Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】   作:サクライロ

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#16. 甘くて、苦い~side Flora

 あたしも、あなたのお嫁さんにしてほしい。

 

 瑞々しい果実のように弾ける愛らしい声音で、少女は確かにそう請うた。呼吸ごと凍りついた夫の胸許に縋りつき、食い入るように彼を見上げて。

 まだ、私はあまりお話出来ていない方だけれど。私が急な発熱で人事不省に陥り、しかし集落が見つからず途方に暮れていたその時に駆けつけてくださったのだと、ずっとそばについていてくれたテュールさんが話してくださった。

 健康的な褐色の頬は熟れた桃のようにほのかに染まり、赤みを帯びた夕闇色の瞳はきれいな涙で潤む。ひたむきなその眼差しは、真っ直ぐに彼へと向かう熱く切ない想いを何より雄弁に物語っていた。

 こんな、きっと彼女にとってものすごく大事な場面に居合わせてしまって、私は一体どんな顔をしたらいいのか。

 なんとなく、だけれど。私は今、夫の心を微塵も疑ってはいない。秘密裡に彼女と通じ合うような方ではない。それくらい、私は今彼を無条件に信じていて────そんな身勝手な確信があること自体がもう、……苦しい。

 傲慢だわ。彼の心は彼自身だけのものであるべきなのに、連れ添って久しい夫婦ならいざ知らず、どうしてここまで臆面もなく、彼の気持ちが私にあり続けるなんて言えるの。

「……それは、できないよ。リーシャ」

 そんな私の愚かな期待を肯定するかのように、彼は優しく、残酷な答えを口にする。

「君も知っている通り、僕にはもう大事な人がいる。誰も彼女の代わりになんてなれないんだ。リーシャの気持ちは勿体ないくらいだけど────」

「もう。何を聞いてたの? あたし、フローラさんの代わりになりたいなんてひとっことも言ってないわ!」

 努めて穏やかに諭すテュールさんを、憤慨した様子のリーシャさんが遮った。え、と思うより先に少女がずいっとテュールさんに顔を近づけ、強張った彼の眼前で意気揚々と声を上げた。

「だからね、二番目でいいの。フローラさんが一番、あたしが二番! ねっ? だったら問題ないでしょう?」

 ……問題、ないのかしら?

 あまりにあっけらかんとした物言いに毒気を抜かれてしまう。目をぱちぱち瞬かせてから彼の横顔をそろりと見ると、すっかり困惑した様子で固まっていた。

 贔屓目を差し引いても清秀な顔立ちの夫は、その複雑な生い立ち故か、全くと言っていいほど色恋沙汰に慣れていない。……それは私も同様なのだけれど、だからこそ今のこの状況は、彼にとって酷だとすら思える。

「おやめなさい。リーシャ、お二人はテルパドールの民ではないのよ」

 レイラ様が眉間に皺寄せ厳しく苦言を呈するも、少女は少しも怯まない。あ、そっか。そうよね! と手を打つと、再び私達……否、テュールさんの方を向き直った。

「ご存じなくても無理ないわよね。北の方の大陸では普通、一人の方とだけ結婚するものなんでしょう?」

 無邪気なまでの彼女の問いかけに、固まりっぱなしの夫に代わってなんとか頷いてみせる。彼女の言葉の通り、私達の故郷では婚姻とは普通、一対の男女間で結ばれる。二番目、というと思い起こされるのは不貞や妾という形か、一人目の伴侶と離縁や死別などして結ばれる、といったケースだ。特に一つ目はあまり推奨される概念とは言えない。少なくとも、私達の日常では。

 だけど、私は以前読んだ書物で目にしたことがあった。子孫を繋ぐため、複数の伴侶を得ることを是とする部族が存在するのだと。

「テルパドールには妻を二人、三人持っちゃいけないなんてしきたりはないの。そりゃ、おうちの決まりとかでテュールさんが絶対一人しかお嫁さんを持っちゃいけない! っていうならしょうがないわ、お妾になるしかないけど。フローラさんと別れてなんて言ってないから! フローラさんは正妻。あたしは二人目。それでいいじゃない?」

 くらり、と目眩に似たものを覚えながらも彼女の言葉を反芻した。恐らく彼も同じだろう。彼女にとっては当たり前なのかもしれないけど、二番目で良い、なんてこんな前途明るいお嬢さんに言わせたくない。

 ……だからって、彼女を受け入れて差し上げて、なんて私に言えるはずもなく。

「リーシャ。いい加減になさい」

 苛立ちを隠さないレイラ様の叱責が飛んだが、やはり少女はわずかにも退かなかった。強い眼差しで姉を正面から見据え返し、きっぱりと告げる。

「嫌よ。あたし、撤回なんかしない」

 真摯なまでの横顔はとても気高い。まだ幼いはずの、何者にも惑わされない凛々しい少女の姿に思わず嘆息が漏れる。

「一度だけチャンスを頂戴って、言ったでしょ。真剣なの。どうしても駄目ならそれでいいわ。でも、すぐに結論なんて出さないで欲しい。テュールさんにもっとあたしのこと、知ってもらってから返事を聞かせて欲しいの」

 寸分の迷いも躊躇いも見せずに言い切った彼女は、言葉も出ない姉を再度一瞥してから私達の方へと向き直った。

「ねぇ、お二人は出会ってもう長いの? 初めて会ってからどれくらいで結婚したいって思った?」

 無邪気とも言える問いかけが、およそ半年前の記憶を鮮やかに呼び醒ます。

 私は、一目見た瞬間この方だって思ったわ。

 あの日、私は父に結婚相手を無理矢理決められてしまうところだった。何らかの条件を課すとはいえ、私の意思など介在しないはずだった。それでも、────それなのに、私は彼でなくては嫌だと、思ってしまった。

 結ばれた今だから運命などと言える。けれどもし、それが若さ故の愚かな思い込みに過ぎなかったとしたら。

 何より守るべき天空の盾を二の次にして、彼への想いに溺れたことを今、悔やまずにいられるのは……ただの幸運でしかないのかもしれない。

「結婚……は、多分、出会ってすぐ……」

「すぐ⁉︎ えっ、それじゃ初めましてのあとすぐにプロポーズしたってこと⁉︎」

 リーシャさんが興奮気味に声を上げたが、驚いたのは私も同じだった。慌てて声の主を振り返れば、私の反応に驚いたらしい彼が少し眼を円くしてこちらを見下ろした。「あれ、言わなかった?」と言いたげな戸惑いが濃紺の瞳に浮かんでいる。……いいえ、思い返せば確かに、そんな話もしたはずなのだけれど。

