Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 作:サクライロ
硬い床板に叩きつけられる衝撃と、ひっきりなしに肌を抉る砂粒の痛みで、たまらず意識が鮮明になる。
身動ぎした瞬間、胃の奥から嫌なものがこみ上げて、咄嗟に呻き声ごと押し殺した。燃えるように痛む掌は縄で後ろ手に括られていて、口には猿轡を噛まされている。どうやら私は、馭者台に程近い馬車の荷台に転がされているらしかった。
激しい揺れに身体が跳ねるたび、左肩から先が全て砕け散りそうな激痛が走る。折られたのは指一本だけ、なのに肩まで痛みと熱で痺れて動かせない。薄く開いた視界の中、周囲に何やら大きなものが堆く積まれていて────異臭が酷かった。一度気づいてしまうと、あとは吐き気との戦いだ。
乱暴に馬車を駆る大きな背中の主はもちろん、夫ではない。
「おう。起きたか」
まるで馴染みの人間に対する口調で、男は気安く呼びかける。当然嫌悪感しか湧かないけれど、今の私には睨み返す余裕すらない。歯を食いしばって激痛と異臭に耐える私をちらりと振り返り、男は低く、くぐもった笑いを溢す。
「死体だらけで悪いな。若いお嬢さんには気味悪かろうが、もうちっとで片付くからよ」
────死体⁉︎
ぞわ、と怖気が一瞬で背筋を駆け抜けて、喉から上擦った悲鳴が漏れた。這いずった私をまた一瞥し、男は「ああ、人間じゃねえよ。魔物だ魔物」とこともなげに言う。
細切れの記憶と男の言葉を必死に辿った。この異臭、これらは全て魔物の死体だということ? おぞましさに飛びそうな意識を必死に保ち、幌の中を見回した。暗くてよくわからないけれど、無造作に積まれたそれはケムケムベスのようにも見えた。毛むくじゃらの心優しいビックアイを思い出し息が詰まる。生きていないのなら今すぐ襲われることはない? いいえ、いいえ、安心したくても恐怖が勝って、意味のない思考ばかりぐるぐる回る。落ち着いて、何とかして心を落ち着かせて。
(……しびれん、ちゃん)
唐突に、連れ去られる間際追い縋ってくれた小さな痺れ海月の姿を思い出した。血液が逆流するが如く一瞬で血の気がひいて、己の脈動がずくん、と重く響く。
夥しい死体の中に彼女がいないことを確かめたくて、必死に頭を持ち上げたその瞬間、忌々しげな男の呟きが耳許をかすめた。
「あーくそ、どうせならあの痺れ海月も連れてきて餌にしちまえば良かったんだ。麻痺させられ損だぜ、畜生め」
どうやら先ほどしびれんちゃんが絡みついた時、彼の利き手に麻痺毒が回っていたらしい。荒い走らせ方も、左手一つで手綱を捌いている所為らしかった。ぶらりと垂れた右手を振っては、あいにく満月草をきらしちまってンだよなぁ、とぶつくさ呟く男の独り言に耳を傾け、私は深い安堵に四肢が脱力していくのを感じていた。
しびれんちゃんは捕まらなかった。きっと、無事。
────……良かった。
「さぁて、そろそろお目見えか」
急に手綱を引かれて馬が高らかに嘶き、失速の衝撃で身体を何度も床板に叩きつけられた。死体が崩れれば下敷きになる。恐怖のあまりぎゅっと瞼を瞑っていたら、猿轡の後頭部を髪ごと無理矢理掴まれ、引きずり出された。よろよろと馬車を降りると今度は冷たい砂の上に放り出され、凍るような夜半の風に、薄衣ひとつの身体が今更がちがちと震えだす。
辺りには花の形に似た鉱石がいくつも転がっていて、月明かりを受けて星の如くちかちかと瞬く様がひどく幻想的だった。きれいな場所だけど、残念ながら景色を楽しむ余裕はない。男は私を放置して幌へと戻り、馬を外して少し離れた細い木の幹に繋ぎなおしていた。一体何をするつもりなのか、凝視した私を彼は鼻で嗤ってみせる。
「見たいか? 気持ちのいいもんじゃねぇよ」
慌てて目を逸らす。そう、さっき生き餌が良いと言っていた。あれは死体だそうだけれど、この人はきっと山と積まれた魔物を何かに喰らわせるつもりなのだ。
程なく男の向こうからシュウウゥと空気を細くしたような唸り声と、何かがけたたましく破壊される音がした。馬車ごと壊しているのだろうか、だから馬を離したのだろうか。
「魔力を帯びた体液を吸うんだと。いやぁ、ここまで育てンのに苦労したぜ」
隣に退がってきた男が得意げに嘯いた。俯いていたから気づかれなかっただろうけど、ほんのわずかな引っ掛かりを覚えて急いで記憶をまさぐった。
私の夫は魔物遣いだ。不思議な力で魔物達と心を通わせ、彼らを縛る理から解き放つ。夫が行動を共にしている仲魔の皆さんはそれぞれが魔物としての矜持を持ちつつ、私達に寄り添った在り方をしてくださる。食生活に関しても少なくとも皆さん、人間と変わらない食事を喜ばれていると思う。魔力を含んだ体液を必要とされているところなんて、私は見たことがない。
ましてやテュールさんといえど、魔物を甲斐甲斐しく世話して『育て』ることはなさってない。
父親らしい振る舞いと感じることはあるけれど、それはあくまで家族さながらの距離感からくる印象に過ぎなくて。魔物でも生まれたてならまた違うのかしら。
そもそも、この人は夫と同じように魔物を従え、使役できる人なの?
