Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
『暁の巫女姫』という二つ名が、数代前のテルパドール女王を指した呼称である、とフローラから聞いて、度肝を抜かれながらもなんとか仮眠をとること数時間。
すっかり日が暮れて気温がみるみる下がってきた頃、予定通り、リーシャと僕は連れ立ってエピカの集落を出発した。
「こんなにわくわくするの久しぶり! えへへ、よろしくね! テュールさん」
小柄なリーシャを腕にすっぽり収める形で鞍に跨る。リーシャはその独特な力故、目に見えぬ霧が作用しづらいそうだが、僕はしっかり影響を受けてしまうから、絶対彼女とはぐれないようにとマイヤ様から繰り返し諭されてきた。
ただでさえ彼女は大事な身の上、僕としてはやや緊張していたのだが、弾む声で僕を振り返るリーシャは無邪気な、どこにでもいる屈託のない少女でしかなくて。あまりの朗らかさに、こちらの緊張も程よくほぐれた。僕にもし妹がいたらこんな感じなのかな、なんてちょっと思ったりして。
「うん、よろしくね。実はあまり馬には乗り慣れてなくて、正直リーシャが頼りなんだけど」
「任せて! 向こうに着いたらお夜食、食べようねー」
大事なお役目を頂いて祠に向かうとはどうにも思えない、なんとも和やかな雰囲気だ。「あ、本当に作ってきたの?」と訊いたら、得意げに斜めがけの鞄を指差された。
「着いてからのお楽しみ! ふふっ、お口に合うといいけど」
フローラを看病している間もそれなりに言葉を交わしていたと思うんだけど、改めて話すとリーシャは若いな、などと思う。若さ故の生命力に溢れているというか、エネルギーが違う。それでいて割と話しやすいのは、彼女が普段からマイヤ様やレイラ様のような、成熟した大人達に囲まれている所為か。
僕らを乗せた愛馬を数歩、かぽかぽと歩かせると、リーシャはやっぱり聞き取りづらいあの呪文を唱えて、愛馬の身体をそっとなぞった。
「この間も気になったんだけど、それなんて魔法? 初めて見た」
「えっとね、なんていうのかな? 古代魔法だから発音難しくて。ピョルム? ピォラム? うーん、とにかく速さを上げられる魔法なの」
彼女は尖らせた唇の辺りをとんとんと弄りつつ、少しゆっくりと呪文を発音してくれた。確かに独特の響きというか、訛りみたいに聞こえてやっぱりよくわからない。「マイヤ様が教えてくれたの」と彼女はまた肩越しに振り返り、照れ臭そうに笑った。
「すごいね。リーシャって僕よりかなり年下だろ? 僕も魔法は使うけど、古代魔法なんてのはさっぱりだ」
「ふふーん、花の十四歳よ。若さが眩しいでしょ? おじさん」
「うわ、傷つく……僕だってまだ二十にもなってないんだけど」
それじゃ離れているといっても精々四、五歳差だ。だというのに、まるで叔父と姪かのような物言いに思わず、恨みがましい呟きが漏れてしまう。そういや最近なんとなくだけど、小さい子供からおじさん呼ばわりされることが増えたなぁ。どこの街だったか、鬼ごっこしていた子供達から口々におじさん! と声をかけられたのは地味に堪えた。がっくりと肩を落とす僕にフローラは「だ、大丈夫ですわ。あなたがおじさんなら私もおばさんですから」と優しくフォローしてくれたけど、僕はともかくフローラの容姿でおばさんだなんて誰も思わないと思う。
「冗談よ。テュールさんてなんだか大人っぽいから、もっとずっと年上かと思ってたの」
くすくす。褐色肌の少女は、月明かりに溶け込むような艶かしい笑いを溢す。紫の髪は束ねた上で一つに編まれ、彼女の背でゆらゆらと揺れていた。座っても尚頭ひとつ分、僕より小さい彼女を見下ろし、悔し紛れの戯言を吐き出す。
「へぇ。おじさん臭いって?」
「ううん、カッコいいってことっ!」
朗らかに彼女は答え、勢いよく手綱を引いた。ヒヒン! とリリスが高らかに嘶き、瞬時にぐい! と加速する。あっという間に砂煙を立ち昇らせ疾走を始めたリリスに慌ててしがみつくと、僕とリリスの間で半ば潰された格好になったリーシャは肩を震わせ、可笑しそうに笑った。
「落っこちないでね。飛ばしていくわよ!」
……全く、調子いいんだから!
