Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#10. 海中決戦

 命辛々、といった体たらくだった。

 いつの間にか風は東からの生ぬるい風に変わっていた。神の山から吹き下ろす湿った風が雨雲の到来を思わせる。横風を掴み海上を滑る船の上で、やや消沈した船員達を励ましつつ、僕とフローラはそれぞれに怪我人の治療や態勢の立て直しに奔走していた。

 周辺には依然として魔物が蠢き、進路を阻もうと追い縋ってくる。気持ちを奮い立たせて応戦してくれる船員達と共にひとしきり撃退したところで、ブリッジから各所の状況を確認してくれているフォスター船長のところへ向かった。

「どうやら、今まで海峡を抜けられた船は単に運が良かっただけのようですな。……あんな大物が巣食っていたとは」

 向かい合った白髭の船長は苦笑いしつつ独りごちる。言葉もない。あの大鮹が本気を出せば、客船の一つや二つひっくり返すことなど造作もないだろうから。

 ──だが、それはしなかった。恐らくそれは奴らにとって最後の手段だ。

「多分、ですけど、あいつらは僕達をすぐ皆殺しにするつもりはないと思われます。……生け捕りにしたいらしいですから」

 顎に蓄えた髭をさすりながら視線を彷徨わせていた船長がこちらを見た。その表情が諦めに満ちたものではないことに、僕は心の底から安堵を覚える。

「先ほど魔物から何やら聞き出しておられたようですが。生け捕り、ですか」

 眼に確かな意思を宿し問い返してくれた船長に向かって、僕もまた力強く頷いた。恐らく読み通りだった奴隷という目的は伏せたまま、やっとことの核心に触れられる。

「目的は不明ですが、生きた人間が大量に必要なようです。だから無暗に殺されることはないと思う。……抵抗が過ぎれば、排斥されるかもわかりませんけどね」

「はは。抵抗、するおつもりですな? もちろん」

 ──やはり、この方は戦意を失っていない。

 敬意を込めて彼を仰ぎ見れば、寧ろ余裕さえ感じさせる笑みを返された。少なからず畏縮した船員達を前に、さすがは船長というべきか。これほど頼もしいことはない。

「はて、しかしどのように料理しましょうか。あれだけ大きいと甲板へお招きするわけにもいきませんし」

 強い向かい風を受け流し翻る竜神の帆をどちらからともなく見上げ、先に呟いたのは船長だった。僕も視線を外して今来た方角を振り返る。そろそろ大鮹は目を覚ました頃だろうか、いつ追いつかれてもおかしくはない。

「海中に潜られてしまうと手が出せませんよね。かといってあの大きさでは繋ぎとめておくのも難しそうで。頭を狙うしかないと思うんですが、海では足場がないのが痛い」

「同感ですな。鮹といえば足は再生するものと相場が決まっている。初めから頭を狙うのが賢明でしょうが、……うむ」

 船長と顔を見合わせ首を捻る。飛び道具と魔法でとにかく頭を叩くぐらいしかあの化け鮹を討ち取る方法を思いつかない。父が遺してくれた宝石の知恵は多少の目眩しにはなるだろうが、あの巨体を酔わせて下手に暴れられても困る。さて、どうしたものか。

「あれを相手どりながら雑魚も片付けなくてはならない。厄介ですな。せめて小物を一掃できれば、大鮹に集中できる分少しは楽になりそうですが」

 若干のため息混じりにフォスター殿が口にした、その言葉がある魔法の記憶を呼び覚ました。がば、と勢いよく顔を上げた僕に船長は目を丸くしたが、目配せで頷いてみせると甲板を跳ねつつブーメランを投げているスラりんを見つけ、急いで呼びとめた。

 あるじゃないか。こういう場面にこそお誂え向きの魔法が。

「なぁにー? ごしゅじんさまー」

 相変わらずマイペースに近づいてくるスラりんに駆け寄り膝をつく。当たり前のように肩に飛び乗る彼を拾い上げて、ひやりと頰に当たる心地いい感触に思わず微笑みつつ問いかけた。

「あのさ、スラりん。ずっと前に魔物を消してしまう魔法、見せてくれたよね? 確かマーリンが破邪の魔法だって言ってたやつ」

「えー? なんだっけー。んーとんーと、……あ、そーだ! ずーっとつかわなかったからわすれてたー!」

 スラりんもどうやら失念していたらしく、少しの間口許をむにむに動かしながら唸っていたが、唐突に頓狂な声を上げた。器用にブーメランを軟体で包み込んだと思うと僕の返事も待たずに飛び降り、再び船縁へと跳ね上がる。海面をばちゃばちゃうって暴れる眼下の魔物達に向かって、なんとも可愛らしくも勇ましい宣言、否、詠唱を放った。

「んむむむむー、やみにまどいしものよ、なんじのあるべきところへと! ひかりあーれーっ! ニフラ──ムっっ‼︎」

 最後の呪言を高らかに口にした、その瞬間。

 眼球の奥を灼きそうな、真っ白な光が満ちた。海を、船の輪郭をも呑み込みスラりんの身体だけが陰影となって辛うじて見えるその光景に、誰もが目を瞑る。光はすぐに消え去り、恐る恐る目を開ければ────

 あんなにも蠢いていた魔物達のほとんどが消えていた。

 夢でも見ていたかのように、海は束の間穏やかな揺らめきを取り戻していたのだ。

 たった一匹の小さなスライムが起こした奇跡を目の当たりにした船員達は言葉を失って立ち尽くし、やがて、うおおおおぉ‼︎ と盛大な歓声で船を揺るがした。

 これこそが強烈な光の下、魔物を核ごと浄化してしまう古の破邪魔法、ニフラムだった。マーリン曰く、今やほとんど使い手のいない廃れた古代魔法の一つだそうだが、聖魔法と呼んで差し支えなさそうなこの魔法を何故スラりんが使えるのかはわからない。術者の力量に応じてそれより低級な魔物を浄化できるのだという。但し便利な反面、頼りすぎると実戦の勘が鈍る。仲魔になって間もない頃スラりんに一度見せてもらった後、有用だけれど今はあまり使わず鍛錬を積みたいかな、という話をしたのだった。それが凡そ一年半程前のこと、それきり日の目を見なかった魔法なので術者本人すら忘れていても無理はない。

「すげえ、すっげえ‼︎ 今のなんだ⁉︎ 一瞬で魔物が消えちまった‼︎」

「こいつは恐れいった! まるで勇者みてえじゃねえか‼︎」

 興奮した船員達にわっと囲まれ、スラりんも遠巻きながらにへーっと得意げに笑っていた。数を一気に減らしたことで、落ちかけた士気も取り戻せたようだ。微笑ましくその光景を見遣って、……その視界の奥で灰色の海が、生き物の如くみるみる迫り上がるのが見えた。

「────みんな、掴まれッ‼︎」

 咄嗟に力の限り声を迸らせた。船尾に集った船員が驚き屈み込んだ、その頭上に白い泡を纏った大波が、ドオオン‼︎ という轟音を立ててなだれ込む。膝下ほどの海水が甲板へ一気に流入し、強烈な水圧に押し流され支柱を背にたたらを踏んだ。場馴れした船員達はすぐさま近くのどこかしらに掴まって無事だったようだ、けれど。

「……スラりん? どこだ⁉︎ スラりん‼︎」

 衝動的に水をかき分け、ぐるりと見渡して無我夢中で呼んだ。たった今そこの船縁でにやけていたスライムがいない。水が引いていく船床に目を走らせたがどこにも見えない。船員達がどよめきだすと同時に、船室からフローラと仲魔達が飛び出してきた。彼らもまたすぐに状況を察して、青ざめながら声をあげスラりんを探し始めた。

