Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#12. 双つの月

【side Flora】

 

 テュールさんがお傍にいないと、時間はいつもよりずっとずっと長く感じるものなのだと思い知らされる。

 慣れ過ぎてしまったのかもしれない。結婚して、一緒に過ごすようになってからまだひと月くらいしか経ってはいないのに、一緒にいることが当たり前のように感じてしまって。なんて贅沢な思考、自分の愚かしさに溜息が出る。妻にと望んでいただけただけで十分だったはずなのに、私はどんどん欲張りになってしまっている。

 いいえ、以前もっと長く彼を待ち続けたことがあった。死の火山から戻られて間もなく、水のリングを求めて旅立たれてしまった時。凡そ二週間、祈るしかできない、不安ばかりの日々を過ごした。あの時は大火傷をしたアンディをずっと看病していて、あなたまで私が知らないどこかで大怪我をされてしまったら、と思うと胸が張り裂けそうだった。思えばあの時も、彼のいない毎日がこのまま一生続いてしまうのでは、と絶望するほどに一日一日を長く感じていた。

 今、また二週間も待てと言われたら、私はきっと枯れてしまうわ。

 ふた月も前の私はあの人を知らない私だった。たった一目、あの人を知って私はこんなにも変えられてしまった。

 何も知らなかった、何も望まずにいられた平穏な頃の私にはきっともう、戻れない。

 ────しっかりしなくては。明日には帰ると、彼はちゃんと約束してくれたのだから。

 さっきからほんのちょっとした瞬間につい彼を探してしまって、自己嫌悪に陥ってばかりいる。体力が戻りはじめたピエールさんをお手伝いした直後。マーリン様の講義が終わって一息ついた瞬間。コックに頼み込み、厨房の片隅を借りて作らせてもらったリゾットが美味しくできた喜びや、本当にふと、暮れゆく空の深い藍色に淡い星の煌めきを見つけた時。

 あの人と一緒に見たいもの、お話ししたいことばかり。

 船から眺める星空は遮るものがなくとてもきれいで、乳白色の星々がきらきらと連なって零れる夏の夜空はどれだけ眺めても飽きることがない。ポートセルミを離れてから日没を迎えるたび、もう何度も見上げている。テュールさんはそんな私にいつだって優しく寄り添ってくださって。星を見つけて、はしゃいだ私が振り仰ぐと必ず、甘い微笑みをくれる。

 昼と夜が混ざり合う空を窓のこちら側から見上げながら、耳朶の飾りにそっと触れた。あの空と星のような色合いの、そしてあの人の瞳にも似た宝玉が揺れるこの耳飾りは、彼が私にと選んでくださったもの。その存在を確かめるだけで、離れていても抱きしめられているような、あなたに守られているようなあたたかな気持ちになる。

 やることがひと段落してしまうと、ぽかりと胸に穴が空いて、急に寂しさに襲われる。

 さすがに修繕作業はお邪魔できないけれど、厨房のお手伝いだったらいいかしら。お昼の時は断られてしまったけれど……

 ほんの少し、気鬱を感じてため息をつく。

 やっぱり皆さん、私には特に気を遣ってらっしゃいますよね。

 父の所有する船舶だから覚悟はしていたつもりだし、乗組員の皆さんのお気持ちは痛いほどわかる。彼らの主の娘である『私』に何かあることは絶対に許されないのだ。わかるからこそ船出からこちら、余計な行動はできるだけ慎んでいる。ただでさえこの髪の所為で魔物を呼び寄せてしまうということなのだし。

 せめて父に一言、娘を特別扱いしないでやってくれ、と言ってもらえれば少しは変わったかもしれない。本宅では父公認で厨房に入らせてもらえたのだから。

 ……でもそれって結局、父の許しがなければ何も出来ないのと同じことだわ。

 甘い考えに縋ろうとした自分が恥ずかしい。テュールさんはちゃんと、ご自身の言葉で意思を伝えていらしたのに。

 私の夫だから、ルドマン家の一人娘と婚姻を結んだ方だから。特別扱いというならきっと彼も同じだったけれど、彼はあくまでこの船の人々と対等で在ることを望み、自らの振舞いでその立場を掴み取った。

 考えれば考えるほど情けなくなってしまって、ぱちん! と頰を両手で叩いた。もう、こんな贅沢な悩みで一人落ち込むなんて。こういう時はろくな思考にならない。

 もうすぐ日が暮れる。お夕食の準備を手伝って、食事のあとはできるだけ早く眠ってしまおう。眠ってしまえば朝になる、そうすれば、少し待つだけで会えるもの。大丈夫、そう自分に言い聞かせて、特別船室の窓から外の様子を窺った。甲板に出る時は注意するようテュールさんが言ってくださったから、万が一などないように気を配っていたかったのだ。

 そうでなくともキメラの件があったから、つい空にばかり気を取られてしまう。これまでに何度も身を貫かれた嫌な視線は感じないことを確認してから、ドアノブに手をかけた。

「────きゃっ⁉︎」

 急いで出ようと扉を開けた瞬間、予期せぬ何かにぶつかった。勢い余って前のめりにくずおれてしまい、同時に「ぉわっっ」と下から舌ったらずな声がもつれて聞こえる。お仲魔のどなたかを潰してしまったかも、咄嗟にそう思った私は慌てて声の主を探して足元を見渡した。

「ご、ごめんなさい! ────、……え?」

 謝罪の言葉もそこそこに、瞳を瞬かせる。目の前にいたのは全く知らない──見覚えのない子供、だったのだ。

 いかにも漁村の子という風情の、擦り切れた半袖のシャツに海の色の膝ほどのズボンで尻餅をついたその小さな少年は、くたびれた茶色の帽子の下、少しくすんだ緑の髪を揺らし驚愕を貼りつかせた表情でこちらを見上げていた。大きく見開かれた丸い瞳から彼の動揺がありありと見て取れた。そこに慌ただしく「お嬢様⁉︎ 何かありましたか?」と近づいてくる人の気配がする。ぴゃっ、と小動物の如く反応した少年は素早く身を翻すと船員さんの姿が見えるより早く特別船室の中に逃げ込んだ。あ、と思う間もないほど、その身のこなしは早かった。

「あ、……ええと……すみません。ちょっと、入り口の縁に躓いてしまったみたいです。お騒がせいたしました」

 すぐに覗き込んでくださったのは、オラクルベリーの宿屋でお世話になったアランさんだった。彼に向けた顔に咄嗟に愛想笑いを貼り付ける。すぐに報告すべきだったのでは、とその瞬間反省したものの、またすぐに少年の驚いた顔を思い出す。まだ幼い、本当に小さい子供だったもの。どうしてこの船に入り込んだのか、まずは女の私が話を聞いたほうが良いかもしれない。

 尚も心配してくださるアランさんに微笑みで了承を促し、扉を閉める。耳をそばだて、大人の足音が遠ざかったのを確かめてからそっと、小さく小さく声を発した。

「出ていらっしゃい。ここには私しかおりませんから」

 怖がらせないよう優しく言ったつもりだったけれど、息を殺して縮こまっているのか、静まりかえった船室に答えは返らない。さっき見たのは幻だったのかしら? と首を傾げつつ、奥の部屋のテーブル下、暖炉や本棚の陰を探してみる。隠れられる場所なんてそんなにない気がするのだけど……

 ぐるりと室内を見渡したところで、ぎし、と頭上から小さな物音がした。足音を控えてそろそろと二階に上がる。そうっと寝室を覗いてみると、奥のベッドの向こうに緑の頭がぴょこっとはみ出して見えた。

「こちらに上がっていたのね。ちっとも気づかなかった」

 話しかけると身を竦めたのか、びくっと短い髪が跳ね上がる。

「大丈夫よ、怖いことはしないわ。怪我はなかった? いきなりぶつかってしまって、ごめんなさいね」

 それ以上距離をつめることはせず、あえて部屋の入口に立って見守った。少年は緊張しているのか、私の呼びかけには答えずひたすら黙って身を縮こませている。怒られると思っているのかもしれない。でも、理由如何では諭してやるのも大事なこと。褒められたことではない自覚があるなら尚更、絶対に怒らない、などと確約するのは良いことではない。そう思って、それ以上は何も言わず静かに反応を待った。

