Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
「今夜はまた、一段と冷えるね」
アルディラ大陸で船を降り、準備してきた馬車で緩やかに移動を始めて三日。予定通りに港町モン・フィズを出発し、次の目印となるオアシスを探して歩いているのだけど、とにかく砂、本当に一切の誇張なしに砂しかない。モン・フィズが見えなくなってからというもの、同じ景色しか見ていない。ぐるりと見渡した景色はどの方向も代わり映えしない砂景色で、地図を見てもどれくらい進んだかの判断がつかないし、目視で方角を測るのも難しい。星や太陽を頼りにすれば確かにある程度わかるのだけど、それ以上に砂丘に翻弄される。巨大な砂山が風でどんどん形状を変え、生まれては消えていく様は、壮大な幻覚を見せられているような気がしてくる。
「実は、方向を覚えるのが苦手で……」
またしても意外な、可愛いことを言ってくれる僕の最愛の妻は、砂の幻影に魅せられつつも、早々に方角を判じることを諦めてしまったようだった。馬車は荷と仲魔達でいっぱいだからか、荷台に乗ることはせず、羅針盤を片手に地図を広げる僕の隣を、申し訳なさそうにぴょこぴょこ歩きながらついてきてくれていた。
「本当ですね。昼間はまだ暑いほどですのに」
「皆さんの言う通り、防寒着を作ってきて良かったよね。普通の外套じゃ、この寒さは凌げなかったよ」
雨が降らないからこそこの砂漠なのだろうが、天候が崩れにくいことだけは救いだ。朔月なのに不思議と明るい砂漠の夜の空気に、温かな呼吸が一瞬だけ白い靄を作り出す。はぁ、と自らの吐息でそれぞれの手を温めて、ふと顔を見合わせ微笑みあった。
昼と夜、あまりに寒暖の差が激しいので、どちらを移動時間に充てるのがいいかをずっと考えていた。やはりというか、日中はまだまだ暑く、強い陽射しの下熱の篭った砂の上を延々歩くのはパトリシアも辛いようだった。そこで試しに、今日は昼過ぎに一度天幕を張って休み、日が暮れてから歩いてみている。ここではさすがにキメラを見ないが、万が一またジャミの手先が現れても夜なら見つかりにくいだろうし、じっとしていても夜は寒いのだから、寧ろ動いた方が身体が暖まっていいかな、と思ったのもある。
本当にこの寒さ、昼と同じ場所とは思えない。
「モン・フィズはここまで冷えなかったのに、砂漠はやっぱり不思議だな。海が近い方が暖かいなんてさ」
「そうですわね。夜は潮風も肌寒かったですけど、それとはまた違った寒さだと感じます。やはり乾燥しているからなのでしょうか」
知的な考察を加えつつ相槌を打ってくれる妻にまた頷きを返し、馬車に吊るしたランプの灯りに地図を照らした。方角は合っていると思うんだけど、モン・フィズからさほど遠くはないと聞いた集落は未だ、影も形も見えない。
「うーん……迷ったかなぁ……」
船長から案内人を雇うよう勧められていたが、時期的なものもあるのか、それを生業とする方を見つけられなかったのだ。北の大陸の海運事情が事情だったから致し方ないのだが、長いこと他所の人間が訪れることがなかったから、と言われれば納得するしかない。
それにしたって、ゆっくり歩いて三日とかからないって言ってたんだけどな。いや、もしかしたら通り過ぎてしまっているのかも。無意識のうちに独り言が洩れてしまい、フローラが不安げに翡翠の瞳を持ち上げた。
「あ、ごめん。少し休もうか?」
手に持った地図をくるくる巻きつつ、彼女の隣に歩幅を合わせた。彼女は困ったように首を傾げ、僕を愛らしく見上げてくる。
「まだ大丈夫ですよ。それに、ゆっくりしていたらまた、すぐに日が昇ってきてしまいそうですし」
「うん、でも……」
二度ほど休憩はしたものの、陽が落ちてからもう数時間は歩いている。明け方に向かう深夜の砂漠はますます冷え込みを強めていく。揺れるランプの灯りを頼りに、気丈に微笑む妻の頰を撫でてその表情を窺い見た。砂の上だけを歩き続けること三日、城への道のりを思えば初めの数歩のようなものだが、慣れないアルミラージ皮の長靴で懸命に歩くフローラに負担がないはずがない。これだけ長い時間歩き続けることだって初めてだろうに。
「暗いから、気のせいかもしれないけど……あんまり顔色が良くない気がする。馭者台に乗って良いんだよ? ずっと歩くのは辛いだろ」
言いながらふと、小さな疑念が湧いた。かぽかぽと砂を蹴るパトリシアを一度止めて、フローラを横抱きにする。「え、テュールさん? あの」と動揺する彼女に構わず幌を開き、荷台に座らせた。砂地を嫌い中でくつろいでいた仲魔達も何事かと覗いてくる。ランプをすぐ近くに置いて、躊躇う彼女に構わず靴と、靴下を脱がせると────
「……あ〜、ふろ〜らちゃんてば、なんでだまってるの〜〜」
珍しくホイミンが不服そうな声を上げた。溜息混じりにそれを聞き、荷台に腰掛けたフローラを見上げると、彼女もまた決まり悪そうに外套を掻き抱き、顔を背ける。
いつの間に巻いたのか、靴下に隠された彼女の素足は、更に包帯のような薄い布でくるぶしまで覆われていた。白いその布の所々に赤黒い染みが滲んでいる。暗くてわかりにくいけれど、恐らく血豆が潰れたのだろう。多分、自分で時々治癒魔法をかけていたのだろうけど、僕らの目を盗んでいたからか、ちゃんと治しきる前に歩いて悪化させてしまった。だからあんな風に、痛みを誤魔化しながらひょこひょこ歩いていたんだ。
中々集落を見つけられない僕の焦りが伝わってしまっていたんだろう。弱音を欠片も口にせず、絶対に足を引き摺らないあたりはさすがだと思うけど、我慢強いのも玉に瑕だよ。
「んも〜! えんりょせずゆってくれればいいのに〜ぃ!」
