Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
さて、この一連の推察をどのように説明したものか。いざフォスター船長の元へ相談に出向こうとしたところで、僕は思わぬ躊躇に足を止めてしまった。
実際この件に光の教団が関わっているのか否か。判然としない、当て推量でしかないことをしたり顔で主張するのも嫌だったし、何より僕自身が過去の一切を船長達に伝える勇気を持てなかった。フローラと仲魔達にはどれだけありのままに話せても、奴隷であった事実を第三者に打ち明けるということは今更ながら、とんでもなく勇気のいることだったのだ。
彼らが主と戴く当家令嬢の新婿の出自が奴隷だった。学のない物知らずの僕でも、その身分が忌まれるものであることくらい承知している。ラインハット王族という、真実褪せない身分であったヘンリーとは違う。
こんな奴隷上がりの見窄らしい男を、皆さんは受け入れてくれるだろうか。
もしも失望され、態度が変わってしまったら。
そのように考えること自体、僕自身が未だ彼らを信じきれていないことの証左のようで心底嫌気がさす。それでも、どうしても奴隷の件だけは、フローラ以外の人間に話す気になれなかった。
「私は、話さなくとも良いと思います」
僕の情けない独白を聞かされたフローラは、それでも動揺を欠片も見せず、彼女なりの回答を穏やかに口にした。
きっと更に心許ない、彼女にしか見せられない臆病な眼差しで訴えると、フローラはもう一度聖母の微笑みで頷いてくれた。
「結局は魔物を釣り出す、というお話になるのでしょうし。先ずは確証を得るために動きたいということなのですから、テュールさんが絶対に必要だと思われたことだけ、お話しされれば良いのではないでしょうか」
「……それで、いいと思う? 船ごと捕らえられている可能性を認識できているかどうかで、僕達がテルパドールへ向かったあと残る船の警戒の仕方が変わってくる。情報は持っておくべきだと、その方がいいとは思う……のだけど」
被害を出したくない。だったら回避の為の情報は共有しておくべきだ。僕の私情などどうでもいい、そう思うのに躊躇は拭えない。僕ならやはり、知らずに不幸を生むより知っておきたいと思うだろう。残酷な事実でも、──それが、真実であるなら。
それでも。
「私も、酷だと思いますもの。……イヴァン様にこの上、期待を持たせてしまうことは」
目を伏せたフローラの独白は、臆病の更に奥底に隠した僕の甘さをこれでもかと浮き彫りにする。
船は沈んでなかったかもしれない。イヴァン殿の孫は生きているかもしれない。あまりに稀薄なその可能性は希望だろうか、絶望だろうか? 事が起こった瞬間落命を逃れたとして三年、今も生存している保証などない。仮に教団の関与が確定したところで彼らを救い出す方法も、その力も僕にはない。
僕は正義の使者でも、勇者でもない。父の遺志を継ぎたいだけの、ただの旅人に過ぎないから。
「……難しいね。一番正しいことなら、どんなことだって迷わず決められると思っていた」
ぼんやりと呟いた、ほとんど独り言に過ぎないそれに、フローラが小さく同意を示してくれた。
「あなたの選択には誠意があります。だからこそ父も、他の皆様もあなたを信じられるのですわ。もちろん、私も」
控えめながらも揺るぎない、君の言葉が僕の背中を強く押す。きっと彼女の言葉には偽りがないから。……確かに、そうだ。君が言ってくれるように、君の励ましにも誠意しかない。だからこんなにも、すっと心に浸透するんだ。
自分でも驚くほど勇気づけられるのを感じながら、決意も新たに顔を上げた。
そうして明けた今日、船長室には大型客船三隻の船長が集い、これから遂行する作戦についての合議の時を待っている。当船舶のフォスター船長には簡単に話を通しておいたけれど、温和な彼でさえさすがに顔をしかめた。当然だろう。ましてや海の武人とも呼ぶべきイヴァン船長相手に、僕がどこまで交渉できるか。
フローラの温かく優しい手に支えられ、緊張と共に船長室へと足を踏み入れた。
