Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
結局、船の修理はロニーさんが算出したより少し多く、凡そ十日間を要した。キメラの再襲撃で思った以上の損壊があったのだ。
祠の宿屋から馬車で半日の海岸を離れ、サラボナ寄りの岸に数時間かけて移動した。その頃にはすっかり日も暮れてしまったので、作業自体はその翌朝、ようやく着手されることになった。
宿屋からサラボナへ通じる道の途中に洞窟があったが、あの洞窟のサラボナ側の出口に近いのだという。先の岸辺よりサラボナに近いこの海岸では、あのような辛辣な目で見られることもなく、またここでやっと帆を交換できたからか、近隣の住民からは概ね丁寧な歓待を受けられることとなった。
滞在中、ナサカと言うらしいあの集落で起きた出来事について、義父宛にもう一通手紙をしたため、サラボナに運んでもらうよう手配をした。
あれで済めば良いけれど、少年が再び襲われないとは言いきれない。もし目を配ってもらえるならお願いしたい、と書き添えた。閉鎖的な小さな村では難しいかもしれないが、外部の人間が立ち入るようになればだいぶ変わると思うから。
修理に関しては、さすがにあまり積極的な手伝いはできなかったが、簡単な裁断や釘打ち程度なら一緒にやらせてもらえた。あとは、綺麗に修復された見張り台に上り魔物番をしたり、海岸で大規模な洗濯をしたり、空いた時間で集落の人々と話をしたりなどして過ごした。フローラは村の女性から帽子を譲ってもらえることになり、鍔広の白い帽子を嬉しそうに被っていた。その下に髪をまとめてしまえば、確かに空からはそう簡単に見つからないだろう。
灼熱の陽射しは益々猛威を振るい、さすがの僕も紫の外套は脱がざるを得なかった。もっと薄手の肌掛けを譲ってもらい、日焼け、もとい火傷防止のため羽織って過ごす。先日のこともあり、仲魔達は概ね船の中に引き篭もっていたが、数日滞在すると退屈すぎて、日が暮れる頃を見計らってこっそり海辺に遊びに行ったりしていた。とはいえ一週間を過ぎる頃には、その存在は村人達にしっかり露見していたようだが。有難いことに殊更疎まれるということもなく、出航の前日には村の子供達とスラりん達が誘い合って海で遊ぶなど、驚くほど打ち解けた様子だった。
フローラはそんな仲魔達、子供達の戯れを、木陰に座って幸せそうにずっと眺めていた。暑いからフローラも少し海に入ってきたら? と勧めたら、気まずそうに目を伏せ、私実は泳げないのです、と言う。数拍おいて自覚した衝撃に「えっ⁉︎」と変な声が出た。だって、泳げないのに飛び込んでくれたってことだろう。あの時は恐らく、網の切れ端を掴んでいたにしても。
「あ、あれは……夢中でしたから、よく覚えていなくて……」
砂地についた足跡を辿るように視線を彷徨わせ、フローラはさも言いにくそうに小声で告げる。全然、ばかにするつもりなんか全くなく、寧ろ僕のためにそこまでしてくれたと感激に震えているくらいなのだけど、彼女はついに立てた両膝に額を押し当て、深い溜息と共に肩を落とした。
「修道院でも何度も教えてもらったのですが、……どうしても、怖くて。もう、情けないですよね。高いところだけじゃなく水も、怖い、と言うより何もできなくて」
「そんなことないって。助けてくれたじゃないか、フローラが飛び込んでくれなかったら今頃、僕はここにいなかったかもしれないんだよ?」
勢い込んでそう言うと、今度はふにゃりと泣きそうな顔をして「そ、そんなこと、もしもであっても仰らないでください……」と訴えてくる。「あなたがいなかったら、なんて……私……」と僕が掴んだ手にしがみつき微かに震えるフローラを包むように抱き寄せ、幸せを噛みしめながら囁いた。
「本当にありがとう。僕はすごく、幸せ者だ……」