 どうしてかしら。私ばかりが一目惚れしたのだと、ずっと思い込んでいた。

「……いや。求婚自体は確か、二、三週間くらいしてから、だったよ」

 緩く息をつき、テュールさんが穏やかに答えた。そこはかとなく高揚した気配を感じてしまうのは、私が舞い上がっている所為に違いない。

 リーシャさんはそんなテュールさんを見上げながら、ふぅん、と小さく頷く。

「じゃあ、あたしにも同じだけ時間を頂戴? せめて二週間経つまで返事はしないで。ちゃんとあたしのこと見て、知ってから答えを出して欲しいの」

「その間テュールさん達にどうしていただくつもり? お二方は旅路を急がれているのよ。あなた一人のためにお引き留めするわけにはいかないの」

「だったら、あたしがお城までついていく!」

 強い口調のレイラ様より更に通る声で、リーシャさんは再び高らかに宣言した。えっ、とそれぞれに度肝を抜かれた私達を得意げに見遣り、少女は胸を張って尚も言い募る。

「旅の足を止めさせたりしないわ。マイヤ様のお許しが出たらあたしも行く。そうよ、大体二週間くらいで着くもの! ちょうどいいでしょ」

 どうやら、彼女の中では既に決定事項らしい。うきうきと予定を述べるリーシャさんと、次いで周囲の人々を今一度見渡せば、レイラ様はひたすら申し訳なさそうに肩を落としていらして。彼女の所為ではないのに胸が痛い。しかしすっかり青くなっているテュールさんを見ていると、本当に気の毒に思えてくる。さっきから焦点があっていないというか、茫然自失としていて、私の方をちらりとも見てくださらない。

「もう、本当に勝手なことばかり言って……」

「そうでもなくなったようでな。レイラよ」

 いつの間にこの場を離れていらしたのか、マイヤ様が入口の方から杖を鳴らしつつゆったりと歩いてこられた。その背後を、初めて目にする男性が付き従う。褐色の肌に銅のような明るい茶色の髪を揺らした彼は、私達の手前に佇んだレイラ様に目を留めると嬉しそうに頬を弛ませた。

「ダナン!」

「レイラ。ごめん、すっかり遅くなって」

 青年が声を発するより先にレイラ様が歓喜の声を上げる。腕を広げ、幸せそうに駆け寄るお二人を見て、ああ、この方がレイラ様が待っていらした伴侶の方なのだとすぐに察せられた。「心配かけてごめんな。身体は大丈夫?」と問う彼に、レイラ様はほんのりと頬を染めて緩く首を振って見せる。そのやり取りからなんとなくあることが察せられて、思いがけずほわりと温かな心地になった。

「問題ないわ。元気よ。良かった、あなたもご無事で……」

 喜びを滲ませて答えると、レイラ様は改めて私達の方を向き直った。

「失礼いたしました。彼はダナン、私の夫です。惑わしの霧の所為で中々戻ってこられなかったのですが、……たった今、帰ってきてくれたようで」

「うん。全然エピカが見えなくて焦ったけど、全員無事だから安心して。……そちらは、旅の方ですか? 珍しいな」

 優しげな雰囲気がどことなく、テュールさんと似ている気がした。視線を振られて、呆然としていたテュールさんが慌てて背筋を伸ばし直す。

「あ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お察しの通り、旅の者です。数日前、妻が突然病に倒れまして、マイヤ様の元で養生させていただいているところです」

 テュールさんの紹介に合わせて私も軽く膝を折った。久々の夫との再会で見たこともないほど柔らかな表情をなさったレイラ様が頷き、私達を掌で示してテュールさんの紹介を引き継いでくださった。

「テュールさんと、奥様のフローラさんよ。リーシャが見つけて連れてこられたの。お城に行かれる途中で、奥様が熱砂病に罹られてね」

 熱砂病の名が出た瞬間、彼はああ、といたましげに目を細めて私を見る。鏡は見ていないけれど、随分と長く寝たきりでいたからやつれてしまっていたのかしら。テュールさんの隣でみっともない姿を曝してしまっているかも、と思ったら急に恥ずかしくなり、熱くなった頰をさりげなく抑えた。

「そうか、それは間に合って本当に良かった。熱砂病は発症から一刻を争う病ですから……リーシャはお手柄だな」

 穏やかな義兄の労いに、それまで黙って聞いていたリーシャさんが「そうでしょ! 占いで見つけて、迎えにいったの」と声を弾ませた。姉婿であるダナンさんに随分と気を許している様子が窺える。

「あのね、テュールさんってすごいのよ! 剣も強いし、あたしと一緒に惑わしの霧も晴らしてくれたの。でね、今あたしとも結婚して! ってお願いしてるところなんだ!」

 先ほどからこの場で何度も繰り返されている提案だが、初めて聞いたダナンさんはぎょっとして眼を瞠った。テュールさんとリーシャさんをまじまじと交互に見つめ、恐る恐る問いかける。

「えっと、リーシャ? お二人はご夫婦なんだろう?」

「え? うん。だから、二番目の奥さんにしてって言ってるんだけど」

 相変わらずきょとんとしてリーシャさんは答えたが、ダナンさんはすっかり面食らったという表情で顔を覆った。その肩に寄り添ったレイラ様もまた溜息混じりに首を振る。私達が外の人間だからかもしれないが、彼らを見ていると既婚者に二人目の妻を薦めること自体はそこまで良くあることでもないのでは、という気がしてくる。あくまで諸事情により、そういうケースもある、ということなのかも。

「これ、リーシャ。まずはこの老いぼれに話させてくれんか」

 マイヤ様がくつくつと笑いながらもリーシャさんをやんわり宥めた。さすがのリーシャさんも老医師ばかりは尊重するものらしく、黙って頷くと大人しくラグの上に腰を下ろした。

 彼女に続いて全員がその場に座り直し、一同を満足げに見渡すと、マイヤ様は手に持った羊皮紙を広げ重々しく宣告した。

「城からのお召しじゃ。リーシャを女王従きの女官に任ずると」

 瞬間、ダナンさん以外の面々に少なからずの動揺が走る。多少の心構えはしていたのだろうが、レイラ様もリーシャさんも表情を硬くしてマイヤ様を見つめた。

「ユノ嬢の輿入れが決まったそうでな」

「ユノ様が? ……ああ、そっかぁ」

 どなたなのか、その名を聞いた途端リーシャさんがふっと力を抜いた。テュールさんが覗き込むと「女官長をなさっている方よ。むかーし、小さい頃に何度かお会いしたことがあるわ」と首を傾げて言った。

「もうすぐ新年だからね、他にも二、三人実家に戻られるそうなんだ。リーシャの他にも何人か呼ばれている。リーシャ、すぐに支度できるかい?」

 霧の所為で報せるのが遅れてしまったから、とダナンさんは申し訳なさそうに言い添えた。できるだけ早く彼女を連れて再登城しなくてはならないということなのだろう。不安そうに夫を見つめたレイラ様にすぐに気づくと、ダナンさんは妻の髪を撫で「今回はリーシャを送り届けるだけだから。一ヶ月くらいで戻るよ」と優しく言い聞かせた。

 私が思った通りなら、お一人で待つのはさぞかし心細いことだろう。まだそこまでお腹は目立っていらっしゃらないけれど。

「女王直属の女官というのはの。テルパドールに於いては、言うなれば次期女王候補じゃ」

 余所者の前でそんなことまで話していいのか、と言いたげにダナンさんがマイヤ様を凝視したけれど、マイヤ様は涼しい顔だ。

「今の女王従きも粒揃いではあるが、ユノ嬢ほどの力の持ち主はおらんでな。まぁ、順当じゃろう。どうする? リーシャ。嫌と言うならば断りの手紙を書いてやっても良いが」

 とんでもない、とまたもや青褪めたレイラ様を尻目に、リーシャさんは「んー」と小さく唸っている。少しだけ思案すると「ねえ、マイヤ様。お城に着いた時点であたしが結婚相手を決めていたら、女官のお話はご破算にしてもいいのよね?」とこれまた恐れ多いことを平然と言い放った。