テュールさんのあの力は優しい、浄化のようなもの。どういう理由か、辛い何かに苛まれていたというしびれんちゃんやスラりんちゃん達を光の中に拾い上げた。彼は力や餌で使役しない。強い信頼が彼らを結んでいるからだと、まだ出会って間もなかった頃の私にもちゃんとわかった。
同じだなんて思えない。今、目の前にいるこの人と。
「それが、新たな砂漠の神ですか」
この場に似合わぬ、玲瓏たる響きに思わず振り返った。いつからこの場にいたのか、見るからに高貴なローブを纏った細身の女性が少し離れた後方に佇んでいた。
首からくるぶしまで大陸特有のドレスで覆い、露出は多くないがどこか艶かしい色香が漏れる。後ろから「兄貴、お待たせっす! お連れしました!」とまた知らない男性の声がして、どうやら賊の仲間が取引相手を案内してきたらしかった。
「時間きっかりだな。お偉いさんはさすがだねぇ」
見るからにご機嫌とりの台詞に女性は何も反応を返さず、猿轡を噛まされて座り込む私を一瞥すると「その方は?」と静かに問うた。
「取引現場を見られちまってな。なかなかの上玉だろ? 連れ帰ってオークションにかけてやろうかと思ってよ」
女性の後ろから好奇心丸出しで覗いていた青年がひゅう、と口笛を吹く。とりあえずすぐ殺される予定ではなかったらしいことと、これから知らない土地で売られるという事実に安堵と絶望が交錯する。んん、と言葉を発せずもがいた私を、彼女は意外にも憐れみ深い眼差しで見つめた。
「……そういう野蛮な扱いは好みません」
女性の返答が気に入らなかったのか、男はいかにも不服そうに眉根を寄せる。
「非力だろうが油断はできん。魔法使うかもしれねえしな」
「ならば、封じておきましょうか。念のため」
言うなり、女性は何事かを唱え身を屈めた。胸に手を当てられると、肺の奥にぐっと重石を詰められる如くの圧を感じる。身体の中の何かが循環することをやめたような、どこか気持ちの悪い感覚だった。何度か魔物との戦闘でこんな状態になったことがある。恐らく今、魔封じの魔法をかけられたのだろう。
屈んだ彼女がそのまま首の後ろに両腕を伸ばし、猿轡を解いてくれる。
「あ、りがと……ござい、ます」
やっと吐き出した息が白い。ひりついた喉からやっと声を発すると、女性は目許だけわずかに緩ませて淡々と告げた。
「貴女も軽率な行動はなさらないことです。私が見ている限り、無体な真似はさせません」
おい、と苦笑いした男を冷淡に見遣り、女性は乾いた息を吐く。
「本当……殿方って、女を人とも思わない方が多いのね」
(……?)
少し、不思議に思った。この大陸ではどちらかというと、女性こそ大切に扱われている印象が強かったから。
非難めいた一言も男は意に介さない。手下の青年から恐らく満月草の軟膏を受け取り、丹念に利き腕へと塗り込みながら、彼は月明かりの下、酷く濁った笑いを浮かべる。
「男だろうが子供だろうが関係ねえ。金になるかならねえか、だよ」
下卑た笑いは彼の真理であり正義だ。彼にとって、値がつくかどうかだけが意味のあることなのだろう。女性は眼差しにますます軽蔑を込め、さりげなく私を庇い立つと冷たく言い放つ。
「競売に出されるおつもりなら、もう少し商材を大事になさったら。このままでは買い手がつく前に凍え死んでしまわれてよ」
男が舌打ちし、子分らしき人に顎をしゃくった。慌てて彼は身の回りをばたばたと探り、腰に巻いていた大判の布をほどいて私に羽織らせる。決して厚手とは言えなかったけれど、寝着一枚で夜風に煽られ続けた身体には、ほんのわずかな温もりすら滲みた。
「おっと、まずはそっちだ。例の遺品とやらはどこにある」
出し抜けに男が問いを投げたが、女性ははじめて表情を翳らせると、視線を外して口籠った。
「……王城の、勇者様の御廟に」
歯切れ悪い返答に、男が顔をしかめる。『勇者様』と聞こえて、私も思わず耳をそばだてた。
「話が違うな。後金をユウシャサマの兜とやらで贖うんじゃなかったか」
「申し訳ありませんけれど、それの力を借りないと御廟を開けられそうにありませんの。御開帳の暁には、御廟に納めてある他の宝具も好きなだけお持ちになればよろしいでしょう」
────勇者の……、『天空』の、兜⁉︎
耳を疑った。遺品って、まさか勇者本人が遺したものが伝わっているの?