 ──ひっつくから大丈夫だって言ったじゃないか。落ちたりしないって。

 せめて、せめて僕の肩に乗ったまま魔法を放ってくれていたら見失ったりしなかった。すぐに掴んで離さなかったのに。

 返事してくれ、頼むから‼︎

『見向きもせぬか。舐められたものよの』

 船縁の外側に貼り付いていないか、確かめようと駆け寄ったところでおぞましい声が海鳴りの如く響いた。瞬間、船体がガクンと大きく揺さぶられ慌てて船縁にしがみつく。おびただしい男達の悲鳴、そして背後で恐らく人がぶつかり転がる音がする。

 どうやら吸盤で船底を捕らえられ、持ち上げられているようだった。苛立った大鮹はそのまま船を担ぎ上げ、再び内海の中央へ向かう。船の真下に潜り込まれては攻撃が届かない、けれど止めないと──今、何とかしないと。

「今動ける方、いますか⁉︎」

 混乱する甲板に向かって今一度、声を張り上げた。

「罠の網を切ってください! 奴の動きを止めたい‼︎」

 大声をあげながら、船底を包む巨大な網と船を繋ぐ縄を次々に切り落とす。それを見た船員達も船縁に飛びつき縄を切り始めた。その合間にも波間に見える網に視線を走らせるが、青い小さな軟体はやはりどこにも引っかかってはいない。

(くそ。やっぱり落ちたのか)

 直視するには苦すぎる現実。鉄の味が滲むほどに唇をきつく噛んだ。落胆している場合じゃないから──こんなことを繰り返したくないから。諦めたわけじゃない、けど、今は思考を切り替えなければ。

 濡れて重い網はほとんどが海中に沈んだが、船は依然傾いたまま。切らずに残した一箇所だけまだ網が繋がっている、その縁に足をかけ「すぐに戻ります!」と叫んだ。制止より早く、外套と被り物だけ脱ぎ捨てて網を片手に海へと飛び込む。体重に任せて潜って、船底の裏にいる大鮹に左手を向けた。船を巻き込まないよう下方向を狙って。

 ──水中でもいけるか。頼む!

 左手の指輪が朱い光を放つ。水中での爆発が激流と衝撃を巻き起こし、鮹の気を引いた。目が合う前に網を手繰り海面を突き破って顔を出す。ぶは、と肺の空気を入れ替えた途端、鮹足が胴体に巻きつき再び僕を海中へと引き摺り込んだ。

「テュールさんッッ‼︎」

 絶望が凌駕した、初めて聞くフローラの悲鳴が水と気泡の濁音に阻まれ急速に遠ざかった。息を堪えつつ正面から相対した鮹の眼を睨む。大鮹はさも憎々しげに水を震わせ、海中でも耳に伝わる不思議な言葉を放つ。

『小賢しい人間めが。こちらはお前達が数匹減ろうが構わぬのよ』

 締め上げる足に更なる圧がかかり、肋骨がみしみしと歪に軋んだ。食いしばった歯の隙間からごぽりと空気が漏れ出す。腕ごと締め上げられているから剣は抜けない。捻り潰さんと圧を増す紫の足肌に、何とか左手の甲を埋めるように押し当てた。直接爆破するイメージを薬指に集中させて。

 多少の自損は覚悟の上だ。木っ端微塵に爆ぜろ‼︎

 次の瞬間、濁った爆音と共に鮹の足が弾けた。鼓膜をつん裂く絶叫が海中に轟き渡り、視界が一気に海より禍々しい青と黒で染まる。大鮹の血と、大量に放たれた鮹墨の煙幕だった。海中だというのに酷い臭気がして、吐き気がこみ上げたが必死に堪え、ただ無我夢中で鮹足の残骸を蹴った。

 どちらが上だ? わからない。沈んでいるのか、浮いているのかも。真っ暗な視界の中、死の予感が痛烈に意識を貫いた。まずい、もう、息がもたない────

 助かるためにもがき、伸ばした腕を何かが掴んだ。

 そちらが上だ。確信してもう一度、千切れた鮹足を踏み台に渾身の力で水を掻く。か細いそれを手繰り寄せ、黒い靄に霞む眼を懸命に凝らした。

 

 ────目の醒めるような、碧が。

 

 唐突に、ぬるい空気の中に浮上した。

「テュールさん⁉︎ わかりますか、テュールさんっ‼︎」

 やっと探り当てた網に縋りつき、げほッ、ごほ‼︎ と胸を抑えて何度も激しく噎せる僕を、どこか懐かしい声が必死に呼んだ。背中をさすった温かなものが今度は左手や腹部に触れて、爆発で負った傷がじわりと癒されていく。ひとしきり咳き込み、その細い腕で必死に僕を支えてくれているひとを見上げた。

「──……だい、じょ……う、ぶ」

 濡れて乱れた碧髪からひっきりなしに水が滴る中、翡翠の美しい双眸を、きっと海水ではないものでひどく潤ませて。

 今にも泣き出しそうな顔で、僕だけを見つめる、君を。

「……ありがとう。フローラ……」

 この華奢な身体のどこに、こんな力があったのだろう。

 浮力があるとはいえ、彼女は船から垂れた網に片手で捕まり、その震える細腕たった一つで僕を支えてくれていたのだった。その掌からほわりと温かなベホイミの光が溢れている。唇と目許を痛々しいほどに歪ませ、フローラはひとつ首を振ると濡れそぼった頭を僕の肩に押し当てた。そのたおやかな背中に腕を回し、僕も遠慮がちに彼女を胸に収める。

 ────……、生きてる。

 長く吐いた息が妙な安心感をもたらした。小さくしゃくりあげる細い身体から速い心音が、温もりが伝わって。たった今生々しく直面した命がまだ、僕の中から消えていないことを痛切に実感する。

 彼女が、その手で繋いでくれた。

 意識がはっきりしてくると、船の上から仲間達がひっきりなしに叫んでいたことにも気がついた。ピエールやガンドフ、マーリンは何度も「あるじ殿!」「ご主人! 無事か」と僕を呼んでくれていたし、体格の良い男達もこぞって身を乗り出し「早くお上がり下さい、お嬢様!」と口々に声を上げていた。無言で頷き、フローラに網を登るよう促したけれど彼女は強張ったまま動かない。なんとか一段足をかけたものの、網にしがみついたまま小刻みに震えてそれ以上どうにもできないようだった。

 ────怖いのか。不安定な網を登るのが。

 青ざめた彼女の横顔が、サラボナを発った日のことを想い起こさせる。

 高いところは苦手なんだ。あの日も町のすぐそばの塔に登りながら酷く怯えていた。それなのに今、あの船縁から僕のために身を投じてくれた。

 その想いの深さに罪深いほどの歓びと、己の軽率さを責める心が湧き上がりせめぎあう。

 苦しい────狂おしいほどに、胸の内側を熱いものが満たしていく。

 海はまた不気味に遠吠えて、マザーオクトに追従してきたであろう魔物達の襲来を示していた。先ほど仕掛けた攻撃で大鮹は船体の運搬を止めたようだったが、僕達がここにいるから船自体が離れて行けない。快癒とは言い難いが時間がない、震えるフローラをほとんど無理矢理横抱きにして網に足をかけた。

「テュ、テュール、さん」

 怯えた君が僕の首にしがみつく。悦んでいる場合じゃないけれど思わず頰が綻んでしまって、「落とさないから。捕まっていて」と耳許に囁いた。先程きつく締め上げられた身体は未だ骨が軋む痛みを残す。海水をたっぷり含んで四肢に纏わりつく衣服もまた動きを妨げた。追い縋ってきた魔物達を、それでも魔法を浴びせ退けながらも何とか網を手繰り登ろうとした、その時。

「ピエール! ガンドフ、マーリンもホイミンも、かくれててえええ──‼︎」

 気の抜けた、耳に覚えのある舌ったらずの声がどこからか聞こえた。フローラと同時に息を飲んだ、その瞬間再び真っ白な光が辺りを埋め尽くした。海原を鮮烈に走り抜けた光が再び、魔物の群れを見事一掃していく。