「まぁ、そうなるの。決めてしまったものは致し方あるまい」

 女王様直々の任命ではないのかしら。マイヤ様は孫の我が儘でも聞くようにくつくつ笑うと「まあ、良い。手紙は二通書いておいてやるとしよう」と言い、カツカツと杖をつきながら奥の部屋へと消えていった。

 丸い、小柄な背中を茫然と見送っていたテュールさんの精悍な腕を、リーシャさんがじゃれつくように絡みついて引っ張った。

「あ。義兄さんは今回ついて来なくて大丈夫よ。あたし、テュールさんにお城に連れてってもらうから!」

 まるで恋人同士のように、目の前の夫が可愛い少女に寄り添われるのを目の当たりにして、私はなんとかして動揺を押し込めるので精一杯だった。視界が一気に灰色の感情で埋め尽くされ、ぐらついていく。

 私、いま、ちゃんと笑えているかしら。

「何よ。行き先が同じなんだから良いでしょ? もしかしたらそのままお嫁に行くかもしれないけど、そこはなるようにしかならないわよねー。それに、義兄さんはいい加減姉様の側にいてくれなきゃ。生まれてくる子にお父さんって呼んでもらえなくても知らないわよ!」

 姉夫婦は再び顔をしかめたが、リーシャさんは悪びれず言ってのける。ああ、とテュールさんも頷き「そうだ。すみません、全く気づかず……来年、とお聞きしましたが」とおずおず切り出したのを見て、彼はリーシャさんからお聞きになってご存知だったのね、と合点がいった。

「ああ、はい。予定日は年が明けてふた月くらいなので、一応間に合うかな、と思ってはいるんですけれど」

 遠慮がちなダナンさんの回答とレイラ様の不安げな眼差しを受けて、テュールさんがもう一度深く頷く。

「今から往復すると、お戻りは新年ぎりぎりになってしまうのではありませんか。確かに、身重でいらっしゃるなら余計に、ダナンさんがお側についておられた方が良いと僕も思います」

 それは私も同意見だった。初めての出産を控えていらっしゃるなら尚のこと。身重でありながらこの集落をまとめていらっしゃるレイラ様の重圧を誰より支えて差し上げられるのは、きっと夫のダナンさんの他にはいらっしゃらない。

「行き先は同じです。僕達を信頼していただけるのであれば、リーシャはテルパドール城まで責任を持ってお預かりいたします。妻を助けてくださった皆様へのご恩返しだと思っていただけたら、僕としても大変有難いです」

 やはり、さっきからこちらを見ようとはなさらないけれど、テュールさんは声音だけで私を労わりながらきっと最善と思える提案をして下さった。彼にしがみついたままのリーシャさんも「ほらぁ!」とばかりに姉君の表情を窺う。それでもレイラ様は私を慮って下さっていたようだったが、「夫が申し上げた通りですわ。今は、ご自身とお腹のお子様を大切になさることだけを考えていてくださいまし」と私からもお願いして、ようやく渋々了承していただけた。

「本当に、申し訳ありません。妹の非礼をお許しください、などと到底申し上げられたものではないのですが」

 ご夫婦揃って深々と頭を下げられ、慌てて姿勢を正すよう懇願する。ここにきてさすがのリーシャさんも興奮が落ち着いてきたようで「我が儘を押し通しちゃってごめんね。フローラさんも、本当にありがと」ともじもじしながら話しかけてくださった。

「あたし、フローラさんに嫌な思いさせないようにする! 絶対絶対、役に立っていい子にするから、安心してね‼︎」

 両手をがしりと掴まれて熱烈に訴えられれば、私はまたにこやかに頷く以外ない。

 まだ少し不安げな三者の眼差しに見守られ、思った以上の長丁場となった会合はこれにてようやくお開きとなった。

 

 

 

 抱き上げようとして下さったテュールさんを慌てて止めて、それでも階段だけは支えていただきながら地下の薬草園へと戻った。

 先にお仲魔の皆さん達も戻っていらして、私達の姿を認めたホイミンちゃんが嬉しそうに旋回する。けれどテュールさんが穏やかな微笑みで彼を制すると、すぐに何かを察してくれたらしく少し離れたところに集って興味深そうにこちらを眺めていた。

「……大丈夫?」

 過ごし慣れた、少し硬いベッドにそろりと腰を落とすと、テュールさんがどこか申し訳なさそうに私を覗き込む。

 唇を開いても言葉にはならず、せめてもと首肯して見せたけれど。思わず視線を泳がせると彼はますます気まずそうに顔を顰め、漆黒の瞳を伏せた。

「えっと、……その」

 歯切れの悪いそれはやはり会話として続かなかった。何か言おうとして下さっているのはわかる、けれど、私がどうしても目を合わせられなくて。お互い、膝の上で組んだ指ばかりを眺めながら、どちらともなく苦い息を吐く。

 暫し、この場には居た堪れない沈黙だけが満ちた。

「……やっぱり、テュールさんはどなたから見ても魅力的なんですね」

 胸の内に湧き上がる燻りを何とか押し込め、思いきって言葉を発した途端、テュールさんが激しく狼狽えて顔を上げた。

「そんなこと、ないって」

「もう。素敵ですわ、私が誰よりお慕いする方なのですから」

 軽く唇を尖らせて被せるように訴えると、彼は耳まで綺麗に赤らめ、また俯いた。こんな表情を見せて下さるのは珍しい。初々しくてお可愛らしくて、張り詰めていた緊張が少し解れたかもしれない。思わず口許を緩ませた私をそろりと見遣り、彼はまた、どこか萎れた微笑みを向けてくれた。

「うん。……懐いてくれてるな、とは思ってたんだ。兄妹みたいだなって。でも、今更だけど……もう少し距離をとっておけば良かったな、とも思って。異性、だもんね」

 ああ。

 己の内に潜む、どろりと昏い感情に足首を掴まれる。

 私、いま、どうしようもなく嬉しい。そしてそんな浅ましい自分が、どうしようもなく煩わしい。

 疑っているわけではないの。信じられないわけじゃない。なのに、あなたが私のために心を尽くして、誠意を向けて下さることが、こんなにも────

「白々しく聞こえるかもしれないけど、僕の妻は君だけだ。本当にそう、思ってるから……」

「はい」

 どうかこの、醜い本音に気づかれませんように。

 細心に、愚かな自分を蓋して。微笑みを繕い彼を見つめ返す。

「私こそ、ごめんなさい。あんなふうに言わせてしまって」

 どんなに嫉妬が燻っても。私の中にもやもやした、重苦しい黒い感情が渦巻いたとしても。

 女性に、まして親しくなった年下の女の子に冷たくあたるあなたを見て、安心するような自分にはなりたくない。

 私だけだと言って。他の誰も好きになんてならないで。

 こんな我が儘、身勝手極まりない望みを、もしもあなたに気づかれて軽蔑されてしまったら?