盾は私がずっと持っていたけれど、兜がここにあるなんて知らなかった。恐る恐る、女性の横顔を盗み見るが彼女は先ほどと変わらぬ冷たい面差しのまま、すっきりと背筋を伸ばして佇んでいる。
もしかして、この方はアイシス女王なのでは。
でも、だったら何故天空の兜を取引材料に? いいえ、女王ならきっと御廟など簡単に開けられる。そもそも何を取引しようとしているのか、何もかも不確かな状態では推察もろくにできない。
「なんだかようわからんが、しゃーねぇな。城に一度出向けってことか」
「恐れ入ります。ご足労をおかけして申し訳ありません」
取り乱して見えたのは一瞬で、女性はすぐに澄まし顔を繕うとしなやかに腰を折って見せた。ふん、と鼻を鳴らした男が子分に向かってひらひらと手の甲を振る。
「お前はそこのお嬢さん連れて船戻ってろ。勝手に手ェつけんなよ、大事な商品だからな」
「うぇ? 兄貴一人で大丈夫なんです?」
「お前阿呆か? こっちには神サマがついてんだよ」
尚も子分は心配そうに兄貴分の様子を窺うが、男はにやりと笑い腰に下げた袋を示してみせる。あんなところに魔物を収めているのかしら。よく見たくて思わず身を乗り出したけれど、背後に立った子分はそこには気づかずやれやれと息を吐くと、手首の縄をぐいっと引き上げ立つように促した。
「んじゃ、別嬪さんにはちっと歩いてもらうかねぇ」
「あの」
連れて行かれる。その前にと、ほとんど反射的に声が出た。
聞きたいことは山ほどある。まともに答えてもらえるとは思わないけれど、今、真っ先に尋ねるべきは天空の武具のこと。例の勇者の墓所に祀られているのが、かの伝説の勇者が遺した兜であると────夫が探し求めるその方への道標が、この国に納められているのかどうか。
訊かなくては。そう、思うのに。
「指輪……指輪だけ、返してくださいませんか。お願い、です」
やっと紡いだのは伝説などかけらも関係ない、先ほど奪われた指輪のことだった。
私の懇願に女性は眉を潜め、男はうへぇと辟易した様子で目を逸らす。
「指輪ぁ? 兄貴まさか、一人でくすねる気だったんじゃあ」
子分の男が恨めしげに男を見上げて不平を垂れる。男も忌々しげに舌打ちし「うっせぇな。ちったぁ分け前やるつもりだったよ」と唇を尖らせた。
水のリングなら魔法を封じられていても使える。そんな下心もわずかにあった。けれど、指輪の力だけでこの局面を打開できるほど、甘くはないこともわかっていた。
以前の私なら潔く死を望んだかもしれない。あのひとに出会う前の私なら。
連れて行かれるのだって嫌だけど、今ここで殺されるよりずっといい。彼が黙って耐えた十年を思い出し唇を噛んだ。
あの人なら諦めない。そう思えることが震える私を叱咤する。どんな目に遭うかわからない、女の私は彼に見せられない身体になってしまうかもしれない。でも、それでも、生きてさえいれば。いつか彼に……もう一目だけでも、会うことが叶うかもしれないから。
だから、……だから、御守が欲しい。決して強くない私が、その時まで生きることを諦めてしまわないように。
「お願いです。もう、抵抗したりしませんから。どうか返して、あの指輪だけは」
冷めた目で私を見つめる二人に追い縋る。どんな目で見られてもいい。彼が命懸けで手に入れてくれた、私と彼を繋ぐたったひとつの、あの指輪だけは手放したくない。
「とても大切なものなんです。結婚指輪なの。どこへ連れて行ってもいい、私ごと売り飛ばしたって構いませんから、それだけ……それだけ、持たせて頂くことは許されませんか」
「────そんなに、縛られているのは楽?」
訴えるのに必死で気付かなかった。いつしか、女性の雰囲気がまるで生気を感じられないほど硬く、無機質なものに変化していたことに。
「あの男も、私に指輪を寄越したわ」
美しい能面が紡いだ呟きからは微かにも感情を読み取れなかった、けれど。
何故かしら。
胸が、張り裂けそうな心地がした。
苦しくて苦しくて、何故か、大きな手に喉を絞められているような────奇妙な感覚が意識の片隅を駆け抜ける。
茫然と見つめる私に、彼女は口角を妖しく持ち上げ……にこりと、作りものめいた笑みを見せた。
「所在不明になるのがお嫌なら、私が買い取って差し上げます」
「な……!」
残酷な提案に言葉が出ない。ちがうの。ただ、肌身離さず持っていたいだけなのに。
硬直し瞠目する私を眺め、彼女はさえずるように言葉を紡ぐ。
「憐れな方。従属することに慣れ過ぎて、こんな指輪一つで縛られていることにもお気づきにならないのね。私が解き放って差し上げましょう。貴女はこれから奴隷の身に堕ちるかもしれないけれど、今よりずっと自由になられてよ」
どうして、そんなことを仰るの?
この状況下で漠然と、彼女は味方のような気がしていたのだ。目を見開いたまま動けない私を尻目に、彼女は男に指輪を渡すよう促す。男はますます苦虫を噛み潰した顔で「おい、墓所のお宝とやらがろくなもんなかったら後できっちり支払えよ! 俺の見立てじゃ、こいつぁ数万……十数万ゴールドだってくだらねぇんだからな!」と怒鳴りつつ、渋々指輪を取り出した。
「……美しい指輪ね。貴女によくお似合い」
褒め言葉なのに、どうしてこんなに寒々と響くの。
「どうせ頂くならこんな指輪が良かったわ。……趣味の悪い殿方は嫌いよ」
右手に白銀の輪を摘み、彼女はうっとりと目を細める。しなやかな指先を誘われるようにリングへ向けて。
────いや。嫌!