青いほっぺたをぷくりと膨らませ、僕の言いたいことを丸ごと代弁したホイミンは、わざとらしく怒って見せつつ早速施術に取りかかった。すぐ間近でベホマの温かな光を見守りながら、妻の冷えた手を取る。フローラは尚も困ったように眉尻を下げ、遠慮がちに僕を見下ろした。
「……フローラ。僕と一緒に、歩きたい?」
この四ヶ月、一緒に過ごしてわかってきたことがある。
鈍い僕でもさすがにもう理解している。真実、彼女が僕と行動を共にしたいと思ってくれているということ。僕や仲魔達が何かしている時、一人何もせずいることを良しとしない。いや、どんな瞬間だって変わらず、僕の側に居たいと思ってくれている。僕が歩くなら歩くし、僕が戦うなら共に戦う。そういう人だからこそ、彼女の気持ちを有り難く思い、尊重してきたつもりなのだけど。
これほど悪化するまで気づけない僕が一番悪い。ただ、今は君の想いを人質にしてでも、話を聞いてもらわないと。
「僕と一緒に歩きたいなら、痛い時は痛いって言うこと」
「……は、い……」
「じゃないと、無理矢理にでも馭者台に乗せちゃうよ?」
少し強めに重ねて言うと、僕を見下ろす澄んだ瞳が哀しげに揺らめいた。苦笑して、もう一度冷たい頬を撫でる。彼女は目を伏せ、僕の掌にそっと頭の重みを預けた。
「別に、これくらい治すのは全然手間じゃないんだから。気にせず言ってね。僕は自分が頑丈な上に鈍いから、気づかず君に無理をさせてしまう」
無理なんて。声にこそ出さなかったけれど、フローラがきっと今考えていることは、掌に触れる微かな温もり越しに伝わった気がした。伏せられた瞳をもう一度、下から覗き込んで微笑んでみせる。
「一緒に歩けるのは嬉しい、けど、君に無理させてるって思っちゃうことがもう、辛いからさ。……僕は」
ある意味、我が儘なんだよ。これだって。
でも、君とはずっとずっと一緒にいたいから。せめて君の前では格好つけて気の利く男でありたいけど、そうなれないのは自分が一番よくわかっているから。
痩せ我慢も、見栄を張るのもやめたんだ。情けなくてもいいからちゃんと言葉にする。君と僕の間で変に遠慮してぎくしゃくしたくない、真実そう思うからこそ、僕の方から包み隠さず伝えていこうって。
掌に頰を預けたまま黙って僕の言葉を聞いていたフローラは、その透き通った瞳で僕を見つめ返すと淡い息をそぅっと吐いた。りん、と星が転がるような声を小さく発して。
「黙っていて、ごめんなさい……」
ほんのりと吐息の温もり越しに届く、透明な囁き。
「ううん。僕の方こそ、気づかなくてごめん」
綺麗な額に自分の額をこつんとぶつけて、碧い髪を撫でた。やっと見せてくれた穏やかな微笑みにほっとする。すっかり綺麗になった脚に靴下とブーツを履かせ直し、さっきよりもう少し緩やかな速度で再び、東を目指して歩き始めた。
しかし、それはほんの始まりに過ぎなかった。
明けて朝、日の出から一刻ほど経った頃のことだ。夜通し歩いた後なのでそろそろ休息しようと天幕を貼り、全員で朝食を摂った。思えばその時点で食が進んでいないことに気づくべきだった。普段から小食のフローラがスナック一枚で食事を終えても、さほど気にならなかったんだ。
食事の後、匂いを嗅ぎつけ集まってきた魔物らを数匹さっくり沈めてフローラを振り返ったら、どこか青ざめて生気がない。大丈夫です、とふらふら後片付けをしようとするのを慌てて止めて、今度こそ幌の中に連れ込んで横たえた。
外の気温が急激に上がる中、内心詫びながら手早く防寒着を脱がせて瞠目した。分厚いコートの内側が、彼女の汗でびっしょり濡れていたのだ。
「なんだか、……寒くて……」
力なく呟く彼女の身体は震え、首許は燃えるように熱かった。とにかく飲み水を口に含ませ、手拭いを濡らして火照った身体を冷やしたが、楽になった様子は見受けられない。心配をかけてごめんなさい、と浅い呼吸の狭間に途切れ途切れに呟いて、フローラはついに呼びかけても反応してくれなくなった。
怪我は治したけれど、傷口から良くないものが入り込んでいたのだろうか。足のことは無関係で、実はモン・フィズで病をもらっていたのかもしれない。ぐるぐる回る思考を整理したくて、隣で見守ってくれるピエールとホイミンにそれとなく相談してみたけれど、彼らはそれぞれに真剣な面持ちで首を振った。
「生憎、拙者もホイミンもヒトの体のことはわからぬ。だが、これだけ急激に悪くなるのがまずいということは解り申す。一刻も早く、ちゃんとした医者に診せた方が良いのでは」
他のスライム属達もはらはらと覗き込み、ガンドフが冷たい息で懸命に荷台を涼ませてくれる中、ピエールの進言に一も二もなく頷いた。ホイミンは治癒魔法の名手だが、怪我ではない病を治すことはできない。とにかく今は医者のいる街か、集落を頼るしかないのだ。
ストレンジャー号はモン・フィズに一週間ほど係留すると言っていたから、今戻れば薬師のバルクさんに診てもらえるはず。そう思ってルーラでモン・フィズの位置を探ったけれど、近くに街の気配は見つけられなかった。海が見えるところまで移動すれば海岸伝いに街へ戻れるだろう。急ぎ、天幕や調理道具を片付けて馬車を動かした。
こうしている間にも、言いようのない恐怖に手が震える。
どうしても街が見つからなければ、テルパドール行きは諦めてサラボナに戻る。いや、今すぐ決断すべきなんじゃないのか。判断が遅れて最悪、君を失うことになったら────
「あの。何かお困りのことはありません?」
唐突に投げかけられた声に驚き、そちらを振り返った。
女の子だ。フローラより少し幼い、小柄な紫の髪の少女がいつの間にか馬車の死角に佇み僕らを見ていた。毛先の跳ねた長い髪を高い位置で束ね、溌剌とした褐色の額には十字の形の頭飾りが陽の光を跳ね返して輝く。どうしてこんなところに、というより前にもっと戦慄的な驚愕が走った。これだけ見晴らしの良い場所で、数里先の魔物だって見通せるところで、その存在に気づけなかった、だって?