「大丈夫です。信じて……、いますから」

 できる限りの笑みを顔面に貼り付けたまま、そう告げた。私の緊張とは裏腹に、彼は漸く心からほっとした様子で肩を落とす。膝に肘をつき息を吐いた、そのお顔を覗き込んだら彼はひどく自嘲めいた笑みを滲ませた。……聞こえるか聞こえないかくらいの微かな囁きをぽつり、零して。

「ごめん。君に嫌われたら、どうしようって思って……」

「────嫌いになんて」

 思わずその黒曜石の瞳を覗いたら、濃紺の虹彩にいとも容易く搦めとられた。

 穏やかに揺らめく双眸と交わったが最後、惹きつけられて逸らすことなどできない。わずかに震えた私の頬を、彼の大きな掌が滑って包む。とくんと高鳴った心臓を思わず抑えたら、彼は少しだけ困ったように優しく笑った。

「こんな、情けない夫でも?」

 真っ直ぐに見つめられたら何も言葉に出来ない。

 私はきっと、真っ赤に染まってしまった顔を小さく頷かせるので精一杯だった。

 どうしようもなく、好きなの。

 嬉しそうに目を細めたテュールさんの吐息が近づく。甘やかな期待にまた鼓動が跳ねて、私は促されるまま、そっと瞼を伏せていく。

 唇が、触れそうに近づいたその瞬間、

「あーん、妬けちゃうなぁ。テュールさん、次はあたしにもしてくれる?」

 唐突にあどけない声が場を割いた。ぶわっ、と弾ける羞恥と共に勢いよく振り返ったら、ついさっき彼に熱い想いをぶつけたばかりの紫髪の少女が愛らしく小首を傾げ、私達を覗いていたのだった。ほんの四、五歩の後方から。

「リッ……リーシャ、いつからそこ……」

「ちょっと前ですぅー。んもう、本当にフローラさんのこと大好きなのね。まさかここまで気付かれないとは思わなかったわ」

 赤面したまま固まった私達を眺め、ころころと彼女は笑う。屈託ない笑顔の前で、あまりのばつの悪さに私も彼も互いから顔を背けて向き直ることもできない。

「水浴び用の浴布持ってきてあげたの! 折角下に降りたばかりで悪いけど。フローラさん、ずっと伏せってたからちゃんと汗流したほうがいいでしょ? あたしが手伝ってあげる。行こ!」

 大して気にした様子もなく、リーシャさんは私に歩み寄るとするりと腕を絡ませた。誘われるまま立ち上がり、引かれるままに階段へと向かう。ちらりと背後を振り返ったら、尚も首まで赤らめたテュールさんとどこか嬉しそうな笑みを浮かべた仲魔の皆さんが、それぞれに何やら含みのある様子で和やかに見送ってくださっていたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 それから四日、私はマイヤ様の監督の下、ひたすら養生し体力の回復に努めて。

 五日目の夕刻、リーシャさんを加えた私達一行の馬車はいよいよ首都テルパドール城を目指して出発した。

 帰路には転移魔法を使うから、この集落に立ち寄ることはきっとない。お世話になった皆様に手を取られ、体調を過信しないよう念を押される毎に、胸に熱いものがこみ上げた。

 リーシャさんもまた、女官になるにしろテュールさんについていくにしろ、ここの皆様とは長いお別れになるはずなのだが、どちらかというと浮き足だった様子で馬車に乗り込んでいった。レイラ様は夫に寄り添われ、リーシャさんから預けられた愛馬と共に見送ってくださった。心配そうに何度も溜息をつき、私達の姿が見えなくなるまで長いこと、集落の出入り口に立ち尽くしていらっしゃった。

 エピカの集落から首都テルパドール城まで、普通に馬車で向かえば凡そ二週間の距離。

 リーシャさんが早駆けの魔法を使えるので、恐らくその旅路は一週間から十日程度まで縮められるだろうという話だった。あくまで早駆けであって馬には相応の負担がかかるから、道中はしっかり休息をとるようマイヤ様からきつく仰せつかった。

 病み上がりの私は特にきちんと静養していなくてはならない。戦闘に加わるなど以ての外、とにかく大人しく馬車にいるよう心がけていたけれど、ふと幌の外を覗くと馭者台に腰掛けた夫が、隣に座るリーシャさんと楽しげに談笑しているのが度々目に入った。

 まるで旧くからの友人のように気を許した様子の、時に私にはあまり見せたことのない少年のような表情で頬を赤らめる彼の横顔を、幕を隔てたこちらから眺めるたびにじくじくと胸が痛んだ。

 元はと言えば、私が体調を崩してしまったのがいけないのに。助けていただいて感謝こそすれ、こんな気持ちになるなんて、私は何という恩知らずなのだろう。

 お二人とも私を慮ってちょくちょく幌を覗いてくださったし、同じく馬車の中にいた仲魔の皆さんも何かと気遣ってくださったけれど、それがますます切なかった。

 どうやらこの大陸では『光の教団』の影響はさほどなくて、生息する魔物も自分達の縄張りを守るだけのものが殆どのようだった。軽はずみに近づきさえしなければさほど敵意もなく、早々にそのことに気付いたテュールさんは上手に魔物の群れを回避し、捌きながら馬車を走らせていた。

 リーシャさんの古代魔法のおかげで、パトリシアちゃんもこの砂地で普段のように軽やかに駆けてくれる。

 たまに戦闘にもつれこむと、回復は全てホイミンちゃんが張り切ってこなしてくれた。

 肝心の戦力も仲魔の皆さんとリーシャさんがいれば十分に事足りて、結局ここに来て、何の役にも立てずにいるのはいよいよ私だけだった。

 

 

 

「……んん〜! あまぁーいっっ!」

 何度目かの遅い昼食時、いつものスナックとジャムをぱくりと頬張ったリーシャさんが幸せそうに声を上げた。

 喜んでいただけるのは嬉しい。私も思わず微笑みを返した。二口ほどでスナックを飲み込み、次の一枚にも木苺のジャムを溢れんばかりにほくほく載せる少女の横顔を、テュールさんはまるで兄か父親の如く微笑みながら見守っている。

「フローラさん、これも美味しい! オレンジのジャムもちょっと苦味があって美味しいけど、こっちはすっごく甘酸っぱぁい!」

「ふふ、良かったです。まだまだたくさんありますから、遠慮なさらず召し上がってくださいね」

 どのみちこのままではかなり余ってしまうから、たくさん食べてもらえるのは有り難い。一ヶ月は砂漠を歩くことを想定していたので、乾物中心とは言えど食糧だけは潤沢に揃えてあった。

「りーしゃちゃん、つぎはもものじゃむたべよー! ふろーらちゃん、あけていいー⁉︎」

「ええ〜! ホイミンりんごがいい〜! りんごにしよ〜!」

「こら。二人とも」

 砂除けの天幕の隙間からさりげなく馬車に戻ろうとしたホイミンちゃんをすかさず呼び止め、テュールさんはわいわい盛り上がっているスライム属の二匹を優しく嗜める。

「食べかけのジャムが二つもあるだろ? せめて一瓶食べ切ってから」

 はぁーい、と二匹揃って元気な返事が返る。船でも言われていたことだけれど、そんな光景を見ているとなんだかテュールさんが彼らの父親のように見えてくる。微笑ましくて、ついくすくすと笑いが溢れてしまった。