止めたいのに、必死にもがいているのに、縛られた腕を掴まれて動けない。「この、大人しくしろって!」と背中から体重をかけられ、無様にも地に伏した。疼いていた左手を再び激痛が襲って、言葉もなく耐える私を見下ろし、女性は優しく、妖しく笑う。
……ここまで必死に隠してきた醜い自分が、溢れる。
私だけがいい。私だけに許して。あなたのものである証を、他の誰にも譲りたくない。他の誰にも許したくはない。
リーシャさんにも、ビアンカさんにも、この方にも、本当は誰にも、絶対に渡したくなかった。
とらないで。私の一番大切なものを、私から奪わないで。
「やめて、……返して……‼︎」
後頭部から砂の上に抑えつけられ、もう見上げることすら叶わない。次に聞こえるのはきっと、愉悦だと思った。聞きたくない。どうしても駄目なら、どうか耳を塞がせて。
「…………っ、どうして」
けれど、
────聴こえたのは、初めて生じた彼女の激昂。
「どうして通らないの! どうなってるのよ、この指輪は‼︎」
力が緩んだ隙に首を傾けて、愕然とした。既にリングを嵌めたと思った女性は、否、まさに指を挿し入れようとしたその姿勢のまま立ちすくんでいたのだった。目を凝らして見れば、ちょうど輪のところで爪先が止まっていて────器用に止めているわけじゃないのは震える腕を見ればわかる。
確かに開いているはずの穴が、結界の如く不思議な力で指の侵入を阻んでいる。
「……おったまげた。結婚指輪にしちゃあ随分とけったいな代物じゃねぇか」
男がどこか呆れたように呟いて、次いで私を捕らえた子分の男がひどく怯えて私を覗き込んだ。
「あ、あんた、ありゃあ呪われてんのか? んなもんつけてて平気だったのか? なんであの方の指には擦りもしないんだよ⁉︎」
「し、知らな……知りません、私」
気圧されるままに頭を振った。だって、本当にわからない。今まで疑問に思ったこともなかった。普通に身につけていたし、魔道具であることも伝承の指輪だからと何となく受け入れていた。そう、結婚式で彼に嵌めてもらってから今までずっと────
「その指輪は貴女には嵌められない。僕の妻のものだから」
唐突に、凛とした青年の声が夜風を裂いた。
ずっと聴きたかった、声。穏やかだけれど理不尽に屈さない強さに満ちた声が、砂ばかりの一面に響き渡る。
必死に頭を持ち上げて、声のした方を振り返った。まだ濃い闇が横たわる砂塵から、金の毛並みが美しい魔獣が咆哮し躍り出た。失速したその背から黒い影が転がるように飛び降りる。黒く見えたのは、彼の外套も濃い紫だから。被り物も、風になびく黒髪も溶け込むように夜に馴染む。
けれど────その瞳の輝きだけは、闇に埋れはしない。
「……テュール、さん」
思わず零れた呼びかけはあまりに朧げで、彼の耳に届くはずもなかった。けれど、地面に降り立ちこちらを見渡した彼とすぐに目があった。険しい表情だった彼は、しかしほんの一瞬、私を安心させるかのように張り詰めたものを優しく優しく弛ませる。
「ちっ。そこの女と駆け落ちしたんじゃなかったのかよ」
大柄の男が忌々しげに舌打ちした。唇を噛んでそちらを上向いた瞬間、隣の女性が美しい眉をひどく歪めたのが見えた。
「なんておぞましいこと。呪を施した指輪で女を縛るなんて」
ぽつり、艶やかな唇から零れ落ちた声はあまりにも────身体を芯から震わせるほどに、冷ややかだった。
息を呑んだ私を、彼女はいっそ慈愛に満ちた微笑みで見下ろした。透明な眼差しでするりと視線を搦め捕って。
陶器のような長い指先がつと、私の顎をなぞっていく。
「ねぇ。心底身勝手だと思わなくて? 御主人は貴女を所有した証に、呪いの指輪を与えたのですって。こんな薄気味悪い指輪一つで飼われてらしたのよ、貴女。そこまでして繋がれていなくてはならないなんて、本当に哀れで、お気の毒な方」
そんなこと。
抗議を叫ぶより早く、テュールさんのひどく穏やかな声がいたわるように私を包んだ。
「僕が何かしたわけじゃない。指輪が、彼女を選んだんだ。貴女に理解してもらう必要はないけれど」
突然の闖入者に気分を害したのは女性も同様らしかった。もう一度ちらりと私を一瞥し、侮蔑と非難を込めてテュールさんをきつく睨みつける。
「安易に拉致を許したくせに、随分と余裕でいらっしゃるのね」
この一言には彼も唇を噛んだようだった。悔恨が滲む表情に息が詰まる。テュールさんは何も悪くないのに。
それでも彼は賢明だった。ゆるく息を吐いて、ナサカの集落で住人達に激昂されたときのような深い濃紺の凪の瞳で烈しい視線を受け止める。わずかも怯むことなく、彼はすらりと剣を抜いた。────女性と、私を捕らえた男達を見据えて。
人に剣を向けるテュールさんを初めて見た。
魔物ではなく人間、それも女性に対して彼が剣を構えている。絶望に似た怖気がぞろりと私を蝕んだ。吐く息も白い寒さなのに、緊張のあまりぬるい滴が喉許を伝う。対峙した彼が剥き出しにしたものは殺意ではなかったけれど、それ以上に静かな怒りが全身から滲み出ているのを感じた。
「何のつもりか知らないが、返してくれ。妻も、指輪も」
感情を押し殺した、ごく低い声音で彼が告げる。
剣を構えたテュールさんの背後から、リーシャさんが恐る恐る顔を覗かせた。私を認めると痛ましげに顔を歪めて────その隣の女性を目にした瞬間、強張って息を呑む。
「……ユノ、さま?」
女性がまた不快気に眉をひそめた。女王ではないらしいことにほっとしながらも、同時にどこかで聞いた名だとも思った。その答えはすぐにリーシャさん自身からもたらされる。
握り締めた拳をわななかせ、彼女は真っ向から純粋な問いを投げつけた。
「ユノ様。ユノ様でしょ? 女王従きの女官長様がこんなところで、一体何をなさっているんですか⁉︎」
──── 女官長をなさっている方よ。むかーし、小さい頃に何度かお会いしたことがあるわ。
そう、屈託なく告げた彼女の言葉には『ユノ様』への敬愛が滲んでいた。話題に上ったのはあの一度きりだったけれど、きっとその邂逅はリーシャさんにとって大切な、思い出深い出来事だっただろうことが容易に想像できた。
ユノ様、と呼ばれた女性は怪訝そうに少女を見る。冷たい眼差しにも怯まず、リーシャさんは顔を上げるとはっきりとした声で名乗った。
「エピカ村の、リーシャ・ガロンです。六、七年くらい前、私がもっと幼かった頃に何度かお会いしたことがあります」
聞き覚えがあったのか、女官長が微かに眼を瞠った。初めて真っ直ぐ少女を見つめ返した彼女は、記憶を反芻するように次第にその瞼を細めていく。
「……そう。アイシス様は、全てお見通しだったというのね」
暫しの沈黙の後、彼女はまた抑揚のない呟きを零す。その隣で手持ち無沙汰に待っていた男が突然、慌てた声をあげた。彼女が後ろ手に腕を差し伸べて、何かを促す仕草をしたから。
「おい、あんた────」
「朝になればテルパドールの民は皆、それの供物となるのです」
供物……、なに?