身体を起こし、激しく吹きつける風と砂に対してなるべく抵抗が少なくなるようバランスを取り直す。凍りそうな冷たい風が、砂塵を伴って痛いほどに頰を叩きつけていく。はためく外套を彼女の前方にかざし、風の音に掻き消されないよう彼女の耳の近くで囁いた。
「寒くない?」
思った以上に冷える。これだけ速度を出せば当然だろうが、僕の前で風を受けるリーシャが心配だった。しかしリーシャは軽く上向いてにこっと笑うと、いつもの調子で明るく答えてくれた。
「ぜーんぜん! テュールさん、すっごくあったかいもの」
本当に平気そうな様子にほっとする。彼女も防寒着は着込んでいるし、僕よりはこの冷え込みに慣れているのかもしれない。彼女の背中は僕の前身と密着しているから、多少はそこから暖をとれてるのかな、と僕も自分を納得させた。
「この速度だったら、そんじょそこらの魔物は振り切っちゃいそうだね……」
上下に揺さぶられる激しい振動に身を任せながら遠く前方へと目を凝らす。湿度がない澄みきった空気の砂漠は、夜でも月明かりだけで遠くまで見渡せる。砂丘が次々に近づいては流れて、視界の端へと吸い込まれ、消えていく。
「うん、そのほうが楽かなって────わっ!」
唐突に短く叫び、リーシャが乱暴に手綱を引いた。ずっと向こうに何か蠢くものがある。迂回するのかと思った矢先に足元から何かがズン、と立ち上がった。驚いたリリスがけたたましく嘶き、前脚を激しく跳ね上げた。
「リリス、落ち着いて! ただのキングスライムよ!」
主人を振り落とさん勢いで暴れる愛馬を懸命に宥める、リーシャの掌の上から手綱を強引に掴んだ。思いきり横に引いて軌道をずらし、着地する地面をちらりと見て息を呑む。砂地だと思った地面にいつのまにか、数体のマドルーパーが張り付いて僕らを待ち構えていた。
「────バギマ‼︎」
咄嗟に無詠唱で風魔法を放つ。かざした手で父の剣を引き抜き、怯んだマドルーパーの額を抉った。ほとんど同時にリーシャがベギラマを放ち、まともに喰らったマドルーパー達がもんどりうってのたうち回る。そこへみるみる巨大化したスライムが、ぼよんと跳ねて飛びかかってきた。
「合図したら拾って。剣の方が早い」
早口に言い残してリリスの背から飛び降りた。「テュールさん! 危ない!」と金切り声をあげるリーシャに構わず、着地の反動に体重を乗せ、キングスライムの足元に向かってめいっぱい剣を振り抜く。死に損なったマドルーパー達が背後からわらわらと躍りかかるが、次々に薙ぎ払った。
────もういないか。あとはキングスライムだけ、マドルーパーが沈んだのを確認して向き直ると同時に、身体の脇から火球が飛んできてキングスライムに直撃した。
「とどめ刺して! テュールさん!」
ぐるりと旋回して戻ってきたリーシャが馬上から叫ぶ。ぴゃぁあ、と泣いてのたうつキングスライムを少しばかり可哀想に感じて、敢えてその頭上に向かってバギを放った。初級の風魔法は王冠だけを弾き飛ばし、その瞬間、山の如く大きかったキングスライムの身体が一瞬でばらばらと分裂して崩れ落ちる。
「リーシャ!」
疾走する少女に向かって手を伸ばし、崩落するスライムの下敷きになる寸前で手綱を掴み、再びリリスに飛び乗った。速度を増したリリスは勢いよくその場を駆け去っていく。揺れる愛馬の背から後ろを振り返り、リーシャがはぁあと脱力して息を吐いた。
「あー……びっくりした。いきなり降りるなんて危ないわよ、もう!」
「だって、馬上からじゃ、剣がうまく……届かなくて」
乱れた息を軽く整え応酬する。とんとん、とリリスの脇を軽く叩き働きを労ったら、僕の言いたいことが伝わったみたいで、疾走しながらも軽く首を傾げて応えてくれた。
「炎魔法、得意なんだね。いい間合いで助かったよ。最後のはちょっと、燃やされかけたけど」
冗談も交えつつ腕前を褒めたら、リーシャもどうやら気分が良くなったらしく得意げに笑って胸を張った。
「だから戦えるって言ったでしょ。最後のだって燃やさなかったもーん」
「はいはい」
どこかで交わしたような会話につい笑いが漏れてしまう。そうそう、レヌール城の冒険の時、ビアンカのメラに外套を燃やされそうになったんだっけ。ビアンカは僕にとって姉そのものだけど、リーシャはそれよりずっと幼いから、見た目はともかく、性格だけ見たら本当に妹みたいな気がしてしまう。
「でも、あたしはちょっと焦っちゃったけど、テュールさんは落ち着いてたね。あっという間に倒しちゃったし、頼もしかった」
得意満面で僕の笑い声を聞いていたリーシャが、軽く肩をすくめて囁いた。なんとなく、照れているような気配を感じたものの、僕はいつもの悪癖でそんな彼女を見て見ぬ振りをしつつ、無難に茶化して誤魔化してしまった。
「見直した?」
「見直したー!」
あはっ、と声を上げて笑った彼女が後ろにばふんと寄りかかり、甘えるように体重を僕に預けた。……過ちは繰り返すものというが、後から思えば僕はこの時、もっとちゃんと線引きをすべきだった。期待を持たせたつもりは毛頭なかったけど、彼女の好意は明らかに僕に向いていた。分別ある大人として、それくらいの意思表示はして然るべきだったのだ。
その後、いびつな形の山があると思ったらケムケムベスの群れが熟睡していて、その横を息を殺して通り抜けたり。通りすがりのオークに槍を投げられたりと、何度か魔物との遭遇はあったがどれもうまく交わしきり、僕達は概ね予定通り、東の祠へと辿り着いた。
◆◆◆
