Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#11. 誓いと祈り

 セルマー海峡を離れて二度目の日暮れ時。昏睡状態だったピエールが目を覚ました、とフローラが呼びに来た。

 恐らく命に別状はないと聞かされていても、どうしたって不安だった。目の前で一つの、同じく魔物の最期を看取ったあとだったから、余計に。急ぎフローラに伴われ、仲魔達が過ごしている甲板下の小部屋に向かった。

 鎧の下がどうなっているのかはわからないが、どうやら火傷に近い症状だったらしいと、階段を降りながらフローラが教えてくれた。

「メッキーさんが伝えてくださった通り、雷が来た瞬間ご自身にベホイミを二回、かけていらしたのだそうです。それがなければ危なかっただろうって、ホイミンちゃんもバルクさんも仰っていましたわ」

 フローラが言い添えてくれた内容に心臓がぎゅっと痛むのを堪え、うん、と頷いた。彼女も気丈にしてはいるが、その横顔には抑えきれない辛さを滲ませている。

 回復魔法の専門家であるホイミンが乗船しているから、とポートセルミにも多くはない船医の同乗は断ってあったが、先の戦闘を受けて寧ろ周囲に強く勧められ、薬師の心得がある船員にフローリア号から移乗してもらうことになった。フローラがバルクさんと呼んだのがその人だ。アランさん達とさほど変わらぬ年齢のバルクさんは医師ではないものの薬の扱いに大変明るく、聞けば昔サンタローズに住んでいた方だという。村の奥に居を構えていた薬師の親方に師事していたそうだ。思わぬ共通項を知った今朝、懐かしい故郷の昔話に花が咲いた。そういえば子供の頃サンタローズ奥の洞窟を探検していて、岩の下敷きになった男の人を助ける手伝いをしたことがあったっけ。これで薬を届けられる、と喜んでくれたことを思い出してそのことを話してみたら、「そうそう、風邪薬の材料を採りに行っててな。なかなか戻ってこないから心配したんだ。若さんが親方を助けてくれたちびっこだったとは、いや世間は狭いな」と驚かれていた。無理もない、僕もまさかと思ったし。

 当然ながらバルクさんの処方は人間が専門であり、魔物の治療には明るくない。だが寧ろ、興味深いからと言ってピエールの経過を共に見守ってくれていた。目が覚めた時のために気付け薬やら滋養づけの薬湯やら調合して下さったり、昨日に至っては雨で身体を冷やしたフローラをはじめ船員達に手際よく薬湯を配って下さったりと、その心遣いに昨日から多大に助けられている。

 懐かしい小部屋に降り立つと、見守り疲れた仲魔達が背中を丸くして小部屋の最奥を取り囲んでいるのが見えた。階段を降りる足音が聞こえたんだろう、各々ほっとした表情でこちらを向いている。昨日より随分和らいだ空気に安堵しつつ、奥に備え付けられたベッドへと歩み寄った。

「……ピエール」

 密やかに、呼びかけると微かに笑った気配がする。

「ここまで大ごとにするつもりはなかった。これは、不覚」

 掠れて、いつもより力なく聞こえた言葉ではあったが、不安を感じさせない彼らしい返事に自分でも驚くほど安堵してしまった。

「何だっていいよ。もう……生きてくれて、良かった……」

 寝台の傍らに膝をつき、天井を見上げるばかりの鎧姿の相棒を見つめる。まだ安静にするよう言われているんだろう、彼は顎ひとつ動かすことはせず、目を閉じたのか、ゆるりと息を吐きつつやわらかく囁いた。

「御命令を違えるわけにはゆかぬ」

 やはり彼らしい、どこか皮肉じみた答えだったが。その響きにいつも以上にあたたかなものを感じて、横たわる彼を覗き込みながら深く、頷いてみせた。

 疑ってなんかいない。けれど、信じきることは怖かった。

 それでも君だったから、全てを預けて送り出すことができた。

「剣、拾えなかった。大事にしていただろうに、ごめん」

「構わんよ」

 またひっそりと笑いを噛み殺す気配がする。萎縮しているつもりはなかったけれど、あんなにも苛烈な叱責をされた後だからかもしれない。気づけば握り込んだ拳の内側が酷く汗ばんでいた。しかし万全ではないものの、いつも通りの受け答えをしてくれる彼を前にして、次第に自身の緊張が解れていくのがわかった。