でも無理はしないでね、と言い添えると共に僕もまた、彼女に無理をさせるようなことはしちゃいけないと改めて肝に命じた。ポートセルミを発つ前夜、真っ暗な海を眺めながら海が怖いと話してくれた君だったけれど、あれは船での航海だけの話ではなかったんだね。
滲んだ涙を拭ったフローラが微笑み、海の方へと顔を向け直して、私達の子供もあんな風にお仲魔の皆さんと仲良くしてくれるのだろうなって思ったら、幸せな気持ちになってしまいました。などと言うものだから、僕はその不意打ちに思いきり動揺し、咽せてしまった。きょとんとしたフローラに「まさか、授かった?」と不躾かつ無遠慮な問いを発してしまい、これまた思いきり口篭らせてしまう。あの、そう言うわけでは……と申し訳なさそうに返ってきた答えには思いの外落胆し、そんな自分にまた驚く。ああ、知らぬ間に自分はこんなにもフローラとの子供を望んでしまっていたのかと。
そういえば、婚礼を挙げてまだひと月くらいしか経っていなかった。いくらなんでも気が早過ぎだろう、自己嫌悪に頭を抱える。確かにひと月とは思えないほど密度の濃い一ヶ月だったけれど、居心地が良すぎる所為だろうか。もっとずっと長いこと、もう何年も、君と過ごしているような錯覚を覚えてしまって。
たまらなくなって君の頭を抱きしめたら「今、授かってしまうのは困りますよね? さすがに。折角、勇者様のお墓に向けて旅立ったばかりですのに」と腕の中でしょんぼりして言うので、そんなことない、授かったら嬉しいよ、嬉しいに決まってる。そう熱弁したら、少し気恥ずかしげにフローラが頬を赤らめ、笑って頷いてくれた。
「私、テュールさんがお望みでしたら、何人だって産んでみせますわ」
そんなこと言われると、歯止めが効かなくなるんだけど。
幸せそうに囁いてから羞恥が襲ってきたらしく、耳から首まで真っ赤に染めて俯いた君をもう一度、笑いながら抱き寄せた。
魔物の襲撃はほとんど収まっていた。ナサカより規模の大きい村が近くにあった所為かもしれないし、フローラが完全に髪を隠すことに成功した為かもしれない。船を目印に襲われる可能性も懸念したけれど、これまた帆を変えたこともあってか、キメラの集団に目をつけられることはなかった。
そういえば、あの時の戦闘で見た白い光が何だったのか、気になってマーリンに聞いてみたところ、驚くべき答えが返ってきた。
「あれは、奥方様の魔法です」
無感動に告げた彼は明らかに不機嫌だ。どうやら魔力の気配で僕らが近くに戻ったことに気づいたものの、すぐ加勢しなかったので腹を立てているらしい。先にピエール達の足留めの方に鉢合わせてしまったから大目に見て欲しいと思いつつ、フローラに危機が迫っていたことは否めなかったので、時間がかかったことを素直に詫びた。「まぁ、間一髪駆けつけて下さいましたので。不問に致しましょう」と有り難いお言葉を頂く。改めて、フローラの魔法だったという光について話を聞いた。
「若者の怪我を治そうと、奥方様がベホイミを使われたのです。距離があって無理だろうと思いましたが、光があれだけ拡散した為か、効果があったようで」
「ベホイミ……だったんだ。すごいね、あんなベホイミ見たことがない」
「既視感のある者などおりますまい」
相変わらずマーリンの顔色は読めない。深く被ったフードに隠れた表情も声も、無色と言うほど何の感情も載ってはいない、が──ほんの一瞬だったが、彼の眼の奥に鋭い光が過るのを、僕は見た。
「治癒魔法で終わらせるには惜しい才だ」
単純に才能の問題なのか。念の為もう一度訊いてみたけれど、宣誓は間違いなくベホイミであった、との返答だった。それでこの話は終わり、僕はフローラの不思議な力のことをとりあえず脳裏に刻んだ。
その後、それなりに注意深く観察してみたけれど、フローラがいつもと違うベホイミを使うことはなかった。僕やホイミンと同じ、目の前の相手を優しく治癒する光は普段と何ら変わらない。恐らくマーリンとの講義の中でそれについての検証も為されているのだろうから、僕から彼女にあれこれ聞くことはしなかった。