思ったより大きなその祠は石造りの建物ではなく、見事なテントで出来ていた。否、恐らく祠の前にテントが張られているのか。ここを管理しているであろう老人が夜更けにもかかわらず、驚きながらも僕達を出迎えてくれた。
「おや! エピカのリーシャちゃんじゃないか。大きくなったなぁ」
蝋燭に火を灯したカンテラで僕達を照らしたご老人が顔を綻ばせた。どうやら二人は顔見知りらしく、リーシャは愛馬の背からひらりと降りて淑女らしく身を屈めると、愛想よく挨拶をする。
「お爺さん、久しぶり! 今日はあたし、姉様の代わりに祠のお浄めに来たの」
「おお、そうかそうか。そういやお浄めも十何年ぶりかね。ささ、まずは少し中で休んでおいで、お付きの方も一緒に」
丁寧に促され、リリスを表に繋いで中に入った。思いの外しっかりと木材に支えられた天幕の内側は広々と拓けていて、いかにも民族的な誂えを施されている。暗くてよく見えなかったが、表に木が生えていたので、ここにも水場があるんだろう。老人の生活スペースの他に、旅人が羽休めしていけるような一角も備えられている。寝台はなく、代わりにハンモックが吊るされていた。落ちたりしないのかなぁ? なんて、思わず不届きなことを考えてしまった。
「さっ、一仕事の前に腹拵えしなきゃね! お爺さん、こんな夜遅くに本当にごめんね」
老人を気遣いながらも、ちゃっかり鞄から夜食とやらを取り出す。「お爺さんも、良かったら朝にでも食べて!」と一包みを老人に押しつけ、鮮やかな朱い敷物にさっさと腰を落ち着けたリーシャが嬉しそうに僕を手招きした。
「じゃーん! リーシャ特製、ピタサンド〜っ!」
わざわざ夜食の包みを高らかにかざし、宝箱でも見つけたかの如く声を弾ませる。なぜかその幼い仕草がツボに嵌って我慢できず、ぶはっと噴き出してしまった。「んもー、何よ! どうせ子供っぽいですよーだ!」と頰を膨らませるリーシャに笑いを堪えつつ謝って、差し出された円いサンドイッチを受け取った。
薄く焼いたパンに、見慣れない葉野菜と大ぶりな肉を焼いて挟んである。嗅いだことのないスパイシーな香りが食欲を刺激した。かぶりつくと中から旨味たっぷりの肉汁が溢れ出て、パンにじわりと浸み込んでいく。
「美味しい。あんまり食べたことない味だけど」
じっくり咀嚼してから飲み込んでぼそり呟くと、テーブルに肘をついて僕達を微笑ましげに眺めていたご老人が嬉しそうに言った。
「レイラちゃんも昔、何度か作って持ってきてくれたもんじゃよ。姉さんは元気にしとるかい」
「もっちろん! 来年初めての赤ちゃんが生まれるのよ。もう楽しみで楽しみで!」
うきうきと答えたリーシャの言葉に驚いて、思わずごほっと噎せてしまう。
レイラ様のお腹に赤ん坊がいたなんて、全然気づかなかった。
僕の動揺には双方構わず、ご老人はきらきらと嬉しそうに笑い、リーシャの言葉に何度も頷いた。
「ほおぉ、そうかそうか! めでたいのう。レイラちゃんに似た子を授かっていると良いの」
「うん。みんな一人目はやっぱり女の子がいいねって言うけど、どっちでもいいわよね。可愛く元気に生まれてくれれば! あたし、いっぱいお世話して遊んであげようって思ってるの!」
ご老人の瞳がほんのわずかに揺らいだが、リーシャは尚も屈託なく笑っている。何となくだが、彼らテルパドールの民に於いて、女性という性別が真実特別なものなのだろう、ということはもう察しがついた。それが恐らく、伝説の姉妹の力に由来するものであろうことも。だからといって男の性が蔑ろにされている様子はないが、この大陸に伝わる伝説を守るために必要不可欠なのが恐らく、女性だけに受け継がれ発現する力だということなのだろうな、と。
楽しげにサンドイッチを頬張るリーシャの隣で些か複雑な心境のまま軽食を食べ終え、その横顔をぼんやり眺めていた。
十四歳か。前にも似たようなことを考えたのを思い出した。僕とヘンリー、マリアさんが修道院に流れ着いた時、入れ違いでサラボナへと発ったフローラが丁度、十四歳だったはずなのだ。
あの時、もう少しだけタイミングがずれて君と修道院で出会っていたら、僕の人生は今頃どんな風に変わっていただろう、と時折こうして考える。
今より少し幼いであろう君だけど、リーシャみたいな無邪気な少女というよりは、やっぱり今みたいに落ち着いたお嬢さんだったろうな、という気がする。修道服姿のフローラも割とすんなり思い描くことができた。
すっかり物思いに耽っていたら、リーシャがひょいと正面を覗き込んできて「ね、あたしっていいお嫁さんになりそうでしょ?」と悪戯っぽく笑う。
「そうだね。そこは保証するよ」
笑って返すと軽く憤慨したように「ちっがーう! そこは『僕がお婿さんに立候補するよ』とか言うところでしょ!」と下手な声真似を交えつつ宣われたので、「残念だけど、立候補はもうしちゃったから」と更に笑って答えた。リーシャはその回答がお気に召さなかったらしく、女心が分かってない! などとぶつくさ呟きながら、最後の一欠片をもぐもぐ食べていた。
フローラも以前、実はお嫁さんになるのが夢だった、とはにかみながら教えてくれた。年頃の女の子が抱く可愛い夢の一つなんだろう。夢を叶えていただきました、と微笑んだ愛らしいフローラを今も鮮明に思い返せる。歳の近い既婚者だから、リーシャから見たら憧れめいたものもあるんだろう、などと微笑ましく考えつつ、黙って食べ終えるところを見守った。
小腹も落ち着いたところでいよいよ、浄めの儀式を行うことになった。