高級な厚手の絨毯を敷き詰めた室内の真っ直ぐ数歩先、船室の中央に据えられた卓を囲んで、船長達は談笑していたようだった。僕とフローラが入室すると和やかな空気は一変、どこか張り詰めた雰囲気へと変わる。真正面から僕の視線を捉えたイヴァン船長が不敵に笑い手招きする。
「待ったぜ、総統殿。今日は配置と動きの確認ってことで良いんだろう?」
卓上に広げた海図の上に肘をつき、彼は言う。頷き、彼の向かいに立ったまま近づいて卓を見下ろした。「お待たせ致しました。皆様、改めましてよろしくお願いします」と会議の始まりを告げれば、三船長と僕の背後に立つフローラがきりりと姿勢を正したのがわかった。
「この速度、この航路だとあと二十時間程度でストレンジャー号はセルマーに差し掛かる」
最年長の老船長が海図の上の現在地を指し示す。その左右に腰掛けた彼より若い船長達は特に異論もなく彼に主導権を譲っている。誰が選ぶでもなく、海における長はこの老練の船長だということを示していた。
「えらく悠長な進み具合だがな。まあいい、今のストレンジャー号との間隔は概ね二海里弱ってとこだ。念のためもう少し詰めるか。予定通りなら昼頃の到着だからそのまま仕掛ける。我々は海峡に向かって西側から内回りに追跡する。小舟は特に収穫なしで退かせているが、このまま問題なけりゃポートセルミに戻しても良い。今の感じならこの三隻で事足りるだろう」
「その、件ですが」
緊張のあまり腰が引けそうな自分を激しく叱咤し、発言を捩じ込んだ。三船長が一斉にこちらを見る。フォスター船長だけ、憐れみに似た眼差しで見守ってくれているのがわかった。
「実際に、セルマー海峡で何が起こっているのかを確かめたいんです。他の船にはもう少し距離を取ってもらって、この船だけで海峡に入りたいと思っています」
船長室中央の椅子に深く腰掛け、腕を組んだイヴァン船長の眼に鋭いものが走る。落ち着いた様子でぎし、と椅子を揺らした彼は、重圧感のある低音で場の空気を震わせた。
「距離をとる、てのはどのくらいだ」
真っ向から返された問いに思わず唾を飲む。緩く息を吐き、気持ちを落ち着けてから口を開いた。
「三海里半から五海里。出来ればあちらの飛空魔の視野に入らない程度には空けたいです。ですが、合図の花火に気づけないほど離れては困りますから、そこは適度に」
具体的な距離を聞き、老船長は益々渋い表情で海図を眺める。
ここまでストレンジャー号を中心に魔物を狩りながら航行してきたが、二手に分かれる。ストレンジャー号はより自然な航海を装うため、普段の船と同じ航路で問題の海峡に向かう。ヴィクトリア号とフローリア号にはストレンジャー号と交替で魔物狩りに一日注力してもらい、予定より早い明朝の日の出を目処に海峡から五海里弱の距離をとって待機してもらう。期待通りの襲撃ないし変化に応じてストレンジャー号が花火を打ち上げるので、それを合図にこちらに向かってほしい。
「花火を打ち上げた後、ストレンジャー号も一旦引き返す形で航行できれば、恐らく小一時間程度で合流できますよね? この船の皆さんなら魔物の群れを十分凌げます」
ヴィクトリア号及びその他船舶には、恐らく周辺海域から集まってくるであろう魔物の対処もお願いしたい旨を併せて告げた。
「海峡であった襲撃の際、キメラが現れたという証言がありました。偶然かもしれませんが、僕にも少しばかり心当たりがあります。それを検証したいんです。あまりに大勢で通ると警戒されてしまうかもしれない。あと、小舟も戦力を積んでくださっているはずですから、余力があれば海峡以北の魔物掃討をお願いできたら。海峡上の残党狩りはお二方にお任せしたいですから」
海図を覗き、周辺の海域を指で辿りながら三船長を伺い見た。それぞれに難しい表情のまま卓を見下ろしている。やはりすんなりとはいかないか、とひっそり肩を落とした瞬間、イヴァン船長のやや掠れた声が静寂を破った。
「……単独で行くのは、ストレンジャー号でなくてはならんか」
つられて顔を上げれば、感情を抑えた静かな双眸が真っ直ぐこちらを射抜いていた。
「有り体に言えばな。お嬢様をお乗せした船を、すぐに救援できない形で前線に出すことには承服しかねる」