「はー、いいなぁ。北の大陸にはこんな美味しい果物が山ほどあるのね……」

 二枚目に続き何枚かのスナックをぺろりと平らげたリーシャさんが、残り少なくなったマーマレードの小瓶を見つめて名残惜しげに呟いた。そんなに気に入ってもらえたのかしら。ますます嬉しくなってしまった私は、自分にしては饒舌に彼女の呟きに応えた。

「ジャムにするには向かないものや、季節柄手に入らなかったものもありますわ。私も、こちらの大陸では初めて見る食材が多くて驚きました」

「そうなんだ! 椰子って北の方にはないんでしょ? あーあ、いいなぁ。ジャム……こんなに美味しくて長保ちするならもっとアルディラに入ってくればいいのに。採れたては無理でも、これならいろんな果物を楽しめるもん! ピタパンとも合いそうだし」

 彼女の言う通り、どうやらこの大陸では果物をはじめとした既知の食材をあまり見かけなかった。モン・フィズの酒場でも香辛料を多用した食べ慣れない料理が多くを占めていた。実家のシェフは色々な食材を揃えていたものだけれど、それでもこれだけ南の大陸となると事情が違うのね、などと思う。その他の大陸ともかなり離れているし、そもそも長いこと船を出せなかったからアルディラ大陸に住まう皆さんが果物をご存知なくても仕方ない。

「でも、折角なら採れたての果物をお試しいただきたいですわ。私も昔、苺などを育てていたことがあるのですが、摘みたては特に瑞々しくて美味しいのですよ」

 修道院にいた頃を思い出してつい頬が緩む。この話をすると『ルドマンのお嬢様が土仕事だなんて!』と憤慨されることが多かったのだけれど、テュールさんはいつもにこやかに相槌を打ちながら私の話を聞いてくださる。以前同じことをお話しした時も、すごく美味しそう、いつか僕もフローラと一緒に育ててみたいな。と優しく言ってくださって、私にはそれがとても嬉しかった。

「わあ……フローラさんが育てた果物なんて、絶対美味しいに決まってるわ‼︎」

 リーシャさんもまた、両手を口許で合わせてキラキラした瞳を私に向けてくださる。

「自分で育てて食べるなんて素敵! ねね、ちゃんと手伝うから今度はあたしも」

「連れて行く気はないよ。今のところ、残念だけど」

 果実の如く甘く愛らしく、小首を傾げてリーシャさんが夫と私を交互に見上げた。しかし彼は苦笑混じりに首を振り、明らかに気のない様子を示してみせる。

「なによー! まだ最後まで言ってないじゃない!」

「何度言われても同じだってば。何週間かけたって、やっぱり答えは変わりそうにないし」

 エピカを経ってもうすぐ一週間になる。こんな風にリーシャさんが夫に迫って、彼が穏やかに拒むという光景も段々に見慣れたものとなってきた。

「多分、僕は婚姻がどういうものなのか、未だにいまいちよくわかってないんだと思う。そういうのには全く無縁のところで生きてきたからさ」

 それもどうかと思うんだけど、と彼は自嘲めいた笑みを浮かべて瞳を伏せる。お辛そうな表情こそ見せないけれど、きっとあの壮絶な生い立ちのことを思い返しているのだろう。

 リーシャさんにどこまで彼自身のことを話してらっしゃるのか、私は知らない。ちらりとリーシャさんを窺うと、真剣な面持ちでテュールさんを見つめていらした。

「事情は知らないけど、君達テルパドールの人々にとっては何人かと婚姻を結ぶ方がいいこともあるんだろう。わからないからって否定はしないよ。けど……それでも、僕が共に生きたいと思った人はやっぱり、フローラだけだから」

 ────ああ、ほら。

 この状況で心を躍らせてしまう自分が情けない。リーシャさんの告白からこちら、彼は何度も私を安心させるようにそんな言葉ばかりをくれる。

 その分、リーシャさんが傷つき俯く姿を、いやと言うほど目の当たりにしながら。

「……あたし、そんなに魅力ない?」

 しゅん、と長い睫毛を伏せたリーシャさんが寂しそうに呟いた。そんなことないのに、本当に魅力的なひとなのに。どうしたって私に何か言う資格などない気がして、結局は黙って見守るしかできない。

「違うって。リーシャにはこれから、リーシャじゃなきゃ駄目だって人が」

「ふんっ! いいですよーだ、テュールさんのえっち! どうせあたしみたいな子供にはタタナイとか言うんでしょー!」

「なっ、ちょ、こらっ! 女の子がそんなはしたないこと言うんじゃない‼︎」

 途端に首まで真っ赤に沸騰させたテュールさんが叫んで、きゃははっ! と軽やかな笑い声を上げたリーシャさんが私とガンドフさんの間に潜り込むように身を寄せた。

 彼女の快活さとは裏腹に、私はどんな顔をしたものか分からない。熱くなる頬もそのままに、思わずあらぬ方向へと視線を彷徨わせてしまった。

 意味は、なんとなくわかる。修道院でも一応そういうことは学んできたもの。いざその時に落ち着いて臨めるよう、取り乱したりしないよう。────もう何度もテュールさんとは交わりを持っているけれど、今更ながらうまく応じられている自信なんて全然ない。

「……そんな顔しないで。リーシャが勝手に言ってるだけなんだから」

 俯いてしまった私に気づいたテュールさんが、困り果てた様子で私を覗き込んだ。はい、と答えたくても恥ずかしくて顔をあげられない。そこへ、安全地帯に潜り込んだリーシャさんが傍らから更なる追い討ちをかけてくれる。

「だってテュールさん、フローラさんに子供産ませたいって言ってるも同然よ? フローラさんがいいってそういうことでしょ。ふーんだ、あたしだってあと二、三年もしたらテュールさんが後悔するくらい良い女になるんだからね!」

 べー! とリーシャさんは勢いよく舌を出してみせたが、さすがに憤慨した様子でテュールさんが立ち上がった。紅潮もそのままに歩み寄るとすっかり硬直した私の頰を一つ撫で、次いでその奥に隠れたリーシャさんの頭をわしわしと乱暴に掻き乱す。

「ちょっとぉ! 乙女の髪はもっと優しく扱ってよねっ」

 リーシャさんは唇を尖らせたけれど、対する彼はにべもない。「そういうことは、本気で僕を後悔させてから言いなよ」と些か冷たく言い捨てる。普段そんな挑発的な物言いはなさらない方だから、正直少し、驚いた。

「ごちそうさま。ピエール達と見張りを交代してくる。みんなはゆっくり食べてて」

 穏やかだけれど有無を言わさぬ口調で彼はそう告げ、砂除けの天幕を出て行った。リーシャさんは尚もむくれながら乱れた髪を直していたが、落ち着いたらスープのお代わりはいかがですか? と声をかけたら、幸いにも気を良くしてくれた。

 すぐに彼女はスライム属のみんなと再びジャム談義に花を咲かせ始め、その切り替えの早さにつくづく感嘆してしまう。

「ん〜、でもやっぱりあたしはこの木苺ジャムが一番好きっ!」

 もう一枚だけー! と嬉々としてぱくつくリーシャさんを眺めながら、お城に着いたら余ったジャムは好きなだけ差し上げても良いかしら、などと思ってしまう私もまた、人懐こく愛らしいリーシャさんに十分すぎるほど絆されてしまっているのだろう。