「もうすぐサラボナとルラフェンの間の岸に着くから、どこかで新しい剣を探そう。そのうち良い鍛治師を見つけられたら、一から鍛えてもらうのもいいかも」

 僕の提案にピエールはやっと小さく頷いて、「業物が良い。何処ぞの秘境に封じられし魔剣など、いつかは手にしてみたいものだ」などと嘯く。「呪われるようなのは御免だよ」と笑って返し、ホイミンに引き続きよく見てくれるように頼んで、再び休ませるべく立ち上がった。

 僕の後に続いたフローラが流れるように会釈をして、それを恐らく視界の端に収めたピエールがにわかに声を上げた。

「────髪を、お切りになったのか⁉︎」

 勢い余って身体を起こしかけ呻いたピエールを、彼の傍らに座り込んでいたホイミンと、当のフローラが跪き慌てて押し留める。

「切ってはおりません。結い上げているだけですわ」

 どこまでも優しい声音で微笑むフローラに、今度はピエールが脱力し、再びシーツに身体を沈めて息を吐いた。

 昨夜、メッキーの核をフローラと共に弔った後。特別船室に戻った僕は、昼間メッキーから聞いた話をようやく彼女に伝えた。

 詳細な意図はやはりわからないことを前置きして、彼ら──恐らくは光の教団が、やはり生きた人間を集めているらしいということ。

 奴隷を集めているんだと思っていたけど、どうやら何らかの身体的特徴のある人間を狙って『蒐集』している可能性があること。

 フローラも、その碧髪を理由に狙われたらしいこと。

 そういえばメッキーが大鮹に吹っ飛ばされる直前、彼女の出自について何やら憶測からの問いを投げてきていた気がしたけれど、それについては触れずにおいた。

 一通り聞き終えたフローラは難しい顔をして黙り込んだ。両手をきちんと重ねて膝の上に乗せ、きれいな姿勢で思索に耽っていた彼女に、ふと不安になり声をかけた。

「髪、……切らないよね?」

 恐る恐る訊ねたら、少し驚いたように長い睫毛を揺らした彼女が顔を上げた。肩から胸元へと流れる美しい碧い髪がさらりと衣摺れの如く音を立てる。

「それも考えましたが──切らない方が、よろしいですか?」

「だって、そんなに綺麗な髪……」

 言いかけて、言い澱む。こういうのって、言われる方は嫌だったりしないだろうか。

 そりゃ、僕は君の髪だけに惚れて求婚したわけじゃないし、フローラだってそんなのわかってくれてる。けど、だからこそ僕が今ここで切るなとか、逆に切ってもいいなんて言うのは違う気がする。今君はきっと僕らと自身の安全のために最善の方策を考えてくれていて、髪を切る、という方法もその選択肢に含まれていて、しかもさほど抵抗なく実行できてしまうらしい。魔物から髪を隠したいなら最も簡単で安全に近い手段だ。君に判断を委ねるのが一番いい。それはわかる、わかっている……けれど。

 その、輝くような碧い髪は、僕にあの曇りない青空を見せてくれた、出逢った日の象徴のような気がしていたから。

「……僕は、切らないで欲しい、けど」

 躊躇いがちにそう続けたら、フローラはまた少しだけ、微かな狼狽を視線に乗せて泳がせて、それから──ほんのりと、細めた瞳に喜びを湛えて微笑んだ。

「わかりました。……ありがとう、ございます」

 明けて今朝方、やはり僕より早く起きて全ての身支度を整えた彼女は、長い碧髪をきっちり綺麗に編み込んで、後ろで一つにまとめていた。服装は見慣れた白いロングドレスのようだが、今日はその上から暗い色味のカーディガンを羽織っている。何も言わないけれど、彼女なりの喪の服し方なのかもしれなかった。しかし色合いは違えど、夢のようだった婚礼の時にも似た品位に満ちた装いに、知らず僕の胸は高鳴ってしまう。