 そのまま数分、どれくらい経っただろうか。

 そろり、と緑の髪が動く。もう一度微笑みを整え直して、視線を受け止める準備をした。ベッドの向こう、ゆっくりと頭が半回転したかと思うと、二つの可愛い茶色の瞳がゆるゆると持ち上がってきてこちらを覗いた。目が合うと慌てて隠れてしまったが、すぐにこちらを窺ってまた、覗く。

「…………た、……たべちゃ、やだ……っ」

 首を軽く傾げ、柔らかく微笑んで見せると、少年は半分べそをかいたように目元を思い切り歪ませ後ずさる。

「まぁ。あなたのような勇ましい男の子、誰も食べたりしません」

 失礼かと思いつつ込み上げてしまう笑いを懸命に堪えて、膝に手をつき、身を屈めて目の高さを低めた。可愛らしい少年は益々びくりと身体を震わせ、しかしぐっと唇を噛んで首を振った。こんなにも小さいのに、その身の内に秘めた心の強さを垣間見て胸が熱くなる。

「お、おまえ、かみのてしたか? ここ、かみのふね、だろ⁉︎」

 警戒心もあらわに問いかける少年は真剣そのものだが、神の手下、などという思いがけない単語を並べられ今度こそ小さく笑ってしまう。ああ、教会からお借りした帆を見て勘違いしているのね。『人のものに手をつけるとマスタードラゴンがその手を喰らいに来る』というのは昔からよく聞く子供の躾の常套句の一つ。んん、とすぐに咳払いで誤魔化し、彼がよく見える方に一歩、足を踏み出しながら優しく問いを返した。

「神様の御船ではありませんよ。私はフローラ、普通の人間ですし、これはポートセルミから来た人間の船です。──お名前を、お聞きしてもいいかしら?」

 頭を半分出してこちらを向いたまま、きょとん、と瞳を瞬かせた彼は私の質問には答えず、ぽつりと小さく「にんげん」と呟いた。この子の目には一体どう見えていたものか、何となくわからなくもないだけに可笑しくなってしまう。けれど一瞬、彼の瞳に言いようのない寂しさが過ったような気がして、思わず笑いを呑み込んで少年を見つめた。

 まだ五、六歳くらいかしら。よく日焼けした鼻の頭にそばかすが浮かんでいる。愛嬌のある焦げ茶の瞳を見開き、緑髪の少年はぐるりと船室を見回して言う。

「でもおれ、こんなでっけえふね、みたことねえや」

「客船といって、たくさんの人を乗せて運ぶための船なのです。ご家族様は漁師をなさっているのでしょうか?」

 数年前からこの辺りの客船は運航を止めていたはずだから、無理もない。海沿いの集落だから、と思いついて問いかけたが、またまた疑問符を頭の周りに散らばした少年に「ええと。お魚を獲る、お仕事をなさっているのかしら?」と言い換えてみる。少年は素直に頷き、ついにベッドに手をかけて立ち上がると腕をいっぱいに伸ばして大きく回して見せた。

「おれのおっとう、さかないーっぱいとるし、いももとるんだ。うまいものいろいろとれるぞ!」

「それは、とても素晴らしいことですわ。漁師さんの船はこの船とはまた違って、美味しいお魚をたくさん捕まえるために造られていますから。たくさん獲っていらっしゃるということはそれだけ良い船だということですし、腕もよろしいのね。畑仕事もなさるなんて、お父様はいつもとても頑張ってくださっているのですね」

 初めて声を弾ませた少年の得意げな笑顔に、こちらまで表情が綻んでしまう。ようやくその全貌を見せてくれた少年はまじまじと私を見つめ、またぼんやりと呟いた。

「でも、ねえちゃん、ほんとにめがみさまみてえだ」

「まあ、恐れ入ります。本当に普通の人間なのですけど」

 珍しい碧髪だからだろう、昔からそんな賛辞をいただくことが多い。冗談めかして微笑むと、彼もにかっと所々生え替わりで抜けたらしい白い歯を見せて笑った。警戒を解いてくれたことを嬉しく思いながら、改めて手招きをした。

「それで、この船に何か御用でしたか? 今この船は壊れたところを直していて危ないんです。探検はお勧めできないわ」

 手前のベッドに腰を下ろして、身体だけ少年の方を向く。座って尚私より目の高さが低い小さな少年は軽く私を見上げ、瞳を再びぱちぱちさせつつ首を捻った。

「こわれたんか? なんで?」

「ここに着く途中に魔物と戦ってきたのです。この後も長く船に乗らなくてはならないので、ここで直してから行くのですよ」

「まもの⁉︎」

 聞かれたことに答えただけなのだけれど、少年は唐突に眼をキラキラ輝かせて前のめりになる。純真な好奇心に気圧されるも、少年はててっと小走りに私の膝元へ駆け寄り、益々興奮した様子で拳を握り込んだ。

「まものしってるぞ! わるいやつだろ? ねえちゃん、わるいやつやっつけたんか⁉︎」

 えっと、これは。

 返答に困ってしまった。確かにこの子にとって魔物は生活、生命をも脅かす『悪』い存在なのでしょう。いいえ、多くの人間にとっては当たり前にそうだし、私だって野に放り出されて一対一で対峙させられればそう感じるかもしれない。けれど、どうしても即答できなかった。お仲魔の皆さんのことだけじゃない。つい一昨日の、私を狙う側だったメッキーさんとのやりとりや、メッキーさんを通して感じたあの強大な魔物のこと。彼らには彼らの信念があり、生き様がある。私達とは立場が違うだけのこと。どんなにその根源に私達にとっての『悪』が根付いていようと、それはただ糾弾され葬られれば良いというものではない。

「ねえちゃん、もしかして、まけてにげてきたんか……?」

 黙り込んでしまった私を、少年は心配そうに見上げる。あらぬ誤解に息を呑み彼を見下ろすと、小さなその子は勝気な眼差しをまっすぐに私に向けて、袖を掴んで熱っぽく叫んだ。

「あんしんしろ! そいつがおっかけてきたら、おれがやっつけてやる‼︎」

 電撃のような驚きに胸を突かれ、彼を正面から見つめた。

 私の腰ほどしかないこの小さな勇者は、魔物の話に恐れを抱くことなく、わずかの迷いもなく勝利を、そして私を守ると断じてみせたのだ。

 なんて無謀で、勇敢で、頼もしい。

「ふふ。ありがとうございます。ちゃんと勝ってきましたから、大丈夫なんですよ」

「えっ! かったのか⁉︎」

 うっかり涙が滲みそうになる熱い目頭をさりげなくこすって誤魔化し、笑ってみせる。却ってがっかりされてしまうかと思いきや、少年は精気に満ちた瞳を星のごとく輝かせ、更に活き活きと声を弾ませた。

「どんなやつだった? でかかった? つよかった? どうやってやっつけた⁉︎ なあなあ、おしえて‼︎」

 先ほどまでの怯えようはどこへやら。大興奮で矢継ぎ早にまくしたてる少年を前に「あの、ちょっと、落ち着いてくださいな」と情けない声しか出ない。

 ──本当に、男の子はどんなに小さくても勇ましいものね。

 テュールさんも幼い頃お義父様にお話をねだっていたのかしら、と思ったらつい頬が緩んでしまった。そういえば修道院にいた頃、オラクルベリーの子供達の元へ読み聞かせをしに行ったことがあったけれど、やっぱり男の子達は武勇譚が好きだったのを思い出す。とりわけ、天空の勇者と魔族の王の伝承譚は、書き写していった本がばらばらに解けるまで何度も何度も読み聞かせをせがまれたものだ。

 まさか自分達の冒険を語ることになるとは思わなかったけれど、とつい最近の記憶を辿って視線を泳がせたら、窓の外が既に真っ暗なのが目に入った。いけない、すっかり陽が落ちてしまっていたのね。

「坊や、見て。夜になってしまったわ。ご家族が心配なさっているでしょうから、早くおうちに帰りましょう?」

「ええー!」いかにも不服そうに少年は唇を尖らせる。「でも、ふねなおったらねえちゃん、いっちゃうんだろ? やだよう、いまききたいよー!」

 何とも可愛らしく駄々をこねる少年を前に、ますます困り果ててしまった。私自身小さい頃から同年代の子とすらほとんど触れ合わずに育った身、子供の扱いが得意なわけでは決してない。