 皆さんの和気藹々としたお喋りに楽しく耳を傾けながら、小瓶にわずかに残った鮮やかなオレンジ色のジャムを掬い取り、スナックに載せた。しっかり下処理して苦味は取り除いたはずなのに、その日最後に口に含んだマーマレードは、なぜだかひどく苦いような気がした。

 

 

◆◆◆

 

 

「だから、僕は! 馬車で寝るから! ベッドは二人で使ってくれよ‼︎」

「なんでよー⁉︎ それじゃテュールさん、朝には凍死しちゃうかもしれないでしょ⁉︎」

 私がとりなす前にリーシャさんが抗議の声を上げる。納屋をお借りして多少の風除けになるとはいえ、屋外にある馬車はここよりずっと冷えるだろう。私も不安で、深く頷いて同調の意を示した。

 たまたま他集落の方の移動が重なったらしく、宿の空きがなかったのだ。ちょうど居合わせた祠────教会の役割を担うシスターの方が勧めて下さって、今日はその方の家でお世話になれることになったのだけれど、お借りできる客室にはベッドが並んで二つ。いつもの調子でぐいぐい詰め寄る彼女を、テュールさんが必死に宥めている。助け舟を出してあげられれば良いけれど、私もこんな調子のお二人にはなぜか入り込める気がしなくて、一抹の寂しさを愛想笑いで紛らわせつつ少し離れて見守っていた。

 少し前にも別の集落で宿をとったことがあったけれど、その時は他に泊まる人もおらず、広い寝所の端にテュールさんが陣取り私達二人はその対角線の向かいに追いやられた。リーシャさんはぶつぶつ言いながらも私の隣ですぐにぐっすり眠ったようだが、私は眠っている間にも何か起こってしまいそうな気がして、不安のあまり中々寝つけなかった。

 果たしてその予感は半分ばかり的中した。わあぁ! という些か情けない声と共に夫は明け方、リーシャさんの口づけによって起こされたからだ。ほっぺただけなのにぃ、とリーシャさんはぷりぷり憤慨していたが私には苦笑いしかできない。普段なら私もそのくらいの時間に目覚めるのだけれど、寝不足が祟って彼女が起き出したことにも全く気付けなかった。

「凍死なんかしないって。今までだって何度も野宿してるし、平気だよ」

「そういう慢心が悲劇を招くんだから。砂漠の夜を甘く見てると痛い目に遭うわよ? 臥榻気にしてるならあたしがフローラさんと一緒に寝るから! ほんとはテュールさんの懐に抱かれて寝たいけどぉ」

「そういうところが安心できないんだ! また寝込みを襲われたらたまったもんじゃないよ‼︎」

 可愛くしなをつくったリーシャさんに、テュールさんは真っ赤な顔で反論する。彼なりに私を気遣ってくださっているのだろうけれど、内容が内容なだけにどんな顔をしたものやら。恥ずかしさに頬を抑えつつ、ちらりと視線を逃して部屋の白壁を眺めた。

 何度か泊まった集落の宿は地下に広々とした空間を設けてあって、そこにいくつかの寝台が置かれていることが多かった。壁で区切られた部屋というものがなく、衝立やカーテンのようなもので仕切ることがほとんどだった。基本的に相部屋ばかりだと仰ったストレンジャー号の船長の言もなんとなく頷ける。思えばエピカの集落でお世話になったマイヤ様の診療所でも、小さく仕切られた部屋は見なかった気がする。

 ここはそういう意味では珍しく、小さめに造られた部屋だった。リーシャさん曰く、こういう部屋は普段物置だとか、貯蔵庫として使うことが多いらしい。確かにシスターも詫びていたが、部屋の隅には本や普段は使わなそうな日用品といったものが所狭しと置かれていた。

 どちらかというとこの風習の方が不思議なのだけれど、この国では主な寝室は地下にあるのが普通なのだという。砂が入りにくいようにするための工夫なのかしら。この部屋もまた地下にあって、窓がない。それなのに室内はずっと不思議な明かりで満たされている。もちろん壁には幾つものランプが掛けられていて、この灯りを吹き消せば、星空のような柔らかな明かりだけが天井に満ちる。

 何か、不思議な石でできているのかしら。この国の壁や、天井は。

「大体ね、フローラさんが心配ならテュールさん、尚更ここにいた方がいいと思う。女だけで寝泊まりして何かあったらどうするのよ」

 溜息まじりのリーシャさんの言葉は十四歳とは思えない達観しきったものを孕んでいて、その意図を否応なしに悟らされてはぎくりとする。

「言ったでしょ? テルパドールでは別に一人の相手と添い遂げなくてもいいんだってば。だからかなぁ、たまーに貞操観念が緩い人がいてねぇ」

「あ、あの……さすがに、そのようなことは起こらないのでは。こちらは小規模ながらも神の御許でございますし、このお家もシスターお一人で住んでいらっしゃるとのことでしたし」

 恐る恐る、割って入ると言うよりはリーシャさんに問いかけてみたら、彼女はけろりとして私の方を向き直る。

「うん、そうよね。でもほら、気をつけるに越したことはないじゃない? どうしたって女は非力なんだから、過剰すぎるくらいでちょうどいいの」

 あっさりと言い放たれてはそれ以上、返す言葉もない。

 すっかり言葉を失った私達の間にコンコンと軽いノックの音が響いて、シスターがくすくす笑いながら顔を覗かせた。

「正しく神の御前となりますが、隣の祠でよろしければそちらでお休み頂いても結構ですよ。夜、お祈りに来られる方はまずいらっしゃいませんし」

 シスターの提案にテュールさんは一も二もなく飛びつき、リーシャさんはますます不貞腐れ顔で唇を尖らせる。私は、やはり密かにほっとしてしまった。どうしたってこれ以上、テュールさんとリーシャさんが親しくしていらっしゃるのを目の当たりにして、平静を装いきれる自信がなくて。

 あと少し。あと少しだから。

 その晩はシスターから夕食のお招きを頂き、一宿一飯の御礼にと、ささやかながらジャムや穀類を受け取っていただいた。御馳走していただいたスパイシーな野菜や肉を挟んだサンドイッチはとても美味しく、また私のジャムも喜んでいただけてほっとした。少し食事を分けていただき、お仲魔の皆さんのところへお持ちするのも忘れずに。

 すっかり遅い時間になってしまったので、水浴び処は翌朝お借りすることにして、軽く身体を拭いて就寝した。大きなあくびを噛み殺し、リーシャさんが朗らかに「じゃあ、フローラさん! おやすみなさぁい」と声をかけてくださる。私も微笑んで挨拶を返し、ランプを吹き消した。

 星空のような天井が優しく煌く。いつもと何も変わらない、穏やかな、とても安らかな夕べだった。

 

 

 