 耳許には先日贈ったばかりの、蒼玉に金のフリンジがついた耳飾りが揺れている。間違いなく清楚であるのに、普段は見せない彼女の白いうなじに耳飾りの濃い蒼と金色がやけに映えて見えて、その艶かしさに思わず顔ごと視線を逸らした。

 そんな僕に不安を感じたのか、「もしかして、どこか崩れてしまっているでしょうか?」などと懸命に頭の後ろを手で探る妻を慌てて止めて、綺麗にできているよ、と伝えた。彼女は遠慮がちに微笑んで、良い帽子を持ってきていなかったので村に着いたら何か買っても良いでしょうか、と訊ねてくれた。これで帽子を被れば、ぱっと見で碧髪はわからなくなるだろうから、と。

 彼女の思慮深さに心から感謝しつつ、そんなわけで今朝からフローラは髪を編み上げるという試みをしてくれている。ピエールの看護を手伝いつつ、空いた時間でマーリンの魔法講義も再開したそうだ。つくづく勤勉で働き者の妻に頭が上がらない。

 ピエールはもしかしたら昨日の戦闘中、僕とメッキーの会話を聞いていたのかもしれない。ピエールに限らず仲魔達はみな感覚に優れている。気配に聡いだけあって、多分耳も人間よりずっと良いのだから。

 それこそ不覚というように今度こそ顔を背けたピエールに軽く手を挙げ、退出の意を示した。フローラも僕に従い、階段へ続く出入り口へと向かう。一段目を踏もうかというところでピエールの、どこか厳かな声が僕を引き留めた。

「……メッキーは」

 それは既に、彼の無事を問う為の言葉ではなく。

 恐らく目覚めて僕を待つ間に事の顛末を聞いたのだろう。小さく頷き、黙って振り返った。やはり目は合わなかったが、ピエールの苦悶は否応なしに空気を塗り替えて伝わった気がした。

「昨晩、見送った。……フローラと」

 静かに告げれば、そうか、とまた吐息混じりに低く掠れた声が聞こえる。僕のすぐ後ろに立ったフローラが堪えきれず苦しげな息を吐いた。それきり沈黙が満ちた部屋を、もう振り返らずに早足で階段を上がり甲板へ出た。

 昨日と同じ湿ったぬるい潮風が頬を叩く。こうしていると、今にもあの斜に構えた物言いが聞こえてきそうだ。

 首を一つ振ったところで、フローラがそっと隣に寄り添って立った。優しい掌で、僕の肘に触れて。

 たったそれだけのことにどれほど救われているだろう。感傷も虚無感も、視線を交わしただけで君が半分背負ってくれる。

「私、厨房でお粥か何かを作らせていただいてきますね。せめて食べやすいものをご用意して差し上げたくて」

 それはさぞかし喜ぶことだろう。頷いた僕にやわらかな微笑みを一つ返し、彼女はすぐ踵を返し小走りに去って行った。その華奢な背中を見送って、すっかり藍色に染まった東の空を眺めた。

 この場所からでもよく見える、天を貫いて聳え立つ神の山の頂を黒雲が取り巻いている。正直僕には禍々しく見えるばかりだけど、あの場所を今も神の地だと信じている人々には畏敬か、神の怒りか何かのように映るのだろうか。

 竜神は、この世界が崇め祀ったかつての神は我々人間などとうに見限ったのではないか。勇者が現れないのもそういうことではないのか。

 正直、僕はとうの昔に信仰心なんて手放している。竜神の帆旗を掲げて修道院育ちであるフローラを妻としているけれど、天空信仰にこれっぽっちも期待なんかない。神の加護などなくて今更だ。母は戻らず、父はずっと昔に逝った。あの地獄から逃れられたのだって、感謝すべきはヘンリーの勇気とマリアさんの縁、ヨシュアさんの尽力であって神じゃない。

 こんな自分だから勇者も見つからないのかもしれない。我ながら失笑を禁じ得ないが、それでも縋る神など持ち合わせちゃいない。神を憎まずにいられるだけ褒めてほしいくらいだ。

