Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#13. 神の船

【side Flora】

 

 じりじりと灼けつく太陽が中天を通り、このまま何事もなく穏やかに過ぎるような気がしていた。

 

 いつも通りに起きて身支度をした。一日の始まりに、あの人と朝の挨拶を交わせないことが寂しいと感じる。あと半日待てば会えるから、と自分に言い聞かせ、ぱちん! と両手で頰を叩いて気合を入れ直した。

 外はからりと晴れた夏日で、まだ明けて間もないというのに、船員さん達が甲板と船の下に大量の洗濯物を干していた。明け方から洗濯してくださっていたと思うと言葉もない。目が合えば清々しい挨拶が飛んできて、笑顔を返しながらも、畳む時にはお手伝いしようと心に決めた。食堂に向かい、朝食の用意を手伝って、仲魔の皆さんに朝ご飯を運ぶ。ピエールさんももうすっかりお元気そうで、本当にほっとした。

 朝食をいただいたあとは、料理長に渋られながらキッチンを半分間借りして、朝食の片付けをしつつ仲魔の皆さんのお昼ご飯を用意した。これが出来上がる頃か、皆さんが食べ終わる頃にはテュールさんも帰って来られるかも。彼にも少し召し上がってもらえたら嬉しい、そんなことを考えるとつい、料理する手も浮かれて躍ってしまう。「大変見事なお手際ですがお嬢様、お手間を考えれば私がまとめてお作りしますのに……」などとバスケットを覗き込み恨めしげに言う料理長に苦笑しながらサンドイッチを詰めていた、その時。

 

「船長! 昨日のガキだ‼︎」

 

 甲板の方から確かに聞こえた。え、と思った瞬間、かなり遠くから何かが騒ぐような音が、いいえ、声が響いてきた。甲高い、不安を誘ういくつもの叫び声に背筋がぞくりと凍る。

 船室の外もにわかに騒がしくなって、料理長も青ざめながら「な、なんだ? どうした?」と耳に手を当て、階段上の喧騒に耳を澄ませた。私もまた、飛び出したい衝動を抑えて同じように意識を上に向けたけれど、やはり音だけでは何が起こっているのかさっぱりわからない。

 でも、直感はあった。魔物が襲ってきているのだと。

 外に出て確かめたい、そう思ったのとほぼ同時に、甲板から慌ただしく誰かが降りてきた。顔馴染みの船員さんがほっとした様子で「お嬢様! 良かった、こちらにいらっしゃいましたか」と声をかけてくださる。次いで「敵襲です。お嬢様は絶対にここからお出にならないで下さい」と告げ、返事も待たずに再び甲板へと駆け上がった。上からばたん! とハッチを閉じられた気配がして、喧騒が遠のいたキッチンで料理長と二人、顔を見合わせた。

 わかってる。私が行ったって、何も出来ない。

 使える魔法はベホイミだけ。勉強中のルカナン、マヌーサはまだ理論を習っただけで、実際の魔力の通し方も距離の測り方もさっぱりわからない。唯一使えるのなんてこの指輪くらい──邪魔でしかない。私なんて邪魔にしかならない。

 ……そんなこと、わかっているのに。

(昨日の、子供だって)

 そう聞こえたわ。聞き間違いじゃない。さっきの叫びを思い返すだけで胸が、心臓が切り刻まれるように痛む。

 キト。夕方って言ったのに、一体何があったの?

 怪我をしたかもしれない。こうしている今も怖い思いをしているだろうに、

 ────私だけが、安全な場所で何もしないでいるなんて。

「お嬢様⁉︎ いけません‼︎」

 料理長の金切り声が飛んだけれど、構わずハッチに手をかけた。がたがたん、と揺らして押し上げようとした時、上からの弱い重圧と共に耳慣れた、ゆったりと愛らしい声が私を呼んだ。

「ふろ〜らちゃん! ここ〜⁉︎」

 呼びかけと共にハッチが開けられ、彩度の高い光が差し込む。思わず目の上に手をかざしながら、居並ぶ皆さんの姿に胸が熱くなってしまう。

「ホイミンちゃん! 皆さんも……!」

 真っ先に視界に飛び込んできた、青い身体の可愛いホイミスライムが黄色の触手を私の指に絡めて「よかったあ〜! ふろ〜らちゃんおへやにいなくて、びっくりした〜」とふにゃりと笑ってくれる。愛くるしい笑顔が本当に眩しくて、触手をきゅっと握って応えた。

「心配かけてごめんなさい。探してくださったのね」

 有り難くて、でも申し訳なくて、それぞれのお顔を確かめながら感謝を伝えたら、マーリン様がいつものポーカーフェイスで首を緩く振り、答えて下さった。

「奥方様をお守りするのが我々の第一のお役目。我々としては動かずにいてくださるなら、このまま此処に留まって下さった方が有り難い」

 相変わらず感情が窺えないお声でマーリン様が進言して下さって。でも、私にはどうしても確かめたいことがあった。

「……あの、男の子をご存知ありませんか。緑の髪で、まだ五歳くらいの」

 マーリン様とホイミンちゃん、ガンドフさんがそれぞれ私を見つめ、次いで顔を見合わせる。何故知っている、と言いたげに彼らは視線を交わらせていたが、程なくマーリン様が重い口を開いた。

「キメラに追われている子供ならば、たった今スラりんとピエール殿が救助に向かいました」

 ひゅ、と冷たいものが喉を掠める。

 心臓が次第に脈動の速度を早めていく。いつもと変わらず淡々と告げられるマーリン様のお声がひどく、遠い。自分の動悸が耳の内側に煩いほどこだまして、手も足も何だか震えていて、心配そうに覗き込んでくれるホイミンちゃんも、ガンドフさんもどこか現実味がない、けど、

 ────現実なの。間違いなく。

 これが、夢ならどんなに。

「その子、私のお友達なんです」

 どうにも震えてしまう声で何とかそう告げる。瞠目する皆さんに縋りつき、懇願した。

「どうか、……どうか、私にも見守らせていただけませんか⁉︎ ────お願い、します……‼︎」

 

 

 

 数十メートル先の砂浜では、激しい攻防戦が繰り広げられていた。見張り台からいち早く異変に気づいた船員が叫び、それを聞いたアランさんを含む数人の船員がすぐさま甲板を飛び降りた。昨日私達の船室に忍び込んだ、あの小さな少年が今、まさに、二羽のキメラの嘴に襟を掴まれ持ち上げられるところだったのだ。

 後からアランさんに聞いたら、子供に当たらなくて本当に良かった、と苦笑いしていた。無我夢中で、ほとんど身体が勝手に、走りながらブーメランを投げていたのだと言う。

 奇跡的に届いたブーメランがキメラの横っ腹に決まったお陰で、バランスを崩した片方のキメラがキトを取り落とした。砂浜に落ちたキトが錯乱しながら懸命に這って逃れようとする。自分めがけて真っ直ぐに駆けてくる青年達に向かって、必死に叫んだ。

「たすけて……っ、たすけてえぇ────‼︎」

 その叫びに呼応するかのように、砂の上を猛スピードで転がってきた青い小さな何かが彼の懐に潜り込んだ。少年はハリネズミか何かかと思ったらしいが、同時に駆けていたアランさんにはそれが何なのかすぐに判った。

「ニフ……ら──────っっっム‼︎‼︎」

 りんごほどの大きさに見えた、その青い塊がパンの如くぶわっと膨らんだ。驚き目を瞠った次の瞬間、キトはその眼を自ら覆うことになる。全てを影にする目映い閃光が塊から解き放たれて、海岸と海と空を一瞬で真っ白に染め上げたのだ。

「……あれー⁉︎ きめら、ほとんどきえなーい‼︎」

 妖しい術を行使した張本人は光が消えた後、あわあわと取り乱している。少年よりさらに小さな、膝ほどもない生き物だったが、その生き物は勇敢にも自分を庇い、キメラとの間に立ちはだかっていた。

「え、……スライム? ────ッうわあ!」

 驚愕のあまりぼんやりしてしまった彼の襟を何者かが後ろへ引き倒す。またしても悲鳴を上げてしまった少年に「死にたいか? 小僧。助かりたくば船に向かって走れ!」とその何者かがすれ違いざまに囁いた。疾風の如く目の前の敵に突っ込んでいった、陽射しを照り返したその白銀の背をキトはようやく直視した。