「まだすぐには直りませんから。でも、そう、ですね……」

 そこまで答えて暫し、口許に手を当て思案する。空いた時間にこの子とお喋りすること自体はやぶさかではないのだけれど、子供とはいえこの船に乗組員ではない人間を通すことは警備の面でも、また修繕作業の面からもよろしくない。かと言って、魔物の標的になりやすい私がふらふらと船の外に出るわけにはいかない。船の外どころか甲板へ出るのだって気をつけるよう、夫からよくよく言い含められているのだから。

 ……でしたら、明日テュールさんがお戻りになってから相談してみる、というのはどうかしら。

 フォスター船長に相談しても良いけれど、私の護衛の為だけにお忙しい皆さんの手を煩わせたくない。それに、テュールさんの知らないところで行動すること自体気が咎めてしまう。明日の夕方、お帰りになった後ほんの少しなら、テュールさんについて来ていただくことも叶うかも。

 お仲魔の皆さんに同伴をお願いすることも考えたけれど、サラボナならばまだしも、この海沿いの小さな集落で皆さんを表に立たせることは、できれば控えたかった。

 ここからそう遠くないところにあるカボチ村での一件は私も聞いている。ただでさえ世間一般的に、この純真な少年にまで『悪い奴』と称されてしまう存在である彼らに、それでも誰にでも優しすぎる彼らに、嫌な思いは欠片でもさせたくない。

 そう思うと、この子が特別船室に向かってくれて良かったとすら思える。きっと甲板に人が多かった所為なのだろうけど、先に前部甲板の階段を降りてしまっていたらどうなっていたことか。

「絶対のお約束はできませんけれど。明日の夕方、そこの砂浜で待っていていただけませんか? もしお外に出られましたら、少しお喋りを致しましょう」

「えー。やくそくは? できねえの?」

 やはり残念な気持ちを隠さない少年の頭に初めて触れて、そっと撫でる。できるだけ優しく、安心させるように笑ってみせて。

「ええ、もしかしたら出られないかもしれませんから……でも、出来るだけ行けるよう努力します。その代わり、もう黙って船に上がらないでくださいね。知らない人のお家や船に勝手に入ることは良くないこと、でしょう?」

 痛いところを突かれたらしく、少年は「うっ」と短く呻き、ばつが悪そうに俯く。目を泳がせつつ「ねえちゃんとともだちでも、だめ?」としおらしく聞かれたが、ゆるゆると首を振ってみせた。

「駄目です。特に、先ほども申し上げた通り、この船は今乗組員の皆さんが一生懸命修理をしているところですから。先ほどの私のようにあなたに気づかずぶつかって、どちらか一方でもお怪我をしてしまったらとても悲しいわ」

 幼い彼だが私の懸念は理解してくれたらしい。神妙な顔をして頷いた。ほっとして、同じ目の高さで頷きを返す。

「それでは、どなたかにお願いしてお家まで送ってもらいましょうね」

 彼もまたお説教は終わったと気が緩んでいたのだろう。「うぇっ⁉︎」と短く、大変気まずそうな声をあげた。もう一度頷いてみせると、いかにも嫌そうに眉根を寄せ、唇を尖らせてぶつぶつと呟いた。

「えええ、でも、みつかったらおこられるじゃん……」

 すっかり尻込みしてしまった少年のすぐ前にしゃがみ込んで、焦げ茶色の瞳を覗き込む。この子は、眼を逸らしているように見えても正面から見つめればちゃんと真っ直ぐ受け止めてくれる。

「あなたが無事、お家に帰ることの方がずっとずっと大切ですから。こんなに暗くなって、一人で魔物に襲われたらどうします? あなたがどんなに勇敢であろうとも、心配なのです。せめて送り手くらいつけさせてくださいまし」

 それでも少年は躊躇っている。窓の外と私を上目遣いにちらちら見比べる彼に、安心させるよう柔らかな微笑みをつくり、小さな右手を両手できゅっと包んだ。

「怒られるなら、私も一緒ですわ。あなたのことを言わずに誤魔化してしまいましたもの」

 出来るだけ優しく言い添えたらややあって、うん、と歯切れの悪い返事が返ってきた。

 階段を降り、船室の扉に続く広い廊下の途中で、私に促され数歩先を歩いていた少年が振り返って、唐突に訊ねた。

「なあ、なんでねえちゃんはすきにそと、でられねえんだ? とじこめられてんのか?」

 あまりに無邪気な、純粋な疑問に一瞬、心を貫かれた。

 いいえ。いいえ、私はずっと自由になった。

 全ての行く先、生き方を決められていた頃とは違う。テュールさんがいてくださって、私は望んで共に歩くことができる。籠の中に閉じ込められてなど、いない。なのに。

 守っていただくから、外に出られないの?

 私がもっともっと強くなれば、守られるばかりでなくなれば、もっともっとあなたと肩を並べて行けるの?

 本当は、怖い。今こうして離れているみたいに、ただ守られて隔離された私の元から、いつかあなたが手の届かないところまで行ってしまいそうな気がして。

 ────守られていたいわけでは、ないのに。

 程なく、ほとんど作り物の微笑みと共に私の口から溢れたそれは、少年への返答というよりも、自分自身に言い聞かせる戒めの言葉だった。

 まるで、自らへのまじないのように。

「……いいえ。守っていただいているのです。優しい、皆様に」

 

 

 

 少年の小さな手を繋いで特別船室を出ると、涼しい夜の風が首筋を優しく撫でていった。船室を出てすぐ左の階段手前で引き続き警備をしてくれていたアランさんが振り返り、私達を見るなり思い切りぎょっとして固まってしまった。

「あの、さっきはごめんなさい。この子、客船が気になって紛れ込んじゃったみたいなんです」

 さすがに申し訳なくて、かける声も萎んでしまう。同じくそそくさと私の後ろに隠れてしまった少年を目で示すと、アランさんもさもきまり悪そうに「いえ、俺の方こそ気づかず……えっと、船長のところへ行かれます?」と有り難いご提案をくださった。

 そのままアランさんに連れられて、すっかり暗くなった甲板へと向かう。ランプのわずかな灯りに照らされた広い甲板では今日の作業が終わったらしく、数人が道具の片付けなどをしていた。暗がりなので他の誰も少年には気づかなかったが、フォスター船長だけはさすがにこちらが近づくなり眉を顰めた。

 ことの次第を簡単に説明すると、いつも穏やかな白髭の船長もさすがに呆れ顔で「その子は間者の素質がありますな。これでは見張りの意味がない」と溜息混じりに仰った。

「いいえ、アランさんはすぐに確認しに来てくださったんです。私が子供だからと咄嗟に誤魔化してしまっただけで……申し訳ありません」

「だが、よりによって特別室の扉まで招かれざる客を通したことは事実です。警備体系の見直しをしなくてはならんな? アラン」

 低い叱責混じりの声にどきりと心臓が鳴る。もしかしたら、アランさんはここで船を降ろされてしまうのではないだろうか?