「……君は」
慎重に、動揺を落ち着けて言葉を発する。この少女からおかしな気配はしないが、用心するに越したことはない。
「旅の方が困ってらっしゃるって、占いに出たのだけど。余計なお節介だったかしら?」
こちらの警戒などお構いなく、人懐っこい笑みで告げた少女はつい先日見たような占者めいた装束を纏っている。占いに出た、ということは、この娘自身が占者であるということか。
「……近くの、集落の人かな? そうであれば助かりました。病人がいるんです。そちらの集落に病を診られる方はいるだろうか」
とはいえ、すぐに警戒を解くことはできない。なるべくいつも通りの声音で問いかけると、少女は屈託なくこくりと頷き一歩、こちらへ歩み寄った。
「いるわ。とびっきりの名医よ。……ご病気なの? どんな症状か、お伺いしても?」
促され、つい十数分ほど前に突然発熱し倒れたことを伝えた。いつどこから砂漠に入ったのかと問われ、モン・フィズのことと、今日で四日目であることも告げる。少女は険しい表情でもう一度頷き、すぐさま身を翻した。
「砂漠の暑気にあたったのかも。急いだ方が良さそう!」
どこに留めていたのか、馬の手綱をくい、とひいて軽々とその背に跨った。何やら聞き取れぬ呪文を唱えると馬の足下に手をかざし、「あなたもどうぞ、馬車に乗って。その子にも走ってもらうわ」と振り向きざまに言う。怪訝に思ったが問い返している暇はない。こちらも馭者台に飛び乗ると、彼女はすぐにまた不思議な呪文を詠んでパトリシアの脚をなぞるように手をかざした。
「行くわよ。しっかりつかまって!」
彼女の鋭い一声と共に砂埃が盛大に舞い上がった。目も開けられない砂塵の中、疾走を始めた彼女の馬を追ってパトリシアが駆け出す。慣れない砂地で、仲魔を全員載せきった重い荷台を引きながら、パトリシアはまるで普段の通り軽やかに速度を上げていく。
────どんな魔法だ、一体⁉︎
マーリンの反応が知りたくて、そしてフローラの容体が気になって幌の方をちらりと振り返ったけれど、砂が入らぬよう固く閉ざされた幕の内側は窺いようもなかった。遠いかと思いきや、ものの数分でどうやら目的地が見えてくる。永遠に続くかと思われた、一面の砂を割って視界に広がり出した美しいオアシスの様相に、思わず息を呑んだ。
乾いた白黄色に浮かび上がった鮮やかな緑。光を照り返し連なるいくつかの白い天蓋が囲む、その中央に恐らく水場がある。キラキラと陽光を反射して輝く水面が風を受けて穏やかにたゆたっている。小規模な、本当にこじんまりとした集落だった。
こんなに近くにあって、どうして見つからなかったのか。
目を見張る速度で先導した少女は、勢いを殺すことなく集落へと駆け込む。
力強く砂を蹴る蹄の音に、石造りの家々から人々が飛び出してきた。その中の、一際目を惹く長い紫髪の美しい女性が少女を見咎め、厳しい声を上げた。
「リーシャ! あなた、また勝手に抜け出して‼︎」
「お小言は後で聞くわ。ご病気の方がいるの、すぐにマイヤ様を呼んで!」
ほとんど馬から飛び降りながら少女が叫び、手綱を持ったまま軽く併走して落ち着かせる。見事としか言いようがない。僕もすぐにパトリシアの速度を落とし、馭者台の上から集落の人々に向かって軽く会釈をした。
「旅のお方がこのエピカにいらっしゃるなんて。何年ぶりかしら」
先ほどの女性が真っ先に近づいてくる。あの少女の身内に見えるが、この方が集落の長なのだろうか。馬車を降り、改めて腰を深く折ってから話をきりだした。
「そちらのお嬢さんに助けてもらいました。連れが……妻が、急に倒れまして。突然で申し訳ないのですが、病を診てやっていただけないでしょうか」
女性は黙って僕を見つめた。見せてみろと言うことだろう、どうやら拒絶の意は感じられないことに安堵して、視線だけで謝意を返し幌幕を開けた。ここで忌避されたらすぐにルーラでサラボナに戻る──その覚悟の上だった。開け放った馬車を覗き見た人々が一斉に息を呑み、びり、と空気が張り詰めるのを感じた。
────魔物が。
警戒の色濃いひそひそ声に一瞬胸がちくりとしたが、すぐに気持ちを立て直した。彼らも僕も、第一声でそう囁かれることには慣れている。
「大丈夫です、何もしません。連れはこちらの……、人間です」
言いながら荷台に上がり、心配そうにフローラを取り囲む仲魔達を労う。脱力したフローラの額をひとつ撫で、そっと身体を抱き上げた。慌てていてはだけたままだったので、先ほど脱がせた防寒着だけ胸に被せ、更に自分の紫の外套で包んでやる。真っ白な頰に碧い髪がはらりとかかって、いつも以上に作り物のような、まるで精巧な人形にすら見える。
馬車を降り意識のない彼女を見せると、遠巻きに覗く住人達も、ほぅ、と仲魔達のときとは違う感嘆の息を零した。
「今朝までは元気だったんです。けど、ついさっき……本当に急に、熱を出して倒れてしまって……」
先程ひどい汗だと思った彼女の肌は今はさらりと乾いていたけれど、抱き上げた軽い身体は間違いなく、さっき以上の熱を帯びていた。
「野次馬しておる場合か、阿呆共めが! 道を開けぬか!」
カン! と地面を杖先で打つ音が高らかに場の空気を割って、人々がどよめき一斉に道を拓く。力強いその声の主を見れば、地面につきそうなほど長い白髪を緩く編んだ老婆だった。かくしゃくとしたその老婆の傍らから、先ほどの少女がぴょこっと顔を出した。
「もう、呼んできちゃったわよ。その方がご病気なのね? こっちこっち、早く!」
促されるままに人々の間をすり抜け、足早に石造りの建物へと入る。思った以上に殺風景な、真っ白な壁が印象的な室内を見回す暇もなくあの少女が奥へと手招きした。くり抜かれた白壁を抜けると地下へと続く階段があり、フローラを落とさないよう、転ばないよう抱え直してそろりそろりと石段を降りた。
「……っ、え」
さすがにもう、息を呑むことはないと思ったのだけど。
広い、建物からは推察できなかったほど広い空間がそこに拓けていた。地下で、窓などないのに不思議と明るい。けれどランプで照らしている感じでもない。何より驚いたのは、その地下に────緑が拡がっていたことだ。
表で見た水場へと繋がる水脈があるのだろうか。きれいに整備されたそこは、庭園か菜園のようだった。細い水路が無尽に張り巡らされ、さらさらと流れるせせらぎの間には種類の異なる幾つもの草が植えられている。ひと目見て雑草などではない、意図して栽培されている手入れされた草だとわかる。