「僕も居合わせていいの?」と訊いたら、きょとんとして「いいんじゃないかしら。別に一人でやれとは言われてないし」と返されたので、護衛がてら、祠の隅で見せてもらうことにした。祠はやはりテントの外、水場に面して奥まった場所にあった。凍りそうに冷え込む深夜の外気に白い息を吐きつつ、老人から預かった鍵で祠の扉を開けた。
中は本当にこぢんまりとしていて、借りてきたカンテラをかざすと小さな祭壇の中央、銀の器に白く濁った、小指の先ほどの大きさの卵型の宝玉が供えられているのが見えた。「うん、これね」とリーシャは頷き、すぐさま鞄から聖水らしき小瓶を取り出して何やら小声で唱え始める。
何かな、とは思ったけれど、邪魔しないよう黙って見ていた。
恭しく小瓶を押し戴いたリーシャが、その蓋を開けて宝玉の器に直接注ぐ。
この寒さじゃあっという間に凍ってしまいそうだな、なんてまた余計なことを考えてしまう。注ぎ終わる頃、器の中で聖水に浸かった宝玉が淡い光を帯び始めた。見間違いかと目を擦ったけれど、光はじわじわと強さを増していく。
外に光が漏れたら魔物に見つかるかも、と慌てて祠の扉を閉めた。
その光に両手をかざして、リーシャは厳かに唄を、奏で始めた。あの古い魔法のような、僕には意味を聞き取れない、どこか哀しい響きの唄を。
まろやかな歌声が伸びると同時に、宝玉の光が次第に、白から朱へと変わっていく。
唐突に、
異空間に投げ出された心地がした。
何と表現したらいいのだろう。今までいた場所とは隔絶されて、足場がおぼつかないような、浮遊感に似た感じ。砂漠の静けさとも違う静謐な空間に、リーシャの歌声と息遣いだけがなぜか生々しく響く。
その、まっさらな空間の中に────
見えないのに。何も、視えないのに。
潰されそうなほど深く重い慟哭が、どん、と幕が落ちたように一瞬で満ちてこの場を支配した。
空気が。大気が。激しく揺さぶって感覚を全て捉える。胸が千切れそうな、苦しいほどの想いとでも呼ぶのか。怒涛の如く流れ込んで身体を、精神を砕いていく。これは怒りか。憤りか。為す術もないほどの哀しみか。痛み、問いかけ、求め恋う気持ち、落胆と絶望と虚脱と忿怒、怨恨、腸が煮えくり変えるほどの、
──────頭がおかしくなりそうだ。
「……っ、リーシャ……?」
いつの間にか、彼女の歌声が聴こえなくなっていた。
ぞ、と怖気が走って、無意識のうちに彼女が居た方へと駆け寄った。見えないその場所に手を伸ばし、何かを掴んで引き寄せる。均衡を崩しまろび落ちたその指先に、今この場を支配する朱い光の源が触れた────
気がついたら、元の薄暗い祠の中だった。
氷のような床に膝と掌をつき、脂汗を滴らせた僕が見たのは、驚愕に瞳を見開き真っ直ぐに僕を見上げるリーシャの顔だった。状況がすぐに飲み込めなくて、その瞳を見つめ返してからぎょっとした。倒れ伏したその下に、僕はリーシャを押し倒すように組み敷いていたのだ。
「うわっ‼︎ ご、ごめん‼︎」
謝罪とともに身体を勢いよく跳ね上げ、彼女から飛び退った。ただの驚愕から、次第にほんのり頰を染めつつあったリーシャが「別に、いいけど。何よ、お化けでも見たみたいにさ」と不貞腐れて呟いた。そういうわけじゃないんだけど、今起きたことを咄嗟にうまく説明できなくて、どうにも口籠ってしまう。
何も言えず俯いた僕に構わずリーシャは身を起こし、改めて祭壇の宝玉を浄めるべく立ち上がった。
「あ、れ?」
上擦った声がして、今度こそ戸惑いを隠さず彼女が振り返る。僕も何事かと祭壇を覗き込んで────言葉を失った。
さっきまで間違いなく乳白色だった。どこか古びた雰囲気すら帯びていた宝玉が、まるで研磨したての艶やかな紅玉にその姿を変えていたから。
「…………えっ、何? 何したの? テュールさん」
「え⁉︎ いや、何もしてないよ。本当に、ちょっとぐらい触ったかもしれないけど」
真顔で話を振られ、動揺を必死に抑えて弁解した。おかしな空間に闖入して儀式を遮ってしまったことは認めるけれど、誓って僕自身が何かしたわけじゃない。
「でもあたし、こんな風になるなんて聞いてない」
そんなこと言われても、本当に心当たりなんかない。訝しげなリーシャと今一度目があって、ぶんぶんぶんと首を振った。
「なんか、ものすごい……、辛そうな嘆きを感じたの……」
吸い込まれそうな真紅の輝きを纏う宝玉を見つめながら、リーシャがぽつり、と小さな呟きを落とした。
それは僕が感じたあの重苦しさと同じものだろうか。彼女の横顔を覗いて続く言葉を待っていると、彼女はゆるく息を吐いてふるふると首を振った。
「……でも、今はもう何も感じないわ」
安堵と落胆が入り混じった言葉に黙って頷く。何事もなかったかのように、全ては夢の出来事だったみたいに、祠の空気はさっきここに入った時となんら変わらなかった。宝玉も特異な光なんて放っていない。ただその色味を大きく変えたと言うだけで。
……駄目だ、感覚が麻痺してる。白かった宝玉が深紅に変わったなんて、十分大層なことじゃないか。
「何だったんだろうな。さっき、光がどんどん朱に変わったと思ったら、急に……なんか、結界にでも放り込まれたみたいになって……」
「テュールさん、ねえ、さっきからどうしちゃったの? 光なんて……何も光ってないじゃない‼︎」
悲鳴じみたリーシャの叫びに益々戦慄が走る。光って、ない?
確かに発光していたんだ。その宝玉が、白く淡い光から血のような朱い光の渦へと変化して。リーシャには見えていなかった? まさか、今のは僕だけが視た幻だったとでも言うのか?