 私が、判断を誤ったせいで。

「私がちゃんと、その場でこの子のことを伝えなかったのが一番いけなかったのです。アランさんにご報告して、判断を委ねるべきでした。……本当に、ご迷惑をおかけして……申し訳ございません……」

 出来る限り、自分なりに誠実に告げて深く深く頭を下げた。船長の手前アランさんは黙っていらしたけれど、はらはらと見守ってくださる気配が頭上に降り注ぐ。私のすぐ膝の後ろからも、スカートの裾をきゅっと掴む幼い手が心配そうに見上げているのがわかった。

 今回が幸運だっただけ。もしもこの子が、何らかの理由でこの船が有数の富豪の船だと、あるいは私達が天空の武具を所持していることを知った何者かの手先だったとしたら? あの部屋のデッキから賊を呼び込むことも出来たし、そうなれば私など簡単に殺害されていただろう。子供だからなんて言い訳にならない。この子に唯一気づいた私の対応が甘かった、それこそ最も責められるべきこと。

 私はルドマンの娘だ。私を守ってくださる方々を、私が危険に晒すこともまたあってはならないことだった。

 フォスター船長は黙ったまま、容赦なく見定める鋭い目を私に向ける。促された気がして顔を上げ、その眼差しを正面から受け止めた。幾度となく父から向けられたものに似た、正しく厳しい視線。主君の娘という肩書を免罪符にしない眼差しは正直、恐ろしくも有り難いと感じた。

「お嬢様がお解りにならないはずがないと思っておきますぞ。二度目はございません。次は大旦那様にも報告させていただきます」

 父を話に出され心臓が一瞬きゅっと締まったが、深く頷いた。船長はよくわかっていらっしゃる。情けないけれど、私にとっては何よりの懲罰だ。

 ひとまず話は終わり、申し訳ないが少年を集落まで送ってあげて欲しい旨を伝えた。船長は当然とばかりに了承し、アランさんともう一人、遠巻きに私達を見守っていた船員さんに声をかける。すっかりしょんぼりしてしまった少年の目の高さに腰を下ろし、手を一度強く握って、交わった視線を微笑みで返した。

「そういえば、お名前をまだ教えてもらっていませんでした」

 少年の焦げ茶の虹彩が揺らぐ。ええ、と頷いて見せると、彼は尚も逡巡しつつ、やがて私にだけ聞こえる小さな声で「……キト」と呟いた。

 小さな小さなその身体をそっと抱きしめて、背中を軽く摩る。

「明日、また会いましょうね。キト」

 他の誰にも聞こえないよう、吐息だけでそっと、告げた。

 身体を離すと、眼を見開いたキト少年が私を見つめていた。泣き出したいのをこらえるように、唇と肩を震わせている。俯いて、また私を見て、潤んでしまう目頭を拭いもせず、言う。

「……ごめんな。ねえちゃん」

 おれのせいで、おこられちゃった。

 言葉にしなくても痛いほど伝わった。それ以上は必要ない、そう思って「お互い、気をつけましょうね」とだけ微笑んで答えた。緑の癖っ毛をさらりと梳いたら、少年も泣き笑いのような表情で首を傾げる。

 すぐにキトはアランさんに手を引かれ、左右を背の高い青年二人に挟まれて船を降りていった。彼らを見送り船縁に立つ。一度だけひょいと彼が振り返って、あちらから見えるかはわからなかったけれど微笑んで手を振った。

 すぐに三人は暗がりに溶けて見えなくなってしまい、無事家に帰り着くことを祈りつつ厨房に向かった。既に調理は終わっていて、結局私は簡単な配膳を手伝わせてもらうことしかできなかった。

「呼びに行くまでお部屋で待っていていただいて構わんのですよ? 本当に、お嬢様の手を煩わせるようなことでは」

 何があったかご存じない料理長が申し訳なさそうに私の表情を窺う。緩く首を振り、他にできることが何もないからお邪魔でなければ手伝わせて欲しい、ともう何度か伝えている懇願を繰り返した。料理長はほとほと困り果てた顔で私を見つめたが、私も退く気はなかった。

 私も自分の力で掴み取りたい。自分の役割を、与えられるまま享受するのではなく。

 『ルドマンの娘』、そして『天空の盾』。

 それだけの価値しかない女になど、なりたくはないの。

 すぐにお夕食の準備は終わり、食堂には順次人が集まってきた。まだいただく気になれなくて、混雑した食堂をそっと抜け出しお仲魔の皆さんの小部屋を覗いた。一足先に食事を終えた皆さんはそれぞれ自由に寛いでらして、私が顔を見せると真っ先にホイミンちゃんが、そしてスラりんちゃんが大喜びで飛びついてきてくれた。いつも通りじゃれついてくれるホイミンちゃん達の温かさに、張り詰めていたものが緩やかに氷解していくのがわかる。ピエールさんも今日はご自分で匙を持ち、またしっかりリゾットを完食してくださっていて安心した。

「我々はヒトよりずっと修復が早いのだから、ご心配には及ばぬ。剣があればすぐにでも身体を馴らしたいところだ。寝まされっきりでは鈍って敵わん」

 すっかりいつも通りといった調子で身体をこきこきと解すピエールさんにただただ感服するしかない。空になったお皿をバスケットにまとめていたら、その半分をガンドフさんが持ってくださった。有り難くお願いして一緒にのそのそと階段を上る。

「ありがとうございました。明日は時間があったら、皆さんの分もお食事を作りますね」

 食堂の前まで付き添ってくださったガンドフさんに感謝を述べたら、優しい瞳のビッグアイはとろりと微笑んで私の頭を撫でてくださった。

 落ち込んでいることに気づかれてしまったのね。私もまた、微笑んで首を傾けた。

 この方はお仲魔の中でもとりわけ、人の心に敏感でいらっしゃる。本当に優しい、他人想いの方。アンディの看病を共にしてくださったあの夜から、私は何度もこの優しさに救われてきた。

 ────もちろん、あの方にも。

 ゆっくりした足取りで小部屋へと帰っていく大きな背中を見送りながら、またしても思考の内に芽生えてしまった彼のあたたかな微笑みを想い、そっと耳飾りが揺れる耳朶に触れた。

 ……あのひとに、会いたい。

 

 

 

 幼い子供に特別船室への侵入を許してしまった一件で、食堂はすっかり重苦しい雰囲気になっていた。どうやらキト少年が子供なりに弄した小細工の数々がうまく嵌ったらしく、出入口から数人立っていた見張りの船員さんはことごとくその目を交わされてしまったらしい。間者の素質がある、というのも頷けるかもしれない。つまりはアランさん一人の咎ではない、ということで、今回は本当に警備の仕方をよく見直すということで決着がついたようだ。とりあえず誰も船を降ろされないと聞いて、就寝前に心からほっとしてしまった。

 テュールさんは夜間の魔物番を進んで引き受けていらっしゃるから、一人でベッドに入ること自体は初めてではない。それでも、この船のどこにもいらっしゃらないというだけで、どうしようもない寂しさに襲われてしまう。

 褒められたことではないものの、キトに出会ったお陰で、塞ぎきっていた気持ちが随分楽になったと思う。

「……あら?」

 就寝準備を整え、ランプを片手にベッドに歩み寄ったところで、ベッドの向こう側に何か落ちていることに気がついた。

 しゃがんで拾い上げると、帽子だった。つばの狭いくたりと使い込まれたその茶色い帽子は、一番初めにキトとぶつかった時に彼が被っていたものだ。

「まぁ。ちゃんと返してあげないと、キトが困るわね」

 独り言に嬉しさが滲んでしまい、慌てて頭を振る。気づいてやれなかったのは申し訳ないけれど、めでたくあの子に会う大義名分が出来てしまった。

 ベッド脇のチェストに帽子とランプをそっと置き、灯りを消して柔らかなシーツに潜り込む。真っ暗な室内に、窓の外の朧な星と、白い月の光がやわらかく満ちた。

 テュールさん達はご無事で宿に着いたかしら。明るい月夜で本当によかったわ。

 寝台から窓の外を見上げたら、ちょうど真ん中で二つに割れた月が美しく船を照らしていた。片割れがいないなんてまるで私とテュールさんのよう、などとおこがましいことを考えてしまい、思わず自嘲の笑みが零れる。

 以前の私なら心配で眠れなかっただろう。でも今は、彼が真実お強いことをわかっているからか、そこまでの不安はない。

 眠ってしまえば、この寂しさもきっと紛らわせられるもの。

 ────そういえば、キトはどうしてこの船に入り込んだのかしら?