胸を衝かれる。想定内の答えとはいえ、容赦なく叩きつけられた否認には小さくない落胆を覚えた。僕の失意を知ってか知らずか、老船長は更に畳み掛ける。
「フローリア号は後方支援のための面子で成っているが、うちの船はストレンジャー号と同等の働きができるはずだ。且つ、ストレンジャー号の方が速い。ヴィクトリア号が先行し、ストレンジャー号とフローリア号が駆けつける形の方が望ましいと思ったが、どうだ」
「────それは」
言い澱んだ僕に被さるように、背後から透明な声が響く。
「……恐らく、私が一番早く襲撃に気づけると思うのです」
誰よりもこの場にそぐわない、どう見ても戦いとは無縁の少女の声だった。同時に誰より狼狽したのは老練の船長で、即座に腰を浮かせると荒々しく声をあげた。
「何を……っ、仰っているのですか⁉︎ お嬢様‼︎」
「本当なのです、イヴァン様。キメラの襲撃、私はこれまでに何度もいち早く気づいて参りました。テュールさんにお確かめくださっても構いません。……テュールさんと私は今回、他の船に乗ることが叶いません。どうかご理解くださいませ」
彼女よりずっと大柄な男の、恫喝に等しい叱責にも彼女は全く動じない。淡々と告げて、ちらりと哀しげな眼差しを僕に投げかけた。僕も頷いて船長達の卓へと向き直り、彼女の言葉を引き継いだ。
「フローラの言に間違いはありません。彼女は魔物の気配にとても敏感です。実際、僕は何度も彼女に助けてもらっています」
茫然とした様子で僕達の説明を聞いていた船長達だったが、唐突にだん! と卓に手を衝きイヴァン殿が僕を凝視した。それ以上間を詰められたわけでもないのに、胸倉を掴まんばかりの怒りの色に戦慄すら覚える。
「まさか、……宝石狩りの時、お嬢様は」
────ああ、
今更ながら、この人達はフローラが危険な探索地へ赴いたとはゆめ思わなかったのだ、と気がついた。無理もない、あの火山にこの淑やかなご令嬢を連れて行くことがどれほど有り得ない話か。ほんの少し前までの僕ならばやはりそう思っただろう。街で待っていてもらうのが当たり前だと──それでも、一度冒険を共にしてしまった今はもう、彼女を手放せる気がしない。
「……同行してもらいました。その時にも、キメラに遭っているんです」
絶句した船長達の頭上に、尚も静かなフローラの声が降る。
「私が望んでお願いしたことです。テュールさんが私に何かを強要したことなど、一度もございません」
呆気にとられる男達を前に、フローラは落ち着き払ったまま瞼を伏せた。実はこの中で彼女が最も権威を持つ存在とはいえ、ここまで庇い立てされては正直男として情けないことこの上ない。その上、引き際までこうも見事に弁えられては。
せめて、気持ちで負けるわけにはいかない。背後の澄んだ気配に支えられ、自然と口許に、握り締めた拳に力が篭る。
「……お嬢様のお望みとは言え、よくもまぁ……」
老船長が如何にも苦々しげな笑みで唇を歪ませた。甘んじて受ける覚悟はしてきたが、この場にフローラが同席していなかったら今頃、僕は数発張り飛ばされていたたろう。
「明日は、少々天気が崩れそうです。雲が出る兆しがある」
それまで黙って成り行きを見守っていたデニス船長が、徐ろに口を開いた。
「五海里といえば凡そ二時間の距離です。ストレンジャー号が逆行できれば確かに小一時間で合流できましょうが、まず天候が思わしくない。魔物に捕まって、もしくは船に異常を来して動けなくなる可能性もある。その場合でも二時間持ち堪える、もしくはストレンジャー号単体で切り抜ける自信はありますか?」
「あります」
デニス船長の問いに即答した。隣の老船長が怪訝な目を向けてきたものの、臆したら負けとばかりに更に重ねて言い切った。
「フローラを乗せた船を沈ませはしません。僕も、皆さんも同じ覚悟でいます」
言いながらもストレンジャー号の責任者たるフォスター船長に同意を求めて目配せする。彼もまた、やれやれと言うように苦笑し頷いた。
「テュール殿の仰る通り、船員の士気はこの上なく高い。あなた方が来るまでは粘ってみせますとも」
長年の腹心の翻意にイヴァン殿は益々眉間に皺を寄せた。僕と、フォスター殿を何度も見比べては睨み、卓をとんとんと指先で鳴らす。そんな先達らの様子を、フローリア号の若き船長デニス氏は微妙な苦笑いを浮かべつつ見守っていた。
