言うならばやはり、奥方殿が弱い、と言う一点に尽きるのでは」と辛辣かつ容赦ない一言を浴びせてくれた。
急遽、講義を中断して二人についてきてもらい、今は前部甲板の下に設えられている小さな船室に集まっている。僕が幼い頃、父と共に寝泊りした懐かしい小部屋だ。子供の頃はずいぶん広く感じた船室だったが、今入ると窓がない所為か、はてまた仲魔達で賑わっている所為か、記憶より随分と手狭に感じる。
とにかく今は、少しでも早くこの思考がまとまって欲しい。きっと結局は何の確証も持てはしないけど。
「やはり、そうですよね。私もきっと、自分が弱いからいつも狙われてしまうのだろうな、と思っていました。もしそうでも、私が狙われる分には寧ろ皆さんは動きやすくなるのでは、とも思ってしまって。──黙っていてごめんなさい……テュールさん」
「何でフローラが謝るの。魔物がなりふり構わず自分に向かってくるなんて怖かっただろうに。本当に、無事でいてくれて良かった……」
項垂れたフローラの両手を掴むと、その優しい温もりに安堵して力が急速に抜けていくのを感じる。恐ろしかったのは君だというのに、こんな時まで励まされるのは僕の方だ。
「いつだってあなたが守ってくださいますのに。何を怖がることがあるでしょうか」
そう言って穏やかに微笑む君の掌から、しかしごくごく微かに伝わってくる震えに気づかずいられるほど愚鈍ではない。
やはり彼女が魔物の気配に敏感であるのは、自身が執拗に見られている──狙い定められている感覚からくるもののようだった。ならば死の火山で何度か不意打ちに驚いていたことも理解できる。水のリングの魔力が発動した瞬間、彼女は完全に後手を取られた状態だったから。
「確かに、弱い者から狙わんとする判断自体は理解できます。しかし、奥方様は回復以外まだ何もお出来にならぬ。逆に言えば毎回どうしても真っ先に屠りたい相手とも思えぬ、ましてや側には必ずご主人ほどの使い手がおるというのに」
マーリンはやはりいつでも冷静だ。その提言を頼もしく聞きながら、僕もまた内心に浮上していた可能性を示した。
「屠るため、ではなかったら? ……何の根拠もない戯言を言うよ。キメラだったら、フローラ一人くらい運んで飛べるよね」
多少のことでは動じない仲魔達の間にもさすがに僅かな戦慄が走る。フローラもまた、僕の隣でびくりと身体をすくませた。
掻い潜る自信があったということだろう。実際、一太刀避ければフローラをその背に引っ掛けて飛び去るだけで良かったのだから。舐められたものだが、速さに重きをおいた父の剣技を手本にしてきたことをこれほど有難く感じたことはない。
「運べるとは思いますが。……何か目的があって生け捕りにしようとした、と?」
先の戯言に込めた、僕の本意を咀嚼したマーリンの厳かな問い返しに、黙って深く頷いた。
殺意が全くなかったとは言わない。殺してもいいと考えていただろうとは思う。運が良ければ掴んで飛び去る、くらいの感覚だったのではないだろうか。──そしてそれはきっと、船にも同じことが言える。
沈没じゃないかもしれない。あまりに魔物に沈まされることが多かったからそう思い込んでいるだけで、本当は目の届きにくいあの海域で船まるごと『生け捕り』にされているのではないだろうか?
「荒唐無稽だと思う? ──僕はあり得ると思っている。すぐそこに、大量の労働力を必要とする場所があることを知っているからね」
僕の意図を汲んでくれている仲魔達は無言の肯定で応える。唯一、フローラだけがひどく哀しげな眼差しで僕を見つめたが、緩く首を振って返すとそっと睫毛を伏せてまた項垂れた。
もう、傷ついている場合じゃない。
他でもない君が狙われて、黙ってなどいられない。
当時は疑問に思う余裕もなかった。あれだけ過酷な建設現場で、脱落、処分されていく者もたくさんいたのに。そういえば作業場から人が減ることはほとんどなかった。一体どれだけのご遺体を毎日、あの樽で流していたんだろうか。そして、ほぼ同数かそれ以上の人間がどこからか常に『補充』され続けていた。
「客船一つで五十から六十人。船ひとつ、ほんの数海里運べればそれだけの労働力──奴隷を一気に手に入れられる。……巧妙だと思わないか? 現に今まで誰も沈没を疑わなかった。それだけの規模で拉致が行われているなんて、普通想像もしないだろう」
そう、普通の人は思いつきようがない。だってまさか、神の地と謳われるセントベレス山で人道に悖る行為が行われているなんて。それが還らぬ何隻もの船と繋がろうなんて、考えもしないだろうから。