 急ぎ、その光源を目で追えば、少し離れた海面にぷかりと漂う青い小さな個体が。

「────スラりん‼︎ 大丈夫か⁉︎」

「へいきぃー。でも、もどれなーい。ながされちゃうぅー」

 そんな呑気な。へらりと笑ったらしいスラりんは為す術もなくぷかぷかと海面にたゆたっている。とりあえずほっと息をつくも束の間、総毛立つ殺気と共に海が再び大きく揺らぎ、さざめいた。

『妾の可愛いやや子達を何処へやった。スライム如きが……赦されると思うな‼︎』

 血気だった大鮹がざぁ、と水を持ち上げてその巨体を海上に晒し、スラりんめがけてよろよろと動いていく。まだ繋がったままの網ごと船体が引きずられ、再び船から叫喚が、そして腕の中のフローラが悲鳴をあげた。抉れた足から蒼い血が広がっていくが、どうやら怒り心頭の大鮹は気にも留めない。必死にバギマを飛ばし、船上からもマーリンがメラミを放ってくれたが、どちらも遠すぎて掠った程度にしかならなかった。

「スラりんッ‼︎ 逃げろ──────ッッ‼︎」

「むりぃぃぃぃぃ──っっ‼︎」

 血も凍るほどの戦慄。僕と半泣きのスラりんの、全身全霊の絶叫が重なってこだました。万事休すか。思わず目を伏せた瞬間、僕達のこめかみを何かが鋭く駆け抜けた。

 ……え⁉︎

 視認するより早くフローラが再び息を呑む。その物体は海面すれすれに鮹の脇を滑空し、スラりんの懐へと迷いなく突っ込んだ。水飛沫を上げて舞い上がったそれは青い軟体を空高く抱え上げ──否、嘴に咥えて、ばさりと大きく翼をはためかせる。

「……お前……!」

 濡れた翼からばらばらと水滴が散った。雨粒と雫を浴びながら、僕は翼の主を見上げてそれ以上言葉にならなかった。

 きゅう、と目を回したスラりんを嘴からぶら下げ、つまらなそうに目を細めたのは、

 ────つい先ほど、相対したキメラだったから。

『おのれ……ッ、おのれ、おのれえええぇッッ‼︎』

 目の前で獲物を横取りされたマザーオクトが忿怒のあまり、海をびりびりと震わせ声ならぬ声で激しく咆哮する。いかにも不機嫌な様子でそれを一瞥したキメラは、再び大きく羽ばたくと甲板めがけて真っ直ぐに舞い降りた。呆然と見守る仲魔達、船員達の前で、ぽとりと無雑作にスラりんを投げ出す。僕もフローラを支えて急いで網を登り、完全に伸びているスラりんに駆け寄った。

「スラりん‼︎」

 船床に手をついて覗き込めば、真っ先に側につきスラりんを触診してくれたホイミンが僕達を仰いでくしゃりと相好を崩す。

「……だいじょうぶ、みたい〜〜」

 ほわりとしたその声に、ずっと続いた緊張が抜けていく。ぽつ、と髪から滴った大粒の雫がスラりんの額に落ちて、スラりんが小さく「んぅー」と呻いた。そんなささやかな安寧を、荒ぶる化け鮹の割れんばかりの奇声が引き裂く。僕達がスラりんに構っている間に罠の網は完全に切り離され、ストレンジャー号はマザーオクトから次第に距離をとっていた。

「えらい酔い狂いっぷりだな。あんたら、何盛ったんだよ」

 先ほどまでの理性は欠片もない、暴れる大鮹の千切れた肢体からはほとんど得体のしれない紫の肉塊が盛り上がり噴き出していた。けたたましい雄叫びが辺りを揺るがす中、どこか冷めた眼で大鮹を眺めていたキメラがぽつり、独り言のように呟いた。

 その様子を怪訝に思いながら、彼を見上げる。ついさっき、あんなにもはっきりと敵対していた魔物を。

「……聖水に宝石片を入れてる。あんな大物に仕掛けることになるとは思わなかったけど」

「はっ」嘲るように彼は笑ったが、つい先ほど感じた刺すような敵意は感じなかった。「まったく。人間てのはたまに末恐ろしいことをしやがる」

「なんで、助けた?」 

 間髪入れず、前のめりにキメラの台詞を遮った。やはり彼は不本意甚だしいという目つきで僕を見たけれど──どうしても、訊いてみたかった。何故彼は今の行動に至ったのか。

「……どうして」

 正直、薄々見当はついている。魔物を従えることができるという僕の特異な能力が影響しているんだろう。今まで漠然とこの力に助けられてきた、けれど、『従える』と言っても僕は一度だって彼らに従えと言ったことはない。手を差し伸べてくれるのはいつだって魔物である彼らの方だ。主人と呼んで慕ってくれるのも、力を貸してくれるのも、すべては彼らの厚意から為されていることで。

 僕は何もしていないのに。君達はいつだって、どうしてそこまでしてくれるんだ。

「知るかよ。……んな大層なことかい」

 おそらく無視を決め込もうとしたのだろうが、僕の視線をきまり悪そうに受け流した彼は暫しの沈黙の後、根負けしたらしくぶっきらぼうに答えた。

「魔が差したんだよ。悪いか」

 鳥の嘴と翼、そして蛇の胴体を持つ異形の者だが、その困惑するほど生々しく、親しみ深い表情は──僕達となんら変わらない、『生き物』でしかない。

「……いや。そっか、魔が差した、のか」

 可笑しな話だ。こみ上げる笑いを噛み殺しきれない僕を、更に怪訝な顔でキメラが見遣る。僕達が『魔』の者と呼ぶ魔物が、たかが人間に引きずられて『魔』が差したって?

 何故かそれは言い得て妙でもあった。いつからか僕自身ぼんやりと感じていたことだ。話してみればまるで人間と変わらない仲魔達。彼らを手懐ける、人間であるはずの僕は彼ら魔族から、そして人間達の目からどのように見えているのだろう。

 ────フローラの目だけは、不思議と怖れずいられるのに。

「テュール殿」

 さすがに警戒を隠さず歩み寄った船長が硬い声で呼びかけた。振り向くと「ヴィクトリア号が見えました」と短く告げられる。その視線は終始キメラに縫い止められていて、僕のすぐ隣にくたりと座り込んだフローラに害を及ぼさないか、よくよく見定めているように見えた。

「今更手出しはしねえよ。この旦那が黙ってやらせるもんかい」

 挑発めいた笑いを滲ませたキメラを、フォスター船長は尚も険しい表情で見つめる。僕が魔物遣いだと知っていても、この状況で信頼しきれるかはまた別の話だろう。生真面目な船長の物言いたげな視線は全く意に介さず、キメラは再び暴れうねる大鮹の方へと視線を投げる。

「ありゃあもう駄目だろう。屠ってやった方がいい」

「どういうことか、訊いても?」

「俺だって知らねえよ」すかさず返した僕の不躾な質問に、キメラは再び鼻白む。「俺にわかるのは、あれがまともな状態じゃねえってことだけだ。そもそもあいつはもう魔物を産めねえんだよ。とっくに壊れちまってるんだ」

 その回答に、不覚にも胸を衝かれた。さっきフローラが教えてくれた時もほんのわずかに心が軋んだ。産み育てるもの──母親なのだと言われるだけでこうも容易く心を乱されてしまうのは、母という存在への思慕の念故かもしれない。

 僕らの隣で黙って話を聞いていたフローラもまた、小さく息を呑んだ。目が合うと、遠慮がちに桜貝の唇を開く。

「元々は深海に棲むものだと、以前書物で読みました。……やはりあの魔物は、本来ここに居るべき存在ではなかった、のでしょうか」

「詳しいな。そうだよ、あいつらは海の底で一生に一度だけ大量の卵を生む。それを育てて尽きるはずの命が、あいつだけああやって生き存えてる。しかも、有り得ない図体でな。理由は訊くなよ、俺だって知らねえから」

 有り得ない図体、ということは、あの巨体も本来のものではないのか。

 いつの間にか厚ぼったい鉛色の雲からぼつぼつと大粒の雨が降り始めていた。ぼんやりとけぶる海上を縫って大型客船が姿を現す。速度を落とし近づいてくるその船を見て、キメラが露骨に顔をしかめた。