「え……待って。じゃあ、リーシャはさっきからずっとここで、変わらず歌ってただけなのか⁉︎」
「う、うん。あれ、テルパドールに伝わる子守唄なんだけど、浄めの儀式はあれを歌いながらありったけの魔力を宝玉に注いで来いって言われて」
「その間、僕はずっと後ろにいたよね? 黙って聴いてた?」
「と、思う……けど……」
畳みかけるほどしどろもどろになっていく少女とまじまじと顔を見合わせた。そこそこ修羅場を潜ってきた自信があったけど、さすがにこんな奇妙な現象は初めてだし、想定外だ。
「……やだ、なんか、気味が悪いね……」
悪寒を封じるように、リーシャが小さな肩を抱いた。ぶる、と震えたその背中を、今更ながら労いと慈しみを込めて撫でてやる。すっかり怯えた様子のリーシャが涙目で僕を見上げた。一人で来させるのもあれだったけど、僕が邪魔しなければ恙なく儀式を終えられていたのだろうから、やっぱり余計なことをした感は否めない。
「夜に来るのはやめておけば良かったかな……」
「うう……テュールさん、あたし帰り道怖くなってきた」
静まりかえった祠は薄暗さも相まって、不気味なことこの上ない。自然、身体を寄せてきた少女の頭をもう一度撫でやり「少し休ませてもらってから、明け方に出よう。儀式……は、もう大丈夫?」と尋ねた。とりあえずここに居たくないというようにリーシャは必死に頷き、腕にべったりとしがみついた彼女を慰めながら祠を後にした。
明るくなってからもう一度お浄めをやり直すべきか。軽く相談したけれど、宝玉の様子があまりに違ったこと、リーシャ自身がおかしな気配を感じなくなっていることから、朝もう一度だけ様子を見て、問題なければエピカに戻ろうという話になった。
その後、テントのラグを借りてリーシャは死んだように眠ってしまい、僕もまた座ってうとうとしながら朝を待った。途中何度か浅い眠りに落ちたけれど、なぜかその度フローラの碧い髪が瞼の裏を過った。
大丈夫かな。悪化していないといいけれど。
翌朝、テントから見える海がようやく白らんで明るさを取り戻し始めた頃、まだ眠そうなリーシャを促して祠を出発した。
発つ前に僕だけで祠を除いたけれど、やはりあれは夢などではなく、祭壇の中央には、昨夜はなかった真紅の宝玉が物言わぬ不思議な輝きを放ち、銀の器に収まっていた。
◆◆◆
そこから一刻半ほど、魔物を回避しつつリリスに頑張ってもらって、エピカへと戻った。
既にすっかり夜が明けて、集落は少しずつ朝の活気を帯び始めていた。砂塵を捲き上げつつ小さなオアシスへと駆け入ると、すぐに耳に心地の良い澄んだ声が「テュールさん!」と軽やかに僕を呼ばった。
「────フローラ⁉︎」
聴き間違えるはずがない。声のした方を急いで探すと、朝日にきらめく湖畔の傍、伸びた椰子の木陰に座っている最愛の妻が目に止まった。仲良しの魔物達に囲まれた彼女は腰を半分浮かせ、僕と目が合うなり輝くように破顔する。たったそれだけで、僕の胸は一瞬で甘やかな幸せに満たされる。
「起きていて大丈夫? 体調はどう?」
喜びに逸る心を抑え、水場の周りをぐるりと廻り失速するリリスの背から呼びかけた。久しぶりに太陽の下で見たフローラは、病の所為か前以上に痩せて見えたものの、花が綻ぶような春めいた微笑みはいつもの彼女そのものだった。ほんの五日ぶりのことなのに、ひどく懐かしいような気がする。行っておいでよ、と苦笑したリーシャに促され、礼を言いながらも忙しなく飛び降り、駆け寄った。
「はい、もうすっかり熱も下がって、こうしてお散歩させていただけるまでになりました。助けてくださったリーシャさんと集落の皆様、そして……あなたのお陰です」
薄紅色の頰を撫でたら、幸せそうにやわらかな笑みを浮かべて掌へと頭をすり寄せてくれた。よくよく見れば彼女の周りには仲魔達だけでなく、集落の女性や子供達も集まっていて、物珍しげに彼女達を眺めていた。褐色肌の人々の中心に座り、背後の湖にも溶け込みそうな碧髪をなびかせ微笑む彼女は、その白さが益々際立って、この地に舞い降りた天空の女神にも見える。
聖母の如く毒気のない穏やかさで仲魔達と戯れる、その様を見れば、彼らが人に害を為すだろうなどと思えるはずもない。現に数日前、僕がもらったような排他的な視線は今はどこからも感じなかった。
「油断するなと言うておろうが。言っておくがあと五日は最低でも様子見じゃぞ? 解熱くらいで出立の許可は出せんわ」
とにかく元気になって良かった。そう言おうとしたところで、建物──診療所から出てきたマイヤ様が苦々しく牽制した。とは言っても老女の瞳はあくまで優しく、フローラの回復を心から喜んでくださっているのが見てとれる。
「高熱のあとは得てして肚の内がやられる。もう暫くは大人しく養生せい」
ぶっきらぼうにも聞こえる忠告ぶりだったが、フローラはふわりと相好を崩すと、はい、と素直に頷いて主治医に向かって頭を垂れた。
彼女のこういうところも、現地の人々の好意をいただける一因なのだろう。
碧い髪がさらりと衣擦れめいた音を立てたところで、リーシャに手を引かれたレイラ様が現れた。こちらもほっとしたように表情を緩ませ、妹にぐいぐい引っ張られながらこちらへと歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ。まずはご無事で安堵致しました」
丁寧に出迎えていただき、こちらも会釈を返す。フローラにも穏やかな視線を送り「奥様も大分お元気になられたようで。誠にようございました」と労りの言葉をかけてくださった。