程なく、彼女は魔法使いとしての頭角を現し始める。マーリンはきっちり丁寧に基礎を教え込み、フローラはその教えを吸収して、マーリンが指示した補助魔法を次々に習得していった。はっきり言ってひと月に一つ、新しい魔法を使いこなすようになるなど普通じゃない。それどころか、時には絶妙なタイミングで異なる二種類の魔法を繰り出すこともあった。単純に、魔法を行使するだけなら適正と魔力の問題だ。だが魔法とは、往々にして対象が存在する。異なる位置にいる二つの対象にそれぞれ照準を絞り、詠唱にかかる時間まで計算して全く違う魔法を行使するのは、魔力がどうというより知性、頭の回転といった領域なのだ。フローラがどれほど聡明な女性か、これだけで唸らされるほどよくわかるというものだ。
話を戻し、そんなわけで僕達はこの船の修理の間、思いの外ゆったりした時間を過ごさせてもらった。折角なので色々と聞き込みもしてみたけれど、さすがに勇者にまつわる話を聞くことはできなかった。こういったところに一人は居る腕の立つ方にお願いして、天空の剣の柄のみを握ってみてもらう試みもしてみたのだけれど、持ち上げられる方は一人もおらず、布で包んだ鞘入りの剣身を持った僕の方が逆に怪力呼ばわりされる始末であった。
この後の航海中も、海岸沿いに小さな村を見つけては勇者を探し、足踏みすることの繰り返しで、テルパドールのあるアルディラ大陸に辿り着いた頃には浜辺を発ってから三ヶ月近くが経過していた。面白がった船員さん達にも、コックに至るまで全員に柄を握ってもらったが、見事玉砕した。勇者への道筋は未だ、糸屑程度にも掴めてはいない。
「ポートセルミやオラクルベリーとは、全然雰囲気が違うのですね……」
アルディラ大陸の入口、モン・フィズ港の桟橋に降り立ってぐるりと風景を見渡した妻は、感慨を深く滲ませた声でそう独りごちた。
「本当だね。ああいう石造りの家は初めて見た」
僕もまた、フローラに続いて辺りを見回した。違和感を覚えるのは緑が極端に少ないからだろうか。広く開け放たれた青い空との接地面は乾いた白い石と砂にどこまでも覆われ、屋根の低い石造りの、見慣れない建物が間隔を開けて並んでいる。その拓けた空間に、所々にテントのような天蓋が並び立つ。どうやらあれは市や店の類らしい。決して多くはないが、ストレンジャー号以外にも小さな船が数隻碇泊していた。近くに島がいくつかあるようだから、そのあたりと交易、交流があるのだろう。
「あれは、この大陸の一般的な家です。地下に部屋を設けるのですよ」
笑いながら指差し教えてくれる船長を振り返り、感嘆とともに頷いた。
仲魔達も気になるようで、甲板に出てはこそこそと隠れつつ街の方を見回している。ここに来る途中仲魔になったしびれくらげのしびれんも、みんなに紛れて物珍しそうに船縁から遠くを眺めていた。
「そらがおっきいねー! ごはんたのしみー!」
「れんちゃん、ここ、きたことあるの〜?」
「う、ううん、ないっ……」
引っ込み思案なしびれくらげは女の子で、もじもじしながらホイミンの何気ない問いに答えている。スラりんとホイミンが人懐っこい分、彼女が気後れしないか少しだけ心配していたのだけど、仲良くしてくれているようでほっとした。
「小さい村には何度か寄ったけど、こんなに大きな街はしびれん、初めてじゃない?」
わやわやとお喋りを弾ませるスライム属の後ろからひょいと覗き込むと、しびれんはぷるぷるの頭を上下に振って嬉しそうに笑った。白い帽子を被り直した妻もまた、スライム属の会話に楽しそうに加わる。
「ふふ。暑くなったらすぐに言ってくださいね。水浴びする分くらいならすぐ出せますから」