言葉の意味を、飲み込むことを頭が拒絶する。わずかにも表情を揺らがせることなく、女官長はただ淡々と告げた。
「ほんの数刻早くとも同じこと。……そうでしょう」
もういっそ、現実感がなさすぎて。
本当はずっと、私は星のように天井が瞬くあの祠の地下室で、醒めない悪い夢を見ているだけなんじゃないだろうか。
そんな莫迦げたことを思うくらい、恐ろしかった。淡々と語る彼女からは生気も覇気も感じられない。どうしてここまで己を殺しきることができるの。そして、彼女自身自分が何を語っているのか理解しているのかしら。
もう数刻で日が昇る。そんな当たり前の日常の一遍のように口にしているその内容が示す残虐が、彼女に解らないはずないのに。
「何のために手懐けて、ここまで魔物だけ喰らわせて来たと思ってンだよ。知らねえぞ、一度人間に味を占めたら」
「────すべて、喰らい尽くしてくださると?」
ごく薄く、笑ったように見えたその表情は、
ただ破滅を望むひとの顔だった。
「どう、して、そんな」
届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「お城に、放つおつもりなのですか。城内と城下に、何百という人々がお住まいなのではないのですか。……テルパドール城は、勇者様の墓を祀るが故に強固な結界で守られていると聞きました。その聖域に、女王に次ぐ力を持つお方が、得体の知れない恐ろしい魔物を敢えて招き入れようと仰るのですか⁉︎」
ほら。この方は私の訴えになどかけらも揺らいでくれない。言葉を尽くしたところで眉一つ動かしてはくれず、絶望と虚しさに押し潰れるばかり。だって全部承知の上で、彼女は初めから王城を血に染めるつもりでいたのだ。
「何で、そんなこと……ユノ様、お輿入れが決まったって。だからご実家に戻られるんでしょう? あたしも、直接お祝いをお伝えできると思って、すごく楽しみにしてきたのに」
リーシャさんが狼狽えて、純真な眼差しを女官長に向けた。疑うことを全力で拒んでいる無垢な少女に、女性は冷たく、どこか哀愁を帯びた一瞥だけを返す。
「それが望まぬ婚姻だとは、露ほども思わないのね」
────胸を、衝かれた。
私の意思なんて関係なかった。結婚とは全て、父と婚姻相手との間で為されていく契約に過ぎないはずで、父がどんな過酷な条件を課そうとも、どれほどの犠牲が払われようとも、私にできることなど祈ること以外何もなかった。
抗えない虚しさを、私も知っている。
「どうしたの? 見られては困るのでしょう。あれだけの人を全員捕まえて競売にかけるおつもり?」
再び無機質な声に促され、男が一層忌々しげに舌打ちした。腰の袋に手をかけると袋口を留めていた金の輪を引き抜き、中身を勢いよく放る。次の瞬間、不穏な地響きと共に、猛烈な砂煙が視界を阻んだ。
「……やっぱりか」
薄れていく砂塵の中、テュールさんの低い声が不思議と鮮明に響く。
眼前に拓けた砂の海に異変が生じていた。ぽっかりと地面がなくなって、いいえ、私達の足元からさらさらと砂時計のように地面が流れ落ちていく。唐突に出現した、滝壺のような巨大な溝へと。
その、中央に何かいる。
「下がれよ。死にてえのか」
苛立った様子で、男が乱暴に私を後ろへと引き寄せた。振り払うことは出来なかったけど、それでも精一杯逆らって前のめりに身を乗り出す。
無数の礫が溝の中から流星の如く噴き上がる。────その淵から盾で庇いつつ真下を窺って、スライムに跨った勇ましい鎧の騎士が、今にも中に飛び込まんと剣柄を握り呼吸を整えているのが、見えた。
「ピエールさん‼︎」
無我夢中で叫んだ。お願い、届いて‼︎
「スラりんちゃん、プックルちゃんも下がってください‼︎ これは魔物を狙って────」
続けて叫ぶより早く、呼応するが如く中の魔物が吼えた。
クオォォォォン‼︎ と響く唸り声と共に砂を巻き上げ、再び視界が遮られる。私の声もきっとかき消されてしまったけど、それでももう一度、鳩尾に力を篭めて思いきり声を張り上げた。
「魔物の、体液を吸うのだと! どうか近づきすぎないで……‼︎」
「……なるほどね」
矢の如く飛んでくる砂礫を外套で防ぎ、私の警告を苦々しく受け取ったテュールさんが魔物を見下ろし独りごちた。
「みんなは一度下がって。……足場が厄介だね。マザーオクトといい、やばい奴は直接殴りにくいのが面倒だな」
「あの男が主ならば、捕らえて再び封じさせては如何か」
「それで二度と使えなく出来るならね。万が一にもあんなものを住人のいるところに放たれたら、ただじゃ済まない」
鋭くこちらを見遣ったピエールさんを、彼は静かに嗜める。真剣な面差しの中にどこか憐みめいたものを感じるのは、彼が『魔物遣い』である所以だろうか。
「……斃せるなら、斃してしまったほうがいいと思うけど」
距離があって、ピエールさんと何を話しているのかこちらまではっきりとは聞こえてこない。けれど、浮かない様子から彼の逡巡が痛いほど伝わってきた。
テュールさんはきっと、仲魔の皆さんに人を襲わせない。