「……っ、ま、まもの……っ⁉︎」

 声は大人のようだったけど、幼い自分とさほど変わらぬ背格好でスライムに跨る鎧姿の人間なんて多分いない。尻餅をついたまま後退り、なんとか立ち上がろうとしたが力が入らない。耳をつんざく奇声に顔を上げれば、キメラが更に数羽、自分達を囲むように羽ばたき上空を飛んでいた。そこに続けて、ビッグスロースやデスパロットが森の中からぞろりと現れる。示し合わせたようなタイミングに、少年を庇い立った二匹──三匹と言うべきか、魔物達がわずかに苦笑したようだった。

「麻痺は厄介だ。デスパロットだけは先に沈めるとするか」

「まっかせて!」

 自分は子供だけれど、あの魔物の群れが自分達を殺そうとしていることくらいわかる。殺気立った大群を前に張り切って跳ね上がるスライムに思わず、やめなよ、と言おうとした。無謀としか思えなかった。敢えて死にに行くとしか、彼には思えなかったのだ。

 あんなにいっぱいいるのに、無理だよ。逃げようよ。

「何やってる! 走れ‼︎」

 唐突に背中を叩き、叱咤の如く促したのは、昨日自分を家に送り届けた青年だった。

 そうだ、走らなきゃ。頷いたつもりだったけど、身体ががくがくしてうまく動かせない。青年に手首を掴まれ、引きずられるままに走ろうとしたがやはり足はろくに動かず、ああ、と泣きたくなったその時、どこからか女の声が自分を呼んだ。

「キト‼︎」

 周りは懸命に制止してくれたけれど、我慢できなかった。震える身体を叱咤して船縁から身を乗り出す。ただ必死に、腹に力を込めて、少年に届くことだけを願って声を張り上げた。

「走って。お願い‼︎」

 私の叫びが恐らく届いた、瞬間少年とアランさんが脱兎の如く駆け出した。船に向かって必死に走る彼らを追おうとするキメラ達に他の船員さんがブーメランを、ピエールさんがイオをぶつけるがすぐ体勢を立て直されてしまう。砂地は走りにくいのだろう、やっと半分というところでキトが足をもつれさせた。わっ、と叫んで転倒した少年を小脇に抱え込み、アランさんがまた走る。

 お願い、追いつかないで……‼︎

 祈りも虚しく、高く飛び上がったキメラの急降下は速かった。アランさんが一瞬、緊迫した表情で空を仰いで────すぐその身体の下に、少年を抱え込んだ。

「アラン────ッ‼︎」

 前のめりに倒れ込んだ彼の背に、キメラの嘴が襲い掛かる。あまりの残酷さに、咄嗟に目を瞑った。船長の、仲間達の怒号に似た叫びが幾つも重なって聞こえた。

 薄く開けた視界の端、ピエールさんが回復の為に引き返そうと試みている。けれどすぐに魔物の群れの中に飲まれて姿が見えなくなってしまう。共に走り、キメラを散らしていた船員達が駆け寄る様も。

 血が────砂浜に、真っ赤な血が散っていく。何度も繰り返し啄まれて、背肉を抉り取られて。アランさんはキトを抱え込んでうずくまったまま、動かない。走馬灯みたいにゆっくり、その光景は妙に緩やかに流れて見えた。

 ホイミンちゃんも動かなかった。ものすごく悩んでいるのが隣にいて伝わってくる。すぐに行ってあげて、と言いたいけれど、この上私の側を離れては守りきれないかもしれないと思っているんだろう。

 結局、私が自分を守れないから。私が、役立たずで何もできないから。

 どうして、目の前にいて手も差し伸べてあげられないの。

「お嬢様、早く中に!」

 船長の厳しい叱責の声も、もう聞こえない。

 ふと、気がつくと私のそばに控えたマーリン様が、アランさん達の周りを飛ぶキメラに向かってもう何発も、冷静にメラミを放っていらした。

 あの距離なら魔法が届く。マーリン様なら、届くんだわ。

 手を、かざす。

 この魔法なら何度も何度も使ったもの。詠唱はいらない。

 でも、手が届く距離にいる相手にしか使ったことはない。

 離れた相手に掛けられる魔法じゃない。そんなこと、出来た例がない。

 ……出来るか出来ないかなんて、今は関係ない!

 迷いを、断ち切る。かざした手に光が宿り始める。あたたかなその光を、魔力を注ぐイメージで膨らませていく。私のずっと内側から、感じたことがない力が湧き上がり、漲っていくのがわかる。届かないなら飲み込んでしまえばいい。私に、もしこんな私にもできることがあるならば、

 ────もっと、もっと強く。どうかアランさんに、届いて‼︎

 瞼を閉じて、集中したのはほんのわずかな、でも時間が止まったような、長くて短い不思議な一瞬。

 深い、深い、仄暗い精神の奥深く潜ったところで、

 翡翠の髪の、知らない誰かが居たような気がした。

 

 物心つく頃から何度も繰り返し視た、空を割って堕ちる夢。

 あの夢の始まりに、

 何度もお別れした人に似ている気がした。

 

 ──────すべては、一瞬の昂り。

「ベホイミ‼︎」

 宣誓と共に癒しの波動がゴォ‼︎ と大気を揺るがした。掌から放たれた、ベホイミに違いないその光は溢れるほどにその場に満ちて旅装の裾と髪を巻き上げ、さっきのスラりんちゃんのニフラムの如く全てを包み込んでは真っ白に染め上げ、消えていく。

 はらり、と結っていた髪がほどけて、編み上げた髪が肩に落ちて音もなく垂れた。

 隣にいたホイミンちゃんも、ガンドフさんも、たった今までメラミを撃ってらしたマーリン様も、私を厳しく見守ってらした船長も船員さん達も、みんなみんな、黙って私と、船の外のアランさんを凝視していた。

 真っ先に動いたのはキメラだった。光を交わし空高く舞い上がったキメラが再び襲撃の構えを見せたが、すぐさま気づいたマーリン様がすかさずメラミで退け、声を上げた。

「そこの方! 若者のご容体は」

 慌ててアランさんの様子を見た船員さんが、血濡れた服の隙間から肌を覗き込み、驚愕して叫ぶ。

「あ、き、傷が、ほとんど塞がってます! 奇跡だ、奇跡です‼︎」

 歓喜が滲む船員さんの返事に、膝がかくりと抜けそうになる。慌てて船縁に手をついて、崩れ落ちかけた身体を支えた。「ふろ〜らちゃん、すごい! すごいよ〜‼︎」と興奮して呼びかけてくれるホイミンちゃんに、なんとか視線だけで淡い微笑みを返した。

 ……届いた。良かった……

 アランさんは気を失っている様子だったが、その下からキトが強張った顔を覗かせた。また泣きそうに顔を歪ませた少年に向かって身を乗り出し、強張ってしまう頰をなんとか弛ませ微笑みを繕って向けた。

 それでも、彼らのいる地点からこの船までまだ十メートル強はある。キメラは依然数を減らしておらず、船員さん達は各々が持つブーメランだけでキメラを退けながら、足を取られる砂浜を、二人を抱えてここまで走らなくてはならない。

 海の魔物相手なら腕が立つ彼らだが、そもそも陸上での戦闘には慣れていない。

「信じらンねえ。こりゃ俺達、もしかして見つけちまったんじゃねえの?」

 どうしたらいいの。唇を噛んでぎゅっと船縁を掴んだその時、何とも嬉しそうな甲高い、下卑た笑い含みの声が空から響いた。

 はっとして見上げるとキメラが数羽、ばさりと緩慢に羽ばたきながら船の上を旋回している。────舐めるような、粘りつく眼で私だけを見下ろして。

「碧髪の女か。しかもさっきの妙な力だ。見逃してはやれねえ、なァ?」

「小汚ねぇガキよかその女の方がずっと上玉じゃねぇか。早くジャミ様にお見せしてェもんだぜ」

 舌舐めずりしつつ私を値踏みする。その目つきにぞわり、と背筋に冷たいものが走った。テュールさんと外の世界を歩くようになってからもう幾度となく感じた、あの視線。

 私を庇って立ってくださるマーリン様、ガンドフさんを更に囲むようにして、船員の皆さんが並び立つ。それぞれにブーメランや鞭を手にして。緊迫する空気の中、どこからともなくごくり、と唾を飲み込む音がする。

「お嬢様を狙う輩がいる、というのはやはり間違いないようだな。そう易々と渡すと思うか」

「渡す、じゃねえよ。()られるンだよ、てめえらがな!」

 フォスター船長の物々しい台詞にもキメラ達は動じなかった。ケヒヒヒヒ! とまた耳障りな笑い声が幾重にも響いて、耳の奥がキィンと貫かれる感覚に陥る。

「なぁに、ジャミ様は寛容なお方さ。お前のような珍奇な碧髪女でも可愛がってくださるだろう……よッ!」

 その言葉を皮切りに、十数羽のキメラが一斉に襲い掛かった。ほぼ同時にブーメランが飛び交ったが殆どが虚しく空を切る。私も咄嗟に指輪を向けたけれど、吹雪だけではやはり退けられない。ガンドフさんの鞭とマーリン様の炎が追い討ちをかけ一、二体と落として────船員さん達の攻撃を掻い潜った三体ほどが、低空から恐ろしく加速して間合いを詰めてきていた。

 

 だめ、避けられない!