 ふ、と真っ暗な部屋で目が覚めたのはきっと本当に偶々だ。

 夢……を、見ていたわけではないのだけど。何故だか息苦しいような気がして、自分の呼吸の音で眠りの底から引き戻されたような感覚だった。暫し、ぼんやりと天井を見つめながらうとうとと再び眠りの淵に落ちそうだったが、ふと隣の寝台が気になって頭だけ傾けそちらを見た。

 ────ベッドに居るはずの膨らみが、見えない。

「……リーシャ、さん?」

 恐る恐る小声で呼びかけたが、返事はない。そろりと寝床を出て覗くと、きちんと整えられたシーツの中はやはりもぬけの殻だった。

 ベッドから落ちた可能性も考えて周りを探したけれど、いない。寝台に触った限りそんなに時間は経っていないようだった。靴も見当たらない。思いつくところは一つしかなく、それでもふるふると頭を振って愚かな思考を追いやる。そう、単にお手洗いかもしれないのだし。

 ショールを羽織り、暫く寝台に腰掛けて待っていたけれど、リーシャさんが戻ってくる気配はなかった。

 ……やっぱり、テュールさんのところに行かれた、のかしら。

 拭いきれない疑念に唇を噛む。信じていると言った。私自身の心は偽りなくそう在ることを望んでいる、なのにどうしてまた、こんなにも重苦しい気持ちになってしまうの。

 まだ躊躇いながら鉛のような身体を起こし、そろりと床に足をつけた。

 ひやりと這い上がる寒気をこらえて手早く靴を履き、部屋を出る。建物の中とはいえ夜の砂漠はやはり、寒い。ぶる、と震える身体を叱咤して、足音を忍ばせて階段を登った。

 ……行って、どうするの?

 衝動に突き動かされる私を、微かに残った理性が押し留める。外への扉に手をかけようとしたところで、私の足はぴたりと動きを止めた。

 ────もし、

 行った先で、一番見たくない光景を見ることになったら。

 早ければ明日にもお城に着く。一緒に宿を取るのは最後かもしれない、そう思えば、リーシャさんが想いを遂げたいと思う気持ちもいっそ理解はできた。

 テュールさんが彼女を受け入れると言わない限り、彼女はお城に着いたが最後、宿命に彼女自身の自由を全て明け渡さなくてはならないのだ。

 そうやって無理矢理自分を納得させようと努めても、一度こみ上げた嫌悪感は簡単には消えなかった。

 やめて、と言えばよかったの?

 お側に行けない私の代わりに、ホイミンちゃんでもプックルちゃんでもなく、リーシャさんがずっと彼の隣にいたこと。心穏やかでいられたわけじゃない。戦闘の折、テュールさんがさりげなく彼女を庇っていたことも。

 明るくて屈託無くて、彼を慕うのと同じくらい私にも好意の目を向けてくれる。そんな彼女を、こともあろうか疎ましく思ってしまう、愚かでみっともない自分を思い知るのが怖かったのだ。物分かりの良い顔で大人ぶって、そのくせ二人が密かに通じ合うのでは、などと今更不安になって、こんなところまでこそこそと覗きに来たりして。

(────戻ろう。これ以上、惨めになりたくない……)

 必死に歯を食いしばり、寝着の裾をぎゅうっと掴んで、込み上げるものを飲み込む。あのひとの妻であるというなけなしの意地が、この場で泣くことを許さなかった。苦しさを逃すように息を吐き、急に身体を支配した脱力感とともに、今来た通路へと向き直った。

 しかし、返しかけた踵はふと、浮かんだ思考によってまたも阻まれる。

(……っ、待って)

 もし、もしもリーシャさんが、テュールさんのところにいらっしゃらなかったとしたら?

 どこにもいないなら寧ろ、一刻も早くテュールさんに知らせるべきだわ。そんな簡単なことに、どうして今まで思い至らなかったの?

 ざわざわと、踝から澱んだ不安が這い上がる。たちまち恐怖に呑まれそうになるのを懸命に深呼吸で落ち着かせ、思考を巡らせた。────リーシャさん、何度もテュールさんに一緒に泊まるよう訴えていらした。もしかしたら何か危険を察していらっしゃったのかもしれない。強い占力を秘める彼女の価値に気付いた何者かが、彼女を狙っていたかもしれない。もしくは彼女自身が夢か占いで何かを視て、自ら単独で外へ出たのかも。

 なんて、愚かな。

 側にいながらリーシャさんを一人にするなんて。彼女に何かあったら、あのひとにどう顔向けできるというの!

 今度こそ躊躇いなく外に出ると、砂混じりの乾いた夜風が容赦なく薄衣の隙間を吹き抜けていった。昼間より随分と風が強まっている気がする。祠の内扉をノックしてみたが、返事はない。眠っていらっしゃるのかしら。こんな時間だもの、と自分に言い聞かせて、内心詫びながら扉をそっと押し開いた。

「……テュール、さん……」

 扉の正面は見慣れた祭壇になっていて、その周りはランプで煌々と照らされていた。祭壇の手前にお祈り用のラグが敷かれている。その脇の端の方に、小ぢんまりと荷物が寄せられていた。彼の寝袋が彼の代わりに横たわっていて、肝心のテュールさんはどこにもいない。

 ────リーシャさんだけじゃなく、テュールさんもいらっしゃらないなんて。

 ざわり、とまた不安が立ち昇り、慌てて首を振る。嫌なことを考えちゃ駄目。疑いたくない、勝手に絶望したくない。

 ああ、……でも。

 胸の重苦しさに耐えきれず、白い溜息が溢れていく。外に出て足下に目を凝らした。まだ新しい馬車の轍が、風に吹き消されながら砂地にわずか残っている。

 仲魔の皆さんまでいらっしゃらないの?

 一体、どうして。

 ぐるりと小さな集落を見渡す。澄んだ空には金色の円い月と、無数の星がいつもと変わらずうつくしく瞬いていた。

 馬車がないということは、今はこの集落にはいらっしゃらないのかも。

 そこまで考えたところで、ふと視界の端を人の影らしきものが過ぎっていった。

 ……誰? もしかして、リーシャさん?

 すっかり暗い視界に一瞬見えただけでは、それが大人か子供かもよくわからない。もしかしたら私と同じように、テュールさんの不在に気づいて探し回っていらっしゃるのかも。とにかく追いかけてみよう、と私はショールを掻き抱き直し、唇を一度ひき結んで小走りにその影を追い始めた。

 

 軽率だった。

 その時大人しく、車輪跡だけを辿っていれば。

 

 人影は集落の建物の影を縫い、どうやら外へと出て行く。

 そこには馬車が止められていて、私達の年季の入った馬車とは見るからに違うものだった。宿に泊まっている一行の馬車かもしれない。微かな落胆と安堵と共に、私はそれだけ確認して立ち去ろうとした────刹那。

 鈍い、悲鳴のような音がか細く響いた。

 慌てて近くにあった宿屋の壁に隠れる。確かに今、あの幌の方から何か聞こえた。他に誰かいるの?