 ────いや、

 投げやりな思考の中、鮮やかに僕を照らす一柱の神を視る。

 彼女だけが、僕の神だ。自由を得て尚、暗いものに囚われていた僕の世界をやさしい光で満たしてくれた。

 救いは得られた。彼女がそばにいてくれるだけで、いい。僕の神は、僕がこの手で守る。

 父が遺した希いを諦めようとはまだ、思わない。魔界に入るには伝説の勇者の力が必要だと父が手紙に書き遺した。それを疑うつもりはない、それでも、万が一勇者が見つからなかったとしても、僕は母を救い出すことを諦めたくはない。

 父の遺言である以上に、たった一人の肉親だからこそ。

 母に、魔界に通じる不思議な力があったというのなら、実の息子である僕にもそういう力が眠っている可能性はないだろうか。

 母に通じる力がもしも僕にあるならば、魔界に囚われている母の元へ行くことも不可能ではないのでは、ないだろうか。

 そこまで考えてふと、剣だこだらけでごわついた己の掌を見つめる。

 ────この、魔物が力を貸してくれる不思議な能力は、もしかしてその力の一端なのか?

 だって、父には多分そんな力はなかった。僕が知らないだけかもしれないけど、プックルを連れ帰った時も確か酷く驚いて、初めはあまりいい顔をしなかった気がする。でも、……ああ、そうだ。

『まさかお前まで、魔物と心を通わせるとはな』

 大きな掌で僕の頭をぽんと撫でて、父が苦笑混じりに呟いた。

 あの時は意味がわからなかった。かよわせる? と首を傾げた僕に、父さんは優しく笑って『いいや。大事にしてやるといい』って言ってくれたっけ。

 あの言葉はもしかしたら、母さんが今の僕のように『魔物と心を通わせる』ことが出来た、という可能性を示唆してはいないか。普通に考えて、まだ小さかったとはいえ地獄の殺し屋キラーパンサーの赤子だなんて、どんなに息子が懐いていようがあの父が警戒しなかったはずがないのだ。

 母さんの話はほとんど聞いたことがない。幼い僕を寂しがらせない為だったのかな、と今になって思う。サンタローズに残っていたわずかな人々にそれとなく聞いてみたけれど、誰も僕の母のことは知らなかった、というか、そもそも父はサンタローズ村の出身ではなかった。仮にも村長に抜擢されていた父なのに、彼がどこから来て住み着いた者なのか誰も知らなかった。サンチョもまた然りだ。父の隠れ家を秘匿してくれたお爺さんですら素性をご存知なかったのだから、徹底している。探し物が自身の妻であるということもあまり言わなかったみたいだから、これまで旅してきた中でも父の話は聞けどもその妻を知る人には未だ出会ったことがない。

 あの時父さんは、僕の中に母さんの面影を見たのかな。

 とりとめなく思考を巡らせていたら、無性に母に会ってみたくなった。マーサという名前しか知らない、父の妻であり、僕を産んでくれたひと。

 ────どんなひとだったんだろう。サンチョに聞いても、しんみり涙ぐんでは「とってもお綺麗で、お優しい方なんですよ」としか言わなかったから。

 なんというかサンチョ、フローラを見ても同じことを言いそうな気がするな。

 気の良い、優しい丸い顔を思い出して一人密かに笑ったところで、さっき厨房へ去ったばかりのフローラが深めの器と大きなバスケットを持ってこちらへ向かってくるのが見えた。お嬢様そんな、俺がお持ちします! と何人かの船員があわあわとその後ろをついてきていて、フローラはどうやら断っているようだが、船が揺れるとバスケットが振り回され、ふらついてすこぶる危なっかしい。すぐに駆け寄り、バスケットごと彼女を抱き留めた。

「あ……ありがとうございます。すみません、一人で大丈夫だと思ったのですが」

 別に謝る必要はないのに、申し訳なさそうに眉根を寄せる。ピエール一人の量じゃないから、きっと他の仲魔達の分まで運ぼうとしてくれたんだろう。そういえばそろそろ、僕らも夕食の時間だ。