「そこの臥榻に寝かせい。お若いの」
耳にかかるほどすぐ側で嗄れた声がして、思わずびくりと振り返った。またしても気配をほとんど感じなかった。僕の心を読んだのか、老婆は初めてにんまりと笑い「そこそこ手練れかと思うたが。わしに背を取られるとはまだ青いの」と愉しそうに嘯く。乾いた愛想笑いを返し、杖で示された方にある寝台に妻を寝かせた。
シーツが冷たいのか、横たえた瞬間フローラが小さく身動ぎした。すぐに手を取り両の掌にしっかりと包み込む。老婆は僕のすぐ隣に立つと掴んだ手を一瞥し、身を屈めて彼女の鎖骨から節々を触診した。
「意識が戻ったらそこの薬湯を飲ませい。虚ろな内は無理に飲ませるでないぞ、詰まらせては困るでな」
今度はちらりともこちらを見ずそれだけ呟く。頷いて、再び骨ばかりの老婆の手を目で追った。服を脱がせていたのは好都合だったらしい。手早く太腿まで改めると、老婆はいつの間にか後ろに控えていた少女を呼び、何やら用意するよう言いつけた。
「熱砂病じゃ。熱を放れば治る。砂漠に入って四日と申したか」
「……はい」
すぐに少女が長くて大きな葉を数枚千切って戻って来る。それを受け取り、老婆が一枚──と言うには厚みのある茎のような葉だったが、掴んだ先端を僕に示して言葉を続けた。
「身体に熱を溜め込みすぎることで罹る病じゃ。睡眠不足や疲労が発症の引き金になることもある。治る病じゃが、数日はお主が熱をとってやるのじゃな。熱溜まりにこの葉が効く。こうやって裂いて、葉肉を皮膚に貼っておやり。胸には今日だけ、首の後ろと脇、太腿には熱が取れるまで毎日貼り替えよ。乾いたら新しいものに取り替えるのじゃぞ。あとはさっき言った通り、意識がある時はなるべく水を飲ませることじゃ。熱をとるだけでは近く、渇き死ぬ」
淡々と告げられた最後、残酷な一言にぞくりと怖気が走る。今この時、生死の秤にかけられているのが最愛の妻だなんて想像したくもない。
しっかりしろ。今この瞬間だってフローラは頑張ってる。彼女に一番近い存在である、伴侶の僕が挫けてどうするんだ。
本当に逃げ出したりはしないけど、いっそ発狂してしまいたい衝動を呑み込んで耐えた。老医師の言葉を喉の奥で反芻し、特に不明なことがないのを確認して頷く。満足げに僕を見つめた老婆が、よっこいせ、と杖をついて立ち上がった。
「外のお連れらも、そこの薬草を食い尽くさぬならここで過ごすと良い。何もせぬとお主も言うたことだしの」
どうやら彼女の看病は任せてもらえるらしい。客分としてぼんやり見ているより、ずっと嬉しい処遇だった。仲魔達への寛容な提案も有り難く、自然と老婆に向かって頭が下がる。
階段を登っていく老婆を追おうとした少女がぱたぱたと駆け寄り、腕を引いて先程の葉のある場所を教えてくれた。
「あとでご飯持って来るわね。お手洗いはあそこを使って。何かあったら枕元の紐を引いてくれたら、上で鈴がなるから。他にも寝られるところあるんだけど、あのひとの傍にいたいでしょ?」
あどけなく訊いてくれる少女に頷き、改めて名を伝えて世話になる礼を言った。あたしはリーシャ、お大事にね! と少女は溌剌と言い残し、束ねた紫髪を揺らして軽やかに階段を駆け上っていった。
◆◆◆
そこから三、四日は、ほとんどつきっきりでフローラの看病に明け暮れた。
リーシャがとびきりの名医と評したマイヤ様のお言葉に甘え、仲魔達もここで過ごしている。いつもは賑やかなスライム属達も今回ばかりは大人しく、フローラの枕元にふわりと座って見守っていた。冷たい息を吐けるガンドフもまた、引き続き無理のない範囲で寝台を涼ませてくれている。大事な薬草園を駄目にしてくれるなよ、とマイヤ様に苦笑交じりの苦言を提された為、本当に控えめにではあったが。
渇き死ぬ。マイヤ様の言葉がぐるぐると回る。意識がないうちに水を飲ませてはならない、という理屈は僕にもわかるからこそ、今はただ葉肉を貼り直し、手拭いで身体を拭いてやるしかできない。あとはひたすら彼女の手を握り、こんな時にこそ縋るべき何者かに向かって祈りを捧げ続けた。
力を。命を。この病に打ち克つ生命力を、どうか彼女に。
信仰などない。今でもそう言い切れる僕が祈るほど滑稽なことはない、それでも。
祈って彼女が助かるなら、いくらだって祈ってやる。
乾いた葉肉を四度ほど取り替えた頃、ようやくフローラが薄く目を開けてくれた。
僕の呼びかけに弱々しく頷き、支え起こすとなんとか薬湯を飲もうとしてくれる。しかし身体がうまく受け付けなかったのか、すぐに口許を抑え噎せてしまった。
腕に抱えた背中をさすり、ちょうど周りにリーシャとマイヤ様がいないことを確かめてから、冷えた薬湯を口に含んだ。
薬湯は酷く苦かった。まるで海水の苦味を凝縮したような、なんとも形容し難い苦さだった。それだけ効き目も高いのだろうけど、君が苦しげにえづくのをただ見ているだけなんて嫌だった。
僕にも君の苦しみを半分、わけて欲しい。
君が僕の痛みを掬いあげてくれたみたいに。
片腕に小さな頭を載せて上向かせ、唇に指を滑り込ませる。こじ開けたその隙間を自身の唇でそっと蓋して、ぬるくなった口腔の中の液体を流し込んだ。まだ熱い唇がぴくりと動いて、細い喉がこくりと飲み込む。こんなに苦いのに、彼女と唇を合わせただけでほんのりと甘味を伴って感じられるのが不思議だな、などと思考の端でぼんやり思った。
「……りが、と……ござい、ます……」
長い睫毛を伏せ、は、と息をついた君が、少し掠れた声で囁いてくれた。軽い体重を預かって、火照った頰をそっと撫でる。
「ううん。もう少し、飲める?……」
躊躇いがちに訊くとフローラは虚ろな視線を泳がせ、力なくこくりと頷いた。どうしたって消しきれない下心を我ながら恥ずかしく感じたけど、気を取り直して器の中身を全て口に含み直し、零さないよう口移しでゆっくり、飲ませた。んく、と小さく喉を鳴らして懸命に薬を飲み込む雛鳥のような君がいじらしくて、たまらない。
「吐かないように、しばらくこうしてるね。目が覚めたらまた飲もう?」
横にしたら今飲んだ分を戻してしまうのでは、と不安で、全部飲み終えた彼女を胸に寄りかからせ、眠るのを待った。
こうしていると、ほとんど眠らず懸命にアンディを看病していた君の姿を否応なしに思い出す。