 

 思わず目を瞑り衝撃に備えた。瞬間、ギョゲッ、と濁った呻き声と、とさりと軽い足音が意識の端に届く。

 来ると思った衝撃は来ない。それどころか、陽射しが急に遮られて影が差している気がする。「遅い」と珍しく不機嫌なマーリン様の呟きが聞こえた。恐る恐る、顔を背けたまま薄く瞼を開けて────

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、金の体躯に緋色の鬣が美しい獣だった。ここにはいないはずの、夫の一番の親友。

 昨日首を抱きしめて見送ったその魔獣は、鋭い牙でキメラの首を噛み砕き、ぶら下げてすぐそこに立っている。

 そして、……そして。

 会いたかった。会えなくて、恋しくて寂しかった。

 誰より愛しい夫の、大きな背中が私を守ってくれていた。

 

「……ひとの妻に、軽々しく言ってくれる」

 

 濃い紫の、長い外套が翻る。

 黒曜石の漆黒の髪が紫の布地に躍った。逞しい右腕からまっすぐ伸びた剣筋は私に襲いかかったキメラの蛇腹を斜めに斬り裂き、返す切っ尖でもう一羽の喉を迷いなく貫いていた。悲鳴も上げずに絶命したその魔物を剣から引き抜き船の下、砂浜へと投げ捨てる。

 一分の隙もない身のこなしで私の一歩手前に滑り込んだ彼は、左腕で私に害が及ばないよう庇いながら、尚も飛翔するキメラ達を真っ直ぐに見据えて立った。

 

 来て、くれた。

 

 ほっとして、今度こそ力が抜けてしまう。よろめいた私をガンドフさんが柔らかい軀でそっと抱きとめてくれた。

 もう、大丈夫。彼が来てくれたから、大丈夫。

 たった一人、ただの人間でしかない彼が駆けつけてくれただけだというのに。どうしてこんなに安心してしまうんだろう。

「渡さないよ。いつまでもこんなことが上手くいくと思うな」

 静かに、しかし確かに怒りを孕んだ声音でテュールさんが鋭く言い放つ。

「お前達こそ、帰って親玉に伝えな。人間は、光の教団が自分達を攫っていることに気づき始めているってさ」

「…………、なんだと?」

 嘲笑うばかりだったキメラ達が一斉に鼻白む。テュールさんは揺らがなかった。私達を取り囲んだ残り数羽のうち、真正面に相対した一羽の視線を捉えたまま、剣を握った拳に今一度力を篭める。

「船は捕まらない。お前達の奴隷にはもうさせない。彼女も、絶対に渡さない。────伝えろよ。あの馬面野郎に、二度とお前らの好きにはさせないって」

 低く、淡々と。抑制して尚、隠しきれない苛烈な怒り。

 こんなテュールさんは初めて見る。

 身が竦むほどの覇気と怒気が。憎しみに満ちた気配が。まるで彼自身の影から立ち昇るように、その足元からじわりと滲み出て、全身へと拡がっていく。

 その背に、後ろ姿に圧倒されながら直感した。

 彼は知っているんだ。この魔物達を従える、『ジャミ』と呼ばれる何者かのことを。

「貴ッ……様ァ……‼︎」

 主への揶揄が効いたのか。憎々しげにキメラ達は歯軋りしたが、そのうちの一羽がはたとテュールさんを凝視した。

「──そうか。お前らが、マザーを殺ったのか」

 テュールさんは微動だにしない。剣先を空に突きつけ睨み据えたまま、押し殺した声で「だったらどうした」と短く答えた。

 ぞ、と昏いものが背筋から私を捕らえる。

 こ わ  い。

 どうしてそんなことを思ったのかわからない。けれど、その瞬間確かに私は、彼に対して言いようのない恐怖を覚えたのだ。

「はッ! ────だったら、全員ブッ殺しちまえばいいだろうがあァッ‼︎」

 苛立ったキメラがついに発狂し、残った十羽ほどが一斉に襲いかかった。剥き出しの殺意が恐ろしくて私はその場に凍りついてしまう、けれどテュールさんがほんのわずかに屈む方がきっと早かった。彼の間合いに達したキメラの首が、翼が、頭が次々に斬られて青黒い血飛沫が飛ぶ。彼の死角はプックルちゃんが軽やかに埋めて薙ぎ倒した。死にきれず回復を試みる者には船員さんやマーリン様が追い討ちをかけた。砂浜の向こうで魔物の群れを撹乱していたピエールさん達もいつの間にか船のそばに戻ってきていて、手が空き始めた船員さん達とマーリン様が加勢した。

 テュールさんとプックルちゃんが戻ってきた。それしか変わっていないのに、戦意の違いは余りにも歴然としている。つい先ほどまで防戦一方だった私達が、今は明らかに優勢で、敵の数をみるみる減らしていた。私は後ろに下がって、ガンドフさんに守られながらホイミンちゃんと一緒に回復を手伝うだけだったけれど、その形勢の変化に愕然とするばかりだった。

 勢いがある。全体がこの覇気に呑まれている。既に空を飛ぶキメラの姿はなく、船上とその周辺は魔物の死骸で埋め尽くされていた。あとは森からつられて這い出てきた魔物を制圧するだけ。テュールさんの剣捌きはいつもよりずっと鋭く、仲魔の皆さん達も何故か異様に殺気立って、ひどく好戦的に見える。

 ……好戦的?

 いいえ、違う。これではまるで、……まるで────

「ふろ〜らちゃん! こっち〜!」

 つい思考に気を取られてしまっていた。ホイミンちゃんの間延びする声に呼ばれて、意識がはっとこちら側に戻る。声を追って船の外を見ると、アランさんのいる場所までの道が拓かれていた。既に周囲に敵はなく、彼の周りには数人の船員が居て囲んでいる。先程から薬を片手に船内を走り回っていたバルクさんが、水の入った筒を掴んで船を飛び降りるのが見えた。私も慌てて船から降りて、アランさんを囲む輪のそばへと駆け寄った。

「アランさん! キト……‼︎」

 尚も意識のないアランさんにしがみつかれる格好でうずくまっていたキトは、私を見るなり「ねえちゃぁん……」と顔を思いきり歪ませた。涙と鼻水、そして砂埃で汚れた髪と頰を撫でたら、堰を切ったようにぼろぼろと大粒の涙が溢れた。

 ──良かった。この子が攫われなくて、本当に良かった……

 気付けの薬湯なのか、バルクさんが急いでアランさんに筒の中身を飲ませ、また、近づいたホイミンちゃんが二人の治しきれていない怪我に治癒魔法を施してくれる。薬湯が効いたのか、朦朧としていたアランさんの瞳にも次第に光が宿り、「あれ……俺、生きてら」と弱く息を吐きながら微かに笑った。

「生きていますよ、大丈夫。アランさんが守って下さったから、この子が無事だったんです……」

 目頭が熱くなる。喉にこみ上げて零れ落ちそうなものを堪えながらアランさんの手を取り、何とか口角を持ち上げて微笑んだ。

「ありがとうございます。本当に、ありがとう……」

 ホイミンちゃんの施術を受けながら私の言葉を聞いていたアランさんが、少しだけ照れ臭そうに笑って、空いた手で頰を掻いた。

「……お嬢様も、ご無事で……良かった」

 なぁんか俺役得だなぁ、なんてへらりと呟いては仲間達に軽くどつかれるアランさんを見ていたら気が抜けてしまったのか、ぽろぽろと温かい雫が頰を伝って落ちた。そんな私をキトが心配そうに見上げてくれて。思わず「大丈夫よ。ほっとしてしまっただけ……」と、頰を撫でて微笑んだ。

「キトおおおぉッ‼︎」

 そんなささやかな安寧は、どこからか響いた野太い男性の声に引き裂かれる。

 吃驚して声がした方を振り返ると、集落の人間らしき人々が数人、それぞれに武器らしきものを持って砂浜の向こうからこちらを見ていた。先頭に立った男性が顔を真っ赤にして私達を睨んでいる。ただならぬ剣幕に思わず身体を硬らせたと同時に、キトが小さく「おっとう」と呟いた。