「……お前ら、この後テルパドールへ向かうんだろうが。解っとるんだろうな」
やがて、苛立ちを隠さないイヴァン殿の詰問が飛んだ。
彼の指摘は正しい。この後凡そ三、四ヶ月の航海を控えるストレンジャー号こそ物資も、体力も温存すべきなのだ。万が一船が損傷すれば暫く進めなくなる。そしてこの船には、西の大公ルドマン卿の一人娘が乗船している。
万が一など許されない。絶対にだ。
「カイルの件で儂を気遣ったつもりなら要らん世話だ。本気で張っ倒すぞ」
孫の名らしいそれを口にし、怒気も露わに吐き捨てたイヴァン船長に僕が答えるより先に「いいえ」と、凛とした声が僕の背後から発せられる。
どんな哀しみも憤りも、一瞬で鎮めてしまう浄化の声。
「いいえ。何より私の身を第一にご案じ下さっていること、分からぬはずがございません。本当に、有り難うございます。……イヴァン様」
そうしてフローラは碧い髪をさらりと肩から零して頭を下げる。深い慈しみと、微かな贖罪が込められた彼女の一言に、今度こそ老船長は言葉を失った。
「船も、彼女も、みんなも守るつもりでいます。若造の大言壮語と笑われてしまうかもしれませんが。ヴィクトリア号とフローリア号が到着するまで、絶対に持ち堪えてみせます」
嘘ではない。僕にはそれしか言えないし、それを真実にするつもりしかない。あとは信じて、力を貸してくださるよう頭を下げる以外に今、僕に出来ることなんてない。
僕の誓いを聞き届けた彼は、その本心を見定めるかのように訝しげな瞳で僕を見る。暫し睨み合ったのち、大きな溜息と共にうんざりと目を逸らしたのはイヴァン殿の方だった。
「……大見得で終わらせるんじゃねえぞ、小僧。お嬢様の身に何かあってみろ。死んで逃げられると思うなよ、それこそ地獄の果てだろうが絶対に追いかけてやるからな」
抉るような、苛烈な眼光で僕の両眼だけをもう一度正面から見据えて。歴戦を思わせる白髪の船乗りは、鬼神の如く腹に響く凄みを帯びた声でそう告げた。
会議の開始からおよそ一刻後、西へと傾きつつある太陽の下。ストレンジャー号はそれぞれの船長を見送るため、再び彼らの客船を船尾に迎えた。
実質明日からの長い航海に備え、この数日で目減りした物資をそれぞれの船から補充した。久々に見交わす顔ぶれに湧き立つ船員達を船長らと並んで眺める。総勢凡そ百五十名、小舟も入れれば二百にも迫ろうという大船団が今、この海に集っている。
「それで結局、光の教団とやらは関わっていそうなのかい」
見送りの際、すれ違いざま薄く笑って声を潜めたイヴァン殿の気迫に、僕は引きつった笑いと共につい言葉を濁してしまった。
「ちっ。しっかり『検証』してくれよ、総帥殿」
態とらしい舌打ちを残し、イヴァン殿は再び接舷したヴィクトリア号へと消えていく。離れ行く客船をフローラとフォスター船長、そして次の船の到着を待つデニス船長が隣に並んで見送った。
「あの人に喧嘩を売るとは、いい度胸だ」
「喧嘩だなんて。そんな」
ぽそりと呟かれた声に思わず狼狽し振り返れば、どこか可笑しそうに笑みを零したデニス船長が肩を揺らして僕を見下ろした。
「人を頼るのは苦手かい?」
僕より更に長身の、普段あまり見ることのない黒髪黒眼はどうしたって父を連想させる。僕に実の兄がいたらこんな感じなのだろうか。会議の前よりどこか気安い雰囲気のデニス船長に、何となく照れ臭いようなものを感じて口籠もりつつ、頷いた。
「はは。何となくそうかなって気がしたんだ。なるほど、大旦那様の采配も頷けるな」
「……そうでしょうか。ずっと一人でやってきましたから、どうやって他人様に力を借りたらいいのかわからなくて」
親しみを覚える容貌に誘われてか、普段は零さないだろう本音がぽろりと漏れた。彼は興味深げに頷き、僕にだけ聞こえる密かな、穏やかな声で言う。
「だが、君の傍には今、お嬢様がいるんだろう? どうやら酔狂でお連れしているわけでもなさそうだ。……同じように、してみたらいいんじゃないか」
──簡単に言ってくれる。