「うへぇ、怖ぇなあ。あんたら端っから俺達を仕留める気満々だったんじゃねーかよ」

「そのつもりではあったけど、さすがにここまでの大物とは思わなかったよ。三隻いても太刀打ちできるかどうか」

 三隻だと、とキメラは益々引き攣った笑いを浮かべてみせる。僕もまた苦笑いを返し、近づくヴィクトリア号の船首に佇みこちらを睨んでいるイヴァン殿に向かって手を挙げた。

 このキメラは、随分前からあの大鮹と知り合いだったのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。先刻あの鮹足に思い切り弾き飛ばされたのに、彼はそれを恨みに思っている様子がない。斜に構えた、いっそ冷淡にも感じられる言葉の端々にはひどく、あたたかなものすら潜んでいる気が、した。

 助けようとしたのは、手を差し伸べたのは僕達にではなく、本当は────

 ほぼ隣り合う位置まで来たヴィクトリア号の老船長は、僕の側に控えたルドマン家令嬢が髪の先までびしょ濡れであることにいたく立腹した様子だったが、それ以上に過酷な戦況をすぐに理解してくれたようだった。見慣れぬキメラがこの場に加わっていることには若干呆れた目を向け、また僕達の視線の先を眺めやって、「こりゃあまた。どえらいのを釣り上げたもんだ」と寧ろ無感動に呟いた。

「マザーオクト、という鮹の魔物だそうです。何の要因でか、あのような姿に……どうやら再生能力が暴走しているようで、総攻撃で核を破壊するのが最良かと思っています。ご助力を、いただけますか」

 自我を喪い、海を揺るがす咆哮を続ける強大な魔物とそれを冷静に見つめる船長の背後、言葉を失うヴィクトリア号の船員達に向かって要請を投げた。甲板に出て複雑そうに魔物とストレンジャー号を見比べる彼らは、言葉にこそ動揺を出さないもののそれぞれが不穏な眼差しを返す。しかし老船長だけはやはり、不屈の闘志と不敵な笑みをその眼に宿し、一切の迷いを見せずに強く頷いた。

「愚問だな。総帥殿よ」

 

 

◆◆◆

 

 

 魔物を酔わせる秘薬ではなかったのか。

 引き金になったのだろうという気はした。大鮹の理性を、思考を吹っ飛ばすほどの怒り、そして聖水の罠。今も蠢いている足は三本、指輪の力で肉片にした一本と撤退前の迎撃で退けた一本、そして総攻撃で潰した四本の足があった場所はただの不気味な紫の肉塊となって盛り上がって成長を続け、今や大鮹の頭をも呑み込もうとしていた。

 残った太い鮹足は船体めがけて無秩序に振り降ろされる。すかさず数人で魔法を放って防いだ。やはり先刻の攻撃は加減されていたらしく、理性を失った一撃は比べ物にならないほど重い。メインのマストは生きていたけれど、それぞれに被害も出ていた。フォアマストを叩き折られたヴィクトリア号。船縁を数カ所抉られているストレンジャー号。フローリア号を加えた三隻とも、大鮹の放った墨を所々に喰らって異臭を放っている。幸いにも死者は出していなかったが、全く優勢と呼べる状況ではなかった。

 後方支援と称した通り、フローリア号には補助魔法の使い手が多く乗船していた。それぞれ他の船に分乗し、誘眠、軟化の魔法や味方への筋力増強術などを手分けして施してくれる。それだけ戦力を嵩増しできているはずなのに、総勢百名超による一斉攻撃でも大鮹は沈んでくれなかった。雨脚が段々と強まり、船員達の間には拭いきれない疲労が色濃く広がっていく。

「再生速度もさることながら、物理攻撃が通らなくなってきている節がある。このまま奴の再生が進めばどうなるか」

 敵を前にしてピエールが苦渋の色を示したのを正直、初めて見た。エルフ精製を銘うった魔力回復薬を既に数本飲み干していたが、彼の魔力、精神力も恐らくぎりぎりのところで保たれていた。僕もまた自分の魔力が衰えつつあるのを嫌な手応えとして感じていた。マーリンはさすがに顔色も変えず粛々と魔法を打ち続けてくれていたが、彼一人の魔力では核を破壊するところまで到底届かない。

 何より、どれだけダメージを与えてもそれごと飲み込む勢いで肉塊が再生していく。そんなものをかれこれ小一時間目の当たりにし続けて、魔力以上に精神的に負う苦さが計り知れない。

 ────今この場に、勇者がいたなら。

 考えたくないのに、苛立ちはそんな歪んだ思考ばかり吐き出す。伝説の、天空の勇者だけが使えると言う天雷の魔法なら、あいつを仕留めることなど造作もないだろうに。

 天空の剣はここに在る。実際の威力なんて知らないけど、きっと勇者の剣ならあいつに致命傷を負わせられる。魔王を斃すことも叶う剣なのだから。それなのに今、ここにいる人間には誰にも、僕にも使えない。柄を持ってただの一度薙ぐことすらできないなんて。

 何故、何故。何故正統な持ち主は未だ姿を顕さない‼︎

 幾度めかの行き場のない憤りを唇を噛んでやり過ごしたその瞬間、灰色の空を割って閃光が走った。スラりんが目を覚ましたのかと思ったけれど、そこから数拍の間をあけて、ドゴオオォン‼︎と山一つ吹っ飛んだような重たい轟音が背後から響き渡った。

 まさか、新手か⁉︎

 大鮹に集中しすぎて気づかなかった。激しく打ち付けるぬるい雨の中、振り返れば硬い表情の妻と目があった。船室で待っていてくれても構わないのに、彼女はずっと僕達の邪魔にならないよう、ずぶ濡れのまま薬を持って近くに立ってくれている。

「落雷、です。テュールさん」

「────落雷?」

 思わず聞き返した僕に、フローラは額に張り付いた前髪と顎から雨粒を滴らせつつ頷く。

「まだ、少し遠いようですが。どこかの海面に落ちたのだと思います」

 少女の凜とした声に被さって、空を覆い尽くした雲から重々しく雷鳴が轟く。

「……かみなり」

 口の中だけで反芻したそれに、フローラが気づいたかどうか。

 雷。落雷。天雷の魔法。

 自然の雷は勇者の魔法には匹敵しないかもしれないけれど。僕達の使う魔法より威力があるのではないだろうか。それこそ、生身の人間が受ければ命があるかわからない程度には。

「フォスター船長」

 意識が向くより先に船長を呼んだ。甲板へ降りて他の船員と共に大鮹と対峙していた船長がすぐに振り向く。その視線を捉まえて、性急に訴えた。

「雷……、雷を、あいつの核に落とせないでしょうか」

 船長と、周りの船員達も一斉にどよめいた。表情を見る限り簡単ではないらしい、が、それに構わず早口に言葉を続けた。一分一秒だって惜しい、そう思ったから。

「僕が行きます。あいつの額に剣を──それでうまく、落雷が来てくれたら」

「ですが、テュール殿が巻き添えになる可能性が高すぎます。剣を持ったまま落雷を受ければもちろんのこと、手を離しても近ければ雷は身体を撃つ。あの鮹に剣を突き立てて、そのあとどうやって離れますか。うまく海に逃れたとしても、顔を出した状態では恐らく雷から逃れられない。落雷の瞬間に海面に接していてはならぬのです」

 どういうことかと思わずフローラの方を振り仰いだら、そちらでブーメランに手早く布を巻き直していたアランさんが代わりに説明してくれる。

「この船はある程度、雷を逃がせるようにしてあるんで平気なんです。雷ってのは海面上で拡散してから消えるんで、嵐の時とか、うっかり海に落ちてしかも雷が落ちそうな時にはとにかく水面下に潜るんですよ。拡散は一瞬なんで、運が良ければ触れずに済む」