 見慣れない大型船に対する子供の好奇心だろう。そう何気なく考えていたけれど、ふとそこに引っ掛かりを覚えた。

 私と鉢合わせた時、竜神の船だと思い込んでいたあの子。私のことを神の手下と呼び、見つかることを……いいえ、罰されることをひどく恐れていた、ように見えた。

 そんなにも怯えながら、ただ探検したいが為に来たのだろうか。人の目を盗んで、しかも、一人で。

(……わからないわ。明日、会えたら聞いてみよう……)

 マザーオクトとの死闘からずっと続いていた緊張のせいかもしれない。一度横になると抗いきれない微睡みが、泥のように私を捕らえてより深い眠りへと引き摺り込んでいく。

 とろけるような無意識と意識の狭間で、あの子の寂しげな瞳がちらりと瞼の裏を過った。

 けれどその一瞬は儚く、薄らいでゆく意識とともに私は思考を手放した。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Tyr】

 

 祠のある宿屋、といえば、天空の盾を求めてルラフェンからサラボナへ向かった際に一泊した覚えがある。

 僕がフローラに出逢うほんの少し前、まだ富豪令嬢の結婚相手募集の噂を気にも留めていなかった頃のこと。

 そんな話を、プックルへの緊張を解けきれず小さくなって後ろの幌の中で揺られているお二方にそれとなく話したら、「へええ。無欲の勝利とはよく言ったものですねぇ」などと大仰に頷かれてしまった。

「でも、いざフローラを一目見たら家宝のことは二の次になってしまって。……勢い、みたいであれなんですけど、どうしようもなく彼女に惹かれてしまったんです」

 やはり気恥ずかしくはあったけれど、正直にそう言った。フローラに誤解された時のように、家宝の盾を目当てに結婚を申し込んだと思われるのは嫌だったから。

「いやぁ、若いっていいやね。そういう衝動は大事にした方がいい、後から後悔しても先に立たんからね」

「うっそでしょ、後悔するようなことあったんですか? テオさん」

 絶妙な間合いで頓狂な声を被せた若い方の船乗りの頭を、年長の船乗りがすかさず手加減なしではたく。青年は「いって!」と側頭部を抑えたが、兄弟子は涼しい顔だ。気心知れた様子を見ると微笑ましくてつい頬が緩んでしまう。

 ポートセルミの船乗り達は、その多くが航海士としての経験を積みつつ、何かしら専門的な役割を担っているという。もちろんアランさんのように、初めから船乗りとして修業されている方も少なくはないが、バルクさんのように前職での経験を活かす人もまた多い。この二人、テオさんと弟弟子のロニーさんも船が出ない間はずっと造船所で働いていたのだそうで。こういった船の修繕は、彼ら造船部門の出身者が中心に手がけるようになっているのだとか。

「やっぱり、怖いですよね? キラーパンサーが近くにいるのは」

 だいぶ雑談してもらえるようにはなったものの、幌の幕すぐ後ろに寝そべったプックルから綺麗に距離を取るお二人を見てつい、苦笑混じりにそんな問いを発してしまう。こればかりは致し方ない。馴れすぎている自分とは違って、普通に生活している人間にとって魔物は脅威でしかないのだから。

「いやぁ……」

 口籠もり、顔を見合わせた二人もまた、どちらからともなく曖昧な苦笑いを浮かべる。こればかりは肯定されて然るべき、と思ったが、返ってきたのは寧ろ思いがけない言葉だった。

「わかっちゃいるんだけど。こないだお嬢様を一番近くで守ってたの、そいつでしたもんね」

 微かに目を瞠り、御者台から肩越しに幌を振り返る。遠巻きではあったが、そばかす顔のやや気弱そうなロニー青年は、半ば羨望すら込めてキラーパンサーを見つめていた。

「そうさなぁ。さっきだってお嬢様、随分と心を許してらしたご様子だったしな。いや、ビビリですまんね、ははは」

 聞いているのかいないのか、愛想笑いで恐る恐る呼びかけたテオさんにもプックルは黙って一つ鼻を鳴らしただけだった。ピエール達と違って喋れないから憶測でしかないけれど、これは多分、プックルなりの照れ隠しなんだと思う。

「プックルとは子どもの頃からの付き合いなんです。アルパカで子供達に虐められていたところを拾って」

「はぁあ⁉︎ なんっつう怖いもの知らずのガキどもだ‼︎」

 テオさんの素っ頓狂な叫びに紛れて、グァウウ! とプックルの不愉快そうな吼え声が聞こえた。あまりにタイミングが良すぎて軽く噴き出してしまう。プックルにとって『虐められていた』というのは禁句だったらしい。笑いを噛み殺し、素知らぬふりをして話を続ける。

「子どもの頃なんで、プックルも小さかったんですよ。僕はずっと、変わった鳴き声の仔猫だなぁと思ってました」

「こ、こねこ…………」

 唖然としたお二方がまじまじとプックルの背を見つめ、プックルはいかにも威嚇じみたグルルル、という低い唸りを僕に向けた。余計なことは言うな、と言いたげだが、駄目押しで「すごく可愛かったですよ」と言い足しておいた。背中に剣呑な視線がちくちくと突き刺さる。もうほとんど確信しているけど、プックルはヒトの言葉を喋らないだけで絶対僕らの会話を理解していると思う。

 と、不意にプックルが身を起こし、右前脚を馭者台に掛けた。

「うん。頼む」

 言いながら緋色の鬣をとんと叩いた、瞬間プックルが天高く跳躍した。草叢から現れたグレゴールのバギマが彼の髭と毛をかすめてわずかに散らす。相変わらずの素晴らしい身のこなしに感嘆しつつ、馬車を飛び降りこちらも即座にバギマを詠んだ。

 グレゴールの背後から立ち上がってきたパペットマンこそ風魔法に弱い。風の刃に悶絶しわらわらと脚にとりつく人形達を、身を翻したプックルと共にそれぞれ斬り伏せた。その傍から再び、鋭い疾風の渦が走る。絶命寸前のグレゴールが放った最後の魔法を交わしきれず、咄嗟に頭を庇った腕にビシビシと無数の切り傷が刻まれる。

 幌の二人は何が起こったかと固まっていたが、プックルの牙に喉を抉られたグレゴールの断末魔で我に返り、慌ててブーメランを取り出し尚も立ち上がろうとする魔物達を殴りつけ沈めていった。

「はっや……、すっげえ」

 全て片がつくのに三分とかからなかった。武者震いの如く興奮気味に身体を震わせ、どこか恍惚として呟いたロニーさんが、剣を拭う僕の腕を見て息を呑んだ。

「テュールさん! 大丈夫ですか⁉︎」

「はい、これくらいなら。ホイミですぐ治ります」

 よく見れば古傷だらけの身体は少しの傷など物ともしないほど皮膚が厚く、硬く変質している。特に腕と背は鞭から自身を庇うことが多かった為か硬化が著しい。実際バギマを喰らっても、全く傷つかないわけではないがそこまで酷い出血はしていなかった。

ちょっとだけ、パペットマンの踊りを見てしまったので妙な倦怠感はあったけれど、休まなきゃいけないほどじゃない。

「ありがとうございます。お二人とも、怪我はありませんか?」

 腕の傷に回復魔法を施し、同様にバギマをくらったプックルにも労いがてらホイミをかける。荷台を振り返ると、木の床に手をついたテオさんが「や、我々は、特に危ないこともなく。ずっと中におりましたし、はは」と引き攣りつつ答えた。ほっとしてもう一人の同乗者を見遣れば、彼はすっかり熱のこもった視線でうっとりとプックルに見惚れていた。

「やべ、かっっっっっけえぇ……」

 おい、また口から頭ん中身がだだ漏れてるぞ、とテオさんに小突かれたロニーさんが、はっ! と目を瞬かせ真顔に戻ったのがなんとも可笑しかった。

 どうやらプックルの勇姿はロニーさんの琴線にいたく触れたらしい。確かに狩りの時、獲物に狙いを定めたプックルはとりわけ美しいと僕も思う。均整の取れた無駄のない筋肉としなやかな肢体、捉えて離さない強い双眸で、緋色の鬣を躍らせ舞うように敵を仕留める。魔物、というより獣として、美しい。

 ひとたび睨まれれば命はない、地獄の殺し屋の名に相応しい魔物ではあるが、友とするならこれほど心強い存在は中々ない。

「多分そうそう手こずることはないので、戦闘はなるべく僕達が引き受けます。用心棒だと思って任せてもらえたら」

 さっさと幌に引っ込んだプックルに続いて馭者台に乗り上げ、再びパトリシアの手綱を引いた。軽快に間隔を狭めていく蹄の音に紛れて「そりゃ、心強いな」とテオさんの明るい声が聞こえる。ちらりと振り返ったら、ロニーさんがやはり恍惚とした表情で、すまして寝そべるキラーパンサーを見つめていた。

 ──満更でもない顔しちゃって。

 さっき僕が茶化した分は相殺されたみたいだ。ステージ上のスターでも見つめるようなロニーさんの熱い眼差しを浴びて、どうやら気分が良くなっているプックルの様子に笑いを堪えきれず、咳払いをして誤魔化した。