至極当然という口調に困惑と、微かな苛立ちが湧いた。僕なりに心を開いているつもりでも、どうしたってフローラと同じようにはいかない。勿論皆さん良くしてくださるけれど、それでもこの船の中、僕だけが未だ異物のように感じられるのに。
返事に窮し俯いた僕をまたちらりと見て、彼は苦笑したようだった。目の前には白亜と碧の装飾が美しい、新型客船フローリア号が接舷しようとしている。
「ま、中々すぐに気を許すってわけにもいかないだろうが、ストレンジャー号の連中は気風がいい。でかい家族が出来たと思ってくれれば、みんなも喜ぶ」
船員達の賑やかな喧騒の中、彼の穏やかな囁きが際立って聞こえる。不思議と沁み入るのは、昨日フローラが言っていた理由のせいだろうか。
──誠意が、あるから。
「あのおやっさんもな。頼ってやりな、喜ぶから」
最後にぽん、と僕の紫の肩を叩くと、口角だけで小さく笑った。ひらりとその手を振ったデニス船長が促されるままに船を移乗し、出発を告げるあちらの船員の掛け声が高らかに響いた。
「……喜ぶ、ってさ。ほんとかな?」
両船を繋ぐ綱が解かれ、威勢の良い宜候の声とともに船が離れていく。すでに見えなくなった黒髪をぼんやりと目で追いながら呟いたら、並んで見送る君が僕を軽く見上げて優しく微笑んだ。
「ええ。きっと」
二隻の客船を見送ったストレンジャー号は乗船員らにこれ以降の予定変更を通達し、今は緩やかに航路を変えてセルマー海峡へ向かっている。ヴィクトリア号が大きく蛇行して魔物を狩ったあとの夕暮れの海路は、久々に魔物の気配もなく穏やかに凪いでいる。
「お疲れ様です、テュールさん。いよいよっすね」
甲板に出てぼんやりと夕陽を眺めていたら、通りがかったアランさんが声をかけてくれた。振り返り、淡い笑みを作って頷く。
明朝、この船は問題の海峡に差し掛かる。
例え僕の推測が正しかったとして、あの青い顔の慇懃な魔族達が現れない保証はない。触らぬ魔族に何とやら、とも言えようが、逆に今回船団を組んで無事海峡を越えたとして──そして毎回同じように厚い警備態勢で以て越え続けたとして、掌握を回避し続ければ業を煮やした魔族らによっていつかもっと甚大な悲劇が起こらないとも限らない。
奴らが人間社会にひっそりと信仰の根を張り巡らせようとしている今、そして、こちらが勘付いたことも悟られてはいない今が最大の好機に違いない。
「しかし……これで何も出なかったら拍子抜けですよね。幸運っちゃ幸運だけど」
「出ると思いますよ」
アランさんと並んで今一度、水平線を染める夕焼けに魅入られながらすかさず答える。目を丸くして僕を覗き込んだ彼を微笑んで見遣り、「……多分」と控えめに言い足した。
うっかり続けそうになった言葉は、胸の内深くに飲み込んで隠した。
──あいつらが、あいつらにとっての邪教を許すはずがありませんから。
その夜の海は不気味なほど静かで、船腹に打ちつける波の音ばかりが延々と聞こえていた。どこまでも続く海原を遠く見遣れば、天から冷たく見下ろす月がその波間にぼんやりと照り返す。
翌朝、夜明け前から広がり出した鉛色の雲に朝陽を遮られた曇天の下、ストレンジャー号は予定通りセルマー海峡へと入った。
◆◆◆
「畜生、どえらく溜まってやがるな。おいこっちもだ! 手の空いてるやつは得物持って右に回れ‼︎」
半刻も経たないうちに魔物に船を取り囲まれ、一帯は混乱の様相を呈した。これだけ魔物が巣食っているのは普段船がこの海域を避けて通らないからというのもあるのだろう。魔物の坩堝と化した海を船縁から覗けば、深い蒼に紛れて無数の人ならざる生き物達が水を撥ねて蠢く。それらも船員と仲魔達の飛び道具や魔法、特技を前に次々と沈んでいく。周囲を囲まれて進めないかと思ったが、船底の罠が功を奏したか、その戒めも少しずつ解けていく。
「引き返しますか、テュール殿⁉︎」
「いや、まだ! 確かに多いですけど、これくらいなら問題ない。遭遇の合図だけ準備をお願いします! 念のため旋回できるようにしておいてください!」
ブリッジからの船長の呼びかけを受けて、僕も大声で叫び返した。北よりの強い追い風。これだと引き返す時は時間がかかってしまうかもしれない。でも逆に言えば、他の船がこちらへ向かう分には早いはず。