あの時の君はひどく痛々しくて、直視するのが辛かった。
魔法ではなく、こうして手ずから病の看病をするのは初めてだけれど、ここに来る前感じた、君を失うかもしれない恐怖は今は薄れて。弱った君に、こうして誰よりも近く寄り添っていられることが、どちらかというと嬉しく感じられたりもする。
そんな風に思えるのは、君が特別で、大切で仕方ないからなんだろう。
ほどなく落ち着いた、静かな寝息が聞こえてきた。まだ高い体温を感じながら半刻ほどゆるく抱きしめたあと、再び寝床に彼女を横たえた。
それを皮切りに、彼女の容体は少しずつ好転していった。浅い眠りを繰り返し、目を覚ますたび薬湯で喉を潤す。口移ししたのは初めの一度だけで、次からは支えれば器から飲めたし、もう数回繰り返す頃には自分で茶器を持って啜れるようになっていた。虚ろだった瞳にも段々と生気が戻ってきて、泣きたいほど安堵する。熱に侵された身体の修復にはまだ時間を要するものの、ここまで体力が戻れば命の危険はなかろう、と再び触診したマイヤ様からお墨付きをいただいて、ほっとしたあまり疲労がどっと肩にのしかかるのを感じた。その後は僕も床に敷いた寝袋に横になり、久々に少し深く眠ることができたのだった。
「よかった。顔色、すごく良くなったわね」
地下室に入って何日経ったのだろう。食事を運んできてくれたリーシャが、眠るフローラを覗き込み頰を綻ばせた。ここには窓がないから、外の昼夜がわからない。ずっと変わらぬこの穏やかな明るさは一体、どうやって保っているのだろう。
「本当に有難う。君のお陰で助かった」
「あなたも寝た方がいいわよ。ほとんど休んでないでしょ? 熱砂病は睡眠が足りてないと罹りやすくなるんだからね!」
びしり、と指を鼻先に突きつけられ、なんだか誰かに似てるな、などと思う。リーシャは肩から落ちた紫の髪をさらりとかき上げ、改めてフローラの寝顔を眺めた。
「綺麗なひと。空に座す女神様みたい。ね、あなたの奥様なんでしょ? こんなところまで新婚旅行?」
「新婚旅行……ああ、そうなのかな」
今更ながら間抜けだが、問われるままに頷くとリーシャはうっとりと感嘆の息を吐いてきらきらと瞳を輝かせた。
「結婚したばかりの相手と愛を育む未知の国への新婚旅行……! いやーん、素敵っ! あ、テルパドールは初めてなんでしょ? 羨ましい〜! あたしもそんな風に、好きな人と水入らずで旅してみたいなー」
「それでこんな、倒れさせてたらしょうもないけどね。リーシャはこんな風に無理させない、もっと思慮深い人を探しなよ」
うきうきと語るリーシャとは真逆に、込み上げる苦いものを呑み込み苦笑してみせたら、彼女は上目遣いに僕を覗き込み、二の腕に触れるほど身体を近づけて可愛らしく微笑んだ。
「そうねぇ。でも、テュールさんみたいに甲斐甲斐しく看病してくれる人が夫ならあたし、倒れてもいいわ」
笑いながらそんなことを言う。彼女が言うと冗談か本気かわからないな、と思いつつ笑って首を振った。
「それにしてもこの薬湯、すごい効くね。味も相応だけどさ」
ふと薬湯の入ったポットが目に入ったからぽろりと呟いただけなのだが、リーシャは驚愕に瞳を瞬かせると、再びぐいっと身を乗り出して大声で叫んだ。
「舐めたの⁉︎ やだ、それすっごーく苦かったでしょ‼︎」
頓狂な声を上げた少女に、慌ててしぃっ! と唇に指を当て制した。リーシャもあっ、と口許を抑え飛び退いたが、フローラは僕らの会話に気づくことなく眠っている。どちらからともなくほぅっと息をつき、リーシャは褐色の頰を楽しそうに緩ませて笑った。さすがに口移しで飲ませたとは答え難く、僕も苦笑いで曖昧に頷いて誤魔化した。
「あそこにある、パデキアの根を塩水で煎じたの。熱砂病の特効薬よ。発病してる人にはそこまで苦くないんだけど、健康な人には苦すぎてちょっと飲めないと思うわ」
「そうなんだ? じゃあ、フローラにはあまり苦く感じなかったのかな」
相槌を打ちながら少々拍子抜けしてしまう。あんなに苦いものを彼女一人に飲ませるのは、などと独りよがりな正義感であんな真似をしてしまったけど、実は全くの勘違いで意味がないことだったとか。飲むのが辛くなかったのならそれ自体は喜ばしいことだけど、今更ながら、恥ずかしさで耳まで熱くなってしまいそうな心地がする。
幸いにもリーシャは僕の羞恥に気づかなかったらしく、指差した薬草園の一角へとすたすた歩き去っていた。まだ幼い背中を眺める僕に向かって、少女は快活な声を投げかける。
「どんなお味に感じたか、今度お目覚めになったら聞いてみれば? 何はともあれ、これが飲み辛くなればなるほど治ってきてるってことよ。……あら?」
不意に途切れた不穏な呟きに、思わず彼女を凝視する。立ち尽くし薬草を見つめたリーシャは、顎に手を当て、首を傾げながらぽつりと漏らした。
「おっかしいなぁ。まだ育ってない……」
聞こえたのは、その一角が割と手前にあったからだ。何があったのかと視線をやると、リーシャはいつになく真剣な面持ちで僕を振り返った。
「ちょっと、マイヤ様に言ってくるわね」
尚も首を捻りつつ、リーシャは階段の上に消えた。ほどなくマイヤ様が足音もなく降りてきて、こちらを振り向くことなく真っ直ぐに薬草園へと向かう。問題の植物の前でぴたりと足を止め、腕を組んで何やら考え込んでいるようだ。ただならぬ雰囲気だが部外者の僕に何か分かるはずもなく、困惑しながらその様をぼんやりと眺めるしかなかった。
パデキア、と言ったか。僕に推察できるのは、この植物によくない兆候があるらしいことくらいだ。育っていないということは、熱砂病の特効薬だというこの薬湯も作れなくなってしまうのだろうか。だいぶ持ち直してきてはいるけれど、今この薬の材料がなくなったら、フローラは。
やがてリーシャがもう一人、女性を伴って戻ってきた。この集落に駆け込んだ日に僕らを出迎えてくれた人だ。女性もすぐに僕らに気が付き、目があったのですぐに会釈をした。彼女も軽く目礼を返してくれたが、どうやら薬草の件が火急の用らしい。足どりも忙しなくマイヤ様の元へと向かって行った。
若い女性二人の到着を待って、マイヤ様が重々しく口を開く。
「歪みを鎮めて来なくてはならん。リーシャ、すぐに行けるか」
「うん、いいけど……どういうこと? あたし、どこで何をしてきたらいいの?」