私を取り返すため、それを魔物が阻むなら皆さんをぶつけることもするだろうけど、プックルちゃんにこの人達を害させることはきっとなさらない。
……私が命を落とすことがあれば、その限りではないけれど。
だから、彼はきっと単身こちらに向かおうと考えているのだろう。けれどあの魔物が障壁となるから、結局は対処せざるを得ない。それでも仲魔の皆さんを近づけるのは悪手で、だからって彼一人でなんとかできる局面でもなくて。
せめて、私が魔法を封じられていなければ。
この人達を眠らせて、自力でここを離れられれば、少しは彼の足手まといにならずに済むのに。
「莫迦が、死ぬっつってんだろこのアマ!」
無意識のうちに迫り出していたらしい。頭ごなしに怒声をぶつけられ、ぎょっとした子分が慌てて腕を捻り直した。折れた指からまた激痛が走ってうずくまりかけたけれど、歯を食いしばって顔を上げた。
こんな痛み、何もできない辛さに比べたら何てことない。
「あ、兄貴ぃ、大丈夫なんすか? 俺達も巻き込まれません?」
おどおどと子分が問うた。完全に腰が引けている青年を一瞥し、壮年の兄貴分は素っ気なく言い捨てる。
「お前はそいつ連れてとっとと行け。俺はともかく、お前は巻き添え喰ったらおっ死ぬだろうからな」
ひぇッ! と震えた子分が私を捕らえたまま後ずさった。引きずられたたらを踏みながら、相対した巨漢を見上げ真っ直ぐに睨みつける。
「……あなただって、同じではないの?」
「飼い主には従順なんだよ」
低く笑い、男はいかつい掌をかざして見せた。いつの間に身につけたのか、中指に太い金の輪を嵌めている。さっき魔物を封じていた袋を留めていた輪だ。この金の輪で魔物を服従させているのだろうか。
────なんておぞましいこと。呪を施した指輪で女を縛るなんて。
先ほどの女官長の言葉が何故か、脳裏をよぎった。
どん、と唐突に地面が揺れた。離れたところから魔法とブーメランを仕掛け始めたテュールさん達に業を煮やしたのか、魔物が激昂し更に溝を拡げたのだ。蟲が放つ砂の衝撃で足場が脆く弛み、ざぁっと音を立てて崩れていく。みるみる後退する砂の縁に飛び退いた男達とは対照的に、女官長はさっきと変わらぬすきっと立った姿勢のまま、砂の中の魔物を真っ直ぐに見下ろしていた。
どうして?
躱そうともしない。頬をかすめる砂礫にも撃ち抜けとばかりに動じない。崩れ出した地面からも、一歩も動こうとしなかった。
まるで、己自身が供物であるというように。
どうしてなのかわからない。なぜ動いたのか、何故そう思ったのかも。ただ身体が勝手に動いていた。手を離し逃げ出した子分とは逆方向に、転がるように駆けた。女官長の足下が音を立てて崩落した、その頂きで体勢を崩した彼女に、頭から思いきりぶつかって突き飛ばした。
このひと、死んでもいいと思ってる。
彼女はそれで良かったのに、どうして私はこの時、そんなの駄目なんて傲慢なことを思ったのか。
この瞬間のことを後から時折思い返してみるけれど、未だ納得できる答えには辿り着けない。
浮遊感の一瞬の後、右半身を激しく叩きつけながらすり鉢の底に落下した。砂を雪山のように巻き込んで崩れて、身体が半分埋まってしまう。
「フローラ⁉︎」
「フローラさんッ‼︎」
悲愴な声が二つ飛んで、縛られたままの左手が悲鳴を上げた。けほけほと咳き込みつつ激痛に痺れる身体を起こしかけたその瞬間、背後の気配にぎくりと血が凍りつく。
先程まで上から見下ろすばかりだった蟲の魔物が、私のすぐ後ろにいる。
恐ろしくて、息もできない。見上げた砂壁は見るからに脆くて全く登れる気がしない。振り返るより早く、ずくん‼︎ と鋭い痛みが背後から腹部を貫いた。
「フロー……ラあぁッッ‼︎」
本能を剥き出しにした、獣のようなテュールさんの咆哮が私を呼ぶ。
「……っ、ぁ」
熱い。痛い。どうして。
ごほ、と咽せたら口から血が散った。恐る恐る振り向くと、あの蟲が這ったまま至近距離で私を見つめていた。ぞ、と強烈な悪寒が脳天を割って駆け抜ける。蟲の大顎とでも呼ぶのか、角のようなその一つが右の脇腹を貫いていた。全身にこだまする脈動と共に熱いものがどくどく溢れて、濡れた砂と薄衣がじっとりと肌に貼りついていく。
駄目、かもしれない。
力が抜ける。崩折れかけた矢先、ズズ、と濁った音がして突き立てられたそこが急速に重みを増した。違う、吸われてるの、血と体液を魔力ごと────
「や────嫌、テュール、さ……!」
たすけ て。
刹那、
紫の外套が翻り頬を凪いだ。
脇目も振らず飛び込んだテュールさんとすれ違った瞬間、触れても視線を交わしてもいなかったけれど、まるで抱きしめられたような温もりを感じた。
絶命しそうな激痛の中、ほんの一瞬、恍惚すら覚えた。
跳躍の勢いと体重を全て載せて、彼は渾身の一撃を巨蟲へと打ち下ろす。けれど大顎を砕くことは出来ず、当の魔物は鬱陶しげに頭を揺すった。
「あ、や、痛っ……あぁ、あッ‼︎」
貫かれたままよろめいた軀を振り回されて、堪えたくても身体の内側から絞られるように絶叫がほとばしる。少し動かれただけで腰から真っ二つに裂かれそうで。大顎を身体全部で押し留め、彼も必死に動きを止めてくれたけれど、この隙にも血を吸われて意識がぐらりと混濁した。