「ううん、気づかなくてごめん。一緒に持っていくよ」

 さりげなくバスケットを奪い、中身をざっと確認する。割れ物や水物はなさそうで安心した。益々恐縮した様子のフローラが「ありがとうございます。あの、実はもう少し運びたいものがあって……」と厨房を振り返りつつ言葉を濁した。本当にそんなに気を遣わなくていいのに、苦笑しつつ器も受け取って一度戻るよう促す。

「そしたら、誰かにお願いして一緒に持ってくるといいよ。皆さん手伝いたそうにしてくれているし。階段が心配だから、これは僕が運ぶね」

 男手に任せなよ、と言いたい気持ちもあったが、一人で運ぼうとしたフローラの意思を尊重したかったのだ。それにしたってこのバスケットは彼女の細腕には大きすぎるし、粥が入った器は蓋されているとはいえ、階段を下りる際零して火傷でもされたらたまらない。この粥以外のものはコックが用意してくれたものなのだろうけど、確かにこれではいつもよりだいぶ少ない。あと二つくらいはバスケットがあるんだろう。何度か手弁当を作ってくれた彼女だから、仲魔達が一食にどれくらい食べるのか、彼女はよくわかっている。

 せめてこれよりフローラにも運びやすい大きさの荷があることを祈って、またはらはらと僕らの様子を見守っていた船員数名にも声をかけて厨房に戻ってもらった。フローラから預かった食事を先ほどの小部屋に運び込むと、もうみんな匂いで気づいていたらしく怪我人を差し置いて大喜びだった。慌てて、お粥はピエールのだからね? と牽制する。フローラの手製であることも言い添えたら、ピエールは肘をつき上半身を起こしながらも実に満足そうに頷いていた。

 程なく他のバスケットも到着し、小部屋は一時賑やかな食堂と化した。運んでくれた青年達もスラりん達の食いっぷりを見て笑っている。マーリンはあまりこういう雰囲気は好まないのでは、と不安になりちらりと表情を窺ったが、特に疎ましがる素振りもなく淡々と食事を取り分け口に運んでいる。いつの間にやら昼寝友達として親睦を深めているらしいプックルとガンドフは、プックルの目配せだけで的確にバスケットの中身を取り分けてやる気の利くガンドフ、という妙な世話焼きの構図を完成させていて笑ってしまった。

 つまみ食いしつつピエールに寄り添うホイミンの隣で、フローラはやはり聖母の如く、ピエールの食事をかいがいしく補佐していた。まだ匙を持てないので致し方ないが、正直ちょっとだけ羨ましい。しかもそんな僕のつまらない嫉妬心に彼は絶対気づいている。何も言わないし鉄兜面であるにもかかわらず、にやにやと僕を盗み見しているのが気配だけで見て取れる。恨めしく思う反面、あまりにもいつも通りの彼であることに本当に──泣きたいくらい、腹の底から安堵した。

 できればもう、あんな思いは味わいたくないな。

 苦い自嘲と共に湧き上がったそれを飲み下す。その望みを果たせるのは自分自身しかいないのだと言うことはもう、痛いほどよくわかった。

 僕を主としてくれることの意味を忘れるな。支えてくれる、共に戦ってくれる彼らに恥じない主人でいよう。フローラが僕の妻として凛として立っていてくれることとそれはきっと、良く似ている。

 彼らの力を借りて、今度こそ、僕が彼らを守ろう。

 闇雲に命を懸けさせるような戦い方はもう二度としたくない。

 入口際の壁に寄りかかり久々に賑やかしい室内を眺めていたら、いつの間にかバルクさんが階段の途中から小部屋の様子を窺っていた。振り仰ぐと照れ臭そうに、「鎧のあんちゃん、起きたって聞いたからさ。薬湯持ってきたんだ」と頰を掻く。有り難く頭を下げて、小部屋へと招き入れた。「おいおいおい、いい身分だなぁ。うちのかみさん、そんなんしてくれたことないぜ?」などと軽口を叩きつつ近づいていく彼の背中を見守りながら、つい笑いが零れてしまう。どこの夫婦も似たようなものだな、と言うか、たまには風邪をひいたりして甘えてみるのもいいかも、なんて寝惚けたことを思ってみたりして。いかんせん頑丈だから、フローラに世話してもらうような日は中々来なさそうだけど。