さて浄めの儀式の報告を、というところで、場所を改めることになった。込み入った話をするには衆目もあるし、戸外はぐんぐん気温を上げている。僕も既にじっとりと汗ばんでいて、病み上がりのフローラが長時間過ごして良い気候ではなかった。
マイヤ様の屋敷でもある診療所の一階、殺風景な白壁の一室に通された。祠のテントにあったものに似たラグの上にそれぞれ腰を下ろす。フローラは部外者だからと同席を躊躇っていたが、身体が辛くないなら来るが良い、とマイヤ様に諭され、遠慮がちに僕の隣に座った。その反対側、レイラ様と僕の間にリーシャがちょこんと収まる。正面にマイヤ様がよっこらせと腰を落ち着けて、一同を見渡すとおもむろに口を開いた。
「今朝方、パデキアの成育を確認した。腐らせず済んで何よりじゃ。リーシャ、テュール殿よ。双方ご苦労だったの」
どうやら上機嫌なマイヤ様の労いだったが、僕とリーシャは思わず顔を見合わせた。有り難いことだがどうにも釈然としない。
「テュール殿にはわからぬかもしれぬが。歪みの瘴気が消えておるじゃろう? レイラ、婿殿らも近く戻るであろうよ。安心せい」
ほっとしたらしく柔らかな表情を浮かべたレイラ様を盗み見て、そうだ、彼女は身篭っていらっしゃるんだった、と昨夜の話を思い出した。腹部を見てもやはり子の有無はわからなかったが、どうやら伴侶……つまり赤子の父親が戻らないことを心配していらっしゃったのだろう。この件が解決して、戻る見込みが立ったのなら本当に良かった、と素直に思った。
しかし、その隣のリーシャはまだ浮かない顔だった。ちらちらと僕と姉を見比べては、俯いて押し黙る。
多分宝玉の件を言いたいのだと察しはついたが、僕も頭の中であの出来事を思い返しただけで黙っていた。
だって、何をどう説明すればいいのか。結局儀式はうまくいっていたようだし、だったら別段追求する必要もない。
「どうしたの、リーシャ。何か気になることがあるなら言ってごらんなさい」
珍しく静かな妹の様子を訝しみ、レイラ様が心配そうに隣を覗き込んで尋ねた。小さく肩を跳ねさせたリーシャが姉の瞳を見つめ返す。頷いてみせる姉に誘われ、意を決したようにそれを口にした。
「うん、あのね……姉様、マイヤ様。お浄めすると宝玉の色って変わるの?」
僕も心密かに肯定を期待していたのだが、どうやら思いがけない問いだったらしい。レイラ様は驚いて目を瞠り、マイヤ様もまた眉間に皺を寄せてリーシャに続きを促した。
「どういうことじゃ。説明せい、リーシャ」
こくんと頷き、リーシャは簡単に一部始終を語った。聖水にまじないをかけ、宝玉に注いだこと。祈りと魔力を篭めながら伝承の唄を奉じたこと。気がつくと、石が真紅の輝きを放っていたこと。その辺りを語った時には例の場面を思い出したのか、横顔ではあったがほんのりと耳許が赤く染まっていた。僕に中断させられた、とは決して言わない彼女に、ひたすら罪悪感が湧き上がる。
「私が以前お浄めしたときは確か、白い石でしたが……」
レイラ様がまず不思議そうに首を傾げ、暫し思案したマイヤ様もやはり、レイラ様に同意した。
「儂が知る限り、あの祠の宝石はずっと以前から白じゃが。まことに色を変えたのか? 見間違いではあるまいな」
「今朝、祠を発つ前に僕がもう一度確認してきました。間違いありません」
さすがにリーシャに丸投げで黙っているわけにはいかない。思い切って声を上げると、四方から視線が集まった。緊張をこくりと飲み込んで、自分が視たものを一生懸命思い返した。
何も見えない目映い光。白から朱へ。身を裂くほどの凄まじい慟哭。聴こえなくなった唄、────そして。
「……すみません、実は僕が邪魔をしてしまって。彼女は正しい手順で儀式を行なっていたのですが、急に僕にだけ、光の幻が……見えたんです」
よくわからない、と言うように困惑した様子のレイラ様が僕と、マイラ様の間で視線を泳がせた。リーシャは尚も不安そうに僕を肩越しに見上げ、マイラ様は黙って続きを促した。
「リーシャは光などなかったと言っていたので、僕だけそういう錯覚をしたのかなと思うんですけど。初めは白かったその光が、途中から朱に変わりました。眩しくて、いつの間にか彼女の姿を視認できなくなってしまって。それで手探りで彼女を探し当てて……その時一瞬、宝玉に触れてしまったかもしれなくて」
そこまで言い終えて、僕は緊張しながらマイヤ様の見解を待った。
こんな荒唐無稽な話、しかも同じ場所に居たリーシャには全く確認できなかった出来事を信じてもらえるだろうか。少なくとも、一連の僕の行いが原因でもしも宝玉に支障を来たしていたのであれば、責めをいただくのは僕であるべきだ。
「…………『儂が知る限り』、あの宝石が赤かったことはない」
老女の沈黙は長かった。静まりかえった室内に外の子供や仲魔達が戯れる声が小さく聞こえて、しかしどうにも居た堪れなくなってきた頃、マイヤ様は旧い記憶を述懐するように、どこか遠くへと視線を馳せた。
「じゃが、遠い古の……伝承を綴った書を昔、読んだことがある。そこには異界の歪み、嘆きを鎮めんとして、『ルビーの涙』なる深紅の宝玉を奉じこれを治む、とあった」
ルビーの、涙。
それ自体に聞き覚えはなかったが、ああ、だからあの形か、とすんなり腑に落ちた。小さな卵に似た丸みを帯びた宝玉は確かに、涙の形にも似ていた。
「永い刻の中で、何らかの要因があって元々の宝玉は失われ、違う宝玉を奉じることになったのだろうと思うておった。……ならば、それこそがあれの本来の姿なのやも知れんの」