 キトが襲われていることを知って助けに駆けつけてくださったのだろう。良かったわね、とキトに言いかけた瞬間、身が竦むほどの怒声が砂浜に響き渡ったのだ。

「貴様らあああ‼︎ キトをどこに連れてくつもりだ⁉︎」

 びくり、と身体が震えた。男性は死屍累々の砂浜を物ともせず、ずかずかと死骸を踏み躙ってこちらに来る。その背を追って近づいてくる人々も険しい表情をしていて、ただならぬ雰囲気に船員さん達が皆一様に身構えた。

「こンの悪魔どもがぁッ、俺の息子を今すぐ返せぇ‼︎」

 あまりの剣幕、言われように言葉なんて喉奥に引っ込む。あ、と声も出せずに唇を虚しく動かしたところで、父親らしき男の後ろで憤慨した様子のまた別の男が、少し離れたところで最後の魔物を沈ませたテュールさんを指差し叫んだ。

「おい、あいつだよ! 紫のマントの、旅人風の男!」

 叫び声につられて人々が一斉に、険しい──まるで憎悪に満ちた目で、テュールさんを振り返る。

 どう、して?

 キメラ達のそれは、殺意だった。害意だった。キトを、私を連れ去り、それらを知る人間すべてを消し去ろうとするおぞましい意思だった。殺される、そう思ったら恐ろしくて身がすくんだ。────では、これは何なの。

 この、存在からすべてを否定する、どこまでも酷薄でしかない視線は。

「間違いねぇ。カボチの連中が言ってた奴らだ!」

「魔物とつるんでえれぇ悪どいことしとるってな。残念だったな、全部お見通しなんだよ!」

「神さんを船に掲げておいて、その正体は魔物の一味だと? 信じらんねぇ、ぶっとい神経してやがんな!」

「罰当たりどもめが。悪魔に魂売りやがったか! 仕舞いにゃ仲間割れかよ。とことん救えねぇ奴らだぜ‼︎」

 次々に投げつけられる罵倒の数々。私だけじゃない、船員さんも皆言葉を失っていた。唐突に突きつけられた悪意の塊に為す術もない。少年だけが、よく見知っているであろう身内の豹変に戸惑い、私達の中心にへたり込んで狼狽えているようだった。

「……な、なんだ、みんな。なんでそんなおこってんだよ……」

 おろおろと大人達を見渡す少年に発言権はない。否、それ以前に集落の人々は私達に一切の弁明を許さなかった。父親だと言う大柄な漁師──恐らくアランさんとさほど歳が変わらないくらいの、真っ黒に日焼けした額に大きな傷痕を刻んだ青年が、私とホイミンちゃんをきつく睨みつける。

「青い魔女に青い魔物か。見た目にゃ騙されねぇぞ。キト! 早ようこっちに来い」

 すぐそこまで歩み寄った父親が力強い掌をぐい、と少年に向ける。しかし少年は身体を更に縮こませ、怯えたように首を振った。

「…………っ、やだ」

 ぴくり、と父親の額に浮き出た青筋が震える。じろりと息子を睨むと、キトは益々私の後ろで身を縮めるようにして隠れながら叫んだ。

「おっとう、なんかこわいもん! やだっ‼︎」

「キト……てめぇ……!」

 怒り心頭の父親の気迫に私まで畏怖を感じる。恐らく力づくで連れ出そうとして父親が近づき、反射的に私の背後に逃げ込んだキトの気配につい、身体を割り込ませてしまった。

「きゃ……っ!」

 当然ながら邪魔だと言わんばかりに突き飛ばされ、腰を浮かせた船員さん達が一斉に気色ばんだ。が、後頭部から倒れそうになった私を抱きとめたのはテュールさんの広い胸だった。戦闘を終えたばかりで駆けつけてくれた彼は、まだ早い鼓動を呼吸で落ち着けながら慎重に、穏やかな声音を保って少年の父親に話しかけた。

「落ち着いて、頂けませんか。申し訳ないが僕には話がよくわからない。ご子息が我々の戦いに巻き込まれてしまったのでしたら、心からお詫びを────」

「このッ……、化けモンが! 汚ねぇ手で触ンな‼︎」

 ばしん! と、拒絶の音が響く。

 なんとか宥めようと差し出された手は非情なまでに振り払われた。穢らわしいものを疎む眼で父親は私とテュールさんを睨みつける。思わず息を呑んだ私の肩を、テュールさんがそっと抱いた。優しく、やわらかなもので包むように。

 痛いのはあなたの方なのに。見上げたあなたは苦しみなど呑み込んでしまったみたいな、ひたすらに落ち着いた、優しさすら感じる濃紺の眼差しで父親を見つめていた。

「俺達の目ん玉が黒いうちはこれ以上悪さはさせねぇぞ! とっととどっか行っちまえ!」

 後ろで私達を見つめていた一人が足元の砂を掴んで投げつけた。それに続いて二人、三人と、再び口汚く罵りながら砂を、石を次々と投げつけてくる。咄嗟にテュールさんの腕が庇ってくれたが、それでも降り注ぐ砂が目に入りそうで額に手をかざしたところで、側にいた船員さん達が数名、ついに堪りかねて腰を浮かせた。

「いい加減にしろ‼︎ 貴様ら、この方々を誰だと────」

 叫びかけた船員さんをすかさず制止し、立ち上がる。

 庇ってくれるテュールさんの腕も振り解いて数歩、前に出た。砂と共に投石が額や身体に当たって、息を呑んだテュールさんがほとんど反射的に駆け寄ろうとしてくれた、けれど私が腕を伸ばして止めた。

 何も言って欲しくなかった。表に立たせたくなかった。

 これ以上あなたは聞かなくていい。全部私が受ければいい。

 ……もう、我慢の限界だった。

「おやめ、ください‼︎」

 どこから出たのか、腹の底から自分でも驚くほどの大きな声に、あんなにも騒ぎ立てていた人々がぴたりと動きを止めて私を見る。もうとっくに慣れたと思っていた、自分達とは違う得体の知れない何かを厭う、いびつな目をして。

 

「そのような誹りを受ける謂れはありません。……私の夫は、ここにいらっしゃる皆様は、天に恥じる行いは何一つしておりません‼︎」

 

 ただ、ただ、憤ろしかった。

 どうしても許容できなかった。

 何も知らないひとに、どうしてここまで悪し様に言われなくてはならないの。

 どんな想いで、あの子が救いを求めたか。どんな想いでアランさんがあの子を守ったか。体調が万全ではない、剣もいつものものとは違う短剣で、それでもピエールさんとスラりんちゃんがどうして、子供に拒絶される可能性を恐れず真っ先に前線へ庇いに出たのか。

 カボチの噂がなんだというの。紫の外套が、あなた方に害を為したとでも言うの。

 悔しくて、口惜しくて、握り締めた拳が震える。喉も目頭も熱くて痛くて、それでも瞬き一つできない。

 立ち尽くした私を、漁師達に楯突き彼らをまっすぐ見つめた私を、当の漁師達はいかにも気まずそうに言葉を飲み込み、私の後ろにいる少年と私とをちらちら見比べていたようだった。

 私を魔女呼ばわりすることなんて、どうだっていい。

 知っています。私だって所詮、ルドマン家の名がなければそんな風にしか見られないってこと。

 こんな青い髪、きっと誰も見たことがないもの。私だって、私以外に見たことがないのだもの。

 だから、私を忌避する人々を責めはしない。幼い頃からそうだったのだから、今更私は傷ついたりしない。……でも。

 痛かったの。すごくすごく、苦しかった。

 何も悪いことをしていない彼が、仲魔の皆さんが、ただ一方的に責められてしまうことが辛くて、耐えられなかった。

 きっと、優しい皆さんは全部飲み込んで微笑むんだろう。仕方ないよって。よくあることだよって、後できっと笑うのだろう。

 今回だって最後は結局、そうやって収まるのだろうと思う。こんな訴えで劇的に何かが変わるなんて思ってない。そこまで子供じゃない。

 わかっていても、黙ってやり過ごすなんて出来なかった。

 ────許せない、なんて、

 初めて思った。

「……もう、やめろよ。ねえちゃんも、にいちゃん達も、そこのまものだって……おれを、たすけてくれたんだよ」

 ぐしゃぐしゃの泣き顔を拭いもせず、私の後ろで項垂れていた少年は、小さな身体から私以上に憤りを滲ませた震える声を絞り出す。

「なんでおこるんだよ! おっとう、おれがしんでもよかったのかよ! おっかあみてえに……まものにやられちまっても、よかったっていうのかよ⁉︎」

 ────ああ。

 やはり、という思いが胸を掠める。キト、あなたのお母様は。

「ふ……ざ、けんな、キト‼︎ 俺ぁ、おめえをそんな餓鬼に育てた覚えはねえぞ‼︎」

 他ならぬ息子に糾弾された父親は、益々頭に血を昇らせて烈火の如く怒り狂う。居並ぶ私達を次々に睨んで、最後にキトを──怒りの中にほんのわずか、哀しみを湛えて、見つめた。