今意識を手放したら、二度と目覚められないかもしれない。
どん、と唐突に衝撃が走った。仲魔の皆さんがいつの間にか降りてきて、蟲に向かって一斉に体当たりしてくれている。「ふろーらちゃん、しっかりー!」気丈なスラりんちゃんの励ましが朦朧とした頭に響く。彼らの狙いを瞬時に理解した彼が私を支え起こし、正面から抱きしめて蟲に喰いつかれた腰を強く抑えた。「無理にでも抜くよ。少しだけ我慢して!」囁くと同時に仲魔の皆さん達がもう一度体当たりをして、同時にテュールさんが私の身体を後方へと一気に引き倒した。
ずるりと大顎が抜けた傷口から、熱い液体がおびただしく流れて散っていく。
治癒魔法で止血しつつテュールさんが私を抱き寄せ、勢い余って折り重なり倒れ込んだ。すぐさま上体を起こした彼が抱きかかえてくれる。その周りをプックルちゃんが、ピエールさんが、スラりんちゃんが盾の如く取り囲んで護って。
憤慨した蟲が退けとばかりに唸り、じりじりと間合いを詰めてくる。
「……跳ぶのは難しい? プックル」
身構えたプックルちゃんが蟲を見据えたままグゥ、と低く応えて、その意図を的確に読み取ったテュールさんはどこか自嘲めいた苦笑いを溢した。
「だよね。フローラ一人なら、とも思ったんだけど」
それ以上彼は口にしない。一目瞭然、こんな状態の私では自力でしがみつけないから。紐で括りつけるなりしないとすぐに落ちてしまうし、足場はいつもと違って脆い砂土。そもそもこの高さではきっと、プックルちゃんだけ脱出するのも厳しい。
「わりと絶体絶命、かな? ……これは」
口調はいつも通り、軽口のようでいて、早まった鼓動からじわりと緊張が伝わってくる。
……いつだったか、彼に告げた。
『私がいることで危険が増してしまう時は、すぐにでもその場に置いていってください』
そんなことできるひとじゃない。初めからわかっていた。わかっていて、残酷な願いを伝えた。見捨てるはずがない。それを望むことで彼を苦しめてしまうことも、当たり前にわかりきっていたことなのに。
手を伸ばしてしまった。助けてと、あなたに縋ってしまった。
────絶望的な状況なのに、今、あなたが寄り添ってくださることがこんなにも、嬉しくて。
「奥方殿の血は余程甘美だったとみえる。執拗な」
「へえ? そう聞くとますます許し難いな。何がなんでも負けられない気がしてきた」
ピエールさんと不敵な応酬を交わしつつ、抱き寄せる腕に力が篭る。今にも沈みそうな意識を、彼を感じることで必死に繋ぎ止めた。
死にたくない。
この温もり、鼓動、声を、匂いも。失いたくない。
側にいたいの。これからも、ずっとずっと側にいたいの。
『────シャアアアァァ‼︎』
甲高い雄叫びが響いた、その瞬間地面が揺れた。
低い地響きを伴った振動が足元の、壁面の砂を揺らしてざらざらと崩していく。否、この大きな穴の中央に向かって、ものすごい勢いで滑り落ちていく。真っ先に異変を察して声を張り上げたのはテュールさんだった。
「あいつを足場にしろ! 呑まれる‼︎」
そう、朦朧とした頭でもわかる。底が抜けたように足下が弛んで、私達は重力に任せて地面の中へと沈み込んでいたのだ。リーシャさんの取り乱した叫びが遠く聞こえる。プックルちゃん達はすぐさま蟲へと飛びつきその死角に乗り上げたけれど、きっと私を抱いている所為で、テュールさんはあっという間に膝まで砂に呑まれてしまう。
「あるじ殿!」「ふろーらちゃあぁんっ!」
仲魔の皆さん達と別たれて、その距離はほんの数メートルだったけれど、今の私達には決して越えられない深い溝のように感じた。更には魔物がこちらを見据えて大顎を構える。身動きが取れない私達を襲うつもりだろうか。
「んがーんもおぉ! るかなああぁん! ごしゅじんさま達にさわるなぁぁばかああぁー‼︎」
額に居座ったスラりんちゃんが癇癪を起こしたようにぷよんぷよんと激しく跳ね、軟化魔法を唱えたその口の鋼牙でそこかしこにがぶがぶ噛みつき回る。さすがに不快らしい蟲が再び奇声を上げて大量の足をくねらせた。「スラりん、落ち着け! これをあるじ殿から離しては本末転倒であろうが‼︎」と奇声の合間にもピエールさんの鋭い叱責が飛ぶ。
「は、はな、して」
全然力が入らない右肩で懸命に彼の胸を押し返そうとしたけれど彼は答えず、唇を食いしばって私を抱える腕に力を込め直すばかりだった。
お願い。お願い。あなただけは。
どうしてこんな時まで、私はお荷物でしかいられないの。
私なんて捨てていい。あなた一人ならあそこまで辿り着けるかもしれないのに。必死の願いも虚しく、彼は私の髪に顔を埋めるようにしてぎゅっと抱きしめる。「もっと怪我させたら、ごめん」と耳許に囁いて、既に腰にも到達しそうな地面に直接右手を当てた。
「────バギマ‼︎」
ぶあ‼︎ と風圧で砂が舞い上がり目を開けられない。ぎゅっと瞑ったその隙に反動で身を運んだテュールさんが一歩、もう一歩と歩みを進めたけれど、砂はあっという間に彼の鳩尾まで呑み込んでしまう。