しみじみと独りごちたマイヤ様は、その皺だらけの目許に、僕には思い至れぬほど深い感慨を滲ませていたのだった。この人をはじめ、テルパドールに生きる人々が守り続けてきた、この大陸に刻まれた遠い遠い古の記憶がある。その伝承の一端が昨夜、あの祠で再生を遂げた。夢みたいな話だけれどもしかしたら、僕はそんな奇跡の瞬間を目の当たりにしたのかもしれない。
「歪みはこれまでにないほど落ち着いておるよ。儀式は成功しておる。恐らくここ数百年で例を見ないほど、完璧にな」
もう一度、力強く肯定したマイヤ様はこれ以上ないほど満ち足りた微笑みを浮かべていらした。ふと左の二の腕の温もりに惹かれてそちらを向いたら、フローラの優しい眼差しが僕を見上げてくれている。ああ、これで本当に良かったんだな。この時初めてそう思えたと共に、胸にひどく熱いものが込み上げた。
「テュールさん、あなたってほんとに一体……」
反対側からまだ怪訝な顔をしたリーシャがまじまじと僕を見上げたが、もう一度首をぶんぶんと激しく振って否定した。
きっとたまたまそうなっただけだ。よくわからないけど、この大陸の伝承なんて僕は本当に、全く関係ないんだし。リーシャの類い稀な力による奇跡なんだろう。寧ろ、僕の邪魔で儀式が失敗に終わらなくて本当に良かったと思わないと。
そう自分に言い聞かせて一人勝手に胸を撫で下ろしていたら、マイヤ様が珍しくもにんまりと口角を持ち上げ、愉悦混じりに僕を見て言った。
「いや、それにしても此度はまこと恐れ入った。エルヘブンの民を常識で測ってはならぬということか」
……ん?
全く聞き慣れない単語に思わずフローラを振り返ったが、彼女も心当たりはなかったらしく戸惑いつつ僕を見上げた。思わず二人して首を傾げると、老婆は皺だらけの緩い皮膚に埋もれた瞳をぱちくりと瞬かせる。
「ん? そなた、エルヘブンの民ではないのか」
「え、っと……」
そんな当たり前のように問われるとは思っていなかった。慌てて視線を泳がせ答えを探す。と言っても、僕が答えられることなんて一つしかないけれど。
「すみません、そのエルヘブンっていうのは、わかりません。出身という意味なら、僕の故郷はサンタローズです」
残念ながらそちらの方こそご存知ではなかったらしく、今度はマイヤ様が首を傾げた。無理もない、サンタローズはここから遠く離れた、北の国の辺境にある本当に小さな村だから。
「ラインハット王国の、西側にある小規模な村です。昔一度焼け出されましたが、最近少しずつ復興していて。……あ、でも、父はどこか違うところの出身だったのかな。詳しい事は僕にはもう、わからないんですけど」
説明しながらふと、疑念が湧いた。僕の何をご覧になってそう思われたのかはわからないが、もしやマイヤ様は、父の故郷に何かお心当たりをお持ちなのでは。
「あの、すみません。そのエルヘブンの民、というのは」
辿りようがないと思った父の素性への手掛かりかもしれない。思わず勢い込んで尋ねたが、マイヤ様は急に冷めた目で僕からつと視線を外すと、緩く首を振った。
「お主らにはちと喋りすぎた。これ以上のことは、必要とあれば我らが女王が語られるであろう」
抑揚のない声に、がつんと頭を殴られた心地がする。わずかにちらついた希望の道筋を呆気なく断たれ、僕はさぞ情けない顔をしていたことだろう。縋るようにもう一度マイヤ様を見つめれば、苦笑と共に宥めるような声が降る。
「なんじゃ。謁見しに行くのではなかったか」
「……お会いできるんですか? 本当に、一介の旅人風情が」
「王家ではないと言わんかったか?」マイヤ様が呆れたように答え、再び密やかに笑う。「そう畏ることはない。女王は気安いお方じゃ。大体、勇者の墓の扉は女王にしか開けられぬ」
そうか、そうだった。本来の目的を今更思い出し苦い息を吐く。情報が多すぎて頭の整理がついてないけど、僕達は勇者の墓を訪う為にテルパドールを目指して来たんだった。
今更ながら、ここが異郷の地なのだと痛感する。伝説はもう、目と鼻の先なんだ。
「奥方殿、病み上がりに長々付き合わせてすまなんだな。下でゆっくり休んでおいで。テュール殿、お主も水浴びでもして休むが良い。下までは付き添いを頼むぞ」
有り難く頷いて、フローラを支えて立ち上がろうとした矢先。視界の端に、大きな瞳を揺らめかせたリーシャが食い入るように僕を見上げているのが映った。
ただならぬ様相に思わず膝をつき直し「どうかした? リーシャ」と尋ねる。フローラも僕のすぐ傍から、心配そうに少女を見つめていた。
それくらい、この時のリーシャは今にも泣き出しそうに見えたのだ。
「テュールさん、お城? 行っちゃうの?」
まるで迷子の子供みたいに、覚束ない声でリーシャは訊ね返した。ああ、寂しいのかな。随分懐いてくれたから、そんな風に思って微笑みながら淡い紫の小さな頭を撫でた。
「ああ、うん。フローラがもう少し良くなって、マイヤ様のお許しをいただけたら、ね」
柔らかな前髪の下、睫毛を伏せた彼女がどんな顔をしているかは見えない。ただ、別れを惜しんでくれるのは純粋に嬉しかったから、もう少し身を屈め、彼女と目の高さを合わせて覗き込んだ。
たった数日だけど、本当の妹みたいに思っていた。
「リーシャ、ありがとう。君のお陰でフローラを助けてもらえた。……儀式の邪魔、して本当にごめんね」
君ならきっといつか、素晴らしい女王になれる。
もう一度優しく前髪を撫でて、手を離した。改めてフローラの方を向いたら妻の真剣な眼差しはまだ真っ直ぐリーシャに縫い止められていて────あれ、と思うのと背後から微かな囁きが聞こえたのは、ほとんど同時だった。
「……っちゃ、嫌……」
え?