「東の海沿いにある祠よ。あそこに封じてある宝玉を、巫女の手で浄めるの」
答えたのは先ほどリーシャが連れてきた女性だ。静かに告げた女性に肯定を示し、マイヤ様が厳かに言葉を繋ぐ。
「力ある者であればある方が良い。リーシャ、今エピカに在りてあれを鎮める力を備えるのはそなたくらいのものじゃ。百年ほど前の似た事例が確か文献に残っておる。確認してからゆくが良い。しくじってもすぐにどうにかなることはないが、最悪この大陸がその名の通りのものになろう」
その名の通り、とはどういう意味だろうか。僕にはやはりわからなかったが、黙ってマイラ様の言葉を聞いていた女性二人はほとんど同時に息を呑み、蒼褪めた顔を見合わせた。
「占いに出ておったろう? 望ましくない変化があるとな」
神妙な面持ちでリーシャは頷く。しかしその傍らから、おずおずと女性が手を挙げ一歩前へ進み出た。
「ただ、マイヤ様……ちょうど今、男手が出払ってしまっているんです。もうとっくに戻っていい頃なのですけれど、こうも戻らないというのは」
「それが惑わしの霧じゃよ。ああ、全く厄介な」
やれやれと首を振り、マイヤ様はさも苦々しげに息を吐く。困り果てた様子の女性がちらちらとリーシャを見遣るのを遠目に眺めていて、ついに僕もお節介の気がざわついてしまった。
つくづく、自分はこういうことに進んで首を突っ込む性分ではなかったと思うんだけどな。
「────あの」
恐る恐る、挙手しつつ声を上げた。三人の女性がそれぞれに振り向いて、視線が一気に集まるのを肌で感じる。ひとつ深呼吸をして彼女の方へと数歩、歩み寄った。
「関係ない人間がしゃしゃり出てすみません。護衛が必要なのであれば、僕がついて行きましょうか」
真っ先にリーシャが目を見開く。次いで女性が、淑やかな仕草で口許を抑えた。マイヤ様はやや訝しげに目を細め、値踏みでもするようにじろじろと僕を見た。
「奥方が心配ではないのかえ? 持ち直してきたとはいえ、快癒には程遠いぞ」
「勿論、心配ではあります、けど……よくわかっていなくて恐縮なのですが、妻に処方していただいている薬の件でもあるんですよね?」
ぴく、とマイヤ様がこめかみを歪ませる。代わりにリーシャが何故か、前のめりに被りついて頷いた。その仕草がどこか仔犬のようで微笑ましく、思わず緩んでしまう頰を引き締め直して提言を続けた。
「皆様のお陰で妻は自分で薬を飲めるようになってきましたし、仲間も見ていてくれます。しっかりした人ですから、あまり長期にならなければ大丈夫かと思ってます」
ちらりとホイミンを振り返ると、任せろとばかりにくるりと回って青い胴体をえっへんと張ってみせた。頼もしくて今度こそ、淡い笑みが溢れてしまう。
これは寧ろ、自分にこそ言い聞かせたい言葉だった。
彼女は聡い。自分の調子は本人が一番わかっている。ここで無理を押し通す人ではないし、マイヤ様もまた、彼女が再び悪化するような施術はなさらないだろう。
大丈夫。だから、大丈夫だ。
「一応、腕には自信があります。回復も出来ます。数匹、仲魔の同行も許していただければ、彼女一人なら十分守りきれると思います。……これだけお世話になっているのですから、僕に出来ることがあるなら協力させて欲しい」
「あたし戦えるわ! 魔法だって使えるし」
一際明るく声を弾ませ、僕の提案に飛びついたのは他でもないリーシャだった。えっ、と一瞬身体ごと引けてしまった僕に構わず、リーシャは隣の女性の二の腕をがしっと勢いよく掴むと、さも興奮した様子で一息に捲し立てた。
「あたし、テュールさんがいい。テュールさんと二人で行きたい‼︎ ねぇ姉様、ついてきてもらってもいいでしょ? 急ぐなら人数は少ない方がいいわ。おねがぁい!」
頭二つ分は背の低い少女に肩をガクガクと激しく揺さぶられ、長身の女性は「ちょ、ちょっと落ち着きなさい、リーシャ!」と半ば悲鳴を上げている。こう言う時僕は役に立たないことが多いんだよな、などと思いつつ、慌てて駆け寄り少女の腕を抑えて遮った。
「いや、仲魔も連れて行った方がいいんじゃないかな? 君も戦えるのかもしれないけど、戦力は多い方が」
「平気よ。あたし、一人であなたを迎えに行ったでしょ?」
振り返りけろりと答えるリーシャに、姉らしき女性がじとりと冷たい視線を向ける。そういえば彼女はどうやら、僕達を助ける為に黙って集落を抜け出してきたんだっけ。
「リリスで駆ければ半日あれば往復できるでしょ。テュールさん、特別に一緒に乗せてあげる! あ、リリスってあたしの馬のことね。あの子もテュールさんのこと気に入ってたから、大丈夫よ!」
それはまぁ喜ばしいんだけど。妙にうきうきと楽しそうなリーシャを見ていると、先程までの不穏な空気はなんだったのかと言う気がしてくる。
「……妹の無礼をお許しくださいね、テュールさん。私、このエピカの集落で長を務めております、レイラと申します」
見るからに浮かれるリーシャを押し除け、溜息混じりに女性が名乗ってくれた。慌てて僕も答礼する。
「奥方様が大変な時に手を貸していただけるとのこと、言葉もございません。東の祠はリーシャの馬でしたら確かに半日もあれば往復可能な距離かと存じます。お留守の間、奥方様は私どもでしっかりとお世話致しますので、リーシャの警護をお願いしてもよろしゅうございましょうか」
儀礼的なやり取りではあるが、族長直々に依頼したという体裁が必要なのだろう。すぐに頷き「ご安心ください。必ず無事に、妹君をお護りして戻って参ります」と答えると、レイラ様もやっと、緊張が少し緩んだように表情を和らげた。
「やったー! テュールさん、あたしお弁当作ってあげる!」
ピクニックにでも行くかの如く大喜びの少女の頬をついに抓り上げ、レイラ様は厳しい眼差しで妹を見る。「い、いひゃい、いひゃいわ姉様」と涙目の妹に、姉はますます冷え切った声音で静かに告げた。
「遊びに行くんじゃないの。アルディラ大陸の命運があなたにかかっていること、忘れないで」
レイラ様は随分とお年の離れた姉君だと感じるが、族長の威厳か、覇気の年季がリーシャとは違う。さすがのリーシャも神妙な顔で縮こまり、こくこくと必死に頷いていた。もう一つ小さな溜息をつき指を離したレイラ様が、改めて僕を振り返り、階段へと手をかざして移動を促した。
「では、上で少しお打ち合わせを致しましょう。リーシャ、あなたもちゃんとお浄めのやり方を確認なさい。お弁当を用意するのはその後よ」