 どうしても脳裏を過ぎってしまうのは、リーシャさんの屈託ない笑顔。さっき一瞬聞こえたものが彼女の可愛らしい声だったとは思わないけれど、完全に否定できる気もしなかった。

 せめてひと目、彼女ではないことを確かめてから。

 息を殺して宿屋の影からこっそり覗いた。後から思えば、正面から堂々と尋ねに行ってはいけないと思うくらいには私はその時、この馬車を警戒していたのだろう。

 

「生き餌が良いって言ったんだがなぁ。これじゃあ三百ゴールドすら払えねぇわ」

「そ、そんな……! 幾らなんでも話が違うだろ⁉︎」

「ちゃんと伝えたさ。それともあんたが餌になるかい? だったら千五百ゴールドくらい融通してやっても良いぜ」

 

 一体、なんの話をしているの?

 唐突に聞こえてきたその会話があまりにもおぞまし過ぎて。聞いてはいけない話だと直感した。気づかれないうちにここを離れなくては、そう思うのに、座り込んでしまった下半身は地面に縫い止められたように動かない。くっ、と悔しげに呻く男性の声が聞こえた。

「ま、馬車の分色つけて、七百ゴールド出してやるよ。喰われたくなきゃとっとと宿に戻るんだな」

 ひぃっ! とまた悲鳴が聞こえて、馬車の影からやや小柄な影がまろび出た。咄嗟に身を固くして建物に寄り添ったが、満月と強風が悪い方に作用した。風に煽られた私の髪とショールが不自然な影を形作り、飛び出してきた男の目に留まってしまったのだ。

「おい、誰かいるぞ⁉︎」

 怯えた声が私を鋭く糾弾して、いよいよ身体がすくみ上がった。全身がどくどくと心臓の如く叫びだす。

 逃げなければ。せめて祠に戻れれば。力を入れているつもりなのに、腰が抜けて立ち上がることすらできない。

「どうした? お嬢さん。真夜中に散歩たぁ感心しねえな」

 すぐに私を見つけた男がこちらを真っ直ぐに見据え、きし、と砂を踏みしめて距離を詰めてくる。酷薄な笑みを浮かべた巨漢の姿はまるで、恐ろしい魔物のようだ。

「わ、私は知らんぞ。つけられるような失態をかましおって」

 尻餅をついた商人風の男が狼狽し、声を抑えて吐き捨てる。それをちらりと睨みつけて、大柄な男が低く命じた。

「面倒だ、お前は戻れ。宿の奴らを起こすなよ」

 金貨を詰めた袋をいくつかじゃらりと投げつけられ、怯えきった男はそれでも袋を全部しっかり抱え込むとひゃあ! と小さく叫んで走り去っていった。たすけて、と叫びたかったけれどやはり声は出なかった。かたかたと震えて、力が全く入らなくて。魔法を、と思っても舌すら動かせそうになかった。見上げるばかりの私を、男は薄く笑って壁際に追い詰める。

「あんた……ああ、そこの祠に泊まってた旅の男の連れか」

 まじまじと見つめられ、髪を乱暴に梳かれて、いよいよ全身に凄まじい嫌悪感と怖気が走った。

 テュールさんの手とは全く違う、どこか血生臭い冷たい掌。

 こんな弱い私なんて、簡単に捻り潰されてしまう。

「あんたの連れの馬車ならついさっき、ここを出て行ったぜ」

 ────え?

 驚き、思わず目を瞬かせた私に、男はますます愉悦を含んだ目つきでにんまりと笑った。

「ちょっと前に若い娘が出てきてな。なんか言い合ってると思ったら、男と馬車に乗って行っちまったよ」

 う そ。

 置いて行かれた、とこの男は言っているのだ。お前は捨てて行かれたのだと。冷たい薄ら笑いに嘲るような憐憫を込めて、男は凍りついた私を見下ろす。如何にも「可哀想になあ」と言わんばかりに。

 でも、私には断言できる。そんなことなさる方々じゃない。絶対に、何か事情あってのことだから。

 けれど、……わずかにも、胸が痛まないわけではなくて。

 その甘さを見抜かれたのだろう。男は私の顎を掴んで無理やり上向かせ「随分と別嬪さんだ。ただ殺すには惜しいな」などと口笛混じりに嘯いた。

 きつく睨みつければ、ますます愉しげに口角を歪ませる。

「ったく、可愛いねぇ。悪いが見られて放っといてやれるほど寛容じゃねえんだわ。……ほう?」

 力で敵うはずもないけれど、男の手を退けようと必死にもがく。そんな私の手を男が見咎めてにやりと笑った。折られるほど乱暴に左腕を引き上げられて、思わず喉から細い悲鳴が漏れる。

「えらくいい指輪だな。こいつぁ値がつきそうだ」

 ────駄目!

 咄嗟に男に組みついて、けれどすぐ強烈に頰を張られた。脳がぐちゃぐちゃになりそうな衝撃が走って、掴まれた左腕からだらりと吊された格好になる。口の中にじわじわと鉄の味が広がっていく。「暴れてもいいこたねえぜ。ほれ、手ぇ開けな」と男が促したが、絶対、絶対に掌を開ける気なんてない。

「こんな細っこい指をさぁ。俺だって良心が痛むよ?」

 態とらしく、粘つくような囁きを落としながら────全く躊躇を見せず、男は固く握り締めた私の左手から薬指を摘み上げた。ペキ、と枯れ枝を踏み折るような音を伴って。

「────ッあ、あぁあ……っ‼︎」

 耐えきれず迸った叫びは、男の大きな掌に阻まれる。

 激痛しかない。恐らく折られたであろう薬指から指輪を難なく抜き取って、男は口許を抑えつけたまま私を上機嫌で抱え上げた。「素直に渡せば痛い目見ることもなかったのになぁ。勉強になったろう?」などと嘲笑混じりに言い放ち、男は軽々と私を引き摺り馬車の馭者台に乗せようとする。このまま黙って連れて行かれるなんて絶対に嫌、けれど、今この状況を私だけでどうにかできる気がしない。抵抗すれば次に折られるのは腕か脚か、最悪命をも取られてしまうだろう。口を塞がれて呪文も唱えられず、指輪もあっさり奪われてしまった。燃えるように痛む薬指がどうなっているのか、確かめるのも恐ろしい。

 どうしたら────どうしたら、いいの。

「ふろーらちゃんを、はなしてーっっ!」

 その時だった。聞き覚えのある愛らしい声が響いて、ほとんど同時に身体を揺らす衝撃と「うぉっ⁉︎」と低い呻き声が聞こえた。朦朧とする頭をなんとか傾けて、そちらを見る。

 可愛い、小さな白い痺れ海月が男の腕に巻きついて、何とかして私を離そうとしてくれていた。

 あんなに必死に、私を。

 力を振り絞り、口を覆う男の指に思い切り噛みつく。鈍い悲鳴と共に一瞬縛めが緩んだが、即座に唱えようとした誘眠魔法は私自身の濁った声に掻き消された。鳩尾を深々と殴打されたのだ。

 ごほっ、と咳と共に苦いものと、言い表せない衝撃がこみあげた。同時に周囲の音が、意識が急速に遠ざかっていく。

「畜生! なんでこんなところに痺れ海月がいるんだよッ」

 苛立った男がしびれんちゃんを振り解いたらしいことだけわかった。最後、ふろーらちゃん、と微かな声が聞こえたことにほんの少しだけ、安堵して力が抜けた。

 お願い。しびれんちゃんは、無事でいて。

 ────身勝手な祈りと共に、程なく私は意識を失った。

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