どうやら彼女は彼らスライム属ととりわけ仲が良く、しびれんの仲魔入りも実は誰より喜んでいる。やったー‼︎ と声を上げるスラりん、ホイミンの隣でしびれんがほっとしたようにはにかんだ。その白い饅頭のような肌を、フローラは膝を折って目線を合わせ、嬉しそうに撫でていた。
船の長旅の間に、指輪の使い方も色々と模索したのだ。というか、あまり周囲に大きな影響を与えない範囲で何が出来るかを、暇な時にフローラと一緒に色々試した。なんとなく攻撃魔法のイメージが強かったからそのように発動していただけで、石の中に水と炎を閉じ込めたそれぞれの指輪はどうやら、持ち主の望みに応じて現象のかたちを変える。石の中で漣打つ水のリングは、フローラの掌の中に冷たい清い水を生み出した。僕もまた、火熾しの必要がないくらいには簡単に小さな火を灯せるようになった。あまり頼りすぎると、火の熾し方を忘れてしまいそうだけど。
スライム属をはじめ、暑さに強くない仲魔が多いので、水を自在に出せるというのはとても有り難い。しびれんは元々海に棲む魔物なだけに、砂漠へ連れて行くのは不安が大きかったのだが、これなら安心して旅立つことができそうだ。
着いたばかりでいきなり出立というのもあれなので、まずは港町の市場や店を覗き、テルパドール城までの道中に必要な装備などを確認した。パトリシアの蹄鉄は盲点だった。元々荷も仲間も多いので、砂漠はゆっくり歩かなくてはならないだろうと思っていたのだが、とにかく延々続く砂漠地帯では、他の大陸と同じ蹄鉄ではかなり歩かせ難いようだ。薦めてくれた商人にそのままお願いして、すぐにこの大陸特有の丸い蹄鉄をつけてもらった。あとは街の施設を覗いてみたり、酒場で少し雑談がてら話を聞いたりなどして、この日は比較的のんびり過ごした。
夜は、出航の前夜よろしくストレンジャー号の船員総出で、無事の到着祝いと僕達の送別を兼ねた宴が催された。これだけ大きな船が異国から着くのはこの町でも久々のことだそうで、途中からは町中の人がこの宴に加わり、さながら大きな祭礼の如く深夜まで盛り上がっていた。仲魔達も町の広場の端っこでご馳走を囲い込み、町の子供達にちょっかいを出されながらも楽しんでいるようだった。決して大きくない酒場はすっかり天手古舞だったが、ありったけの器に酒を注ぎまくっていたマスターはしばらく遊んで暮らせるとほくほくしていた。
途中、フローラに気づいた町の女性陣が彼女を引っ張っていってしまった。
旦那さんはここでお待ちよ! と言うので、何事かと思いつつ茶を啜って待っていたら、暫くして「古くからアルディラに伝わる伝統衣装だよ! ほら旦那さん、ご覧よ。惚れなおしちまうだろ⁉︎」と恰幅の良い女性が数名、その身体の影に彼女を隠して戻って来た。顔を上げ、危うく茶を噴きかけたのは僕だけじゃない。威勢の良い声に誘われ、振り返ってしまった船員さん達も皆大いにどよめき、次いで顔を赤くしながらそれぞれ顔を背けていた。僕に気を遣ってくれたなら正直有り難い。女性達に披露された妻は、極端に少ない布地の、なんとも艶かしい服を身に纏っていたからだ。
ポートセルミのステージで見た踊り子達のドレスよりもっと露出が多い。上半身はほとんど胸しか覆われていないし、腰周りもほとんど細長い布が垂れて揺れているだけ。その分露出した腕や足に美しい装飾具が輝く。綺麗だけど、確かにものすごく魅力的だけど目のやり場に困るんだ‼︎
いつもより濃いめの化粧を施され、思いきり赤面した顔から今にも倒れそうなほど湯気を噴き出したフローラが「……み、見ないでください……!」と女性陣の影に隠れた。いや、いったいこれは、何と返せば正解なのか。
「伝説の魔法使い、マーニャ様がお召しになってた装束だよ? 恥ずかしいもんかい! ほらお嬢さん、胸を張って!」
「でも叔母さん、この人にはミネア様の服の方が良かったんじゃなぁい? 踊り子の服は白い肌には合わないわよー。やっぱり健康的な褐色肌じゃなくっちゃ!」