 どんな形であれ、プックルをこんな風に受け入れてもらえるとは思わなかった。あたたかな感謝を胸に、僕らは再び馬車を祠の宿屋目指して走らせ始めた。

 

 

 

 それから数時間、たまに魔物と遭遇しながら早いペースでパトリシアを駆って、やがて森を抜けて平原に出た。陽はだいぶ傾いていたが、ここまで来ればあと一刻もかからず着ける距離だ。

 森を抜けてしまえば魔物もほとんど出なくなる。ほっとして地図を片手に手綱を緩めつつ、気になっていた疑問を幌の中のお二方に投げた。

「そういえば、船の修理にはどれくらい日数がかかるんでしょう?」

 双方顔を見合わせ、すぐに答えたのは年長のテオさんだった。

「マストはうまくすれば、明日帰る頃にはほぼ終わってると思いますよ。円材積んでますし、ただ船体がね。結構派手にやられちまってるもんで」

「ええ。走らせてる間にも測ったんですけど、やっぱ板の方が足りないです。そっちは帰ってから着手しますんで、早くて三日、かな」

 思ったより早くてほっとした。時間がかかるのは構わないが、今回の修復作業は僕が手伝えることがほとんどなさそうだ。その状態が続きすぎるのはちょっと嫌だな、と自分本位に思っただけなのだ。

 ただ、マザーオクトを討伐した後の海が再び荒れてこないとも限らないので、帰ったら改めて東方向の見張りをしなくては、と思ってはいるけれど。

「あと、剥離箇所も含めてメタル塗装しなきゃいけないんですよね。それが馴染むまでは出航できないと思います。それでも全部で一週間はかかりませんよ」

「メタル……塗装? ですか」

 聞き慣れない専門用語に思わず首を捻ると、「ああ、こりゃ言わん方がよかったかな?」とどこか得意げにテオさんが顎を撫でて笑った。

「最近実用化したばかりの特殊な技術でね。鍛治の技を応用して、メタル系スライム属の核から精製した塗料を使うんですわ。強度が上がるし、こないだのでいうと雷を逃すのに役に立つ」

「へええ……」

 こういう話はなかなか聞く機会がないが、面白いなと思う。砂漠用の靴を依頼した時にも思ったのだけど、人間は人間でよく魔物の特性を理解し活用しているものだと感心させられる。

「なんだテュールさん、そういうの興味あります? 鍛治とか鳶なんかだと早いうちから弟子入りするのが多いけど、うちの造船所ならいつでも歓迎しますよー」

「莫ッ迦、お前、お嬢様のお相手だぞ⁉︎ そこらの造船所なんかで雇えるわけないだろうが! ちったぁ身の程を知れ!」

 別にそんなことはない、と言おうとしたが、確かにポートセルミでフローラを妻として普通に暮らすのは中々難しそうだ。サラボナから離れているとはいえ、あそこはどうやらルドマン家の影響力がかなり強い土地だから。

「おっ、そうだ! 何ならついでにこの荷台にもメタル塗って差し上げましょうか? 頑丈になりますよ!」

「えっ、でも」

 ロニーさんの嬉々とした、しかし思いがけない提案に声が上擦ってしまった。眼を丸くしてこちらを見るお二人に慌てて笑みを繕って見せ、改めて言葉を探す。

「メタル系って、素材がすごく希少でしょう? 僕もあまり手に入れたことがなくて……お恥ずかしながら」

 考えるまでもない、希少かつ有用ならばそれだけ高くつくということだ。軽く聞いただけでも需要の多そうな技術だが、それに見合った素材の供給が容易にできるとは思えない。せめて等価交換で核を用意できれば頼みやすいが、一体どの程度必要なものか。ただでさえ、遭遇しても逃げられてばかりでろくに倒せたことがないというのに。

「ああ。あれ足速いですもんね、硬いし」

「そうそう。普通にしてたら到底集まらんよな、核なんざ」

 うんうん、とお二人とも深く頷く。どこか愉しそうに目配せしあうお二人を見つめていたら、じわじわとあらぬ疑問が湧き上がった。

「……待ってください。まさか、メタルスライム属の核をそんな……集めようと思って集められるものなんですか⁉︎」

 再び目を丸くしたお二人がまたもや顔を見合わせた。ほらぁ、テオさんの口が軽いから! とか、お前も頷いてただろうが! みたいな視線をひたすら無言で応酬し合う彼らに、疑念は呆気なく確信へと変えられる。

 嘘だろう。信じられない、僕の知る限りそんなことが簡単にできるとは思えないのに。

 やがて、否やはりと言うべきか。多少困ったような、しかし隠しきれぬにやけ顔を懸命に引き締めたテオさんがごほん! と一声、重々しく告げて首を振った。

「そればかりは、いくらテュールさんと言えどもお教えできませんわなぁ」

「うわ……そう来ますか。とんでもない秘密もあったもんだな」

 頭を抱えた僕を、テオさんとロニーさんがさも愉快そうに声を上げて笑い見遣る。

 あれか、どこかで見かけた毒針というやつか? 硬いメタルスライム属でもじわじわ削ることができると聞いた。でもそれじゃやっぱり時間がかかるんじゃないか。それにあいつら、本当に逃げ足が速いんだ。逃さないように罠を仕掛けるとか? いやでも、確かあいつは誘眠だの毒だのといった特殊な攻撃にはほぼ全てに耐性があったはず。魔法も効かないって魔物研究所の爺様が言ってたよな。仕留めるだけで修行になるぞい、なんてふごふご笑いながら言われたっけ。ああ、もしかしたら表に出回らないだけで特殊な薬があるのかもしれない。なんせあの硬体を塗料にするくらいだから。

 船舶組合だけが知る穴場があったにせよ、そこで大量のメタルスライム属を何らかの手段で狩れたにせよ、核を得るには足止めして取り出すだけの工程を踏まなくてはならない。とすれば、それなりの技量持ちでなければ話が合わないわけで。

 両肘を膝について組んだ両手に額を載せる。無意識に息を吐きつつ、情けないことにどうにも恨めしげな声が出た。

「ポートセルミの船乗りがなぜ屈強揃いなのか、わかったような気がします」

 勇者を求めて人々に話を聞く中でそこそこ情報通になったと自負していたが、当然のことながら世の中まだまだ未知のことだらけ。特にこういった専門分野に関しては、固定観念など軽々と超える発想や事象があるのだな、と己の浅学を恥じるばかりだ。世界とは想像を遥かに上回る叡智で回っているのだな、とも。

「まぁ、それでもこと戦いに関しては我々が束になっても敵わんでしょうよ。テュールさん達はやはり、お強い。実戦の場数が違うんでしょうな」

 それはさすがに褒めすぎじゃないかなぁ。テオさんの賛辞が面映く、緩んでしまう頬を隠してひょこ、と肩越しに頭を下げて応えると、今度はその隣の青年がやや遠慮がちに言う。

「俺はそんなに戦える方じゃないんで言えた義理でもないんですけど、テュールさんは……魔物と一緒に死線を潜ってきてるからですかね。なんか、呼吸が違うなって思います」

「呼吸?」

「はい。ほら、さっきからその、プックル……と、ぴったり息があってる感じ」

 少しだけ躊躇いながらも、恐ろしいであろうキラーパンサーの名を敢えて呼んだロニーさんが、どこかやわらかく眼を細めて僕とプックルを見比べた。

「もう、そういう戦い方が身についてらっしゃるんでしょうね。魔物遣いって、薬や調教で言うこと聞かせるイメージだったんですけど、テュールさん達見てたらめちゃくちゃ印象が変わりました」

 うまく言えなくて申し訳ないですけど、なんてはにかむロニーさんの不器用で優しい微笑みに、どうしようもなく胸が疼いて、熱くなってしまうのがわかる。

 凄いよ。フローラ。

 今ここに君がいたら、この満たされきった、幸せな気持ちを真っ先に分かち合えるのに。

 魔物達の力を借りながら旅を始めてもう二年、仲魔を忌避されたことなんて一度や二度じゃ済まない。そういう目で見られるのにもだいぶ慣れたつもりでいた。人目の多い街道なんかではスラりんやホイミンはともかく、他の仲魔達には馬車で大人しくしてもらうようお願いしたこともあった。