勘違いかと思うほど小さな声だった。いつも明るいリーシャらしからぬ、弱々しい響きに動きを止め、引き寄せられるように振り返る。
……こんな顔をする少女だったか?
「嫌よ。これでお別れなんて絶対、嫌……!」
まだ幼いと思っていた。その瞳を溢れそうなほどの涙で潤ませて、彼女はありったけの感情を、悲痛な叫びと共に迸らせた。
────その瞬間、僕は自分が犯した過ちを悟ったのだ。
「行かないで。お願い、置いていかないで……! こんな気持ち初めてなの。駄目だってわかってるけど、やだ。離れたくない、離れたくないよ……!」
紫の外套を掴んで濡れた頬を擦り付ける。初めて取り乱した姿を見せる少女を突き放すことが果たして最善なのか、良心と我欲の狭間でどうにも身動きができず固まってしまう。恐ろしくてフローラの方も見られない。応えられないと、僕自身に彼女を受け入れる気などこれっぽっちもないとわかっていて、そのくせ好意を向けられていることは、きっとこれまでに何度も自覚する機会があったのに。
何でここまで鈍感でいられるんだ。本当に、自分の愚かさが嫌になる。絶対に誰かを傷つけざるを得ないその瞬間まで、中途半端に優しくして。
「リ、リーシャ? 突然何を言い出すの」
きっと僕より先にフローラを気遣ってくださったレイラ様が、おろおろと妹を宥めたが、リーシャは強い眼差しで姉を見つめ返すと、揺るぎない声で告げた。
「突然じゃないわ。ここに案内した時からずっと素敵だなって思ってた。フローラさんを一生懸命看病している姿がすごく一途で、益々惹かれたわ。それで、……祠に行く時、私を守ってくれたり…………、して、もう、もう……自分を誤魔化しきれなくなっちゃったの……!」
妹のように感じていた愛らしい褐色肌の少女は、涙に濡れた頬を赤く染め、手を固く握りしめて震えている。見たこともない女の瞳をして、姉へ、僕へとその想いを切々と訴えかける。正直なんとかして遮りたくて、でも久々に頭のてっぺんまで茹で上がってしまった僕に、気の利いた返しなど思いつけるはずもなく。
頼む、待ってくれ。これ以上聞いてはいけない、言わせてはいけないと僕の中の警笛が全力でがんがん鳴っている。たった今自分が真っ赤なのか真っ青なのかもわからないほどだ。我ながら人でなしだと思うがこの状況、僕にとっては一番見せたくない、聞かせたくない人が今まさに隣にいるんだ。
「フローラさん、ごめんね。あたしもテュールさんが好き。大好き……新婚旅行の最中だっていうのに、こんなこと言って本当にごめんなさい……!」
よりによって僕を挟んだ向こう側、フローラに向かって身を乗り出したリーシャは切なすぎる涙声で訴えた。いや、マイヤ様に勧められたからなんだけど、本当になんでこの場にフローラを連れてきてしまったんだろう。というか、それをフローラに言ってどうするつもりだこの子は!
リーシャ、と何とか呼び掛けようとしたら、ぐい! と胸元に抱きつかれた。均衡を崩してそれを押し返す余裕もなく、尻餅をついた僕に乗り上げた少女はひどく興奮した様子で猛烈に懇願した。
「────ねえ! 結婚して下さい、テュールさん。あたしもあなたのお嫁さんにしてほしい。ずうっとあなたの側にいたいの。大丈夫、フローラさんのことは正妻としてちゃーんと尊重するわ! 古代魔法だって使えるし、まだ十四歳でこれからが食べ頃だし、なんなら女王にだってなれちゃう力の持ち主よ? 絶対絶対、絶っっっ対に後悔なんかさせないから‼︎」
正妻って。食べ頃って。いったいどうしたらこのあどけない少女の口からそんな単語がぽんぽんぽんぽん出てくるんだ⁉︎
半ば僕を押し倒した格好で、息もつかせず畳み込む。とんでもない要求に必死に言葉を探すも、情けないことにぱくぱく唇を震わせるしかできない。隣で話を聞いていたフローラも、すっかり真顔で固まっている。それは他の面々も同様で、姉であり族長のレイラ様は呆れた様子で深々と重い溜息をついたし、マイラ様もやれやれと苦笑いしながら、順繰りに僕達の顔を窺い見た。
その表情に、不謹慎にも末恐ろしい考えが頭を過る。
王位を継げるほど強い、占術師の力。
先読みにも長けた彼女がこんなことを言い出すということは、
…………まさか。
────これこそが、このアルディラ大陸で僕とフローラに降りかかった、本当の波乱の幕開けだった。