魔物の攻撃がこちらに向かないよう牽制しつつ、あるじ殿! と尚も呼ぶピエールさんに向かって彼は「フローラを頼む、ピエール!」とだけ叫び返した。やめて。私だけ助かりたくない、一緒じゃなきゃ嫌だと、喉まで出かかった我が儘を飲み込んだ血まみれの私を肩に担ぎ直し、テュールさんは更なる風魔法を放って前進しようとする。そうこうしているうちに彼の鎖骨にも砂が迫って。
「もう、いいの、……はなして……っ」
ぼろぼろと溢れた涙が砂に滲んでは消えていく。
泣いてなんになるの。こうしている間にも、テュールさんは頭まで沈んでしまいそうなのに。
せめて、せめて、この砂時計のような流動を止められたら。
魔法の風圧で全部は吹き飛ばせない。頭を持ち上げ必死にもがく彼に泣いて懇願するしかできないなんて。いっそもっと泣いて泣いて、涙でこの砂を泥に変えてしまえたらいい。今ここに雨が降ってくれたら。いいえ、私があの時、ちゃんと指輪を取り返せていたら────
(今ここに、水を)
左手の薬指に、今そこにはない指輪に強く強く念じた。春の雨のように、すべてを等しく濡れそぼらせるやわらかな水滴をイメージして。
──── 一閃、
青い光が私達の頭上に走った。
彗星の如く鮮烈な輝きを放ったそれは、ぬるいやわらかな水を私達の頭上にばらばらと降り撒いていく。さながら恵みの雨、大粒の水滴があっという間に砂に浸み込んで、私達と魔物ごと窪地全体を湿らせて。
「水の……、リング」
私を抱え上げたまま、肩から上を必死に持ち上げ瞠目したテュールさんがぽつり、ちいさく呟いた。
水のリングが。さっき呆気なく手放してしまったこの世で一番大切な指輪が今、ほのかに青い光を放ち私の眼前に浮遊している。受け止めたくても腕はまだ後ろ手に繋がれていて、気づいたテュールさんが急いで縄を引きちぎってくださった。縛めを解かれたことに心の中で感謝しながら、自由になった右腕をそっと、指輪へと差し伸べた。
応えてくれるの。こんな、無力なばかりの私に。
光の下に手を添えれば、青い輝きがすんなりと掌に転がり落ちた。不思議なほど馴染むぬるい波動。手の中に戻ったばかりの指輪を愛しく胸に抱いて、今一度指輪に祈る。
……お願い。もう少しだけ、力を貸して。
降りしきる水が程よく濡れた砂を留めて、あの流動はいつの間にか止まっていた。何故か蟲の魔物も雫を浴びながら、砂に少し下方を埋めたまま動かなかった。地面を掻き分け、ほとんど首まで埋まった身体をどうにかして引き摺り出そうとするテュールさんの傍らへ、プックルちゃんがいち早く駆け寄り周辺を掘る。ピエールさんもスラりんちゃんも急いで降りてきて脱出を手伝ってくれた。
「あ奴が気を取られておる今が好機。早う!」
ピエールさんに促され、頷いたテュールさんがまた私を抱き上げる。「あっちにも水を撒ける? フローラ」性急な問いかけに急いで頷くと、テュールさんが指し示した砂壁をピエールさんがイオで崩した。ドォン‼︎ と爆発音が響いて、爆風に煽られた魔物がこちらに意識を向ける。
こんな時なのに、すごく嬉しい。私にも出来ることがある。まだ、あなたと一緒に戦うことが出来るなんて。
逆上した大蟲をバギマとイオラが迎え撃つ。プックルちゃんとスラりんちゃんが蟲の脇を次々に掻い潜り撹乱して、彼らを追った大顎に隕石の如く火球が直撃した。上で見守るリーシャさんが、立て続けにメラミを放ってくれていた。
キシイィィ‼︎ と耳障りな奇声を轟かせ、巨体をくねらせた魔物が頭を地面に突っ込んだ。地中から来る気なのか。私ごとテュールさんが身構えた次の瞬間、息を呑んで咄嗟に半歩退いた。そのほんの鼻先を、紅蓮の火球がちり、と掠めて眼前に現れた蟲の足を一気に焼いた。
「もぉッ、テュールさん達に触んないで! あっち行ってよ‼︎」
焦げた蟲の異臭が立ち込める中、錯乱気味の金切り声が頭上から響く。「あっぶな……どっちを燃やす気、だか!」苦笑交じりに呟いたテュールさんが剣を砂地に思いきり突き立て、刹那届きかけた大顎はぎりぎりのところで剣の盾にめり込んだ。逆手に持った剣を払い上げると同時にスラりんちゃんが懐に飛び込み、「めーだっぱにいぃー‼︎」と叫ぶ。どうやら効いたらしく、魔物の動きが再び鈍る。
一連の戦況を彼に抱かれて見守りながら、私はひたすら指輪に念じて砂の傾斜に水を降らせていた。寄り掛かった胸板がとくとくと速く脈打って、それだけで不思議なほど意識が集中するのがわかる。
流れるほど降らせてはだめ。でも崩れるほど少なくてもだめ。慎重に、慎重に。
右手に包んだ水のリングから澄んだ気配を絶え間なく感じる。
頑張れと、励ましてくれている。
「……あれくらいならいけるか、プックル!」
テュールさんの鋭い声が飛んだ。問いではなく、確認だった。グァウ‼︎ と一声勇しく吼えたプックルちゃんが稲妻のように駆け、湿った砂を踏み均す。振り返った瞬間ぐんと速度を上げて真っ直ぐこちらに疾走してきた、その背にテュールさんが私ごと軽やかに身を預けた。大の人間二人を乗せてしなやかに駆けたキラーパンサーは、その勢いのまま方向を転じて力強く跳躍した。