 信じてもらえなければ悲しかった。堂々と彼らを歩かせてやれないことが悔しかった。だからこそ、彼女が一度だって彼らを恐れることなく笑いかけてくれたことがたまらなく嬉しかった。

 ──ああ、そうか。

 もしかしたら、フローラの髪を隠さなきゃいけないことになった、あの夜抱いた気持ちとこれは似ているのかもしれない。

 何も悪いことなどしていない彼女が、仲魔達が、ありのままの彼らを陽の下にさらせないことがもう、僕は辛いのかもしれない。

 本当にフローラが髪を切りたいと思ったなら、いいんだ。

 でも、こんなことの為に切らないで欲しい。魔物から身を守る為だけに切る必要なんかない。そう言いたかったんだって、今やっとわかった。

 何故だか無性に彼女に会いたくなって、ざわつく胸の微かな痛みを懸命に振り払った。

「そんな風に言ってもらえるとは思いませんでした。……ありがとうございます。嬉しいです……」

 辿々しく気持ちを伝えたら、優しいロニーさんはやっぱり照れ臭そうに頷いてくれた。

「ああ、でもテュールさん。さっきのメタルの話は他言無用でお願いしますよ。私もほんと、気をつけなくちゃ」

 そわそわとこちらを覗き込み、口を抑えつつ言い添えるテオさんに笑って了承を伝える。

 因みに、宿屋に着く迄に二度ほどメタルライダーに遭遇した。こいつの核だったりしませんよね?とお二方に訊いたが、苦笑して首を振るだけだった。ピエールと同じスライムナイトを昔倒した時の核が普通のスライムのものとは全然違ったことから、騎獣に過ぎないスライムは普通に生息するものとは全然違うんだな、と思った覚えがある。今回も多分、そういうことなんだろう。

 

 

 

 そんな雑談を挟んで、すっかり陽が沈み暗く深い濃紺の空に星々が輝きはじめた頃、馬車は無事祠の宿屋へ辿り着いた。

 以前宿泊した時はサラボナへ向かう男達でごった返していたものだが、今日はそれなりに客足が落ち着いていた。僕を覚えていてくれたらしい宿のおかみさんが「おや! あんた、久しぶりだねえ。あたしゃ男前の顔はよーく覚えているんだよ」などと嬉しそうに声をかけてくれる。部屋数にも余裕があったので、今回は大部屋ではなく個室を三つお願いすることにした。出発は夜明け頃の予定なのであまりゆっくりはできないけど、久々の宿のベッドで少しでも身体を休めてもらいたかったから。

 今から休息を取らせればパトリシアも十分回復するはず。凡そ六時間の道のりをほぼ休みなく頑張ってくれた愛馬を労った。早速資材の買付けに立ち会って、お二人が選んで下さった木材を次々に荷台へと積んでいく。

 同じく馬車を繋ぎに来たらしい旅の商人が、こちらを見て目を丸くしていた。

「随分と買い込まれますな。どこかに動けない馬車でも?」

「いえ、実は船なんです。なんとか岸に着いたのですが、街は遠かったのでこうして足りないものを買い足しに来まして」

 これまた予想外の答えだったらしく、ほう、と感嘆の息を吐いて商人は僕を見た。

「船をお出しになったのですか。まだまだ荒れていて、特にこの辺りの航行は難しいと聞いていたのですが」

「ええ。でも、これから少しずつ落ち着いていくと思いますよ」

 魔物退治の件は伏せてそう答えると、商人はふむ、と首を捻り「ならばやはりポートセルミに向かってみるかな。良いことを聞きました」といかにもよそ行きの笑みを浮かべて頷いた。

「あなたは何を扱って?」

「一応武器が専門です。ご入用でしたら手持ちをお探しいたしましょうか」

 さすが、商売の機は逃さない。僕もちょうどピエールに合う剣を探したかったので、テオさんに断りを入れて少し見せてもらうことにした。

「剣でございましたら、そちらが鉄剣、こちらが鋼剣になります。それぞれ造りが異なりますので握ってみていただければ。これはスネークソードと言いまして、ルラフェンに工房を構えるドワーフの鍛治師が鍛えた逸品です。あとこちらはサラボナで買い付けたばかりでして、これまた今時なかなか見かけない代物ですよ。破邪の剣と申しまして、炎魔法を秘めているのです」

「炎魔法ですか? それはすごいな」

 鉄鋼それぞれ数本、それと変わったデザインの剣をさらに数本並べてもらい見較べた。途中説明につられ、変わった形の一振りに手を伸ばす。紅い握りに金の精巧な鍔、そして真っ直ぐの剣身の先端には鍵のような突起がついている。

「勇者の伝説の古代には多く作られた剣のようです。この剣に元々使われた核の魔物が絶滅して久しく廃れておりましたが、この数年で核の研究がずいぶん進みました。オリジナルと全く同じではありませんが、伝承に出てくる破邪の剣をよく再現されていますよ」

 流れるような口上に相槌を打ちながら、それぞれの品に目を走らせた。勇者の時代の剣だなんて面白そうだけど、先端の突起が普段使いの面でどうかな、と思わせられた。使うのは僕ではないから、本人が希望するなら迷わず破邪の剣にするのだけど。

 何度か拾い上げた彼の剣の重さを思い出しながら鋼の剣を何本か握ってみる。結局は本人に選んでもらうことになるんだけど、とにかく繋ぎで一本用意してやりたい。軽すぎると振り抜きにくいみたいだから……あとグリップがちょうど良い太さの、彼の手袋でも握りやすく滑らないもの。意外と小柄だから、細身の方が良かったんだっけ。

「お使いになるのは、お客さんではないんですね?」

 僕の様子から察したらしく、商人がちらりと僕の鞘を盗み見た。数本触って見比べていた僕は慌てて顔を上げ答える。

「あ、はい。仲間なんですけどここにはいなくて、わりと小柄なのでどれが使いやすいかな、と」

 頷き、商人は更に荷台の奥から三、四本の剣を持ち出して見せてくれる。

「鋼をお探しのようでしたので。こちらは女性でも持ちやすい型になります。やや小柄な男性で腕力が十分なら、こちらでもよろしいですね」

 その中の一本に目が止まった。ピエールが使っていたものと似た大きさだ。念のため持ってみたが軽過ぎず、見た目よりは寧ろ重い。うん、これなら彼も使いやすいかもしれない。

「いいですね。こちらをお願いできますか?」

「かしこまりました。破邪の方はいかがなさいます?」

 物腰柔らかながらも実に商魂逞しい。値段を尋ねると鋼の凡そ二倍だった。ううむ、と唸ると「二本お買い上げいただけるのでしたら、お客様の眼識に免じて六千四百ゴールドのところを五千ゴールドにまけさせていただきましょう」などと大変良い笑顔で言ってくださる。念のため炎魔法の効果を確認すると、炎帯魔法であるギラに相当するものらしい。魔道具といえばつい先日も指輪に大いに助けられたばかり、暫し悩んだ挙句ここは両方購入することにした。

「お買い上げ有難うございます。全くお客さんはお目が高い」

 ほくほくと金貨を数える武器商人が、鞘に収めた二本の剣を荷台に積み込む僕に向かってさも嬉しそうに声をかけた。

「いや、実に嬉しいものですな。破邪の剣の復活は私の悲願でしたので、今度またどこかでお会いできましたら是非使い心地を教えてください」

「そうなんですか? それはまた」

 驚いて振り返ると、彼ははじめて屈託のない、少年のような笑みを顔面いっぱいに浮かべて頷いた。

「武器商人としてはトルネコに憧れてしまいましてね。かつてこの破邪の剣を世に広めたのがトルネコと聞いて、いつか必ず復活を、と願っておりました。魔物研究所の皆様や山奥の村のドワーフの職人様方のお力を借りて、ようやくここまでこぎ着けたんです」

 一介の商人が伝説に語られる古の武器を一つ蘇らせたのか。照れ臭そうに笑う商人の瞳は僕よりずっと年上ながら、夢に溢れる無邪気な子供のように輝いて見えた。次は伝説の算盤を手にしてみたいものですなぁ、などと笑う彼はまるでベネット爺さんと同じ、飽くなき探究心と情熱の塊と呼ぶべき人種なんだろう。