やいのやいの言い合う女性達の影で居た堪れなさそうにすっかり小さくなっているフローラが不憫で、なんとか側に行きたかったけれどどうにもそういう空気ではなく。「じゃ、ミネア様のドレスも試してみましょうよ! こっち来て!」と別の女性に再び有無を言わさず連行されていってしまった。はらはらしながら待つこと数分後、現れた彼女はいつもの丈に近いドレスに身を包んでいて、また少しは羞恥の方も落ち着いたようでほっとした。
「魔法使いだって言うから、マーニャ様の加護があるようにってあっちにしたのに。勿体なぁい」
「いいじゃないの、碧い髪なんて神秘的! ミネア様の占者の装束もお似合いよ」
「こんな白い肌でこの装束着てる人、初めて見たわぁ! 悪くないわよ、自信持って!」
どうやらこの町、モン・フィズなりの歓迎方法らしかった。日射しのせいか、確かにここの住民は男女問わず美しい褐色肌の人が多い。フローラほど白い肌の人はほとんど見かけないから、正直おもちゃにしたくなる気持ちもわからなくはない。あまり弄ばれるのも複雑な心境だけどさ……
マーニャ様とミネア様、というのは伝説の勇者と共に魔王を打ち倒した七人の仲間のうち二人だ。詩吟でも度々『モンバーバラの姉妹』として謡われる彼女達は、どうやらこの大陸に深く所縁ある存在らしい。なんでもこのアルディラ大陸がまだ混沌の大地だった頃、行き場のない御霊を鎮めて土地を拓いたのだとか。町の人達から真っ先に聞かされた昔噺である。モン・フィズとはこの地方の古い言葉で『モンバーバラの浜辺』を意味するのだそうだ。
酒場のマスターが酒を運んだ帰りに僕を肘でつつき、お客さん達、これからテルパドール城へ向かうんでしょう? と話しかけてくれた。
「もうね、ここではず──っと昔から女性が強いんですよ。テルパドールの城主様も代々女王様でね。古い伝承ですが、テルパドールの興国の祖は伝説のマーニャ様、ミネア様両御姉妹だと言われてます。今の女王様、アイシス様と仰るのですが、その方はミネア様の占術の御力を色濃く受け継がれているそうですよ。しかし大変気さくな方ですから、運が良ければ御目通りも叶うでしょうな」
まるで生きた伝説だ。目を瞠った僕に得意げな視線を投げかけ、マスターはカウンターへと戻っていった。なるほど、だからこの町の女性達は伝説の両姉妹に最大限の敬意を払い、こうして姉妹の姿を象って祝事などをするのか。
やっと解放されて、占者の装束だという民族的なドレスを纏ったフローラがテーブルに戻ってきた。少し疲れた表情で微笑みを繕った彼女だったが、ほとんど衝動的に細い手首を掴んだら、小さな肩をびくりと震わせ僕を見た。
「……仕方がないけど、あんな姿、こんなところで見たくなかったな」
こんなこと言ったら困らせる。わかっていても止められないのは、きっとさっき乾杯の時に一杯だけ飲んだ酒のせいだ。
案の定、君はさっと顔を曇らせると、テーブルに手をついて不安げに僕を覗き込んでくれる。
「あの、私……あなたに恥をかかせてしまったのでしょうか」
「ううん」
ああ、また。
これまでの旅路で何度も確かめ合って、少しはおさまってきたと思ったのに。
こんなどうしようもない妬きもち、自分に自信と余裕がないだけじゃないか。
「すごく、綺麗だったよ。……でも」
見下ろしてくれる君の肩を掴んで引き寄せ、噛みつくように顔を寄せる。
「……僕のもの、なのに」
囁きとともに彼女の唇を塞いだ。驚いた彼女が離れようとしたが、より深く唇を押しつけた。ん、と苦しげに喘いだ彼女を離したくなくなる、けど衆目があるからほんの二、三秒ですぐに解放した。美しく紅を引いた彼女の唇は珍しく、血のような化粧の味がした。
「……っ、こ、こんな……ところで……」