「よりによって魔物連中に誑かされるたぁ、おっかあに合わせる顔がねぇ。性根叩き直してやる! 来い!」

 私達の間を割ってずかずか近づいてくるなり、少年の腕をぐい! と捻り上げる。無理矢理片腕を引き上げられた少年が、宙ぶらりんで足をばたつかせ悲鳴を上げた。「おやめ下さい! 肩が外れてしまうわ!」と思わずその腕に追い縋ったが「触るなってんだよ、薄気味悪ぃ魔女が‼︎」とすぐさま突き飛ばされた。側にいらしたテュールさんがまたもや抱きとめて下さって、黙って私の濡れた頬を拭い、額と肩に回復魔法を施してくれる。あたたかな腕に捕まえられて私はそれ以上何もできず、引き摺られて泣く少年を唇を噛んで見つめるばかりだった。

 キトを掴み、踵を返した父親の前にフォスター船長が立ちはだかる。彼も眉間に皺を寄せ、ひどく苦い表情だったが、極々静かな声で騒ぎを起こしたことを詫び、なるべく早めに立ち去るから今は引いて欲しい、と感情を抑えて告げた。

「すぐに片付けて、場所を移しましょう。夕方にはここを離れます」

 頷いたテュールさんが、ご迷惑をおかけしてすみません、と小さく呟いた。船長が緩く首を振り、ごく微かに微笑んで彼の肩を軽く叩く。

 キトを連れた一行は船長の言葉にも一言も返さず、泣きじゃくる少年を担ぎ上げて砂浜の向こうへと歩き去ってしまっていた。

 ひどく後味の悪い雰囲気の中、それぞれが重い腰を上げて手当てと片付けのため、のろのろと船へ戻って行った。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Tyr】

 

「……無茶、するんだから」

 ほとんど傷が癒えた、白い滑らかな額をそっとなぞった。痕が残ったらと思ってついベホイミを重ね掛けしてしまったけれど、それでも碧い生え際に尚も薄っすらと傷痕が見えてしまう気がするのは、情けない自分の負い目に依るものなんだろう。

「────ごめん、なさい」

 謝る必要なんて欠片もないのに。二人きりの船室で、椅子に腰掛けた君は膝の上に両手を揃えて俯いたまま、小さく小さく呟いた。

「どうしても、……黙って、いられなくて……」

 ほどけて、くしゃくしゃに乱れた髪が細い肩に流れてかかる。労しくて、痛ましくて、それでも綺麗に背筋を伸ばした君がたまらなく愛しくて。衝動に任せて抱きしめてしまいたいのを、爪を握り込んで必死に堪えた。

 フローラから聞いた話はこういうことだった。昨日の夕方、さっき砂浜で会った少年がこの船に入りこんできたのだそうだ。上手いこと船員の監視を逃れた少年は、この船室まで忍び込んでフローラに出会い、彼女にすっかり気を許して更なるお喋りをせがんできた。しかし遅い時間だった為、フローラは少し思案した上で、僕が一緒ならいいかと今日の夕刻再び会う約束をした。だがついさっき、砂浜で件の少年がキメラに拉致されようとしているところを見張り中の船員が発見した。その救出の為に、今回の戦闘に至ったのだと。

「……本当にごめん。言葉が足りなかった。君の碧い髪だけじゃなくて、やっぱりヘンリーも、翠の髪を理由に攫われたっていうのがあったみたいで」

 罪悪感に潰されそうになりながら、なんとかそれだけ告げる。彼女の翡翠の虹彩がわずかに揺らいで僕を見た。その真っ直ぐな眼差しに、僕の浅はかさを見透かされた気がしてひどく、居た堪れない心地になった。

 ちゃんと僕がそこまで噛み砕いて話をしていたら、フローラならばその少年もまた魔物を呼んでしまうかもしれないという推測に至れただろう。実は帽子を落として行った、という付加情報があったなら、余計に。

 セントベレス山の奴隷達がみんな変わった髪の色だったわけじゃない。純粋に労働力として拉致された人が多かったのだろう、とは思う。それでも、それとは別に間違いなく、あいつらは何らかの目的の為に『誰か』を執拗に探している。空恐ろしいことにその『誰か』の条件を、フローラは限りなく満たしているらしい。

 ────さすがに、こんなところであいつの名前を聞くことになるとは思わなかったけど。

 ジャミ。ゴンズ。ゲマ。この三者の名前は、どんなに忘れたくとも自分の中から消し去ることなど出来ない。

 無抵抗の父を手加減なしで嬲り殺しにした、あの愉悦の滲んだ醜い表情を忘れることなど出来ない。セントベレス山での十年間は姿を見ることも、名を聞くこともなかった。あの悪魔達はこの教団に関わっているんだろう、そう思うばかりで時が過ぎてしまった。

 こんな形で、奴らと教団との繋がりを再確認することになるなんて。

 こんなこと、彼女の前で気にしたくもないのに。

 振り払おうとしても尚、思い返されてしまう忌まわしい記憶をどうにか打ち消してしまいたくて、無意識のうちに彼女から目を伏せた。

 

 

 今朝は予定通りに早朝宿を発ち、船を停泊した岸へと順調に向かっていた。荷を積んだ馬車を軽やかに引くパトリシアを励まし森の中を疾走していたら、突然海岸線の方から眩い閃光が一瞬、走った。

 昼前だからなのか、往路ほど魔物に遭わなかったので妙な気はしていた。光の正体はわからなかったが、すぐに思い当たったのは先日スラりんが使っていた古代の破邪魔法、ニフラムだった。あれを用いると言うことは、今すぐにでも減らしたい敵の大群が迫っているということで。

「何か、あったんですかね」

 速度を上げ、がたごとと激しく揺られる荷台の中でロニーさんが不安げに幌の外を覗いた。

「ええ。多分」

 胸騒ぎは的中した。やっと見えてきた森の切れ目に、魔物が大挙して蠢いている。が、様子がなんだかおかしい。僕達を見て襲い掛かるかと思いきや、突撃兵が仲間であろうスモールグールを突き倒していたり、パペットマンはあらぬ方向にひたすらぐねぐねと踊っていたりする。これはまさか、と思ったところで「あーっ! ごしゅじんさまだーっ!」と能天気な声がした。

「スラりん⁉︎ 何があった? 船のみんなは?」

「奥方殿はマーリン殿らに任せた。こちらは見ての通り、撹乱中よ!」

 もうひと方、跳ね回るスラりんに向かって息を吸い込んだスモールグールを背後から襲って叫んだのは、重傷を負って休んでいたはずのスライムナイトだ。益々驚き、僕もまたプックルと共に馬車を飛び降り、加勢しながら叫び返した。

「撹乱⁉︎ 二人だけでか。身体は大丈夫なのか、ピエール⁉︎」

「得物がこいつなこと以外は問題ない! それよりあるじ殿、キメラが────」

 手に持った短剣をかざして見せたピエールを振り返った、その瞬間だった。さっきの閃光に似た真っ白な、しかしひどく温かい光が、船の方から放たれて辺りを埋め尽くしたのだ。

「────、え?」

 驚いたのは僕だけではない。ピエールも、スラりんも動きを止めて船の方を見た。生憎ここからでは船の様子はわからない、が、今の光は絶対にスラりんの魔法ではない。

「……何だ。今の……」

「早く戻られよ。あるじ殿」

 僕より早く周囲の魔物に意識を戻したピエールが鋭く叫び、即座に後方に爆破魔法を放つ。傷ついて起き上がろうとしていた魔物達が、爆風に煽られ悲鳴を上げた。

「奥方殿だけではない。子供が一人、狙われている。船の者らはどうやら、陸での戦いに不慣れのようだな」

 再び反射的に船の方を見遣って、息を呑んだ。キメラ達が十数羽、大きく旋回しながら船を取り囲もうとするのが見えた。しかし本当に大丈夫なのか、もう一度二人に問おうとしたところで「めーだっぱにーっ!」と気の抜けた詠唱が響く。ああなるほど、魔物達の様子がおかしかったわけだ。ガンドフに続きスラりんまで、いつの間に新しい技を習得していたのか。