「そう……なんです、ね」

 雷の仕組みはよく理解できていなかった。支柱や高いところ、特に剣などの金属に落ち易いという程度の認識しかなかったから、剣を突き立てれば雷を誘引し易いのではと思ったのだけれど。口許に手を当て考え込む。確かにそれでは、かなりの確率で僕も落雷に巻き込まれてしまうだろう。──フローラの目の前で。

 今はただ、あいつを滅せる力が欲しい。それだけなのだけど、だからってこんなこと、フローラの目の前で投げやりな気持ちで言ってはいけない。わかってる。

 そんな気持ちで行っては、いけない。

「他に妙案を思いつきません。うまく雷を引き寄せられれば、核に直接当てられれば、斃せるんじゃないかって……」

 それでもやっぱり、他に方法を見つけられない。黙って僕を見つめる大きく見開いた翡翠の瞳が揺らいだ。申し訳なくて小さく微笑むくらいしかできない。結局こんな風に心配をかけるばかりで、僕は何という人でなしの夫だろうか。

 死ぬつもりなんかない。けど、絶対に大丈夫だとも言い切れなくて。安心させてあげたいのに、結局は何も言ってやれない。

「あまりに危険すぎます、としか……そもそもこれ以上船は近づけませんし、近づいたとしてもあれだけの高さ。低地へ誘導するにもあそこまで理性が飛んでいては、挑発したところで反応しないのでは」

 それは僕も考えた。例えぎりぎりまで近づいてもらって見張り台から飛んだところで、人間の跳躍力などたかが知れている。伝説みたいな立ち回りなんか出来っこない。悔しいが僕は、ただの人間に過ぎないから。

 フォスター船長はそれだけ言うと、もう提言できることなどないという風に押し黙った。彼も、僕も、フローラも皆分かっている。このまま攻撃を続けたところであいつはきっと斃れない。そして、どういう観点で見ても、時間がない。こちらの戦力、気力が尽きるのと、あいつの変化が今以上に手のつけられないものになるのと、

 ……この雷雲が、通り過ぎてしまうまでの時間と。

 狙い通りにいく可能性は極めて低い。誰も何も言わないけど、今この瞬間にも僕達のうち誰かに落ちない保証などない。それでも甲板にいる者達は誰一人退く兆しがない。その覚悟に報いたい。わずかにでも突破口があるなら、その可能性に縋れるなら。

 

「ならば、拙者が行こうか」

 

 まるで近場へ遣いにでも出ようかというように、彼はそれをいとも容易く口にした。

 思いがけぬ申し出に目を瞠る。咄嗟に言葉が出なかった僕を船縁から見上げ、僕の頼もしい相棒は微かに苦笑したようだった。

「只のヒトより雷に対する耐性はある。案ずるな。あとはどうやって奴の額を狙うか、だが」

 言いながらも、ピエールは迷いなくキメラに眼を向ける。仮面で表情は見えなくともキメラにも伝わったのだろう。さも不満げに眉間を歪めつつ答えた。

「……おい。なんで俺を見る」

「鎧兜の分多く見積もっても、あるじ殿よりは軽量のつもりだが?」

 笑い含みに軽口を叩くピエールを慌てて呼び止めた。本当にこの時、自分はただ純粋に彼の身を案じたつもりだった。真実、本心から、彼を慮っただけの気でいた──のだ。

「待った。ピエール、君一人に危険を冒させるなんて」

「いい加減になされよ。あるじ殿」

 怒気を孕んだ低い声。

 たった一言、ごくごく静かに僕を制した彼は微動だにせず、こちらを向いてすらいなかった。しかしたった今、この喉元には彼の切尖がひたりと宛てがわれている錯覚すら覚える。

 殺気じみたその気配に思わず、ごくりと唾を飲んだ。

「お一人で背負うのはさぞかし楽であろうな。そうして我々を慮る。なんともお優しいことだ。それが時として寧ろ残酷であることに、いつになれば気づいて下さるのだろうな」

 そうして初めて、彼は僕を振り返った。

 剣筋の如く、冷たく研ぎ澄まされた眼差しが鉄仮面越しに僕を貫く。

 これほど冷ややかな視線を彼に向けられたのは初めてだった。思わずたじろいだ情けない主人を彼は厳しく睨み据えたまま、容赦なく畳み掛ける。

「貴方を失うことだけは絶対にあってはならぬ。使命を、ご決意を、お父上の悲願をお忘れか。この場で易々と賭けられる命かの判断もつかぬほど、我が主は暗愚であったか」

「……そ、れは」

 何か言い繕おうとしたが出来なかった。真っ向から突きつけられた問い掛けが一瞬で僕の盾を、綺麗事の衣を剥ぎ取ってゆく。

 他の誰かに負わせたくない。傷つくところなど見たくない。

 一見思いやりにも見えるそれが、本当は誰も心から信じられてはいない己の弱さでしかないのだと。いくら愚かな僕でもここまでされて欺瞞を通せるほど頑なにはなれない。僕一人が負えば良いこと、そうやって仲間達の信頼を突き放して、これまでだって何度も身勝手に動いてきた。そのたび僕が負うべき苦悩を彼らに負わせて。その苦い笑みに甘えて、僕は僕自身の愚かしさからもうずっと長いこと、目を背け続けてきた。

 心の何処かにわだかまっている卑屈な自分がそうさせるのだということも、僕はもう薄々わかっていた。

 わかっていて、目を伏せた。奴隷だった自分。人並の生き方を知らない自分。自分に価値を見出せなくて、父の遺志だけが僕の財産で、そこに縋るしかない自分がどうしようもなく惨めで。

 そんなもの、彼らを信じない理由になどならないのに。

「果たすまで死なぬと言ったな。こんなところで軽率にも志を折りかねぬ真似をして、万一のことがあれば今度は誰にそのご遺志を継がせる気だ。奥方殿を第二の貴方にするおつもりか‼︎」

 苛烈なまでの怒号が雷鳴をも裂いて船上に響き渡る。何も言えず、黙って雨水を滴らせ目の前のスライムナイトを凝視するばかりの僕に、彼はふと眼差しを和らげて首を傾げた。

「この方ならばと剣を預けた。……拙者をこの上、幻滅させてくれるな」

 こんなにも僕を想ってくれる君の気持ちを、無碍にした。

 それでも君は、僕を主と呼んでくれる。

 ────そうか。

 やっとわかった。僕が今すべきこと。僕にだけ今、この場で為せることは、

「『魔物遣い』の矜持を見せて下され。……我らが主よ」

 そう言って笑ってくれる彼をただ信じること。僕の望みを必ず果たしてくれると、一片の曇りもなく信じて送り出すこと。

 それしか、ないんだ。

 叱責をくれたピエールへとようやく真っ直ぐに視線を返した。彼の力強い首肯を受け、改めて横で話を聞いていたキメラの方へと向き直る。見るからに嫌そうな反応をするキメラに苦笑したい気持ちを堪え、努めて穏やかに呼びかけた。

「名前を、聞いてもいいだろうか。今更だけど」

「────、……メッキー」

 不承不承名乗ったキメラに向かって、僕は深く頷き大きく一歩、進み出る。

「今回だけでも構わない。力を貸して欲しいんだ。マザーオクトの真上まで、ピエールを乗せてやってもらえないか」

 概ね予想通りだったんだろう。メッキーはやはりうんざりと顔を背けたが、僕ももう退くわけにはいかなかった。片膝をつき、深く腰を折り頭を垂れる。おい、と慌てたようにキメラが呼んだが構わず、船床に剣を置き両の拳をついた。

「……頼む。メッキー」

 伏せた頭に、首の後ろに、ばらばらと大粒の雨が打ちつける。その頭上で稲光が走り、何度目かのゴロゴロと肚まで響く重い音がこだました。

「そこまでするかよ。ほんっと……」

 ややあって、すっかり呆れ返ったキメラの声が、僕の後頭部に降る。

 顔を上げると苦虫を噛み潰したように顔を歪めきったキメラが僕を見下ろしていた。「飛ぶだけだからな。早くしろよ」と言い捨てる彼に感謝を込めて今一度頭を下げ、改めて、僕の腹心とも呼べるスライムナイトを正面から見据える。