戒めを解かれ、再び首まで真っ赤になった君が口許を押さえて飛びすさる。その後ろから煽るような無数の口笛と「いいぞー、若さん!」「よっ、ご両人!妬けるねぇ」などと冷やかしの声が飛んだ。さすがに僕も気恥ずかしかったが、妙な味の残る唇を手の甲でぐいと拭うとひとつ苦笑し、彼女のりんごみたいな肌を撫でた。びくりと固まるその耳許にもう一度だけ、囁く。
「あんな姿、見ていいのは僕だけ、だからね?」
紅潮冷めやらぬ艶姿のフローラが、こくこくこくと小動物の如く頷く。
その後も町の人々や船員達に散々冷やかされ、次々に勧められる酒をなんとか辞退しつつ、アルディラ大陸のでの初めての夜は和やかに更けていったのだった。
海の上でもそうだが、ここは遮るものが何もないせいか、月がずっと近くに見える気がする。
日中は十月とは思えないほど蒸し暑かった。今は気温も下がり、少し肌寒く感じられるほどだ。
船に戻った時にはもう、日付が変わるかというほど遅い時間になっていた。宿でもよかったのだが、ここは基本的に大部屋ばかりで、男女も相部屋になるような宿しかないのだと聞いて、今夜のところは慣れた特別船室で休ませてもらうことにした。
明日に備えて、今夜の魔物番は免除してもらっている。急いで湯を使い、二人揃って寝台に潜り込んだ。ここ数日でシーツを増やしたベッドはふわふわしていて、とても温かい。
宴の後なので、明朝は少しゆっくりお休み頂いて結構ですよ、などと有り難い気遣いまで頂いてしまった。起きたら船室の掃除をして、改めて馬車の荷を点検して。問題なければいよいよ明日、砂漠での未知の旅が始まる。
「勇者様は……」
暦の上でも陽が短くなり、最近は夜、なんとなく肌寒く感じて身を寄せ合うことが多くなっていた。特にひんやり感じるフローラを温めてあげたくて、腕の下に抱き込んでいたら、身動ぎしたフローラが思いついたように口にした。
「初めから勇者様の自覚を持ってお生まれになるのかしら? それとも、普通の人間として生きてこられた方がある日突然勇者の使命に目覚める、といったことがあるのでしょうか」
「どうかな。天啓でも受けるのかな、ってことだよね?」
絡めた指先を弄びながら囁く。少しくすぐったそうに肩をすくめた君が、小さく頷いた。
「僕は、実は勇者の血族が何処かにひっそり生きていて、来たるべき時に能力を覚醒させるのかな、とか……そういう風に考えてた。でもあんまり古い話だから、自分が勇者の子孫だなんてわからなくなっているかもしれないよね」
「そういうお家があるのでしたら、勇者様がお使いになった装備品はそのお家に伝わりそうな気がいたしませんか? お義父様が剣を手に入れられたり、我が家に盾があったりしたのは何故なのでしょう」
確かにフローラの言う通り、勇者の血統を継ぐ一族が存在するのであれば、最低限のことはその中だけで伝わりそうな気がする。父が探して手に入れられるとか、無関係のルドマン家に伝わっている方が妙なのだ。しかし何百年、いや千年単位で昔の話。まさか勇者の血筋はとっくに滅ぼされて、もしくは絶えて失われているとか。
「すごい今更だけど、ルドマン家が勇者の傍系、なんてことは……」
シーツに横たわったフローラは密やかに苦笑し、ゆるく首を振って「残念ですが」と答えた。
我が家の盾、と聞いて、ふと義父の言葉を思い出した。あの盾は元々フローラのものだと静かに言い切り、その場で否定しなかったフローラの、厳かな姿。
「……どうか、なさいました?」
フローラは相変わらず僕の気配に敏感で、ほんのわずか思考に意識をとられた僕を不思議そうに見上げる。
「ううん。なんでも」
すぐに首を振り、隣の碧い頭を優しく撫でた。本当は、本当に少しだけ、いつ話してくれるのかな、という思いがある。それが彼女への疑念に変わってしまうのが怖くて、僕はずっとそのことを忘れたふりをしている。こうやって彼女は僕と一緒に考えてくれているのだから、今の僕には必要のない情報なんだ。必ず、それが必要な時彼女は話してくれる、そう何度も自分に言い聞かせて。