◆◆◆
どうやら今は朝だったらしい。久々に一度表に出て、ほったらかしにしていたパトリシアの毛並みを整えてやった。僕がフローラにつきっきりの間も、ピエール達が歩かせるなどして世話をしてくれたようだ。つくづくよく気の回る仲魔達を得たものだ、と感謝の念に堪えない。
すぐに出発しても良かったのだが、ずっと地下に篭りきりで不規則な生活だったことを指摘された。リーシャも清めの儀式の準備をしなくてはならず、身体の調子を整えるという意味でも一度仮眠を取らせてもらって夜出発する、という流れになった。
ここで初めて僕は地図を見せてもらい、エピカと呼ばれるこの集落が最初の目的地よりもっと先、山岳地帯の折り返し地点に位置する集落であることを知った。
思った以上の速度で歩いていたということなのか。首を捻ったがレイラ様曰く、例の見えない霧の影響だろうとのことだった。伝承に拠れば以前にも、まるで空間がねじれたように距離がおかしくなる、といったことがあったらしい。
打ち合わせから戻ったところで、フローラがすぐ目を覚ました。意識がしっかりして、受け答えも出来る様子に心から安堵する。薬の材料がきれてしまいそうなこと、状況改善の為に半日ほど留守にする旨を伝えると、フローラは不安そうながらも落ち着いて頷いてくれた。
「たくさん、ご迷惑とご心配をおかけしてしまいました。本当に私、あなたの足を引っ張ってばかりで。申し訳ありません……」
「そんなことないから。やっぱり、僕が無理させたのが悪い。せめてあの夜、もっと君を休ませていれば」
項垂れるフローラのほっそりとした肩を摩って訴えていたら、「まぁ、そう気落ちするでない。熱砂病は誰でも罹る。砂漠に慣れた者でもの」と飄々としたマイヤ様の声が背中から響いた。
「二日間は昼に歩いて、夜の移動に切り替えたと? 賢明な判断じゃが、ちぃっとばかし性急じゃったの。砂漠での休息はとりすぎるくらいで丁度良いと肝に銘じることじゃ。あとお主らの上着な、大層上等な代物じゃがちと厚すぎるな。夜にしっかり熱を放らねば内側からじわじわやられるでの。まあ冷やしすぎてもいかん、塩梅が大事じゃがの」
ひょひょ、と笑う老婆に言葉もない。フローラと二人してしおしおと肩を落としてしまったが、申し訳なさそうに睫毛を伏せるフローラを盗み見たらまたたまらなくなってしまって、滑らかな白い頰をそっとなぞった。
「と、とにかく。今はしっかり休んで治そう? 本当に焦らなくて良いから。ね」
覗き込むと、眉尻を下げたまま優しく微笑んで頷いてくれる。マイヤ様に向かって深々と頭を下げるフローラに並んで、僕も改めて老医師に謝意を伝えた。
「パデキアは元々、生育条件の厳しい薬草でな」
煎じたばかりでまだ温かいパデキアの薬湯をフローラに差し出し、マイヤ様がぽつぽつと話して聞かせてくれた。
「どこの土でも育つ草ではない。その代わり、条件さえ揃えれば恐ろしく成育の早い植物でもある。種を植え水をやれば翌朝には青々と葉をつける。こいつの根に薬効があってな。熱砂病だけではない、様々な病に効力を発揮する」
「へぇ……」
「旅の方にお頼みするのは少々、心苦しいが」
言葉を切り、マイヤ様は僕達の方へと向き直った。わずかによろめきつつ頭を下げようとするマイヤ様を慌てて止め、膝をついてその手を取る。大恩あるこの老人に腰を折らせるなどできるわけがない。目で訴えると、老長老は改めて苦笑し姿勢を正された。
「祠のこともそうじゃが、くれぐれもリーシャをよろしく頼む。あの子はゆくゆく、このテルパドールを背負って立つかも知れぬ子じゃ」
どういうことだろう。再び椅子に腰掛けてフローラと顔を見合わせ、思わず目を瞬かせる。マイヤ様は少しばかり思案したようだったが、やがて厳かに言葉を続けた。
「この国ではな、血筋ではない。力を継ぐ者が国を継ぐ」
すぐに脳裏を過ったのはモン・フィズの酒場のマスターが話してくれた内容だった。曰く、現テルパドール女王は伝説の占者ミネアの力を濃く受け継いでいらっしゃると。
「……それは、伝説の興祖ミネアとマーニャ姉妹の?」
問い返すと、無論とばかりに首肯なさる。
その形式は、僕が考えていた国家の在り様とは大きくかけ離れているように思えた。こういった力は単純に遺伝するものかと思っていたけれど、女王の子が王位を継げない理由が何かあるのだろうか。
「永い時の中で結果的に国家の体を為したというだけでの。テルパドールに王族と呼ばれる血統はない。我々はただ伝説を守り、嘆きを鎮めて生きる民」
僕の疑問などお構いなしにマイヤ様は淡々と語る。伝説、の二文字に思わず居住まいを正した。老婆は孫を見るような慈しみの篭った表情で、不思議と明るい天井をつと眺め、嗄れた声をごく静かに紡いだ。
「無論、あの子より適正ある者がいればそれで良し。よしんばあれの身に何かあったとて、問題はありはせん。……ただ、儂の目から見て、あの子が秘めた力は特に比類なきもののように思う」
それはつまり、リーシャが今現在テルパドールにおいて最も有力な次期女王候補であるという意味なのだろう。本人も戦うと主張しているとはいえ、まだ幼くも貴いその身を僕一人で護ると約束してしまったわけだ。今更ながらとんでもないことを引き受けてしまった、と知らずのうちに冷や汗が出る。
「……これも伝承に過ぎぬがの」
そう前置きして、マイヤ様が語ってくれた大昔の話は、もはや神話と呼べるほど霞みがかったものだった。
この大陸がそうなのか、問題の地が沈んでしまったのかはわからない。曰く、伝説の姉妹が拓いたと言われるこの地は元々、魔界に通じていた空間のあった場所なのだと。
勇者と七人の仲間達が魔王を討伐した、その居城が海域を含むこの一帯の何処かにあった。魔王討伐後、世界には確かに平和が訪れたがこの場所は澱み、呪われたままだった。溜まった瘴気が吹き荒れたせいで大規模な地殻変動が繰り返し起こり、植物は枯れ果て水も干上がって今の砂漠が生まれた。この呪われた土地に再び命を宿さんと姉妹は力を合わせてこの地に彷徨う御霊を鎮め、また、彼の勇者の伝説を語り継ぐ為様々に尽力したのだと言う。