「そうだ。帽子の取り扱いはありませんか? 女性用の、兜ではない普通の帽子で良いんですけど……」

 さすがにこれはないかな、と思いつつ、駄目元で訊いてみたがやはり申し訳なさそうに首を振られてしまった。苦笑し、了承と感謝の意を伝える。剣を見せてもらっている間に必要な資材の積み込みは終わっていたので、あとの交渉などはテオさんとロニーさんに任せ、パトリシアとプックルにも食事を運んで、一足先に自分の部屋に入った。

 備え付けのペンと便箋をありがたく借りて、思考をまとめつつランプの灯りを頼りに文字を走らせる。

 こればかりは心からヘンリーに感謝している。子供の頃から奴隷育ちである自分にとって、ヘンリー譲りのこの整った筆跡は今となっては数少ない、自信を持って他人に見せられる僕自身の財産なのだ。

『字ってのは書く奴の内面が出るんだよ。焦るなよ、ペンの持ち方はそう。背筋伸ばせ、落ち着いてゆっくりなぞれ。俺の字の形を覚えろ。安心しろ、これだけは俺、城でめっちゃくちゃ褒められてたから』

 彼もまた、それを忘れないことで己の存在意義を確かめていたのかもしれない。いつからか消灯前、起床後の隙間時間、見張りの目を逃れるほんのわずかな数分に、棒切れがあればそれで、なければ指で地面を濡らしながらでもヘンリーの字を元に何度も練習させられた。面白がった周囲の大人達もまたこっそりと僕達に言葉を教えてくれたりして、お陰で今、難しい綴りじゃなければ日常生活で困らない程度に読み書きはできるようになっているし、多分僕はこの筆跡のお陰で相当得をしてきている。特に名前は十年間毎日のように書き取りさせられていたから、宿帳に一筆サインするだけでそれなりの教育を受けた人間だと誤解していただけるのである。それくらいヘンリー仕込みの筆跡は整って綺麗だということだ。尤も、実際にヘンリーにペンを持たせて書かせた非常に繊細かつ美麗な字形には、紙の上でのそれを初めて目にした僕も、当時泊まった宿の方も目を丸くして言葉を失った。いかにも貴族感溢れる筆跡であのぼろぼろの身格好なものだから、宿の方なんてあれだけで僕らが訳ありの客だと察して下さったよ。

 手紙は義父であるロドリーゴ・ルドマン卿に宛てた。セルマー海峡でのマザーオクト討伐の顛末はポートセルミに戻ったイヴァン殿からも報告が届くだろうがもう一つ、余計なお世話かもしれないけれどメッキーに知らされた件を伝えておきたかった。魔物達が手先となって人間を集める勢力があること。沈んだと思われた船はやはり、恐らく丸ごと連れ去られていること。目的は不明だが翠や碧の髪といった特徴を持つ人間が特に狙われやすいらしいこと。故に、船の件とはまた別に、罪も縁もない一般人が襲われているであろうこと。それらはやはり、光の教団が関係しているであろうこと。

 あれはサラボナだっただろうか、幼い子供を連れた旅の男性が話してくれた。その子の母親は魔物に襲われ、子供を庇って死んだのだと。妻を守ってやれなかったことを今もずっと、許せずにいるのだと。

 そんな後悔、僕だってしたくないし、誰にも二度として欲しくない。

 卿に何かしてもらいたいということではないけれど、領民が危険にさらされていることだけ知っておいて欲しいと思った。伝えられる限りの情報をしたためて、一度ざっと読み返しペンを置く。インクが乾くのを待ちつつぼんやりと椅子にもたれて、深いため息をついた。

 ……ここ数日で、色々あったなぁ。

 色々、と言うならセントベレス山を逃れてからずっと波乱万丈ではあるんだけど、フローラに出会ってからは嬉しいことと辛いことの振り幅が大きい所為か、心を揺さぶられることが前よりずっと増えたような気がして。

 満たされることも、満たしたいと思うことも。己の無力を嘆くことも、失わない為により強い自分を求めたいと思えることも。

 こんな風に目を閉じて、身体よりずっと重い精神の疲労感を感じてしまうと、ふとあの甘く優しい花の香りが恋しくなる。

 半日しか経っていないのに、情けないな。

 インクが乾いたのを確かめて、丁寧に折り畳み封筒に収めた。酒場に降りたらちょうど、買付けを終えた船乗りのお二方がカウンターに座り、食事がてら一杯やっているところだった。

 ロニーさんに機嫌よく手招きされ、その隣に腰を落ち着けた。先日頼んだのと同じ芋のグラタンを注文して、マスターに手紙を預かってもらう。こういった旅の経由地では各地の商業組合などと示し合って、そこを利用する組合員の方にそれぞれの目的地宛ての郵便物を運んでもらう仕組みになっている。ルドマン卿に宛てた手紙なら、その下で働く方もこの宿を使うことが多いからすぐに届くだろう。

 宛名を確認したマスターが「おや、お客さん。サラボナの大旦那様に直接のお手紙とは」と首を捻った。

ちょっとお伝えしたいことがあって、と僕が答えるより早く、ほろ酔い顔のテオさんがさも得意げに「おやぁ? マスターご存知ないのかい? この人は今やその大旦那様の義理の息子なんだよ」と僕を指差し言った。

「えっっ⁉︎ ええ⁉︎ てことは、あの天女様、あ、いやルドマン様のお嬢様とお客さんがめでたくご、ご、ご結婚を⁉︎」

 人気もまばらな酒場に素っ頓狂なマスターの叫び声が響き渡る。何事かと注目が集まったカウンターの向こう側で、おかみさんがさも勝ち誇った風で「ほーらご覧! この人くらい男前じゃなきゃ駄目だって言っただろ⁉︎」と声高に言い放った。

 もう、恥ずかしいなんてもんじゃない。ことの顛末をご存知ない旅の方々は刺激的な話題に飢えた目でこちらを見てくるし、マスターはマスターで「ははぁ、じゃこの中にはもしや愛しの奥方様への恋文も入っていたり? ええ、間違いなくお預かりしましたよ! 全く、お客さんも隅に置けませんねぇ!」などと暴走気味の勘違いに頰を緩ませてくださる。よりによって頼んだ夕食は作るも食べるも時間のかかる熱々料理、しかもすっかり気を良くしたおかみさんの手によってかなり豪勢に変貌を遂げ提供された。お陰で小一時間ほど、僕は大変居た堪れない時間を過ごさせてもらうことになった。

 五月雨に降る質問を何とか交わしきり、熱々のグラタンのお陰ですっかり腹から温まって、酒だけは何とか辞退して客室に戻った。

 明朝は日の出と共に宿を出る。資材の重量が増えた分パトリシアは辛いだろうが頑張ってもらって、昼過ぎにはフローラ達が待つストレンジャー号に戻れるだろう。急いで湯を使い、就寝準備を整えてランプを消す。ふと見上げた窓の外には白く輝く半月と、その傍らに零れ落ちそうな星屑が無数に連なって、天の端と端を繋ぐ路を形作っているのが見えた。

 あの星の連なりは夏の夜空にだけ現れるのだと、フローラが嬉しそうに星空を見上げて教えてくれた。

 今夜は晴れて、よく星が見えるよ。フローラ。

 君も今頃、同じ空を見上げているだろうか。

 危ないことは起こっていないか。無茶な頑張り方はしていないか。僕がいなくてもあの、恐ろしい夢を見ないと良いけど。

 彼女がいない寝台に一人潜り込むと、まるであの半月のように、隣にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われる。

 婚礼をあげてからは、臆病で触れられなかった夜もずっと、君の気配が傍にあることに安堵しながら眠っていた。

 想いを通わせあったあとは夜、共に寝床に入るたびに、碧い、柔らかな長い髪を胸元に落とした君が腕の中、透き通るような微笑みで僕を見上げては何度も辿々しく愛の言葉を囁いてくれた。

 

 どうしよう。

 たった今、どうしようもなく君に触れたい。

 

 君も寂しいと思ってくれていたら嬉しい。そんな身勝手な願いに苛まれ、無理矢理に瞼を閉じた。

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