 朗らかな空気に包まれ、ふと、魔界に居る未だ見ぬ母を想う。

 僕が今こんなにも温かな友人達に恵まれているように、母の傍にも優しい友が居れば良い。

 人ならざる者達と心を通わせられる、この喜びを与えてくれたかもしれない貴女が、少しでも寂しくないと良い。

 魔物は決して恐ろしいばかりの存在ではない。魔界は恐ろしいところかもしれないけれど、そこに住まうのもまた魔物であるならば、貴女はきっと彼らと心を通わせられるんだろう。

 だって貴女は、他ならぬ父が愛した、

 僕の、母さんなのだから。

 

 

 

 幸い、セルマー海峡を離れてから後は風と天候に恵まれ、ストレンジャー号はその翌日の昼過ぎ、順調にサラボナ北東の岸へと到着した。

 近くには家が十軒もない小さな集落があるだけだそうだが、馬車を駆れば一日内に祠のある宿屋へと着く。あそこは旅の要所として馬車用の修繕物資を常備しているとのことだったので、久々にパトリシアを走らせ木材や塗料といった物資の買付けに出ることになった。

 船の修繕に詳しい船員に二人ほど馬車に乗ってもらい、翌日には戻る旨を船長をはじめ皆さんに伝える。

 今回、フローラには残ってもらうことにした。帽子を探してやりたかったけど、やはり街でないとこういったものは売っていないと思う。正直数時間だって離れ難いけど、修繕の為の買付けに非力な女性を同行させる必要性はどう好意的に見ても、ない。僕の我が儘だけで連れ出すのは気が引けた。ピエールは回復にもう少し時間を要するだろうし、フローラを必要とする仕事は船上の方が何かとあるだろう。

「一応、キメラには特に気をつけてね。できればあまり甲板には出ないで、異変を感じたらすぐに船長でも、仲魔達にでも伝えて。できるだけ早く帰ってくるから、無茶はしちゃ駄目だよ」

 出掛けに彼女の肩を捕らえ、こんこんと注意を説いたらフローラはほんの一瞬寂しげな瞳を見せて、しかしすぐに「わかりました。良く気をつけますから、安心して行ってきてくださいね」と微笑んでくれた。

 フローラを守るためにもあまり船の戦力は割きたくなかったものの、こちらを削りすぎて同行してくれる船員二人に何かあっては申し訳が立たない。悩んだ結果、プックルにだけ一緒に来てもらうことにした。マーリンにガンドフ、スラりんも傍に居ればそう易々とフローラに手出しはできないだろう。皆に采配を伝えると、特にマーリンは目をぎょろつかせて「お任せを。奥方様を狙う不埒な輩は我が炎で一瞬で消炭にしてご覧に入れます」と大変穏やかではない死刑宣告をくださった。うん、ものすごく頼もしいけど、船を焼かない程度にお願いします。更なる修繕が必要になっては目も当てられません。いつもはのほほんとしたガンドフもスラりんも、留守を預かる責任感からなのか俄然やる気を見せてくれた。本当に頼もしい。

 馬車にキラーパンサーが同乗することになり、二人の船乗りはさすがに当初青ざめていたが、幌を覗き込んだフローラが「プックルちゃん、皆さんをよろしくお願いしますね」とその首元を抱き寄せ撫でているのを見て更に茫然としていた。そんなフローラに甘える素振りこそ見せないものの、プックルも軽く喉を鳴らして大人しく了承を示す。全く恐れる様子のない少女と怯える男達の対比の図に、ついこの間もこんな光景を見たっけな、と思わず笑ってしまう。

「それでは、行って参ります。フローラと仲間達を、どうぞよろしくお願いします」 

 見送るため甲板にずらりと並んでくれた、船長と航海士の面々に深々と頭を下げる。

 心配そうに見送るフローラと仲魔達を振り返り、ちらりと微笑みを返して。キラーパンサー一匹と船乗り二人、そして僕を乗せた馬車は緩やかに加速しながら森へ向かって走り出した。

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