「血は全然関係ないのかもしれないけどね。一番初めの勇者は、どうだったんだろう……」
上向いて頭の下で腕を組み、天井をぼんやり仰ぎながら呟いた。胸元に寄り添ったフローラもこめかみに触れながら思案し、その頭脳に収められた文献を探っているようだ。僕がセントベレス山で過ごしたのと大差ないほどの月日を修道院で過ごしたという彼女は、恐ろしい読書量に基づいた膨大な知識をその華奢な身体に秘めている。
「以前読んだ伝承記には、遥か昔、勇者様が魔族から狙われていた為とある村で匿われ、育てられたとありました。ですから、勇者であるか否か、は初めから何らかの形で示されるのだろう、と思っておりました……が」
フローラの言うことはよくわかる。問題は、それがどうやって示されるのかを知る人がどこにもいないということなのかも知れない。マスタードラゴンが現れてお告げを残していく、とかじゃないだろうし……そんな大掛かりなことをされたら、あっという間に僕の耳にも入ってくるだろうし。
単に、この世界に存在しないだけなのか。まさか世界には、勇者を得るだけの悲劇が足りていないとでも言うのだろうか。
「もしかしたら勇者様は、ご自身が勇者であることに気づいてらっしゃらないのでは? ……などと、思ってしまいます。でなければ今、この世界の惨状を見ながら黙っていられるはずがありませんもの……」
フローラの苦しげな呟きを黙ったまま聞き、小さく同意を返して瞼を閉じた。
この四ヶ月、僕もフローラも、船旅の合間に信じ難い凄惨な光景をたくさん見てきた。
柱に深く刻み付けられた爪痕。乾いた血痕が染みついた露台。いつからか人が住まなくなった家屋。生活感を残したまま時を止めた家もあった。住人はどうなったんだろう、いつそんな悲劇に見舞われたんだろう。多分海沿いだけじゃなく、内陸部にはもっともっとそういう集落があるのだと思う。恐らくは襲撃を逃れ、所々に点在する祠を拠り所に生きる人々にも会った。祠は竜神の加護なのか、不思議な力で魔物を寄せ付けないから。
たまたま修道院に流れ着いて、ラインハットを経由しポートセルミへ渡った。人の多い都市が続いていたから、魔物が増えたと言われてもこんなものか、という思いが正直あった。今回通過したところがたまたま酷かっただけかもしれない。それでもサラボナから南へ進むほど、死の火山に断絶された大陸の南へと下るほど、荒廃は死の匂いをこびりつかせてそこに揺蕩っているようだった。
勇者などいなくても、人々はそれなりに順応し折り合いをつけながら、うまくやっていくのだろう。
前は漠然とそう思っていた。今はもう、そんなことは言えない。死と隣り合わせて絶望しながら生きろと、あんなにも必死にもがき、命を削っている人々に言えるわけがない。たった今フローラを手放せと言われて、僕が黙っていられるはずがないのと同じで。
生まれて初めて、自分の為だけに望んだことが叶った。その喜びを知った今だからこそ、残酷さが胸に刺さるんだ。希望を、命を、理不尽な暴力に手折られることは本当に苦しい。
それでもどうにもならない時、人は運命を嘆き、呪いながらも神に祈り、勇者に縋るのだ。
「……そう、かも。早く気づいてくれたらいいけど……僕らは今まで通り、根気よく探してみるしかないもんね」
ぼんやりと答えた台詞は、どうにも覇気のない、情けないものでしかなかった。
どうして勇者なんだろう。どうして神は、勇者以外の人間には一切その力を与えなかったのだろう。
例えば伝説に語られる魔王と呼ばれる者が顕れたとして、勇者ではない、凡人の僕に為す術はきっとない。否、結局人間という個そのものに限界があるんじゃないか。それくらい魔物の力は強大だ。目の前にちらつき始めた『光の教団』の存在、そこに関係する魔族達。奴らがフローラを狙う限り、必ず再び対峙する日は来る────その時、僕もまたその時には、勇者に縋ることしかできないのか?