速度を緩めた船の船首や甲板に魔物がよじ登ってきた。半数くらいは船底に仕掛けた罠に酔ってふらついていることもあり簡単に落とせたが、船首から爆発魔法のイオばかりを放って腐っていたピエールは漸く剣の届く範囲に敵が入ってきたことに高揚し、彼を乗せた相棒の背を軽く叩いた。
「やれやれ。やっと少しは楽しめるか」
言うより早く剣を抜いたピエールは、ここ数日で溜まった鬱憤を晴らすべく魔物の群れへと突っ込んでいく。
「痺れ海月がいる! ピエール、麻痺の対応も頼む‼︎」
「承知!」
満月草の用意はあっても有限だ。麻痺を治すキアリクを使えるのはこの船でピエールとホイミンの二名だけ。出来れば彼には治療もこなしてもらいたかった。期待の通り彼は魔物を捌きつつ、崩折れた船員の傍に回り軽やかに麻痺を解除していく。「あ、有り難い」と囁かれる声に目もくれず、再び剣を構えて甲板を駆けた。
僕は外套の内側に父の剣と刃つきのブーメランを隠し持ち、見張り台ではなく甲板の中央にフローラと二人、背中を合わせて並んで立った。今はまだ、ここまで魔物の攻撃は届いてこない。
「──テュールさん」
爽やかなはずの朝の風に瘴気が混ざる。身躱しの美しい緑衣に身を包んだフローラが長い碧髪を風に躍らせ、硬い声で僕を呼んだ。
「上に、かなりの数が。二十羽以上は居ると思います」
甲板では船員と仲魔達が応戦している。遮るもののない海上で、飛空魔の姿は見えない。……とすると、雲からか。
「……船室の方に寄っておいて。間に合うようなら、中に飛び込んで」
一等声を潜めて指示をした僕に、フローラがぎこちなく頷いて了承を示す。
何となくだけど僕にもわかる。何者かが僕達をとり囲んで見ている、気がする。──否、あの竜神の帆を睨んでいるのかもしれない。これまでとはどこか違う、明確な敵意が刺さってくる。
数がどれだけ多かろうと、君は絶対に奪わせない。
「……あの、テュールさん」
交戦の喧騒の中、意識を研ぎ澄ましていた僕の耳に、背中越しにも震えが伝わりそうな、怯えを含んだ声が届いた。
「足元からも、何か嫌な感じを受けます。気をつけて……」
強張ったまま、フローラが言いかけたその瞬間、
「プックル‼︎」
短く呼んだ親友と共に頭上からの急襲を迎え撃った。ほとんど垂直に急降下したキメラ達を船室から飛び出したキラーパンサーが二、三羽まとめて薙ぎ倒し、同時に懐から投げつけた僕のブーメランがもう数羽の勢いを殺す。反射的に頭を庇いその場にしゃがみ込んだフローラをプックルと共に囲い立ち、次々に飛来するキメラを斬り捨てては引き裂いていく。
──何羽いるんだ、一体⁉︎
これまで遭遇した中で最も多い群れに違いなかった。あっという間に十数羽は落としたのに、雲間からの襲来が絶えない。「テュールさんを援護しろ‼︎」「お嬢様に触れさせるな‼︎」という叫びと共に数人の船員が駆けつけた。プックルがフローラの側についていることをちらりと確認して彼らに場を任せ、辺りを見回してすぐに違和感に気がついた。
「テュール殿!」
船長の緊迫した声が走る。見張台へ続く網縄に飛びつき、「何かが船を動かしてる。すぐに見ます!」と叫び返した。よじ登る僕を追い落とそうとするキメラがマーリンの炎に、船員のブーメランに退けられる。急いで登りきり見張り台へ飛び移って、思いきり身を乗り出し船底の更に下に映る影を覗いた。
──何かいる。それも、恐ろしく巨大な。
ストレンジャー号を半分飲み込めるほど大きな影が、船の下で蠢いていた。あんなものに転覆させられたらひとたまりもない。ぞく、と背筋に怖気が走ったが、海中に身を潜めた何者かは特に船を揺らすこともせず、わずかに船を先導する形で内海の中央へとぐんぐん進んでいく。
ふと額に圧を感じ顔を上げると、正面から突っ込んできたキメラと目があった。剣を抜きざま躱しその付け根を抉る。手応えとともに打ち払って、もう一度声を張り上げた。
「すぐに合図を‼︎ ──船底に何かいます。石入りの聖水を撒いてください! 方向転換、無理だったら錨を下ろして‼︎」
恐らく今、セントベレス山に向かって流されている。いや、魔物の背に載せられ運ばれているのかもしれない。
大人しく連れていかれるなんて、冗談じゃない!