「……ピエール」

 名を呼ぶと、彼は騎士よろしく恭しく僕に向かって剣を掲げた。時代がかった仕草だが、普段あまり言わなくとも彼がそういうことこそ大事にしていることには何となく気づいていた。

 出会ってもう二年近く、ずっと一緒に闘ってきた。

 頭から雨に打たれ、滴る雫もそのままに、密やかに告げる。

「命じるよ。……生きて、戻れ」

 初めて下された僕の命を受けたピエールは、どこか満足げな笑みを短い返答に滲ませ、深々と頭を垂れた。

「────御意」

 

 

◆◆◆

 

 

 話がまとまると、ピエールは手早く出陣の用意を整えた。

 一度船室に戻った彼は懐の中身を整理してきたらしく、薬草の類はほとんど全て置いてきていた。唯一手に持った魔力回復薬を一気に飲み干し「念には念を入れてな」と笑ってみせる。ほとんど降りたところを見たことがない緑のスライムから飛び降りては慈しみを込めて撫でやり、またマーリンや他の仲魔達を呼び止めて何事か二、三の言葉を交わしていた。

 まるでこなれた身辺整理を見ているようだ、と僕は思いながら、やはり渋い顔つきで船縁に蛇の胴体を這わせピエールを待っているキメラに声をかけた。

「さっき、今回だけでいいって言ったけど。……もし良かったら、僕達と一緒に行かないか」

 さすがにこの誘いは想定外だったらしい。丸い眼を一層光らせてまじまじと僕を凝視した後、彼は溜息交じりに首を傾げた。

「あんた、ほんっっとに変わってんな。ついさっき俺の自慢の翼を叩き斬ってくれたのは何処の誰だよ」

「そこはお互い様だろ。多勢に無勢でひやひやしたんだから」

「無勢ぃ? どこがだ。こんだけ戦える人間を積んでおいてよく言うぜ」

 そこはそれ、フローラを狙っての急襲の時の話をしたつもりだったのだけど。当初キメラに対応したのは僕とプックルだけだったし、と思ったが深く追求しても仕方ないのでその件については黙っておいた。代わりに、

「いい奴なんだろうな、って思ったんだよ。君さえ良ければ、どうだろう」

 どこがと問われて答えれば本人は否定するだろうが、そこは偽りなく本心だった。案の定メッキーは益々怪訝な目つきで僕を見る。暫し訝しげに睨んだと思ったら、急ににやりと嘴を歪めて嘯いた。

「ははぁ。セントベレスのことでも知りたいってか? 悪いが俺はろくなこと知らねえし、話すつもりもねえぞ」

「いいよ。何も話さなくて」

 成る程、そうきたか。苦笑交じりにやんわりと否定したら、メッキーは今度こそ毒気を抜かれたらしくぽかんとして僕を見た。

「君から何かを聞き出したいわけじゃないから。言いたければ話せばいいし、話したくないことは聞かない」

 僕も、そうだし。

 仲魔達に全てを話しているかといえば、多分そうじゃない。同じように僕も、彼らから言い出さないことは追及しない。討伐の際に意見を求めるくらいだ。だから、魔物遣いなんて言っても僕自身は魔物に詳しいわけじゃない。知識だけで言えば、モンスターの研究をしているあの老人会の皆様には遠く及ばない。

 だって、人間のことだってそこまで知らないのだから。決してまっとうな家庭に育ってはいない自覚はある。幸せだった子供の頃でさえ、母親がいないことにどこか空虚さを覚えていた。

 ────フローラのことだって、まだ知らないことはある。

 それすらも、それでいいんだと思っている。強がりではない、と思う。僕だって別に、隠すつもりじゃなくてもまだ話せていないことがあるだろうし。大体、結婚してまだひと月しか経ってない。いつか彼女が話してくれると──天空の盾のことを、聞かせてくれると義父も言っていたのだし。

 ……まだ、ひと月だって。

 思えば出会ってまだふた月も経っていないのか。いつの間にかもっと長く一緒にいるような気がしていた。同時に、それほどまでにかけがえのない存在になっているのだと改めて思う。彼女の知見、聡明さに、その清らかな穏やかさに、儚い見た目とは裏腹なまでの不屈の精神に、僕はどれほど救われているだろう。

 ほら、こんな風に。全てを知らなくたって関係は作っていける。信頼はちゃんと育める。話さないことなんて、壁を作る理由になんかなりはしない。

「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったんだっけ。──僕は、テュール」

 まだどこか唖然として僕を見つめているキメラの眼を覗き込み、小さく苦笑しながら名乗ったところで、すっかり身支度を整えたピエールが僕らの前に立った。

「お待たせ致した。メッキーよ、参ろうか」

「あ。ああ」

 やはり死地に向かうとは思えない気楽ささえ感じさせながら、ピエールは躊躇いなくキメラの背に跨る。「ちっとは遠慮しろよな」とぶつくさ言いつつ、大きく羽ばたいたメッキーが宙へ浮かび上がった。

「考えといてやるよ。精々無事を祈っとくんだな」

 一瞥と共にそんな捨て台詞を残し、もう僕達には目もくれずに、キメラは一気に高度を上げた。マストより高い場所から一息に滑空し、大鮹の頭上へと急降下する。

 その動きと共に三隻の船員達も攻撃を止めていた。彼らが飛翔するまでに、残っていた足は全て潰せるだけ潰してもらった。やはり今も再生は為されているが、鮹足に彼らが阻まれるよりはいい。もう僕らはピエールの剣に──落雷のエネルギーに賭けるしかないのだから。

 うまくいってほしい。でも何より、無事に戻ってほしい。

 飛翔は一瞬のことだったがひどく長い時間に感じられた。心臓が鷲掴まれて千切れそうにひしゃげる心地がする。何もないのに貫くような痛みを感じて、思わず左胸を抑えてしまった。何もできずにただ黙って見守る。それが、こんなにも苦痛なことだなんて。

 それでもあの幼い日、鎌を首に宛てがわれ父の最期を見届けた時とは違う。僕が信じると決めた。今度こそ、これは僕が負わなくてはならない、逃げてはならない責務なんだ。

 フローラも、仲魔達も、船長も、船員も。他の二隻も、皆。

 この瞬間全員がそれぞれに船縁を掴み、固唾を飲んで彼らの行く先を見守っていた。

 鮮やかに飛んだキメラの軌跡はマザーオクトの真上で止まった。その高さから、銀に輝く小さな鎧の騎士が落下したのが見えた。雄叫びをあげる肉塊の真上に剣から先に落ちた鎧が着地した、ように見えた、────瞬間、大気が大きく揺れた。バリバリバリ‼︎ と頭が割れるような激震と破壊音、ほとんど同時にはっきりと空を覆いつくすかの如く、大鮹の頭上に巨大な稲妻が走った。

「ピエ────────ルッッ‼︎‼︎」

 離れろ、なんて叫びすらかき消された。彼が着地した肉塊が彼ごと激しく発光し──否、爆発した。肉塊を一瞬で取り込んだ白い光が弾け、ドオオオオオン‼︎ という轟音と共に凄まじい衝撃が走った。まるで火山灰の如く千切れた肉片が降り注ぐ。船も大きく揺れ、大鮹を起点とした海面に青白い光がぶぁ、と一気に広がって消えた。

 瞬き一つしたら終わっていたというくらい、あっという間の出来事だった。

「ピエール! ピエールは……‼︎」

 もはや夢中で相棒を探す。崩れゆく肉塊の、その頂上で──彼は、しっかりと剣を足元に深々と突き立てたまま片膝をついていた。その姿を認めて息を飲むと同時に、遠いその影がぐらついた。剣に縋りつくように倒れた、その身体だけが大鮹からもげて、沈みゆく肉塊にぶつかりながら落ちていく。

 ほとんど反射的に船縁を踏んでいた。迷わず海へ飛び込んで、ただがむしゃらに水を掻く。海中を巨大な肉塊の方へと泳いで泳いで、鮹だったものの胴体に奇跡的に引っかかっていたピエールを見つける。沈みゆく鎧をすぐさま腕に抱えて再び肉塊を蹴り、上を目指した。