思い出したくない記憶を掘り起こすことは難しい。三年前、僕はまだセントベレス山にいた。耐え難い汚臭と血の匂い。誰かの悲鳴とすすり泣き、それを打ち消す非情な鞭の音。強制労働に従事して九年目、何百人という奴隷がろくな休息も与えられずにひたすら岩や砂を運ばされていた。もはや色々な感覚が麻痺していたような気もする。屈辱も悲嘆も尊厳も、幼い頃はまだ懸命に守っていたはずの一切が遠くて。
ただ、父の悲願を為さねばと。いつかその地を逃れて母さんを救い出すという幻想を、ただひたすらに胸の内に守っていた。
それで精一杯だったのだろうか、ヘンリー以外の奴隷仲間のことはほとんど思い出せない。あんなにたくさんいたのに、入れ替わりも激しかったからかいつしか覚えることをやめてしまったのかもしれない。入ってきてすぐの頃には自分の身の上を話す人もいたけれど、ほとんどはそんな気力を持たない者ばかりで、その人達もいつの間にか欠けていっては誰も顧みなかった。その三年から僕達が脱出するまでの間に、船に乗っていたという人が入ってきたかどうかも定かではない。
せめてイヴァン殿に似た青年がいなかったか、思い出せたら良かったけれど。
「フローラの件は違う目的もあるのかもしれない。でも結局は同じところに辿り着く気がする。子供が攫われる、という話が昔からあるのを知ってる? 本当の目的は知らないけど、何者かが世界中から子供を集めていて、ヘンリーは元々その一環で攫われたんだ。太后様から伺った話だから間違いない。……結果、僕も一緒に捕まって教団の奴隷にさせられた、ってだけだよ」
子供、というのも疑問が残る。僕達が子供の頃『子供』だった存在が拉致の対象だと言うのなら、フローラもちょうどその年齢に当たるのだから。本来の目的がわからないことにはなんとも言えないけれど、単に子供を産むであろう女性を代わりに集めている、という見方もできる。どれもこれも、吐き気がしそうな話ではあるけれど。
フローラには酷な話だろうか。不安になってちらりと横顔を見たが、彼女はやはり気丈に口許を引き結び、食い入るように僕の話を聞いていた。懸命に凝らした翡翠の瞳が激しい憤りに揺れている。その様子を盗み見ただけで、僕まで喉元に熱いものがこみ上げそうになってしまう。
君が怒ってくれるならもう、それだけでいい。
「真実がどうかは別として、お考えは概ね理解した。それで、あるじ殿はこれからどのようになさるおつもりか?」
暫し、各自考え込むような間があって。船腹をうちつける水の音が篭って響く静寂を、ピエールの低く鋭い声が破った。
「セルマー海峡で何が起こっているのかを確かめたい。僕の推測通りなら、単身で海峡に入れば船をどこかに運ぼうとする勢力が現れるはずだ。それを釣りたい。──その為には、あまり大規模な船団を組んでは行けないかもしれない」
「……納得、しますかな。あの御仁は」
「してもらう」
ピエールの言葉を遮って、強い口調で言い切った。ここまできて、尻込みしている場合じゃないだろう。
教団のことを話したのは迂闊だったけれど、それ以前に、あの老船長にとって今回の討伐が弔い合戦であることは理解している。孫のことだけじゃない。船を、海を率いて来た者としての矜持が彼を支えている。彼に退けということは、きっと死ねということに等しい。
────それでも。
「説得する。呑み込んでもらわなきゃ困る。機会は一度きりだと思わないと、中途半端に叩けば次は本当に対処できない奴が出てくるかもしれない」
幸か不幸か、まだ誰も気づいていない今だから。恐らく奴らはこの件、そもそも人間を奴隷にしていることを、人間社会に気取られないよう秘密裡に行ってきている。これだけ長く、あんな残虐なことをしておいて、セントベレス山の外の世界で教団の真実を知る人間は僕らとヘンリー達くらいしかいないのだから。
「しかも、どうやら信者を増やしたいようだからね。余程教団の名に疵が付くのは嫌と見えるよ。……だったら、揺さぶりをかけない手はないだろ? あの海域の船に手は出せないと思わせるくらいの威嚇はしておきたい。じゃないと、僕らも安心して先へ進めない」
その為に、炙り出さなくてはならないのだ。巧妙に隠されてきた、死角に潜んだ本当の敵を。その企みはここで潰えるのだと、思い知らせなくてはならない。
「……フローラ」
ずっと僕に寄り添ってくれていた、少しだけ蒼ざめた様子の妻の手を握り直す。
囮になんてしたくない。必要以上の危険に曝すようなことは。出来るなら本当に船室の中に閉じ込めておきたいと思う、けれど。
──君はきっと、僕の一番近くで戦うことを望んでくれる。
だったら。
「絶対に守る。側にいるから、──力を……貸してくれる?」
繋いだ手から、返事より先に君の覚悟が伝わってくる。
怖れも、緊張も、何もかもを唇一つ噛んで呑み込んで。健気すぎる僕の妻は、その揺るぎない眼差しに一切の迷いを見せずに頷いた。