見張り台の手摺をぎり、と掴んだところで、花火の爆発音に紛れて聞き覚えのない声が耳に届いた。
「……あんたら、天空信仰の者かい」
咄嗟に身を翻す。たった今翼を斬られて落ちたはずのキメラが自らに治癒魔法を施しつつ、ばさ、と羽ばたいてこちらを見ていた。竜神の帆を掲げているから出た問いだろう。少しばかり剣呑な色が薄れて見えるのは、先程僕と視線を交えたからか。
「生憎、人間の世界にはそれしかないよ。お前達は光の教団に関わる者か」
すぐさまこちらも切尖を突きつけ、ぎょろついた目玉を睨み据え問い質した。回答を期待した問いではなかったが、僕の目の高さまで浮上した魔物は明らかな愉悦を嘴に滲ませニィ、と笑う。
「俺たちゃ卑しい魔物だぜ? 信仰なんてお堅いモンは人間サマの十八番だろう」
「……何故、船を襲う? いや」
無駄話をする時間はない。質問返しは無視して、一番訊きたかったことを正面からぶつけた。こいつにどこまで答えるつもりがあるのかは分からないが。
「違うな。この船をどこへ運ぶつもりだ? あの崇い山に座す神とやらの供物にでもする気か」
僕の挑発にキメラはヒュウ、と嘴を鳴らして意外にも感心した風に応えた。尤もそれはやはり、胸糞悪くなる回答でしかなかったが。
「察しがいいな。神の御許で働いて死ねる、信心深いあんたらに何とも似合いの死に様じゃねえか」
「……何故妻を狙った」
図星か。言葉尻にせせら嗤った目の前の魔物を、苦く込み上げるものを堪えながら睨み返し更に問いを重ねた。片やキメラは、如何にも興味がなさそうに眼下にいるフローラを無感動に一瞥し言い捨てる。
「妻ぁ? ああ、あの碧髪があんたのつがいってわけか」
黙したまま眼に、構えた剣に力を込めれば、魔物は益々無表情のままばさりと翼をはためかせる。下で不安げに見上げているフローラの澄んだ気配に密かに安堵して、今一度キメラを睨み返した。腰に収めたブーメランにも手をかけて。
「────ケッ」
ほんの一間ほどの距離。一触即発、先に均衡を崩したのはキメラの耳障りな笑い声だった。僕の周囲を旋回し、翼と嘴を持つこの蛇の魔物は金属音の如く響く歪んだ高音を発した。嘲笑めいた声が高らかに響いては鈍色の空に吸い込まれて消えていく。
「ケケ、ッケケケケケ! 面白ぇ。あんた、面白ぇから一つだけ答えてやるよ! あんな碧髪は見たことがねえからさ‼︎」
「……何?」
「言った通りだよ。俺もそれなりの人間を捕らえてきたが、あんな髪の人間は初めて見たぜ? 緑ならまだ見るがな。そういうとびきりの変わり種をな、御所望の方が居るんだよ」
変わり種?
キメラと対峙したまま、瞬時に考えを巡らせる。どういうことだ? 無差別に見えて、やはり何か目的があるんだ。言われてみればヘンリーも輝くような翠髪の持ち主だった。確かに碧髪ほど珍しくはないけれど、そういう恐らく一目でわかるような特徴も手掛かりに、こいつらは十年以上も昔からずっと何かを探して子供を、人を攫い続けてきたのかもしれなくて。
その目的のために、今度はフローラが狙われた。
一体、何の為に?