 水飛沫を振り撒きざばぁ! と浮上した、その場でピエールの仮面をこつこつと叩く。「ピエール。ピエール、頼む。答えてくれ、ピエール……!」何度も必死に懇願したが意識は戻らない、が、数回呼んだところでぴくりと身じろぎがあった。反応を得られたことで、張り詰め切ったものが急速に落ち着いていく。彼を支えたまま深く深く息を吐いて、急いで表面だけでも、とベホイミを施した。

「その兄さんも、すっげえなぁ……」

 ピエールを降ろした後、距離を取っていたのだろう。どこからか旋回し戻ってきたメッキーは、心底感心した様子で意識のないピエールを覗き込む。

「落雷の瞬間、自分に治癒魔法かけてたぜ。多分そのお陰で死に損なってんだろうよ。喰えねえ御仁だ」

「……そう、なんだ」

 相槌と共に、ぐったりと僕に体を預ける鎧姿の相棒を見下ろした。スライムに跨っていない彼はいつも以上に小柄に見える。今更ながら、彼の背丈は人間の子供ほどしかないのだと気がついた。どこまでも武人で、僕よりも剣技に優れた存在だったから、今まであまり気にしたこともなかったけれど。

 ────魔物、なんだ。間違いなく。

 だからって何が変わるわけではないけど、今更それを自覚したことは自分にとって少しばかり衝撃だった。そこまで魔物と人との境界線が曖昧だったことに、我ながら驚愕を覚えてしまって。

 僕達にぶつからないよう、ストレンジャー号が距離を詰めてくれる。「テュールさん、縄梯子を降ろしますよ! 急いで上がってください!」と馴染みの船員の声が聞こえて、感謝を込めてそちらを仰いだ。皆一様にほっとした様子で僕達を見守ってくれている。

「乗りかかった船だ、そっちの兄さんだけなら上まで連れてってやってもいいぜ。すぐ治療してやりたいだろ?」

 メッキーが顎をしゃくって言い、僕も小さく笑って「そっか。じゃあ、頼もうかな」と答えた。海面すれすれのところでメッキーがこちらに翼を向けて、

 

 それでやっと、

 ああ、終わったんだと思った。

 ほっとして。気が抜けて。次に何が起きたかもわからずに。

 

 

 わずかに見えた、彼の眼が、まるい眼が一瞬天を仰いで。

 え、と思う間もなかった。

 気づいたら僕はピエールを抱えたまま、再び水中深くに沈んでいた。

 慌てて海の中から仰いだ海面に、

 青い光が、光の柱が僕のすぐ真上に落ちてけたたましく爆散、した。

 

 

「──────嫌ああああああぁぁぁッ‼︎」

 海を枯らすような轟音と、壮絶なまでのフローラの絶叫が。

 激しい、激しい慟哭が、海峡の水面に無情に響き渡って。

 

 

 何が、起こったんだろう。

 光は本当に一瞬で消えた。海面に拡散して消える、と教えてくれたアランさんの言葉をぼんやりと思い出していた。ピエールは僕の腕の中、そして、もう一つ──すぐ手が届くそこに、その躰は俯せになって浮いていた。

 たった今まで言葉を交わしていた、

 鳥と蛇の、異形の。

「…………っ、あ」

 嘘だろう?

 自分の身体ではないみたいに震える。鼓動が、煩い。血が急速に逆回転しているみたいだ。思い通りに持ち上がらないその手で、目の前の、ぴくりとも動かない躰に触れた。触れた瞬間指先にビリ、と焼ける様な痛みを感じる。

 ────嘘、……だろう。

 突き飛ばされたんだ。あの瞬間、メッキーがその背で僕とピエールを海中に沈めた。そのお陰で僕達は落雷を免れて────

 メッキー。メッキーは。

 促されるまま縄梯子を手繰り、上の船員にピエールを手渡してからすぐメッキーを拾い上げて登った。すぐに甲板で待ち構えていたホイミンが触診をしてくれる。ピエールはやはり、危険な状態ながらも生き存えてくれていた、けれど。

「……ごめん、なさい。ホイミンにはむり……」

 ほとんど泣きながら告げられた答えで、全ては察せられた。

「そせい、まほう、おぼえてないもん。むりぃ……っ」

 ぼろぼろと大粒の涙を零し、ひぐ、としゃくりあげるホイミスライムの隣にフローラがそっと腰を下ろした。懸命にピエールへの治癒魔法を施そうとする、小さな魔物に寄り添って彼女もまた魔法を手に灯す。……その優しい手が、震えた。

「────ふ、……っ……」

 きっと堪えきれなかった、哀しすぎる嗚咽が彼女の細い喉から溢れる。

 肩を、身体を痛々しく震わせながら治療する二人を、僕達は何もできず見守るしかなかった。

 海をあんなにも揺るがした大鮹は、いつの間にかこの海底深くに沈んで跡形も無かった。涙雨のように降らせていた雨雲も、最後の落雷を呼んだ雲と共にいつの間にか流れて去っていた。

 まるで何事もなかったかのように海は平穏を取り戻し、緩やかに凪いでいく。

 どれだけそうしていただろうか。やがて、メッキーの亡骸がぼんやりと光を纏い、その身体が粒子のようになって空気に溶けはじめた。

 その幻想的な光景を止める術を僕は持たない。ただ与えられた刻限まで、見守って、見送ることしか。

 砂でできた置物のようにさらさらと身体を失ってゆくメッキーを、その最期の姿を、食い入るように見つめていた。

 彼を構成する魔力が全て大気に飲まれて、その身体は僕の知らない何処かへと還る。

 ただ一つ残された彼の核が、からんと音を立てて甲板に出現した。

 彼の嘴の色に似た、琥珀色の核だった。

 

 

 

 

 

 その日の夜は魔物番を終えた後も眠れず、特別船室に備え付けられた小さなデッキから一人、真っ暗な海を眺めていた。

 見張りから船室に戻った時にはとっくに日付が変わり、深夜にもなっていた。ホイミンと共にピエールの治療にあたってくれていたフローラは今はベッドに深く身体を沈み込ませ、力なく眠っていた。触れたら起こしてしまいそうな気がして少しだけ、傍に腰掛けてその寝顔を眺めた。海に入り、雨に打たれてずっとずぶ濡れだった彼女の頰には隠しきれない疲労が滲んでいて、先に眠ってくれたことにほっとしたら急速に肩の力が抜けてしまった。

 魔物番の間も、船員達は皆僕を慮ってくれていたが、確かにひどく疲れているはずなのに、目が冴えてしまって少しも休めそうになかった。

 マザーオクトとの死闘の後、船はすっかりぼろぼろで。あとの二客船は連れ立ってほぼ同じ距離のポートセルミへと戻っていった。この船だけは海峡を抜けた先のサラボナ北東の岸辺につけて、近くの小さな村を頼りに船の修復を行うことになった。それでも丸二日はかかる航路を、マザーオクト以上の敵に遭遇しないことだけ祈って、応急処置を施したストレンジャー号は一路陸を目指し海上を走っている。

 幸いにも重傷の怪我人は出なかった。唯一、ピエールを除いては。今もホイミンがつきっきりで彼に治癒魔法を施してくれている。いつも騎乗しているあの緑のスライムもずっと側についているらしかった。僕も何度か覗いたけれど、「はいっちゃだめ〜! いいから、ごしゅじんさまはおやすみするの〜〜〜!」とすぐさま彼らの船室を追い出された。ずっと付き添っていたフローラも夜には同様に部屋を追われたらしく、目が合えば微笑んでくれたものの、明らかにピエールの様子を気にして消沈していた。船の修理と掃除、そして今後の進路についての相談とで駆けずり回り、夜が更けてからは進んで魔物番を引き受けた。時折船にまとわりついてくる海の魔物達を粛々と処理して、早めに休息をとった船員と交代しここに引き篭った。