魔界と呼ばれる異空間とこの世界を繋ぐ空間を勇者が封じた際、どうしてもわずかな歪みが残ってしまった。異形が通れる穴ではないが、数百年周期でこうして異界の瘴気が漏れ出て影響を受けるのだそうだ。例えば今回のように土壌が侵されたりとか、目に見えぬ霧が方角を狂わせたりとか。僕達が中々集落を見つけられなかったのも、今この集落の男性陣の帰還が遅れていることも、歪みから発生する異界の瘴気に因るものであろう、とマイヤ様は仰った。
その歪みは今も魔界に通じているのか。思わず食いついてしまった僕を額へのひと突きで黙らせ、マイヤ様は少しばかり怪訝な目を僕に向けた。
「なんじゃ。お主、まさか魔界の門を開けようと言うのではあるまいな」
「いや、開けようっていうか……魔界に通じる場所があるなんて初めて聞いたから」
警戒心をあらわにするマイヤ様にこれ以上、どう話したものか迷う。あまり込み入ったことを話すのは気が引けるのだけど、確かにこれだけ聞くと魔物遣いである僕は魔界から大量の魔物を召喚し、世界を混沌に陥れようとする大罪人にも見えてしまうかもしれない。
「……その、母が」
言葉を濁そうとしたが、しかしマイヤ様は見逃してくださらなかった。真っ直ぐ射抜いてくる厳しい眼差しに根負けし、心配そうに見守ってくれるフローラの手を繋ぎ直して深く息を吸い、ゆるゆると吐く。
「母……が、魔界に囚われているそうです。僕自身は全然、覚えてないんですけど。幼い頃亡くなった父が、僕に遺言を残してくれました。勇者を、見つけよと……彼の力を借りて魔界へ行き、母を救い出して欲しいと。テルパドール城にかつての勇者の墓がある、と聞いて、何か勇者への手掛かりを得られないかと思って……それで、ここまで来たんです」
なんとか言い終えてそろそろと顔を上げると、老婆はいつもの鋭い瞳に薄く戸惑いを浮かべて僕を見つめていた。思いがけない反応にこちらが驚いて目を瞬かせてしまう。あの、と言いかけた僕よりほんのわずかに早く、マイヤ様のもの静かな声が場に響いた。
「……魔界とはまた、穏やかではないの」
だから、嫌なんだ。
こんな風に同情されるのは慣れていない。大体母そのものに今まで思い入れなんてほとんどなくて、父の遺言だから、助けなくてはいけないのだと僕はずっと自分に言い聞かせてた。フローラに出逢って、自分の感情にやっと少しは向き合えるようになって、自分にも母を恋しく思う気持ちが多少なりともあったのかもしれない、なんて思えるようになったばかりなのに。
「正直、僕も全然実感が湧かないです」
じわりと喉元に込み上げる熱さを必死に堪えて、控えめに笑って見せる。そんな自分を悼ましげに見遣る瞳が、優しい棘のようで、痛い。
「でも、……本当に生きているかも、わかりませんけど。母が今もそこにいるなら、生きていてくれるなら……魔界だろうがなんだろうが、会いたいかな、って……」
そんな眼差しに都合良く甘えて、感傷に浸ってしまう自分が何より浅ましくて、嫌になる。
フローラはさっきから一言も言葉を発しなかったけれど、ずっと僕の腕に手を添えて寄り添ってくれていた。
こんな時、君の優しさに泣きたいほど癒される。フローラの気配は、ただそこに居るだけで僕の幼稚な矮小さをまるごと抱き留めてくれる。同情なんかじゃなくて、本当にそれでいいんだって。否定せず、ただ肯定してくれる。それがとても、心地良い。
彼女の前でだけ、僕は真実、自分に素直になれる。
「……残念じゃが、そこの歪みはあくまで『歪み』じゃ」
ややあって、遠い目をした老長老はそうぽつりと呟いた。
「気が遠くなるほど永い時が経ち申した。歪みと言っても、その向こうは既に魔界ではないかもしれぬ。否、伝説の頃の魔界であり、お主の言う魔界と同一とは限らぬ、かの。お主の母君に繋がる可能性は極めて低いと思われるが」
「魔界とは、唯一ではない……複数存在している、ということですか?」
「どうかの。確たる答えなど誰も知らぬよ」
そこまで言って、マイヤ様は口許にだけ穏やかな笑みを浮かべて僕を見上げた。漆黒の瞳はまるでどこかの異界に通じていそうな、不思議な奥深さをたたえている。
「お主、眼に視えるこの世の他に魔界の存在は信ずるのであろう? ならば何故、異界と呼ぶべき界がその二つだけと言い切れる?」
────あ。
深い感慨とともに唐突に、記憶の蓋がひらいて弾けた。
そうだ、僕は知ってる。幼すぎてもう朧げな記憶だけど。
視界を埋め尽くす真っ白な雪、氷の城、誰にも見えなかった小さなともだち。今でも夢だなんて思ってない。確かに歩いたんだ、あの幻みたいな、妖精達の棲まう大地を。
失いかけていた記憶の欠片を懐かしむ隙もなく、マイヤ様の続く言葉は僕を残酷に現実へと引き戻す。
「斯様な昔話を知っておるか? 数千年、神代の昔じゃな。魔族の侵攻から国を守らんと、更なる異界の神を召喚した王がおったそうな。だが神の怒りを買い、結局は国は滅び、民草もろとも国は呪われ、亡者達の魂は未来永劫、その次元に縛られ続けておるという。……古地図に拠れば、その国もまたこの近くにあったようじゃの」
淡々とそこまで告げて、マイヤ様は言葉を切ると、僕をひたと正面から見据えた。
────不用意に異界に干渉してはならぬ。
そう、言われた気がした。冷たいものが背筋を伝って、気づくと僕は深く頷いていた。いつのまにか速まった脈を、フローラの温かな手が落ち着かせてくれる。僕のそばで黙って話を聞いていたフローラを一瞥し、マイヤ様はくつくつとくぐもった笑いを零して立ち上がった。
「まさしく神話の類いじゃが、興味があるならテルパドール城の書庫をあたると良い。儂の名を出せばそれなりに奥の本も閲覧できるじゃろ」
しっかり休めよ、と言い残しマイヤ様は階段に向かって去っていく。朧げに気になっていたことを訊いてみたくて、その丸い小さな背中に急いで問いを投げかけた。
「マイヤ様。差し支えなければ、教えていただけませんか。……あなたは……」
只者ではないことはわかる。薬草の知識だけではない、まるで禁書の内容を語られた気分だ。これほど歴史にも伝説にも明るく、テルパドールの内情にも精通しているこの方は、一体。
いよいよ階段に足をかけようとした老婆は、慇懃に振り返ってみせると歯の抜けた口許を愉快そうに弛ませて答えた。
「何、ただの老いぼれじゃ。その昔は暁の巫女姫などと呼ばれたこともあったがの」
僕にはやはり正しくその意味を受け取ることはできなかったが、隣のフローラが小さく息を呑んだ。マイヤ様は肩を揺らしてひっそりと笑い、杖をこつこつ軽快に鳴らしながら階段の上へと消えた。