「あちらの手が空けば逆にこやつらを誘導致す。心配は無用」

 頼もしい相棒の言に頷き、無理はするなよ、とだけ返した。馬車に駆け戻り、買ったばかりの鋼剣を急いで引き摺り出す。「ピエール!」と一声呼んで、鞘ごと投げた。

「……かたじけない!」

 にやり、と笑ったらしいのがわかった。鞘を構え、柄を握った彼はそれだけで纏う空気をがらりと変える。大丈夫そうだ。ほっとして、僕も意識を切り替えた。馬車を見渡して、真っ先に目があったテオさんの方へ身を乗り出す。

「テオさん、馬車を動かしたことはありますか?」

 気圧される形ではあったが、頷いてくれた。内心安堵しつつ視線を船へと走らせ、もう一度彼らを振り返る。

「良かった。ロニーさんと一緒に森の中を迂回して船へ戻ってもらえますか? 魔物は仲魔達が引きつけてくれているので、大丈夫だと思います」

「ええ、良いですとも。……ですが、テュールさんは?」

 不安げな彼らの視線を受けて、一瞬悩んだ。とにかく一秒でも早く船へと駆けつけたい、けど。

 これだけの魔物がひしめいている中、ただでさえ足を取られる砂地を駆け抜けるのは難しい。それは馬車でなくとも多分同じだ。ここから直線距離で飛び出したら、あっさりと足止めを喰ってしまうだろう。

「────、プックル」

 時間がない。思いきって呼びかけると、早くしろ、とばかりに数歩先をトトンと歩き、僕に背を示して振り返る。

「……ありがとう。背中、借りるね」

 初めてプックルの、意外と大きくて広い背に跨って。僕が体重を預けるなり、プックルは力強く土を蹴り、森林と海岸のぎりぎりの境界線を一瞬で駆けた。木陰から跳ぶようにもう一度走り、船の向こう側へと着地する。どうやらフローラに気を取られているキメラ達にも、船員達にも気付かれることなく、僕とプックルは船の陰に回り込むことに成功した。

 そこで僕は、あの忌まわしい名前を聞いたのだ。

 

 

 フローラだけは渡さない。

 それだけがあの時、僕の、人としての正気を留めた。

 それがなければきっとあの昏い感情に呑まれていた。十年以上、溜め込んできたどす黒い、憎悪。抑えようと思っても、考えまいとしても、一度あの名を聞いてしまったらもう無理だった。

 そんな、負の感情にほとんど呑まれるような僕だったから。その後の、まるでカボチ村のときのような、疑心で凝り固まった集落の人々の言い分にも、きっとその裏にある魔物への憎悪にも、僕には反論できるだけの薄っぺらい正義感も、意志の強さも持てなかった。

 魔物を憎んで何が悪い。ご家族を喪ったなら尚のこと、彼らが魔物と親しむ僕を憎む気持ちはよくわかる。

 誤解だ、とせめて伝えるくらいしか出来ない。その想いを否定することなど出来ない。

 ────そんな僕の、情けないほどの甘さが、

 君にまた、負わなくていい傷を刻み付けることになるんだ。

「…………、ごめん」

 絞り出した言葉は結局、やっぱりどうしようもない、意味のない謝罪でしかなかった。

 フローラがまた綺麗な双眸を持ち上げて、慈愛の込められた眼差しで僕を見る。

「いいえ。以前もちゃんと、ヘンリー殿下の件はお聞かせくださっていたのですから。思い至らなかった私が浅慮だったのです。……寂しさにかまけて、愚かでした……」

 澄んだ声でそう言って、彼女はまたドレスの裾をきゅっと握りしめる。

 寂しさに、かまけて。こんな時なのに、その一言にこんなにも心が踊ってしまう自分にまた辟易する。

 君に求婚しようと、してもいいのかと逡巡したあの時、何度も何度も打ち消した考えが、今更脳裏を過っていく。

 所詮僕には、君を幸せになんて出来やしないのだと。

 当たり前の生活なんて送らせてやれないんだ。ずっと一緒に居たいと思ったらこんな風に、君を連れ出して危険に曝すしかない。サラボナにいればしなくていいはずの苦労をさせる。する必要のない嫌な思いをさせる。わかりきっていたことじゃないか。

 恐れていた場面に直面させた。僕が原因で、彼女を矢面に立たせて、ただ茫然と見ていることしかできないなんて。

 君の心ひとつ守ってやれなくて、何が夫だ。

 こんな男に、君の隣に居る資格なんてない。

 その優しい眼差しを、愛情を受け取る資格なんてない。

「……テュール、さん……?」

 顔を上げられず、深く俯いたままの僕を訝しんだフローラが、心配そうに僕を見上げて様子を窺ってくれる。

「どこか、お怪我を、……」

 そうして白い、小さな手を僕の頰に差し伸べてくれる、たった一日ぶりに会った愛しい、優しい妻を。

 その華奢な身体にほとんど衝動的に覆い被さり、抱きしめた。

 

 

 折れそうな身体が、よろめいて僕にしがみつく。

「っ……、あ、あの」

 僕の腕にすっぽりと捕まった、君の鼓動がとくんと伝わる。

 突然の抱擁に戸惑い、彷徨わせた手で背中をそっと撫でてくれたやわらかな君の身体をもう一度固く、きつく抱き込んで。

「……サラボナに、帰る?」

 抱きしめた耳許に、吐息だけの囁きを落とす。腕の中の君がびく、と強く背中を震わせた。

 その碧い髪をもう一度、そっと梳いて、また抱きしめる。

 離したくない。離したくない、離れたくない。

 そんな、自分本位な欲求の所為でこれ以上、彼女を苦しめるくらいなら。

「今なら、帰れるよ。お屋敷の中ならきっと、ここよりずっと……安全だ」

 僕の望みなんてどうでもいい。本当に、どうだっていいんだ。

 僕に抱きすくめられたまま、君は息を殺している。背中に回した手で外套を掴んでぴくりとも動かない。まるで作り物みたいに固まってしまった彼女を暫く抱きしめ続けて────まさか強く締めつけすぎて気絶させてしまったんじゃ、などと不安になり確かめようとしたところで。

 消え入りそうな、儚い、か細い囁きが耳を打った。

 

「────重荷、でしか、ありませんか。やはり」

 

 どうして、そんなに哀しい声で、訊くの?

 心臓が一瞬、止まった気がした。恐る恐る腕をほどいて見下ろしたら、君の綺麗な、翡翠の瞳が真っ直ぐに────透明な涙を必死に堪えて、見開いたまま迷いなく、僕だけを射抜いていた。

「わ──私、わたし、は……、足手まといで、しか……ありませんか……」

「……違う」

 乾いた喉から、意図せず否定の言葉が零れ落ちて。

「違う……違う! ただ、もう、……こんな風に君を苦しませるのは、……嫌、なんだよ……‼︎」

 止まらなかった。一度言葉にしたら、溢れてしまう。ずっとずっとずっと、胸の奥底に封じ込めてきたものが。

 不安だってことからもいつしか目を背けていた。君がいてくれれば幸せだったから、それで良かったから見なくて済んだ。そうやって先延ばしにした結果が、今日だ。

「幸せにしたいんだ。誰より幸せでいて欲しいんだ。それなのに、僕には君を傷つけることしかできない。辛い思いしか、させてないじゃないか。危険な場所に連れ回して、倒れるまで魔法を使わせて、あんな思い……あんな嫌な思い、させたくて求婚したわけじゃ」

「そんなの、勝手に決めないで!」

 強い、君の声が僕の情けない独白を堰き止めた。思わずぴくりと震えた胸元を、くしゃくしゃの白い旅衣を華奢な拳が掴んで。

 濡れた眼差しが、それでも強い光を放って、僕を貫く。

「どうして。私の幸せ、願ってくださるというなら────どうして、私が今、幸せではないなんて仰るの」

 

 ────瞠目、した。

 