 頭が回っているのか、鈍っているのかわからない。気づけば身体は泥のように重くて、しかし思考は無駄なほど冴えている気もする。何も考えず動いている方が気楽で良かったなと思う。一人になった今、何を考えたらいいのか、自分が何を考えたいのかもよくわからなくて。結局目まぐるしく浮かぶ昼間の情景を瞼の裏側に収めながら、その時手に入れた核を掌の中、ぼんやりと眺めていた。

 昼までは確かに、キメラだったもの。

(……何が違う。僕が斬り捨てた、他のキメラ達と)

 それは後悔なのか。懺悔なのか。

 この核にも似た重苦しいしこりが、胸の深いところに入り込んで、とれない。

 身勝手だな、と我ながら思う。自分の都合で敵と味方を決めつけて線引きして、勝手に入れ込んで落ち込んで。

(でも、……もう、仲魔みたいなもの……だったから)

 そんな風に思い返すと、心を許せていない──というのは少し違うのかもしれない、と思う。

 甘えているだけなんだろう。失うことを、取り返しがつかないことを、誰よりも怖がっているのが僕だというだけで。

 目を閉じれば今も鮮明に浮かぶ、父の、最期の、──……

「テュール、さん」

 ふと、悪夢の記憶を澄んだ声が遮った。

 扉に近づいた気配に気づかなかったわけではないけど、何となく、僕は振り返らずにいた。彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。フローラは足音も立てずにそっとデッキに降り立って、僕のすぐ背後に寄り添った。

 そのまま、どちらも何も言わないまま、波が船体に打ち付ける音だけが淡々と響く。

「──今日……、ありがとう」

 夜の潮風は肌寒く、背後の君が微かに震えた気配を感じた頃。やっと、昼間言いそびれたことを思い出して、囁いた。

 ひっそりと振り返ってみれば、なんとも言えない表情で僕を見つめる君がいる。

「僕のために、飛び込んでくれた」

 ぎこちなかったけれど、微笑みを繕ってそう言った。この気持ちは嘘ではないのに、助けられた瞬間彼女をあんなにも愛しく思ったのも本当なのに。今はもっと昏い感情に支配されていて、これ以上うまく、彼女に向き合うことができそうに、ない。

 フローラもまた、目を瞠ってから首を小さく振った。いいえ、と掠れた声で答えてまた口を噤む。

 それからまた、漣に支配された静寂だけが僕らの間に満ちて。

 今更だけど、風邪を引かせてしまうのでは。そう思って再び振り向いた瞬間、物言いたげな君と目があった。

「────メッキーさん……、ですか」

 何か別のことを言おうとしたようだったけれど、ふと僕の手元に目を留めたフローラが翡翠の瞳を大きく揺らした。

「うん。海に還そうかと思ったんだけど、……踏ん切りが、つかなくて」

 掌の、決して大きくない核に視線を落とす。少しいびつな、彼の嘴に似た琥珀色のその結晶核は、船が灯すわずかな明かりだけをほんのりと照らして光っている。

「こんな姿になってまで、僕に縛られること、ないよね……」

 思いがけず弱々しい声が出てしまって。身投げでもしそうに思われたのだろうか、繋ぎ止めるように後ろから片腕をきゅっと掴んできたフローラについ苦笑してしまう。

「大丈夫だよ。ごめん、我ながら酷い人間だなって思っただけ」

 こんなこと聞かされても気が滅入るだけだろうに。何とか笑って誤魔化そうとしたけれど、一度開いてしまった口は情けない戯言ばかり垂れ流すのを止められない。

「まだ、仲間でもなかったのにさ。僕なんか放っとくこともできたのに、手を貸したばっかりに。……メッキーがあんまりお人好しだったから、僕の酷さが余計、際立って見えるなって」

「仲間、でしたよ」

 迷いのない、凛とした声が僕の気弱な言葉を遮って響く。

 虚をつかれた僕をやはり真っ直ぐに見上げて、フローラはその強い瞳のまま重ねて言いきった。

「テュールさんが認めていらしたのですから。もう、仲間だったと思っています、私も」

 あまりの眩しさに何も言えなくなってしまって。夜の闇に融けた蒼い髪を見下ろした僕を、彼女は少しだけ哀しげに、困ったように見つめて微笑んだ。

「私の方がきっと、酷い人間です。だって、──私は、」

 ほんのわずか、吐息だけで逡巡してから。彼女は噛みしめるように、微かに声を震わせて、その続きを口にする。

「あなたが、生きていてくださることが、……嬉しい。残酷なほど、……どうしようもないほど、うれしい……」

 音にならないほど控えめに告げられたそれが、どうしてだろう。渇ききった僕の内側に、湧き水みたいに清涼に沁みていく。

「今だって。今だけでも、彼を悼んでいたいと思うのに。……もし、もしも、……私が、あなたを失ってしまったら。そう、思ったら…………」

 思いの外、その呟きは僕の胸を衝いた。

 こんな別れを経験するたび、どれほど愚かだとわかっていても、生かされたことを過ちのように感じてしまう。僕がいなければ失われなかったかもしれない命。本当は死ぬべきなのは僕の方で、僕が殺したも同然ではないのか。父を喪った日から幾度となく浮かんでは消してきた思考。僕を庇って、僕のために命を落とした存在なら、尚更。──だから。

 君が、僕の生を望んでくれることは、ひどく意味があることのような気が、した。

 きっと僕にはこれからも、本当の意味では望めない。それが僕のために命を散らした人々への裏切りでしかなくても。父にも、きっとあの神殿から逃がしてくれた衛兵にも、メッキーにも。生かしてもらったことを僕自身が手放しに感謝できる日なんてきっと一生来ない、だから、せめて。

 この醜い感情が、これ以上鬱屈したものにならないよう。

 僕を想ってくれた人達をいつか、恨みに思うような自分になってしまわないように。

 フローラを手招きし、夜風に冷えた細い肩を抱き寄せた。濡れた目許を手の甲で拭い、無言で僕を見上げた彼女にそっと微笑みを返して。今度こそ、核を握りしめた右手をデッキの外側へと差し出す。

 開いた手から結晶が零れ落ちて、とぷん、と軽い水音を立てた。夜の空気すら溶けたように真っ黒な海だから、あっさり核を呑み込んだそこにはもう何も見えない。

 こんな時にも薄情な僕の眸は乾いたまま、一滴の泪も零れやしない。

「……私も、忘れません」

 漆黒の海と、星すら見えない深い闇。たださざめく潮の音だけが返るこの場所で、葬いの如く、フローラの鈴の声だけがりんと響いて冷たい波間に沈んでいく。

「無力を思い知ることの苦しみも、喪うことのつらさも。……あなたがきっと忘れないように、私もずっと覚えています。今日のこと、あなたを守ってくれた存在があったこと。こうして一緒に見送ったこと……、絶対に、絶対、忘れませんから────」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ────今から凡そ、

 二十年近くの昔。

 

 

 彼女はここよりずっと南の深海の底にいた。海流の温度も心地良く、その身に宿した数多の命を生み落す瞬間を待ちわびて、気分はひどく高揚していた。どんな形であれ生あるものとして、彼女はやはり次の命を遺せることに言い表せない歓びを覚えていたのだった。

 その日、偉大なる役目をひとつ終えたばかりの彼女を祝福するように、どこからか美味なる宝酒が降り注いだ。

 初めての甘美な味わいに、彼女は次第に酔いしれ我を忘れた。

 深海を彩った酒は星屑の如くきらきらと輝いて、同時に不思議なほど耐え難い空腹を感じた。

 産卵を耐えた軀は滋養を欲していた。すぐ足元に広がったつややかなそれらはいかにも芳醇で食欲をそそり、彼女はたまらず新鮮なそれに足──触手を、伸ばした。

 渦巻く水泡と自らの咀嚼の音に紛れて、どこか遠い、遠い天上から、赤ん坊の啼く声がぼんやりと響いていた。

 

 

 もう誰も知る由も無い、

 過ぎ去りし日の深海の記憶。

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