誰にも委ねたくない。この手で護りたいのに。
「そういえば、知ってた? テルパドールの今の女王様は占者ミネアの力を継いでいる方なんだって。……本当に、この大陸で何か手掛かりが掴めたらいいな」
苦すぎる憤りを呑み下し、気持ちを落ち着けてさっき聞いたばかりの話を振ると、フローラは少し驚いたようだった。目を見開いた彼女の手触りの良い髪をさらりと梳いたら、フローラは眠そうに目を細め、「ええ。そうですね、きっと……」と淡く微笑んで頷いた。
愛らしいその表情に思わず、とくん、と心臓が震える。
初めての土地だ。見慣れぬものばかりで、街を歩くだけでも相当疲れただろう。しかも、こんなに夜更かしをしてしまって。そう自分に言い聞かせつつ、僕のどうしようもない情欲は、抑制しても堪えられない。
ましてやあんな、煽情的な姿を見せつけられては。
「フローラ……あの」
寝台に肩肘をつき身を起こし、少しとろりとした瞳で僕を見上げた妻を見下ろした。灯りを落とし、月明かりに浮かび上がった彼女の碧髪に指を絡めて、祈るようにそっと押し戴く。
「……ごめん。少しだけ、しても……いいかな……」
雰囲気だけでそうなることもあるのだけれど、自分からこうやってきっかけを探りにいくことには未だ、気恥ずかしさが勝ちすぎて慣れない。
それでも我慢しきれないあたり、僕はつくづくフローラに対してだけは遠慮がない。
「ほんと、ごめん。疲れてるのに。明日からは暫く二人きりになれないかなって思ったら……」
「もう。謝らないでくださいまし」
くすくす。密やかに笑ったフローラが、相変わらず華奢な指先を僕に向かって伸ばした。
「大好き、です。……テュールさん」
触れられたところから甘やかなときめきが広がって。一緒になって四ヶ月、もう何度も肌を重ねてきたというのに、僕は性懲りもなくこの行為を前に心を踊らせてしまっている。
「……好きだよ。誰よりも、愛してる。フローラ────」
僕もまた、この四ヶ月何度も囁いた愛の言葉を彼女の耳許に繰り返して。
柔らかな胸を服の上から掌に包んで優しく揉み解すと、フローラは甘く息をつきながら困ったように笑う。
そんな彼女を身体の下に組み敷いて、僕もまた笑いかけながら、桜貝の可憐な唇を吐息ごとそっと塞いだ。
やっとテルパドールの大陸に着きまして……けどまだテルパドールには着かない。笑。原作だと立ち寄らなくても問題なくストーリーが進むくらいの場所ですのに。
執筆当時落書きした、ミネア姿のフローラをおまけとして。
【挿絵表示】
踊り子の服は公式本で着てますからね!
この他にもちょこちょこ、発掘したらくがきを活動報告の方に載せていこうと思ってます。後書きに載せられるときは載せちゃいたいのですが、どうにもシリアス展開では話の腰を折るのが嫌で……
昨日、現在書けている本編全ての予約投稿作業が終わったのですが、このまま一日二回投稿で27日に全て投稿完了予定でした。話数にして90話ちょっと。もう一度にぽいっと投げ込んだほうがいいかしら?毎日同時刻に新着に居座るのはいい加減鬱陶しいかしら、などと悩む。うーん