恐らくひどく強張った僕の表情を愉しげに眺めていたキメラがふと、濁った硝子玉のような目玉から皮肉った笑みを消した。
「なあ。あんたの女、本当に人間か? 確かにガワはヒトみてぇだが、ありゃ────」
キメラの言葉は最後まで紡がれることはなかった。突如躍り上った巨大な紫色の何かがキメラを吹っ飛ばしたからだ。目の前を凄まじい勢いで薙いだそれに思考が一瞬止まる。無残に千切れた羽が、彼の居た場所からはらはらと散った。
『お喋りが過ぎるのう。キメラ風情が』
視界から消えたキメラを目で追う間も無く、海全体を揺るがし木霊するような、身の毛もよだつ悍ましい声が響き渡った。その波間から、船体の半分ほどの紫の巨体がずぶずぶとその身を露わにしていく。すぐさま見張台を飛び降り、フローラを庇って船縁との間に立ちはだかった。
「な、なんだよ、ありゃ……!」
それぞれに見下ろした船員達の表情に動揺が広がっていく。こんなもの、普段の魔物達の比ではない。
丸い頭だけでこの船の半分を占めそうな巨大な──鮹、だった。毒々しい紫と青の斑紋に、丸い頭から伸びた鮹の足は樽よりも太く、澱んだ金色の吸盤がてらてらと光っている。その全長はこの船にも匹敵しそうだ。巨大な鮹が潜むその頭上を今、ストレンジャー号は懸命に旋回しようとしていたのだ。
「……マザー……オクト?」
殺気立つプックルに縋りつき、目を見開いたフローラがぽつりと呟いた。咄嗟に妻を振り返れば、彼女は青褪めた表情のまま僕を見上げる。
「以前、文献で読んだことがあります。青い斑らの身体に九つの鮹足を持つ、深海の奥深くに棲む水棲の魔物の母だと」
「魔物の、母?」
思わず訊き返せば、彼女はまた険しい表情のまま小さく頷く。
「深い、深い海の底で魔物を生み、また育てているのだと。だからこの場所にこれだけの魔物が湧いているのかもしれません。でも、……こんなに大きい、なんて」
戦慄を滲ませたフローラの囁きに同意せざるを得ない。単純に、これほど大きい魔物を見たことがない。あれだけ湧いていた魔物達が本当に小物に見えるほど。そして船にまとわりついていた小物達は今、かしづくようにマザーオクトの側に控え指示を待っているようだった。
『小癪だこと。船底に何か仕掛けたねぇ。随分と良い心地だが、力がうまく入らぬわ』
宝石に酔っているのか、言葉に反してうっとりと上機嫌にすら見える大鮹の魔物は古めかしい言葉を唄うように紡ぐ。しかしその巨体から響く声は誇張ではなく、海そのものをびりびりと震わせる。
『お陰で妾は加減ができぬ。うっかり壊してしまうかも、……のう?』
マザーオクトが少し足をくねらせただけで、海面が激しく揺れて波打った。「抑えろ! 来るぞ‼︎」とフォスター船長が短く叫んだ、その瞬間大鮹の足が海を割り、盛大な水飛沫とともにゆらりと持ち上がる。
「────ッッバギマ‼︎」
詠唱の暇もなく放った風魔法とマーリンの炎魔法、ピエールの爆破魔法が空中で交錯し、振り下ろされた鮹の足を押し返す。風圧と重ねた魔法の衝撃で船がざあ、と反対側へ押し流された。足を刻まれ焼かれたマザーオクトは『おお、痛や。この虚け者らめが』と不快そうに吸盤のついた足を引いた。
いつの間にか僕の側で海を覗き込んでいたガンドフがすうっと息を吸いこみ、そのまま海中のマザーオクトに向かって、ふぁあ……と甘ったるい香りの息を吐き出した。
眠気を誘発する、魔物特有の甘い息。
「ガンドフ。いつの間にそれ」
知らぬ間に新たな技を習得していたガンドフは、驚いた僕に向かって首を傾げて照れ臭そうに笑った。「マネ。デきた」と彼特有の短い言葉で告げたあと、もう一度深く深呼吸して長く、長く息を吐き出す。
ごぼ、と大きな気泡を放ちながら暫し動きを止めた巨体から何とか一度、距離をとって。
急旋回したストレンジャー号は再び迫ってきた魔物達を蹴散らしつつ、全速前進、今来た航路を戻り始めた。