 そんなことを思うのはおこがましいって、

 心の何処かでずっと、思っていた。

「しあわせ、ですよ? 私は。何度もお伝えしているではありませんか。あなたに出会って、知ってしまったの。こんなにも満たしておいて、今更」

 一言、ひとこと紡ぐたび、君が少しずつ、揺らいでいく。

 涙の重みに引っ張られるみたいに、君が段々と崩折れていく。

「……私は、もう、……あなたが居なくては、立っても居られないのに……っ」

 いつだってあんなにも美しく、背筋を伸ばしている君が。

 今や君は僕の胸に縋りつき、静かに静かに泣いていた。声を殺して、華奢な白い肩を小刻みに震わせて。

 美しい翡翠の双眸から溢れた大粒の涙がぽろぽろと降り落ちて、指先を、僕の服を濡らしていく。左手の、白銀の指輪がぽわりと淡く発光して。

 

 ああ、

 もし今、魂を形にして視ることができたなら、

 きっとこれ以上ないほど、震えているのだろう。

 

 もう一度、躊躇いながら彼女の肩を抱き寄せる。

 小さくぴくりと震えた君は、嗚咽を懸命に堪えながら濡れた頬を僕の旅衣に擦り寄せてくれた。

 心許ないほど細い肩に、頭の小ささに、その甘やかな温もりと花の香りに、抑え難い愛しさが込み上げる。

 そうだ。

 はじめに秤にかけたのは僕だったじゃないか。

 彼女を望んで、彼女を不幸にするかもしれないと思うことは怖かった。けれど、それ以上にいつしか、彼女と離れることの方が辛かった。

 もう手放せない。そう、覚悟を決めて来たはずなのに。

「……ごめんね。全然、守ってあげられなかった。僕の所為であんな────あんなこと言わせて、……ごめん……」

 胸許の碧い髪を梳きながらもう一度、詫びた。手をついて、身体を起こした君がふるふると首を振り、淡く微笑む。

「いいんです。私の知らないところで、あなたが傷つく方が……もっと、ずっと辛いの」

 そうして、あたたかな掌が僕の両頰をふんわりと包み込んだ。驚き眼を見開いた僕にそっと顔を寄せた君が、とん、とわずかに触れるだけ、唇を奪って。

「半分、下さい。あなたの苦しみ、哀しみを、いつだって。あなたの辛さを、誰にも分けてあげたくない。私だけに、欲しいの。……そんな我儘を、許していただけるなら」

 そんなの、幸せすぎておかしくなる。

 首に腕を絡めた君が、きゅっと温もりを僕に押しつけた。優しい抱擁と共に、想いに満ちた声が、降る。

「おかえり、……なさい」

 鈴のような澄んだ響きが、耳に直接こだまして。

 愛してやまないあの花の香りに包まれ、まるで夢の中にいるような幸福感に抱かれて、僕はゆるやかに瞳を閉じる。

「……うん。ただいま……」

 ここだけが、僕の還る場所。

 頭を持ち上げた君の頬に手を添えて、そっと唇を塞いだ。瑞々しい果実みたいな、やわらかな君の甘さを妙に懐かしく感じる。重ねたところから君の優しさが、幸せがじんわりと広がって。くたびれきっていた心が次第にあたたかなもので満たされ、癒されていく。

 そういえばここのところ慌ただしくて、ちょっとしたキスもしていなかったかもしれない。船出からずっと、色々あって気を張っていたりしたから。

 好きだ。やっぱり、どうしようもなく君が、好きだ。

 繰り返し何度も啄んで、は、と熱っぽい吐息と共にやっと唇を離した。目が合ったら何だか気恥ずかしくなって、どちらからともなくくすくす小さく笑い合ったところで、船室の窓を誰かがトントン、と軽く叩く音がした。

「ごしゅじんさま〜。ふろ〜らちゃん、いる〜?」

 

 

 

 何故か窓から呼びに来たホイミンに連れられ、フローラの手をひいて船の外に降り立った。あんなことがあったからだろう、船員達の士気は低く、襲撃を受けてめちゃくちゃになった甲板を片付けている最中だった。船の横に戻っていた馬車を見てほっとする。テオさん達にはさっき会えたから心配はしていなかったが、改めてパトリシアの首を撫でて、その働きを労った。

 ホイミンは周りをちらちら見つつ、船の近くの岩場へと向かう。先にホイミンから耳打ちされていたフローラには目的が分かっているようだが、促されるままついてきただけの僕にはどこに向かっているのかもよくわからない。でも、なんとなく予想はしていて──程なくそれは的中した。その岩場のちょうど向こう側に、予想した通りの小さな人影がうずくまっていた。

 フローラを振り返ると、どこかほっとした表情で頷いた。手の中に握り締めた例の帽子を抱いて、そっと岩場に近づく。

「逃げ出してきてしまったの?」

 彼女の優しい呼びかけに、少年の背中がびくりと強張る。

「本当に、かくれんぼが上手ね」

 僕の胸まで熱くなるほど、フローラの声はただただ優しい。腫れ上がった痛々しい顔をこちらに向けた少年が、フローラを認めてみるみるうちに顔を歪ませた。

「ねえちゃんん……」

 涙と、打撲痕が痛ましい彼の頰をフローラが屈んでそっと撫でた。掌に淡い魔法の光が宿っている。きっと温かいその光で、彼女は目に見える傷を一つ一つ丁寧になぞり、癒していく。

「私は平気よ。ごめんなさい、あなたのお父様を怒らせてしまった……」

「ごめん……ごめん……っ」

 ついてきたホイミンも心配そうにふわふわ近寄って、フローラに追従し少年の肩や背中に治癒魔法をかけた。泣きじゃくる少年がぐしゃぐしゃの目許を懸命に擦り、二人を交互に見つめて「あ、……ありがと」と呟く。どこか緊張の面持ちだったホイミンも、そんな少年を見てふにゃりと笑った。

「他に、痛いところはない?」

 ひとしきり回復を施して、フローラが少年に訊ねた。少年はぶんぶんと首を振り、「まほうってあったかいのな。なおしてもらったの、はじめてだ」と赤い目許ではにかみながら答えた。子供らしい、屈託のない笑顔にこちらまで心が温かくなる。

「一つだけ、聞いてもいいかしら。……どうして、この船に忍び込んできたの?」

 静かなフローラの問いかけに、少年が哀しげに虹彩を揺らし、すぐに目を伏せた。

 また泣き出しそうになった彼の、ぎゅうっと握りしめた拳にそっと掌を重ねて。妻はただ黙って、どこまでも優しく見つめて、少年の答えを待っている。

 ……ざぁ、ん。と。

 暫く、海岸に打ち寄せるさざ波の音ばかりが切なく響いて。

 どれくらい経っただろうか。ぽつりと、少年が呟いた。

「おっかあ、のってるかもって……おもったから……」

 フローラが、僕が。ずっと黙って見守っていたホイミンも、ほんのわずかに息を止めた。

 

 ただ、母に会いたい、一心で。

 

「だって、おっかあ、かみさまんとこいったって、おっとうがいってたから」

 ぽつり、ぽつり、淡々と。

 たった五、六歳の稚い少年は、恋しさも、哀しさも窺わせない声で語った。

 深く俯いたその姿に、亡くした親を恋しがり泣いた、かつての自分を垣間見る。

「……そう。そう、ね……」

 小さく小さく膝を抱きしめた少年の頭を、フローラが包み込んで抱いた。彼女の腕に包まれた背中が、しゃくりあげるように震えたのが見えた。

 まるで昔の自分をもあの腕の中で慰められている気がして、締めつけられる胸を抑えて立ち尽くす。

 竜神の帆を掲げた、神の船。

 僕にとって意味などなかった。その信仰の深さ、少年にとっての意味を、今、目の当たりにして思い知る。

 この子の母親が魔物に襲われて亡くなったのか、フローラのように狙われて連れ去られたのかはわからない。

 けれど、きっとこの子を最後まで守ったんだろう。愛しい我が子のため、その身を犠牲にすることも厭わずに。

 彼女の御霊が安らかであるように。祈ることに意味がないなんてことは決してない。

「キト。ひとつ、約束してくれる?」

 うずくまった少年に優しく囁いて、フローラは座り込んだ膝の上に畳んで置いていた茶色の帽子を広げる。少年の頭には少し大きく感じられるそれを、彼女は両手でそっと持ち上げ、彼の頭に載せた。

「外に出る時、必ずこの帽子を被って欲しいの。きっとあなたを守ってくれるわ」

「ぼうし? ……あ、これ」

 頭に何か載ったのを察した少年がおでこをぺたりと撫でて、ああ、と小さく頷いた。

「そっか。おれ、ねえちゃんのとこにおとしてたんだ」

 持ち主の元に帰った帽子をまた優しく撫でて、フローラは彼の焦げ茶色の瞳を覗き込む。

「それでね、いつかきっとまた会えるから──そうしたら、たくさん冒険のお話をしましょう?」

 フローラの提案に少年はがば、と顔を上げた。彼の瞳の奥が星みたいにきらりと輝いた。それはどこか、フローラと何度か見上げた夏の夜空の煌めきに似ているような気がした。

「あえる? ほんとか?」

「ええ。あなたが私達を忘れなければ、きっと」

 フローラはまた聖母の如く微笑み、少年の両手を優しく包み込んでしっかりと握る。

「その時には、きっとキトは大きく、強くなっているわね」

 ────だから、生きてね。

 僕には、フローラの言葉がそんな風に聞こえた。

 少年がまた頷いて、にかっと人好きする笑みを浮かべた。つられてフローラもまた微笑む。優しい、穏やかなひと時に、見守る僕とホイミンも心を揺らされる。

 もう、悲しいことなど起こらないでほしい。誰もあんな風に泣くようなことにはならないでほしい。

 剣を捨てられない、魔物達と共に戦うことを選んだ僕がそんなことを願うのはそれこそ、おこがましいことだろうか。

 ふと、少年がフローラの後ろに佇んだ僕を見た。首を傾げたフローラと僕とを交互に見遣って、やがて期待と戸惑いが綯交ぜになった表情で、彼は遠慮がちに問いかける。

「……なぁ。そのひと、ゆうしゃさま?」

 子供の純真無垢な問いかけは、時に無邪気なほど残酷だ。

 父の墓前でそんな報告ができたらどんなに良かったか。

 ……残念だけど、勇者じゃないんだ。

 苦笑いし、身を屈めて僕がそう答えようとした、その前に、

 フローラがふわりと微笑んで────頷いて、答えた。

「ええ。世界で一番、強くて勇敢な……魔物遣いの、勇者様なの」

 

 

 

 アランさんをはじめとした船のみんなにも、よくよくお礼と謝罪を伝えて欲しい、と告げて、少年は帰っていった。そのまま一人で帰すのは心配だったけど、まだ明るいから大丈夫、と少年が言うので、砂浜を駆けて帰る少年を船の傍に立って見送った。

 帽子を抑えて走っていくその先に、よく日焼けした巨体が立っているのが見えた。またあの子が叱り飛ばされてしまうのではないかとひやりとしたが、遠目に見た限り父親が少年を咎めた様子はなく、ちらりと一瞬こちらを一瞥しただけで息子と合流し戻っていった。

 ────和解出来たなら良かった。母親を亡くして父と二人きりの彼に、僕が原因で仲違いなんてして欲しくはないから。

「帆も、取り替えようか。海峡は制圧したんだし……今回みたいなこと、また起こらないとも限らないし」

 夏の日差しを浴びてはためく竜神の帆も、この短期間に随分汚れてしまった。船を修理する間に下ろして洗っておくのも良いかもしれない。

 それに、やはりルドマン家の紋章を掲げている方が、厄介ごとは少なくなるのかもしれない。結局は義父の権威を借りるようで、あまり良い気はしないけど……この船の方々から見れば先ほどの言い掛かりなど、ルドマン家の人間が受けて良いものではなかっただろうから。

 そんなことを思いながらフローラを振り返ったら、彼女は何故か表情を曇らせぼんやりと帆を見上げていた。

「フローラ?」

 呼びかけると、は、と瞬きをして僕を見る。

「ごめんなさい。やっぱり、そこに戻りますよね……と思ってしまって」

 どういうことかと彼女の困ったような顔を覗き込んだら、彼女は少しばかり逡巡してから……ゆっくりと自分の胸の内を探って、きっとここ数日一人積もらせていた悩みを、ぽつぽつと話して聞かせてくれた。

 ────『ルドマン家のフローラ』ではない、私になりたかったのです。

 あなたがきっぱり、若旦那とは呼ばないでほしい、と伝えて聞き入れられたと聞いた時、とてもとても羨ましかった。

 この船に乗っている限り、私は『ルドマン家のフローラ』であることを思い知らされる。

 もう、父の威光を着るのではなく、ただ一人の私として立ちたい。皆さんにも『ルドマン家のお嬢様』ではなく、フローラ・グランとして接してほしいんです。

 だから今、一人でできることはできるだけ、一人でやりたいのだと。彼女は言った。

「お気持ちは、とても嬉しいです。でも、皆さん口々に、『お嬢様にそんなことはさせられない』と仰います。私はもう、お嬢様ではありません。……お嬢様ではない、ただ、あなたの妻でありたい……」

 得心した。だから、彼女は僕にしか甘えられないんだ。この間仲魔達の食事を運んでいた時も然り、何かと手伝いをせがんで動き回るのも然り。令嬢ではない、客分でも主人としてでもなく、自分自身に意味を見出したくて、彼女は彼女なりに足掻いている。

 確かに、僕は君を仕えるべき令嬢として扱ってはいない。夫として妻として、あくまでも僕達は対等で。家柄もしがらみも関係なく、きっと初めからお互いに、等身大の相手だけを見ている。

 それが当たり前だと思っていた。けれど君にとっては、そんな風に思い合えることがもう、特別だったんだね。

「うん。……フローラ。────きっと、この船の人達は、君が『お嬢様』でなくても手助けしてくれるよ」

 静かに囁いた、僕の手探りの言葉に。君がふっと、顔を上げた。

 そよ風が撫でたみたいに意識を僕に向けた彼女は、思いがけぬ一言に胸を衝かれた、という顔をしていた。

「きっと……僕が、君の夫でなくても。パパスの息子でなかったとしても……助けてって言ったら、手を貸してくれたと思う。────だから、大丈夫だよ」

 上っ面の綺麗事に聞こえてしまうだろうか。

 でも、フローラ。こんな僕にも、信じてみたいと思える出来事があったんだ。

 慈しみを込めて、頬を撫でる。戸惑いを瞳に映し僕を見上げる、誰より愛しい、僕の妻。

 自分はこんなことを言う人間ではなかったのに、いつの間にこんなに丸くなったものか。

「僕と違って、君は生粋のルドマン家の人間だからね。さすがにすぐには難しいかもしれない。でも、……それだけは、信じてもいいんじゃないかな。君は君として立てばいい。その気持ちがわからない人達じゃないよ」

 長い睫毛が再び伏せられて、はい、と掠れた返事が聞こえた。僕のこんな言葉で何かが変わると思ってはいないけど────彼女の気鬱を、ほんのわずかにでも軽くしてあげられたら、と心から願う。

 僕の苦しみをいつだって半分背負ってくれる君を、支えてあげられる男でありたい。君がそうであってくれるように。

「いっぱい、話したいことがあるんだ。……宿に向かってた時にね。あと、宿でも面白いことがあって」

 ふと昨夜、君が恋しかったことを思い出して。思いつくまま、言葉を並べてみる。

「ああ、ここにフローラが居たら良いのにって。何度も何度も思っちゃって……なんか、駄目だね。離れてたった半日だっていうのにさ、寝るときなんかすごく、寂しくてたまらなかった」

 言ってるうちに気恥ずかしくなってしまって。顔を逸らしたまま繋いだ手を、指を絡め直してきゅっと握ったら、君がその腕にもう一方の手を添えて、そっと額を押し当てた。

「……私……、私も、です」

 外套の端を掴み、真摯な眼差しで見上げてくれる君が可愛くて。つい緩んでしまう頰をそのままにやけた微笑みに代えて、彼女の耳許に顔を寄せる。

「今夜、魔物番から戻ったら……起こしても良い?」

 どんな顔をしたものか、俯いた彼女が一拍置いてこくり、と頷いてくれた。

 覗き込んだら、赤らんだ顔で「起きています」と言いたげに僕を見ていたので、「ちゃんと寝ていてね。隈ができちゃうよ」と揶揄い半分に、愛らしい涙袋をそっとなぞった。

 君を抱きしめて眠りたいと思ったんだ。ちゃんと『おやすみ』を言い合って、その滑らかな髪を梳いて、腕の中に閉じ込めて。

 現金なもので、彼女と他愛ない約束をひとつしただけで、さっきまでの憂鬱だった気分などあっさりと晴れてしまう。

 まだ、この船には遣る瀬無い苦しみがたゆたっているだろう。けれど、これからまた場所を改めて、船をきれいに直して。僕達は気持ちも新たにまた、旅立つことができるだろう。

 少しずつ、絆を深めた人々と手を取り合って。

 君と共に今度こそ目指そう。遥か遠い南の、砂漠の中にあると言う幻の異国に祀られた『伝説の勇者』の墓を求めて。

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